私の父は歌手だったそうだ。
そのことを知ったのは、父の一周忌の夜だった。
ようやく親戚全員が帰り、母と二人、リビングでお茶を啜っていたとき、何気ない調子で母は言った。
「パパはね、歌手だったのよ」
それを聞いて、私は心底驚き、思わず声を上げてしまった。
何故なら、父は生前、決して人前で歌をうたおうとしなかったからだ。
少なくとも私が知る限り──つまり三十年近くもの間、父は人前で鼻歌はおろか、口笛さえも吹かなかった。
たとえ誰かに強引に求められても、父は笑って首を振り、
「私は、歌はダメなもので」
と、いつも断っていた。
だから、私は父が歌手だったと言われても、すぐには信じられなかったのだ。
そんな驚いたままの私をおいて母は、
「ちょっと待っていなさい」
と言って、物置の方へと向かった。
数分後、母は一枚の古びたレコードを手に戻ってきた。
「パパよ」
渡されたレコードのジャケットには、かなり若くはあるが、たしかに父の姿があった。
「まだ、あっちにいたころね、出したの」
父はアメリカ人だった。
日本人である母とは、母の留学中に知り合い、恋に落ちたという。
結婚してすぐ日本へ移り住んだというが、最初のうち、父は言葉もわからず仕事もなく、生活はとても苦しかったそうだ。
そのことは私も以前から聞かされていた。
話を聞いて、私が最初に思ったのは、何故そんな大変な思いをしてまで日本で暮らすことを選んだのか、ということだった。
私の問いに、父ははにかみながら、
「ママが生まれた国を、もっと知りたかったから」
と、答えた。
「私、留学して間もない頃にね、ある人に恋をしたの。パパじゃない人よ。素敵な人で、毎日デートをしたわ。その頃の私は、まだあんまり英語は上手じゃなかった。だけど、その人とはたくさん話をしたわ。今までの自分のこと、今日あったくだらないこと、そして将来のこと。そのおかげで、私の英語はみるみる上達したの。二年も経つと、会話で困ることはほとんどなくなった。私たちは、きっとこのまま、ずっと恋人同士でいると思っていたわ。でもね……別れは、突然訪れたの。別に喧嘩をしたとか、嫌いになったとかじゃないの。ただ、二人とも……若かったのね。別れ話を切り出したのは、彼の方からだった」
私の手からレコードを取り、母は部屋の隅に置いてあるプレイヤーへと、それをセットした。
ジ、ジ、と小さなノイズと共に、優しいメロディーが流れ始める。
Who can say what love is?
Does it start in the mind or the heart?
When I hear discussions on what love is
Everybody speaks a different part……
「もう恋なんてしない、って思った。それでね、ひとりで、あるジャズバーに入ったの。お酒なんて、ほとんど飲めなかったのにね。ちょっと、自暴自棄になってたのね。治安だって、決して良くはなかったのに」
目を閉じ、まるで歌うように、母は語り続けた。
「その店で歌っていたのが、パパだった。すごく素敵な声で、私は自分が泣いてたことなんてすっかり忘れて、思わず聞き入ってしまったの……曲は、今流れているこの曲だった。『BUT BEAUTIFUL』っていう曲よ。知ってる?」
私は首を横に振った。
「そう、そうよね……それでね、私はショーが終わったあと、いてもたってもいられなくなって、彼の楽屋へ行ったの。彼は笑顔で迎えてくれたわ。私は……何でかしらね、いきなり彼に言ったの。すごくつらい失恋をした、って。彼は私の話を真剣に聞いてくれた。初対面で年下の、しかも生まれた国も違う私の話をね。嬉しかった。いつの間にか私はまた泣き出していたの」
そう言った母の目は、うっすらと涙に濡れていた。
「私たちは、付き合うことになったわ。おかしいわよね。さっきまで、もう恋なんてしないって思ってたのに。でもね……運命だと思った。昼間は、私は学校があったし、彼も仕事を掛け持ちしていたからなかなか会えなかったけれど、夜はあのバーで毎日のように会ったわ。デートはほとんどできなかったけれど、それでも毎日が本当に幸せだった」
流れていた曲が終わり、次の曲が流れ始める。
「あっという間に月日は流れて、私は大学を卒業した。本当は帰国する予定だったんだけど、私は就職を決めて、アメリカに住むことを選んだの。親には最初反対されたけど、結局は私の熱意におされて納得してくれた。彼も最初反対したけど、親が認めてくれたって言ったら、すごく喜んでた。そんな、矢先だったわ……」
母が立ち上がり、レコードを止める。
急に静かになった部屋は、妙に寂しく感じられた。
「事故に、あったの。車の事故よ」
母は、すっかり冷めてしまったお茶を一口すすった。
「体の怪我は大したことなかったけど……喉をね、強く、打ったらしくて。お医者さんは、喋るぶんには問題ないくらいには回復するだろうって言ったけど、歌は……無理だろうって」
震える声をごまかすように、母は小さく咳払いをした。
いつの間にか、私の目も潤み始めている。
「私、それを聞いて涙が止まらなかった。けどね、彼は笑って、かすれてはいたけど優しい声で言ったの。『僕は大丈夫。だけど、ごめんね』って。それを聞いて、私は決心したの。この人と結婚しようって」
流れる涙を拭って、母は照れたように笑った。
つられて私も笑う。
「日本に住もうって言ったのは私。その方が、音楽を忘れられると思ったから……。うちの親にそのことを話したら、アメリカに住むって言ったときより驚いていたわ。でも、彼と会って話をしたら、『いい男を見つけたな』って。それからすぐに結婚して、私の実家に引越しをして……最初のうちは、彼がまったく日本語を話せなかったから、私が働いて、親にも援助してもらって……彼の仕事が見つかったのは、それから一年くらいしてから。あなたも知ってる通り、英会話講師のお仕事。その頃には、もう声はすっかり元に戻っていたわ。だから私は言ったの、試しに、歌ってみたらどうか、って。でも、彼は笑って、何も言わずに首を横に振ったわ。あなたが生まれたのは、その後、すぐ」
お茶を淹れ直しましょうね、と、母はキッチンへ立った。
私はレコードのジャケットを見つめていた。
若い父は、目を閉じてひとり、スポットライトを浴びながら歌をうたっていた。
母が急須をお盆にのせて戻ってきた。
「ねえ、もう一回、聴きたい」
私の言葉に、母は嬉しそうにうなずいた。
レコードに、針が落とされる。
聴こえてくるのは、優しい、父の歌声。
歌声を聴くのは今日が初めてなのに、不思議と懐かしい気分になる。
Love is funny or it’s sad
Or it’s quiet or it’s mad
It’s a good thing or it’s bad
But beautiful……
「それが、恋ってものなのよね」
ポツリと呟いた母の横顔は、まるで少女のように、輝いていた。
了