「行先の話」
「行先の話」
「何もかも」を分け与えるという女性の部屋を出て、鵠沼は小さく嘆息した。
ノブに掛けたままの右手が強く握りしめられている。あれほど純粋な感情だけで生きる女性はそうはいないだろう。
同時に、不幸な境遇に見舞われながらもあんな決意を見せることのできる女性を、初めて目にした。
鵠沼はノブから手を話すと、廊下の奥にあるリビングへと目を向けた。彼女と話を終えたら改めて彼らと言葉を交わす約束になっている。
だが、今こうして彼女と対話したことで、自身の中にあった決意は揺らぎつつあった。果たして、これでいいのだろうか。できれば断って欲しいとすら思ってしまった。あまりにも辛くて鵠沼は熱くなり、強い口調を放ってしまったのだが、彼女はそれでもただ微笑んでいるだけで……。勿論、「微笑んでいた」というのも彼女の口調から読み取っただけである。
鵠沼は艶やかなフローリング廊下を歩き、奥の扉を開けた。リビングでは変わらず長いテーブルが中央に置かれ、壁には幾つかの見窄らしい絵画が飾られている。其のどれもがあの少女の願いのままに揃えたものであると思うと、腹の底からマグマのような、粘性の高い熱が沸き上がってくるような思いになった。何故彼らは、従ってしまえるのだ。
テーブルの奥に座る夫妻はにこりと業務的な笑みを浮かべ、温かいスープをテーブルに用意していた。鵠沼は彼らに薦められるままにテーブルに座ると、目の前に用意されたグラスを傾ける。渋味の効いたあまり高価ではないワインに顔を顰め、しかし自身の喉が潤っていくのを感じてほう、と息を吐き出した。
「娘とは、会いましたか?」
「ええ、それと確認の為、娘さんのお身体にも触らせて戴きました」
後半の言葉に二人の顔が多少歪んだがそれも一瞬で、彼らは再び柔和な笑みを作ると、鵠沼を見た。
「それで、娘は……?」
父の問いに対して、鵠沼は暫く迷いの色を顔に浮かべていたが、暫くして瞬きを一度した後、躊躇いがちに頭を上下させた。
「ええ、『治せます』とも。娘さんの五感は、全て元通りになると思います」
鵠沼はそう告げ、それから隅に置いていたキャリーケースを横にしてから鍵付きの金具を外すと開く。父親は鵠沼の開いた鞄の中身を見ようと椅子を引いて立ち上がると、ガウンを引きずりながら足早に彼の下へと駆け寄った。
鞄の中は、父親が見たこともないような器具が敷き詰められており、中にはあまり目にしたくないような凶悪な形をした代物も揃っていた。父親はその器具の数々を眺めながら感心したように吐息を漏らした。その姿を見つめながら、どことなく不安げな表情を浮かべている母親の姿を見て、鵠沼は溜息を漏らすと、鞄を閉じた。
「正直なところ、私は今回の仕事に対して、あまりいいように思っていません」
鵠沼のあまりにも率直な言葉に、父親は驚き目を見開く。
「何故です……?」
「あなた方が、あまりにも愛娘を愛しすぎているからです」
「娘を愛することのどこがいけないのです……?」
父親の顔が次第に赤く染まる。
語気も大分激しいところを見ると、突然の鵠沼の発言に納得いかないようだ。確かに、何一つ説明もしていないのに納得しろというのも酷な話だ。
「娘を愛することは素晴らしい。貴方達にとって彼女は何にも変え難い存在だ。だが、その娘を大事にするあまり真実から目を背け、真正面から自分の境遇を見つめる彼女から目を背けて、更には踏みにじりさえしている」
夫妻は、鵠沼の言葉の半分も理解することができていなかった。
当たり前だ。「無償の愛」こそ娘への救いであると思い続ける者に、鵠沼の考える救いも、あの「幸福な王子」を夢見る娘にとっての救いも、理解することはできない。鵠沼もまた彼らの幸福を理解できないように。
「本当は、彼女に断らせたかった。心を、感情を――幸福と感じる器官を失うことは、彼女の唯一の欲望をも奪ってしまうことだ。彼女の幸福を感じる器官を奪うことで、もしかしたらと思った……。だが彼女は犠牲を選んでしまった」
「何を、言っているんです?」
自分を責めるように言葉を吐き出し続ける鵠沼に、夫妻はいよいよ畏怖の目を向け始めていた。彼女の「治療」を依頼した筈なのに、彼は何故壊れかけているのだろうか。二つ返事で快く受けた男が、躊躇い怯えている。
夫妻にとって鵠沼という人物は、漸く見つけた愛娘の救い人となるはずだった。原因不明の病に対して的確な処置法を提示し、今後の為に役立てたいと報酬すら断った男だった。これで五感の戻った娘に微笑みかけてもらえる。犠牲を選び続ける娘に自由を与えてやれる。やっと反応の返ってくる娘の身体を力いっぱい抱きしめてやることができる。そう思っていた筈なのに、肝心の救世主は頭を抱えテーブルに突っ伏していた。
「あなた達は、何故彼女にこんな仕打ちができるんだ!」
「仕打ち、とは……?」
「私が治療することで、どうなるか分かっているんでしょう?」
夫妻は黙りこみ、怒りに燃える鵠沼から視線を逸らすように、顔を伏せた。
「……私は、この依頼を辞退したい。幸福な王子になれるという唯一の救いからも遠ざけるなんて事、私にはとてもできない」
テーブルに並んでいた食器を力いっぱい払った。耳を劈くような音と共に陶器製の食器が砕け、グラスが破片となって床に散った。鵠沼は欠片達をざりざりと踏み砕きながらキャリーケースまで行くと鍵を掛けて持ち上げ、一刻も早く立ち去ろうと扉のノブに手をかける。
「……救えると知っていたら、こんな事にはならなかったさ」
ぽつりと呟かれた夫の言葉に、彼の手は止まる。
すっかり青ざめた二人の姿を鵠沼は、じっと見つめる。
・
この村には何も無い。夫はそう言うとテーブルに唯一残ったワインボトルを手にし、蓋を開け飲み下し、荒れ果てたテーブルに乱暴に寄りかかった。
「田舎なんてレベルじゃあない。何も無いんだ。そんな場所に生まれた私は、ただただ村を出ることだけを目標として生き続けてきた。だが村を出ることを父や住民たちは決して許さなかった。この村の中で最も頂点に組していた父は当然この地位を後継すべきと思っていたし、外の世界なんて何一つ魅力と思ってはいなかった。たった数百人いるかいないかの小さなコミュニティの頂点であることに満足していたんだ」
再びボトルに口を付けるとワインを煽る。先程までの西洋風の仕草を真似ていた彼の姿は何処にもなく、ただただ見窄らしい中年男性の姿が、そこにはあった。
「絶望したよ。私は一生をここで過ごし続けるんだということに。今ここにいる妻だって生まれから育ちまで一緒さ。新鮮さなんてなかった。勿論妻も同じ事を思っていたし、私達はそれを了承の上で、退屈な夫妻のレールに乗っかった。そんな私達が唯一幸福を感じられるとしたら、新しさを感じられるとしたらなんだと思う?」
ボトルを叩きつけるようにテーブルに置くと、彼は鵠沼を睨みつけた。鵠沼は暫く冷ややかな目を向け、それから小さく、しかし簡潔に答えた。
「子供」
「そう子供だ! 娘が生まれた時、私達は感動したよ。こんな決まりきった人生の中でも、こうして新鮮な出来事に出会えるのだと。閉鎖的で閑散とした村をただ維持し、風化していく姿を眺めるだけの仕事より何倍も生きがいと感じることができた」
「私達にとって、娘は幸福そのものだったのよ。初めて彼と私が手に入れた真っ白い紙だったわ。赤ん坊だった娘がひと泣きする度に、私の身体が快感と幸福に満ち足りた……」
「健やかに育っていく娘を見ているだけで私は幸せだった。やがては村から出して、外の空気を吸わせ、この村から出て行きたくなるように仕向けるつもりだった。村民達はそんな私達の思考に異議を唱えていたが、私と妻が初めて手にした自由を、こんな冷たい牢獄に繋ぎ留めたくはなかった。まあ、娘は私達の望みに反して『この村を発展させたい』と思ってしまったがね……」
「だがそれは叶わなかった」
鵠沼の言葉に、夫は力なく頷いた。
「その奇病は、次々に娘の自由を奪っていった。まるで、この村から出ていくことを、彼女の望みをこの村は望んでいないとでも言うように……。こうまでしてこの村は閉塞的でありたいのかと、私は運命を呪いすらした。だが、呪ったとしても、憎悪を覚えても、生活に変化はないし、娘の奇病は続くばかり。やがて私は抵抗することが馬鹿だったのだと悟ったよ。だがそれでも奇病は続いた」
全てを吐き出していく夫の顔は、みるみる老けていった。それまでの若々しい外見を思わず忘れてしまいそうなほど、皺は増え、狼狽し、アルコールによって肌が赤く染まった。
彼は堕ち始めたのだ。戻れないと気付き、この先どう転んでも何もない事を、とうとう受け入れてしまった。
「自由を奪われて、生きた人形と化した娘の望みは、なんでも叶えてやろうと思った。今まで以上に私達は彼女を愛したし、村を憎んだ。だが、そうして娘の口から得られた言葉は、私達の望むものではなかった」
娘は、たった一度の移植から自分の身がまだ価値のあるものと思えた。村へ新しい風を吹きこむことも、愛情を注ぐこともできなくなったが、まだ誰かを救済することができて、且つそれが残された自身の存在理由と気づいた。
だがその残酷であり、純粋な願いを叶える上で、この夫妻は役不足だった。鵠沼は、暫く自身の腹部に手を当てていたが、やがて顔を上げると衰弱しきった夫に目を向けた。
「彼女の救済は、同時に自らがやっと手に入れた自由を切り離すことでもあったと」
夫は頷いた。
「正直、初めに自己犠牲を続ける女の話を聞いた時、私は最早手の施しようがないのではないかとすら思っていました。最低限生命維持のできる限界だけを残し、他は全て移植用に人に捧げている女性だなんて……」
鵠沼は改めて娘の状態を思い出す。
「何度も医者は来たのでしょう。だが誰も彼女を治療する術を持たなかった。何も救えないと知った貴方達夫妻はその医者を責め、罪悪感を植え付け、そして自分達の「都合の良い幸福」に参加させた。その結果麻酔で意識を昏倒させ、救済だけを積み重ねていった。村民の間でそれが何処かから漏れて、やがて悲劇の娘は自己犠牲による女神になっていたのでしょう。幸か不幸か憎らしいこの村の閉塞的と冷たい空気のおかげで、奇跡は長く続いたと」
「例え痛覚がないとしても、失われても生き続けることが可能だとしても、私は……」
冷ややかな目を向ける鵠沼の前で夫は崩れ落ちると声を上げて鳴き始めた。すっかり威厳を失ったその背中を憐れみ、唇を噛み締めた。
「お願いします、娘を……」
不意に聴こえた声と共に、妻が鵠沼の身体にしがみつく。涙の溢れた目をこちらに向け、絶望の淵にぶら下がりながらも、必死で耐え続けているその顔に、鵠沼はとても息苦しさを覚えた。
「娘の五感を元に戻してください……」
「お願いします……」
崩れ落ちて泣き続けていた夫もまた、鵠沼にしがみつく。最早なりふり構わず娘の治療を望む夫妻の姿を見て、鵠沼は静かに目を閉じた。
心を、感情を奪う方法が本当にあれば良いのにと、鵠沼は思った。
・
眩しそうに陽光を見上げた後、鵠沼はキャリーケースを手に歪んだ林道を歩いていた。夫妻の家にあった電話から勤め先に連絡したお陰で帰路も随分と楽なものになるだろう。事故と判断されてしまう車の処分を思うと気が重くなるが、とにかく今は帰宅だ。冷蔵庫に冷やしてあるビールを思い切り飲み干したい。
暫くして林道から畦道に出ると、鵠沼は一人の村民と偶然鉢合わせた。
日に焼けた筋肉質な身体をした、濃い顎髭が特徴的な男性だった。鵠沼は軽くお辞儀をして彼の横をすり抜け、再び村の出口へと向かおうとしたのだが、男性は低く力強い声でおい、と鵠沼のことを呼んだ。
「お前さん、もしかして村長のところに?」
「ええ、娘さんと会う予定がありまして」
ああ、あの娘か、と男性は言うとからからと笑った。
「奇跡を起こし続ける素敵な女性だ。あんたも、救って貰えたかい?」
にかにかと白い歯を剥き出しにしていやらしく笑う男性に、鵠沼はそっと微笑むと頷く。
「ええ、とても素敵な女性でした」
男性は満足そうな顔をして林道へと入っていってしまった。その後姿を眺めながら、鵠沼は再び畦道を真っ直ぐ進み、村の唯一の出入り口に足を踏み入れた。
途中、二進も三進もいかなくなった事故現場に遭遇したが、やはり車は動きそうにない。後始末は任せるとして、その先で待って居る筈の迎えの下に行こうと、事故現場を横目に鵠沼は再び歩き出す。
悪路を踏み締め、陽の届かない道を昨夜付けてきた轍を頼りに歩いて行くと、やがてコンクリートで舗装された道と黄ばんだガードレールが見えてきた。その先に一台の車が停まっており、助手席の窓からは見慣れた友人の姿を見つけた。
鵠沼は整備された路面の安心感に胸をなでおろした後、歩いてきた道を振り返り、改めて見定める。暗闇が獲物を求めて口を大きく開けている。この先に、あの閉塞的な村は存在する。
鵠沼は最後に出会った男性との会話を思い出す。
「奇跡なんて言葉は、責任逃れに過ぎない」
彼女は自らの意思で救い続けたのだ。必死に、自分のできることを探し続けて、生きる理由をどこまでも、どこまでも……。
幸福な王子を目指した少女に、奇跡等という言葉は似合わない。
鵠沼は拳を力強く握り締める。
「目が覚めたら、また会いに来ます」
暗闇に向けてそう言葉を掛けると、鵠沼は踵を返した。
――伝えなくてはならないことがあるから。