05.退けない刻限(とき)
大通りへ引っ立てられたアランは、服を脱ぐように強制された。上着、シャツ、ジーンズと次々に脱いで股引姿になったアランの姿をブルーはカカカカと嘲った。銃口を誘うように振って町民たちへ叫んだ。
「さあ、みんな見てやんな、この哀れな旦那の姿をよ。愚かにもこのレイジィ・ブルー様の首を取ろうとして来た挙句がこのザマよ。あーん? 何か言いたいことがあるかあオッサン」
アランは黙りこくっていた。その顔にブルーが蹴った土がかかった。
「なんとか言えって言ってんだろうがよォ! つんぼかてめえは、あァ!?」
「…………」
「胸糞悪いぜ、なんだその目は? へっ、手ぶらのガンマンなんざ笑い話にもなりゃしねえ。どんなクイックドローだって銃と弾がなければただの老いぼれよ。そうだろ、いま、身に染みてるだろう?」
ブルーはアランに近づいて、その顎を銃口で押し上げた。
「むかつくぜ……白人を見てるといつもいらつくんだ。俺の先祖はあんたらに屈辱的な目に遭わされた、だがそんなことは関係ねえ。今の俺には知ったことじゃねえ。部族の連中は俺を恥知らずだと罵った……だが俺は生き残った! それがすべてだ。連中は死に俺が残った。それは俺が強いからだ、正しいからだ!」
「…………」
「なんとか言えよォ。俺は正しいだろ? 強いだろ? だからあんたはこんなところで裸にされてるのさ。弱いから……」
「……。君には」
アランが目を合わさずに言った。
「あまり怒りを感じない」
予想外のセリフだったのだろう、ブルーの目が見開かれた。
「何? なんだと?」
「今から十九年前。夏の終わりだ。俺は先住民を殺した」
「…………」
「連中が何か悪いことをしたってんじゃない。俺はその時、商隊のキャラバンの護衛をしていた。リーダーは神経質な男で、掌に虫がつくだけで大騒ぎするやつだった。そんなやつが荒野を渡ろうというのがそもそも間違いだったのだ。枕に使う高級な羽毛か何かを売りに西部へ来たらしかったが、そんなことは俺の知ったことじゃなかった」
アランは虚空を見つめながら、続けた。
「美味い酒をたくさん積んだキャラバンだった……仏国の有名なワインを積んでいた。売り物でなく、商隊たちが飲むためのものだった。俺はその時、初めてワインを飲んで慣れない酒に悪酔いした……あの頃は、いつも酔っていた」
「…………」
「そしてある夜、キャラバンのリーダーがまたぞろ大騒ぎし始めた。丘の上に先住民の影が見えたというんだ。誰も本気にしちゃいなかった。先住民の居留地はだいぶ離れていたし、バッファローはもうその当時ほとんど絶滅していて先住民の男たちが狩りに出てくることも少なくなっていたからだ。ましてや夜だ。だが、リーダーはそれで納得しなかった。血を求めた。リーダーは俺を呼び出した」
「…………」
「先住民の死体を持ってくれば、給金を倍にするという。悪くない話だ。俺は酔いに任せて引き受けて、馬に飛び乗り丘へと駆け出した。もしあの時、向こうに戦意があったなら、俺は上から弓矢を浴びて死んでいたろう」
「…………」
「丘の上には確かに先住民がいた。ただ様子が変だった。男がひとり、女がひとり、そして赤ん坊がひとり。赤ん坊は病気らしかった。妙な喘ぎ方を母親の腕の中でしていた。男が何か喚いてきた。――俺は先住民の言葉を知らなかった」
「…………」
「その後は焚火の光が酔いを強めて覚えていない。何か、怒鳴り声だけで通じ合う口論を先住民の男とやった気がする。そして彼が手槍を掴んだ。それだけはしっかりと覚えている。先に手槍を掴んだこいつを殺すのは正当防衛になるのかな、と思った。俺は男を撃ち殺した。死体を取り返そうとすがってくる女を蹴倒して馬に男の死体を積んで、丘を降りた」
「……だから、なんだというんだ、この白人野郎、え?」
「べつに」
アランの冷たい目が、ブルーの彫りの深い顔立ちを見た。
「ただ、あの時の赤ん坊が大人になっていたら、君ぐらいの歳だなと思っただけだ」
ブルーの手が震えていた。
「なんだあ、おまえ、なんだあ? ええ?」
感情がきわまっていて、ろれつが回っていないらしい。
「何か知ってるのかよ……なんだよてめえ、なんだよお!! おまえ俺のこと何か知ってるのかよお!!」
「何も知らない。俺は俺の話をしただけだ」
「俺に親父はいない……お袋もガキの頃死んだ……俺の親父は白人に殺された……おまえなのか? この話は部族のやつらしか知らないはずなんだ……絶対に知らないはずなんだ!!」
「ただの偶然かもしれない。君ぐらいの歳の子の親は、ほとんどが白人に殺されただろうからな」
「俺の親父は病気になった俺を白人に見せにいく時に殺されたんだぜ……!」
「……。偶然も重なると怖いな」
「ふざけるなよ……ふざけるな……てめえ……てめえだけは簡単に死なさねえぞ……」
「部族は捨てたんじゃないのかレイジィ・ブルー? 顔色が真っ赤だぞ」
「うるせえ……おまえさえいなけりゃ……親父さえ生きてりゃ……俺は部族を抜けなかったかも……そうだ……てめえだ、てめえのせいだ……」
「そうやって人のせいにするのは一番簡単な思考停止方だ」
「うるせえって言ってんだよぉ!!」
ブルーは銃を持った手でアランの喉元を叩き、突き転ばせた。砂まみれになったアランに銃口を向ける。
「立てよぉ……なあ、立てよぉ!!」
「言われなくても……」
アランは立ち上がった。その弱弱しい姿を見て、しかし、むしろ追い詰められているのはブルーだった。噛み締めた歯が震えていた。
「許さねえ……絶対にてめえだけは……」
「よく言われるよ」
「うるせえ!!」
ガァン、と銃口が跳ね上がった。
弾丸はアランの肩口を抉り取ってどこかへ飛んでいった。
ブルーははぁはぁと肩で息をしながら、ふふっと笑った。
「どうだ……痛いか? 血が流れてる……白人の血も赤いんだな」
「…………」
「ほらあ、どうした、踊れ、踊れよぉほらぁ」
ガァン、ガァン、とブルーが血走った目でアランの足元を撃ち始めた。アランは飛びのき、それが滑稽で残酷なダンスになった。
「は、はは……踊れ、踊れよ、はは……」
ガァン、ガァンと立て続けに撃った。アランの目がちかりと光った。
残弾数は、残り一発のはずである。
だが、あては外れた。
ちゃっとブルーは銃口を上げて、一歩アランから遠のいた。跳びかかれるぎりぎりの射程距離からブルーは逃げた。
「甘いぜ、おじさん」
「…………」
「怒りに駆られて六発撃ち尽くしたところを逆襲しようとしたんだろうが、そこまで俺も安物じゃない。確かにちょっとムカッと来たが、よくよく考えれば俺は生きていて親父は死んでる。いまさらそれをどうこうできるわけでもない。そんなことのために我をなくしてあんたに殺されるのはごめんだね」
「……。賢いな、ブルー」
「あんたの言った通りさ。俺は部族を捨てたんだ。それだけのことよ」
銃を構える。
「さあて狙いは完璧だ。俺が外すのは万に一つもありえない。だからあんたはせいぜいみじめに背中を見せて、一歩でも多く俺から離れることに精を尽くすべきだ。もっともあんたがそこから十歩、どの方角へ走っても俺はあんたの頭を吹っ飛ばせるがね」
「……らしい、な」
「最後に言い残す言葉はないかい。嫁さんとかに?」
「いや、ないよ。自分で伝えにいく」
「へっ、なんだ死んでんのか。ワイフが神様とよろしくやってるところに出くわしてもキレんなよ? あんたのが小せえんだ。――あばよ」
アランは目をつぶった。
次の瞬間、
「――うちのパパに何してんの?」
引き金を絞り切りかけていたブルーの指が、止まった。
アランは自分が死ぬことよりも深く絶望した。なんてことだ、どうかしてる、神様なんていやしない、いい加減にしろ。何もかもが無駄になった。
ブルーが首だけで振り返る。
帽子のつばに手を当てて、リオ・ターナーがそこにいた。
首だけで少女を振り返りながら、ブルーは一瞬で自分の不利を悟った。勝てない。それは気合や根性のスパイスでは決して変えられない、食材そのものの腐敗のようなもの。
距離が遠すぎる。
少女が立っている位置はブルーから十六・八メートル。ブルーのリボルヴァ、五八年モデルの射程距離ギリギリから一・三メートル遠い。そもそも射程距離圏内だから必中というわけではない。ブルーの必中圏内は八・二メートル。これ以上は風力・温度・湿度によってどうしても銃弾の軌道にズレが出てくる。それを踏まえて、この位置から少女を射殺することは難しい。弾倉に六発装填されていれば話は別だった。放射状に掃射して、着弾確率を上げる手も打てた。だが駄目だ。
弾倉には一発しか残っていない。
結局、弾丸の数が生命の質量なのだ。ブルーはそれを見誤った。酒場を駆け出た賞金稼ぎがまっすぐ逃げず、隣の銃砲店へ駆け込んだ時点で仲間はいないと見切った。仲間がいるなら派手に騒ぎながらまっすぐ逃げてどこかわかりやすいところへ身を隠し、追って出てきたブルーを仲間が狙撃するのがセオリーだったからだ。
ブルーは最後の抵抗で、股引姿の賞金稼ぎに銃口を当てた。だが撃てない。殺したところで自分も殺し返されるだけだ。そんな無駄な八つ当たりをしたところで意味がない。
「負けたよ」
ブルーは少女に笑いかけた。
「あんた、大物になるよ。パパにも知らせずこっそりついてきたんだろ? 敵をだますにはまず味方から――それとも追いかけてきたのか? どっちでもいいか。冥土の土産にあんたの名前を聞きたいね」
リオ、と少女は答えた。リオ・ターナー。
「リオ……リオね、俺の名前と似てるな」
「あなたはブルーでしょ」
「南国の言葉じゃ、リオってのは『川』を意味するんだ。俺は『青』。似てるだろ?」
ブルーは手招きした。
「撃ちなよ。撃ちたいんだろ?」
「…………」
「ちぇっ、こんなことになるならあんたのパパを辱めたりしなければよかったぜ」
ごつ、とブルーは賞金稼ぎの父親の顎を銃口でかち上げた。ぴくっと少女の鼻筋が引きつった。
「やめてくれないかな。あたし、いま、物凄く機嫌悪いから」
「そうは言われてもなあ。これから死ぬ身だし……それとも見逃してくれんの? 生け捕りにはしないよな、ここから保安官がいる町まで一昼夜かかる……その間、俺と仲良く旅する気はないんだろ? 一時間だってぞっとするよな」
父親が叫んだ。
「リオ、逃げろ……」
「へええ? おうリオちゃん、親父はこんなこと言ってるぜ。どうもあんたが六発使っても俺を殺し切れないと思ってるらしい。その腰のリボルヴァ……Q&DのM69は射程距離十八メートル強。いい銃だよ、ほんと。一面に掃射しても俺を殺せるだろう。でもパパはあんたのことを信じないってさ。ヘマこく前に逃げろってさ」
リオは肘を軽く曲げたまま、動かない。
「ねえ、ブルー。聞きたいことがあるんだけど」
「なんでも聞いてくれ。俺はいまヤケなんだ」
「ありがとう」
少しもありがたくなさそうにリオが言った。
「なんで人を殺すの?」
「生きるため」
ブルーは一言で切って捨てた。
「あんたみたいに綺麗な女の子だったら身の振り方なんぞいくらでもあるだろう。嫁にいったり情夫になったり。だが俺にはそんなものはない。褐色の肌とちぢれた黒髪がそれを許してくれない。生きるためには右腕に宿る電撃を頼るしかなかった。それに祝福されれば生き、裏切られれば死ぬ……それだけ」
「クイックドローができることと人を殺してもいいことの間に何か関係があるなんてあたしにはどうしても思えない」
そのセリフはむしろ、父親の胸に突き刺さっていたことにリオは気づかない。氷漬けにされたような冷たい目で、
「あんたみたいなやつを根こそぎ倒していけば、何かが変わるのかな……」
「どうかな」
ブルーにはそうは思えない。
「それは、生きることに勝つってことだな。誰もができることじゃない。生命を捨ててでも正しさを守るやつは少ない。守ってくれない正しさなんかを」
「あなたはそうは生きられない? もう後戻りはできない?」
ブルーは笑った。
「できてもしねえよ、そんなこと」
「そっか。ひとつ、勉強した」
リオはグリップから銃を引き抜いて、その銃身を眺めた。
「悪党に言葉は通じないんだ……」
「へっ、言葉に助けられたことがないからなァ」
「なら――こうするしかない」
リオはシリンダーをスイングアウトした。そのまま銃を傾けて弾丸を五発引き抜いた。一発だけ残してシリンダーをスナップで銃身に叩き込み、銃をベルトに戻した。抜いた弾丸をぱらぱらと地面にばら撒いた。
父親が叫ぶ。
「リオ――リオ!!」
聞かない。
一歩ずつ距離を殺していく。死からリオを守っていた貴重な距離をいつものように、なんでもないかのように。
「あんたが、どうしても悪党でしかなくて、その右腕が人を殺し続けることでしか生きられないなら」
ブルーが歩いてくる少女に目を見張る。面白そうに、どこか壊れたように口元がゆがむ。
少女はなおもまっすぐ来る。
「正面切ってわからせる。二度と立ち上がれないようにする。あんたを倒して、あたしは強くなる。強くなって――昨夜からずっと続いてるこのもやもやに決着をつけてやる」
少女はブルーと八・一メートルの距離を開けて立ち止まった。
必中圏内。
ガンをくれ合う距離だった。
「あんたを殺してあたしは先へいく」
ブルーの背筋をぶるっと寒気が走り抜けた。ごくり、と生唾を飲み込んだ。
決闘、それはガンマンが決してしないことだ。
腕のいいガンマンほど決闘を避ける。なぜなら、実力差に開きがない場合、高確率で相撃ちになるからだ。お話の中の出来事のようにコンマ一瞬の差で相手を撃ち抜いて引き金にも指を触れさせないなんてことはできることではない。大抵がクロスカウンターでお互いに被弾して死ぬか、障害を残すか。だから腕がよければいいほど、クイックドローの名手であればあるほど、ガンマンはラフファイトを好む。いきなり背中から撃ち殺したり、寝込みを襲ったり。それは生きるために抱えなければならない誇りの喪失。
だからこそ、誇りには価値が出る。
証人つきの決闘。今この荒野にそれを為して生き延びたガンマンが何人いるだろう? ウォーム・ファームのミカエル・グレゴリー、ハルピュイ牧場の食客カーバイン神父、マクドナルド鉄道お預かりのスカーレット兄妹。誰もがクイックドローでここ十年は鳴らしたガンファイターたちだ。だが、誰一人として決闘なんて全時代的で馬鹿馬鹿しい殺し合いを潜ったことはないはずだ。決闘なんてものは戦後間もない頃に死に場所を見つけ損なった兵隊くずれを最後に半絶滅した概念なのだ。
だからこそ、喉が鳴る。
相手がクイックドローかどうかは問題ではない、いやむしろクイックドローじゃなくていい。
それでも決闘で、この状況、町民たちが窓という窓から様子をうかがっている今ここで。
――早撃ちの一発で相手の脳天を撃ち抜いたら、いったいどれほどスカッとするだろう。
怖いくらいに手がしびれる。興奮で感覚がない。落ち着け、と心に言い聞かせる。高速射撃でもっとも大切なことは、当てようと力むことじゃない。柔軟な筋肉にだけ宿るスピードだ。それさえあれば、正しい速度が角度を跳ね上げればお祈りなんてしなくても勝手に当たる。そういうものだ。
「イカれてるぜ、リオ・ターナー……!」
震えそうになる声をブルーは必死に抑えた。
「決闘だと……決闘だと?」
「そう」
やめろという父親の声はもうとっくのとうに蚊帳の外。
リオは死体のように青白い顔で、笑う。
「これで負けたら一生後悔するでしょ?」
ただ撃ち殺されるだけなら世の中に唾を吐けばいいだけ。
だが、これは違う。ここだけでは違う。
この場で己の右腕に生かされなかった時は、自分が信じてきたものが、自分がこの世でたったひとつ当てにしてきたものが崩れ去るということだ。
死ぬより辛いことだった。
「ああ、そうさ……そうだとも、くそ、絶対に、絶対に殺してやるぞ、後悔するのはてめえだ、リオ・ターナー!!」
「名前を覚えてもらってうれしいよ」
リオは、時計塔を指差した。ゼンマイ仕掛けの時計が、もうすぐ十時を示そうとしている。
「十時になったらあんたは死ぬ――あたしが殺す」
その言葉に虚勢は一切感じられなかった。
リオは身体を沈めた。右腕がグリップのそばで凍る。撃鉄は倒したまま。残り一発でファニングする必要はないが、引き金を引き絞るよりもハンマーを左手で叩く方が速い人種も中にはいる。リオも、ブルーも、そういう人種だった。
時がぬるま湯のように重い。ブルーは叫びだしたくなった。その感情がなんと言うのかブルーにはわからない。恐怖かもしれない、殺意かもしれない、怒りかもしれない。あるいは感謝なのかもしれなかった。突然目の前に現れたこの天使のような少女への。
自分が望んでいたのはこれだという実感がある。身体全身が、自分自身が、右腕そのものになってしまったような充足。人を殺す時に一瞬しか感じられなかったあの痺れが、今はコンマ数秒にさえ宿っている。この気持ちに言葉をつけられないことをブルーは心底悔やんだ。
ブルーはリオの目を見た。リオもまた、ブルーを見た。
こいつが俺を殺すのか、とブルーは思った。
かちっ
時計の針が十時を指した。消えたようにしか見えない速度で二人の右腕が動いた。回転拳銃が生んだ奇跡の技術・クイックドロー。
見守るアランの目が見開かれた。
リオとブルーのスピードは互角。
それは、
お互いに、相撃ちを避けられない速さだった。
リオ・ターナーは馬鹿だった。
それは子供の頃、アランの膝までしか背がなかった頃からそうだ。足し算や引き算は何度言っても理解せず、リンゴが何個あるかはわかっても紙の上の数字の変化にリオの頭はついていけなかった。文字の覚えもべらぼうに悪く、アルファベットをすべて書けるようになるまで八年かかった。牛だの豚だの生活に関わってくる言葉はすぐに口にするくせに読み書きとなると半べそになっても上手くできず、アランも次第に諦めていった。町へあまりリオを連れ出さなかったのは、そういう言うに言えない理由もあった。
リオは今でも、あれほど毎晩父親に読んでもらった絵本の文節ですら、覚えていないし読みきれない。それはひょっとすると一生そうなのかもしれない。
だから、ことここに至ってリオが頭脳を働かせたとか、切れ者だとか、そういうことは一切ない。それはガスパー戦でもそうだったし、今この瞬間の交錯するブルーとの弾丸的邂逅でもまたそうだ。
リオはどうしようもない馬鹿に生まれたが、その馬鹿さ加減と引き換えにひとつの天賦を授かった。その才能は目に見えない。どこにも印は現れない。
それは、右腕の中に電撃としてしか宿れないものだったから。
八・一メートル向こうの相手の瞳に殺意が光ったのはどちらが最初だったか。
ブルーの右腕が動いた。
リオは左足を踏み込んだ。いや、踏み込みというよりもダッシュに近かった。ありったけの刺突に挑んだような前傾姿勢。丸まった背中が山猫のようにしなる。
リオの姿勢が低くなる。しかし、発砲時間に突入したブルーの顔にはなんの変化もない。彼の表情が動くのは時が過ぎ去ったあとのこと。
リオの踏み込みが終わった瞬間、ブルーはリボルヴァを腰から抜いて撃鉄を拳で叩いた。
銃声。
雲のような衝撃の向こうから弾丸が飛ぶ。
リオもまたそうした。左足の踏み込みから拳銃を抜いてファニング。その発砲時間が寸分違わぬことから射撃の速度ではリオに軍配が上がったわけだが、そのことを二人が知ることはない。
時間を切り裂いて弾丸がお互いに命中した。
ブルーの右肘に「ぼふっ」という間抜けな音を残してリオの弾丸がめり込みその靭帯と関節を破壊して裏側に抜けた。切断することはなかったが、ブルーは以後、腸チフスでこの世を去るまで二度と拳銃を持つことはなかった。
そしてブルーの弾丸は、リオの帽子だけを辛うじて吹っ飛ばして荒野へ消えた。
しゃがむよりも速い、とリオが考えていたとは思えない。
リオの頭の中は、結局のところこのラスティグレイブの最初から最後まで、罵倒してしまった少年のことしか考えていなかった。それ以外の言葉も表情も決闘も、はっきり言えば上の空のことだったのだ。
左足の踏み込みからのクイックドロー。八・一メートルの必中距離で相手が狙うのは即死を狙える頭だろう。相手が抜くよりも速く踏み込めたのは来る日も来る日も羊と豚を追い回していたから。
のちに巷で山猫様態(クーガー・スタイル)と呼ばれることになる必中の距離から相手の弾丸を頭部へ誘い込み、左足の踏み込みで事実上、弾丸をかわしてカウンタードローで相手を仕留める必殺のスタイル。一秒間に三〇〇メートル進む拳銃の弾丸の心理的死角を突いた戦術だった。つまり、自分から拳銃の銃口へ進んでいこうがいまいが、射線にいれば当たるしそうでなければ外れる。それを腹の底から理解していなければ射線をヘッドスリップでかわすなどというアイデアにはたどり着けない。
ブルーはものも言わずに倒れこんだ。身体の下から血が流れ出し、全身が小刻みに震えていたが、息は当然あった。痛みに声もあげられないらしかった。だが、おかげで生きていることを嫌というほど実感していられるわけだ。
リオは、ブルーを殺さなかった。
もちろんリオは頭のどこかで父親の言いつけを覚えていたのだ。それは間違いない。けれど仮に父親が何も言わなくてもリオはブルーの眉間を撃ち抜いたりはしなかったろう。
絵本の中のガンファイターは、決してそんなことはしないから。
リオはガンスピンすらさせずに拳銃をベルトに戻した。時間がまだ鈍く見える。アランが駆け寄ってくるのが牛の口から垂れ落ちるよだれのように遅い。早くパパに抱きしめられたい、と思った。頭をなでて、褒めてほしい。そうしてその甘い実感の中で、嫌というほどえこひいきされながら、ゆっくり考えようと思う。銃を速く撃つよりも気の利いた、人への謝り方というやつを。
「死んじゃうよ」
その一言でアランの目が覚めた。そうだ、放置すればブルーは死ぬ。
リオとアランは二人がかりで、ブルーを酒場の中に運び込んだ。そこなら強いアルコールがあったからだ。アランが自分でひっくり返したテーブルを立て直してブルーの身体を寝かせた。
「う、うぅ……」
ブルーは痛みと出血で意識が朦朧としているらしい。風雨の夜に酔っ払って眠りこけただけで風邪をこじらせ人間はあっけなく死ぬ。ましてや銃弾を右肘に受けて放置すれば半日と持たずに死んでしまうだろう。リオはそれを嫌がった。
焼酎があればよかったのだがこの大陸、この時代にそんなものはない。代わりに使われていたのはウィスキーだ。琥珀色の液体をどばどばと惜しげもなく肘にぶっかけ、布きれで腕を縛ったがどうも顔色がよくならない。
「どう……パパ?」
リオがおそるおそる聞く。アランは渋面を作ったまま、言い訳を考えていた。ブルーを助けられない言い訳をだ。ここから医者や保安官がいる大きな町まで一日はかかる。行って呼んで帰ってくれば二日。薬もなく手当てだけでブルーが持つかどうか素人目では判断に困ったがそれでも直感に言わせてもらえば駄目だろうと思う。
アランは股引姿で立ち尽くした。ブルーの苦しそうな顔を見ても、何も感じなかった。十五年間平和に暮らしてみたところでとっくの昔に壊してしまった人間らしい情動など戻ってきてはくれないのだ。ましてや敵だった男の生き死になどはっきり言ってアランにはどうでもいい。スポーツマンシップも騎士道精神も紳士淑女のしきたりもどれもこれも糞喰らえだと思って生きてきたのだ。そして実際、ラフでタフなガンファイトではアランの考え方が正しかったのだ。だから別にまだブルーの息があるからといって人間扱いしてやる必要はないのだ。馬に縛り付けて保安官のところまで一日かけて引きずっていってカネに換えればそれでいいのだ。
けれどそのことを娘にどう説明すればいいのか、アランにはわからない。
リオが袖を引っ張ってくる。
アランが意を決して口を開きかけた時、スイングドアが音を立てて開いた。
どかどかと入ってきたのは男二人。リオの半分ほどの背丈しかない禿頭の老人と眼鏡をかけた柔和な顔をした中年男だった。中年男の胸では銀色の星が光っていた。
「だれ?」
「どきなさい」
わたわたするリオを押しのけて老人がブルーに近寄った。右肘を一瞥。アランを見上げた。
「いい腕じゃな」
「俺じゃない」とアランが顔をそむけた。老人が目を見開いて、リオを見た。リオは目をぱちくりさせている。老人は何か言いかけて、やめた。頭を振って、
「もういい。出て行きなさい。処置の邪魔だ。ヴィクター!」
「はいはい」眼鏡の保安官がにこにこしながら頷いて、アランと握手をした。
「やあ、どうも」
「どうも……」アランは不審げだ。
「なぜまた保安官がこんなところへ?」
「通報がありましてね」
ヴィクターと呼ばれた保安官はにこにこしていたが、その表情がぴくりとも動かないので、かえって底知れない風格を漂わせていた。
「昨夜、ヨタカの足首につけられた手紙で、墓守の少年から。明日、ラスティグレイブでお尋ね者のレイジィ・ブルーが生け捕りにされるから確保しに来てくれとね。ついでに医者もと。私はむしろ必要になるのは墓守の方だと思ったんだが、いやはや、末恐ろしいお嬢さんをお持ちで」
ヴィクターはリオにも仮面じみた顔を向けて、
「カルロスくんにお礼を言うんだよ」と大人ぶったセリフを吐いた。リオが俯いてしまったのも知らずにまたアランに向き直り、
「ブルーは私が引き取りましょう。申し訳ないが今、ブルーにかかった懸賞金4200$は手持ちにない。あるはずもない。なので、ニュー・インにあなた名義で口座を作っておきますから、そこに振り込みましょう。日を改めてニュー・インの銀行へいってくれれば、と思いますが、どうです」
「それでいい」
「おや、私が本物の保安官だと信じて疑わないのですか? 不死身のアランさん」
「俺を知ってるならわかるだろ。十五年ばかりブランクがあったんだが、もうカンは戻った。偽者と本物じゃ殺気が違う」
「カンは戻っても腕はどうだか……」
「何?」
ヴィクターはおどけて敬礼してみせた。
「ゆめゆめ、大切な娘さんを失わないように……」
その言葉に、アランでなく禿頭の医師が激昂した。
「出て行けと言ってるのが聞こえんのか? 貴様らのせいでブルーの皮膚をうちの娘が縫うタペストリーみたいにしちまうところだわい」
○
表へ出て、身支度を整え、アランはそのまま出発することにした。ないとは思うがブルーの身内からお礼参りを喰らう恐れもあったし、何より流血は流血を呼ぶ。血のにおいを霊感としか思えない嗅覚で嗅ぎつけてくるゴロツキどもを迎え撃つ気はなかった。アランの戦術は常に防衛ではなく急襲。守りに入るのは柄に合わない。
そんな血の気の多いことを考えていたからか、娘の顔色が白を通り越して青くなっていることに馬にまたがるまで気づかなかった。
「どうした、リオ」
「…………」
「ブルーのことを気にしているのか? ……気にするな。やらなければやられていた。わざわざ決闘を挑んだことには言いたいこともいくつかあるが、それは今夜寝る前のほんの少しだけ嫌な思い出にしちまうまでよしとこう」
「…………」
「リオ?」
リオはアランの愛馬イーグルの下から、父親のズボンのすそを掴んだ。その手はぶるぶると震えていた。
たっぷり逡巡した後、リオはカルロスとのことをあらいざらいぶちまけた。
アラン・ターナーは娘を叱るのが苦手だった。どんな些細なことでも、食べ物を壁に投げつけるだとか子豚を蹴っ飛ばすとか、そんな当たり前のことを叱ってやめさせる時ですら息が詰まって仕方がなかった。いつもいつも、そういう時、耳元で誰かが囁いてくる気がした。おまえなんかにそんなこと言う資格があるのか? いったいいつからそんなに偉くなったんだ、人を殺して笑っていた人間が。どんな鬼畜にだって親兄弟はいるし馬鹿な女の一人二人はそんなクズにだろうと引っかかって安宿の窓から男の帰りを待っているものだ。それをわかっていながらおまえは人の頭を吹っ飛ばして回ってお咎めなしに暮らしているのはいったいどういう料簡だ? それだけでも許されざる大罪だというのにこの期に及んで娘に父親ぶった説教か。どこを押したら貴様の身体からそんなセリフが出てくるのだ。
そんな考えたところでなんの意味もない、戯言でしかない、けれどどうしようもなく真実を孕んだ囁きがアランを苛んだ。この十五年間ずっとだ。一日だって欠かさずだ。
それでも、逃げてはならないと思った。
「リオ」
リオは雨に打たれたように震えていた。その瞳に浮かんでいる涙を見て、アランは改めて、自分の娘がまだ十五歳の小娘でしかないことを思い出していた。もはや疑う余地なく右腕に電撃を宿し、名うての賞金首と白昼堂々決闘劇をやりおおせたとしても、変わらないことがあったし、変えられないことなのだった。
「おまえは言っちゃいけないことを言った。それはわかるね?」
こくん、と頷く娘の顔にチクリとアランの胸が痛む。ああ、おれはそんな風な目で見上げられるような男ではないのだ。
「人に」
人に、なんだと言うのか。アランは間を取っているふりをしながら考えていた。これは壁に食べ物を投げつけたり子豚を蹴り飛ばすようなことを叱るのとはちょっとケタが違った問題なのだ。友達とどう折り合いをつけるのか、それは結局のところ社会とどう折り合いをつけていくのかというところへ行き着く問題だ。
社会と折り合いをつけられなかった自分にいったい何が言えるというのだ。友もなく、十五年経って尋ねてきたのはたった一人の復讐者だけだったこの愚かな男に何があるというのだ。
「人に、嫌われたくないと思うのなら、リオ、嫌われてしまいなさい」
「え……?」
「嫌われたくない、というのは誰でもそうだ。パパもそうだしママもそうだったろう。人間なら当たり前のことだ。でも人間は時に、そんな当たり前が邪魔をして大切なことができなくなる」
「…………」
「恐れるというのは、生きていく上で必要だ。それができなければ、怖いもの知らずの無鉄砲にはなるしかない。それは気楽で愉快かもしれないが、それで生きていると言えるかどうかはパパにはちょっとわからない。遠まわしに死んでいるのと変わらない気がする。だから、リオ、謝ろう。カルロスにごめんなさいをしてきなさい。怖がらずに堂々と。たとえ嫌われてしまっていても。たとえ何も元通りにはならないのだとしても」
「…………」
「できるかい?」
リオはしばらく俯いて、ぐずぐず鼻をすすっていたが、アランがそう聞くと袖で顔を拭って、はっきりと頷いた。その潤んだ瞳の色は母親のそれを色濃く受け継いでいる。誰よりもきっと受け継いでいる。アランが見とれたあの色を。
陽が傾き始めた頃、アランとリオは赤茶けた丘のふもとへ戻ってきた。砂嵐が近いのだろうか、あたりは黄土色に染まりつつあった。
墓守の小屋は錆び臭い土の上で、それこそ死んだように茶色い風に打たれている。リオは何度もちらちら父親の顔をうかがったが、アランはわざと目を合わせなかった。父親同伴で謝らせたところでなんの意味があるのだろう。それはカルロスへの礼を失することだったし、なによりリオの人格を無視することだとアランは思った。だから、馬に乗ったまま何も言わなかった。リオは馬鹿だが察しはそれほど悪くない。馬から下りて、自分の足で丘を登っていった。その背中は小さく、頼りなく見えた。
ふとアランの目にリオの腰のガンベルトが止まった。レザーケースにはQuick&DeadのM69が猛禽の眼光のような鈍い輝きを放っている。アランの脳裏にちらっと嫌な予感が走ったが、手綱を強く握り締めて自分をおさめた。
娘を信じようと思った。
少なくとも人でなしからできたにしては、あの子は天使のようにデキがいい。
待った。
ずるいほどに長く感じる時間が流れた。
アランは何度も何度も懐中時計を引っ張り出してはその遅々として進まない針に殺意を覚えた。何事も無く終わってほしいのだ。何事もなく。一瞬後に銃声が――それがどんな原因によるものにせよ――聞こえてくるかもしれない状況はアランの心臓を苛んだ。丘を駆け上がっていって責め立てられている娘を抱きしめ「この子は悪くない」と誰が叫びたいかと言えばアランこそが叫びたいのだ。誰よりもそうしたいのだ。それでもアランは待った。
陽は、実際、爪の先程度にしか動かなかったはずである。
リオが丘を降りてきた。ずざざざ、と土煙を巻きたてながら斜面を下ってくるその顔は帽子に隠されてよく見えない。だが、目に見えて消沈しているわけではなさそうだった。むしろ丘を登っていった時よりも大きく見える。
手元に戻ってきた娘に、馬上から父が問いかける。
「……どうだった?」
リオは病み上がりのような顔で笑った。
「許してくれるって。最初はクチ利いてくれなかったけど……」
だから時間がかかったのか。
アランは何か言いかけ、やめた。その代わりに馬に乗った娘の肩をぽんぽんと叩いてやった。叩いてから、娘にやるというよりは、息子にやるような仕草だったな、とちらり思った。
「よく頑張ったな」
「あたしは頑張ってない。カルロスの方が、すごいと思う」
「……そうか」
気の利いたセリフは、もうすべて忘れてしまった。
アランは手綱を振るって愛馬イーグルに喝を入れた。リオも示し合わせたかのようにそれに倣う。二頭の馬が弾丸のように駆け出した。砂嵐がいよいよ強くなり、景色を狭めていった。馬上で身を伏せながら、リオは物寂しい思いに駆られてうしろを振り返った。
赤茶けた丘の上に人影が立っていた。
影は、二、三歩駆け出してこちらに手を振ったようだった。が、見えたと思った瞬間、砂嵐が幕を閉じて、あたりは黄金色の闇に包まれてしまった。
リオは前に向き直って、少しだけ馬の速度を上げた。
頬に当たる砂粒がしつこいくらいに、ちりちり痛んだ。