排他的博愛論2
同じステージに立たなければ、友情は、成り立たない。
さて。
この物語におけるキーパーソン。如月灯里(キサラギトモリ)の話をそろそろしなければならないだろう。
とは言え、こう改めて彼女の事を話そうとしてみると、中々、何から話せば良いのかに悩んでしまう。紹介するのが他人となれば、それは自己に輪を掛けて難しいものだ。
女子高生。
もしくは、登校拒否。
はたまた、臨機不変。
いや、こんな言葉は彼女の表面を、それも一方からなぞっただけだ。そんなのは彼女の本質とは何の関係も無い。
死にたがり。
多分、この一言が一番彼女を表現するのに相応しいだろう。
「なんで、簡単に死ねないのかしら。生存本能? 困ったモノよね。誰も彼も望んで産まれてきた訳ではないのだから、ボタンを押す程度の手間で死ねないとそんなのは不公平でしょうに。勝手に産み落とされたのだから、生きるか死ぬかの選択権くらいはこちらに委ねるべきだと、そうは思わない? 私は断固として今の『生きていれば良い事が有るさ』なんて風潮に異議を唱え続けるつもりよ。楽観主義の皆さんは生存本能に抗えず、悪戯に生きている只それだけのくせをして、何を勝ち誇っているのかしら。ああ、それとも。そうとでも思わないと生きていくのが辛いから? それはそうでしょうよ。生きているのは基本的に苦しい事だもの。辛くて当たり前なの。エネルギーが必要だから狩りを行い、そしてそこには狩られる物が出て来るなんて当然の理屈でしょう。現代では人同士ね。生きる為に他人を虐げるの。エネルギーを吸い上げて、そうやって生きているのだから吸い上げられる側がそこには確固として存在するし、そして吸い上げているつもりであっても、更に上から吸い上げられている。そしてまた、搾取するだけの人間なんていない以上、誰であっても生きているとは苦しいものよ。そういう単純な流転構造になっているわ。だから、『死んでしまえば悪い事は無いさ』が正しいのだと、そう確信してる」
少女は、僕にいつだったかそんな事を言った。
そして、続けざまにこうも言った。
「だから、殺してくれない?」
とても彼女らしい言葉だと、そう思ったのを覚えている。
勿論、僕には少女を殺す事は出来なかったので、申し出は丁重にお断りさせて頂いたが、実を言えば彼女の言い分も分からないではなかったりする……言い分は。
けれど共感は、何がどう転んだところで出来ないだろう。
少女、如月灯里はシンパシーを抱く対象としては特殊が過ぎた。
特殊に特別で、格別に特別な存在だ。非日常、と彼女に関しては言い切ってしまえるだろう。ここで比較対象にかしくを持ち出すのは少し違和感を覚えるが、例えば彼女はありとあらゆる武勇伝を持っている。
では、ここで少しばかり上刎かしくの持つ伝説を披露しよう。
時速八十キロ超のスポーツカーの突進から道路に飛び出した小学生を守った。
校舎の屋上から飛び降りた女子学生を教室の窓からダイビングキャッチし、自身すら無傷で生還。
麻薬組織のアジトに単独で突入し、銃弾が飛び交う中でスキップしていたエトセトラエトセトラ。
三番目に関しては眉唾ではあるけれど(流石に作り話だろう。麻薬組織なんてものがそこかしこに在って堪るか)しかし、一番目と二番目については全くの誇張が無い事実である。何せ、僕はその場に居たのだから。いや、詳細を欠いているだけに話が小さくなっている節すら有る。
スポーツカーの突進から少年を救った。これだけ聞けば道路の真ん中で呆然としている少年へと果敢にも走り寄り、そして彼を抱えて暴走車を飛び避けた、そんなシーンを思い浮かべる事と思う。
しかし。
実際はまるで違う。
道の真ん中で少年が呆然となった。そこまでは正しい。しかし、そこからが想像を絶する。かしくはその彼へとスポーツカーが迫ってくるのに気付くや否や、車と少年との間に仁王立ちで立ちはだかったのだ。
「いやさ。チャンスって思っちゃったんだよね。ほら、昔の格ゲーのボーナスステージに車ぶっ壊すヤツが有るじゃん? あ、知らない? まあ、とにかくそういうのが有る訳よ。でさ。これは車ぶん殴っても怒られない、どころか感謝感激されちゃう場面だと、そうとっさに気付いちゃったのよん。そしたら、アタシだって人間だから居ても立っても居られないってモンでして。高そうな車だったってのもアタシの破壊欲に拍車を掛けたかも知れないかな? 運転手のお兄ちゃんに怪我させない程度に思いっきり拳振り抜いたよねー」
事故後、かしくは病床で僕に向かってあっけらかんとそう話した。包帯の巻かれた右腕をぶんぶんと振り回し、その健在ぶりをアピールする事は忘れずに。
……まともな人間のやる事では、それはない。人間だから、なんてどの口でのたまうのか。
速度に掛ける事の重量、即ちエネルギー量というのは物理学の初歩の初歩であるけれども、僕はその原則をこの時ほど疑った事も無く。
交通事故レベルのパンチ。
なんだ、それ。音速拳か?
「いや、そんな目で見ないでよ。流石のアタシでも相手がダンプカーとかなら悩んだってば」
……それでも、悩むレベルなんだ?
ちなみに。この事故で車の前面部は陥没大破。運転手が全治一週間の捻挫で済んだのがエアバッグ様々であるとかは、ああ、これは蛇足だろう。
「右腕はちょっと剥離骨折しちゃったけど、すげえスッキリしたね!」
それで骨折程度で済むとか、お前の怪物ぶりはすげえハッキリしたけどな。
……何の話だっただろうか?
そうだ。灯里の話だ。
そんな人間離れした上刎かしくではあるが、しかし離れているだけで、人間の域を出てはいない。僕などから見れば十分に規格外ではあるのだが、その道のプロであるかしくに言わせると、交通事故パンチは人間に出来ない真似では決して無いらしい。
力の使い方と筋肉のリミッターの外し方を知りさえすれば、後はちょっとした鍛錬で誰でも出来るようになるそうだ。
……あくまでかしくの談であり「誰でも出来るようになる」の下りは、他人の言葉を九割九分九厘鵜呑みにする純真無垢な心の持ち主である僕であってもまさか信じてはいない。けれども、それは人さえ限定すれば出来る範囲ではあるのだろう。
何より、かしくというその見本が存在する事実。そのかしくが人間であるのか疑わしい逸話であるので、これはもう、宇宙人は実在するのか、の問いに対して「地球には既に知的生命体が発生しているから、いないとは言い切れない」と返すような暴挙である事は認めるが、しかし、それにしたって生き物の境を越えてはいまい。
重量級のアフリカゾウが踏めばスポーツカーなど壊れてしまう。いとも容易く。
そういう意味で。
如月灯里は、そもそも生き物とは呼べない。
そういう意味で。
僕やかしくとは一線を画する存在だ。
似通ってはいても。根本的に違う。心を触れ合わす事は出来ても、共感は抱けない。
「ともちゃんは、アタシよりもよっぽどオカしい。アタシだって、そりゃ人並み外れているってのは認めないでもないけどさ。ただ、アタシは人から始まって、人として鍛錬して、人以上に努力して、人を越えただけ。そこに何の矛盾も無いし、回り道も近道も無い。人の道を外れなきゃアタシが求めたものにはなれなかったから、獣道を突き進んだだけなんだよ。だけどね、ともちゃんは違う」
道を外れた、外道の少女は知っている。
道どころじゃない外れ方をしているモノには、どう足掻いても届かない事。
「ともちゃんは、最初から外れてる」
世界が違う。
ステージが違う。
「アタシがなりたかったものを、ともちゃんは持ってる。アタシがどんなに努力しても、人の身で到達し得る最も高みに登ったのに、それでもともちゃんには遥か届かない。ともちゃんには勝てない。あの子にはそもそも、敗北条件が無いんだ。卑怯だよね。有り得ないよ。有り得ない。そりゃさ。ゲームでは絶対に負けないといけないバトルイベントがたまに有ったりするよ? でも、現実はゲームとは違うじゃない。なのに」
命の定義が違う。
「ともちゃんは、ゲームみたい。だって、そうでしょ?」
かしくは灯里について語る時、いつも悔しそうに歯噛みする。
「どうにかしてあげたくても、アタシにはどうしようもないもん」
如月灯里において、僕から見れば唯一同性の友人と言っても良いだろう少女はしかし、自身を灯里の友達とは決して言わない。それはきっと、僕が久人を頑なに友人と称さない辺りと事情は同じなのだろう。
同じステージに立たなければ、友情は成り立たない。
だから如月灯里は、孤独である。
それが彼女の死にたがりを加速させる。元々が寂しがりな少女は、どこまで行っても一人という現実に飽いている。
きっとそれこそ、少女が僕を恋人に選んだ理由なのだろう。いや、それ以外に僕には彼女から求愛されるいわれが無い。
そうそう、言いそびれていた。
如月灯里と僕は一年前から恋愛関係にある。
「誰でも良かった訳じゃ、無いわ」
灯里は事につけてそう言うけれども。残念ながらそうは思えない。何より、彼女はそんな事を、僕に必死に抱き付きながら訴えるのだから。
自分を騙すように。
きっと誰でも良かったのだろう。彼女の存在を受け入れさえしてくれれば。
そう、思ってしまう。
「貴方しか、いなかったというのも有るけれど」
消去法で選ぶ恋人。
恋愛なんてそれは呼ぶべきではないのかも知れない。人恋しいなんて。それは死にたがりが口にする言葉でもない。世に未練が有ったり、人に縋るくらいなら、最初から自殺志願なんて口に出しちゃいけない。
ただし、それも。灯里に関しては逆転する。せざるを得ない。彼女の置かれている境遇を鑑みれば、その思考は決して不自然ではない。
「けれど、自分たちを運命の恋人同士だと誤認している人たちは、皆同じ事を言うのでしょうね。『私には貴方しかいない』なんて。ええ、我ながらとても陳腐で空虚な言葉だと、そう思う」
勝利条件、ヒロインの死亡。
敗北条件、なし。
そういう恋愛。
だから、上刎かしくでは敵わない。腕力で全てを解決出来ると信じて疑わず生きてきたかしくにとって、死にたがりの少女は相性が悪過ぎる。
そして、それは僕にとっても同じ。僕では灯里を殺せない。僕には手を汚す事が出来ない。例えそれが恋人のためであったとしても。いや、それが果たして彼女のためなのかという疑問からもう、僕には拭えず。
結果、僕は恋人の事を分かってはあげられない。
何も分かってやれやしない。
「ねえ、それでも」
如月灯里は、僕の恋愛相手は、僕たちと住む世界が異なっている。
「私は貴方が好きよ」
いつだって、少女は僕を抱き締めながらそんな睦言を耳元で囁く。その恋心は決して報われないと知りながら。一時の慰めでしかないと知っていてなお、彼女は僕を求める。
未来はない。希望はない。僕らの恋愛には、先がない。
如月灯里は、僕の恋愛相手は、産まれてきた事がそもそもの間違いだ。
さて。
この物語におけるキーパーソン。如月灯里(キサラギトモリ)の話をそろそろしなければならないだろう。
とは言え、こう改めて彼女の事を話そうとしてみると、中々、何から話せば良いのかに悩んでしまう。紹介するのが他人となれば、それは自己に輪を掛けて難しいものだ。
女子高生。
もしくは、登校拒否。
はたまた、臨機不変。
いや、こんな言葉は彼女の表面を、それも一方からなぞっただけだ。そんなのは彼女の本質とは何の関係も無い。
死にたがり。
多分、この一言が一番彼女を表現するのに相応しいだろう。
「なんで、簡単に死ねないのかしら。生存本能? 困ったモノよね。誰も彼も望んで産まれてきた訳ではないのだから、ボタンを押す程度の手間で死ねないとそんなのは不公平でしょうに。勝手に産み落とされたのだから、生きるか死ぬかの選択権くらいはこちらに委ねるべきだと、そうは思わない? 私は断固として今の『生きていれば良い事が有るさ』なんて風潮に異議を唱え続けるつもりよ。楽観主義の皆さんは生存本能に抗えず、悪戯に生きている只それだけのくせをして、何を勝ち誇っているのかしら。ああ、それとも。そうとでも思わないと生きていくのが辛いから? それはそうでしょうよ。生きているのは基本的に苦しい事だもの。辛くて当たり前なの。エネルギーが必要だから狩りを行い、そしてそこには狩られる物が出て来るなんて当然の理屈でしょう。現代では人同士ね。生きる為に他人を虐げるの。エネルギーを吸い上げて、そうやって生きているのだから吸い上げられる側がそこには確固として存在するし、そして吸い上げているつもりであっても、更に上から吸い上げられている。そしてまた、搾取するだけの人間なんていない以上、誰であっても生きているとは苦しいものよ。そういう単純な流転構造になっているわ。だから、『死んでしまえば悪い事は無いさ』が正しいのだと、そう確信してる」
少女は、僕にいつだったかそんな事を言った。
そして、続けざまにこうも言った。
「だから、殺してくれない?」
とても彼女らしい言葉だと、そう思ったのを覚えている。
勿論、僕には少女を殺す事は出来なかったので、申し出は丁重にお断りさせて頂いたが、実を言えば彼女の言い分も分からないではなかったりする……言い分は。
けれど共感は、何がどう転んだところで出来ないだろう。
少女、如月灯里はシンパシーを抱く対象としては特殊が過ぎた。
特殊に特別で、格別に特別な存在だ。非日常、と彼女に関しては言い切ってしまえるだろう。ここで比較対象にかしくを持ち出すのは少し違和感を覚えるが、例えば彼女はありとあらゆる武勇伝を持っている。
では、ここで少しばかり上刎かしくの持つ伝説を披露しよう。
時速八十キロ超のスポーツカーの突進から道路に飛び出した小学生を守った。
校舎の屋上から飛び降りた女子学生を教室の窓からダイビングキャッチし、自身すら無傷で生還。
麻薬組織のアジトに単独で突入し、銃弾が飛び交う中でスキップしていたエトセトラエトセトラ。
三番目に関しては眉唾ではあるけれど(流石に作り話だろう。麻薬組織なんてものがそこかしこに在って堪るか)しかし、一番目と二番目については全くの誇張が無い事実である。何せ、僕はその場に居たのだから。いや、詳細を欠いているだけに話が小さくなっている節すら有る。
スポーツカーの突進から少年を救った。これだけ聞けば道路の真ん中で呆然としている少年へと果敢にも走り寄り、そして彼を抱えて暴走車を飛び避けた、そんなシーンを思い浮かべる事と思う。
しかし。
実際はまるで違う。
道の真ん中で少年が呆然となった。そこまでは正しい。しかし、そこからが想像を絶する。かしくはその彼へとスポーツカーが迫ってくるのに気付くや否や、車と少年との間に仁王立ちで立ちはだかったのだ。
「いやさ。チャンスって思っちゃったんだよね。ほら、昔の格ゲーのボーナスステージに車ぶっ壊すヤツが有るじゃん? あ、知らない? まあ、とにかくそういうのが有る訳よ。でさ。これは車ぶん殴っても怒られない、どころか感謝感激されちゃう場面だと、そうとっさに気付いちゃったのよん。そしたら、アタシだって人間だから居ても立っても居られないってモンでして。高そうな車だったってのもアタシの破壊欲に拍車を掛けたかも知れないかな? 運転手のお兄ちゃんに怪我させない程度に思いっきり拳振り抜いたよねー」
事故後、かしくは病床で僕に向かってあっけらかんとそう話した。包帯の巻かれた右腕をぶんぶんと振り回し、その健在ぶりをアピールする事は忘れずに。
……まともな人間のやる事では、それはない。人間だから、なんてどの口でのたまうのか。
速度に掛ける事の重量、即ちエネルギー量というのは物理学の初歩の初歩であるけれども、僕はその原則をこの時ほど疑った事も無く。
交通事故レベルのパンチ。
なんだ、それ。音速拳か?
「いや、そんな目で見ないでよ。流石のアタシでも相手がダンプカーとかなら悩んだってば」
……それでも、悩むレベルなんだ?
ちなみに。この事故で車の前面部は陥没大破。運転手が全治一週間の捻挫で済んだのがエアバッグ様々であるとかは、ああ、これは蛇足だろう。
「右腕はちょっと剥離骨折しちゃったけど、すげえスッキリしたね!」
それで骨折程度で済むとか、お前の怪物ぶりはすげえハッキリしたけどな。
……何の話だっただろうか?
そうだ。灯里の話だ。
そんな人間離れした上刎かしくではあるが、しかし離れているだけで、人間の域を出てはいない。僕などから見れば十分に規格外ではあるのだが、その道のプロであるかしくに言わせると、交通事故パンチは人間に出来ない真似では決して無いらしい。
力の使い方と筋肉のリミッターの外し方を知りさえすれば、後はちょっとした鍛錬で誰でも出来るようになるそうだ。
……あくまでかしくの談であり「誰でも出来るようになる」の下りは、他人の言葉を九割九分九厘鵜呑みにする純真無垢な心の持ち主である僕であってもまさか信じてはいない。けれども、それは人さえ限定すれば出来る範囲ではあるのだろう。
何より、かしくというその見本が存在する事実。そのかしくが人間であるのか疑わしい逸話であるので、これはもう、宇宙人は実在するのか、の問いに対して「地球には既に知的生命体が発生しているから、いないとは言い切れない」と返すような暴挙である事は認めるが、しかし、それにしたって生き物の境を越えてはいまい。
重量級のアフリカゾウが踏めばスポーツカーなど壊れてしまう。いとも容易く。
そういう意味で。
如月灯里は、そもそも生き物とは呼べない。
そういう意味で。
僕やかしくとは一線を画する存在だ。
似通ってはいても。根本的に違う。心を触れ合わす事は出来ても、共感は抱けない。
「ともちゃんは、アタシよりもよっぽどオカしい。アタシだって、そりゃ人並み外れているってのは認めないでもないけどさ。ただ、アタシは人から始まって、人として鍛錬して、人以上に努力して、人を越えただけ。そこに何の矛盾も無いし、回り道も近道も無い。人の道を外れなきゃアタシが求めたものにはなれなかったから、獣道を突き進んだだけなんだよ。だけどね、ともちゃんは違う」
道を外れた、外道の少女は知っている。
道どころじゃない外れ方をしているモノには、どう足掻いても届かない事。
「ともちゃんは、最初から外れてる」
世界が違う。
ステージが違う。
「アタシがなりたかったものを、ともちゃんは持ってる。アタシがどんなに努力しても、人の身で到達し得る最も高みに登ったのに、それでもともちゃんには遥か届かない。ともちゃんには勝てない。あの子にはそもそも、敗北条件が無いんだ。卑怯だよね。有り得ないよ。有り得ない。そりゃさ。ゲームでは絶対に負けないといけないバトルイベントがたまに有ったりするよ? でも、現実はゲームとは違うじゃない。なのに」
命の定義が違う。
「ともちゃんは、ゲームみたい。だって、そうでしょ?」
かしくは灯里について語る時、いつも悔しそうに歯噛みする。
「どうにかしてあげたくても、アタシにはどうしようもないもん」
如月灯里において、僕から見れば唯一同性の友人と言っても良いだろう少女はしかし、自身を灯里の友達とは決して言わない。それはきっと、僕が久人を頑なに友人と称さない辺りと事情は同じなのだろう。
同じステージに立たなければ、友情は成り立たない。
だから如月灯里は、孤独である。
それが彼女の死にたがりを加速させる。元々が寂しがりな少女は、どこまで行っても一人という現実に飽いている。
きっとそれこそ、少女が僕を恋人に選んだ理由なのだろう。いや、それ以外に僕には彼女から求愛されるいわれが無い。
そうそう、言いそびれていた。
如月灯里と僕は一年前から恋愛関係にある。
「誰でも良かった訳じゃ、無いわ」
灯里は事につけてそう言うけれども。残念ながらそうは思えない。何より、彼女はそんな事を、僕に必死に抱き付きながら訴えるのだから。
自分を騙すように。
きっと誰でも良かったのだろう。彼女の存在を受け入れさえしてくれれば。
そう、思ってしまう。
「貴方しか、いなかったというのも有るけれど」
消去法で選ぶ恋人。
恋愛なんてそれは呼ぶべきではないのかも知れない。人恋しいなんて。それは死にたがりが口にする言葉でもない。世に未練が有ったり、人に縋るくらいなら、最初から自殺志願なんて口に出しちゃいけない。
ただし、それも。灯里に関しては逆転する。せざるを得ない。彼女の置かれている境遇を鑑みれば、その思考は決して不自然ではない。
「けれど、自分たちを運命の恋人同士だと誤認している人たちは、皆同じ事を言うのでしょうね。『私には貴方しかいない』なんて。ええ、我ながらとても陳腐で空虚な言葉だと、そう思う」
勝利条件、ヒロインの死亡。
敗北条件、なし。
そういう恋愛。
だから、上刎かしくでは敵わない。腕力で全てを解決出来ると信じて疑わず生きてきたかしくにとって、死にたがりの少女は相性が悪過ぎる。
そして、それは僕にとっても同じ。僕では灯里を殺せない。僕には手を汚す事が出来ない。例えそれが恋人のためであったとしても。いや、それが果たして彼女のためなのかという疑問からもう、僕には拭えず。
結果、僕は恋人の事を分かってはあげられない。
何も分かってやれやしない。
「ねえ、それでも」
如月灯里は、僕の恋愛相手は、僕たちと住む世界が異なっている。
「私は貴方が好きよ」
いつだって、少女は僕を抱き締めながらそんな睦言を耳元で囁く。その恋心は決して報われないと知りながら。一時の慰めでしかないと知っていてなお、彼女は僕を求める。
未来はない。希望はない。僕らの恋愛には、先がない。
如月灯里は、僕の恋愛相手は、産まれてきた事がそもそもの間違いだ。
翌日も殺人鬼が捕まったというニュースが流れなかった以上、当然ながら臨時休校で。この日は昨日と違い久人から休校の連絡網が回ってきた。彼もまさか二日続けて僕を騙し通せるなどとは思ってはいないのだろう。そこまで僕の評価が低い訳でもない事に内心、ほっとしたりしなかったり。どっちだ。
いや、連絡が無かったとしても僕が学校を休んでいたのは確実だから、その連絡には実質、意味も無いのだろう。別段、学校を休む事に抵抗は無い。一般に言う「素行の良い学生」では僕はまかり間違ってもないのだから。
自主休校。この言葉は好きな四字熟語の中では五本の指に入るかも知れない。いや、冗談だし、そもそも四字熟語ですらないけれど。とは言え、僕が出席日数を浅ましくも数えていたりするのは事実であり、完璧なる欠席計画に多少のズレが今回の一件で生じてしまった事だけは、後で修正しておかなければならない。
おのれ、殺人鬼。留年とかホント笑えない。
話を戻す。久人との電話口で僕は臨時休校と共に必要外の外出を自粛するようにとのお達しが教師から回っている事も知らされていた。辛うじて強制ではないらしいものの、これは果たして事実上の戒厳令みたいなものだ。男性教員有志によって市街の見回りも行われているようで、見つかってしまえばこれはもう手間でしかないだろう。
幕末の京都みたいだなと僕がボヤくと、人殺しは教師の方じゃねえだろと返ってきた。見つかってはならない時点でどっちも同じようなものだと思うが。
まあ、いいさ。取り急ぎ外出する用事が有るで無し、自宅に篭って惰眠を貪るというのもそれはそれで嫌いじゃない。なんて考えながら再び布団に潜り込んだのが午前八時。僕としては今日一日を時間の流れに身を任せ、まるで悟り切った高野山の僧が如く心穏やかに過ごすつもりでいた。
……にも関わらず。
一体、僕は今、何をやっているのだろう。秋空の下、辺りを見回してもズラリ並んだ臨時休業の張り紙くらいしか注視するもののない、見飽きた古めかしい商店街を手を引かれて歩いている。
街の中央を貫く、駅から続く大通りであれば殺人鬼出没に沸くマスコミと警察、それに野次馬連中がたむろしていたが、一つ脇道にそれてしまえば、ああ、やはりというかそこは第一種警戒体制、アラートレッド一色だ。
コンビニすら店舗によっては臨時休業している辺りが事態の深刻さをこれでもかと僕に訴えてくる。まあ、市内で八人も、八日連続で殺されていては仕方のない対応なのかも知れない。
冗談ではなく、明日は我が身……か。
「違うよ、シロちゃん。被害者が八人だったのは今朝まで。また一人被害者見つかったから。これで九日連続」
どうも殺人鬼さんは日々増え続ける捜査員やカメラマンもなんのそので、律儀に一日一殺なさっているご様子。しかし、そんなことは僕にはどうでもいい。
ご苦労な事だ。
「あっそう。いや、何人殺されようが興味はないけれど。それよりもさ」
前を歩く少女に対して本日何度目かのお願いを繰り返す。僕個人にとっては連続殺人犯なんかよりもよっぽど切羽詰まった問題が、そこには転がっていたからだ。
「最近、寒くなってきたと思わない? あったかいコーヒーがそろそろ恋しいのに、殺人鬼絡みで喫茶店全滅とか有り得ないよ。……ねえ、この無意味なオリエンテーリングも止め時じゃないかな」
「そうだね。日付が変わったら止めよっか。コーヒーは、開いてるコンビニ見付けたらそこで奢ってあげるよん」
僕は腕時計を見た。現在時刻、午前十一時を少し過ぎたくらい。今日という日が終わるまでにはまだ半日以上も有る。もしや壊れているのではないかと疑わしい、進みの遅い短針が円をぐるりと一周しても、それでも今日が終わるには足りていない。楽しくない時間がゆっくりと流れるものなのは知っていたが、果たしてそれはここまでだっただろうか。秋も深まるこの頃は冬に片足を乗せているような気温で、肌寒いどころではないのに。
道理で紅葉も落ち始める訳だと納得する事しきりの吹き抜ける風の冷たさの中を一体僕は何をやっているのだろう。
うんざりと吐くため息も、思い起こせば朝方には白かったはずだ。流石に日が昇ってからはそこまで冷え込みもしないが、そんなの何の擁護にもなりはしない事くらい分かって貰えると思う。
子供は風の子らしいけれど、それはつまり、寒さに強いのは子供ばかりという意味でしかない。気温は二桁有るか無いか。そんな中を当てもなく歩くだけ。こんなものほとんどではなく、全くの拷問だ。僕は生粋のインドア派であり、生憎散歩の趣味は持っていない。
犬も猫も飼ってないし。
そんな僕の恨みを込めた視線もどこ吹く風で、前を歩く少女は鼻歌交じりに進んでいく。
……意外と身近に風の子は居るモンだな。
「アッタシっはかっわいっい、さーいしゅーへーいきー。へーいきーへーいきー、なっぎはっらえー」
元気いっぱいな上に、まさかのリーサルウェポン宣言。長い黒髪を束ねる事無く遊ばせている少女は、もう見るからに楽しそうだ。……そういえば、朝方にデートがどうとか言っていたっけ。
なるほど。デートならば少しくらいテンションが高くてもそれは仕方ないか。そうか、デートか。デートだったのか、これ。
……いやいやいやいや。ないないないないない。
よく考えろよ、僕。デートである訳がないじゃないか。よくある只の冗談だろう、そんなの。言い回し。狂言回しってヤツだ。まさかね。まさかそんな。ないない。僕、れっきとした彼女が他に居るし。
「かしく」
「何、シロちゃん?」
反応こそすれど振り向きはしない横着振りはきっと、流石と誉めるべきなのだろう。かつて「傍若無人ってアタシのために昔の人が創った称号っしょ?」と言い切ったその性格は一年経っても健在だ。と言うか、僕の存在が軽んじられているようにしか、その態度は取れない。
ほら、こんな扱いで異性として意識されてる訳ないってば。自意識過剰だなあ、僕。友達同士でも、親子であってもデートはデート。深い意味は無いし、段々勘繰ったら負けな気がしてきた。うん。
少女の後をとぼとぼと付いて回りながら、自分に言い聞かせてみる。
……気合いが入っているような、服装に見えるだけなんだ。そうだよ。目前の少女のファッションはむしろ際どいのがデフォルトじゃなかったか? 決して今日が特別な訳じゃないさ。
ショートパンツなんてそんなの、街を歩いていたらよく見かけるし。ニーハイソックスとの狭間に覗く健康的な太ももの煌きだとかも、今更一々反応するようなものでもないだろう? 絶対領域? 絶対なんてこの世には無いんだよ、絶対にな。ほら、もっと毅然とするんだ、僕。
「そういえばさ。今、初めて知ったんだけれど、かしく、君、最終兵器なの?」
「まあ、恋愛的な意味で?」
悪いけれど僕には最終兵器という単語と恋愛がどこをどう解釈しても結びつかない。なるほど、ここらがシナプス結合の限界らしい。
「ああ、可愛い最終兵器って歌っていたね」
「告白を断られたら肉片も残しません」
「それは告白じゃねえ! 脅迫だ!」
少女はおぞましい脳味噌をどうやらお持ちのようだった。可愛さなど、発言内容からは微塵も見当たらない。そんなの全然可愛くない。むしろ怖い。
そしてまた、かしくが言ったら冗談でも何でもない気がするので余計に陰惨な情景しか思い浮かべられない僕だった。甘酸っぱい放課後の体育館裏があっという間に血の池地獄と化すのなんて、正直願い下げ。
……いや、願い下げすると逆にアウト――血の池なのか?
「考えてもみたまえ? 恥らう乙女心に殲滅力が加味されたら、そうなってくるのはむしろ自明だよ、ワトソン君。恋って恥ずかしいじゃん。失恋って恥ずかしいじゃん。恥ずかしい過去を知ってる人なんて居たら、一人残らず口封じしたくなるのは自然な事だと思うぜい」
「誰がワトソンだ」
僕は溜息を吐いた。そして恥ずかしい過去を知っている人間をすべからく抹殺してたら、恋する乙女はそれこそ殺人鬼候補だろ、馬鹿。
「それにかしく、君はホームズって柄じゃあ無いよ」
大体、こんなヤツが探偵役に抜擢されたら密室も不可能犯罪も何も成り立ちはしない。全て力技ってオチが付くに決まっている。それほどかしくの身体能力は桁外れなのだから。
鍵が無ければ拳を振るえば良いじゃない。そんな推理小説なんて僕なら読みたくない。
「何、寝惚けた事言ってるの? シロちゃんらしくないなー。ワトソンの相手はアタシじゃないでしょ」
ワトソンの相手? ああ、ホームズの事か。でもどちらかと言えばホームズの相手がワトソン、って言い方の方がしっくりくるな、僕なら。
「男同士でないと、それは意味が無いしね」
かしくの言葉に思わずこめかみを押さえ込む僕だった。
「……何の話だったかな?」
「えーっと、ワトソン掛けるホームズって実は結構需要有るんだよ、って話じゃなかった?」
「それは違うと言い切れるな!」
初耳だよ! 義経と弁慶の話の時にも思ったけれど何だってアリなのか、腐乱系女子っていうのは!? 雑食もここまできたら大したものだと思うがしかし、だけど僕はそれを決して褒められない!
「ねえ、シロちゃん」
「なんだよ」
「話は変わるけどさ。いや、大筋は変わらないんだけど。殺人鬼ってなんで人を殺すのかな?」
僕は即答した。
「そんなもの、そういう風に出来ているからに決まっている」
失恋の恥ずかしい過去を抹消したいから、ではきっと無いだろうし。
「殺人鬼だから人を殺すのか。人を殺すから殺人鬼なのか。世間的には後者だろうけれどね。でも、そこには前後が有るだけで、それは結局、殺人鬼本人には関係の無い話なのだろうと僕は思うよ。何にしろね。人を殺さないなら殺人鬼じゃない。それだけは確か」
「凶行に及ぶ理由を説明してないよ、シロちゃん」
「理由? 世の中に理由が不要なものなんか幾らでも有る。本能って呼ばれてる類は大体そう。ソイツが人を殺す理由なんか僕は知らないけれど、殺人鬼ならそれは本能じゃないと殺人鬼とは呼べない。そうだろう?」
鬼の存在に理由を求めるのが無意味なのと同じ。
それは「そういうもの」だと。認めて識(シ)る事しか出来ないのだ、僕らには。
「理由が無いって事は、アタシが男同士の恋愛にときめきを感じるのと同じ訳だ! あー、なんか途端にソイツに親近感覚えちゃった!」
それは殺人鬼にとっても迷惑な話だろうなあ。
「理由が無いから、目的も無い。……いつぞやの鬼と同じさ」
いや、ソイツが本当に殺人鬼だとするのなら、だけど。そう僕は付け足す。そこで唐突にかしくは足を止めた。振り向いて僕を見る。中々見られない、演技無しの真剣な表情だった。
「そういえばさ。お願いなんだけど、今度は手を出さないで欲しいんだよね」
少女はそう言った。話の流れで彼女の言いたい事は理解出来て。
上刎かしくは悔いている。
一年前の生き汚い自分自身を。
「分かってるよ。今度はもう横槍を入れない」
「アタシが死んでも。死骸を無茶苦茶に蹂躙されて原型がなくなるまでは、黙って見ていて」
「心得てる」
「あんな格好悪い真似はもう、まっぴら」
唇を噛み締めた少女の横顔を見て、僕は得心入った。
殺人鬼。
鬼。
上刎かしくが待ち望んだ、一年間待ち焦がれたもの。その襲来に高揚している理由。それは過去の払拭に他ならない。言うなれば、弔い合戦。
一度死んでしまった少女の心根。今のかしくは支えの無い、吹けば飛ぶような存在だ。
「かしく」
「何?」
「言っておく。君が死のうが生きようが、僕はそこに何の興味も感慨も無いよ」
「酷いなー。でも、知ってる。シロちゃん。アタシはそんな薄情なシロちゃんだから、今日、こうやって一緒に殺人鬼を捜す相方に選んだんだし。……そんな不機嫌な顔しないでよ」
まったく迷惑な話だ。殺人鬼にとっては勿論、僕にとっても。
「それでさ。話は戻るけど、ソイツってどこに行けば会えると思う?」
「本当に喧嘩する気なんだ、かしく?」
「とーっぜんデス!」
「久人じゃないけどさ。何? 死にたいの?」
「違う違う。まるで逆。アタシがアタシとして生きたいだけ。負けっ放しじゃ返れない」
どうやら「ソイツ」は、力だけを拠り所にして生きてきた彼女が芯を取り戻すための儀式の出汁に使われるらしい。鬼と呼ばれた、ただそれだけの理由で。
「アタシがアタシに、返れない」
返る。
立ち返る。
「あっそ。悪いけど僕には殺人鬼の心境なんて分からないな。だから、今ソイツがどこをさ迷っているのかなんて見当もつかない。それこそ、警察の専門家にでも聞いてみた方が早いんじゃないのかい? ま、一般女子高校生に詳しく話して貰えるかはさて置いといて、ね」
ポケットに両手を突っ込みながら何も考えずにそう口にする。少女は頬を膨らませた。むくれ顔は魅力的ではあるが、残念ながらそれが演技とバレていて場合は効果が薄い。
整った顔立ちの彼女はどんな表情であっても大層、様にはなる。それにしたって意識して作った顔にはどこか不自然さが残るものだ。
「そっけないなー」
「あのね、かしく」
僕は苦笑する。
「好奇心が疼かない以上、僕は殺人鬼に関心なんてこれっぽっちも無いんだよ。誰が誰を殺そうが、誰に誰が殺されようが、そんなものは勝手にしてくれ」
それこそ、僕自身が明日殺人鬼に殺されようが。僕の恋人が明後日殺人鬼に殺されようが。そんな事に興味は無い。
「正義の心とかが騒いだりしないの?」
「僕は正義の味方じゃない」
「あらら、ノリ悪っ。少しはアタシを見習いなよ。巷を騒がす連続殺人犯の謎に挑む、可憐な女子高生! うわっ、これはハリウッドで映画化決定だぜ!?」
そんな地味な話がハリウッドまで行くか。いいとこ二時間ドラマ止まりだ。
「どの口が言うに事欠いて正義の味方、だよ。それにそんなのが出て来るような話にしちゃ、これはもう完全に殺され過ぎだろ」
八人とか、どう考えてもヒーローがサボってるとしか思えない。いや、九人だっけ?
何人だろうと正直、心底どうでもいい。溜息が事ある毎にこぼれ出る。僕の幸せは今朝から逃げっ放しだ。
「……はーあ、仕方ない。今回の連続殺人事件について、知ってる事を教えてよ、かしく」
「あり? ありあり? ありりりり? 今までの文脈から考えてシロちゃんは非協力的なんだと思っていたのだけど、この会話のどこに手のひらを返す要素が有ったの?」
「手のひらはずっと裏向きのまんま。さっさとこの馬鹿げた事件を終わらせて、家に帰りたいだけだ」
このままずるずると殺人鬼が殺し続けようものならば、その間僕はずっとかしくに連れ回される羽目になるだろう。それだけは避けたかった。今日は晴れているからまだ良い。けれど、これが雨の日にも行われるとなったら、想像するだけで気落ちしてしまう。
低気圧の日は猫と一緒で眠くなるんだ。
そんな僕の要請を受けて、かしくは肩に掛けていた黒いレース縁取りのポシェットから一冊のメモ帳を取り出し、それを睨み付けた。キャラクターもの、それも流行のゆるキャラとやらだろう――捜査メモにしてはちょっとファンシー過ぎる。減点。やっぱり少女はハリウッド映画の主演女優には成り得ない。
「で? 何から聞きたい?」
正直に言えば、何も聞きたくない。早々にホットコーヒーに有り付きたいが、これが乗りかかった船とやらか。いや、乗ったのは自分の意思じゃないから人さらい船だ。
返す返す本当に、僕の友人にはロクなヤツがいないじゃないか。
「そうだね。とりあえず犯行時刻から聞いておこうかな」
「そういうのは本職しか知らないでしょ。ニュースで報道された時間帯からの逆算しかアタシには出来ないよ」
「それで構わない」
「分かった。ええと……朝のニュースでの追加報道が多いみたい。死体が見つかってるのが明け方って事なんだと思われますです、ハイ。だから、犯行は夜から朝に掛けてが多いんだろうねえ。あ、でも夕方、ってのも二件有る。お昼のニュースでも一件。時間帯に拘りは無いっぽい?」
「夜が多いのはただ、人目に付きにくいってそれだけなんだろう。人目に付かなければ朝でも昼でもお構い無しなのさ。多分ね」
あるいは、ただ偶然にソイツが殺したい時に辺りで一人しか歩いていなかったのか。そっちの方が殺人鬼の仕業としてはしっくり来る。いや、これは考え過ぎかも知れない。
僕の中に有る理想の殺人鬼像を現実に押し付けてどうする、僕?
「報道では被害者に共通点は特に無い事になってる。男女問わず、年齢構わず。好感持てるよね。無差別、ってそうじゃないと。なにせ殺人鬼。鬼なんだし?」
その発言が常識外れな事に、恐らく少女は気付いていないんだろう。普通は、殺人鬼に好感を持ったりなどしない。それは忌み嫌われる存在だから。
けれど、僕らは普通じゃない。
ああ、確かにそれはかしくじゃないけど好感が持てる話だ。殺人鬼が殺す対象を選別してるなんて、そんな話はつまらない。選別や差別が好きなのは人間くらいで十分だし。
鬼にそういう人間らしさは似合わない。
「……続けて」
「あいさ。って言っても後は殺害現場くらいしか情報は無いんだけどねー。なんか市街地に集中してるんだとさ。半径四キロ圏内、だったかな? ニュースの受け売りだけど」
「四キロ圏内で、九人?」
「そ。直径で八キロ。結構狭いよ、これ。シロちゃんが思ってるよりも大分、非常事態でしょ。うん」
八キロ。余り地元に明るくはないが、それでも駅を中心に円を書いたとして周辺最寄り駅が入るかどうかって距離なのはぼんやりと分かった。つまり、ギリギリの徒歩圏内となる。
そしてこれは、僕が通っている高校の学生における行動範囲と完全に重複するだろう。
「へえ、それは確かに。最初、戒厳令じみた外出自粛には、大げさだな、って思ってたけど」
「自粛じゃなくて禁止になっても、オカしくないレベルじゃない、実際?」
「だね」
そう相槌を打つと、そっぽから更に合いの手が入った。
「そうです。ですから、君達は早く帰宅するべきなのに、一体何をやっているのですか? 馬鹿ですか? 死にたいのですか? いえ、今すぐに先生の手で殺すべきでしょうか?」
物騒な台詞に、似合わない優しげな声。その持ち主には痛いほど心当たりが有る。
「……この声は」
「うわ……見つかっちゃった……」
僕とかしくはそろりそろり、おっかなびっくり声がした方向を振り向く。そこには想像通りの顔と黒スーツがあった。彼は眼鏡を中指で押し上げると薄目で僕ら二人を交互に睨み付けた。
「上刎さん。角隠くん。男性教員有志が見回りをしているという話は聞いていますね」
「らしいね」
「……存知あげてオリマス……」
「なら、ここで殺されても文句はないですね」
「まさかの先生が連続殺人犯ですか!?」
……かしく。頼むから空気を読んで発言してくれ……頼むから。
「いえ、先生は殺人鬼ではないので社会的に抹殺します。法に則っての処刑ですから、安心して下さい、上刎さん」
「安心出来ない! ちっとも安心出来る要素が無いデスよ、先生っ!?」
「と、まあ……出会い頭の軽口はこの辺りにしておくとしましょうか」
そう言って、男性教員有志――天野は眼鏡を外した。
スイッチオン。
「よう、餓鬼ども。今日も楽しそうじゃねえか。糞っ垂れな青春を謳歌してるようで、センセとしちゃそりゃ結構な事だが……だが、何してんだ、糞餓鬼。お家に篭ってブルブル震えてろ、ってお達しが聞こえてないようだから、耳の穴二、三増やしてやろうか? ああ? よく聞こえるように頭蓋骨に穴空けての脳味噌直通にしてやんぜ?」
……いつ聞いてもこの口の悪さは、教師の言葉とは思えない。黒スーツ姿も相まって、その筋の人にしか見えんがアンタはそれで良いのか、天野先生?
「お前らが問題起こすと、誰が迷惑するか知ってっか? 何でだろうな、ソイツは担任の評価ってのに響いてくんだよ。ホント、なんでか理解出来ねえけど、そういう風に社会ってのは作られていやがる。おい、それくらいは幾ら向こう見ずで弩の付くお前らみたいな馬鹿でも知ってんよなあ? つまりだ。お前らが今やってる興味本位の徘徊は、センセにとってみりゃ敵対行為なんだよ。なあ、上刎。角隠。お前ら敵か? 獅子、身中の虫ってヤツか? あーあ、センセのクラスは真面目な良い子ちゃんばっかだと思ってたのによお。手を汚すのは趣味じゃないんだが、敵は徹底的に殲滅するのが俺の信条でなあ。悪いが、餓鬼ども」
そこで一呼吸。僕たちの担任は眼鏡を着ける。
スイッチオフ。
「仲良く、死んで頂けないでしょうか?」
「……天野センセ、いつもながらその二重人格っぷりはなんとかならないんですか?」
「いえいえ、間違いですよ、上刎さん。先生は二重人格などではありません。どうかそんな安っぽいキャラ設定を僕に強要しないで頂けますか」
「いや、確かに性格は変わってないけど……」
眼鏡を掛けている時は営業モード。教職というのも、それはそれで一種のサービス業なのだといつだったか天野が僕にこぼした事が有ったのを思い出す。それにしたって性根が腐り果てているのは間違いないし、喋り方がマイルドになっただけで言ってる事は無茶苦茶だ。
いや、連絡が無かったとしても僕が学校を休んでいたのは確実だから、その連絡には実質、意味も無いのだろう。別段、学校を休む事に抵抗は無い。一般に言う「素行の良い学生」では僕はまかり間違ってもないのだから。
自主休校。この言葉は好きな四字熟語の中では五本の指に入るかも知れない。いや、冗談だし、そもそも四字熟語ですらないけれど。とは言え、僕が出席日数を浅ましくも数えていたりするのは事実であり、完璧なる欠席計画に多少のズレが今回の一件で生じてしまった事だけは、後で修正しておかなければならない。
おのれ、殺人鬼。留年とかホント笑えない。
話を戻す。久人との電話口で僕は臨時休校と共に必要外の外出を自粛するようにとのお達しが教師から回っている事も知らされていた。辛うじて強制ではないらしいものの、これは果たして事実上の戒厳令みたいなものだ。男性教員有志によって市街の見回りも行われているようで、見つかってしまえばこれはもう手間でしかないだろう。
幕末の京都みたいだなと僕がボヤくと、人殺しは教師の方じゃねえだろと返ってきた。見つかってはならない時点でどっちも同じようなものだと思うが。
まあ、いいさ。取り急ぎ外出する用事が有るで無し、自宅に篭って惰眠を貪るというのもそれはそれで嫌いじゃない。なんて考えながら再び布団に潜り込んだのが午前八時。僕としては今日一日を時間の流れに身を任せ、まるで悟り切った高野山の僧が如く心穏やかに過ごすつもりでいた。
……にも関わらず。
一体、僕は今、何をやっているのだろう。秋空の下、辺りを見回してもズラリ並んだ臨時休業の張り紙くらいしか注視するもののない、見飽きた古めかしい商店街を手を引かれて歩いている。
街の中央を貫く、駅から続く大通りであれば殺人鬼出没に沸くマスコミと警察、それに野次馬連中がたむろしていたが、一つ脇道にそれてしまえば、ああ、やはりというかそこは第一種警戒体制、アラートレッド一色だ。
コンビニすら店舗によっては臨時休業している辺りが事態の深刻さをこれでもかと僕に訴えてくる。まあ、市内で八人も、八日連続で殺されていては仕方のない対応なのかも知れない。
冗談ではなく、明日は我が身……か。
「違うよ、シロちゃん。被害者が八人だったのは今朝まで。また一人被害者見つかったから。これで九日連続」
どうも殺人鬼さんは日々増え続ける捜査員やカメラマンもなんのそので、律儀に一日一殺なさっているご様子。しかし、そんなことは僕にはどうでもいい。
ご苦労な事だ。
「あっそう。いや、何人殺されようが興味はないけれど。それよりもさ」
前を歩く少女に対して本日何度目かのお願いを繰り返す。僕個人にとっては連続殺人犯なんかよりもよっぽど切羽詰まった問題が、そこには転がっていたからだ。
「最近、寒くなってきたと思わない? あったかいコーヒーがそろそろ恋しいのに、殺人鬼絡みで喫茶店全滅とか有り得ないよ。……ねえ、この無意味なオリエンテーリングも止め時じゃないかな」
「そうだね。日付が変わったら止めよっか。コーヒーは、開いてるコンビニ見付けたらそこで奢ってあげるよん」
僕は腕時計を見た。現在時刻、午前十一時を少し過ぎたくらい。今日という日が終わるまでにはまだ半日以上も有る。もしや壊れているのではないかと疑わしい、進みの遅い短針が円をぐるりと一周しても、それでも今日が終わるには足りていない。楽しくない時間がゆっくりと流れるものなのは知っていたが、果たしてそれはここまでだっただろうか。秋も深まるこの頃は冬に片足を乗せているような気温で、肌寒いどころではないのに。
道理で紅葉も落ち始める訳だと納得する事しきりの吹き抜ける風の冷たさの中を一体僕は何をやっているのだろう。
うんざりと吐くため息も、思い起こせば朝方には白かったはずだ。流石に日が昇ってからはそこまで冷え込みもしないが、そんなの何の擁護にもなりはしない事くらい分かって貰えると思う。
子供は風の子らしいけれど、それはつまり、寒さに強いのは子供ばかりという意味でしかない。気温は二桁有るか無いか。そんな中を当てもなく歩くだけ。こんなものほとんどではなく、全くの拷問だ。僕は生粋のインドア派であり、生憎散歩の趣味は持っていない。
犬も猫も飼ってないし。
そんな僕の恨みを込めた視線もどこ吹く風で、前を歩く少女は鼻歌交じりに進んでいく。
……意外と身近に風の子は居るモンだな。
「アッタシっはかっわいっい、さーいしゅーへーいきー。へーいきーへーいきー、なっぎはっらえー」
元気いっぱいな上に、まさかのリーサルウェポン宣言。長い黒髪を束ねる事無く遊ばせている少女は、もう見るからに楽しそうだ。……そういえば、朝方にデートがどうとか言っていたっけ。
なるほど。デートならば少しくらいテンションが高くてもそれは仕方ないか。そうか、デートか。デートだったのか、これ。
……いやいやいやいや。ないないないないない。
よく考えろよ、僕。デートである訳がないじゃないか。よくある只の冗談だろう、そんなの。言い回し。狂言回しってヤツだ。まさかね。まさかそんな。ないない。僕、れっきとした彼女が他に居るし。
「かしく」
「何、シロちゃん?」
反応こそすれど振り向きはしない横着振りはきっと、流石と誉めるべきなのだろう。かつて「傍若無人ってアタシのために昔の人が創った称号っしょ?」と言い切ったその性格は一年経っても健在だ。と言うか、僕の存在が軽んじられているようにしか、その態度は取れない。
ほら、こんな扱いで異性として意識されてる訳ないってば。自意識過剰だなあ、僕。友達同士でも、親子であってもデートはデート。深い意味は無いし、段々勘繰ったら負けな気がしてきた。うん。
少女の後をとぼとぼと付いて回りながら、自分に言い聞かせてみる。
……気合いが入っているような、服装に見えるだけなんだ。そうだよ。目前の少女のファッションはむしろ際どいのがデフォルトじゃなかったか? 決して今日が特別な訳じゃないさ。
ショートパンツなんてそんなの、街を歩いていたらよく見かけるし。ニーハイソックスとの狭間に覗く健康的な太ももの煌きだとかも、今更一々反応するようなものでもないだろう? 絶対領域? 絶対なんてこの世には無いんだよ、絶対にな。ほら、もっと毅然とするんだ、僕。
「そういえばさ。今、初めて知ったんだけれど、かしく、君、最終兵器なの?」
「まあ、恋愛的な意味で?」
悪いけれど僕には最終兵器という単語と恋愛がどこをどう解釈しても結びつかない。なるほど、ここらがシナプス結合の限界らしい。
「ああ、可愛い最終兵器って歌っていたね」
「告白を断られたら肉片も残しません」
「それは告白じゃねえ! 脅迫だ!」
少女はおぞましい脳味噌をどうやらお持ちのようだった。可愛さなど、発言内容からは微塵も見当たらない。そんなの全然可愛くない。むしろ怖い。
そしてまた、かしくが言ったら冗談でも何でもない気がするので余計に陰惨な情景しか思い浮かべられない僕だった。甘酸っぱい放課後の体育館裏があっという間に血の池地獄と化すのなんて、正直願い下げ。
……いや、願い下げすると逆にアウト――血の池なのか?
「考えてもみたまえ? 恥らう乙女心に殲滅力が加味されたら、そうなってくるのはむしろ自明だよ、ワトソン君。恋って恥ずかしいじゃん。失恋って恥ずかしいじゃん。恥ずかしい過去を知ってる人なんて居たら、一人残らず口封じしたくなるのは自然な事だと思うぜい」
「誰がワトソンだ」
僕は溜息を吐いた。そして恥ずかしい過去を知っている人間をすべからく抹殺してたら、恋する乙女はそれこそ殺人鬼候補だろ、馬鹿。
「それにかしく、君はホームズって柄じゃあ無いよ」
大体、こんなヤツが探偵役に抜擢されたら密室も不可能犯罪も何も成り立ちはしない。全て力技ってオチが付くに決まっている。それほどかしくの身体能力は桁外れなのだから。
鍵が無ければ拳を振るえば良いじゃない。そんな推理小説なんて僕なら読みたくない。
「何、寝惚けた事言ってるの? シロちゃんらしくないなー。ワトソンの相手はアタシじゃないでしょ」
ワトソンの相手? ああ、ホームズの事か。でもどちらかと言えばホームズの相手がワトソン、って言い方の方がしっくりくるな、僕なら。
「男同士でないと、それは意味が無いしね」
かしくの言葉に思わずこめかみを押さえ込む僕だった。
「……何の話だったかな?」
「えーっと、ワトソン掛けるホームズって実は結構需要有るんだよ、って話じゃなかった?」
「それは違うと言い切れるな!」
初耳だよ! 義経と弁慶の話の時にも思ったけれど何だってアリなのか、腐乱系女子っていうのは!? 雑食もここまできたら大したものだと思うがしかし、だけど僕はそれを決して褒められない!
「ねえ、シロちゃん」
「なんだよ」
「話は変わるけどさ。いや、大筋は変わらないんだけど。殺人鬼ってなんで人を殺すのかな?」
僕は即答した。
「そんなもの、そういう風に出来ているからに決まっている」
失恋の恥ずかしい過去を抹消したいから、ではきっと無いだろうし。
「殺人鬼だから人を殺すのか。人を殺すから殺人鬼なのか。世間的には後者だろうけれどね。でも、そこには前後が有るだけで、それは結局、殺人鬼本人には関係の無い話なのだろうと僕は思うよ。何にしろね。人を殺さないなら殺人鬼じゃない。それだけは確か」
「凶行に及ぶ理由を説明してないよ、シロちゃん」
「理由? 世の中に理由が不要なものなんか幾らでも有る。本能って呼ばれてる類は大体そう。ソイツが人を殺す理由なんか僕は知らないけれど、殺人鬼ならそれは本能じゃないと殺人鬼とは呼べない。そうだろう?」
鬼の存在に理由を求めるのが無意味なのと同じ。
それは「そういうもの」だと。認めて識(シ)る事しか出来ないのだ、僕らには。
「理由が無いって事は、アタシが男同士の恋愛にときめきを感じるのと同じ訳だ! あー、なんか途端にソイツに親近感覚えちゃった!」
それは殺人鬼にとっても迷惑な話だろうなあ。
「理由が無いから、目的も無い。……いつぞやの鬼と同じさ」
いや、ソイツが本当に殺人鬼だとするのなら、だけど。そう僕は付け足す。そこで唐突にかしくは足を止めた。振り向いて僕を見る。中々見られない、演技無しの真剣な表情だった。
「そういえばさ。お願いなんだけど、今度は手を出さないで欲しいんだよね」
少女はそう言った。話の流れで彼女の言いたい事は理解出来て。
上刎かしくは悔いている。
一年前の生き汚い自分自身を。
「分かってるよ。今度はもう横槍を入れない」
「アタシが死んでも。死骸を無茶苦茶に蹂躙されて原型がなくなるまでは、黙って見ていて」
「心得てる」
「あんな格好悪い真似はもう、まっぴら」
唇を噛み締めた少女の横顔を見て、僕は得心入った。
殺人鬼。
鬼。
上刎かしくが待ち望んだ、一年間待ち焦がれたもの。その襲来に高揚している理由。それは過去の払拭に他ならない。言うなれば、弔い合戦。
一度死んでしまった少女の心根。今のかしくは支えの無い、吹けば飛ぶような存在だ。
「かしく」
「何?」
「言っておく。君が死のうが生きようが、僕はそこに何の興味も感慨も無いよ」
「酷いなー。でも、知ってる。シロちゃん。アタシはそんな薄情なシロちゃんだから、今日、こうやって一緒に殺人鬼を捜す相方に選んだんだし。……そんな不機嫌な顔しないでよ」
まったく迷惑な話だ。殺人鬼にとっては勿論、僕にとっても。
「それでさ。話は戻るけど、ソイツってどこに行けば会えると思う?」
「本当に喧嘩する気なんだ、かしく?」
「とーっぜんデス!」
「久人じゃないけどさ。何? 死にたいの?」
「違う違う。まるで逆。アタシがアタシとして生きたいだけ。負けっ放しじゃ返れない」
どうやら「ソイツ」は、力だけを拠り所にして生きてきた彼女が芯を取り戻すための儀式の出汁に使われるらしい。鬼と呼ばれた、ただそれだけの理由で。
「アタシがアタシに、返れない」
返る。
立ち返る。
「あっそ。悪いけど僕には殺人鬼の心境なんて分からないな。だから、今ソイツがどこをさ迷っているのかなんて見当もつかない。それこそ、警察の専門家にでも聞いてみた方が早いんじゃないのかい? ま、一般女子高校生に詳しく話して貰えるかはさて置いといて、ね」
ポケットに両手を突っ込みながら何も考えずにそう口にする。少女は頬を膨らませた。むくれ顔は魅力的ではあるが、残念ながらそれが演技とバレていて場合は効果が薄い。
整った顔立ちの彼女はどんな表情であっても大層、様にはなる。それにしたって意識して作った顔にはどこか不自然さが残るものだ。
「そっけないなー」
「あのね、かしく」
僕は苦笑する。
「好奇心が疼かない以上、僕は殺人鬼に関心なんてこれっぽっちも無いんだよ。誰が誰を殺そうが、誰に誰が殺されようが、そんなものは勝手にしてくれ」
それこそ、僕自身が明日殺人鬼に殺されようが。僕の恋人が明後日殺人鬼に殺されようが。そんな事に興味は無い。
「正義の心とかが騒いだりしないの?」
「僕は正義の味方じゃない」
「あらら、ノリ悪っ。少しはアタシを見習いなよ。巷を騒がす連続殺人犯の謎に挑む、可憐な女子高生! うわっ、これはハリウッドで映画化決定だぜ!?」
そんな地味な話がハリウッドまで行くか。いいとこ二時間ドラマ止まりだ。
「どの口が言うに事欠いて正義の味方、だよ。それにそんなのが出て来るような話にしちゃ、これはもう完全に殺され過ぎだろ」
八人とか、どう考えてもヒーローがサボってるとしか思えない。いや、九人だっけ?
何人だろうと正直、心底どうでもいい。溜息が事ある毎にこぼれ出る。僕の幸せは今朝から逃げっ放しだ。
「……はーあ、仕方ない。今回の連続殺人事件について、知ってる事を教えてよ、かしく」
「あり? ありあり? ありりりり? 今までの文脈から考えてシロちゃんは非協力的なんだと思っていたのだけど、この会話のどこに手のひらを返す要素が有ったの?」
「手のひらはずっと裏向きのまんま。さっさとこの馬鹿げた事件を終わらせて、家に帰りたいだけだ」
このままずるずると殺人鬼が殺し続けようものならば、その間僕はずっとかしくに連れ回される羽目になるだろう。それだけは避けたかった。今日は晴れているからまだ良い。けれど、これが雨の日にも行われるとなったら、想像するだけで気落ちしてしまう。
低気圧の日は猫と一緒で眠くなるんだ。
そんな僕の要請を受けて、かしくは肩に掛けていた黒いレース縁取りのポシェットから一冊のメモ帳を取り出し、それを睨み付けた。キャラクターもの、それも流行のゆるキャラとやらだろう――捜査メモにしてはちょっとファンシー過ぎる。減点。やっぱり少女はハリウッド映画の主演女優には成り得ない。
「で? 何から聞きたい?」
正直に言えば、何も聞きたくない。早々にホットコーヒーに有り付きたいが、これが乗りかかった船とやらか。いや、乗ったのは自分の意思じゃないから人さらい船だ。
返す返す本当に、僕の友人にはロクなヤツがいないじゃないか。
「そうだね。とりあえず犯行時刻から聞いておこうかな」
「そういうのは本職しか知らないでしょ。ニュースで報道された時間帯からの逆算しかアタシには出来ないよ」
「それで構わない」
「分かった。ええと……朝のニュースでの追加報道が多いみたい。死体が見つかってるのが明け方って事なんだと思われますです、ハイ。だから、犯行は夜から朝に掛けてが多いんだろうねえ。あ、でも夕方、ってのも二件有る。お昼のニュースでも一件。時間帯に拘りは無いっぽい?」
「夜が多いのはただ、人目に付きにくいってそれだけなんだろう。人目に付かなければ朝でも昼でもお構い無しなのさ。多分ね」
あるいは、ただ偶然にソイツが殺したい時に辺りで一人しか歩いていなかったのか。そっちの方が殺人鬼の仕業としてはしっくり来る。いや、これは考え過ぎかも知れない。
僕の中に有る理想の殺人鬼像を現実に押し付けてどうする、僕?
「報道では被害者に共通点は特に無い事になってる。男女問わず、年齢構わず。好感持てるよね。無差別、ってそうじゃないと。なにせ殺人鬼。鬼なんだし?」
その発言が常識外れな事に、恐らく少女は気付いていないんだろう。普通は、殺人鬼に好感を持ったりなどしない。それは忌み嫌われる存在だから。
けれど、僕らは普通じゃない。
ああ、確かにそれはかしくじゃないけど好感が持てる話だ。殺人鬼が殺す対象を選別してるなんて、そんな話はつまらない。選別や差別が好きなのは人間くらいで十分だし。
鬼にそういう人間らしさは似合わない。
「……続けて」
「あいさ。って言っても後は殺害現場くらいしか情報は無いんだけどねー。なんか市街地に集中してるんだとさ。半径四キロ圏内、だったかな? ニュースの受け売りだけど」
「四キロ圏内で、九人?」
「そ。直径で八キロ。結構狭いよ、これ。シロちゃんが思ってるよりも大分、非常事態でしょ。うん」
八キロ。余り地元に明るくはないが、それでも駅を中心に円を書いたとして周辺最寄り駅が入るかどうかって距離なのはぼんやりと分かった。つまり、ギリギリの徒歩圏内となる。
そしてこれは、僕が通っている高校の学生における行動範囲と完全に重複するだろう。
「へえ、それは確かに。最初、戒厳令じみた外出自粛には、大げさだな、って思ってたけど」
「自粛じゃなくて禁止になっても、オカしくないレベルじゃない、実際?」
「だね」
そう相槌を打つと、そっぽから更に合いの手が入った。
「そうです。ですから、君達は早く帰宅するべきなのに、一体何をやっているのですか? 馬鹿ですか? 死にたいのですか? いえ、今すぐに先生の手で殺すべきでしょうか?」
物騒な台詞に、似合わない優しげな声。その持ち主には痛いほど心当たりが有る。
「……この声は」
「うわ……見つかっちゃった……」
僕とかしくはそろりそろり、おっかなびっくり声がした方向を振り向く。そこには想像通りの顔と黒スーツがあった。彼は眼鏡を中指で押し上げると薄目で僕ら二人を交互に睨み付けた。
「上刎さん。角隠くん。男性教員有志が見回りをしているという話は聞いていますね」
「らしいね」
「……存知あげてオリマス……」
「なら、ここで殺されても文句はないですね」
「まさかの先生が連続殺人犯ですか!?」
……かしく。頼むから空気を読んで発言してくれ……頼むから。
「いえ、先生は殺人鬼ではないので社会的に抹殺します。法に則っての処刑ですから、安心して下さい、上刎さん」
「安心出来ない! ちっとも安心出来る要素が無いデスよ、先生っ!?」
「と、まあ……出会い頭の軽口はこの辺りにしておくとしましょうか」
そう言って、男性教員有志――天野は眼鏡を外した。
スイッチオン。
「よう、餓鬼ども。今日も楽しそうじゃねえか。糞っ垂れな青春を謳歌してるようで、センセとしちゃそりゃ結構な事だが……だが、何してんだ、糞餓鬼。お家に篭ってブルブル震えてろ、ってお達しが聞こえてないようだから、耳の穴二、三増やしてやろうか? ああ? よく聞こえるように頭蓋骨に穴空けての脳味噌直通にしてやんぜ?」
……いつ聞いてもこの口の悪さは、教師の言葉とは思えない。黒スーツ姿も相まって、その筋の人にしか見えんがアンタはそれで良いのか、天野先生?
「お前らが問題起こすと、誰が迷惑するか知ってっか? 何でだろうな、ソイツは担任の評価ってのに響いてくんだよ。ホント、なんでか理解出来ねえけど、そういう風に社会ってのは作られていやがる。おい、それくらいは幾ら向こう見ずで弩の付くお前らみたいな馬鹿でも知ってんよなあ? つまりだ。お前らが今やってる興味本位の徘徊は、センセにとってみりゃ敵対行為なんだよ。なあ、上刎。角隠。お前ら敵か? 獅子、身中の虫ってヤツか? あーあ、センセのクラスは真面目な良い子ちゃんばっかだと思ってたのによお。手を汚すのは趣味じゃないんだが、敵は徹底的に殲滅するのが俺の信条でなあ。悪いが、餓鬼ども」
そこで一呼吸。僕たちの担任は眼鏡を着ける。
スイッチオフ。
「仲良く、死んで頂けないでしょうか?」
「……天野センセ、いつもながらその二重人格っぷりはなんとかならないんですか?」
「いえいえ、間違いですよ、上刎さん。先生は二重人格などではありません。どうかそんな安っぽいキャラ設定を僕に強要しないで頂けますか」
「いや、確かに性格は変わってないけど……」
眼鏡を掛けている時は営業モード。教職というのも、それはそれで一種のサービス業なのだといつだったか天野が僕にこぼした事が有ったのを思い出す。それにしたって性根が腐り果てているのは間違いないし、喋り方がマイルドになっただけで言ってる事は無茶苦茶だ。
「天野」
「何でしょうか、角隠くん」
「アンタの事だ。僕らが何をやろうとしているのかは、察してるんだろ?」
「ええ、まあ」
彼は額に中指と人差し指を当てて、首を振る。
「大方、殺人鬼をとっちめようと上刎さんが息巻いていて、角隠くんはそれに嫌々付き合わされているのでしょう。違いますか?」
「当たり」
「まあ、予想通りですね。二人の性格と、今の市内の状況を鑑みればそれくらいは自ずと導き出せます。さて、先生がそこまで読めている以上、角隠くんも先生が次に何を言い出そうとしているのかは分かりますよね?」
分かるとも。付き合いは深くはなくとも、決して浅くもない。
「他の教師には見つかるな、だよな。分かってる」
「結構です。くれぐれも先生の評判だけは落とさないようにして下さい。そう難しい注文では無いはずです。僕以外の方々は殺人鬼が怖いのですよ。有志による見回り、とは建前でしかありません。早々に切り上げたいというのが彼らの本音でしょうから。特に日が暮れてからは僕くらいしか見回りもいません。注意していれば出会う事も無いでしょう」
嘆息して、天野はかしくの頭を撫でた。少女よりも頭一つ分背の高い彼が行うそれは、とても自然な行為に見える。普段は髪を触られる事を嫌うかしくも、その手からは逃げようとしなかった。
きっと敵意や害意が皆無な事を少女も理解しているからだろう。純然たる慈しみから出た右手であれば、それを振り払うのは失礼でしかない。
「彼らは教師の本分よりも、自分の身が可愛いようでして。いえ、それは仕方の無い事なのでしょう、きっと。上刎さん、先生は貴女の事を信頼していますが、どうか無茶はなさらないで下さいね。生徒に死なれるのは、僕がとても悲しい」
優しい目で少女を見つめる、彼は大人だ。僕らよりも、よほど。
「分かってるよ、センセ」
「……止めないんだな、天野」
「ええ。正直に言えば休校が余り長引いて貰っては困るのです。僕の受け持っている生徒の中に一人、出席日数の厳しい子が居まして」
名指しはしないまでも、それは僕の事で間違いないな。
「上刎さんと角隠くんなら、滅多な事でもない限り大丈夫だとも思いますから。だって」
そこで一呼吸。
「たかが殺人鬼、でしょう?」
「ああ」
僕はソイツに向かって頷いた。
「たかが殺人鬼、だよ」
「鬼と、そう呼ぶのもおこがましい」
クスリと、僕たちの担任は笑って。そして眼鏡に手を掛けた。それを下に少しだけずらし、レンズを通さないで僕らを見る。
鈍色の瞳がそこには爛々と輝いていた。
「そんなモンはサクッとぶち殺せ、餓鬼ども」
「い……いえっさー!」
敬礼するかしくを尻目に、僕は空を仰ぐ。
「まあ、僕らと殺人鬼に縁が有ったらね」
「縁? ンなモン無くても適当に繋いで殺しとけ。俺の生徒に手を出される前にだ」
「その口振りだと、ウチの生徒からはまだ被害者は出てないみたいだね」
「当たり前だろ」
眼鏡を掛け直し、目だけで天野は笑ってみせる。
「誰がそこの教師をしてると思っているのですか、角隠くん」
なんだかんだと口は悪いが、僕らの担任は天邪鬼。
「天野センセーのそういうトコがアタシ好きだよ?」
「おやおや。予想外に好かれたものですね。……交際要求は卒業してからにして下さいよ、上刎さん?」
「それは無い」
「それは無い」
僕とかしくの声が見事に重なった。二重否定は肯定の意味ではあるけれど、流石にこの場合は違う気がする。
「残念です。先生は上刎さんの事がとても好きなのですけれど」
つい先刻まで死んでくれ、とかなんとか言ってなかっただろうか。僕の記憶違い?
「嫌だな、センセ。センセが好きなのはアタシじゃないでしょ? センセはさ、生徒が好きなんだよね。卒業しちゃったら、そこでアタシの事なんて綺麗さっぱり忘れちゃうくせにい」
「その通りです。いやはや、見透かされてますか」
「うん」
でもって僕らは知っている。ソイツが生徒以外には何の興味も持っていない事。
人間にも。正しく文字通り、他の何にも。興味を持てない異常な人格である事を、身をもって理解している。
明確な差別。生徒と、それ以外という括り。そういうのが天野の中には有る。だが、僕はそれに嫌悪感を抱いた事は無い。なぜなら、天野という男はそれを徹底させているからだ。あやふやに、例えば卒業していった元生徒に対しても愛情を抱き続けるといったような事が、無い。
ブレないスタンスを持ってさえいれば、それに対して僕は一定の評価をするらしい。これは天野に出会ってから気付かされた事だった。
有り体に言って恰好良いのだろう、そういうものは。
「いえね。先生は自分の器というものを知っている、ただそれだけなんですよ。僕の受け持っている学級だけでも、それでも三十六人ですからね。一学年となればそれの五倍ですよ。更に学校全体で考えればその三倍。とてもでは有りませんが僕の器量ではその子達の面倒を見て更に他に回すだけの心なんて持ち合わせが有りません」
「そこまで生徒の責任を見なくても良いんじゃないんデスか、センセー?」
「はい、本来はそうですね」
言って、天野は少しだけ膝を曲げてかしくと目線の高さを合わせた。ニコリと笑う。
「教師は実際、そこまでのものを求められている訳ではありません。ですので、上刎さん。これは僕のエゴなのですよ。僕が君達の世話を焼きたいという、只のおせっかいでしかないんです。不特定多数の支えとなりたい、そうする事が仕事として奨励されているから、という理由で僕は教師になりました」
そう言って、かしくの頭を撫でる青年教師。
徹底している、その生き方に触れる度に自分がまだ子供である事実を目の前に突き付けられている気がする。
「なるほどねー。ん? って事は待てよ? センセ、卒業後に告白してくれ、って振る気満々じゃないですか!?」
「先生、生徒以外に興味は有りませんから」
キリリとした口調で、ダメ人間宣言。
「天野。お前は教師としては最高の人材かも知れないが、人間としては最低だ」
「ふふっ。褒めながらも貶すのは角隠くんらしいですね。別に手本にも指標にもして頂く必要は有りませんよ。よく聞く言葉でしょう、反面教師って」
「お前は残念教師だけどな」
「かも知れません。ですが、僕が僕自身を残念だとは思っていないので別に構わないでしょう。ああ、そうです。角隠くん。如月さんの今の髪型を教えて頂けますか?」
「は?」
灯里の髪型? 唐突に何を言い出すんだ、コイツ?
「最近のともちゃんはポニーテールだよ、センセ。えっとね、肩口くらいまでの長さにしてると思う。先週末に会った時は、そうだった」
こんな感じ、と言いながらかしくは自分の、その腰まで有る髪を右手で一まとめに掴み頭の上に持っていく。そして首の横で左手を揺らした。首を落とすぞのジェスチャーに見えてしまうのはきっと先入観のせいだろう。
そう思いたい。
「ふむ、そうですか。ではやはり先生の見間違いでは無かった、という事でしょうね」
「何がだよ」
「如月さんを見掛けたのですよ。昨晩の事です。横顔でしたし、暗かったので確証は持てませんでしたが、上刎さんの言った通りの髪型をしていたので恐らく間違いないですね。そろそろ学校に来ませんか、というような事を言いたくて慌てて追ったのですが路地を曲がった所で見失ってしまいました」
「アイツが? 外出だって? それも夜に?」
万年引きこもりのテレビっ子である灯里は、そもそも外出自体が少ない。それはどれくらいの出不精かと言うと、如月灯里を見掛けると恋が成就する、などといったジンクスが校内でまことしやかに囁かれる程だ。
まるで妖怪扱いなのである。
とは言え、学校に在籍していながら一度しか登校した事がなく、でありながら一年生から二年生に進級を果たしたような彼女であるから、それは仕方のない扱いなのかも知れないが。
どこでどのような圧力が働いたのやら。
「それ別人じゃないか、天野?」
「別人かも知れません」
……おいおい。
「先ほども言いましたが、何分暗かったのですよ。先生、鳥目ですし」
鳥目の人間が夜間見回りとかやって一体何がしたいんだ、お前は。
「んー、でもさ。多分それ、ともちゃんだと思うな、アタシも」
ポニーテールを解除し、一度頭を振って髪を整えた少女はなぜか天野ではなく僕の方を見た。
「そう考える、理由は?」
「だってさ。……ともちゃんは死にたがってるじゃない」
そうか。
巷を騒がす殺人鬼。
死にたがりの少女が探し求めるには、十分な相手だ。
いつだって、彼女は死に場所を探していて。殺人鬼のニュースで今、マスコミは沸いている。一日中テレビの前を離れないのがデフォルトの少女がそれの存在を知らない道理は無い。
そうなれば。きっと彼女なら居ても立ってもいられないだろう。
それが如月灯里という少女なのだから。
「……なあ、かしく」
「何、シロちゃん?」
「もしかして、さ。それが理由なのか?」
「え?」
「だから、さ。アイツが殺人鬼と邂逅する前に、ってのが本当の理由なんじゃないのか?」
少女は黙り込んだ。何も言わない。だけどその沈黙は肯定としか僕には思えない。
「違うんなら良いんだ。でも、それが理由で目的なら。かしく。ソイツは」
僕は少女を睨み付けて。
「大きなお世話だ」
言い切った。僕に向けてかしくは目を見開く。そして隣に有った交通標識をぶっ叩いた。ポールは鉄で出来ている事を僕が疑問に思う間もなく拳の形、凹に歪む。どんな腕力をしているのか、これだけでも分かり過ぎるくらいだし、威嚇には十分なショッキングさではあった。
惜しむらくは、威嚇対象が僕だった事か。ヒステリックに少女は叫んだ。
「分かってるよ! だけどさ、それでもアタシはともちゃんに死んで貰いたくないんだもん!」
「友達でもないのに、か」
「アタシはあの子の友達になりたいんだ!」
「だったら、なんでソイツの願いを叶えてやらない? アイツの思いを汲んでやらない? そういうのが友達ってモンだろう?」
死にたいのなら、一思いに死なせてしまえ。
生き続けるための理由も創れずに、絶命の機会だけ断とうなんて虫の良い話。収まりの悪い話。
「……そんなのは本当の友達じゃないよ、シロちゃん」
「だったら僕は上辺だけの友達でいい。本物も偽物も、暴かなきゃ一緒だし。きっとアイツだって僕と同じ意見だろうね」
そもそも僕が、灯里にとっての上辺だけの恋人だ。いや、勘違いして貰っては困るので言っておくが、恨みがましい思いを込めたつもりは決してない。
恋愛感情なんて、その存在を僕は今でも信じていない。
「そんなの、寂しくない、シロちゃん」
「寂しくない。寂しい事に気付かなければいいだけの話。上辺に騙された振りをするのが、賢い生き方だろ」
「アタシはヤだ。そんなのは絶対にヤだ。アタシが強くなりたい理由、知ってるよね。力っていうのは応用が利くんだ。電気は熱にも光にも音楽にも情報にもなる。アタシは親父からそう教わった。暴力はぶっ飛ばす力だよ? でもね、使い方さえ間違えなければ悩みの元だってぶっ飛ばせる。強くなればそれだけぶっ飛ばせるものが増えるんだ。言い換えればね、沢山のものが守れるようになるって事なの」
上刎かしくが強くなり続けた理由。目的。手段。
だけど、誰かが誰かを守るなんてそんなのは幻想だ。人は結局自分すら守れない。
「……はあ。聞き飽きたよ」
「だって、分かってないじゃん! 全然! 大切に思った人を大切にしたいって。シロちゃん、それって悪い事?」
「君の『大切にする』っていうのは、その対象を蔑(ナイガシ)ろにしてる所が、僕は嫌いだ」
「じゃあ、どうやって大切にすれば良いのさ!?」
胸が擦れる距離までこっちに詰め寄ってそんな事を訴える少女。けれど彼女は聞く相手を間違えていた。徹底的に、壊滅的に、その問いと僕は縁が無い。
僕の教示。一年前に奪われた矜持に代わって示された、新しい生き方。
「僕は何かを大切に思う事を辞めたんだ」
後悔と復縁する代わりに。
好意とは絶縁した。
「だから、誰かを大切にする方法なんて知らないし興味もない」
「そんなの……そんなのってアタシには分かんない」
「別に分からなくていいよ。分かろうなんて思わない方がいい。僕とかしくは別の人間なんだから。そもそも分かる事なんて出来ないさ」
灯里の事が僕には分からないように。
いや、きっと誰の事も僕は分からないのだろうけれど。
僕自身の事すら、僕には分からないし。他人の事なんてまさかまさか分かる訳もない。分かろうと努力してるでも……ない。
「なあ、天野」
「ん?」
雑居ビルの壁に凭れ掛かりながら、薄い微笑を浮かべて僕らのやり取りを見ていた担任に話を振る。彼は、何だ、とその目でもって言った。
「アンタ、人を理解出来た事って有る?」
「いいえ、ありません。けれど、角隠くん。先生は上刎さんの言いたい事も分かりますよ。勿論、君の言い分もですけれど。この議論は平行線しか辿りません」
「知ってる。かしくの言いたい事も分かってる。ただ、受け入れられないだけでさ」
「分かってる。アタシの生き方を押し付けちゃいけない事も。だけど、やっぱり諦め切れない」
「それでいいんですよ。皆違っていて、そういうものです。先生には立場が有りますので、例えば実際に殺人鬼に襲われている如月さんを見掛けたらそれは助けるでしょう。ですが、複雑な気分であるのは確かでしょうね。彼女の場合は――間接的な自殺ですから」
自分では死ねない。僕の彼女を縛る呪い。
親の因果が子に報い。
「その場合は殺人ではなく、自殺ほう助になります。ふむ、自殺を止めるのは教師の仕事の内です。しかし……彼女のためになる事をやっているのは果たしてどちらなのか、という疑問は付きまとうでしょう。僕などは割り切っていますが、若い君たちには難問かと」
「教師ってのは難儀なんだな」
「素晴らしい職業ですよ。オススメします」
週末に人を自室に招いて溜まった愚痴をこぼしている男が言っても、余り説得力は無いな。そんな侮蔑を込めて見るその先で、僕たちの担任は腕時計を確認していた。
どうやら、彼なりのタイムスケジュールが有るらしい。
「さて、では先生はそろそろ見回りに戻ります。君たちも、くれぐれも注意して下さい」
「他のセンセーに?」
「ふふっ、それも注意して下さいね。それではまた、学校で」
言って天野は踵を返す。僕の隣でかしくが手を振った。
「バイバイ、センセー」
「ええ、さようなら」
僕は別れを告げなかった。明日は日曜。どうせ、夜に呼び出されて口の悪い酔っ払いの世話をする事になるのだ。目に見えている。出席日数等を調整してやっているのだから、それくらいは付き合え、というのが彼の言い分であるが果たして教師が未成年に酒を勧めるのはやって良い事なのだろうか。
まあ、アルコールは嫌いじゃないからいいけど。
それにしても歩いている人の姿がまるでない、当たり前だけど、商店街に野良猫一匹見当たらないってのは壮観だ。天野の後姿をそんな事を考えてぼんやり眺めていると横手から声が掛かった。
「シロちゃんってさ、何気に天野センセと仲が良いよね」
「別に。仲が良いっていうのじゃないよ」
「普通、シロちゃんくらいの問題児ならもっと煙たがれてもいい筈なのにね。馬鹿な子ほど可愛いのかな?」
大きなお世話だ。それにかしくほど馬鹿でもない。
「僕と天野はお友達じゃないし。そもそもそういう関係じゃないんだ。もっとギブアンドテイクとかビジネスライクとか、そういう言葉の方が近い気がする」
「それは援助を伴った交際とかそういうのでしょうか!?」
……息を荒げるな目を輝かせるな条件反射かコイツ。
鼻息荒く近付いてきたかしくの顔を左手でもって押しのける。
「男二人が組になっている場面を見たらそういう色眼鏡でしか見れないの、かしくは?」
「おう!」
二文字で返された。
ああ、いい返事だなあ。無駄にいい返事過ぎて他の場面にコピーアンドペーストしてやりたくなってくる。
「そもそも男同士の間に友情なんて成立するのかという疑問がずっとアタシの中には燻っていてだねえ……」
「よく聞く言葉だけど改悪されてるね。それ、男女間に友情は成立するのか、じゃなかった?」
「え? アタシとシロちゃんは友達じゃん。何言ってんの?」
サラリと口にしにくい事を言う、この辺は僕には真似出来そうにないな。真似する気もないけど。
「違った?」
ああ、本当に。気持ち良いくらい思った事を素直に口に出せる。その様を見ていると自分がどれだけ卑小か、そして鬱屈しているかがよく分かるや。
「いや、違わないよ。僕と君は友達だ。それ以上でも、以下でもない」
だけど、それを羨ましいとは思わない。
そういう生き方は僕には向いていなかった。憧れてたのは昔の話。前を向いてなど歩けるものか。
一寸先は闇なのだから。どこに崖が有るかも知れない道を進むなんて狂気の沙汰。引き返すのが賢い生き方。
人生なんて所詮、下り一辺倒のジェットコースタだ。
いつかは地面に追突して、死ぬ。
「何でしょうか、角隠くん」
「アンタの事だ。僕らが何をやろうとしているのかは、察してるんだろ?」
「ええ、まあ」
彼は額に中指と人差し指を当てて、首を振る。
「大方、殺人鬼をとっちめようと上刎さんが息巻いていて、角隠くんはそれに嫌々付き合わされているのでしょう。違いますか?」
「当たり」
「まあ、予想通りですね。二人の性格と、今の市内の状況を鑑みればそれくらいは自ずと導き出せます。さて、先生がそこまで読めている以上、角隠くんも先生が次に何を言い出そうとしているのかは分かりますよね?」
分かるとも。付き合いは深くはなくとも、決して浅くもない。
「他の教師には見つかるな、だよな。分かってる」
「結構です。くれぐれも先生の評判だけは落とさないようにして下さい。そう難しい注文では無いはずです。僕以外の方々は殺人鬼が怖いのですよ。有志による見回り、とは建前でしかありません。早々に切り上げたいというのが彼らの本音でしょうから。特に日が暮れてからは僕くらいしか見回りもいません。注意していれば出会う事も無いでしょう」
嘆息して、天野はかしくの頭を撫でた。少女よりも頭一つ分背の高い彼が行うそれは、とても自然な行為に見える。普段は髪を触られる事を嫌うかしくも、その手からは逃げようとしなかった。
きっと敵意や害意が皆無な事を少女も理解しているからだろう。純然たる慈しみから出た右手であれば、それを振り払うのは失礼でしかない。
「彼らは教師の本分よりも、自分の身が可愛いようでして。いえ、それは仕方の無い事なのでしょう、きっと。上刎さん、先生は貴女の事を信頼していますが、どうか無茶はなさらないで下さいね。生徒に死なれるのは、僕がとても悲しい」
優しい目で少女を見つめる、彼は大人だ。僕らよりも、よほど。
「分かってるよ、センセ」
「……止めないんだな、天野」
「ええ。正直に言えば休校が余り長引いて貰っては困るのです。僕の受け持っている生徒の中に一人、出席日数の厳しい子が居まして」
名指しはしないまでも、それは僕の事で間違いないな。
「上刎さんと角隠くんなら、滅多な事でもない限り大丈夫だとも思いますから。だって」
そこで一呼吸。
「たかが殺人鬼、でしょう?」
「ああ」
僕はソイツに向かって頷いた。
「たかが殺人鬼、だよ」
「鬼と、そう呼ぶのもおこがましい」
クスリと、僕たちの担任は笑って。そして眼鏡に手を掛けた。それを下に少しだけずらし、レンズを通さないで僕らを見る。
鈍色の瞳がそこには爛々と輝いていた。
「そんなモンはサクッとぶち殺せ、餓鬼ども」
「い……いえっさー!」
敬礼するかしくを尻目に、僕は空を仰ぐ。
「まあ、僕らと殺人鬼に縁が有ったらね」
「縁? ンなモン無くても適当に繋いで殺しとけ。俺の生徒に手を出される前にだ」
「その口振りだと、ウチの生徒からはまだ被害者は出てないみたいだね」
「当たり前だろ」
眼鏡を掛け直し、目だけで天野は笑ってみせる。
「誰がそこの教師をしてると思っているのですか、角隠くん」
なんだかんだと口は悪いが、僕らの担任は天邪鬼。
「天野センセーのそういうトコがアタシ好きだよ?」
「おやおや。予想外に好かれたものですね。……交際要求は卒業してからにして下さいよ、上刎さん?」
「それは無い」
「それは無い」
僕とかしくの声が見事に重なった。二重否定は肯定の意味ではあるけれど、流石にこの場合は違う気がする。
「残念です。先生は上刎さんの事がとても好きなのですけれど」
つい先刻まで死んでくれ、とかなんとか言ってなかっただろうか。僕の記憶違い?
「嫌だな、センセ。センセが好きなのはアタシじゃないでしょ? センセはさ、生徒が好きなんだよね。卒業しちゃったら、そこでアタシの事なんて綺麗さっぱり忘れちゃうくせにい」
「その通りです。いやはや、見透かされてますか」
「うん」
でもって僕らは知っている。ソイツが生徒以外には何の興味も持っていない事。
人間にも。正しく文字通り、他の何にも。興味を持てない異常な人格である事を、身をもって理解している。
明確な差別。生徒と、それ以外という括り。そういうのが天野の中には有る。だが、僕はそれに嫌悪感を抱いた事は無い。なぜなら、天野という男はそれを徹底させているからだ。あやふやに、例えば卒業していった元生徒に対しても愛情を抱き続けるといったような事が、無い。
ブレないスタンスを持ってさえいれば、それに対して僕は一定の評価をするらしい。これは天野に出会ってから気付かされた事だった。
有り体に言って恰好良いのだろう、そういうものは。
「いえね。先生は自分の器というものを知っている、ただそれだけなんですよ。僕の受け持っている学級だけでも、それでも三十六人ですからね。一学年となればそれの五倍ですよ。更に学校全体で考えればその三倍。とてもでは有りませんが僕の器量ではその子達の面倒を見て更に他に回すだけの心なんて持ち合わせが有りません」
「そこまで生徒の責任を見なくても良いんじゃないんデスか、センセー?」
「はい、本来はそうですね」
言って、天野は少しだけ膝を曲げてかしくと目線の高さを合わせた。ニコリと笑う。
「教師は実際、そこまでのものを求められている訳ではありません。ですので、上刎さん。これは僕のエゴなのですよ。僕が君達の世話を焼きたいという、只のおせっかいでしかないんです。不特定多数の支えとなりたい、そうする事が仕事として奨励されているから、という理由で僕は教師になりました」
そう言って、かしくの頭を撫でる青年教師。
徹底している、その生き方に触れる度に自分がまだ子供である事実を目の前に突き付けられている気がする。
「なるほどねー。ん? って事は待てよ? センセ、卒業後に告白してくれ、って振る気満々じゃないですか!?」
「先生、生徒以外に興味は有りませんから」
キリリとした口調で、ダメ人間宣言。
「天野。お前は教師としては最高の人材かも知れないが、人間としては最低だ」
「ふふっ。褒めながらも貶すのは角隠くんらしいですね。別に手本にも指標にもして頂く必要は有りませんよ。よく聞く言葉でしょう、反面教師って」
「お前は残念教師だけどな」
「かも知れません。ですが、僕が僕自身を残念だとは思っていないので別に構わないでしょう。ああ、そうです。角隠くん。如月さんの今の髪型を教えて頂けますか?」
「は?」
灯里の髪型? 唐突に何を言い出すんだ、コイツ?
「最近のともちゃんはポニーテールだよ、センセ。えっとね、肩口くらいまでの長さにしてると思う。先週末に会った時は、そうだった」
こんな感じ、と言いながらかしくは自分の、その腰まで有る髪を右手で一まとめに掴み頭の上に持っていく。そして首の横で左手を揺らした。首を落とすぞのジェスチャーに見えてしまうのはきっと先入観のせいだろう。
そう思いたい。
「ふむ、そうですか。ではやはり先生の見間違いでは無かった、という事でしょうね」
「何がだよ」
「如月さんを見掛けたのですよ。昨晩の事です。横顔でしたし、暗かったので確証は持てませんでしたが、上刎さんの言った通りの髪型をしていたので恐らく間違いないですね。そろそろ学校に来ませんか、というような事を言いたくて慌てて追ったのですが路地を曲がった所で見失ってしまいました」
「アイツが? 外出だって? それも夜に?」
万年引きこもりのテレビっ子である灯里は、そもそも外出自体が少ない。それはどれくらいの出不精かと言うと、如月灯里を見掛けると恋が成就する、などといったジンクスが校内でまことしやかに囁かれる程だ。
まるで妖怪扱いなのである。
とは言え、学校に在籍していながら一度しか登校した事がなく、でありながら一年生から二年生に進級を果たしたような彼女であるから、それは仕方のない扱いなのかも知れないが。
どこでどのような圧力が働いたのやら。
「それ別人じゃないか、天野?」
「別人かも知れません」
……おいおい。
「先ほども言いましたが、何分暗かったのですよ。先生、鳥目ですし」
鳥目の人間が夜間見回りとかやって一体何がしたいんだ、お前は。
「んー、でもさ。多分それ、ともちゃんだと思うな、アタシも」
ポニーテールを解除し、一度頭を振って髪を整えた少女はなぜか天野ではなく僕の方を見た。
「そう考える、理由は?」
「だってさ。……ともちゃんは死にたがってるじゃない」
そうか。
巷を騒がす殺人鬼。
死にたがりの少女が探し求めるには、十分な相手だ。
いつだって、彼女は死に場所を探していて。殺人鬼のニュースで今、マスコミは沸いている。一日中テレビの前を離れないのがデフォルトの少女がそれの存在を知らない道理は無い。
そうなれば。きっと彼女なら居ても立ってもいられないだろう。
それが如月灯里という少女なのだから。
「……なあ、かしく」
「何、シロちゃん?」
「もしかして、さ。それが理由なのか?」
「え?」
「だから、さ。アイツが殺人鬼と邂逅する前に、ってのが本当の理由なんじゃないのか?」
少女は黙り込んだ。何も言わない。だけどその沈黙は肯定としか僕には思えない。
「違うんなら良いんだ。でも、それが理由で目的なら。かしく。ソイツは」
僕は少女を睨み付けて。
「大きなお世話だ」
言い切った。僕に向けてかしくは目を見開く。そして隣に有った交通標識をぶっ叩いた。ポールは鉄で出来ている事を僕が疑問に思う間もなく拳の形、凹に歪む。どんな腕力をしているのか、これだけでも分かり過ぎるくらいだし、威嚇には十分なショッキングさではあった。
惜しむらくは、威嚇対象が僕だった事か。ヒステリックに少女は叫んだ。
「分かってるよ! だけどさ、それでもアタシはともちゃんに死んで貰いたくないんだもん!」
「友達でもないのに、か」
「アタシはあの子の友達になりたいんだ!」
「だったら、なんでソイツの願いを叶えてやらない? アイツの思いを汲んでやらない? そういうのが友達ってモンだろう?」
死にたいのなら、一思いに死なせてしまえ。
生き続けるための理由も創れずに、絶命の機会だけ断とうなんて虫の良い話。収まりの悪い話。
「……そんなのは本当の友達じゃないよ、シロちゃん」
「だったら僕は上辺だけの友達でいい。本物も偽物も、暴かなきゃ一緒だし。きっとアイツだって僕と同じ意見だろうね」
そもそも僕が、灯里にとっての上辺だけの恋人だ。いや、勘違いして貰っては困るので言っておくが、恨みがましい思いを込めたつもりは決してない。
恋愛感情なんて、その存在を僕は今でも信じていない。
「そんなの、寂しくない、シロちゃん」
「寂しくない。寂しい事に気付かなければいいだけの話。上辺に騙された振りをするのが、賢い生き方だろ」
「アタシはヤだ。そんなのは絶対にヤだ。アタシが強くなりたい理由、知ってるよね。力っていうのは応用が利くんだ。電気は熱にも光にも音楽にも情報にもなる。アタシは親父からそう教わった。暴力はぶっ飛ばす力だよ? でもね、使い方さえ間違えなければ悩みの元だってぶっ飛ばせる。強くなればそれだけぶっ飛ばせるものが増えるんだ。言い換えればね、沢山のものが守れるようになるって事なの」
上刎かしくが強くなり続けた理由。目的。手段。
だけど、誰かが誰かを守るなんてそんなのは幻想だ。人は結局自分すら守れない。
「……はあ。聞き飽きたよ」
「だって、分かってないじゃん! 全然! 大切に思った人を大切にしたいって。シロちゃん、それって悪い事?」
「君の『大切にする』っていうのは、その対象を蔑(ナイガシ)ろにしてる所が、僕は嫌いだ」
「じゃあ、どうやって大切にすれば良いのさ!?」
胸が擦れる距離までこっちに詰め寄ってそんな事を訴える少女。けれど彼女は聞く相手を間違えていた。徹底的に、壊滅的に、その問いと僕は縁が無い。
僕の教示。一年前に奪われた矜持に代わって示された、新しい生き方。
「僕は何かを大切に思う事を辞めたんだ」
後悔と復縁する代わりに。
好意とは絶縁した。
「だから、誰かを大切にする方法なんて知らないし興味もない」
「そんなの……そんなのってアタシには分かんない」
「別に分からなくていいよ。分かろうなんて思わない方がいい。僕とかしくは別の人間なんだから。そもそも分かる事なんて出来ないさ」
灯里の事が僕には分からないように。
いや、きっと誰の事も僕は分からないのだろうけれど。
僕自身の事すら、僕には分からないし。他人の事なんてまさかまさか分かる訳もない。分かろうと努力してるでも……ない。
「なあ、天野」
「ん?」
雑居ビルの壁に凭れ掛かりながら、薄い微笑を浮かべて僕らのやり取りを見ていた担任に話を振る。彼は、何だ、とその目でもって言った。
「アンタ、人を理解出来た事って有る?」
「いいえ、ありません。けれど、角隠くん。先生は上刎さんの言いたい事も分かりますよ。勿論、君の言い分もですけれど。この議論は平行線しか辿りません」
「知ってる。かしくの言いたい事も分かってる。ただ、受け入れられないだけでさ」
「分かってる。アタシの生き方を押し付けちゃいけない事も。だけど、やっぱり諦め切れない」
「それでいいんですよ。皆違っていて、そういうものです。先生には立場が有りますので、例えば実際に殺人鬼に襲われている如月さんを見掛けたらそれは助けるでしょう。ですが、複雑な気分であるのは確かでしょうね。彼女の場合は――間接的な自殺ですから」
自分では死ねない。僕の彼女を縛る呪い。
親の因果が子に報い。
「その場合は殺人ではなく、自殺ほう助になります。ふむ、自殺を止めるのは教師の仕事の内です。しかし……彼女のためになる事をやっているのは果たしてどちらなのか、という疑問は付きまとうでしょう。僕などは割り切っていますが、若い君たちには難問かと」
「教師ってのは難儀なんだな」
「素晴らしい職業ですよ。オススメします」
週末に人を自室に招いて溜まった愚痴をこぼしている男が言っても、余り説得力は無いな。そんな侮蔑を込めて見るその先で、僕たちの担任は腕時計を確認していた。
どうやら、彼なりのタイムスケジュールが有るらしい。
「さて、では先生はそろそろ見回りに戻ります。君たちも、くれぐれも注意して下さい」
「他のセンセーに?」
「ふふっ、それも注意して下さいね。それではまた、学校で」
言って天野は踵を返す。僕の隣でかしくが手を振った。
「バイバイ、センセー」
「ええ、さようなら」
僕は別れを告げなかった。明日は日曜。どうせ、夜に呼び出されて口の悪い酔っ払いの世話をする事になるのだ。目に見えている。出席日数等を調整してやっているのだから、それくらいは付き合え、というのが彼の言い分であるが果たして教師が未成年に酒を勧めるのはやって良い事なのだろうか。
まあ、アルコールは嫌いじゃないからいいけど。
それにしても歩いている人の姿がまるでない、当たり前だけど、商店街に野良猫一匹見当たらないってのは壮観だ。天野の後姿をそんな事を考えてぼんやり眺めていると横手から声が掛かった。
「シロちゃんってさ、何気に天野センセと仲が良いよね」
「別に。仲が良いっていうのじゃないよ」
「普通、シロちゃんくらいの問題児ならもっと煙たがれてもいい筈なのにね。馬鹿な子ほど可愛いのかな?」
大きなお世話だ。それにかしくほど馬鹿でもない。
「僕と天野はお友達じゃないし。そもそもそういう関係じゃないんだ。もっとギブアンドテイクとかビジネスライクとか、そういう言葉の方が近い気がする」
「それは援助を伴った交際とかそういうのでしょうか!?」
……息を荒げるな目を輝かせるな条件反射かコイツ。
鼻息荒く近付いてきたかしくの顔を左手でもって押しのける。
「男二人が組になっている場面を見たらそういう色眼鏡でしか見れないの、かしくは?」
「おう!」
二文字で返された。
ああ、いい返事だなあ。無駄にいい返事過ぎて他の場面にコピーアンドペーストしてやりたくなってくる。
「そもそも男同士の間に友情なんて成立するのかという疑問がずっとアタシの中には燻っていてだねえ……」
「よく聞く言葉だけど改悪されてるね。それ、男女間に友情は成立するのか、じゃなかった?」
「え? アタシとシロちゃんは友達じゃん。何言ってんの?」
サラリと口にしにくい事を言う、この辺は僕には真似出来そうにないな。真似する気もないけど。
「違った?」
ああ、本当に。気持ち良いくらい思った事を素直に口に出せる。その様を見ていると自分がどれだけ卑小か、そして鬱屈しているかがよく分かるや。
「いや、違わないよ。僕と君は友達だ。それ以上でも、以下でもない」
だけど、それを羨ましいとは思わない。
そういう生き方は僕には向いていなかった。憧れてたのは昔の話。前を向いてなど歩けるものか。
一寸先は闇なのだから。どこに崖が有るかも知れない道を進むなんて狂気の沙汰。引き返すのが賢い生き方。
人生なんて所詮、下り一辺倒のジェットコースタだ。
いつかは地面に追突して、死ぬ。