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THE BACK HORNメドレー/泥辺五郎

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『サニー』


 半分が曇りで半分が晴れで。
 雲はどす黒くあまりにも凶暴そうで。だけど晴れ間は無邪気過ぎて早死にする子供のような明るさで。
 そんな空の下で僕らは有刺鉄線を踏み越えた。
 足の裏から滴る血が靴底から漏れて、地面を濡らしていた。
「痛いよ、兄ぃ」
「俺も痛ぇよ、馬鹿」
 僕らは何も知らないまま笑いながら走った。どこまでも走り続けるつもりだった。僕らが生まれ育った崖の上の家から見える景色はあまりにも暗くて狭くて寂しくて。そこから見下ろす景色を世界の全てだとは思いたくなかった。
 だけど道はどこまでも続いてはいなくて。
 はしゃぎすぎて忘れかけていた痛みは、僕にも兄にも重くのしかかってきた。もう何もおかしくないのに、顔に貼り付いたままの笑顔から僕は表情に似合わぬ涙を流した。
「痛いよ、兄ぃ」息も絶え絶えに。
「俺も痛ぇよ、馬鹿」兄は震えながら拳を握りしめていた。それは僕を殴るためのものではなくて、僕らを待ち構えていた大人達に向けて振るわれるための拳だった。
 だけど僕らは幼くて無力で。
 だから僕らは大人達に簡単に取り押さえられて。
 曇り空は僕らの背後にあって、明るすぎる空ばかり目に入りやがって。その下で兄はたくさん殴られて。いつも兄にわがままばかり言う僕を、厳しく叱っていた兄が、だけど本当はすごく優しかったあの兄が。
 殴られて。
 蹴られて。
 血と涙を流して。
 僕の名を呼んでた。
 それから僕らの後ろから近付いてきた黒い雲が雨を降らして。
 土砂降りの雨の下で兄は動かなくなっていた。
 それから。
 それから。
 僕は有刺鉄線の内側にある、崖の上に建つ家に戻って暮らしている。足の怪我は治ってしまった。僕はここから逃げることを諦めた。もう隣には兄がいない。もう隣には誰もいない。僕は自分がいることすらうまく自覚出来ないでいる。
 一人遊びばかり上手くなっていく僕は何度も何度も兄に語りかける。あの時僕の名を呼んだ兄には、震えるばかりで何も答えられなかったのに。
「痛いよ、兄ぃ」僕はもうどこも痛くはないのに、幻の兄に語りかける。本当は心が痛いのかもしれないけれど、そんなことすらうまく感じられなくなっている。
「俺も痛ぇよ、馬鹿」と兄は言わない。僕の想像出来る兄の顔は、血を流したり腫れ上がったりはしていない。
「逃げようぜ」と兄が上機嫌で僕を誘ってくれた時。僕はこんなことになるなんて思いもしなかった。何も知らないままでいれば良かった、死ぬのは僕の方で良かった、と僕は何度も思う。
「馬鹿」
 幻の兄にそのことを語りかけたりはしていないのに、兄の優しい声がどこからか聞こえてくる。
 コーヒー色した闇が、僕が唯一眺められる世界の景色をつまらなくしている。僕を取り囲む壁は補強されて、有刺鉄線はとても踏み越えることなんて出来ない高さになってしまった。
「でも、行くよ」
 そのうちね、と付け加えてしまう僕はまだ幼すぎる。



『ヘッドフォンチルドレン』


 ヘッドフォンの奥から聞こえてくる歌声が紡ぎ出す断片的な物語は、詳しいことは分からないけれどどこか切なくて悲しくて、聞く者に何かを訴えかけているということは分かった。それはCDが鳴らしていたものではなかった。それはMP3という拡張子付きの音楽ではなかった。
「聞こえた?」と少女が言った。
「うん」と僕は頷いた。彼女が誰かなんて知らなかったのに、たった今すれ違っただけの人だったのに。
 だけど僕らはヘッドフォンで耳を覆い、世界に向けて膝を抱えて生きているような姿勢は共通していた。僕と彼女は、いやもっともっとたくさんの僕ら、ヘッドフォンチルドレンは、どこかの誰かの、叫びに似た歌声を耳にしていた。
「助けに行かなくっちゃね」と少女が言う。今にも走り出しそうな勢いで。思わず手を伸ばして引き留めないと車に轢かれそうだった。
 伸ばした手で、僕は初めて女の子に触れた。
 それはとても柔らかくて頼りなくて。
 彼女のヘッドフォンは高級品で、僕のは安物で。
「まだ聞こえるよ」と彼女はヘッドフォンの片方を僕に差し出してくれた。僕は素直に、いつでも耳から離さなかった安物のヘッドフォンを脇に挟んで、彼女のヘッドフォンに耳を傾けた。本当は僕の物からも聞こえていた。でも僕は彼女の物で聴きたかった。
 その歌声を。
 その物語を。
「なんて呼べばいい?」僕は彼女の名前を聞きたかった。
「サニー」と彼女は言った。
 それが彼女の名前か、聞こえてくる歌に彼女が題名を付けたのか、僕はうまく聞き直すことが出来なかった。
 ヘッドフォンチルドレンには勇気が足りない。二人並んで六時間歩き続けた間、僕は一度も彼女の手を握れなかった。



『空、星、海の夜』


 有刺鉄線の内側に閉じ込められているかつての少年は、逃げ出すことなく大人になってしまった。
 ヘッドフォンチルドレン達も大きくなって、他人の話や喧噪に耳を傾けている。
 気の触れた風が泣いているビルの谷間を、かつては美しい名前を背負っていた少年少女達が大人の振りをして歩いていく。かつての自分を影法師にしてビルの壁に焼き付けて、変わっていくことに慣れてしまっている。
 だけど時折風に乗って歌が届く。かつて耐え難い悲しみの中から溢れ出した、時と場所を越えて響く、叫びに似た歌声が。さりげなく日常の中に挿入されるその歌声は、かつての子供達の耳に入り込み、記憶の底をノックする。
「ねえ、これなんて歌だっけ」と誰かが言う。
「サニー」と誰かが答える。
「じゃあ、行こうか」と誰かが言って。
 彼ら彼女らは歌に導かれて歩き出す。
 もう手を繋ぐことにためらいはない。


(了)
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