【5月9日 午後06時28分】
拓真は、自分の中にはまだ体を震わせ怒れるほどの気力が残っていたんだな、と思った。唇を渾身の力を込めて噛み、今すぐにでもあの部屋に乗り込み、あの男を再起不能にしたいと考える自分を抑えつけながら章へ質問する。
「なんで、あの男を知っているんだ」
章は無表情で応える。
「お前の父親がトイレで殺されるのを見た」
「な....!お前、黙って見てたのか!あの状況を!」
「俺も魔法使いだ。俺が君に加勢したところで結果は変わらなかった」
「....!だからって..だからってお前は....!!」
俯いた拓真の顔が、街灯に照らされて更に愁いを帯びる。次の瞬間、その表情は一変し、拓真は怒りを剥き出しにして章へ殴り掛かった。
「そうなっちゃう?」
自分へ向けられた拳をただじっと見つめながら章はぴくりとも動かなかった。拳は章の右頬へヒットする、はずだった。拳は顔面スレスレの位置で突然その標的を変え、虚空を殴りつけた。拓真はなにが起きているか分からなかった。確かに章の顔面を殴りつけようとしたのに。気付いたら拳は標的からズレていた。ズレていたというより"ズラされた"。
「今、お前が殴るべきは俺じゃあないだろ」
章が静かにすっと右手を拓真へ向ける。すると拳を天に向け間抜けたポーズをとったままの彼を突風が襲った。
「うわ....!!」
あまりの突然の出来事と、そのとてつもない風の力に負け、拓真は弱々しく地面に尻餅をついた。どう考えても今の風は章の意思で吹いていた。その証拠に、先ほどの突風はぴたりと止んでいる。
「なにをした」
「俺は魔法使いだ、魔法の一つや二つ使えなくちゃな」
「バカなことを言うな!魔法使いが使う魔法ってのは、もっと、下らなくて低俗な!」
「そう、普通の魔法使いはこの"風"を女子のスカートをめくるために使う。と、いうかそれ以外に使い道がない」
章が街灯の真下で手をひろげる。
「でも俺は違う、俺はこの風に選ばれた」
彼の体を眼には見えない、しかししっかりと感じ取ることができる"風の壁"で覆われる。先ほどの拳もあの"壁"で回避したのだろう。
「どういうことだ」
尻餅をついたままの拓真が尋ねる。
「俺は、魔法使い狩りに遭った」
「魔法使い....狩り」
「複数の女に突然眠らされて、次目覚めたときはどこかの檻の中にいた」
章は俯きながら話し始める。
「何ヶ月だろう、半年するかしないか、それぐらいの期間か。俺はその檻に閉じ込められ数々の辱めを受けた」
「複数の女に?」
「そうだ。なにが"我々の業界ではご褒美です"だ、一度味わってみろ、あの屈辱を。俺は檻の中にいながら"絶対にこの女たちを許さない"と誓った」
「ご褒美ではないだろ」
「そうだろ、お前は特殊な性癖がなさそうだしな」
一拍置いて、章はまた話し始める。すこし体が震えているようだった。
「俺は檻から脱走した。その時には既にこの風の力が身に付いていた」
「そして俺は魔法使い狩りの女たちを見つけた。原宿だ、原宿にいやがった。のうのうとウインドウショッピングを楽しんでやがった。俺は女たちを尾行して、」
「殺した、全員」
拓真は尻餅をついたまま絶句した。殺した。この男は、殺人犯だ。しかし、誰が悪いのかもう分からなかった。
社会の歯車に溶け込むことを許されない"絶対的敗北者"である魔法使い
"魔法使い狩り"と呼称される魔法使いを監禁する女の集団
魔法使いを人として見ようともせず、あったはずの事件をもみ消して大金を得ている警察
チンコを伸ばす薬欲しさで人の父を殺し、それでも今も平和に過ごす金髪の青年
もう、彼にはなにが正義でなにが悪だか分からなかった。