愛されたいんだ。
多くなくていい。ただ一人でいい。
握った手を握り返して、抱きしめる腕に身を委ねて、
ただ、一言「好きだ」と、それだけを言って欲しい。
無償の愛が存在しないことなんて、分かっているくせに。
無力感に打ちひしがれて、諦める日が来ることを分かっているくせに。
望んだ夢には手が届かず
信じた心は遠く離れ
いずれ相手を傷つけ、自分も傷つくことが分かっているくせに。
それでも僕は、馬鹿みたいにまた誰かを好きになる。
愛されることを望みながら、
愛することを辞められない。
これはきっと、呪いだ。
『8月の幸せな呪い』
「……で、アンタ今年でフられたの、何回目だっけ?」
過度に冷房の効いたカフェで、夏美は僕に聞いた。
全面ガラス張りの店内を、強烈な夏の日が打ち付けている。冷房が効きすぎるくらい効いているはずなのに、アイスコーヒーのグラスは早くも汗をかき始めた。
ガラスの外には、僕の通うキャンパスが広がっている。赤茶けたレンガで舗装された通路を、学生たちが通る。男女が通る。笑いながら、はしゃぎながら、幸せそうに。その様子を光を透かして眺めながら、僕は答えた。
「14回目」
「アホじゃないの?」
室内に目を戻す。強い光を見ていたから、室内がひどく薄暗く感じた。曖昧な視界に、夏見の強い視線が、隠し忘れたようにギラリと浮かび上がった。
「もっと時間かけろって、何度も言ってるでしょ。何で、ちょっと仲良くなったくらいですぐ突っ込むの? そんなの失敗して当然じゃん」
「……分かんないよ。好きになったんだから、しょうがない」
「アホじゃないの? 紹介したあたしの身にもなってよ」
「何でさ。ダメなら、それでいいよ。ダメだったんだから仕方ない」
嘘だ。本当は今回も、死ぬほど後悔した。
もっとずっと前、最初に恋に破れた時と比べたらずいぶん慣れたけれど、気持ちに答えてもらえなかった時の胸の痛みは、今でも充分、僕を苦しめる。
「……あんた、何なの? 何でそんなに立ち直りが早いわけ? 本当に好きだったの?」
「好きだった、と思う」
そうだ。好きだった。確かにあの時、この人ともっとずっといたい、自分のことを好きになって欲しい、そう思ったのは確かなんだ。
「だけどたぶん、慣れちゃってるんだ。振られることに」
夏見は僕の返事を聞いて、海の底のように深い深い溜息を漏らした。
「あんた、顔はそんなに悪くないはずなのにねえ」
彼女はストローをくわえ、一口コーヒーを飲む。
「もっと心に余裕持てば、彼女の一人や二人、できると思うんだけど」
もう何回も、いろんな人から、言われた言葉だ。
「じゃあ」と口を開く。「じゃあ、俺と付き合ってよ」
そんなに僕を分かっているのなら。
それほど悪く思っていないのなら。
だけど、やっぱり彼女は苦笑して首を振った。
「ダメだって。前も言ったでしょ」そして立ち上がる。
「あんたは話してて楽しいけど、きっと私じゃなくてもいい気がする。そういう人とは付き合えない」
じゃ、講義あるから、と言い残して立ち去る夏美を目で追うと、ガラスに映る自分と目が合った。
アホみたいにぽかんと見送る自分の顔。その姿にどうしようもない嫌悪感を覚えてしまう。
本を読んで、必死にファッションと髪型も整えた。
体も鍛えた。
仕草だって、話し方だって、それなりに勉強してきたつもりだ。
僕の気持ちに応えてもらうために、僕はあとどれだけ、何を努力をすればいいっていうのだろう。
海の底よりもっと深く、僕は重いため息をつく。
自分の声が、いつの間にか質量を持ったのかと思った。
息を吐くと同時に、カフェの中に甲高い金属音が響き渡ったからだ。
振り返ると、一人の女性がカフェの床に倒れていた。
銀色のトレイが倒れ、乗っていたアイスコーヒーのグラスも倒れ、こぼれたコーヒーが、白い床のタイルを生き物のように滑っていく。
銃口みたいな周囲の視線にさらされて、女性はこわごわ頭を上げる。
光の具合で柔らかく輝くセミロング、申し訳なさそうに唇を噛むその儚げなしぐさ、何もかもを飲み込みそうな深く黒い瞳……。
「大丈夫ですか」
僕は気付くと彼女に声をかけていた。
「ああ……はぃ……スミマセン…」
小さい、けれど透き通ったその声を聞いて僕は確信する。
たぶん、また僕は恋に落ちるのだろう。
たとえそれが今年15回目の失恋に繋がるとしても。
8月、僕は再び呪いに囚われた。