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初出張 〜あるSEの休日〜

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「ここか…」
2週間に及ぶ研修を終え、ついに初仕事の日がやってきた。
初芝の派遣メイド業務、最初のご主人様は船橋市のとあるマンションの一室に住んでいた。

セキュリティのしっかりした玄関口と明るい照明。
決して豪華ではないが築何年も経っていない新しいマンションだった。
ご主人様は、ここで一人暮らしをしているらしい。

「さてと…」
ピンポーン、呼び鈴を押す。
「おはようございます。総合家事派遣サービスでございます」
ややあって、中から声が聞こえてきた。
「あ、おはようございます…」
若い男の声が聞こえた。
「今、扉を開けます。少しお待ちください」
タッタッタッと足音がして、そしてドアが開いた。

「お世話になります。総合家事派遣サービスの初芝と申します。本日は一日、お世話になります」
丁寧にお辞儀をする。
「いえいえこちらこそ。さぁ、お上がりください…」
ひょろりとした男は、初芝を部屋へと迎え入れた。
男は20代後半ぐらいだろうか。ひょろりと細く、分厚いレンズのメガネをしていた。
青いフリースにジーパン姿、顔は髭をそった跡がかすかに青く見えていた。


入室の後、上着を脱いでエプロン姿になる。
着てきた服はそのままエプロンをつければメイド服になるような仕組みだった。
「それではご主人様。本日は総合家事派遣サービスをご利用いただきありがとうございます。私、本日メイドとしてご主人様の家事業務をさせて頂きます初芝と申します」
「初芝さんですか…こちらこそよろしくお願い申し上げます。私、こういうものです」
そう言って男は名刺を差し出した。
男の名前の他、誰もが知っているような大手企業の名前、携帯電話の番号、メールアドレスが記載されていた。
「私、システムエンジニアをしてまして…お恥ずかしい限りですが、ほとんど毎日終電帰りなんですよ。昨日も土曜出勤でね…さっきまで寝てたもんですから、こんな着の身着のままで申し訳ありません」
「それはお気になさらないでください。大変なお仕事なんですね」
初芝が笑顔で答えると、男は照れくさそうに頭をボリボリ掻いた。
「ええ…幸い超勤手当てはちゃんとくれるんですが、おかげ様で普段はマトモな食事もできないですし、家も散らかし放題。それで月二回、こうしておたくでメイドさんを雇って家を片付けてもらったり昼食を作ってもらったりしてるんです」
「なるほど…」

メイドさんの派遣料は一般的なコースである1日6時間の場合税込み23,100円。派遣者予約の場合は税込み1050円増し。これにいくつかのオプションを付けるケースがほとんどで、一般的には一回27,000円前後の支払いとなるケースが多い。これに交通費については一定の基準に従って請求している。この金額を支払って、色々な家事をやってもらったり、日中の様々な業務に付き合ってもらうわけである。
実際には、普通のハウスキーパー業務のように3時間あたりの派遣や、逆に10時間で夕食や入浴準備までしてもらうケースもあり、これらは諸々のケースによって報酬額が違ってくる。
「お客様のご契約は、今回は新人の派遣ということで基本料金は交通費込みで割引価格の17,000円。これに昼食準備で2,000円となりますので、税込みで19,950円となりますが、よろしいでしょうか?」
教えられた通りに契約書を読み上げ、ご主人様の同意を求める。
「結構です。それではよろしくお願いします」
男がうなづいた。
「それでは、お支払いは前回同様クレジットカードでよろしいでしょうか?」
「結構です」
「承知いたしました。それでは業務終了時にご提示をお願いします」
ここまで手際よく契約の確認を終える。
「それでは、本日は契約の通り布団干し、服の洗濯、お部屋のお掃除、昼食の準備並びに後片付けをいたします。もしクリーニングが必要なものがございましたら先に頂戴いたします。別料金になりますが、契約クリーニング業者へ引渡しの後、次の木曜日以降のご主人様ご指定の日に、業者がお宅までお届けいたします」
「ありがとうございます。じゃあいつも通り、スーツとワイシャツをクリーニングにお願いします。届け日は来週の日曜日で。袋に詰めておきましたので」
「承知しましたご主人様。それではお預かりいたします」
初芝はスーツとワイシャツの入った袋を預かり、それを持って一旦下に降りた。
下には既に電話連絡を入れておいたクリーニング業者の車が到着していた。
初芝は業者と2、3の話をして、預かった袋を業者に渡し、再びご主人様の元に帰った。


「それでは…業務を開始いたしましょう。ご主人様はこの後いかがなされますか?」
「あ、お昼には戻りますからちょっと外出してます」
「承知いたしました。それではお気をつけて、行ってらっしゃいませご主人様」
満面の笑顔でご主人様を送り出す。
「じゃ、行ってきます」
男はいそいそと家を出て行った。


「さて、始めますか!」
まずは布団干しから。先ほどまで寝ていたらしく派手に散らかった布団を持ち上げ、手際良くベランダに干す。
パン!パン!パン!
布団はたきで景気良く音をさせながら埃を飛ばしていく。
続いては洗濯。洗濯物入れの中に無造作に脱ぎ散らかしたズボン、シャツ、パンツ、靴下などを丁寧に集め、色の出やすい物と白い物を分けて洗濯機にかける。
一応契約により、どれが洗濯してよい物かはあらかじめ決まっており、それ以外のものには手を出さない決まりになっている。

一通りの選別を終えて洗濯機を回し始めると、次は掃除である。
6畳一間の部屋は読み散らかした本や雑誌、散乱するカップめんの食べ残しやビールの空き缶などでひどく散らかっている。
まず散らかった本を集めて、順番通り丁寧に本棚にしまう。
続いて散乱したゴミを可燃ごみ・不燃ごみ・資源ごみ・ペットボトルなど船橋市の条例に従って丁寧に分別し、すぐに捨てられるようまとめて一所に集める。
「うーん…実にめんどくさい。自分の家のゴミ分別よりよっぽど丁寧にやってるわよねぇこれ…」
額にかすかに汗が滲むので、袖で拭う。

ゴミや書籍があらかた片付いたところで、いよいよ部屋の本格的な掃除を始める。
まずは箒で丁寧に床のゴミを掃き取る。そして掃除機がけをする。
窓やフローリングの床は丁寧に雑巾がけをする。
家電製品も埃汚れの多いところ。テレビやパソコンなどを丁寧に雑巾で拭き、その後乾拭きする。
パソコンは相当に使い込んでいるのだろう。本体は拭いても取れないぐらいに薄汚れ、限界まで増設されたスロットルから幾本もの電気コードが伸びていた。
ちなみにオプション契約によってパソコンの最適化処理をしたりするサービスもあるのだが、今回はその契約はない。


家の掃除も半ばを超えればもう11時。そろそろご主人様のために昼食の準備をする時間。
今日は契約により和食を作ってほしいとのこと。

「さてと…」
この家には、料理を作るための機材がほとんどない。もちろん食材もない。
食事サービスを提供する場合は、こうしたケースでは必ず調理器具と食材を持参している。
無論ご主人様の家の施設は事前に確認し、必要最小限のものだけを持ち込むのだ。
「この一ヶ月で磨いた料理の腕、見せてあげるわよ!」
初芝は腕まくりして持参した調理器具セットを部屋まで持ち込み、コンセントに配置する。
まず小型炊飯器を準備し、ご飯を炊く。
そして味噌汁の準備。豆腐、油揚げ、葱を丁寧に切り分ける。
続いて持参した秋刀魚の内蔵を取り、塩を振って持参のグリルにかける。
1時間という限られた時間の中、サササッと手際よく昼食の準備をする。
電子レンジがあるということで、事前に用意しておいたひじきと筍の煮物を暖める。
そして持参した漬物を切り分け、小皿に盛る。


「お帰りなさいませ、ご主人様」
12時過ぎ、ご主人様が帰るとそこには見事なお昼ご飯が並べられていた。
ご飯にサンマの塩焼き、豆腐のみそ汁、ひじきと筍の煮物、漬物、そして海苔と納豆。
温かいお茶が添えられ、ご主人様の帰りを待っていた。

「お食事を提供するのは初めてですが…いかがでしょうか?」
「ありがとう。これで十分だよ…」
笑顔で机の前に座り、食事を始める。
「うん、美味い。初めてにしては上出来だよ」
「ありがとうございます」
メイドさんはその間、お茶やご飯の給仕をする。時々、ご主人様に合わせて話をする。
本当はどう考えても外で食べたほうがよほど安い料理が食べられようものだが、料理を作ってくれた人が、自分の家でこうして給仕をして話をしてくれるということが堪らないというご主人様が少なくないため、昼食のサービスをオプションでつける人は決して少なくないのである。

「その…初芝さんは、いつからこちらで働いておられるのですか?」
「採用は今年の9月からで、まだ一ヶ月たっていません。ご主人様にお仕えするのは今回が初めてです」
「初めてなんですか?」
男は驚いたように、初芝に尋ねた。
「はい。今回が研修を終えて初めてのお仕事です」
「そうなんですか…私はてっきり、そろそろ試用期間の終る方かと思っていたんですよ」
男は細い目を精一杯丸くして、初芝を見た。
「いや…普段僕は新しいメイドさんが入った時には、割と積極的にお願いしているんです。おたくは時々「今回は試用期間中のメイドさんがいるので、割引価格にしますのでどうですか?」って聞いてくれるんで、その時はそれでお願いしているんですが…」
「そうなんですか」
「ええ。普段だったら割引価格で12,000円から14,000円ぐらいを提示してくるのに、今回は17,000円だったから…新人さんとはいえ、割と慣れた人なのかなと思ってたんですよ」
「そうなんですか?」
あくまで表向き冷静さは装っているが、初芝は驚きを隠せなかった。
「ええ。まぁ…でも今日お願いしてみて、よく分かりました。初めてにしては仕事が手馴れているし、話も丁寧。何よりもはっと目を引くぐらい綺麗な人だったので…」
「えっ…いやそんな大したことは…」
思わず顔が赤くなる。
「本当ですよ。普段新人さんとして来る方は、どちらかというとまだ世慣れしていなくて、失礼ですが子供っぽい方が多かったんですよ。あなたはその点、とても大人びているし、背も高くて美人だ。ひょっとしたら、ガヴァネスとして採用された方なんじゃないですか?」
「よくお分かりになられましたね…確かに、私はガヴァネスとしても採用されております」
「やはり」
男はニコリと微笑んだ。
「ガヴァネスとして採用される方は、大体教養と知性を兼ね合わせた比較的年齢の高めの人が多いんですよ。それに容姿も目を引くような方が多いんです。それは特に、良家の子弟を教育するという大事な仕事を任されるからだと思うんですけれどね」
「お詳しいのですね」
初芝は感嘆の声を、しかし静かに挙げた。
「まあ、これまで10人以上の新人さんに来てもらってますからね。今回は小野寺さん以来の大当たりでした」
「小野寺さん?」
「ええ。小野寺さんは1年前にうちで初めて仕事をしてくださったんですが、その時は驚きました。とにかく知識が豊富、仕事がキビキビして鮮やか。聞けば小野寺さんはアメリカのダートマス大学で修士を取ったあと、シリコンバレーで働いていたというじゃないですか。何か事情があって日本に帰ってきたそうなんですが、仕事柄話が合いまして…昼からの仕事は半分ぐらいはシリコンバレーの最新事情とかコーディング技法とか、そういう話ばかりしてましたよ」
男は照れくさそうに話をした。
「そ、そんなすごいメイドさんがいるんですか…」
「ええ。そのあと3回ぐらいお呼びしたんですが、最近は予約が取れなくて…どうもガヴァネスとしての引く手があまたで、週1回しか通常のハウスキーピング業務をしないので、僕みたいなのは滅多に予約があたらないんですよ。次は3ヵ月後らしいです。今から楽しみで仕方ありません…」
「なるほど…」
売れっ子のメイドさんは本当に数ヶ月先までいっぱいらしいとは聞いていたが、それは事実だったのだと改めて思い知らされた。
特に有能なガヴァネスは得意先の良家に引っ張りだこで、なかなか予約が取れないというのは評判だった。

「失礼ですが…よろしければ、初芝さんはどちらの大学をご卒業なのか教えていただけませんか?」
男は、恐る恐る尋ねてきた。
「一応…東京大学を卒業しています。専攻は英文学でした」
「東大ですか。それではガヴァネスとしては会社も相当期待されておられるのでしょう。自分は日大の駿河台に通ってたんでね…まぁ東大の女子学生となれば、憧れでしたね…今日は来てくださってうれしいです」
「いや、そんな大層なものではありません。ご主人様」
そんな会話をしながら、お昼ごはんが進んでいった。


昼食が終れば食器の後片付け。それで2時前となり、ここでメイドさんは1時間の休憩に入る。
一旦着替えてご主人様の家を離れ、外で遅いお昼ご飯を食べるのだ。
あんなちゃんとしたお昼を作っておいて、自分はこうして外で牛丼を食べているというのも寂しい話だが、仕事なんだしと割り切ればそれなりに納得もできる。


そして3時前にはご主人様宅に戻る。
無論この時間にすることはただ一つ。それはアフタヌーンティー。
このアフタヌーンティーサービスはメイド派遣の一般メニューに含まれている。これが通常のハウスキーパーとは違うサービスの一つだろう。
「ご主人様、本日はアッサムティーをお入れいたしました。オリジナルのショートケーキとスコーンをご用意いたしましたので、どうかご賞味くださいませ」
「ありがとう」
味わいが深く、力強いアッサムティーは仕事疲れには最高だ。特に油脂の多いショートケーキ等との相性がよく、比較的安価に手に入るためこの会社では一般的に使用されている。
無論、これもオプション価格で最高級ダージリンのマスカットフレーバーなど、珍しい紅茶を用意することができる。人によっては紅茶ではなく、玉露、ハーブティー、コーヒーなどを注文する人がいるのだが、こういったサービスの行き届いたところもこのメイドサービスの人気の一因である。
「いい香りだ…」
男は上品で力強い紅茶の香りを味わいながら、静かに茶をすすった。
そしてケーキを食べ、スコーンにたっぷりとブルーベリージャムをつけた。
時々様々な会話を交えながら、午後のひと時を過ごす。


「おいしかったよ。ごちそうさま」
カップを皿に置き、笑顔でメイドをねぎらう。
「ありがとうございます、ご主人様」
笑顔でご主人様にお辞儀をして、ティーセットを片付ける。


アフタヌーティーが終ると、最後の後始末。
玄関前の整理、新聞や雑誌の整理、時計や消耗品などの確認。
何か足りないものや生活上特に注意しなければならない点があれば、そういった点を指摘するのもメイドの勤めである。
簡単なメモを作り、ご主人様に提出して業務終了を伝えた。
「それでは…以上のような点にお気を付けください。時計の電池、蛍光灯、水周りなど特に異常ありません。前のメイドさんが大体の仕事をしてくれておりましたので、深刻な問題はありません」
「お疲れ様でした。本当にありがとうございます」
男が丁寧にお辞儀をした。
「それでは、報告書をお渡しいたします。最後に清算をお願いいたします」
男はクレジットカードを提示し、初芝は手順に従って清算を行った。
「いつもすいませんね。休日だからといって仕事が無いというわけでもないので…報告書とか溜まってましたし、家の用事をする暇がないんですよ。本当に助かります」
「ありがとうございました、ご主人様」
簡単な着替えを済ませ、丁寧にお辞儀をする。
「また是非お願いします。もしできることなら、また指名したいと思っています。今日は本当にありがとうございました」
男は何度も何度もお辞儀して、初芝を見送った。
最後にひと言、男は言った。

「初芝さん、小野寺さんに負けないいいメイドさんになってくださいね…」


こうして初芝のメイド派遣初日は、滞りなく無事に終了したのだった。


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