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発火男の懊悩

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Q,所詮この世は弱肉強食なのですか?(投稿者)匿名

A,『この世』の定義をいかにするかが焦点でありますね。文字通りこの世は弱肉強食かと問われれば、前もって何を『強』あるいは『弱』とするかを定めておかなければ話が進みません。『この世』を例えば新都社などと置き換えてみればその答えは自明であり、わざわざここにお答えするまでもない質問のような気もしますが、それはなぜかといいますと、学校、会社(勤め先)、合コン会場その他、あらゆるひとの感情が集まる場所を『この世』に代入したとして、その場において勝者敗者の線引きは容易であり、何が強く何が弱いかという取り決めは既に済まされているも同然、というのもおおよそ人生を当たり前に生きてきた誰の感覚にも共通普遍の心理がそこに働くからです。whereを定めることで強弱の定義も自ずから選ばれるということが見え透いた話でありますので、従ってこの場合『この世』についての前置きを優先することが返答の前準備であるのが解るでしょう。しかし日本語文法的に考えると『この世』こそが主語でありますから、強弱についての議論だけを入念にやれば、質問への返答として事足りるのだという向きもありましょうが、ここは文芸生協相談ボックスに寄せられたお便りでありますから、新都社文芸誌上においての弱肉強食ということについて話を進めることにましょう。しかし前置いたとおりこんな問題は自明の理なのであります。

 面白ければそれでいいのです。即ち強者であり、勝者であり、成功者なのであります。小説は他人に読まれ、作者の感動をひとに伝達すべく生み出され、仮想の精神世界の快楽を提供し、手引きし、引きずり込み、読者を狂わせるために作り出された。そんな魔術的なシロモノなのです。大げさに言うと。
 西に面白い小説あれば東につまらない小説もあり。つまらない小説は弱者であり敗者であり、粗忽者であり、未熟者であり、怠け者であり、罪人であり、悪党であり、不具者、河原者と蔑まれ村八分の憂き目に遭う社会のハミダシ者なのであります。公からハミダシた強烈な個性はこれでもかと虐げられ、必ず疎外されるのです。「人権差別反対などと、架空の、くだらない正義の代行に酔いしれて本質を見抜くことを忘れるな」姉の言葉であります。
 なんだか近年の幼稚園の運動会では実に珍妙な競技もあるようで「手と手を繋いで横並びのかけっこか。全員でテープを切ってそれぞれが一等賞か。そんな我が子を見に来て親は喜んでるのか。まさに怪物だ、理解の範疇を超えてる」
 さておき、つまらない小説にはスバッと一言、ハッキリ言ってやってもいいかもしれません。比較競争の世界(即ち弱肉強食の戦いの場)でだけ自己の成長や発展が見出されるものであります。「向上心の伴わない創作精神は既に腐って死んでしまっている」のです。そんな「生ゴミは掃いて捨てられて然るべし」です。余計な助言など不要、お情けの励ましなど無用。「笑止千万」文章に力があるとして、それの源たるいわば作文筋力はそうそう鍛えうるものではないのです。
 どんなに筋骨隆々としたあなたが、腕立て伏せを何回もこなせないウラナリひょうたんに「こうやるんだよッ」と鼻息荒く手本を見せ付けたとしても何の助けにもならない、無益であります。「わかったかッ」わかっちゃいるけどそうもいかないのであります。成長に議論や教育は不必要なのです。監督者(あるいは鑑賞者)が口を出すべきは「つまらん!」の一言であり「何が言いたいのかサッパリ伝わらん!」「糞して寝てろ!」「不快である!」それらの罵詈雑言が唯一の糧となり、反骨精神の糧となり、気炎燻る怒りのエネルギーであり、それこそ無から有を生み出しうる大宇宙の反物質なのであります。
 所詮この世は弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬ。精神が弱ければ心が折れる。心が折れたらばひとはその場に立っていられないのです。支えを失ってしまうのです。強くあるべきはただ不屈の向上心なのであります。努力と根性、執着と懐疑、革新と速度なのであります。あなたも、頑張って生きてください。
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