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06.西部の稀劇、瞳の中の絵本

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 これが最後の酒かもしれないと思うと無性に腹が立つのだった。ボトルの中で揺れる琥珀色のやさしさが永久にこの身から奪われるかと思うと脳みそをかきむしられるような苦痛が惹き起こされて、その夜その酒場で黒塗りのホークは憤死寸前の有様だった。だが酒場のうち誰もホークの方を気にかけたりなどしなかった。誰かが死ぬのもガミを喰うのも、所詮はいつものことでそれがどれほどの不幸だろうと手の中のカードよりも劣るゴシックなのだ。他人の心配をするぐらいなら自分の銭の勘定でもしていた方がよほど建設的だとアウトローたちは考える。
 ホークも他人事だった時はそうしていただけに、我が身になると素っ気無い連中に嫌気が差した。いや、このブラインドヒッターの町にはつい数時間前に着いたばかりで顔なじみなどひとりもいないのだが、似たような暮らしをしているやつらは似たような思考にたどり着くものなのだ。ホークは頭を抱えた。
 不死身のアランと気違いリオがホークを追っているらしい。そうだろう、と思う。なにせ話によればホークはとっくの昔に忘れ果てていた殺しでリオの不興を買っていて、どんな高額な賞金首よりも優先してこの真っ黒い身体を狙っているのだという。十五、六で噂によれば知恵がいくらか足りないガキとその親父で老いぼれた伝説のガンファイター。そんな連中にケツを追い掛け回されてもちっとも嬉しくないのだった。いますぐ東海岸の浜辺で白人女とランデブーしたい。だがあまりに遠すぎた。追いつかれるか、途中のデッドゾーンで一日に一度は血で手を洗わないと気がすまない馬鹿どもの抗争に巻き込まれてお陀仏か。危険地帯を避ければやはり、追いつかれてしまうだろう。リオとアランのコンビは馬の名手としても有名だ。
 そう、有名なのだ。
 西部に現れてたった数ヶ月のガキと親父がだ。今では稼いだ賞金は三万を超えているという。朝起きてあくびをして歯を磨きながら賞金首を狩りまくっているとしか思えない。いったいどういうペースで仕事をしたらそういう額にまで転がるのかがホークにはわからない。脚色されていると信じたかった。だがカンでわかる。
 やつらは強い。
 俺は負ける。
 ホークはうなだれてグラスに酒を注いだ。それを呷った一瞬だけはなんでもできそうなあの原因不明の活力が戻ってくるが、すぐに元の木阿弥に戻った。
 そんな時である。ホークの隣に黒い男が腰を下ろしたのは。
 黒い男。
 そう言うほかにない。白人だったが、全身黒ずくめだった。黒いズボンに黒いシャツ、黒い帽子に黒い銃。黒い髪に黒い目に――舌だけどうにも赤黒い。
「なんだ、あんた」
「黒塗りのホーク君だろう」
 いまさら名声を喜んだって仕方ない。ホークはせせら笑った。
「だったらなんだっていうんだい」
「狙われているそうだね」
「あんたに言われるまでもなく、な。で? 用心棒でも買って出ようっていうのかい。早撃ちスカなし即殺しで名を上げたこの俺があんたみたいな中年親父の背中に隠れていろってか。そうしてあんたは肝心要、俺があのリオとかいうしょんべんくせえジャリにブッ殺される時にゃ前金せしめてトンズラだ。だろ?」
「よく喋る」
 黒い男は笑った。
「ずいぶんイメージトレーニングに熱心なようだね」
「…………」
「そう怯えることはない。どうした? 酒を飲みたまえ。それは飲むために注いだんだろう」
 ホークはグラスを空けた。
「正直、怖いんだ。今までピンチは何度もあったが、今度こそやられる気がする。わかるんだ。俺にはわかる、どうしてかはわからないけど」
「カンというものはそういうものだ。そういう時にどうすればいいか知っているかね?」
「諦める」
「馬鹿。こちらから打って出るのだ」
「こっちから? でもリオのやつはギャング団をたったひとりで潰したこともあるんだぜ。どうかしてると俺こそ言いたい、だが、あの女に物量作戦は効かねえんだ。それが真実なんだよ」
「真実がそうなら、変えるまでのこと」
 黒い男が指を鳴らすと、ピアニストが演奏をやめた。しん、と静まり返った酒場の中にいた男たちが、みな一斉に神妙な顔になって立ち上がった。総勢十五人はいただろう。ホークはぽかんとしてスツールに座ったまま男たちを見上げた。
「なんなんだい、いったい」
「わからないか? 狩人を狩る男たちさ」
「馬鹿な。俺たちアウトローが徒党なんて組めるものか。昔馴染みならまだいい、血が繋がってるってのも悪くない、だが俺たちはいま会ったばかりだぜ。他人なんだ。拳銃握った知らない男を自分の背後に置きたがるやつはいない」
「いいや、兄弟。私たちは同胞だよ」
「同胞?」
「私たちはあのリオの父親、アラン・ターナーによって十七年間も牢に封印されていたものたちだ。底知れない恨みで繋がっている。そして今度は君を恐怖で繋ぎ止めたいと思う。死にたくないという恐怖で」
 ホークはまだ半信半疑だった。
「牢にいた? 腕は大丈夫なのかよ、おっさんたち」
「腕? そんなものはいらない」
「何?」
「多人数戦闘(デュアルファイト)でも早撃ち(クイックドロー)でも私たちの一人としてやつらには勝てないだろう。だが、拳銃の使い道は他にもある」
 見ているがいい、と黒い男はにやりと笑った。
 その男というのが、アーサー・A・アインスタインだとホークが知ったのはだいぶ後のことになる。





 チリコンカンにとうとう真底飽きた頃、その町に着いた。噴水のある町だった。もう何度目になるかわからない。厩舎に馬を繋ぎ、町長に挨拶。宿の紹介をしてもらって荷物を残し、父は酒場へ、娘は広場へいく。
 その町、サン・セットには賞金首どころか噂話も転がっていなかった。たまにあるのだ。台風の目のようにあらゆる暴虐が周囲を取り巻くだけで、中心にある町をなぜだか避けていく。そんないつまで経っても転がり落ちないルーレットのゼロの目のような町は、やさしいけれど仕事がない。アランはすぐに発とうと思った。が、窓から見える娘の姿を見て考え直した。噴水のそばで半分の背丈しかない子供たちと枝を重ね合わせて作った鉄砲の撃ち合いごっこをしている。リオも最近では学習したようで、自分は同じ年頃の人間とはどうも歯車が合わないと悟りもっぱら子供と遊んでいる。そうしているのを見るだけなら天使に見える。
「長く滞在なさるんですか?」
 酒場、というよりも軽食屋のウェイトレスの娘がほがらかにそう聞いてきた。アランは頷いた。
「そうすることにする」
 身体の中に染み込んでいる疲れが、その一言と共に抜け落ちていく気がした。
 いい町だと思った。
「あそこにいるのは娘さん?」
「ああ。リオっていうんだ」
「へえ、そうなんだ。あたしと同い年ぐらいかな」
「今年十六になる。きみは?」
「もうすぐ十四です」
「そうか……」
 アランは水をかけられてスッ転んでいる愛娘を眺めながら、
「あの子は年下の子の方が馬が合うらしいんだ。よかったら仲良くしてやってくれないか」
「はい、喜んで。あたしはケイトっていいます。お名前を聞いても?」
「リオだよ」
「ちがうちがう」ケイトは笑った。
「パパのほう」
「ああ、私か。私はアラン。アラン・ターナー……」
 そこまで言って後悔した。またぞろこの名にまつわる恨みを呼び起こしはしないかと思ったのだ。アランはおそるおそるケイトの顔を盗み見た。
「アラン……私のおじいちゃんと同じ名前です」
 少女は汚れを知らない顔で笑った。
 アランは毒を抜かれて、座っていた椅子に深々ともたれかかった。ケイトがその仕草に何か不穏を感じたらしい、金髪を首筋から流して小首をかしげた。
「どうかしました?」
「いや。きみのおじいさんと同じ名前だなんて、光栄すぎて腰が抜けてしまった」
 ケイトはくすくす笑った。
「お酒ばっかり飲んでましたけどね。明るくって冗談ばかり言って、おばあちゃんによく殴られていました」
「殴られてたのか。恐ろしいおばあさんだな」
「ええ、怒ると怖かったけど、でもあたしが小さな頃は寝る前に決まって絵本を読んでくれた優しいおばあちゃんでした」
「羨ましいな。……私もそんな祖母が欲しかった」
「アランさんのご家族は、どんな方たちなんですか?」
「あれさ」
 アランは掌で子供を追い掛け回しているリオを示した。
「妻は、あの子を産んでまもなく逝ってしまってね。私の両親や祖母はもう覚えていないくらい昔に亡くなったし、今ではあの子だけが私の家族だ」
「そうだったんですか……」
 二人はまるでそこに故人の影でもあるように、跳ね回るリオと子供たちを眺めた。
「楽しそうですね、リオちゃん」
「あれはいつでもどこでも楽しいんだろう」
「いいことじゃないですか。……お二人はどこを目指して旅をしてるんですか?」
「どこというのはないんだ。私たちは賞金稼ぎだから。目指す場所があるというなら、稼ぎになる悪党のねぐらだな」
「それじゃ、二人は正義の味方なんですね」
 アランはまじまじとケイトの顔を見た。
「な、なんですか? 口にカスタードでもついてます?」
「あ、いや。きみは他の賞金稼ぎに会ったことがないのか?」
「はい。この町に住んでいる人はみんなずっとそうだと思いますけど。だってこのあたりにはなんにもないんだもの。泥棒さんだって困っちゃいますよ」
 えっへん、とケイトはなぜか胸を張って見せた。アランは戸惑ったように目を瞬いた。
「賞金稼ぎなんていいものじゃないさ。もし見かけたり話しかけられたりしたら、注意した方がいい。悪党となんら変わらないことが賞金稼ぎの資質なのだから」
「……」
「どうした? なにがおかしいんだい?」
「だってアランさん変なこと言うから」
「変なこと?」
 ケイトは楽しげに笑った。
「アランさんもリオちゃんも悪党じゃないでしょう? だったら賞金稼ぎ失格ですね」
 染み透るような言葉だった。
 アランは顔を背けた。でなければ、目に浮かんだ情けなさの証を見破られそうだったから。そして誤魔化すように周囲を見渡して、言った。
「ここは、いい町だなあ」
 少女は何がおかしいのかくすくす笑って、ありがとう、と言った。
「じゃあ、あたしもリオちゃんと遊んでこよっと」
「店はいいのか」
「アランさんしかいないもん」
 ケイトが表へ走り去ってしまうと、途端に耳が痛むほどの沈黙がやってきた。アランは旅疲れした目を閉じ、椅子に深く深く腰かける。
 そのまま、ずるずると日夜が過ぎ去っていった。
 悪党を呼び寄せる前に立ち去らねばと誰よりも考えていたのはアランだったが、どうしても腰が動かなかった。リオやケイトの楽しげなはしゃぎ声をいつまでも聞いていたかった。そんなことはできっこないとわかっていたが、それでも、荒野のど真ん中にあるとは思えないその町の静けさがアランをおかしくさせていた。
 楽園があるならきっとそれはここだろう、なら、どうしてわざわざそこから離れなくっちゃならないんだ? ハンバーガーをかじりながらそんなことを考えていると、なにもかもがどうでもよくなる。
 抜けるようないい天気が続いた。
「パーパー?」
「アランさーん?」
 ああ、俺は夢を見ているのだろうか? 右頬のひげを娘が引っ張り、左頬をケイトが引っ張ってくる。自分はテラスにさらされているロッキングチェアに座って隠居老人のように目を閉じている。とても現実だとは思えない、何度夢見たかわからない。
 これが平和なのだ。
 そのまままどろみ続けていられればどれほどよかったろう。この旅が辿り着く終わりの中できっと最も澄んだ場所にい続けられたら。
 いつの間にか夕陽が沈みかけていた。子供たちの声が遠くから聞こえてくる。どうやら自分と蓄えたひげはとっくのとうに飽きられてしまったらしい。アランは苦笑して目を開けた。階段の下に見知らぬ男が腰かけていた。
 いや、見知った男だ。
 アランは電撃に撃たれたように動けなくなった。声も出なかった。男が振り返った。
「やあ、アラン」
 アーサー・アインスタインは、いつか見た笑顔でこっちを見ていた。
 浮かしかけていた腰がどすんと落ちた。
「アーサー……?」
「どうした、月並みだが、幽霊でも見たような顔をしているぞ」
「おまえ……おまえが……そうか……」
 アランは首を振った。
「殺せ」
「おいおい」むしろアーサーの方が戸惑っていた。
「いきなりなんだよ。ええ? 昔の仇同士が再会して殺せたァ穏やかじゃないな」
「目を見てわかった。いまの俺じゃおまえを殺せん。だから殺せ」
「ふうん。じゃ、おまえの娘も殺していいのかな」
 アランの目がくわっと見開かれた。
「娘に手を出してみろ。ぶち殺してやるからな」
「言ってることがめちゃくちゃだな。歳か?」
 アーサーはくつくつと笑った。
「安心しろ。さっき目を合わせてわかった。……おまえ、とんでもねえ種を落としたもんだな」
「種なんて言うな」
「種は種だろ。それもとびっきりの、だ。あれは、速いな、アラン。そして強い」
「……素人さ」
「そんなことはない。親父のおまえが一番わかっているはずだ。あの小娘は悔しいがぶっちぎりの天才だ。筋肉の動きと目の輝きを見ればガンマンなら誰でも同じことを言うさ。それがわからなければ、そいつはロクな撃ち手じゃない」
「殺すな。頼む、俺ですべてを終わりにしてくれ」
「殺したくても殺せないよ。あの子にゃ勝てんし、おまえを殺せばあの子がすっ飛んできて俺を殺す。だから俺は殺したくてもおまえもあの子も殺せないんだ。……リオとか言ったか? リオ、リオね。ずいぶん味な名前をつけたものだ」
 アーサーは遠い目をして、夕陽を眺めた。
「とはいえ、貴様ら親子をこのまま荒野に解き放っておくのも十七年間俺の中で疼いた憎悪が許してくれそうにない。だから、アラン、俺はあえてフェアに言うよ。フェアに」
 アランはアーサーの言葉を待った。
「アランよ、明日の夜明け、この町に五十人のガンマンがやってくる。みんな俺の仲間だ。一流じゃないがそれでも右手の中の電撃で食い扶持を稼いでいける悪党どもさ。――逃げるがいい、アラン・ターナー。俺は止めない、むしろ勧める。さあ、いますぐ愛馬にまたがり猫に見つけられた鼠のごとく荒野へと駆け去ってゆけ。俺たちはおまえらの無様な足跡を嘲笑いながら、いつまでもおまえを追いかけよう。見逃すのは一度だけ、そして次に出くわす時は五十人の精鋭が今度こそ貴様ら親子をぶち殺す。その最期は変わらない――それでも今日明日のケチな命が欲しいなら、この静かな町に背を向けろ。つまらぬ孤独な犯罪者と同じように」
 抵抗する気力など、なかった。
 アランは笑ってしまった。乾いた、無力な笑い声だった。
「そうか、そうだな、逃げるとしよう。五十人を相手にして勝てるわけがない」
「当然だろう。どれほどの天才相手でも殲滅しきれると踏んだ俺のワイルドバンチなんだから」
 アランは立ち上がった。ふらり、と一歩を踏み出して、
「町の人たちは、どうなる」
「逃がしたければ逃がせ、足止めにしたければそのまま捨て置け。明日の夜明けと同時にこの町は焼け落ち、男が残っていれば殺し、女が這いずっていれば犯す。昔と同じに」
「…………」
「俺はあの子がいいな、ほら、いま噴水のところでおまえの娘に水をぶっかけている長い髪の子だ……ウェイトレスの格好がそそる。十七年ぶりに楽しめそうだ」
「やめろ。殺すぞ」
「うるせえなあ」アーサーの声の調子が変わった。
「殺したきゃ殺せよ。ガキにぶっ殺されるとしても昔の恨みのひとつぐらい果たして死んでやるガッツはまだ残ってるぜ。どっちだっていいんだ、俺ァ。てめえの娘が泣きながら俺を撃って立派な人殺しになるとこを見られるってのは、死に土産にしちゃ上出来だしな」
「……町の人は逃がす。手を出さないでくれ」
「ご勝手に」
 アーサーは言うと、アランが座っていた椅子に腰かけて帽子を顔にかけてしまった。眠っている風だが、きっと起きているのだろう。帽子の縫い目の隙間から、この愚かな仇の情けない姿を楽しんでいるのだろう。アランは噴水に向って歩き出した。もう何十年も前、度の過ぎた悪戯を母親に白状しにいく時の勇気と恐怖を思い出していた。
 町民たちは、誰もアランとリオを責めなかった。アランがあらいざらいをぶちまけている間、ケイトはリオをうしろからしっかと抱きしめて目を瞑っていた。
 アランはその場に手をついた。
「申し訳ないなんて言葉じゃ言い尽くせない。俺たちのせいでこの町は明日、終わる。許してくれなんて言えない、この場で殺されたって文句は言えない。だが娘は何も悪くないんだ。娘だけは……」
「顔を上げてください」
 真っ黒いひげをふんだんに生やした町長が丁寧に言った。
「我々は、実際にあなたのすべてを知っているわけではない。もしかしたらあなたが悪かったのかもしれない。でも、それはすべて時の彼方へ流れすぎたことです。いま、この時、ここにいるあなたは賞金稼ぎの勇名を馳せたアラン・ターナーで、そしてなにより」
 町長はリオの頭をぽんと叩いた。
「この子の父親です。少なくとも我々には、その姿が一番あなたにかぶさって見えます」
「町長……」
「みんな、未練を残すな」
 町長は胴間声を張り上げて、輪になってアランの話を聞いていた町民たちを鼓舞した。
「今すぐ持てるだけの荷物を持って、ここから一番近いスコットカード牧場へ向おう。夜通しになるが仕方がない、万が一悪党どもが攻め込んで来た時には迎え撃てるように準備をしておくのだ。わかったな? わかったら、動け!」
 威勢のいい掛け声があちこちであがり、男と女、子供と老人がてんでんばらばらに駆け出した。その場に残った町長は、立ちすくんでいるリオに笑顔を見せた。
「気にするな、リオ」
「うん……でも、ウィリアムさん……なんだか、わたし、胸が苦しい」
 娘のその言葉に、跪いたままのアランが撃たれたように顔をゆがめた。
「おまえのせいではない、リオ。無論、おまえの父のせいでも。誰が悪かったのか、それを理解するのは難しいことだ。無理なことかもしれん。だから、おまえはおまえにできることをしろ。おまえが正しいと思った道をいけ。我々も、そうする」
「リオ」とケイトがリオの肩を抱いた。
「短い付き合いだったけど、でも、歳の近い友達ができて嬉しかった」
「わたしも……わたしもだからね、ケイト。忘れないでね」
「うん、うん……」
 まるでケイトの方がお姉さんのようだった。二人は名残惜しそうにしながら、離れた。
「アランさん、ほら、立って。しっかりしてください。これから厳しい夜が来るんですから」
「ああ……そうだな。子供に言われちゃ俺もおしまいだ」
「あ、また子供扱い」ぷうっとケイトが頬を膨らませた。
「もうアランさんのひげなんて引っ張ってあげません」
「いや、最初から頼んでないぞ」
「でも嬉しかったでしょ?」
「……。ちょっと」
「パパ?」
 リオがぐりぐりと爪先を踏んできた。母親そっくりの睨みを利かせてくる。
「嘘だ嘘、リオ、パパは変な趣味はないぞ」
「ふーん?」
 そのやり取りがおかしかったのだろう、まずケイトが吹き出した。次にリオが笑いだし、アランも声こそ上げなかったが毒気を抜かれた。
 いい町だった。
 だから、いい思い出になってくれたらいいと思う。
「じゃあ、そろそろ」
「うん。ばいばい、アランさん。ばいばい、リオ」
「ばいばい、ケイト。また、会おうね……」
 アランとリオは厩舎へ向いかけた。その時、仕立て屋のおばさんがこちらに何か掴みながらやってきた。
「ちょっとちょっとアランさん」
「ああ、ロビンさん。どうか?」
「いやね、うちの旦那と相談して決めたんだけど……」
 小太りのロビンのうしろから、旦那のマックスが顔をひょこっと覗かせた。
「変装していった方がいいと思うのよ」
「変装?」
「そう。それでね、ベレッタとイーグルも馬車に繋いで……」
「ちょっと待ってくれ。話が見えないよ。つまり、何に化けるんだい?」
「化けるんだい?」とリオがまねした。
 これよこれ、とロビンとマックスは手持ちの衣装を広げて見せた。
 真っ黒いタイつきタキシードと純白のウェディングドレス。
 唖然とするアランとリオに、ロビンは歯を見せて笑った。
「賞金稼ぎの親娘が新婚旅行なんて、ハイカラだろう?」
 ハイカラってなんだ、と言う気も起こらなかった。断ろうと思った。袖を掴まれ娘を見下ろす。
 瞳がきらきら輝いていた。




 ○




 二頭立ての馬車は、いい月を掲げた荒野を駆けて行く。手綱を握るのは壮年の新郎、脇に控えているのはベールに顔を覆った美しい新婦。
 親子である。
「写真……撮られちゃったね」
「ああ……そうだな」
 明日、襲撃されるとわかっている町の人間とは思えなかった。着替えて表通りへのこのこ現れてきた二人を町民たちは歓声をあげて取り巻き「ちやほや」した。そう言うしかない。とにかくちやほやされたのだ。挙句に村人揃って写真撮影だ。いったいどれほど能天気な暮らしをしていればあんな人たちが出来上がるのか。
 でも、
「いい人たちだったね」
 本当にそうだと、アランも思った。できることなら定住したかった。甘ったれるなと言いたければ言ってくれ、それでも自分はそうしたかった。役目のない、勤めてから一度も仕事を果たしたことのない用心棒。そうして町の人たちの仕事を時折かじるように手伝いながら、いつしか家を建てて、愛娘を嫁にやり、孫たちのはしゃぎ声を聞きながらあのロッキングチェアに腰かけていられたらどれほどよかっただろう。どうしてそうすることができなかったのだろう。
 それがあらゆることのツケなのだと言われれば、俯くしかない。
「あ……」
 リオが月を見上げて、ぽつんと呟いた。
「絵本、忘れちゃった」
 嘘だった。
 アランはしっかり確かめていた。町を出る前、リオが荷物の中に手持ちの絵本をぎゅうぎゅうに詰め込んでいるのを見もしたし、言葉に出して認め合った。万に一つもリオがあの町に忘れ物をしたなどということはないのだ。絶対だ。
 だから、
「やめろ」
 リオ・ターナーの考えていることはたったひとつの決意に他ならないのだ。アランは、絶対にそれをさせるわけにはいかなかった。それは無茶で無謀で無理で無駄なのだ。絵本の中でしか通用しない道理なのだ。
「いくな、リオ」
「パパ」
 リオがベールを剥いで、月に濡れる髪を振って、アランにその面(おもて)を見せた。いまは天の国にいるあの娘を思い出させるその顔を。
「花嫁さんになれなくて、ごめんね」
 アランの右手が走った。
 それを上回る電撃的な速度で、リオのクイックアンドデッドM69のグリップがアランの顎をしたたかに打ちつけていた。脳が揺れた。意識を保っていることは人間には無理だった。アランはその場で手綱を離してシートにもたれた。顎が上がって喉がさらされる。
 天使と目が合った。
 誰かに似ているその天使は澄んだ瞳をしていた。きっとそこには優しい世界が宿っているのだ。白いキャンパスに絵筆で塗ったような色鮮やかな世界が――アランにはとうとう辿り着けなかった綺麗な国――が――
 きっと、



 ――ブラックアウト。




 ○




 目を覚ますと黒人の男の顔が目一杯にあった。アーサーは喉を唸らせて、黒塗りのホークのみぞおちを蹴っ飛ばした。
「やめろ。なんてことしやがる。最悪の目覚めになったぞ」
「こっちはあんたが寝てるなんて思ってなかったからな」
 ホークはきょろきょろあたりを見回した。
「不死身のアランは?」
「いなけりゃ逃げたんだろ。知るか。俺ァずっと寝てたんだ」
「くそ。じゃあ町の連中もやっぱり逃げちまったのか? なんてもったいないことすんだよゥ、せっかくの楽しみを」
「犬とやってろ」
「ひどい」ホークは傷ついた目をした。そして躁鬱者によくあるように、その目に一瞬前にはなかったぎらりとした光を宿した。
「くそ、俺にはやっぱわからねえ。どうして五十人で急襲しなかったんだ? なんでわざわざ逃がすなんて真似したんだよ」
「だから言ったろ」
 アーサーはなんでもないことのように言った。




「俺たち五十人が束になってかかっても、リオ・ターナーには勝てないからだ」




 ホークは書物の中にしかない数式を目にしたように首を捻っている。
「あの女が負けなしだってのは聞いてるぜ。しかも親父より速いってのもたぶん本当だろう。でもだ、でもだぜ、どうして六発しかない拳銃をせいぜい二三丁しか持てない人間をガンを持った五十人で殺せないなんてことがある?」
「そんなの決まってるだろ。やつは弾切れを起こさないからだ」
「なんで? 魔法使いだとでも言うのかよ。ハッ! どうかしてるぜ」
「おまえは運がなくて出会えていないんだろう、だが俺は見たことがある。真のガンファイターは銃の中に弾がなかろうが関係ない。敵の弾丸が当たらないからだ」
「なんで」
「よけるから」
「馬鹿!」ホークは叫んだ。「馬鹿!」
「馬鹿でもそうなんだ。射線と視線、筋肉の動きを読む力、あるいはそれは第六感、予知のようなものかもしれん。俺にはないからわからんが、とにかく連中は弾丸に当たらない。その間に装填してくるし、あるいは格闘戦でモタついてる愚図からダイレクトに銃を奪って撃ってくる。しかもそれが百発百中、跳弾まで使ってきやがる。死角なし、お手上げだ」
「だから、追い掛け回して神経が参っちゃうのを待つって? ちょっとのん気すぎるぜ。話によればリオってのは頭がちょっと足りないらしいし、全然平気で今まで通り暮らすかも」
「親父はへばるだろうが、娘はそうだろうな。だからこそ、なんだよ」
「はあ? もう付き合いきれねえな、まったく」
 ホークは首を振って泥棒に精を出す仲間たちのところへと駆け下りていった。アーサーはチェアを揺らしながら、誰に言うでもなく、呟いた。
「そうとも。だからこそ、この状況、この町でしか、リオ・ターナーは殺せない……」

 きぃきぃ

 何かのけだもののように、チェアが乗り手の呟きに応えて軋む。そして五十人の悪党が町に残された金目のものを集めてケイトの店へと集まっていき、最後にアーサーがそのスイングドアを潜った。
 中はもうすでに酒のにおいでむっとしていた。酒類はほとんど手付かずで残されていたのだ。どいつもこいつも塵と垢にまみれて誰が誰だかわからない悪党どもが悪魔そっくりの笑い声を上げて勝利の喝采を叫んでいる。なにはともあれ今夜はタダ酒なのは間違いない。
「大将、あんたも飲みなよ」
「いい」
「そう言うな。何を遠慮してる? 下戸なのかい」
「そう思ってもらってかまわない」
 アーサーはカウンターに座った。スイングドアと酒場の中が見渡せる位置にだ。自分が来るまで誰もそこに座っていないというのが、時代だな、と思った。
 目を閉じる。
 喧騒が遠のく、ランプの光が暗くなる。世界の中、自分一人が取り残されて石になっていくような感覚。
 昔はよく、こうした闇に取り巻かれて人を殺した。この闇の中にいる間でしか、己の才覚というものを発揮できなかった。アーサーは羊を追うのがヘタだった。病気の豚を見つけるのがヘタだった。文字を読み書きするのがヘタだった。人に愛されるのがヘタだった。
 殺すのだけは、上手かった。
 目を開ける。組んだ腕で、銃のグリップを撫でた。
 右腕の電撃だけを信じて生きてきた。
 死ぬ時は、どうだろう。
 ふと我に返ると、酒場の中が静まり返っていた。アーサーは顔を上げた。
 一人のガンファイターがスイングドアを超えて、立っていた。
 眩しげに目を細める。
 それは、世にも珍しい花嫁衣裳のガンファイターだった。酒場の中に立ち込める朝の光のもやの中、少女は酒場の中の悪党の数を数えていく。だが、カウントは最後まで行われなかった。誰かが雄叫びを上げて銃を抜いたからだ。
 銃声。
 アーサーは、抜かなかった。無駄だと知っていたからだ。硝煙立ち込める酒場の中で黒塗りのホークは嫌というほど思い知ったはずである。アーサーの言うことは正しかったと。この世にはどうしようもなく何もかもを置き去りにした怪物が存在するのだと。
 踊っているように見えた。
 少女が抜いたリボルヴァは一秒と持たずに弾切れを起こし、六人の人間を昏倒させていた。そのままステップを踏んだ。風に押されたようにわずかに傾ぐその身体、その動きだけで四方八方からめった撃ちに飛んでくる銃弾そのすべての射線から外れていた。神業などでは断じてない、発砲している側の方が血の気を失うそれはまさに悪魔の所業だった。夢を見ていると思って引き金を引くのさえ諦めたやつから顎を砕かれて回った。少女は熱い銃身を薄い手袋に包まれた手で振り回した。今日びガキでもごっこ遊びでこんな無茶無法をやるものではない、だがその少女にとってはそれが自然なことだった。気狂いリオの名前は伊達ではなかった。
 純白のドレスの裾が車輪のように回る、回る、回る――――
 いつの間にすり取ったのか、真新しい型式も知らない他人の銃で少女はまた発砲を繰り返す。打ち合わせていたとしか思えない美事さで悪党どもが板の間に崩れ落ちていく。世界が切り替わってしまったかのような、悪夢でしかない光景に我を失った馬鹿がこちらも弾切れのグリップを握って闇雲に振り回すが足払いの一閃で頭から床に落ち動かなくなった。ガンマンと呼ぶことすらおこがましい愚図が身内にいたことをアーサーはひとり恥じた。
 音が消えた。
 ひとり、少女だけが震え蠢く男たちを見下ろし、笑っている。
「わたし、強い?」
 アーサーは笑った。もはや怪談である。自分でなければ小便を漏らしていたかもしれない。それほどに少女は強く、恐ろしい存在だった。不思議ではない。稀にいる。だが、少女の怪物というのはさすがのアーサーも初めて見るが。
「強いね。ああ、とても強い。私なんかじゃ百年経っても歯が立つまい」
「へへっ、わたしのパパはもっと強いよ」
 本気で言っているのだとしたらやはり馬鹿という噂は本当らしい。そしてアンドリュー・ミラーから送られてきた手紙の内容も。アーサーはほくそ笑んだ。そして言った。
「どうしてだと思う?」
 主語がない。当然、リオは首を捻った。
「なにが?」
「私が町民を逃がす余裕を与えたことが、さ」
「うーん。やさしいおじさん?」
「ははっ。光栄だね。やさしいと来たか。でも違うよ……私は君と勝負がしたかったんだ。誰の邪魔も入れずにね」
「えーと……じゃあ、勝負する?」
 アーサーは悲しげに首を振った。
「無理だよ。君はこの光景を見て、まだ自分に叶うやつがいると思うのかい? 私が認めてあげよう、君は西部一だ。つまり、世界で一番強いガンファイターだ」
「あ、うん。ありがとう……? でも、それじゃ勝負はしないの? あれ? おじさんはわたしと勝負がしたい……でもわたしの方が強い……んん?」
 ここだ。
 ここで決める。
 腕は落ちた。向うは怪物。それでも放つ弾丸はまだ残っている。
 その弾丸の名前。それは魔法と同義。あらゆる善と悪の根源をつかさどるもの。
 その弾丸の名前は、言葉、という。
「君は若いから知らないだろう、しかし、年老いたガンマンと若いガンマンが決闘する際、ひとつの慣例があるんだ……年老いたガンマンに敬意を表して、平等に、だが必ず決着がつく決闘……」
 アーサーは銃を抜き、自分のこめかみに当てた。




「ロシアン・ルーレットっていうんだ」




 リオは小首を傾げた。知らないのだ。
「ろしあん……?」
「弾丸を残した拳銃を、シリンダを回して、自分のこめかみに向ってお互いに引き合うんだ。先に弾丸が出て頭を撃ち抜いた方が負け……」
 リオが目を見開いて叫んだ。
「死んじゃうよ!!」
 さすがのアーサーも面食らって一瞬声を失った。が、あふれるように笑い出した。
「ああ、そうさ。死ぬのさ。死ぬことで決着がつくんだ」
「そんなの……」
「いいか、小娘」アーサーは身を乗り出した。
「ひとつ荒野の掟を教えてやる。銃に生きた人間は銃で死ぬんだ。だが、俺は捕まれば銃殺されることはない。縛り首か今度こそ終身刑か……俺が銃で死ぬ運命は奪われる。俺はそれが我慢できない。荒野に生きたこの俺が、荒野を裏切ることだけはしたくない」
「……」
「若いおまえにはわからんだろう、だが、おまえの親父もきっと同じことを言うはずだ。ここで転がっている五十人にはわからないだろう、だが本物のガンファイターである俺とおまえの親父なら分かり合えることだ。おまえもそうだと、思っているんだがな」
「……」
 リオは、だいぶ長い間、考えていた。きっと今まで生きてきた中で一番、考えていただろう。旅に出て、難しいことがたくさんリオの頭には降りかかってきた。答えが出ないこともたくさんあった。それでも思う。正しい道はひとつだと。
 そう思う。
 リオは顔を上げた。
「ひとつだけ、約束して。二人で六回ずつ引き合って、それでも弾が出なかったら、おとなしくわたしに捕まるって」
 アーサーは目を閉じた。そして悔いるような重々しい声音で言った。
「誓おう。飲んだくれの親父と売女のお袋、そして友の眠るこの大地に」
 リオが、Q&Dのシリンダをスイングアウトした。アーサーはそれを針のような目で見つめながら付け加えた。
「弾丸はシリンダの中に五発だ」
 アーサーは自分のリボルヴァのシリンダから一発だけ抜いて、倒れている男の口の中に放り込んだ。
「俺も同じ。ただし引き金は俺が先に引く。年寄りがハンデを背負うのさ」
 リオはわかっているのかいないのか、言われた通りにドレスに巻いたガンベルトから五発、リボルヴァに詰めた。
 六発中五発。
 酔ったギャングだってためらう狂気の沙汰に他ならない。アーサーとて正気ならとてもできない、引き金に触れもしない。だが今だけはできる。リオの目をまっすぐに見つめながら、シリンダを回転させ、スイングイン、そのままこめかみに銃口を当てる。
 ぶるぶると震える手で、引き金を引いた。




 かちん




 不発。ふう、と大げさにため息をついてみせる。頬の肉を噛んで笑みを殺しておくのも忘れずに。
 不発?
 それはそうだろう。
 なぜならこの銃に込められた弾丸には、最初から雷管も火薬も入っていないのだから。
「おまえの番だぜ、リオ」
 ごくりと生唾を飲み込み、回転させたシリンダをスイングイン、こめかみに銃口を当てる仇の愛娘をアーサーは愉悦の境地で眺め渡した。なるほど確かに電撃の化身だ、その稲妻は右腕どころか全身にまで侵食している、たとえ百年経ってもこれほどの才能は二度と世に出てこないだろう。それほどの逸材。
 だが、愚かだ。致命的に。普通やるか、こんな勝負? ちょっと考えればわかりそうなものだ。銃を交換し合おうと一言提案してみせる頭さえあればこんなロシアン・ルーレットは成立しやしないのだ。だって誰でも考える。最初から不良品の弾丸を入れておけば負けないねなんて、今日び小便漏らしのガキでも言える。それが言えない、わからない。
 かわいそうに、神の美業の電撃が脳まで侵食しているのだ、この天才様は。そこがつけ目、そこが落ち目。噂どおりの低脳ぶり。
 アーサーは目を細めた。
 さあ、撃鉄を起こしたぞ。引き金が絶頂寸前にまで引っ張られる。あとはちょいと触れてやれば六分の五の確率で可愛い可愛いアラン・ターナーの愛娘は脳漿をぶちまけて死に絶えるのだ。その死体をさらしてやろう、そのざまを写真におさめてやろう。そうして復讐を果たすのだ。十七年の報いを炸裂させてやるのだ、やつの心の中で!
 リオが目を閉じる。
 絹の手袋に包まれた指先が引き金を引き絞る――





 かちん





 弾は出なかった。リオよりもアーサーの方が重々しいため息をついた。そうか、出なかったか。まあ、そういうこともある。それにしてもなんという強運。六分の一の生還を引き当てやがった。この土壇場で――だがそれも所詮、怪物の断末魔に過ぎない。
 そして、アーサーは形だけのシリンダーシャッフルをしようとした。が、できなかった。
 白状する。
 度肝を抜かれた。
 リオ・ターナーが、続けて撃鉄を倒していた。シリンダーを回転させもせずに。
 アーサーは口を押さえた。涙が出そうだった。手足をばたつかせられないことが悔しくて悔しくて仕方ない。これほどか、これほどまでに、こいつは、
 馬鹿。
 馬鹿すぎる。ありえない。どうかしている。俺を喜ばせようとしているのか? ああ、だとしたらやめないでくれ、そんなことされたらどうにかなってしまう。アラン、おまえの娘は本当にクレイジーだ。生まれ損ないもいいとこだ。
 六回ずつ撃ち合う。その言葉をそのとろけた脳みそのどこでどう曲解したのか、リオは連続して引き金を引こうとしていた。もうアーサーの方こそ何がなんだかわからない。なんで? と聞きたいのは誰よりもアーサー・アインスタインその人だった。だが答えはきっと決まっている。
 馬鹿だから。
 アーサーは口から手を離した。その牙のような歯が見えるほど、薄汚い笑みが顔に張り付いていた。
 吹き飛べ。脳漿を壁にべったりと塗りたくって死ね。それで俺の十七年間が帰ってくるわけではないが、少なくとも今日のタダ酒にいくらか渋い肴が添えることにはなる。それで今だけは満足してやる。
 死ね。憎きあいつの生きた証よ。
 その願いが届いたのかどうか。
 リオの指が引き金を引いていく。それに釣られるかのように、リオの目が閉じていき――





 かちん




 不発。
 不発?
 アーサーはぽかんと口を開けた。不発。なんだそれは。ありえない。だって五発装填されているのだ。たとえ初弾が空でも次には絶対に装填されているはずなのだ。そうでなければおかしいのだ。自分が何かを見落としたと? 復讐のその瞬間を見落としたと? 馬鹿な。
 リオは続けて撃鉄を起こした。引き金を引く。不発。また起こした。引き金を引く。不発。起こした。引く。不発。起こした。引く。

 かちん

 リオは無表情のままスイングアウト。結局一発も発射されなかった弾丸を五発、床に落とした。目玉が飛び出るほど驚いているアーサーには弾丸が床に落ちる音が何かタチの悪い妖精の笑い声に聞こえる。
 リオが、アーサーに近づいてきた。アーサーはびくっとして身を縮める。親に叱られる子供のようだったが、アーサーが恐れているものは親よりも強い何かだった。
 リオは、おずおずとアーサーの顔を覗き込んできた。
「あきらめる?」
 何を言っているのか、アーサーにはわからなかった。一瞬置いて、それが自分に、この勝負に言っているのだと気づいた。
 ――自分は六発引いてもう終わった。あとはおまえだけだが、死にたくないなら見逃してやる。
 あどけない顔で、天使のような目で、その怪物はそう言っていたのだ。
 全身から力が抜けた。負けた、いや、そんなものではない。勝てないと思った。今日は負けた、なんていう軽いものではない。未来永劫、何をどうしても、この少女をくびり殺す映像を脳裏に思い浮かべることが冗談でもできそうにない。
 手から拳銃が滑り落ちた。
 そうして、何もかも終わってしまうと、かえって気づかなかったものが目に付いた。
 リオのガンベルト。
 なんの変哲もない荒革の銃帯だ。おかしなところは何もない。ただ――弾丸の並びが不秩序だった。
 普通、右にしろ左にしろ、片側から弾丸を抜いていくものだ。誰だって一発目は左腰、二発目は右腰からなんて変な抜き方はしないだろう。残弾を数える時にも不便だ。だがその時のリオのベルトはあちこちに弾抜けがあった。しかも右腰の一定のラインまでは均等に減っているのに、だ。どういうことか。なぜそんな奇妙な抜き方をしたのか。しかも、負けてかえってはっきりした意識によれば、どうもその歯抜けのような空隙におさまっていた弾丸は死のルーレットの直前に抜かれたもののような気がしてならない。
 今日び小便漏らしのガキでもわかる。
 不発弾なら、絶対に負けないね、って。
 アーサーは少女の顔を見た。そして、何か言いかけて、やめた。
 恐ろしかったのだと、思う。

17, 16

  





 新郎姿の埃まみれの男が、馬からずり落ちるようにして飛び降りた。夜明けからだいぶ経った頃のことだ。アランは歓迎の文句と魔よけのマークを描いたアーチを走り抜けて、いとしい娘の名前を呼びかけた。が、やめた。
 噴水の縁にリオと、そして仇の男が座っていた。何かを喋っている。堂々と出て行けばいいのに、アランは何か見てはいけないものを覗いてしまったように壁に隠れた。そして盗人のように顔だけ半分出して見た。
 金色の朝日を浴びて、天上に舞い上がっていってしまいそうな花嫁姿のリオが手振り身振りを交えて、顔だけは子供のまま、アーサーに何かを熱心に語っている。
「……でね、その時キッドが言うんだ。おれに兄貴はいない……って! くあーっ! かっこいいでしょ!? かっこいいよね!?」
 アーサーは神の裁きを受けているかのごとく瞑目しているがリオはそんなことお構いなしに男の首を掴んでゆっさゆっさ揺すっている。話し相手を見つけるとこの少女は途端に見境なく加減というものを知らない。
 すぐに出て行ってもよかった。
 が、アランはその場に留まった。
 神の御使いのような少女が悪にまみれた男を捕まえている、絵本の中のようなその光景を、もう少しだけ見ていたかった。















            絵本の中のガンファイター




                Fin







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