【5月8日 午後07時05分】
【5月8日 午後07時05分】
「拓真、だいじょうぶだ、おまえなら」
「信じてるぞ」
「 」
「父さん」
拓真は狭い個室に、折り畳むように崩れ落ちた父に向かって呼びかける。
「父さん」
赤黒い液体が拓真の足下にまで届く。
「父さん」
ドアの向こうからは荒い息遣いが聞こえていた。たまにかすれた笑い声や「やってやった」だとかいう科白が聞こえる。
「父さん」
何度呼びかけても父は目を開かない。ピクリとも動かない。
「父さん」
拓真は、思考を放棄していた。ただ、なんの目的も希望もなく父の名を呼び続けていた。
「父さん」
彼の声はすこしずつ大きくなり、
「....も、もう一人いるのか?」
ドアの外の男に気付かれる。
「お、おい、殺されたくなければ、ドアを開けて、薬を、渡せ」
拓真はゆっくりと顔を上げた。何故か涙は出なかった。乾ききった目で薄汚いドアを見つめながら、静かに状況を把握し始める。
――こいつが殺したのか、ドアの向こうの、こいつが。
拓真は静かにドアの鍵に手をかけ、ゆっくりと、焦らすかのように鍵を開け、ゆっくりとドアを開く。ドアに男の手がかかる。乱暴にドアが開かれ、男がズカズカと個室に入ってくる。
拓真は、男の顔を見ることなく、ただ、男のみぞおちにだけ狙いを定め渾身のストレートを放った。
「かっ!?」
男が無様に倒れる。金髪に眉毛がない、耳には大きなピアスというなりで、ガラの悪い男だった。拓真はその様を上からじっと見つめている。苦しそうに倒れ込む男を見つめながら、全体重をかけて右腕を踏みつける。初めて聞く音がする。ひぃ、という声もしたような気がする。男が持っていた銃は力の抜けた右手からかたりと音を立て、床に落ちる。拓真はゆっくりとそれを拾い上げ、男に向ける。
「や..やめろ!違う!違うんだ!俺は薬が欲しかっただけで....!」
拓真は男から目を逸らし、ちら、と床に無惨に転がる何錠かの錠剤を見る。それは父の血で赤黒く染まっていた。彼はそれを一錠拾い上げ、トイレの床にこれでもかと擦り付け、男の口元へ持っていく。
「飲め」
男は首を横に振った。目には涙が溜まっていた。
拓真はその姿を見て、父はこんな人間に殺されてしまったのかとひどく哀しくなる。もうなにもかもどうでもよくなった。拓真は右手に持っていた銃のグリップで男のこめかみを殴った。男はひぃぎ、という声を漏らし、それきり動かなくなった。死んではいないだろう。銃を男の左手に握らせ、拓真はふらふらとトイレから出た。
雨が降り始めていた。公園には人の姿はない。
いずれ父の遺体は発見され、すぐにあの男がやったという事も分かるだろう。拓真は家に帰るまでに十三回、転んだ。
雨が本降りになってきた。服がぐっしゃりと濡れている。家の鍵を開け、廊下に倒れ込む。
「父さん」
返事は返ってこない。どこからも。もう二度と。
拓真はそのまま、暗い廊下で縮こまりながら泣いた。