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現実的運命論2

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「人間性の欠如っていう立派な出来損ないだ」
 きっと言うまでも無かったのだろう。言われるまでも無かったに違いない。それもそのはず。「あんなもの」は人間ではない。人間とは最早呼べない。
 人間は空を跳んだりしない。
「かしく。それがアタシの名前」
 白黒少女は最後に言い捨てて。そしておもむろに立ち上がった。
 僕から後ろ歩きで距離を取り、そのまま歩を進めた挙句に――屋上の縁から真っ逆様に落ち……落ちた!?
 ウエスト高の転落防止手すりを鉄棒の要領で背を軸に回転、頭を下にし、それが一連の動作であるかの流れるようなダイブ。
 死んだ、と思った。故意か事故か、そんなのは知らない、分からない。でも紛れもない、声も出ない。
 見事な転落死だった。
 自他共に認める美少女が名前を告げた次の瞬間に十メートル強の自由落下。
 なんだ、それ。
 ジャンル新し過ぎるだろ。
 十秒強の放心から我に返った僕がまず行ったのは、慌てて手すりまで駆け寄る事だった。下を見ても人間の内容物がグロテスクに飛び散った死体を見るだけだと分かっていながら、それでも下を見てしまうのはどうしてなのか。誰か教えてくれないか。そしてこの時の僕にこう伝えて欲しい。
 絶対に下を見るな、と。
 後悔している。
 途中の樹の枝に引っ掛かって無事でした、なんて肩透かしを期待していなかった訳じゃない。でも、そんな幸運はまず訪れない。現実はフィクションみたいに都合良く成り立ってはいない。
 だから――少女は平然と土の上に、すっくと立っている。幸運ではなく、奇跡ではなく、それが当然と。そして覗き込んだ僕を見つけて手を振った。
「またね!」
 怖気が、した。
 咄嗟に手を掛けられる場所を壁面に探したが、そんなものは見当たらない。いや、有ったからってなんだっていうんだ、僕。あの女は頭から落ちてるんだぞ? 壁に手など掛けられるものか。
 仮にどこかに手指を掛けられたとして、落下速度に掛けることの自重を支えられる握力ってのは女子高生の持ち物では絶対に無い。
 混乱する僕の視界の果て、何事も無かったかの足取りで教室棟へと歩いていく彼女。外傷は見当たらない。服装の乱れすら見られず。
 僕の視力は2.0だ、両目ともに。
「……まさかのサイボーグかよ」
 いや、サイボーグにあんな柔らかい胸は付いていないだろうよ、と独白に反論を心の中で入れてみる。彼女は少なくとも有機体ではあった。そこは間違いない。以上より――結論、間違っているのは物理法則の側である。
 さよなら常識。
 僕の世界からニュートンとガリレオとケプラーその他が足並みを揃えて走り去っていく。偉人達の雄々しき背中を眺めながら僕は、今なら僕だってここから飛び降りても平気なのではないかとすら考えた。
 狂っているのは、世界か、人か。
 ――どうせ、両方。
 はじめまして非常識。

 もう、なんか授業を受ける気分ではなくなってしまった。気分で学校をサボっていいものかどうかには各人意見が有るだろうが、残念ながら僕にとって僕の意識と意見と見解が全てだ。
 誰だってそうだろう。自分のことは自分にしか決められない。人に決められたレールの上を歩む人生ですら、そのレールから外れないように注意しているのはその人自身であるのだから。それはやっぱり、選んでいるのだ。
 ……意味深に語ってみても、所詮はサボり決行の言い訳ってのがなんとも僕らしい。
 小さいというか、みみっちいというか。
 そんな事に一々理由を求める必要が有るのかよ、実際。厭世家を気取っていながら、その実、保身的な自分が情けない。理想はアナーキスト。何もかもに「関係ない」を貫ける雲上のスタンス。
 こんなんじゃ一生なれそうにないなあ。
 ぐるぐると思考すればいつも自己嫌悪で幕を閉じるマイナス嗜好。毎度の事、なれど自転車を漕ぐ足も重い。とろとろと、そしてふらふらと校門をくぐる。夢遊病者か酔っ払いか、でなければ僕って具合の蛇行運転。
 これが悪かった。
 校門前をうろつく不審者に声を掛けられてしまったのはひとえに速度。風を切るように軽快に自転車を飛ばしていればその男に捕まったりはしなかったはずなのに。あるいは僕が無関係主義を軸に生きていれば呼びかけを無視して走り去る事だって出来たんだ。
「あ、ねえ、君!」
「はい、なんですか?」
 まあ、返事をした後でそんな事に気付いても後の祭り。
「この学校の生徒さん、だよね?」
 カイ高の制服を着て、カイ高の校門から出て来ておいてカイ高の生徒じゃなかったりしたら恐らくソイツは高確率で刃物を持っていると思います。
 不審者オブ不審者。声を掛けてはいけません。
 なんてツッコミは心の中に留め置く。男はこんな時間――平日午前に高等学校の門扉の前をうろついている、その事にさえ目を瞑れば特に不審者には見えなかった。
 どこにでも売っている大量生産の黒いチノパンに、これもまた有り触れたカッターシャツ。飾り気はまるで無く、しかしてこざっぱりと清潔感の有る格好。なんとなく当たりくらいは付けられそうだ。
 ……OBか、もしくはまだ若く見えるし教育実習生が教育実習前に挨拶に来たといったところだろうか。
 警戒レベルを一段落とす。
「ええ、そうですけど」
「そっか。いや、良かった。これで生徒じゃないって言われたら通報しなきゃいけなかったからね」
 どうやら丸っきりの考え無しという事も無いらしい。
「真昼間から高校の正門を張っている成人男性ってのは通報の対象にはなりませんかね?」
「あー、そうくるか。だよな、客観的に考えれば不審者は俺の方だ」
 手提げ鞄から取り出して、渡されたのは一枚の名刺。へえ、名刺渡す時って本当に「こういう者です」なんて言うのか。勉強になる。
「……えーと、文化人類学者?」
 訂正。警戒レベル二段階上昇。
 怪しい。怪し過ぎる職業名だった。
「俗に言う民俗学者、さ。お化けが好きでね。馬鹿みたいにお化けの研究ばかりしていたら、いつの間にやら大学に僕の指定席が有って、これまたいつの間にやら職業になっていたんだ」
 聞いてもいない説明を促したのは僕の怪訝な表情。でもって経歴を聞かされても怪しさは一つも拭えてないときたものだ。汚れを落とそうと雑巾で拭いたのに、その雑巾はこれでもかと泥まみれだったみたいな。
「そうですか。あの、一つ質問しても?」
「構わないよ」
「その民俗学者って肩書きと」
 職業と呼ぶべきだっただろうか。いや、でも何か抵抗が有る。
「僕の学校の前で不審者の如く振舞っている現実の間に僕としてはどうにもイコールを引きづらいのですが」
 関係性が見出せるのならソイツは天才だ。
 僕の追求に彼――名刺の名前を鵜呑みにするならば夜久束森(ヤクタバモリ)――は苦笑いをした。
「そんなに不審かい、俺は? 例えば君の学校の図書室に調べ物が有るとかは考えないのかな?」
「図書室に有った貸し出し禁止の古い本は夏休み前に丸ごと市立図書館に寄贈したんですよ」
 希少本が眠っていた棚には今やライトノベルがずらりと鎮座していらっしゃる。敏腕図書委員の仕業だった。
「なるほど。つまり、俺は場違いなのか」
「そうなりますね」
「別に隠すほどの事情でもないし、警察を呼ばれるのも困るから説明するとな」
 夜久束は手提げ鞄から、今度は名刺ではなく古い写真を一枚取り出した。そこに写っているのは一組の男女。
「親友夫婦の忘れ形見を捜している」
 彼は言う。そこには違和感しかなかった。
「手掛かりはこの二人の面影をその子は遺しているんじゃないかってな淡い希望。この近辺の学校に通っているらしいって不確かな情報」
 嘘を吐いているのは明白なのに、彼の言葉を嘘だとは僕にはどうしても思えなかった。
「それと――」
 僕の勘は……良く当たる。
「名前のどこかに『鬼』って字が入っているはずなんだ」
 嘘に聞こえない嘘。違和感。何かがオカしい。
 夜久束が僕に見せつけた、たった一枚の写真。
 それが話の整合性を完膚なきまでに破壊している。
 カラーですらない。わざと作る事も困難な味の有るセピア色のそれは、印刷は無論の事、紙そのものもかなり経年劣化していた。どれだけの年月を経たのか分からない。写真機が産まれてまだ間もない頃のものだと言われても僕は信じてしまうだろう。
 ならば、親友夫婦とやらはおろか、その忘れ形見すらほぼ確実に死んでいると僕は考える。寿命とは絶対だ。
 また、何よりの矛盾点、この写真の夫妻を親友と言うには夜久束は外見年齢が若過ぎる。若作りしていても三十半ば。それより上って線は考えにくい。
 だが、写真の男女と同年代ならば白骨死体でないと辻褄が合わない。年の離れた友人ってのも考えられなくは……いや、有り得ない。
「でさ、この学校にそんな名前の子がいないか誰かに聞きたかった折、丁度良く君が校門を出てきた。以上が俺の事情だ。で、どうだい? そんな子はこの学校に居るかな?」
 気が狂っているにしては会話だけならば成立している。物腰にオカしな点も見当たらない。ただ、その写真の存在だけが浮いていた。夜久束の場違いさ加減など気付けば跡形も無く吹き飛んでしまっているほどに。
 やはり、僕には人を見かけで判断する能力が無いらしい。何がこざっぱりと清潔感が有る、だ。
 本物のキ印さんじゃねえか。
 うわあ……君子危うきに近寄らず。上手くかわして逃げてしまおう。
「知りません。が、僕は余り人の名前を覚えられませんからね。人選ミスだと思います。そういった話を聞くのに僕ほど不適切な生徒は居ませんよ」
「いやいや、そんな事は無いさ。何せ、この写真二人の子供だ。否が応でも人目を引くルックスで産まれてきたのではと睨んでる。それが有力な手がかりと成り得るほどにね」
 荷稲高校で友達の居ない僕が噂を聞くほど外見で並外れている生徒……確かにいない事は無い。だがしかし、一人として「鬼」なんて物騒な文字を姓名に持ってはいないなあ。
「鬼……鬼、ねえ」
 姓ならば珍しいし、まさか名前に使われる事は無いだろう。
「パッと思いついたのは『ホオズキ様』かな」
「……ホオズキ様? 誰だい、それは?」
 夜久束が目を輝かせるせいで僕としては言い出しにくい。どう考えてもヒントにはならないだろうって内容だったからだ。
「誰っていうか、生徒じゃないんですよ」
 人間ですらないし。
「なら何かって言えば、学校に伝わる七不思議です。ホオズキって漢字で書くと『鬼』が入るから思い出しただけで、夜久束さんの探し人とは関係は無いでしょう?」
 これくらいしか僕から引き出せる情報は無いからそろそろ解放してくれ。そんな思いを込めた戯言も、しかし彼は思いの外に食い付いてきた。
「ホオズキ……なるほど、確かに『鬼』だ。興味が有るな。少し詳しい話を聞かせてもらえるかい?」
 目の色を変えたのは民俗学者としての知的好奇心でもそそられたのかも知れない。あ、そういえばお化けが好きだとか言っていたな。
 話をはぐらかす方向をどうにも間違えたくさい。まあ、いいや。どうせ、そこまでの長話にはなりはしない。
「校舎脇の大桜の下で告白すれば必ず成功する、の亜種と言えばいいんですかね。ホオズキ様に名前を呼ばれると恋愛が成就するって――まあ、高校で言い伝えられているとは思えない幼稚な七不思議が有りまして」
「その、ホオズキ様ってのは学校に住み憑いている幽霊か何かだったりするのかな?」
「いえ、どういった怪異なのかまでは知りませんね。大方、女学生の幽霊だとかそんなところだと思いますけど」
 興味無いし。だって僕の場合は恋愛、それ自体出来る体質なのかどうかがそもそも怪しい。その七不思議に無関心なのは仕方の無い話だろう。話半分の右から左に聞き流しで、詳細を記憶しているニューロンとはシナプス断線中だ。
 復帰予定は未定です。
「ふむ、現代版縁結びの神様って感じかな。面白い」
 何が面白いのか。僕はもう貴方に付き合って会話する事に飽きました。
「夜久束さん。この辺の高校ってのは確かなんですか? 例えば市内にはカイ高って略される高等学校がここの他にもう一つ有ったりするけれど、そっちって可能性は無いんですかね?」
 カイ高と略すは良いが、イントネーションのみで二校を判別するスキルが市内の高校生には求められていた。まったくもって、面倒くさい。略さなければいいのに、最初からさ。

 翌朝、県立海藍(カイラン)高等学校二年、華鬼行方(ハナオニユクエ)の水死体が発見された。
 しかし僕がそれを知るのは――これは、僕が死んだ後の話になる。
 夜、それは一日を反芻して反省するための時間。ただし、今日ばかりは反省も何も有ったものじゃなかった。
 一体何がいけなかったのか。僕はどこでレールを踏み外したのか。そればかりが頭の中で巡り巡る。
 十メートルの自由落下を優美にこなしたびっくり種無し手品少女。古文書レベルで古い写真の被写体を友人と言い切った頭のオカしい大学助教授。いや、朝の学生新聞にしたって、衆人環視もしかり。
 不可解だ。不条理だ。ただただ、ただただ不愉快だ。
 今までの僕の平穏なる十六年を嘲笑うように、退屈な日常を嘆いた僕へと振りかけられたスパイス。
 ただし、運命の女神はどうやら容器の蓋を失念していたらしい。胡椒まみれでこんなのとても食べられたものじゃない。
 イベント事は畳み掛けるように連続されても胃もたれするだけだと知る僕、オンザベッド。
 精神的に疲れた。
 繰り返す。返す返す。
 ――一体何がいけなかったのか。
 今朝の登校時点でどうにも様子がオカしかったんだ。という事は昨日。昨日の内には既に僕を取り巻く環境が様変わりを始めていたんだろう。知らぬ内に。って事は、だ。
 思い起こすのは「かしく」と名乗った少女の言葉。
「所有者が死ぬっていわく付きのダイアモンドみたいなものだから」。
 運命論も呪いもまさか信じられなどしないが。
 それでもやはり一連の発端は如月灯里。
 そこに有る事だけは疑いようも無い事実。
「ホープダイヤだって調べてみれば結局迷信だしな」
 ホープダイヤ――世にも珍しい大粒のブルーダイヤで、持ち主が次々と不慮の死を遂げたという呪いの宝石の代表格だ。だがこれも、今日の研究では宝石の価値を上げる為の流言だったのではないかと言われている。
 たとえ宝石の呪いが本物であったとしても。呪いなんて非科学的なものを確かめる術などは無い。解明出来ない以上、呪いなんてものは偶然の範疇に括らざるを得ない。呪ったから死んだのか、呪いとは無関係に偶然に死んだのか。そんな事は誰にも分からない。
 応用すると。
 如月灯里に出会ったから僕の日常は崩れた、なんてただの言いがかりでしかないって事なんだ。如月にしてみればいい迷惑だなんて容易く想像が付く。
 しかし。
 どうにも飲み下せない疑問が一つ。
 果たしてどこの誰が僕と如月の逢引現場を目撃したのか。カイ高の人間の仕業なのは間違いないだろう。間違いないが……平日午後二時に学校に居らず、僕の顔を見知っていて、一年六組の幽霊少女の逸話を聞きかじっており、繁華街とはお世辞にも言えない寂れた商店街を歩いている、新聞部員。
 ……。
 天文学的確率という言葉をここで使わないでどこで使うんだろう。新聞部に僕の同類、不真面目ちゃんが居るとは露と聞いた覚えが無いし、そもそも学校を無断早退するような輩は部活に入るべくも無い。
 帰宅部の僕が言うと説得力が有る気がしないか?
 となると、だ。
「……如月のストーカー?」
 深く悩みもせずにぽつり、口から漏れた言葉だったが、しかして考えてみれば的を射ている。
 ストリートを歩けば十人中9.8人が振り返るだろうとは想像に難くない頭抜けた容姿を少女は持っている。九人ないし八人ではない。9.8人だ。九八パーセントだ。百人でやっと二人、彼女を無視出来るかどうかって、ここまで言えば如月の「とてつもなさ」が少しは理解出来……いや、何を言っても百聞は一見に如かず、か。
 まあ、とにかく。彼女を見初めて妄想障害を引き起こした生徒が居たとしても何もオカしくはない。どころか、僕などは「今まで何も起こらなかった方がオカしかったんだ」と思ってしまえそう。
 疑問、氷解。
 如月灯里にはストーカーが存在している。
 論理的に考えれば自ずと真実は導き出されるものなのだよ、ワトソン君。なんてホームズなら言うんだろうけど。僕はホームズじゃあない。
 だからそれが分かったところで、如月をストーキング被害から救おうなんて大それた事は微塵も思わないし、ベッドの上から動こうという意思だって湧きあがりません。残念でした。
 正義感とか生憎、持ち合わせが無いものでして。
 僕はあくまで歯に引っ掛かった魚の小骨のようなものが気持ち悪かったから悩みこんでいただけであって、結論さえ出してしまえばそこまでだ。
 二度と会う事も無いであろうクラスメイトに不義理を貫いた所で痛くも痒くも無いし。
 一段落。一件落着。お疲れ様でした。
 「さて、っと」
 言ってベッドの下から取り出しますは、男子高校生なら誰もが必ず持っているある方向に偏った書籍。
統計を取った事は無いが主観で言えば所有率百パーセント。一度開けば挑発的な内容に有り余る好奇心を刺激する内容がめくるめく。
 そう――教科書だ。
 ちなみに、化学(バケガク)。
 授業はサボれどテストさえしっかりと点数を出していれば両親も文句は無いらしく。教師による「眠気を底から呼び起こす呪詛に耐える訓練」よりも一人でこうやって教科書と睨めっこしている方が性に合うんだ、僕は。
 他人のペースに合わせる、というのはどうにも苦手だ。
 そんなこんなで一時間、時刻に直せば二一時を少し過ぎたくらいか。階下から(僕の部屋は二階)電話の鳴る音が聞こえてきた。それだけなら無視で終わるが、その三十秒後、階段を走って上ってくる騒がしい物音が聞こえては僕も無関心ではいられなかった。
 なぜなら、この時点で電話の用件先が僕か姉の二択となってしまったからだ。
「階段は走らないの!」
「はーい」
「はーい。しーちゃーん、おでんわーですよー!」
 へえ、僕宛て。珍しい。僕に電話が来る事自体そうそう有る事じゃないのに。
 ……友達少ないから、さ。
 でもってケータイに、じゃなくてわざわざ家の固定電話に掛けてくるとか年に一回有るか無いかだし――どちらかと言えば無いし。誰だろ?
 弟と妹が二人で持ってきた(二人一緒に受話器を持つ意味など僕には分からない)コードレスフォンを受け取って目だけで礼を言うと、電話に出る。
「もしもし、替わりました」
「夜中に突然ごめんなさいね。ええと、私が誰だか……分かる?」
 声っていうのは不思議だ。人間の声帯なんてほぼ変わり映えしない気がする――にも関わらず、それで個人を区別する事だって出来るのだから。
 違えようも無かった。その声は容姿と同じように洗練されたものだったから。例えるならば、毒々しいシロップ漬けのブラッドチェリー。缶詰を開けた瞬間に部屋いっぱい広がる芳香みたいな、そんな声。
 持ち主の心当たりは、一人。
「分からない、角隠クン?」
 いわく付きのダイアモンド。
 所有者を呪い殺す。
「なら、ヒント。好きになってはいけない相手ってこの世界にいると思う?」
 大ヒント過ぎる。それと僕はその問いにはもう答えた。もう一度繰り返せっていうのか?
 別にいいけど。
「たとえ、相手がどんなロクデナシであろうと好きになった事、それ自体は咎められるべきじゃないと僕は思う。そうだろう――」
 電話の向こうで少女が笑った。
「――なあ、如月灯里?」
 舌の上でチェリーでも転がしてるみたいに、コロコロと笑った。
9, 8

  

オリジナリティ溢れる笑い声は、耳に残る感じ。
「何が可笑しい?」
「貴方が私の声を覚えていた事が、かしら」
「昨日の今日だ。僕の記憶回路はそこまで壊滅的じゃない。記憶障害だなんて事を言った覚えも無いな」
「でも、他人に興味が無いとは言っていたじゃない」
 ああ、それは言ったかも知れない。
「だから、私の声を覚えていなくても仕方が無いって思っていたのよ。覚えていてくれた事が嬉しくて、可笑しかった」
 好きこそものの上手なれ、は裏返せば興味の無いものに記憶集積回路は働きにくいって意味。
 だからと言って「記憶している」と「興味が有る」の間にイコールを引くのはいささか行き過ぎた話ではあるが。如月に興味が有るだとか勘違いされては堪らない。少女への関心は欠片だって心の中に有りはしない。
 それを一番分かっているのは僕自身。にしたって少し気恥ずかしいのは事実。
 私の声を覚えていてくれたのね。こんな台詞、なんだか一昔前のメロドラマに有りそうだよね? そんな事もない?
「如月の声を覚えていたのは……たまたまだ」
「そう」
「ジッサイさ。たった一日やそこらで忘れてしまう方がどうかしてるとは思わないかい?」
「意外ね」
 少女は電話口でどこか楽しそうに。
「貴方って『どうかしてる』と思ってた」
 そんな聞き捨てならない事を言ってくれた。
 たった二時間かそこら会話しただけなのに、しかもなるべく当たり障りの無い内容に終始したはずでありながら、そのような不当な評価を受けている事に対して僕は大いに苦言を呈したい。
 そしてまた、そのような短い時間で他人にかくも残酷な評価を下してしまう如月の人間性についても幾つか言いたい事が出来てしまった。
 ため息を一つ。
「どういう事だよ?」
「どういう事って?」
「どうして僕を『どうかしている』と思ったのか。その理由を聞いてるんだ、僕は」
「感想に理由なんて無いわ。そう感じた。それが全てでしょう? 有機体は学術論文のようにロジカルではなく、プログラムコードのようにデジタルな生き物でもないのよ、角隠クン。曖昧なの。頭をもっとファジーになさいな」
「馬鹿にされたら、その理由を知りたいと思うのは普通の思考じゃないのかよ」
「馬鹿にした? 誰が?」
 アカデミー賞ものの演技で惚ける少女。この状況でコイツ以外の名前が出る訳無いだろう……。
「君」
「え? いえ、馬鹿にするような事を言った覚えは無いけれど」
 少女は独特が行き過ぎて毒々って感じの、常識外れの思考回路をお持ちだった。人に対して「どうかしてる」が侮辱以外の形で使われた前例を僕は創作の中ですら知らない。
 もしかして「同化してる」とか「銅貨知ってる?」って言ったのかも――いやいや。いやいやいや。
 前後の文脈から鑑みて無理が有るだろ、流石に。
 国語の問題なら何の躊躇いも無く作成者の顔面に真っ赤なペケを付けてやるね。
「なら、なんだい? もしかして如月の中では『どうかしてる』が褒め言葉だったりするのか?」
「もしかしても何も『貴方って普通ね、つまらない』と言われるよりよっぽどマシでしょう? 少しくらい逸脱していた方がいいものなのよ、人間というのは」
 店売りの履歴書から特技を書く欄を外せば倍くらい売れるだろうな、と。いつだったかぼんやり考えた事の有る僕としてはどうにも肯定し難い。
 特技も得意も誇れるようなものは何も無いのが多数派だろう。
 少女は二の句を次いだ。
「とは言え逸脱は――少しくらい、で良いのだけれど、ね」
 何か含ませるところの有る言い方だったが、正直僕には彼女の瑣末な裏になど興味が無い。それよりもコモンセンスを教える方がこの場合余程重要に思えた。如月の将来的にも。
「どうかしてる、って言い方は少しくらいの範疇に収まり切らないだろ」
「そう……かもね」
「かも、じゃなくてそうなんだよ。ここまで言えば分かって貰えたとは思うが、人に対して『どうかしてる』って言うのは侮蔑以外の何物でも無いんだ」
「なら、そこから侮蔑の意味だけを抜き取りたい場合はなんて言えばいいのか、貴方知ってる?」
 これまた難しい事を言う。括弧して「良い意味で」とでも付け加えれば……ダメか。良い意味でどうかしてる、と言われて喜ぶ人などそうは居まい。
 居たら、ソイツは確かにどうかしてるな。
 僕がああでもないこうでもないと脳内辞書を引っ掻き回している間、双方共に無言だった。無言電話ってのは悪戯の代表格で、そこに気付いた時にようやく僕は我に返った。
 一体何を話してるんだろう、って具合に。
「あのさ」
「何?」
「話をガラリと変えて申し訳無いんだけど」
「失礼に当たらない『どうかしてる』が思い浮かばなかったのね」
 ええ、思い浮かびませんでしたが、それが何か?
「答えは『ユニーク』もしくは『独創的』よ」
 勝ち誇ったように言う彼女。おい、分かってるんなら最初から聞くなよ。
「一つ賢くなったよ、ありがとう。それじゃ話題を変えるが」
 むしろ本題に戻す訳だが。
「如月、君はこんな時間に一体何の用で電話してきたんだ?」
「こんな時間? まだ九時半にもなっていないでしょう。それとも貴方、もう寝ていたりする時間なの? あら、健康的ね」
「午後七時を過ぎたら電話は自重するのが世の習いだと僕は両親に教わった」
「一つ賢くなったわ、ありがとう。それじゃ話題を変えるけど」
「変えんな」
 お前が何の用件で電話してきたのか、僕はまだ一ミリも聞いてねえよ。
「間違ってるわ」
「何が?」
「ミリは長さの単位よ」
「ミリメートルならそうかもな。でも、ミリリットルになると長さじゃなくて体積だ」
「ミリタリは?」
「軍隊。ちなみにミリは千分の一倍って意味だがミリタリのミリは違う……さっきも思ったんだが、正解を分かっていての質問は余り良い趣味とは言えないぜ。じゃなくて。話を逸らすなよ、如月」
 わざと本題から遠ざけよう遠ざけようとしている節が少女には見受け……聞き受けられる。
 電話ってのは用件伝達の道具であるからして、どういうつもりでそんな無意味な事をするのか問い質したい気持ちでいっぱいな僕は、もしかしたら自覚の無い合理主義者であったのかも分からない。
「バレちゃった、か」
「確信犯かよ。なんでさっさと本題を言わない?」
「男子相手に話を長引かせようとする時の女子の心理なんて一つしか無いわよ」
 ……もしかしてまた暇潰しか、この女。
「自分を全世界の女子代表みたいに言うのはどうかと思うな、僕は。あと、女子の心理なんて僕には一つも理解出来ないから『一つしかない』なんて当たり前を装って言われた所でどうしようもないんだ。分からないものは分からない」
 まだるっこしい真似をされたって時間の無駄。ヒントじゃなくてそのものズバリのアンサをよこせと言っている。
「会話の妙って知ってる?」
「相手を選ばなきゃ成立しないんだよ、そいつは。選りに選ってのこの僕じゃ、如月、君の選択ミスもいよいよ極まっている」
 会話を楽しむような真似が普通に出来るのならば友達だって作っただろうし、恋人だって居たかも分からない。それが出来ないからこその僕だ。
 自虐じゃあない、断じて。孤独は孤高に繋がる道。
 これが僕の生きる道だ。
「私と電話していても楽しくはないかしら?」
「悪いけど楽しくはないな。君の名誉のために言っておいてあげるけど、かと言って嫌って程でもない。僕はさっきから君の電話代の事ばかり気にしている。分かるかい? つまり得るものが無い分、僕にとっては時間の浪費なだけだから面倒って気持ちは大きくてさ」
「随分とはっきり言うのね。女子を相手にそんなあけすけじゃきっと学校ではモテていないでしょう? どうかしら?」
 ……ノーコメント。
「男女差別をしないだけだよ」
「ふうん。男女無差別なのね」
 おいおい。意味は間違ってないが、なんだか僕が凄い鬼畜なヤツに聞こえる発言だな。
「私は男女で差別化を進めていくべきだと常々思っているのだけれど、それは本当の意味での男女平等なんて社会に存在させる事が出来ないからそう考えているの。貴方のように主義主張を一貫して徹底しているのなら、男女無差別も割合結構な話だと思うわね」
「無差別無差別連呼しないでくれ」
 差別の対義語は平等。決して無差別ではない。殺人とか強盗とか、とりあえずマイナスの言葉に付いてくるのが後者。
「あら、含ませるところは一つも無かったのよ。気分を害したのならばごめんなさいね」
 嘘吐け。「無差別」の部分だけ油性マジックの太字でアクセント記号が書かれていたのを僕は聞き逃しちゃいない。
 僕は電話口で項垂れた。
「結局。君、電話を掛けてきておいて用件は無いのかい?」
「嫌になった?」
「ああ、もう一分待って僕の望む回答が得られなかったら切ろうと思ってる」
「そう、なら切り上げ時ね」
 結局、本当にこの電話に意味なんて無い訳だ。肩透かしにがっくりと、肩を落とす僕とは裏腹に電話の向こうの彼女は、

 如月灯里は、艶やかにころりころり笑った。

「ねえ、角隠クンの部屋は二階?」
「いきなりなんだよ。いや、子供部屋のセオリー通りに二階だけど」
「ええと、二階は正面から見たら部屋が二つ有るわね。どっち?」
「ああ、その左側。方角で言うなら西……って、オイ嘘だろ? ……マジで!?」
 僕は寝転がったベッドから飛び跳び起きて、窓に掛かっている蔓模様の遮光カーテンを勢い良く引っ張る。鍵を開けるのももどかしく、内と外を分断するガラス二枚にお役御免を言い渡す。
 途端、風が部屋へと流れ込む。僕は風とは逆方向、外に向けて上半身を乗り出す。そして、見た。探すまでも無かった。
 夜の中に有って、街灯の下に有って。夏と秋の移ろいの間に有って。月の光に刺されてなお。
 それらは全て自分のための舞台装置だとでも言うように。その持つ金色の髪は彼女の名が示すように、照り返しているのではなく自ら淡く発光しているみたいに見えて。
 月は自ら光っているのではないと、そんな事、誰も教えてくれなければ思いもよらないだろう。彼女はまさにそうだった。電信柱に凭れ掛かって立ち、こちらを見て微笑むその姿は輪郭がくっきりと、周囲より一段浮き上がっていた。
 震える手を意地で止めて、受話器を耳に当てる。恐る恐る口にしてみた。
「……如月」
「なあに?」
「ちょっとケータイを持っていない方の手を頭上で振ってみてくれるか?」
 視線の向こうの金髪少女が左手を頭上で旋回。フランス革命を描いた有名な絵画をその姿から僕は思い出した。女神が旗を持って民衆を扇動してるアレ。
 ただし、彼女は女神じゃなくて不幸のダイヤ。
「僕の家の前で何してんの、如月?」
 本当、何してんだ、コイツ。
「誰かのお願いを聞いてメトロノームの真似事をしているの。ところで、いつまでやっていればいいの?」
 ……いつまでやってる気だよ。僕がオーケーを出すまで継続する気か?
「いや、もういいよ。ありがとう」
「どういたしまして」
 街灯下の彼女は白いワンピースの裾をちょんと摘まんで優雅な一礼。あんなの今時演劇でしか見ない。
 二階、自室から上半身を出す僕。それを見上げる彼女。なんだ、この逆ロミオとジュリエット。
「で、なんで僕の家の前に?」
「――月が綺麗よね」
 見上げる。それはかぐや姫が郷愁に駆られるのも仕方が無いと納得してしまえる、それは見事な月だった。
「今夜は八月十五夜」
 僕でも知っている、中秋の名月。一年で一番月が綺麗な夜。今夜。ああ、なんてタイムリな。それは連れ出す格好の口実だ。
「だから、お月見のお誘い」
 そして、こんなに断り難いものもそうは無かった。
「角隠クン、今夜は暇かしら? 忙しい訳無いわよね、だって――」
 はあ、僕とした事がしくじった。今更気付いたところで遅い。あの軽口が最初からこの一言の為だけの時間稼ぎだったなんて誰が気付く?
 とんでもない策士だ、この女。
「――だって、私とあんなに世間話をするくらいだもの」
 深夜徘徊の誘いを拒む台詞はおろか、ぐうの音さえ僕の喉から出て来やしなかった。
10

きすいと 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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