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叙述トリック練習:「真夜中の虹」

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「虹を見に行こう」


 と、恭哉が言いだしたのは、深夜もだいぶ回った二時ごろのことだった。
「は? 意味分かんない」
 その時の私はもう、埃臭いマットレスにけだるい体を預けてうとうとしはじめていた所だったから、いつもより余計に棘のある言葉が出た。
「だから虹だって虹。レインボウ」
 だけど、恭哉はいつものように、能天気な口調で繰り返す。
「なんでそんなもん夜中に見に行かなきゃいけないんだって言ってんの」
「レインボウ」
 強い口調で問い詰めても、彼は答えない。というより、意図的に無視を決め込んでいるようにも見えた。いつもそうだ。自分のしたい事に関する話以外は聞こうともしない。こちらに背を向けたまま、妙なリズムで体を揺さぶりつつ胡散臭い発音でレインボウ、レインボウ、と連呼する恭哉を見つめながら、私は溜息をつく。
「こんな夜に虹が見えるわけがないでしょ」
「その発言、ロマンがないよ」振り返った恭哉は眉を奇麗な八の字にして、口をすぼめて見せた。自分では可愛いと思っているつもりなのだろうが、二十歳すぎた大人がそう言うことをやると、勘違いした薄ら馬鹿にしか見えない。
「事実じゃない」
「甘いなあ」
 冷たく突き放したつもりが、恭哉は我が意を得たとばかりに、にんまりと笑う。私はますます嫌な気分になる。
「虹が見えるのは、昼だけじゃないんだよ、純ちゃん。条件さえそろえば、月の光でも虹はできるんだ。しかもそれがすごく幻想的でさあ、めっちゃめちゃ綺麗なの」
 私を見つめる両眼が、きらきらと輝く。なるほど、また何か変な本でも読んだのか、と私は合点した。恭哉は時々そうやって、よくわからない知識を仕入れてくる。私は彼の視線を避けるように、寝返りを打って背を向けた。
「ねえ。行こうよ、虹を探しに」
 恭哉はそう言って、私の肩を揺さぶった。肌に触れる手のひらは熱っぽく、汗でしっとりぬれていた。私は身じろいで、その手を振り落とす。
「あんたね、何の本読んだか知らないけど」
「ハワイの写真集だよ」
「ここは日本だっつうの。だいたい、そんなもん見れないに決まってるじゃない。そもそも今日は月だって出てないんだよ」私は振り返って叫んだ。
 今日は新月だ。朝の天気予報で聞いたから間違いない。窓の外には、黒に近いグレーでベタ塗りされた夜空が広がっている。まるで都会にうずまく苛立ちや恨みを映し出すかのように、暗く淀み濁っていた。とても虹なんて美しい代物が期待できる空ではない。
「月はないけど」恭哉は鼻を膨らませる。「代わりに新宿の灯りがある」
「何それ」私は素っ頓狂な声を出した。「街の灯りで虹が見えるの?」
「わからない」と、恭哉は答えた。
「俺が読んだ本には書いてなかった。だから、見えないかもしれないし、見えるかもしれない」
「いや、見えないでしょ」
 彼の甘い憶測をばっさり切り裂いて、私は再び背を向ける。しかし今宵の彼はいつもよりしつこかった。諦めず私の肩に手をかけて、さっきより少し乱暴に揺すった。
「ねえ純ちゃん。頼むよ。今ベストコンディションなんだってば。ほらさっきまで雨降ってたでしょ、湿気が残ってるし、ぜったい見えるよ。ねえ、ねえ」
 こうなった彼はもう止めようがない。放っておけばきっと朝までこのやり取りを続けるだろう。なだめる方法は一つしかない。
「わかった」
 私はついに言った。いや、言ってしまったというべきか。「わかったよ、行く」
「ほんと?」
「ちょっとだけね」と、私は釘をさしておく。もっとも、その釘が深く刺さったためしは未だかつてないのだが。
「やった」
 彼の表情がぱっと明るくなる。さっそく起き上がると、彼はいそいそと身支度を始めた。
「虹、虹、二時に虹」
 くだらないダジャレを垂れ流し、私はげんなりする。
――虹がかかっているのはアンタの頭の中じゃないの。
 浮かんだ皮肉は、重苦しい溜息に変わる。



 虹。
 七色の光が空に架けるアーチは、古来より多くの国で吉兆とされてきた。中国では、雨をもたらす竜神の化身として扱われ、インドでは神の持つ弓に例えられた。日本神話では、イザナギとイザナミが天の浮橋を下って日本に降りてきたと言われるが、これは虹のことを指しているそうだ。
「……で、あとハワイでは、虹とは、精霊たちが雨と水の大切さを忘れないように作ったもの、って言われてるんだってさ。その中でもね、夜に見える虹ってのはまた別格なわけ。満月の夜に見える虹は、ご先祖様からのメッセージで、それはもうすっごいハッピーな事が起きる前触れなの。満月の夜、それも年数回ぐらいしか見えないほど珍しい現象でさ……」
 機関銃のように喋りつづける彼の横を、私は黙々とついていく。雨上がりの湿気を含んだ空気が、重く体にまとわりついてくる。
 今は八月だ。深夜だと言うのに、一向に気温が下がる気配がない。
 不快な汗をかきながら、私は横を歩く恭哉を盗み見た。彼とはもう二年になる。出会った当初は、奔放で可愛らしいように思えた彼の性格も、二年間一緒に過ごした今ではもう、ただのわがままなガキとしか映らない。
 もうそろそろ潮時なのかもしれない。すっかりやつれ、不精ひげを生やした彼の横顔を眺めながら、ぼんやりとそう思う。もう無理だ。つかれた。そんな言葉が喉をついて出そうになる。
 対向車線を車が通り過ぎた。湿気に反射して、ヘッドライトが二本の線を描く。
 光を避けるように、私は眼を伏せた。前を行く恭哉も、ほぼ同時に目を伏せた。
「あ」
 車が通り過ぎたあと、声を上げたのは同時だった。
 路上にきらめく銀色のコイン。
「ほら、幸先がいいじゃん」
 素早く拾い上げて、恭哉が笑った。



「寒いね」
 黙々と前を歩く背中を見ながら、私は言った。重たい湿気が体を包み込み、気温は高いはずなのに、なんとなく肌寒い。
「うん」
 恭哉は短く返事を返したきり、再び黙り込んだ。
 さっきコインを拾ってから、彼はむっつりと黙りこんだままだ。
 両手をジーパンに突っ込んで、ことさらぶっきらぼうな調子で歩いている。彼の機嫌がコロコロ変わることは知っていたのでさして驚きもしなかったが、一体何を考えているのかまでは、背中を見つめても分からなかった。
 痩せて尖った彼の肩を見ながら、私は恭哉と過ごした二年間をぼんやりと思い浮かべる。
 最初はただ楽しかった。
『俺が、純ちゃんのこと、ずっと守るから』
 そう言って屈託なく笑う恭哉の顔を、よく思い出す。
 彼さえいればきっと大丈夫だと、その時は確かに信じていたのだ。
 それなのに……。
 いつからだろう、今の関係に、綻びが見え始めたのは。
 不安を感じる夜が、だんだんと増えた。
 彼の、無理やり作ったような笑顔と自信が、息苦しいと思うようになった。
 会話が減って、代わりに口論が増えた。
 逃げ切ったと思った現実は、気付いたら先回りをして笑っていた。


「とぉーちゃっく!」
 恭哉がはしゃいだ声を上げる。
「大きな声出さないで」
 と、私は憤る。
 ついたところは、空港の裏手にある、廃ビルの屋上だった。
 ビルと言っても三階建ての小さビルだが、あたりに高い建物がないため、ひどく視界は開けて見えた。
 海が近い。風のって磯の匂いが鼻をつく。空港を挟んだ向こう側には、重たい霧を通して、都会の光が蜃気楼のように揺れていた。
 恭哉は屋上のフェンスに駆け寄って、
「きれいだなあ!」
 と、静寂を踏みにじるように、叫んだ。
「きれいだー! きれいだねー!」
 私など意に介さぬように、彼はまた叫ぶ。そうやって、相手にしてくれるまで大げさな言動を続けることを、私は知っていた。だから、不機嫌な声で、
「大声はやめて、って言ってるでしょ」
 と、一喝した。
「いいじゃん、どうせ誰もいないって」
 と、彼は鷹揚に言う。
 その無神経さが、また私をいらだたせる。
「いいから、黙ってよ」
「ちぇ」
 彼は、白々しく拗ねて、黙り込んだ。
 虫の声が聞こえる。
「雨、降らなかったね」と、私は言った。
「そうだね」
 そっけない口調は、まるで雨が降らない事が最初から分かっていたようだった。
「虹、見れなかったね」
「そうだね」
「……もうちょっと、待ってみる?」
 自分でも予想だにしない言葉が出た。出もしない虹を待つなどと。
「いや、いいや」
 そんな私の矛盾を知ってか知らずか、彼は気のない口調でそういった。
 居心地の悪い沈黙が、あたりを支配した。言いたい言葉が、中空にとどまったまま、行き場所を失ったような。
 恭哉は私に背を向けたまま、身じろぎひとつせず、立っている。
 私はその背中を穴が開くほど見つめた。言いたくても言えない言葉が、その背中に浮かんでくるんじゃないかと思いながら。
「あのさ」
 恭哉が背中を向けたまま、降り始めの雨のように、ぽつっと呟いた。
 私は答えない。
「あのさ」さっきより、少しだけはっきりした声。
「何?」
「……いや」
 恭哉は、きまり悪そうに、ジーパンの尻ポケットを掻いた。
「別に何でもないけど、さ」
「ふーん」
 私は、後ろを向いたまま立ちつくす、恭哉の表情を思った。
 この人もまた、今、言いたい言葉を探して、でも見つからなくて、悩んでいるのだろうか?
 そうなのかもしれないし、違うのかもしれない。だけど、この鉛のような沈黙を破ったのは、結局私だった。
「……ねえ、恭哉」
「うん?」
「もう、終わりにしない?」
「何を?」
「この生活」
 恭哉が、ゆっくりとこちらを振り向いた。その表情は闇に溶けて、こちらからではわからない。
「それはつまり」
 奇妙に緊張した空気の中、彼が口を開く。そして……ついに決定的な言葉が、その口から滑り落ちた。意外なほど、はっきりとした声色で。

「それはつまり……さ、自首するって、こと?」
 私は頷いた。
「だけど、だけどそうしたら純ちゃんは……」
「もういいの」
 早口でまくしたてようとする恭哉を、私は素早く制する。
「もう、無理だよ」
 
 今までの生活を思い出していた。
 廃ビルを転々とする生活。
 人目におびえる毎日。
 
『俺が、純ちゃんのこと、ずっと守るから』
 そういって励ましてくれた、彼の言葉。
 

「ごめんね」
 涙が溢れた。ぼやけた視界の中で、新宿の煌びやかなネオンがゆがみ、七色に輝く。
 虹色の淡い光の中、うつむいた恭哉の表情だけは、まだ黒く……黒く、塗りつぶされたままだ。
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