ドアを開ける。
靴を脱ぐ。
お母さんの小言を無視して階段を上る。
またドアを開ける。
自分の部屋――ベッドに体を投げ出す。
「……最悪」
あたしは疲れていた。
学校の友達のくだらない話も、落書きだらけの教科書も、両親の小言も、朝も、夜も、雨も、晴れも……もう何もかもが退屈で、あたしはすっかり疲れてしまった。
(死ぬ元気すらわかない)
何をするでもなく、天井を眺めていた。
引っ越してきてすぐの頃は、あの天井のシミが顔に見えて怖かった。
(小さい頃は、幸せだったな)
見るものすべてが新鮮な世界が、望まなくてもそこにあったから。
どれくらいそうしていたのか、気がつくと外はずいぶん暗くなっていた。
(夕飯、なんだろ……)
時計を見る。まだ夕食には早い時間だ。
(退屈でもお腹は減るし、夕飯が何かって事は非常に興味深い事ね)
何をまじめに考えているんだと自分につっこみながら、少し大げさに笑った。
ちょっと涙が出て、視界が曇った。
(……馬鹿みたい)
つぶやいて涙をぬぐった。
(あれ?)
涙はもう拭いたはずなのに、なんだか目の前がおかしい。
まるで天井が波打つような……
(――――!?)
その時だ、天井の例のシミのところから、まるで水面に石を投げたように波紋がひろがった。
そして――、
(顔!?)
現れたのはあたしと同い年くらいの女の子の顔だった。
彼女は追って現れた白い手で顔を洗うような動作をして、また天井へ吸い込まれていった。
その間数秒。
あたしは口をあけたまま眺めていた。
「何、今の!?」
やっと正気に戻ったあたしは、思わず声をあげて立ち上がった。
ベッドの上に立つと天井はまさに目の前にある。
何ならキスでもできるくらい―――。
「キャッ!」
あたしは驚いてしりもちをついた。
目の前に出てきたのは、またあの女の子だった。
その子はあたしの声をきいてびっくりしたのか目を開けた。
(目が、あっちゃった……)
まるでさっきの自分をみるように、その子はかたまっていた。
「―――─!?」
そしてこれまたさっきの自分のように声をあげる。
と、いっても口から出たのはキラキラ光る泡だけ。
それを残して彼女はまた天井に吸い込まれていってしまった。
「……いつから、あたしは魚になったの……?」
天井に触れてみると、硬くてひんやりしていた。
それからあたしの毎日は少し楽しくなった。
友達の話や、授業はあいかわらず退屈だけど、お母さんの小言くらいは『ちょっとは聞いてやるか』って思えるくらいは気持ちに余裕がある。
あれから毎日、彼女は天井に現れた。
最初はお互いに警戒していたものの、さすがに毎日となるとだんだん慣れてくる。
(これが若いって事かしら)
なんて思ってしまうくらい、二人はこの奇妙な関係をすんなりと受け入れた。だから最近のあたしの日課はその奇妙な友達と話すこと。と、言ってもあっちの声は聞けないけど。
あたしの話に、彼女はうなずいたり笑ったりするだけ。『息つぎ』で何度も中断されるけど、彼女とだと日常のつまらない事も、面白おかしく話せるから不思議だ。
(本当の友達って、こういう事なのかも)
彼女と過ごす時間は長くても三分くらいだけど、一日の中で一番、充実してる気がする。
(一方的に話すだけって言うのは少し寂しいけどね)
あたしはベッドに寝転んだ。
たぶんもうすぐ現れる。
(今日は何を話そうかな?)
『あたし、来月誕生日なの』
プレゼントはあなたの笑顔で十分、なんて思って笑った。
波紋が天井を揺らしていた。
(人生最悪の誕生日だわ)
実際その日は朝からついてなかった。窓をたたく雨の音で目が覚めて、朝食のパンはこげていた。学校について宿題があったことを思い出し、抜き打ちのテストは惨敗。家に帰るとお父さんから今日は帰りが遅くなるって電話があった。その頃お母さんは誕生日ケーキをテーブルから落としてしまいオロオロしていた。
(何なのよ、もう)
どさっとベッドに倒れこむ。
(……最悪)
ここ数日、あたしはあまり機嫌がよくなかった。
単純に飽きてしまったのだ。
奇妙な友達との、奇妙な関係に。
(けど、この性格……これが一番、最悪)
あたしは飽きっぽい。
(あんなに楽しかった気持ちをどこに忘れたの?)
あたしは彼女に話すだけ、彼女はあたしの話を聞くだけ。何か質問したとこで、あたしは読唇術なんてできないし、それに、不思議と彼女が何者なのか知りたいとは思わなかった。
(そろそろ時間だ……)
そんな事を考えていると、ふいに天井に波紋がひろがる。彼女はゆっくりと目を開けて、あたしを探している。
いつもならすぐに話しかけるけど、何だか言葉が浮かんでこなかった。
(何か恋人に別れをつげる気分)
笑ってわたしは声をかけた。
「ねぇ」
彼女があたしをみつけて微笑む。そして小さく手を振る。
あたしは立ち上がって、その手に触れてみた。こんなふうに触れてみたのは初めてだ。
彼女は一瞬ビクッとしたけど、別に嫌がっている感じはしなかったので、あたしはそのまま話を続けた。
「ねぇ、あたしを引っ張りあげて」
最初意味がわからないという感じであたしの目を見ていたけど、すぐに意味に気づいて 彼女は首を横に振った。
「誕生日プレゼントにさ、お願い」
あたしがお願いを繰り返すと、彼女は決心したようにうなずいた。
何でもよかった。
ただ、あたしは今『ここ』にいたくなかったのだ。
彼女が手を引くと、意外なほどあっさりと体は天井に吸い込まれた。
ザバッ、と水音がして一瞬気が遠くなる。
退屈が足元に転がり落ちた気がした。
気がつくと、あたしは見知らぬ家の、見知らぬ部屋に立っていた。
洗面台の前には、見知った彼女が立っている。
「ねぇ」
「な、なに?」
彼女の声は想像よりずいぶん低かった。
「ここは何処?」
「○市の、○○……」
少し混乱しているのか、彼女は『ここ』のと思しき住所を言った。
それはあたしの住む町から、電車で一五分ほどの町だった。
「そう……」
何だ
「それは退屈ね」
現実は
「いつもそう……」
あたしの想像よりつまらない。
「まるで……」
あなたに話した、『日常』みたいだわ。
退屈が、足元で笑った気がした。