その3
「足立、おまえひょっとして腹痛いんじゃないか?」
「……ぁ……わかる……?」
「ああわかる。保健委員のカンが言う。その顔、その汗、その目つき。重症だ」
「そっか……わかるんだ……。実は、昨日、消費期限過ぎたヨーグルト食べちゃってさ……」
ヨーグルトに消費期限なんて書いてあったか? と、千代崎晩は思った。が、すぐに気を取り直す。
まァいいや。
いま大事なのは足立だ。他にあるか?
「せんせー」
「……。なんだ千代崎。質問か?」
授業中に質問するやつがまだ日本にいると思っているのかこいつは。
晩はのろけたような笑顔を浮かべる。数学の田口向けの口調で、
「あ、なんか足立が腹痛いみたいなんで保健室連れていきます」
田口は晩を透かすようにして、眼鏡越しに足立を睨む。
「足立、我慢できないのか」
「……ちょ……きついです……」
「……仕方ないな。ここは重要なところなんだが」
言いながら、田口は手元の教科書を惜しそうにめくる。忌々しいとばかりに首を振り、
「行くならさっさと行ってこい。戻れそうだったらすぐに帰ってくるように」
「わかりました……」
足立は頭を下げて立ち上がって教室を出た。晩もノートエンピツ教科書をそのままに追いかける。クラスから好奇とも、「なんとなく田口よりは見心地がいいから眺めてる」とも取れる視線を浴びながら、思う。
足立盟子は女子なんだし、もっと他の口実を作ってやればよかっただろうか? いいやでも、腹痛は別に悪いことではない。そもそもしたい時にできない方が間違っているのだ。人間には個性というものがあり、学校はそれを尊重しなくてはならない。だから正しいのは俺であり、足立もまた正しい。
「おまえもそう思うだろ、足立? ……あれ?」
振り返った時にはもう、廊下はもぬけの殻。足立はすでに戦いに赴いた後だった。保健室へ連れて行くと言って足立一人がトイレへ行く、というのはもう入学してから何度も繰り返されたことだったし、そもそも晩は独り言が多いので自分のセリフが空ぶったぐらいでいちいち気にするタチではない。
腕時計を見る。十四の誕生日に妹の千夏からもらった三千円のいいやつだ。
授業終了まで、三十三分。
つまりそれが、千代崎晩と天堂帝梨が愛を育む時間というわけだ。
○
「てんてー、足立連れてきましたー」
「そうか。診せてみろ」
「てんてー、足立トイレいきましたー」
「そうか。……千代崎、おまえは毎回同じやり取りを繰り返して飽きないのか?」
「うぇへへへへ」
晩はだらっだらに緩めた顔つきで天堂帝梨の前の丸椅子に腰かけた。保健室の椅子は、職員室の椅子よりなぜか少し柔らかい気がする。が、そんなことをいちいち気にする晩ではない。
「いやね、俺ァ先生のことを思って言っているんですよ」
「ほぉう? よくわからないな、なぜ今のやり取りが私のことを思って言うことになるのだ?」
「だってさ、あほかの先生だったらね、相手にしてくれないじゃないすか。うち、進学重視だから先生とかもキツキツな人多いでしょ」
「そうなのか?」
「またまたとぼけちゃって。うちの校医さんが自分の職場の評判を知らないわけでもなかろうに」
「ああ」天堂帝梨はドリンクバーにいってオレンジジュースを注ぎながら、
「あんまり面白そうな要素じゃなかったから忘れてた」
その一言に、じぃんと来た。晩はぼんやりしながらカップを受け取り口をつけながら、その目はしっかりと天堂帝梨を見ている。
嘘みたいに白い肌、すらっとした手足、作り物みたいに整った黒髪は腰まで届き、白衣には染みひとつなくいつもアイロンが利いていて、その足元のスリッパは真っ白いウサギがプラスチックの目玉を光らせている。
女医さんだった。
思う。
自分は馬鹿だ、と。
それもとてつもない馬鹿だ。今時、いないと思う。
本気の本気で、先生に惚れるやつなんて。
「…………」
晩はずずず、とオレンジジュース(に見える別の何か)をすすりながら、保健室(に見えているだけの宇宙船)を見回した。病人用のベッドのカーテンは締め切られている。足元には綺麗に揃えられた上履き。赤ラインは女子のしるし。
保健室登校の葉山先輩だ。三年生。身体が弱いのか、教室が地獄に見えるのか、原因はわからないが教室へは行かずに保健室で勉強しているらしい。よく耳を澄ませばカリカリと何かを書き付けるような音がする。なんかちょっと怖い。
「あのさ、てんてー」とまで言ってから、気づく。本人が薄布一枚向こうにいるのに本人に関することを聞くのも失礼かもしれない。だがすでに天堂帝梨は「ん?」と眉を上げてしまっていた。
綺麗な眉だ、と思う。
ほんとうに、作り物みたいな――
「あ、いや」
ハッと我に返り、
「先生、あの、俺、部活なにやったらいいですかね」
気づけば、順序もへったくれもない質問が口から飛んでいた。だが、天堂帝梨は困った顔ひとつ見せない。
「ん? 部活? おまえまだ決めてなかったのか。もう六月の頭だぞ。仮入部期間もう終わったろお?」
天堂帝梨は時々妙な発音で喋る。
「や、そうなんすけど……」
部活に入る気などさらさらなかった。「勉強するなら部活しなくていいよ」と校風も言ってくれていることだし、高校生活はリベロなポジションに落ち着くのだ。
が、言ってしまった言葉は消えず、「やっぱなんでもないですアハハ」と言って代わりの話題も見つからず、
「高校生ですよ?」
馬鹿か、と自分でも思う。
天堂帝梨はいっそ冷徹なまでに大真面目に返してくる。
「高校生だな、確かに」
「高校生って言うのはですね、やっぱり何かしなくちゃいけないんですよ。ほんとですよ。十代っていうのは脳味噌が一番柔らかく、そして後半になれば成長は落ち着き後は身体の基礎を作る時代になるわけでして、つまり人間が最も変化できる、一番可能性の多い時期なわけなんですよ!!」
その時に、と拳を握り、
「何もせずにいていいのでしょーか? いやよくない、絶対よくない、それじゃあ俺は収まらない、たった一度の高校生活、男だったらなんかしらの天下獲らなきゃ嘘でありまして、目標は困難であればあるほど燃え盛るものであり、だから俺は――」
天堂帝梨がまっすぐに見つめて来る。晩は溢れ出した嘘なのか本当なのかわからないセリフをかみ殺す。
だから、俺は、先生が好きになったんです。
「――だから俺は、なんだ? 千代崎」
「へ?」
いつの間にか立ち上がっていた晩は、ぽすんと椅子に腰を下ろし、
「だから、そう、俺はナニかしたい。先生、どう思います? そこんところ手取り足取りご教授願いたいと思いまして、」
「生物というのは」
生物?
なんで生物の話になったんだ。晩は開いた口をそのままに、目を細めて語りだした天堂帝梨の横顔を見つめる。写真撮りたい。
「基本的に、自分の利益にならなければ他者を助けない。助ける時は、自分の利益になると知っている時だ。知識で、あるいは経験で――貸しを作れば、取り立てられる。その債務を自分の危機に返してもらおうというわけだ。――どう思う?」
晩は答えられない。天堂帝梨は気にせず続ける。
「もし仮に――利益にならないと知っていながら、他者を助けようとするやつがいれば、そいつは冗談抜きに生物を超えている。真生物と言ってもいい。しかしこの世に本当に助けて利益にならないやつなどいるだろうか? 誰だって、何かしらのメリットを内包しているのではないか? そう思うと、誰かを真に助けるということをどうやって確かめればいいのだろう?」
なにを言っているのかよくわからない。
が、うろ覚えのテストを前にした時と同じように、部分的な単語を繋げてとりあえず喋る。
「助けて意味ないやつとか、いないと思います」
本当にそう思ってるわけじゃなかった。
ただ、そう言えば格好がつくと思った。
それに、意味のわからないこの天堂帝梨の言動も、ひょっとすると逆にチャンスなのかもしれない。だいたいこういう意味不明なことを言い出すやつは話を聞いてもらいたがっていて、そして正しい答えというのを誰かが言ってくれるのを待っているもので、それは天堂帝梨だって例外ではないのかもしれない。
ひょっとすると、これからこの女医さんは自分に『弱さ』を見せようとしているのかもしれない。
そこまで進んでいたか、晩は万感の思いを込めて思う。
この女、落ちたな!
だが天堂帝梨は、ふむ、と頷き、
「言ったな?」
「ええ、言いましたとも」
胸を張って頬をつやつやさせている男子を前に、天堂帝梨は、その目をガラス玉のようにして、
「ならば契約成立だ」
「引きこもりを家から引きずり出す?」
「そうだ」
「それに一体全体どんなメリットが」
「助ける甲斐のないやつはいないんだろ。それともあれは嘘だったのか」
「い、いや……それは……あのう……」
「いいじゃないか。やりたいことを探してるんだろう? だから私が作ってやったのだ。大人しく手伝え千代崎。礼はするぞ」
それまでガックリ意気消沈していた晩の脳に「礼」の一字が刻印される。顔をがばっと上げ、
「礼? 礼というと?」
「奢ろう、何かを」
そんな大仰に言われても。
盛大なため息をつきかけ、だが待てよ、と晩は口をつぐんだ。メシ? 先生と? ひょっとするとなんでも?
(金がないんでな……今晩は私で我慢してくれないか?)
「我慢します!」立ち上がって叫んだ晩に、
「そうか! わかった! そう言ってくれると信じていた!」と天堂帝梨も机をひっぱたいて立ち上がり、晩の肩をバンバンと叩く。
「それでこそオスだ。私が見込んだ男だ。よろしく頼むぞ、宙木が来ないと私はひどい目に遭うし宙木も自宅でくすぶり続けることになる。だが約束しよう、すべて上手くいけば私はお前を真生物として認めると!」
「あははははは」
なんだか面倒事を引き受けてしまったような気もするが、大切なのはてんてーだ。てんてーの手伝いをすることだ。
他にあるか?
(解説)
がんばって軽い話を書こうとしてるのが痛ましいですね。
世に言う「手なりで書く」の練習をしていたつもりだったんですが、
手なりで面白コメディが書ける人はすげーなという感想しか生まれませんでした。