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気晴らし3:「夫婦の呼吸」

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 あうんの呼吸、もしくはツーカーの関係、というやつがある。
 多くを語らずとも通じ合う仲……という意味だが、私の両親がまさにそれだった。

「おい」

 父が母に向かって発するのは、いつもこの一言だけだ。それ以外の呼びかけを聞いたことがない。

「はい」

 そして父に対する母の返事も、いつもこの一言だけだった。それ以外の返事は、やはり聞いたことがない。
 けれど、二人はまるで魔法のように通じ合っていた。ある時は母はお茶を持って現れ、またある時はご飯の支度を始め、風呂を沸かす。父はその様子を仏頂面で見つめた後、テレビや新聞に再び目を向けるのだ。
 毎日毎日、儀式のように繰り返されるやりとり。そこに私の理解が立ち入る隙は、まったくなかった。

 思えば典型的な、そして前時代的な、亭主関白の家庭だったのだろう。
 そんな家庭に、いい印象を持ったことなんて一度もない。

 高圧的ですぐ暴力を振るう父親は、いい年をしたガキ大将で、それを黙って受け入れる母はその奴隷だ。
 だから、思春期になるころには、毎日のように大喧嘩を繰り返した。
 私はお母さんと違う。あんたの言いなりになんかならない。
 そう叫んでは平手打ちを食らい、毎晩のように泣き明かした。
 母はそんな私を慰めてくれるものの、父の暴力からは守ってはくれない。そんな母にも、やはり憎しみを募らせた。
 ここに、私の居場所なんてない。
 だから、高校卒業と同時に家を出た。親には内緒で、就職先も決めて。未成年の就職には親の同意が必要だったが、印鑑を盗んで偽造した。
 すべてを知らせ、家を出て行くと宣言した時、父は激怒し、二度と家の敷居をまたぐなと叫んだ。事実上の、勘当だった。

 東京の生活は、予想よりずっと甘くなかった。何の経験もない、18の小娘の居場所なんて、都会にはないのだ。
 それでも、必死で仕事にしがみついた。どんなに辛くても、あの家よりはマシだ。絶対に帰ってなんかやるものか。……そう心の中で繰り返しながら。
 母とは、時々連絡を取り合っていた。顔だけでも見せてくれと言われたが、何かと理由をつけてそれには応じなかった。実際、必死だったのだ。
 なんとか生活が軌道に乗り、一人でもやっていけるようになったとき、私は三十を数えていた。

 

 ――父が死んだという報せを受けたのは、それから間もなくのことである。



 親子の情は、なんとも分かちがたい。
 あれほど憎んでいた渋面も、いざ棺から対面してみると懐かしく見えてくる。因果なものだ。
 半年前に癌で入院したことは、母から聞いていた。余命については聞かされていなかったが、まさかこんなに早いとは。
 せめて一度、会っておけばよかった。ズルズルと再会を引き伸ばしたことへの罪悪感が、少しだけ胸を締め付ける。
「思ったより、早かったねえ」
 母がポツリと呟いた。
 通夜の席。酒を飲んで騒いでいた親戚連中は、すでに赤ら顔で退散している。馬鹿でかい和室に、今は私と母だけが、二人きり。
「綾子に会うまでは死なんと、言うとったんじゃけどねえ」
「そんなこと言ってたの? お父さんが?」
 思わず聞き返す。そんな気弱な父の姿を、想像できなかった。
「いや。いつも通り『おい』しか言わんけどな。じゃけんど、お母さんはお父さんの考えることなら、何でも分かるけんね」
「何、それ」
 思わず苦笑が漏れる。 
「そんなの、ただの思い込みじゃない」
「いんや」
 だが、母は頑なに首を振る。
「お母さんには何でも分かるんよ。お父さんは確かに、あんたに会いたがっとった」
「あのねえ」
 押し付けがましい物言いに、思わず言い返していた。
 いくら戻ってこなかったとはいえ……通夜の席で、なにも死人にかこつけた恨み節を聞かせなくたっていいじゃないか。
「『おい』の一言で、そんなこと分かるわけないでしょっ」
「そがんこたぁない」
「あるのっ!」
 思わず出した声の大きさに、はっとして口をつぐんだ。
 声は嘘みたいに畳の目に吸い込まれ、かわりに、胸から罪悪感がじわじわと湧き上がってくる。
「ごめん……お母さん」
 おそるおそる謝った。
「……音程」
「え?」
「基本的には音程やね。Eの音を基点として、16分の1音ごとにだいたいのメッセージが決まるんよ。あとは音の長さ。音程と違ってバリエーションは少ないけれど、意外とニュアンスが変わってくるから見逃せないんだわ。お母さんはBPM=60あたりで捉えてたねえ」
「お母さん?」
「ちょっと特殊なのは発声かねえ。『お』に混じる鼻濁音の具合でメッセージを読み取るのにゃ、結構な時間がかかったもんさ。最近はビブラートも表現に加えるようになってね。あんたが出て行く前より、ずっと読み取れる幅が広がったんよ」
「ちょ、ちょちょ、待って? 一旦落ち着こ? タンマタンマ」
 急に早口で語り出した母を、慌てて止める。
「どうしたんよ?」
 母はまたおっとりとした口調に戻り、小首を傾げる。
「……今の、なに?」
「なにって……あたしとお父さんの会話を説明したんじゃろが」
「いや、えっと、そうなんだけど。なんか予想外に専門的というか、何というか」
「何を言うとるんよ。このくらいウチの町内じゃ当たり前で?」
 そう言って母は笑う。
 当たり前なの? そうなの?
「あんたも知っとる通り、お父さんはあれで頑固でねえ……意味を取り違えると怒るから、お母さんも必死だったんよ」
 母はしみじみと言う。
 いやいや、ちょっと待て。
 これが夫婦の「ツーカー」の正体だというのか。
 父が「おい」の一言に音程やら長さやら発音のバリエーションを変えて、単なる呼びかけ以上の複雑なメッセージを伝えていたと?
 母はそれをいちいち鋭く読み取って、対応していたと?
 そんなスパイの暗号みたいなやり取りが、あるわけが……。
 だがその時、脳裏に一つの記憶が蘇った。
 あれは私が、中学生だった頃。
 母は町内会の婦人コーラスに参加しており、私は何度か母を迎えに行ったことがあった。
 いつ行ってもみんなで煎餅をバリバリかじってばかりで、全く練習していた様子がない。
 にも関わらず、何故か彼女らは様々なコンクールで賞を取り、地元ではちょっと名の知れた存在だったのだ。
 なんでロクに練習もしないのに、賞がとれるんだろう?
 子供心に、いつもそれが不思議だった。
 
 ――このくらいウチの町内じゃ当たり前で?
 
 さっきの母の言葉を、反芻する。
 いや、でも、まさか……ねえ?

「でもねえ」
 混乱する私をよそに、また母が口を開いた。
「一つだけ、お母さんにも分からんかったことがあるんよねえ。聞いてくれる?」
「う、うん」
「お父さんがね、死ぬ直前にね、お母さん、お見舞いに行ったんよ。そしたらお父さん、何か言いたそうにしてて」
「また『おい』って言ったんでしょ?」
「ううん。近付いたら口を私の耳に近づけてね、言ったんよ」
「なんて?」
「『ありがとう』……って」
「お母さん……!」
 衝撃が走った。
 あの父が、母にずっと「おい」としか言ってこなかった父が、最後にそんな事を言ったなんて。
 先ほどの混乱も忘れ、貫くような痛みが胸に訪れる。

 あうんの呼吸。
 ツーカーの関係。

 私の中で、醜悪さの象徴でしかなかった夫婦の形。
 だけど、あんな短いやり取りの中でも、二人は確かに心を通わせていたのだ。
 私にはやっぱり理解できないし、それが幸福だとは思えないけれど……。
 二人が育んだものは、きっと本物だったのだ。
 目頭が熱くなる。
 ずっと謎だった父と母を、少しだけ理解できた。
 そんな気がした。
「それで……お母さんはなんて?」



「お茶を持っていったの」
「……え?」



「あの音程と語尾の揺らし方は、確かに『お茶を持って来い』のサインだと思ってねえ。病室にいつものお茶っ葉がないから、家に帰ってわざわざ持ってきたんよ。そしたらお父さん、死んじゃってて」

 ちょっと待って。
 何を言っているのだろう、この人は。
 だが再び饒舌になった母は、また私を差し置いて、一人で喋りはじめる。

「それにしても、点滴で水も飲めない状態だったのに、なんでお茶なんか欲しがったんかねえ。しかも、もうすぐ死ぬっちゅう時に。なんでお父さんはあんなことを言ったのか、お母さんは今でもよう分からんのよ。ねえ、綾子。あんたはどう思う? ねえ……」


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