妥協
(……マジかよ)
あまりに都合がいい展開に、陽の中で自分もすでに洗脳されているのではないかという
疑惑が現実味を帯びてきた。もしかしたら今こうやって由江を探していたのも由江の
思惑通りで、自分は由江の掌の上で踊らされているのではないかと思うと
目の前の由江と話をする前から、陽は早くも精神面で後手に回って気後れしてしまうが
それを振り払うように強い言葉で由江に臨む。
「どうしたの? じゃねーよ、何だこのサイコロステーキ推しは!」
「は? なに言ってんの、頭おかしいの?」
真剣な顔で問い詰める陽と、それを何時ものように馬鹿にした態度ではぐらかす由江。
何時もの事とはいえ精神的に余裕の無い状態の陽は腹が立ち、思わず由江を睨みつける。
「冗談だ、そう怖い顔をするな。ここじゃ人目があるし場所を変えよう」
由江に促されて人気の無い旧校舎に足を運ぶ二人。由江は周囲に人が居ないのを確認すると
いきなり陽の額に人差し指を当てる。すると、陽の視界が真っ白になり電気が走ったように
脳天がビリビリ痺れて陽は軽くパニックになる。
「ほら、これで大丈夫な筈だ」
陽の様子に構わず、作業の終了をさらりと告げる由江。当然、陽が納得する筈もない。
「何が大丈夫なんだよ! 目の前真っ白になったし!」
感情を剥き出しにして大きな声で由江に抗議する陽。
「男の癖に細かい事を気にする奴だな」
そしてそれを、もはや何時もの事のように受け流す由江。
「細かくねーよ! しかも『大丈夫な筈』とかすっきりしない言い方しやがって」
「治して貰ってその態度は人としてどうかと思うぞ」
「元はと言えばお前のせい……! いや、もういいや」
由江への文句を途中で止める陽。いい加減、このパターンでは
由江のペースに巻き込まれるだけだと気付いたのである。
「何だ、もう終わりか? 最近のお前はつまらんな」
案の定、つまらなそうな反応を示す由江。それを見た陽は
由江の扱い方が少しだけ分かったような気がした。
「とりあえずこれで元通りになってるんだよな?」
「ああ、それは心配しなくていいぞ」
その言葉に、とりあえずは一安心する陽であったが、どうにも腑に落ちない点がある。
「で? 俺に何をやったかの説明は無いのか?」
「ん? 別にする必要もないだろう」
「ああ、そう」
相手への配慮が全く感じられない由江の返答に対して、意外にも陽はあっさりと引き下がり
由江に背を向け、教室に戻ろうとする。そしてそんな陽の背中を
由江は何か言いたげな表情で見送るのであった。
教室に戻る道すがら、陽は自身の無力さを痛感していた。
――世の中には自分の力だけではどうにもならない事がある。
大抵の人間がいずれはそういう現実を突き付けられるのだが、それは主に社会に出てからの
話であって、まさか高校1年でそういった経験をする羽目になるとは
陽自身は夢にも思わなかったであろう。
どうにもならない事とはもちろん由江の事で、今回の事でもそうだが、これまでも陽は
由江に振り回されるばかりでその現状を打破する術を持っていないのである。これは自分では
どうしようもなく、かといって周りの人間も洗脳疑惑があるので信用できない事が大きい。
そして、もうこれは抗うことは諦めて由江との付き合い方を模索する方が
いいのではないか? と、陽に限らず一般的な精神力の人間なら当然に至るであろう
思考に帰着し、それが先程の由江が陽を軽視した発言に対する返答に現れたのである。
冷静に考えれば、いちいち怒って由江と対立するよりもある程度受け流した方が
うまく付き合っていけるのではないか? という咄嗟の判断であるが
いかんせん由江自身に対する受けは良くないようだ。
「サイコロステーキは見付かったのか? 大谷」
教室に戻った陽に対して教師が発した言葉に、級友達から失笑が巻き起こる。
自分が失礼な行動をした事は確かだが、よりにもよって教師からもたらされるとは
思いもしなかった辱めに対し、陽は動揺と共に恥ずかしさのあまり顔を紅潮させる。
「購買では売ってなかったんで、諦めました」
教師の皮肉に対して、陽は何か機転の利いた言葉を返したかったが
咄嗟にいい言葉が思いつくわけも無く、自分でもよく分からない言葉を返すと
すごすごと席に戻るのであった。
学校が終わると真っ直ぐ家に帰ってきた陽は、すぐさま自室のごみ箱を漁り、昨日
サイコロステーキを包んで捨てた筈のティッシュを探す。そして、見つけた
ティッシュを開いてみると中から現れたのは、やはりサイコロステーキではなく
四角く切られた消しゴムであった。
それを見ながら陽は、由江への憤りと共に学校であれから放課後までずっと考え続けていた
由江の能力についての仮説を、脳内で展開し始める。
由江の能力は他人に幻覚を見せるものなのか? まぁ、好感度のすり替えが出来る
くらいだからある意味何でもありな感じはするが、自分以外のクラスの皆には普通に
消しゴムに見えていたみたいだし、幻覚にしてはいやに個人的な気もする。そもそも由江の
存在が学校内で普通に受け入れられてるのも、もしかするとある種の幻覚なのかもしれないが
そう考えると今度はかなりの大勢に幻覚が掛かっている事になるわけだし
そうなると自分が受けた幻覚とは一致しない気もする。それに、大勢の生徒に普通に
先生として認知されている由江をみる限り、単純に幻覚を見せる相手を選んで
いるとは思えない。選んで掛けるには人数が多過ぎて現実的な方法とは思えないからだ。
そう考えると幻覚には2種類あって、一つは特定の相手を選んで掛ける幻覚。もう一つは
不特定多数に区別無く掛ける幻覚。という事にならないだろうか? そんで、相手を
選ばない方の幻覚は選んで掛ける方よりも効果が薄いとか? ……ちょっと考えが安直か。
しかし、あながち的外れな推察でもないような気がする。幻覚? みたいなものが
長時間に渡って持続し続けるとは考え辛いので、バレないように由江の事を観察していたら
誰かに幻覚を掛ける場面に遭遇する可能性は高いだろうし、もしかしたらその際に
何かしらの弱みを握れたり、弱点を発見できるかもしれない。
そう考えると、今までは絶望感と周囲からの孤立感しか感じる事のできなかった自身の心に
わずかだが希望という名の一筋の光明が射し込んだ気がするのであった。
よし、明日から頑張ろう。陽は心の中でそう強く思うと、明日からの具体的な
行動計画について考え始めるのであった。
「……それと、自転車の運転に関して近隣の住民から苦情が
寄せられたんで、自転車通学をしている生徒は注意してね」
翌日、朝のHRで教壇の上から生徒に向かって話す由江を、陽は
真剣な眼差しで見つめていた。弱点を知るためには、まず相手をよく
観察しなければならない。そう意気込んで張り切る陽だが、ただガン見しているだけで
弱点が分かるようなら苦労は無く、そこから目新しい情報など得られる筈もない。
しかし、まだ一日は始まったばかり。勝負はこれからであると、陽が自身を
奮い立たせていると、思いも寄らない人物から声を掛けられた。
「HRで話してた苦情の原因って、たぶん君だよね」
声の主は太縁の眼鏡に、まるでワカメのように見える癖のある黒髪が特徴的な
いかにも頭が良さそうな顔つきの男子で、そういえば確か学級委員ではなかったかと
陽は記憶を辿るが、いかんせん話した事もなく、かといって積極的に話し掛けようと
思った事もなかったので詳しく覚えておらず、話しかけてきた趣旨も
自身を糾弾するような内容であると推察されたので、陽の心に緊張が走った。
「いや、別にそれがどうって訳じゃないんだけど。たまたま見掛けてさ」
「見掛けたって何を?」
陽の警戒心を察知したのかすぐさま敵意の無い事を伝える男子生徒。一方、言って
いる事の意味が分からず思わず聞き返す陽。何かまずい所でも見られたのかと
内心、焦りを感じていた。
「一昨日の朝に君が車とぶつかりそうになってたのを
僕も自転車通学だから偶然見掛けてね」
ああ、何だそんなことか。と、思わず声に出しそうになる陽であったが
口に出すと面倒な事になりそうなので黙って彼の言葉を聞いていた。
それと同時に、今までほとんど誰も話し掛けて来なかったのに
彼はなぜ急に話し掛けてきたのだろうと、不思議な気持ちになっていた。