第一章
001
いつもより早く目が覚めた。
枕元の目覚まし時計に目をやると、時計が鳴るべき時間よりまだ大分早い。
普段より早くに目が覚めてしまったのは、眠りの中で見た夢のせいかもしれない。冷や汗をかき、背筋が凍るような思いで目を覚ます類の悪夢ではなかったが、何となく後味の悪い、今の僕にはあまり有難くない夢だった。
そういう意味ではあの夢のことを、悪夢、と言っても良いのかもしれない。
懐かしい夢だった。僕がまだ小さい頃に死んでしまった祖母の夢だ。
布団から起き上がると、襖のところに掛けてある制服を見た。紺色を基調とした真新しいブレザーは、まだ薄暗い部屋の中、それだけが妙に浮いているように感じた。本当についこの間まで黒い学ランを着ていたので、今日からあのブレザーに袖を通すことになるのかと思うと、何だか、まだ実感というものがあまり湧かなかった。
寝間着のまま自分の部屋から居間へ移ると、まだ薄暗い時間なのに、父も母ももう既に起きていた。
おはよう、と互いに挨拶を交わして、なんとなく脚の低い机の前に座る。向かいでは父がもう黒い袈裟を着て新聞を読んでいた。
「今日はいつもより早いのね。もしかして緊張して眠れなかった?」
台所から母の声が、味噌汁の香りと共にやってくる。
緊張なんか、しない。
だけど、否定とも肯定ともつかない曖昧な言葉で、母の問いかけを適当に流した。
やがて、朝食が次々に台所から運ばれてくる。座卓にはご飯以外のものが所狭しと並べられていた。
「ほら、昭も早くちゃんと着替えて、朝ご飯の前にお祖母ちゃんたちにご挨拶なさい」
ご仏飯を仏壇に供えながらそう言う母に急かされて、紺色のブレザーに着替えてまた居間へと戻った。
「やっぱりブレザーも似合うんじゃない? ねえ、お父さん」
「ああ、そうだな。よく似合ってる」
ご飯を米櫃からお茶碗へよそいつつ、はしゃぐように騒ぐ母に、読んでいた新聞を畳みながら、いつも通りの穏やかな笑顔で応じる父。
なんだか照れくさくて、ばつが悪そうに「ありがとう」と一言だけ答えた。それでも父は、まじまじと僕を見ながら感慨に耽るように「気づけば、昭ももう高校生か。……頑張れよ」と笑う。
うん、と僕は頷いたけれど、何を頑張れば良いのか、何のために頑張るのか、僕には今一つ分からなかった。
きっと普通の高校生は、夢の実現のために頑張る、だとか、今のところはっきりとした夢が無いにしても、良い大学に入って、良い仕事に就いて、行く行くは出来るだけ良い暮らしをするために頑張る、など、何かしら頑張るための、それらしい理由はいくらでもあるのだろう。
だけど、僕にはそれがない。
古くから続く御心家の――お寺の一人息子として生まれた僕に、用意された道は最初から一つだけだ。
両親から直接、寺を継げ、と言われたことはない。
――いいか、昭。家は応安八年に玄翁心昭が真言宗から曹洞宗に改宗なさって以来の、由緒正しい寺なんだぞ。
ただ、幼い頃から両親からは、ことあるごとにずっとそう言われ続けてきた。
とびきりの笑顔で、誇らしげなにいつもそう言う父には、元より、僕が寺を継がない、という選択肢が想定されていないのだろう。日頃の父の言葉や態度の端々から、きっと僧侶の息子は僧侶になるのが当たり前――そういうふうに、父はごく自然に考えているのだろうと思う。父や祖父、ずっとその前の祖先たちがそうであったように。
だからわざわざ僕に、寺を継げ、なんて言う必要がない。
頑張ったからといって新たな可能性が広がるわけでもなく、僕の行き着く先はいつも一つ。終点は最初から決まりきっている。
自分は将来、何になるのか。何になるべきなのか。そして、何になりたいのか。
誰しもが必ず抱く将来に対する苦悩すら、終点を定められている僕は抱くのも叶わない。
終わりが見え透いている始まりに、緊張も、興奮も、希望もあり得ない。
だから高校生としての始まりを迎える僕に、特にこれといった感情はなく、実際に入学式の日を迎えた今日も、やはり僕は無感情のままだった。
ご先祖様への挨拶のために、仏壇の前に正座する。蝋燭から火を貰い、お線香に火を点けた。独特の香りがあたりに漂う中、お鈴を二回ほど鳴らすと、静かにあたりの空気が小刻みに揺れる。左手に数珠をかけてゆっくりと頭を下げ、ご先祖様を思う。
僕にとってのご先祖様となると、祖父は僕が生まれる前に他界しているので、自然と祖母のことが思い浮かぶ。
手慣れた毎日の所作の中で、祖母を思うと、夕べ見た夢のことを思い出した。
子守唄のかわりに、祖母はよく枕元で御伽噺を聞かせてくれた。
そのほとんどが仏教や家の宗派に関する民話だったのは、無論、家柄のせいだろう。
斜に構えた、大分、捻くれた物の見方をすれば、それは幼い頃から僕に、寺の息子、であることを教え込むためだったのかもしれない。
だから新しい生活が始まる日に、祖母が夢枕に現れて、懐かしい昔話を語ったのも、お前の行く末は我が家の寺の僧と決まっているんだぞ、と僕に改めて釘を刺すように言って聞かせたのではないかと、苦々しく思えた。
家族全員がご先祖様へのご挨拶を終えて、食卓を囲む。
終始、母は明るく笑い、父は穏やかな笑みを浮かべながら話していた。
父も母も悪い人では絶対ない。亡くなった祖母だって悪い人じゃなかった。笑顔の絶えない、素敵な家庭じゃないか。一体、何に不満があるというのだ、と自分に言い聞かせながら、僕は懸命に米粒を飲み込んでいた。母が丁度良い塩梅に土鍋で炊いた米は、何故だか酷く、飲み込みづらく感じた。
朝食を終えると、我が家は途端に忙しくなる。お寺の朝は早く、普段から両親は五時には起きていて、それから身なりを整えて六時には寺の門を開く、七時半くらいまでは法事の準備を行い、それから坐禅を組む。法事は平日休日、関係なくほぼ毎日ある。
当然、寺の僧侶には休みというものがなく、息子の入学式がある今日も、住職である父は学校には来られない。家ではそういった行事には母のみが参加するのが決まりだ。
「では、いってらっしゃい」
「お母さんは後から入学式に行くからね」
お寺の門で両親に見送られて家を出る。
真新しいブレザーに、まだ慣れそうにないネクタイ。どこか今日の自分に違和感を覚えながらも学校へと向かう。
ふと振り返ると、母親と竹箒を持った父がまだ笑顔で手を振っている。
良い両親に恵まれている自分は幸せじゃないか。
そう自分に強く言い聞かせながら、僕は新しい日へと、一歩、歩みだした。
ここが自分の母校となったという感覚は、まだあまり感じられないけれど、これから僕の母校となる高校に僕はいた。
僕が住むこの地域は、桜の開花が少し遅い場所なので、校門近くに植えられているソメイヨシノはまだ花開かず、まだ蕾桜と言ったところだ。そんな土地に住む僕だから、入学式に桜、という構図はどこかフィクションじみた光景に思える。
校門から学校に入るとそこはロータリーになっていて、ロータリーの真ん中、丁度円状の植え込みになっている中心には、小さな時計台が建っていた。
ロータリーを回った奥の方には来校者用の玄関があり「学生用の昇降口は向こうです!」と間違ってそこへ行く新入生がいないよう、人混みの中、懸命に誘導役の女性教師が声を上げている。
人混みで見通しが悪く、教師が指差すほうを見ても昇降口は見当たらないが、とりあえず、人の流れについていけば間違うことはないだろう、と適当に人混みに紛れた。
そうやって昇降口の近くまで来たとき、僕は不可思議に出会った。
あたりを見回せば、どこもかしこも人だらけだというのに、何故か一部だけ人がおらず、ぽっかりと開いた場所がある。まるでそこは円状の障壁で囲われているのか、その領域に入り込む者は誰もいない。
その不自然に出来た空白の中心に、一人の少女が立っていた。
真新しい制服を見るに僕と同じ新入生のようだ。ぽつん、と周りから取り残されて独りぼっちでいるのに、その顔には困惑も寂寥も見えない。周りには怪訝な視線を向ける人もいれば、何故かあからさまな敵意を彼女に向ける者もいる。
様々な感情に囲まれながら、彼女のほうはというと周りを威嚇するでもなく、凛々しくもそこには何も映らない瞳で、どこか中空をじっと見つめていた。
彼女は何故、孤立しているのか?
孤独の中、何を思っているのか?
この状況が呑み込めずに怪訝そうに彼女を見つめる人たちも、何かを知っているのか、彼女への敵意を隠そうとしない人たちも、皆一様にこれからの彼女の一挙一動に注目している。
あたりに謎の沈黙が流れた。何もかもが理解できない光景だった。時間だった。
やがて、ふと思いだしたかのように彼女はその場を動き始める。
自らを囲む人垣に彼女が向かっていくと、まるでモーセの奇跡のように、黙って人混みが左右に割れる。この不自然な状況に何も感じない、何も思わないといったふうに彼女は開かれた道を歩いていった。
昇降口の中へと消えていく彼女の背中を、そこにいる者全員が無言の中、目で追っていた。
その場に残された僕たちは、去っていたあの不可思議はなんだったのだろう、とお互いに顔を見合わせるばかりだった。
彼女が去っていた後。
昇降口のガラス戸に貼られているクラス分け表を見るに、僕は一年三組になるらしい。
学区制が撤廃された昨今は、市内外は勿論のこと、県内全ての中学校から生徒たちがこの高校に進学してくる。自然、クラス表の三組の欄に連なっている名前は、ほとんどが僕の知らない名前ばかりだ。
はじめて歩く校舎に少し戸惑いながらも自分のクラスに着く。
中に入ると、すでに僕と同じ新入生たちがちらほらといた。同じ学校から進学してきたのか親しげに談笑する者、緊張した面持ちで自己紹介をしあう者、はたまた固くなって独り、自分の席で黙って座っている者、色々な人がいる中に――僕は昇降口で出会ったあの不可思議を見つけた。
彼女は昇降口の時と同じように独りでいた。誰かと話す訳でもなく、静かに自分の席に座っている。やはり、彼女に近づこういう者は誰もいなかった。
黒板には座席表に生徒の名前がそれぞれ記されていて、僕は自分の座る場所を確認する際に、彼女の名前もさりげなく確認する
彼女の名は、若藻(わかも)みずく、というらしい。
変わった名前だな、と一瞬思ったが、自分の御心(みこころ)という姓も大概変わっている苗字なのですぐに思い直す。
自分の席について、ちらり、と若藻のほうを見やる。若藻は独りで大人しくしているだけなのに、それだけで人目を引く何かを持っていた。それは、魅力と言ってもいいのかもしれない。ただ、だからといって誰か若藻に話しかける人がいる訳でもなく、人を近づけない――そんな気配が彼女の中で魅力と共に同居しているように思える。
相変わらず彼女の周りには不自然な不可侵領域が出来ているらしく、彼女に敵意の視線を向ける者もまた相変わらず少なからずいる。
彼女は一体、何者なんだろう?
そう思いながら、若藻みずくのことを自分の席からぼんやりと眺めていると、背後から僕の背中を叩く者がいた。
「――――?」
「一中の時、五組だった――確か、御心だよね?」
その声に振り返ると、見知った人が立っていた。見知ったといってもその人の素性をよく知っている訳ではない。名前も知らなければ、中学校の頃、学校で何度か見たことがあるくらいだ。
「うん。そうだけど」
「あぁ、良かったぁ。知ってる人がクラスにいて」
柔和な顔で笑うその人物は、確か随分若い番号のクラスにいたはずだ。中学時代に何の接点もなかったのに良く僕の苗字を知っているなぁ、と内心で感心する。ただ、御心という苗字自体が珍しい姓名なうえ、お寺の息子ということで話の種にされ、変に覚えられているというのは良くあることだった。早計かもしれないが目の前の人物もそのクチかと思うと、少しうんざりする。
「オレ、二組だった都城(みやしろ)だよ。よろしくー」
「あぁ、よろしくね」
都城の笑顔に釣られて、こちらも笑顔で応えた。都城ののんびりとした口調と態度は、多少身構えてしまっていた僕の心を柔らかくときほぐしていく。どうやら悪い奴ではないらしい。
「しかし、高校になると知らない人ばっかだねぇ」
「都城も?」
二人でクラスを見渡しながら言う。
「うん。ほとんどの人は僕も全然知らないかなぁ」
「ふぅん」
相槌を打ったあと、自然と声が小さくなりながら若藻のほうを見て、都城に尋ねた。
「ねぇ、あそこに座ってる若藻って子、どんな人か都城は知ってる?」
「あぁ、詳しくは知らないけど、さっき周りでも話題になってたよね。あの子」
「どんなふうに?」
「なんでも、人でごった返す昇降口で周りの人に、私に近づくな、私に近づくと死ぬからって言ってたらしいんだって」
「それで周りから変に避けられてたのか」
都城からの話で大体のことに合点がいった。若藻の近くに誰も近づこうとしないのも、敵意の視線を向ける人がいたのも、これで全て納得がいく。それにしたって、「自分に近づくと死ぬ」だなんて大言壮語にもほどがある。そんなこと常識的に考えてあり得るはずがない。
「なんでそんなわざわざ自分から敵を作るようなことを?」
「さぁ? なんでだろうね?」
学校生活を上手く過ごそうと思えば、周囲に敵を作らないことは絶対条件だ。若藻が変に避けられていた理由は分かっても、学校生活のはじめから自分を不利な状況に追い込もうとする若藻の意図は、依然として理解できないままだ。
都城はさして若藻に興味はないらしく、若藻の話はすぐに終わって、その後、担任の先生がくるまでの話題は「あそこの中学校からすごい不良が入学してきてるらしい」だとか、この時期にはありふれた噂話ばかりだった。
続々とクラスメートたちが集まってきて、教室で飛び交う「よろしくね」の数々。それに合わせて段々と周りとのつながりも増えていき、みんなが和気藹々と談笑しているなか、僕はやはり若藻のことが気になってしまって、みんなの話もどこか上の空で聞いていた。
担任の先生が教室に来てからは――はじめに軽く教師自身の自己紹介。その後に入学式の日程とその諸注意――と、まあ、予想のままの通り一遍な流れだった。教壇の先生曰く、生徒同士の自己紹介はまた日を改めて行うらしい。
クラスメートたちは、さすがにまだ緊張した面持ちで静かに先生の話に耳を傾けていたが、やはり僕に緊張感はなかった。
先生の話を適当に聞き流しながら、ぼんやりと窓の外を眺める。視界の端に映った若藻も僕と同じように外の景色を眺めているようだ。どうやら僕は若藻に謎の共感を覚えているらしい。
窓から桜の木が見える。蕾桜が花開くにはまだもう少し時間がかかりそうだった。