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eps10. 金の光条、潰撃の拳

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“『そこ』はいつだって気に障るほどの殺気と、鬱陶しいほどの緊張感が満ちていた。”

 仲間と酒をカッ喰らう時だって。
 向こうの縄張りの奴らと殺しあう時だって。
 鬼様を怒らした時だって。
 式者から命からがら逃げる時だって。
 女を犯す時だって。
 
“いつでも命のやり取りがあって、生きている実感があった。”


 神奈河に鶴陵の結界が張られる、およそ半年ほど前のこと。
 さる高層ビルのワンフロア。バスケットコートほどの広さの一室に、何人かの女がいた。
 少女と呼べるくらいの者もいるし、妙齢と言うべき者もいる。
 共通点と言えば、男が欲しがりそうな容貌とカラダであることくらい。
 彼女たちはみな革や縄で拘束されており、多くは轡や目隠しをされ、その美しい肢体を晒していた。
 その場に式者がいたのなら、その拘束具以外に魔術的な拘束が施されていることに気がついただろう。そしてすぐに思い至ったはずだ。彼女らが人間ではなく妖魔であることに。
 そこでは例外的に、式者の存在は彼女たちにとって救いになったかもしれない。少なくとも、その場に今まさに入り込んでくる『人間』よりは。
 フロアのドアが開かれる。入場する紳士面をした中年男たちは、部屋の光景を見るだに目の色を変えた。無防備な若い雌の体が、彼らの獣欲を目覚めさせる。彼女らの品定めしながら、男たちは会場の空気に熱気と狂気を混じらせ始めた。
 彼らを招いたフロアの支配人、醜く太った腹を紳士服で覆った男は、薄く笑みを浮かべた。
「くはは……」
 渦巻き始めた異様な空気を、支配人――矢部彦摩呂は声を噛み殺して笑い、楽しげに見つめた。

 長年寄り添った妻よりも、はるかに瑞々しく魅力的なカラダの妖魔。
 犯そうが殺そうが、人間ではない故に、彼女たちに何をしようと犯罪になることもない。
 だから“これ”は純粋な金持ちの道楽であり、彼女たちは獣の欲求を満たす玩具に過ぎない。
 男たちが女を買っていく。何百万という金も、彼らにとっては払う価値のあるものだ。人間の法の中に生きていていては決して味わうことのできない快楽を貪ることができるから。
 買った妖魔はそのままビルの上階にある個室に持ち帰ればいい。彼女たちを弄ぶためのあらゆる淫具と、完璧にほど近いセキュリティが、彼らの愉しみを保証してくれる。
 何人かが妖魔の雌を買っていく。一人は厳粛そうな顔のまま。一人は下卑た笑みを隠そうともせず。
 そうしてまた五人組の若い男たちが、十代にも見える妖魔を買っていく。
「くひ、若いお方ら、輪姦(まわ)すなら後ろの穴も使うと良いぞ。妖魔は糞をしないからな。人間の女よりもよほど使い勝手が良い」
 突然声をかけた矢部の話を警戒しつつ聞いていた五人も、すぐに好色そうな顔で互いを見回した。その一言のせいで、買われた雌の妖魔は尻穴から精液を吹き出すまで執拗に五人組に嬲られるはめになったが、そんなものはまだマシな方だろう。
 四肢をもがれてダルマにされるもの。ありとあらゆる拷問を身に受け、何日も死ぬことができずに苦しむもの。糞尿を強制的に食くわされ窒息死するもの。それらは全て、ここでの日常だ。
 そのフロアより高層は全て、獣欲よりもずっと醜悪で澱んだ欲求で満ちている。抵抗の手段をなくした雌があらゆる方法で尊厳を奪われ、そして殺される。
 矢部にとってそれらのほとんどは自然な行為に思えた。
 己が欲望が異端であり、歪んでいることは承知こそすれ、その欲求を縛る法やら力の存在が許せなかった。
 人の法は、人間の世界は、弱い者が守られすぎる。
 
 フロアにいた妖魔は皆売り払われたようだった。
 今回買うことが出来なかった客も、次回のオークションに向けての情報交換が終わったのか、ほとんど残っていなかった。
 窓辺から外を見下ろす。眼下の藤京、その街並みを覆う絢爛な光は、昏さなど赦さないようにその存在を主張している。
「支配人」
 中年、というより老人といった風情の男が話しかけてきた。
「なにか?」
「もっと幼い娘はいないのか?」
 どうやら幼女嗜好らしき男は、少々不満めいた声音をしていた。何度か見たことのある顔だった。高額な入場の割に目当ての商品がないことに苛立っているのだろう。
「すみませんな。妖魔には幼子(おさなご)はおらんのですよ」
「……なぜだ?」
 男は訝しげに問うた。
「さあ? 幼い妖魔は狗やらの獣の形をしておりますからな」
「ふむ……うん? ということは、妖魔とやらは獣から人へ姿を変えるのか」
「でしょうな。まァわしはその瞬間を見たことはありませんが」
「なぜ人の形に成るのだろうな?」
 男の興味は欲望から妖魔への純粋な好奇心に移っているようだった。
「……はて? 妙なことを気にしますなァ」
「そうかな? 君は気にならんかね? なぜ妖魔は人を象るのか、なぜ人の言葉を解すのか」
 思えば、その疑問が投げかけられるまで、矢部はそんなことを疑問に感じたことすらなかった。妖魔は矢部の生まれた頃から敵対者であったし、そして今では獲物であった。
「そうですなァ……妖魔が何かは存じませんが、一つ言えるのは、幼子の妖魔なんぞいた
             、、、、、
ら、正義感の強い式者はさぞ殺しづらいでしょうなァ」

◆◆◆

 時と場所を今に戻そう。

 式者の途絶えた織田原には、神奈河中の妖魔が寄り集まり始めていた。
 鶴陵の結界に閉じられた神奈河、その至るところで式者は妖魔を狩っていたが、織田原にだけは決して近づこうとしなかったからだ。必然、妖魔は織田原へと逃げ落ち、手を持て余した式者は鶴陵の巫女の座す釜倉へと結集していた。
 しかしてその釜倉はかつてない混乱の最中にあった。
 鶴陵八幡宮に横たわる夥しい数の式者の遺体。いずれも胸や頭を何かに穿たれて絶命している。それらを見つけた者は、けれど八幡宮に秘密裏に張られた結界に閉じ込められ、やがてその運命をその場に散らばる死者と同じくした。
 式者の混迷は他の地域へも広がっていた。
 位相のずれた空間から、元の世界へと戻る転移門は神奈河全域に幾つも存在するが、三日前ほどからその全てが閉ざされていた。元の世界に戻れなければ、十分な休息をとることもままならず、また食料の確保もできない。ほとんどの式者は焦燥を感じたはずだ。退路を絶たれたも同然だから。
 しかし彼らはすぐに転移門を管轄するのは鶴陵の一族であることを思い出す。ならば神奈河で最も強固な転移門を持つ釜倉、鶴陵八幡宮へ向かえば何らかの手立てがあるだろうと考え、さらに多くの式者が釜倉に集った。
 かように八幡宮へ口寄せられた式者の末路は、ここに記述するまでもないだろう。
 蟻地獄のように式者を誘引しては喰らう八幡の宮。
 その主、鶴陵の巫女の姿は、けれどその場のどこにもない。

 さて一方で、織田原に妖魔の陣を敷く者がいた。大妖鬼ケンキ、その存在だけで一切の式者の侵入を拒絶する妖鬼は、虎視眈々と鶴陵の首を狙っていた。
 鶴陵の懐刀、鳴神晶を殺し、龍殺しの秘術を隠し持つ五百蔵の娘をその手に収めた。横濱のホウキとは挟撃の算段を整え、鶴陵殺しもはやこれ以上ない好機にあると言えた。
 それでも、三百年を生きる妖鬼は今も状況を訝しんでいた。結界の設置という事実上の宣戦布告からはや二週間強。未だに鶴陵は戦いの前線に立つこともなく、式者も本来の統率をみせてはいない。
 ケンキはその意味を未だに図りかねていた。
 黙して静かに思案を重ねていた老鬼は、ふと顔をあげた。彼の周りは数え切れない妖魔が囲んでいる。だから本来その場にあるべきでないものはすぐに分かった。
 、、、、、、、、
 分かるはずだった。
 かの老鬼に視界なんて豪華なものはなかったから、初めに知覚したのはその『六面体』だった。
 それは。
 老いた身にあってさえ全身が総毛立つほどに清純で、
 元から閉じていた目を瞑ろうとするほど鮮烈な、
 “彼女”の両の掌で踊る六面の巫術の匣(はこ)だった。
 もしも老鬼がそれをつぶさに見ることができたなら。
 もしもかの巫女がそれほどまでに強大な力を持たなければ。
 もしも――もしも――もしも。そんな風に重複するいくつかの仮定が許されたなら。
 その匣が複雑怪奇に編まれた巫女の結界『に等しい何か』だと鬼は気付いたかもしれない。
 不意に現れた巫女に、妖魔たちはけれどしばし呆然とした。あるいはそれは人が幽鬼を見たように。
 殺そうとか、逃げようとか、そんな思考も理性も本能さえ置き去りにして。彼らは瞬きの間、その異形に言葉を忘れた。
 ああ、殺さなくては。彼らはようやく思い出す。
 それから、ソレを殺せと怒号が飛ぶ前に――。   、、、
 神奈河は釜倉、鶴陵八幡の宮に仕えるは当代きっての欠陥品。
「うんうん。たしかにこれは英雄的ではないかな」
 彼女はそんなことを口ずさみ。それから深く頷いた。
「じゃあ、おしまいにしようか」

◆◆◆

 横濱。
 かの街もまた闇に溶けている。妖魔と式者の夜に人工の明かりはない。
 星明かりを遮って暗夜に聳えるそのビルは、さながらかつて神話にあった巨塔を思わせる。コンクリートの外殻は方形を結び、四角の頂点を為す四つの支柱は、天の一点に向かうように伸びる。重厚な、勇壮な、冷厳な、その威容は人の手で作られた建造物でありながら、その手に余るものにさえ見えた。
 巨塔の先、横濱で最も空に近い場所に彼女はいた。
 無機質なベトンのヘリポート、家々がひしめきビル群が林立する横濱の町並み、そのどちらにも似合わぬ黒と白で形象されるシスター服。
 星彩を反射する髪は獅子と似た濁った金で。
 碧の瞳は猛禽のように。
 伏した体は艶美な曲線を描いて豹の如く。
 大きなロザリオ、それからそれよりもずっと、馬鹿みたいに大きな一丁の銃器。
 二脚を設置しての伏せ撃ち、典型的な対物狙撃。シスターラウレッタが持つAMR(アンチマテリアルライフル)の望遠レンズは、暗夜にひしめく妖魔の姿をはっきり捉えている。
 彼らの位置は本来の射程距離よりもずっと遠い。そもそもにして高すぎるこのビルは狙撃には不向きだった。それもまるで位置を知らせるような屋上からの狙撃だ。超長距離からの銃撃という点を除けば、そもそもこんな隠密性の低い行為がスナイピングと言えるかすら怪しい。
 けれど、そんなことは関係ないのだ。
 彼女にとっても、また彼らにとっても関係がない。
 稀代の式者、鶴陵の巫女を仕留めようという夜だ。
 彼らはいずれも決死の覚悟があり、それは望遠レンズとその距離を超え、彼女の肌にその緊張感を伝えるほど。
 そこに水を差そうと言うのだ。その冒涜的な行為をどうして彼らが赦すものか。
 隠れたところで意味はない。魔術の痕跡を遺した式者を見失うほど、妖魔という存在は愚かではない。彼らはありとあらゆる手段でもって復讐を為すだろうし、それには無数の妖魔が手を貸すだろう。位相のずれた空間は世界中にあまねく存在するのだから。
 だから身を潜めることに意味はない。
 必要なのはただ、一方的な攻撃を許す物理的な距離だけだ。
 レンズ越しに、大小の狗の妖魔にまたがった着物持ち。神奈河の妖魔の中でも最高の統率力と機動力を誇る妖鬼ホウキの群れ。五つ以上のあざなをもつにも関わらず、狗の姿に留まる妖魔を束ねたその集団はさながら軍隊のようで。
 その集団の先頭に鬼はいた。
 漆黒の甲冑、雄牛を模す重角の兜。手には旗印のような長い戟。
 まともに対面したら背筋が凍るようなその巨体も、この距離では大きな的でしかない。
 手にした銃器に魔力を込める。碧の瞳は光をもつように爛々と。銃身とその弾道上に幾つも展開される金の呪文陣。その一つ一つすべてが一級品の付与魔術(エンチャント)。あらゆる物質を、あらゆる運動を、この世界の法則から弾き飛ばす彼女の魔法。
 ただでさえ戦車の装甲さえぶち抜く弾丸だ。それをありったけの魔術で別物に変える。妖鬼さえ穿つ凶器へ。
 撃鉄を引き絞る。覗き込むスコープの視界の端、黒地に蜻蛉模様の着物姿が映った。
 正確に鬼の頭部を捉えた十字架、トリガーの固い感触が人差し指に残る。
 体の芯に響く銃撃の反動は、妙に心地良く。
 放たれた銃撃を変質させる呪文陣の群れは魔力を帯びて金の光を。
 およそ射程という概念を無視した弾道は、けれど不可思議なほど真っ直ぐに妖鬼を貫く弾道に乗った。
 弾丸到達までのほんのわずかな間に。
 その場で一人だけ、たった一人だけ、場違いなくらい必死に叫んだ者がいた。
「『 』!!!!」
 スコープ越しに叫んだ姿が見えた。到底届くはずもない音が聞こえるほど、胸を打つような猛りを感じた。
 一瞬、その男と視線が絡まる錯覚。
 両の腕にスミレ色の燐光。七重に折り重なった妖術の呪文陣。流星を掴むように伸ばしたその腕の先に、顕現するは堅守の結界。
 懸命なその形相とは裏腹に、行使された妖術は憎らしいほど冷静で。
 結界は弾道に対し極めて鋭角に、その弾丸をほんのわずかに逸らすように仕組まれた。
 妖鬼さえ対処の難しい鬼殺しの術を、たかだか七つあざなの妖魔が捻じ曲げる。そんなものはほとんど御伽噺だ。それもとびきりタチの悪い。
 分不相応にも多重の呪文陣を使って。おそらく最大限の妖力を出力して。七つの結界を全て壊してようやくぎりぎり弾道を逸らせる程度の力で。
 彼はその鬼殺しを凌いでみせた。たった一人で。他のあらゆるものに先んじて。それは例えば、一匹の蜂が象の歩みを曲げるようなもの。
「おいおい巫山戯るなよエンカクジ……!」
 見えるはずもないのに、一心に自身を睨みつける妖魔カイに、ラウレッタは思わず吐き捨てた。聞こえるわけがないと知っているまま罵倒した自分も、あのバカと同じだと自嘲しながら。
 一瞬遅れた着弾がコンクリートを巨獣の爪に抉られたように吹き飛ばしていた。濛々と上がった砂塵の中で、ホウキが『砲』の妖術を放つ。人を喰らう妖気の塊は、けれど数キロ先のラウレッタを正確に射抜くなど有り得ない。当てずっぽうの砲撃をつまらなそうに見定めて、彼女はスコープ覗くのをやめて立ち上がった。こちらの存在に気付いた鬼に狙撃など当たるはずがない。あとは「向こう」の仕事だ。やれることはその補助しかないが、それにもまず場所を変えなければ。
 横濱で最も高いビル、その屋上で彼女は振り返った。
 ベトンのヘリポート。その中心に、
「そういや、瞬間移動の妖術も使ってたっけ?」
「任意の場所に移動できるわけじゃねぇけどなァ」
 黒地の着物。
 白で縫い付けられた刺繍の蜻蛉。
 帯は暗い紅で。
 妖魔カイは先ほどよりいくらか気楽そうに構えた。
 ラウレッタは妖魔に向かって親しげに告げる。
「あの時殺しておけば良かったよ」
「酷ぇ話だ。僕みたいな雑魚の相手をするほど暇じゃねぇだろうに」
 軽口で返す。もっとも、妖鬼を狩るレベルの式者にとって、カイは雑魚に相違ないのだが。
「で、その雑魚がみすみす私の前に現れて何をしようって?」
「僕は臆病なんでね。少しでも生き残る可能性が高い場所が好きなんだよ」
「随分私を低く見るじゃないか」
「そうか? 妖鬼様方と鶴陵の首を取りに行こうってよりはいくらかマシだと思うがなァ」
「ハッ」
 彼女は可笑しなことを聞いたように大げさに笑ってみせた。
「ま、そいつは妥当な線だな」
「だろう?」
「……さて、エンカクジ、そろそろ茶番は止めようか。さっきから耳に煩いあの蜂はお前のだろう?」
 ラウレッタは足元のジュラルミンケースを蹴り上げた。空中で口を開いたケースから、種々の重火器が乱れ落ちる。両手に掴み取ったサブマシンガンが、金の呪文陣を銃口に備えて火を吹いた。微かに聞こえていた羽音が鳴り止む。がちゃがちゃと派手な音を立てて、ラウレッタの銃器が屋上のコンクリートに転がった。
「とっとと始めようぜ」
「そいつが西洋で流行りの自動照準ってヤツ?」
「そ。雑魚の処理にはちょうど良い玩具だよ」
 言って、ラウレッタはとびきり機嫌が良さそうに笑んだ。
32, 31

  

 シスター服の女が向ける銃口、その銃身にまとわりつく呪文陣を見た瞬間、カイは思わず笑った。どう足掻いてもこんな化けモノに勝てるはずがないと。
 ラウレッタの両手に掴まれた二つの小型機関銃にはそれぞれ三層の呪文陣が付与されている。一層目は金色の呪文陣。三層の中で最も複雑なわりに、それほど魔力が充填されていないことから、おそらくは自動照準。二層目は橙色の呪文陣、汎用魔術の銃弾を高速化するための加速器。そして三層目の黄金色に輝く呪文陣は見慣れぬ構造。が、そこにつぎ込まれた魔力の量から考えて、再生の速い妖魔の体を致命的に破壊する類の代物であることは容易に想像できた。
 三種六層もの呪文陣を特別な詠唱も準備も必要とせず瞬時に展開する芸当を平然と為す人間を、化けモノ以外のなんと呼称すればいい。、、、
 この女は間違いなくホウキを殺しうる存在だ。だから差し違えても一時的に足止めしなければ。
――……だから?
 飛んだお笑い種(ぐさ)だ。のこのこ姿を晒した自分の脳みそを、カイは掻き混ぜて狗にでも食わせてやりたい気分になった。鬼殺しを為しうる式者を、どうしてたかだか七つ字(あざな)の妖魔が止められるものか。
 十秒生きてられたら褒めてくれ! 半ばやけくそになった思考で、カイは躊躇うことなくラウレッタに突進した。突進するしかなかった。自動照準を付された銃撃に、真後ろへの撤退も上下左右の回避に意味はない。もっとも前に進めば勝機があるのかと言えばそんなことは全くないが。
 ラウレッタは涼しげな顔で引き金を絞る。銃弾が三層の呪文陣を越えるよりも先に、カイはその右腕にありったけの妖力を込め、妖術の盾――『界』を顕現させた。七層に折り重なったスミレ色の盾に、彼女の銃弾が殺到する。全身全霊を込めた防御の陣、その一層目はわずか数発の弾丸で砕け散った。
(無茶苦茶な威力だなァ……)
 結界は硝子の砕けるような渇いた音を立ててあっさりと粉砕されていく。あと一秒と少しで跡形もなく消し飛ばされるだろう。その刹那に次の一手を打たなければ、ミンチにされる未来だけが待っている。
 けれどこんな状況下で、そうそう状況を打開できる一手など閃くはずもない。
(打つ手がねぇ……一か八かで賭けるかァ……)
 削られていく結界を視界の端に、カイはおもむろに着物の袖口から三匹の蜂蟲をばら撒いた。駆けながら腕を地面に擦らせ、密やかに『回』の転移陣を敷く。その一切の行動から注意を逸らすようと、カイは声を張って叫んだ。
「『改』!」                    、、、、、
 己の妖力をほとんど零にまで押さえ込み、カイは力強く横に跳んだ。結界の外側へと。
 自動照準を掛けられたラウレッタの機関銃は、しかしカイを追わずに『界』へと弾丸をねじり込み続けていた。『界』の中に閉じこめられた蟲に向かって。
「ほぉ」
 ラウレッタは感心したように小さく声を上げる。相対する妖魔は、彼女の自動照準が妖力の大きさに反応して狙いを定めていることを見抜いたらしい。その上で蟲の微かな妖気よりも自身のそれを低く見せ、照準を自分から蟲に移したようだ。
「器用で勇敢、その上勘も鋭い。たしかにむざむざ殺すには惜しいくらいだな」
 彼女は親しげに語り掛けた。カイは無視を決め込んでその右手に妖術を編む。暗い紫の弓がゆらりと顕現し、その絃を引いた瞬間に矢が形作られる。
 矢を番える左手にスミレの呪文陣。息を呑むほど鮮やかな所作から放たれた『潰』の一矢を、しかし彼女は悠々躱す。同時に自動照準を破棄、片方のサブマシンガンを投げ捨てた。手に持つ一方を両腕で構えて狙いを付けるなり、走るカイに向かってなぎ払うように銃弾を吹き付けた。
 ばら撒かれた銃弾の一つがカイの脇腹を掠めていく。それだけの弾丸が肉を引きちぎる。背筋に冷水が伝うよう。まともに当たっていたら、確実にそこで死んでいた。一手間違えるだけで簡単に殺される。そういう相手だ。初めから分かっていた。気持ちを押さえつけ、妖魔の瞳は人の姿をした化けモノを睨み付ける。
 灼けるような痛み。押し殺す。告死の銃口がそっぽを向いている内に、淀みなく追撃の矢を放つ。
 彼女は横転して二の矢を、さらにその勢いを活かして横っ飛びに三の矢を躱し、次の瞬間には正確に銃口をカイの頭部へと照準していた。決死の覚悟で手に入れた攻撃の機会が瞬時に絶命の刻へ流転する。
(おいおい。ちったァ苦戦しやがれっての……)
 金と橙の鮮やかな呪文陣が網膜に焼き付く。地面にスミレの呪文陣。
 万物を変化させ、あらゆる運動を捻じ曲げる付与魔術(エンチャント)を抜けた弾丸が、
「『回』!」
 カイの居たはずの場所を瞬きの内に貫いた。カイは先に張った転移陣へと飛んでいる。その一瞬だけ、カイはラウレッタの視界の外にいた。
 呼吸(いき)をすることさえ躊躇う一刹那、右腕の先に妖力を一気に充填する。『戒』を為す真紅の呪文陣が、彼の腕の先でコマのようにひゅんと回った。七重の呪文陣は展開できる限界ギリギリの重複妖術。だがその妖力を十分に充填し終わる前に、獰猛な狩人はカイへと振り向く。彼女はトリガーに指を引っ掛けたまま、その銃口をカイへと向け――ようとした腕がガクリと止まった。
 マシンガンにはいつの間にか三層目の呪文陣がまとわりついている。見慣れぬ三つ目は真紅の――凶器を空間に縫い付ける『戒』のそれ。ラウレッタが視界の先、裂かれた腹か
                                   、、
ら真っ赤な血を滴らせる妖魔は、ここに来て初めて薄く笑った。その腕の先で六つの赤い呪文陣がはしゃぐように踊る。
「『戒』」
 呟くような詠唱の後、六つの呪文陣は雲散し、そしてラウレッタの四肢と首、胴体を拘束する。力強く地を蹴って、カイは彼女との距離を殺す。思考の暇など与えない。そんな悠長なことをしていられるほど、カイの状況は楽観できるものではない。たかだか七つ字の妖魔の拘束が、ラウレッタほど高位の式者を拘束できる時間は一秒とない。
 だから一息に間を詰めた次の瞬間に、その右腕はもうスミレ色の燐光を散らしていた。拳を振りかぶった身体に、腹部の激痛が突き刺さる。構っていられない。それを噛み殺し、叫ぶ。カイが唯一持つ攻性妖術。
「『潰』れろ!!!」
 振り下ろした腕の先が、彼女に到達する。その手前。

 初めに認識したのはガヅっという酷く歪んだ音だけだった。

 シスター服の女、その左腕が『戒』の拘束を引きちぎり、掌でカイの拳を受け止めていた。全力の殴打が、“女の片腕で受け止められた”と理解した時にはもう、カイの拳は彼女の真っ白な手袋の中で握りつぶされていた。
 純白の手袋が妖魔の血で鮮やかな赤に染まる。激痛、しかしカイに理解はそれに追いつかない。一瞬で覆った状況の理解を、どうやら思考は拒んでいるらしい。あるいは、聡明な彼の思考はその状況の理解が何の意味もないことを知っていたのかもしれない。
 残る五つの拘束陣が女の魔力に耐え切れず砕けて消える。初めから拘束の意味などなかったと嘲笑うように。
 空間があるべき音を見失ったような静寂の中。澄んだ月華が彼女の獰猛な笑み照らした。艶かしい彼女唇を舌が這って濡らす。
 そこから次の一撃まで、カイは妙に長く感じられた。ただ頭の中心で「ああ、コイツはもう無理だなァ……」という諦観に支配されたことだけをはっきりと覚えている。その諦観は甘すぎるものだと知るのはすぐ後だ。
 実際には数秒もなかったその僅かな間に、カイの思考は奇妙なくらい淀みなく流れた。ケースに入った不自然なほど多くの銃。そして卓越したエンチャント。それだけで無意識の内にすっかり思い込んでいた。この女は中長距離から敵を屠殺するガンナーだと。実際、それは間違いではないのかもしれない。それも彼女の戦い方の一つだろう。それが彼女の最高の戦闘型ではなかっただけの話で。拳を受け止められた瞬間、その体の内部に施された数え切れないほどのエンチャントを感じ取った。物質を強化するのなら、どうして自身の肉体を強化しないなどという事態がありえるだろう。苛烈な銃撃で対象に接近戦を挑ませ、そして本命の肉弾戦で仕留める。随分遠まわしな罠だとカイは嗤った、すっかりそれに嵌った自分を俯瞰して。
 骨と肉がグシャグシャになった右手を引き寄せられたと瞬間に、弾丸が抉った腹部にラウレッタの膝蹴りが突き刺さっていた。ボロ雑巾のように吹き飛ばれて地面を転がり、カイは朦朧とした意識で、どうやら相手は自分を痛めつけたいらしいことを悟った。そうでなければ今の蹴りでカイの体など簡単に真っ二つに引きちぎられている。
「……げぇ……うっがぁ……ぁ……」
 激痛で呼吸が上手くできない。そこにさらに体を蹴り起こされ、血反吐が口から溢れ出す。大の字に倒れたカイの上に、ラウレッタが馬乗りになる。
「さて」
 霞んだ視界に、彼女の嗜虐的な瞳が映った。手に持つナイフを弄ぶようにくるくる回し、ふと思い出したように逆手に持った。ナイフに弱々しい呪文陣(エンチャント)。そのままカイの左腕を貫く。骨を砕く。捻る。腕を引きちぎる。
「が、げ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」
 カイの絶叫が終わらぬ内に。左腕をもぎ取って血塗になったナイフが今度は右腕に落ちる。引き抜く。もう一度振り下ろす。骨まで届く。肉をそぎ落とす。露出した骨に魔力を付した拳を下ろす。砕く。激痛、絶叫。意識が飛ぶ。修道女は立ち上がって笑う。魔術で妖魔の意識を強制的に覚醒。気絶するほどの痛みが再度カイを襲う。しかし意識は失うことはできない。逃走を試みる。不可能。動けない。体のどこにも力が入らない。妖術を編むほど意識が覚醒していない。ラウレッタの脚が上がる。
「どこを踏んでやろうかねぇ」
「……ぅ、げぇ……や、やめ……」
 哀願は虚しく。女の哄笑。妖魔の男性器を踏み潰す。肉が潰され、器官が壊れる。衰弱した絶叫。枯れた声。さらに両膝を踏みつけ、四肢を完全に破壊。無反応。意識を強制覚醒。妖魔の瞳に恐怖、畏怖。彼女は静かな笑みを向ける。魔術で男性器を再生。妖魔が泣き叫ぶ。再度踏みつけ。肉が潰れる音。尿と一緒に血が溢れる。大丈夫、妖魔は頭か心臓を壊されない限りずっと玩具にできる。壊れてもそのうち治る。だから壊す。壊す。

◆◆◆
           、、
 ラウレッタの手に持つソレを生き物と呼ぶべきか。
 四肢は繰り返される破壊に再生を諦め、その傷から流れ出る血液だけをどうにか押しとどめるように皮膚らしきものが蠢いている。ソレの目に光はなく、だらしなく開けられた口からは乾いた涎の跡が残る。執拗に壊され再生され、また破壊され、繰り返し陰惨な陵辱の的になった妖魔の股の付け根は、乾いた血とひしゃげた肉と漏れ出した尿で汚れきっていた。意識の有無は定かではない。あるいはこの期に及んで意識がある方が残酷か。いずれにせよ肉体の責め苦で精神までほとんど壊された妖魔の瞳は、とっくに焦点を結んでいなかった。
 四肢をもがれていくらか軽くなったカイの体を、ラウレッタはゴミ袋のように頭部の髪を鷲掴みにして携えた。片方の手に握られた通信機に耳に当てる。
「あー、もしもし? ラウレッタだ。聞こえるかい?」
「良好だ、ボス」
「悪い報告と良い報告がある。ホウキは案の定仕留め損ねたが、エンカクジを生け捕りにした。半分くらい壊しちまったけど、まだ金になるか?」
「んー……損壊具合にもよりますが、生きてりゃ申し分ないくらいの報酬にはなるんじゃないですかねぇ。エンカクジは結構な収穫ですよ。妖魔の集団行動の扇動したヤツらしいんで、研究機関なんかは聞きたいことが山ほどある。壊れても再生力のある妖魔なら問題ないでしょうし。最悪PTSDの酷いので済みます。どうしても口を割らないなら頭の中を割って記憶を抽出しろって言えば良い。ウチの研究部ならそれでも十分引き取ってくれるはずです」
「OK、じゃああとは任せた」
「了解。引き続き戦闘情報のサポートをします。……っとその前に。小田原で鶴陵が動きました」
「ほぅ。どうなった?」
「十数分で戦闘終了。ケンキ及び周辺の妖魔の反応が消滅。同時に鶴陵の反応も見失いました」
「……つまり?」
「分かりません。状況だけをみるなら、鶴陵がケンキごと妖魔を全滅させたってことになります」
 通信機ごしに、若い男の声が不穏な気配に満ちていくのを、ラウレッタは鋭敏に感じ取った。
「三百年生きる妖鬼を十数分で? ありうるのか? だいたい、もしそんなことが可能だとしたら、どうして鶴陵は始めから妖鬼の討伐に向かわなかった?」
「だから言ったじゃないですか“状況だけをみるなら”って。僕だってそう単純に考えません。ありそうなのは、ケンキがなんらかの手段――まぁ新手の妖術でしょう――で鶴陵を深い位相まで連れ込んで反応を消失したってことぐらいですか。もしその通りなのだとしたら、鶴陵は相当マズイ状況になってる。そして鶴陵がマズイなら、必然的に我々の状況も芳しくない。貴女以上の化けモノを妖鬼はどうにかできるってことになりますからね。そうなったら、ホウキのことも手を引いて、手持ちの妖魔だけ土産にして手打ちってのが一番賢いやり方になりそうですよ」
 提案をする声はひどく呑気なものだった。
「ッチ。なんだそりゃあ。シケた話じゃねぇか」
「いいじゃないですか。こっちの観光に来たと思えば、今回の報酬も合わせてトントンくらいに……って、ん?」
「どうした?」
「いえ、ちょっと計器がおかしな値を」
 一瞬の沈黙。

「……え……?」

 たった一声。けれど、その一声には、奇妙すぎるほどの緊迫感があった。
 次の瞬間、通信機からどすっと妙に重たい異音がした。それきり沈黙が根を下ろす。
「……おい」
 反応はない。
「…………」
 ラウレッタは通信機を無言で見つめる。不自然なほどの静寂。
「おい!!!」
 大声にも反応はない。
 嫌な予感、ではない。はっきりと死を感じた。
 あの異音は、人が壊れる音だった。
「なんだってんだよ……」
 彼女の手からこぼれ落ちた通信機はがしゃりと音を立てて弾んだ。
「くそっ……!」
 四肢をもがれた妖魔を投げ捨て、ラウレッタは仲間がいる……いたはずの場所へと向かった。
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