プロローグ
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全ての感覚が自意識の中へ。
現実の世界から、自分の内面――意識の奥底までゆっくりと沈んでいく。
それはまるで水の中へと沈んでいくような感覚だ。
意識の奥底から見上げれば、もう水面(みなも)は遥か頭上に遠い。
あたりには泡(あぶく)がいくつも浮かんできて、それぞれの中に僕の記憶が映り込んでいた。
沢山ある泡の一つがそっと近づいてきて、僕の鼻先で弾けた。
そうすると、懐かしい祖母の声が、僕の中に響いてきたんだ――。
今日はね。昭にとっておきの話をしてあげよう。
「殺生石」――九つの尾を持つ狐と、偉大なる玄翁心昭様の話だよう。
昔々、玄翁心昭というそれは大変徳の高いお坊さんがおった。
和尚は日本中を旅して、ある時、下野の那須野の原に通りかかったそうな。
那須野の原は見渡す限りのそれは広い野原で、一見住みやすそうな場所に見えるんだけど、家一軒、それどころか人っ子一人もいなかった。
あたりには、狐や狸、獣の鳴き声がたまに寂しく響くくらいだ。
「はて、不思議なことだ」と呟きながらも、和尚は一日かけて野原を歩いたけど、歩みは野原の半分にも達しなかった。
日も暮れて歩きくたびれた和尚は、今夜は野で夜を明かそうと覚悟を決めた。野宿をするにしてもせめて腰かけて休めるだけの場所でもないかと思って、あたりを見回せば少し行ったところに大きな石が立っている。
「これはよりかかるに丁度良い石だ」と和尚は喜び、その石によりかかると歩き疲れていたものだからすぐに眠りについた。
するとしばらくして、和尚が眠っているそばで「和尚さま、和尚さま」とかすかに自分を呼ぶ声が聞こえる。
はじめは和尚も夢うつつだったから、和尚のほうも微睡みながら、きっと気のせいだろう、そう思って眠りの中に引き返そうとしていた。
するとまた近くで、今度は前よりもはっきりと、
「和尚さま、和尚さま」と自分をしきりに呼ぶ声がした。
さすがに気のせいも二度はないだろうと和尚が起きると、いつの間にか自分は野原に仰向けになっていて、よりかかっていたはずのさっきの石がなくなっていた。
しかし石の変わりに、見目美しい若い女がそばにいて、和尚の顔を覗き込んでいる。
さすがの和尚もこれにはびっくりして、「私を呼んだのは貴女ですか? それにしても、貴女はどなたです?」と尋ねた。
そうすると、女は少し寂しそうに笑って、「びっくりなさるのも無理はありません。私は今し方貴方がよりかかっていた石の精です」と言った。
「その石の精がどうしたのです? 何か私に御用があるのでしょうか? 失礼ながら、こうして一晩のお宿を願ったお礼に、何かしてあげられることがあれば何でもしましょう」と和尚が言うと、女ははらはらと涙を零しながら、「貴方はありがたいお坊様のようですから、私の話を聞いていただいて、その上でお願いがあるのです」と女は語り始めたのだった。
もしかすると和尚様もお聞きになったことがあるかもしれませんが、実は私は昔に鳥羽の院様の御所に召し使われていた玉藻前という者でした。
更にいうと、元々私は天竺に住んでいた九尾の狐でした。狐は千年の功を積むと綺麗な女に化けるものなのです。
若い娘となった私は日本の国で院様の召使いになって、玉藻前と名のるようなりました。
院様は私をそれは良くしてくださりましたが、私は長い間、狐でいた頃に随分と人間に虐められ続けてきたことを思い出して、ある日ふと悪い心がおきたのです。
それは、私の呪術により院様のお命を奪って、日本の国を滅ぼそうという企みでした。
目論見通り、私をお側に近づけて以来、私の術により院様は重い病に伏せるようになりました。
私の悪い企みは、段々と成就しかけていたのです。
しかし、その時それを見破ったのが、陰陽師の安倍泰成という者でした。
私はとうとう泰成に正体を明かされて、御所を追われ、遂にはこの那須野の原まで逃げ込みました。
その間もなく院様は、三浦介義明、千葉介常胤と二人の武士に私の討伐をお申しつけになって、私は何百騎の侍に追い立てられ、射狩られることになりました。
私も懸命に逃げようとしましたが、とうとう逃げ場を失って二人の武士の矢に射られて倒れました。
けれども体は滅びても、私の根深い悪心は滅びず、私はこの石になって残ったのです。
業の深い私の悪心からか、石のそばによるものは人も獣も皆、毒気に当てられて死にました。
皆はそんな私を殺生石と呼んで、やがて誰も殺生石に近寄る者はいなくなったのです。
あらかた話し終えて、一旦、女はほっとしたように溜息をついた。
「それが今夜の貴方に限って、殺生石のそばで夜を明かしながら何の災いにもかかりませんでした。これもきっと貴方が功徳の高い、尊いお上人さまであるからに違いありません」
和尚は目を瞑ったまま静かに女の話を聞いている。
女の告白はまだ終わらない。
それに私の罪はそれだけではないのです。
遥か昔に天竺、天羅国の班足王をそそのかし、罪なき人を何人も刑に処し国を傾けた華陽夫人とは過去の私のことです。
その後に、大陸の殷という国で妃として紂王を騙して非道の驕りに耽り、罪なき民に惨たらしい仕打ちをして、国が滅びるよう仕向けた妲己というのもまた私でした。
罪深き華陽夫人として一度死に、妲己としての罪を背負ってまた死んで――。
そして今、玉藻前として死んでからも尚、殺生石としてこの世に残り、私は人々を苦しめ続けています。
九尾の狐の罪深き業は三度死んでその身が石に成り果てても消えず、私自信も苦しめ続けているのです。
私はもう悪逆非道の限りを尽くしてきたこの業から解き放たれたい。
そこでどうか貴方のあらたかな法力で、自分の深い罪と迷いに石になっても苦しんでいる私をお救い願いたいのです。
すべてを言い終えて、女はほっとしたように溜息をついた。
和尚は目を瞑ったまま、静かに女の話を聞いていが、やがて静かに目を開き、優しく女に、うん、うん、と頷きながら「分かった。私の力の限りやってみよう。だから貴方は安心して帰ると良い」と言った。
そうすると女ははじめてにっこりと笑って安心したのかと思ったら、すうっとかき消すように闇の中へ消えていった。
やがて夜が明け和尚があたりを見回すと、ちゃんと石は昨日のままそこに立っていた。見れば石のまわりには生き物は愚か、草一本たりとも生えてはいない。あるのは小鳥や虫たちが折り重なる死骸だけだった。
和尚は改めて殺生石の恐ろしさを目の当たりにして、肝を冷やす思いをしながらも殺生石の前に座って熱心にお経を読み始めた。
そして丁寧に殺生石の霊を祀ってやると、殺生石はかすかに動いたようだった。
やがてお経が済むと和尚は立ち上がって呪文を唱えながら、杖がわりに持っていた柄の長い木槌で三度石を打った。
すると静かに石には三つにひびが入り、石は三つの欠片となってどこかへと飛んで行った。
それからは、旅人が殺生石の近くを通っても誰も災いにかかる者は無かったそうな。
これで玄翁心昭様の有難いお話は、おしまい、おしまい。