【5月9日 午後05時42分】
男は商店街にいた。ゆっくりと人並みの中を歩く。しきりに周りを気にしているように見える。
「近いな」
男が言った。
「ああ、近い」
同じく男が言った。
「この近辺に"彼"がいる」
同じ男が言う。
さっきから一人で問答しているこの男は平川章(ひらかわ あきら 22歳 男 童貞)。彼もまた、魔法使いとしての生き方を強いられてきた。この男、顔は良い。しかし彼は自覚のない、重度の解離性同一性障害であった。いわゆる多重人格である。彼の中には二人の男が同時に存在する。
「おい、あれ、"彼"じゃないか?ただ事じゃない童貞力を感じる」
「ああ、俺もそれ今言おうと思った」
「見ろ、よく見ろ。ほら来た!ケツが!」
「光ってる!魔法使い証明書は持ってるみたいだし、声かけてみようか」
「俺にまかせろ」
「まかせた」
章は素早いテンポの会話を終え、小さい中華料理屋の前で慌てて尻をおさえる男に向かって早足で歩き出す。
拓真はあろうことか、商店街という多くの人目につく場所で尻ポケットに入れた財布の中の魔法使い証明書を発光させていた。日が傾き始めてますます活気づく商店街の人々の目が彼の尻に集中する。拓真は尻をおさえながら平静を装ってまた歩き出す。所々から「うわあ、魔法使いだ」「見ちゃだめ」「魔法使いだ、かわいそうに」という声が聞こえてきた。拓真は夕食のおかずを買いにきただけの商店街であろうことか尻を輝かせるという大失態を晒してしまった。もうこの商店街には来れないな、とりあえず夕食のおかずだけは確保しないと、と冷静に思考を巡らせながら彼は適当な総菜屋に入ろうとした。その時、拓真は知らない男に腕をつかまれた。
「つかまえた。すげえ魔法使いのお兄さん」
「つかまえたつかまえた。ちょっとこっちに来て」
拓真は腕を引っ張られながら、自分の腕をつかんだ男を見て「気絶させようと思えばすぐさせれるな、こいつ」と思った。とりあえず、自分より弱いと思われるその男に腕を引っ張られて、二人は路地裏に出た。
「ここならその輝いてるケツを見られる心配もない」
「で、話があるんだ、すこし時間いいかな」
「まあ、拒否権はないようなもんだけどな。あんた、とんでもない童貞力だな。一体どんな訓練を受けた?」
男が尋ねる。拓真は表情を変えず答える。
「訓練なんて受けてない。あと、童貞力がすごいとか言うな」
男は目を見開いて言う。
「訓練を受けてない..?どういうことだ」
「どういうことだろうね」
「まあ、君がすごい魔法使いだってことだけは確かだ」
「あ、そういや自己紹介が遅れたな。俺は平川章。魔法使いだ。よろしく」
一方的に章が会話を仕切る中、ようやく思考が会話に追いついた拓真は表情を曇らせ、
「よろしくって、なにをよろしくするんだ。わけがわからん」
ところが、章は拓真の返答を聞いていないのか一方的に話をはじめる。
「俺は魔法使いを迫害した人間を許さない」
「革命を起こさないか?優秀な魔法使いを集めている」
「あんたにはとんでもない可能性を感じる」
「一緒に、世界を変えよう」
突然、世界を変えるだとか、革命だとか、わけのわからない話をされて、拓真は正直、苛立っていた。
「なにを言ってんだ、あんた。わけがわからん。魔法使いなら魔法使いらしく影に隠れてコソコソ生きていればいいんだ」
拓真は、その科白を自分にも言い聞かせているようだった。
「....着いてきな。このままの生活が嫌ならな」
章は拓真を挑発するように言い放った。彼はすぐに体の向きを変えて路地裏から出る。章は振り返らなかった。拓真はしばらく立ち尽くしていたが、章の姿が見えなくなってから、早足で彼を追いかけた。
「おい、どこ行くんだ、おい」
いくら呼びかけても章は振り返らない。
「おい、いい加減に――」
「ここだ」
章の脚がぴたりと止まった。日は沈んでいた。住宅地。ただの住宅地だった。
「なんだここ....ここに何があるって....」
拓真はキョロキョロと周りを見渡すが、目立ったものは見当たらない。街灯に照らされた章の姿がやけに不気味に見えた。
「あのアパートの二階、一番手前の部屋。よく見てろ」
章は表情を変えず、拓真の方を見ようともせずに言った。二階の、一番手前の部屋には明かりが点いている。時々ちらりと人影が見える。それがなんなのか、拓真には分からなかった。
「あの部屋がどうしたって言うんだ」
「よく見ろ、あの部屋の住人をよく見ろ」
「........?」
窓を凝視する。ちらり、ちらりと人影が見える。どうやらあの部屋の住人は一人暮らしで、おそらくは男、だということまでは分かった。
そして、髪の毛は金。厳つい雰囲気。
よく見ると、耳にはキラリと光るピアス。かなり大きめの。
「あ....」
確かに、見覚えがあった。
「あいつ....!!」
あの部屋にいるのは、父を殺した男だ。