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第三部 『後藤、図書館を制圧するってよ』

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「後藤、それ何に使うんだ? 遊びにいくんじゃないんだぞ!」
「黙っていろ、俺の相棒が火を噴くぜ」
 俺は鷹の目つきで沢村を黙らせ、手元の水鉄砲のグリップを確かめた。真夏のアスファルトに放置したら溶けそうなゴムの手触りが俺の中の戦士を呼び起こす。
 沢村が気の毒そうな顔で俺を見ている。
「火じゃなくて水だろ噴くのはそれ……」
「黙れと言ったはずだ」
 俺の的確な射撃によって沢村は目を洗われた。
「やめろバカっ、仲間同士で争って何になるっていうんだ!?」
「お前の正論を聞かずに済む」
「やめろおおおおおおおおパンツの中に銃身を突っ込むなあああああ!!!!」
 俺は沢村のパンツにどう見てもおしょんしょんしちゃった後にしか見えない形跡をつけまくってやった後、図書館前の門に背中をピタリと貼りつけた。
「お前どうしてくれるんだよ後藤……このパンツ誕生日プレゼントだったんだぞ……」
「誕生日にパンツもらって嬉しがるならもうかぶれよ」
 スチャッ、と銃身を鳴らして俺は敷地内へ忍び込む。
「静かだな……」
「図書館だからな……」
 さてはこいつ天才か。俺は沢村を少し見直した。
「いいか、目指すは二階奥のトイレだ」
「一階にもあるぞ?」
「バカ野郎、あの自動ドアの向こうを見てみろ」
 俺が顎を振った先では、透明な自動ドアのそばにある課題図書コーナーに金色のシャツを着た南小の男子たちがたむろっていた。
「正々堂々とエントランスから侵入したら俺たちはもうパンツを履いたままおうちに帰ることはできないだろうな……」
 俺が言い放った恐ろしい未来への危惧に沢村の顔が青ざめる。
「なんとしても……なんとしてもフルチンだけは……!」
「股間を焼くのは日サロだけで充分だぜ。生で焼いたら犯罪者だ」
「でも、一階から入らないんだったらどっからいくんだ?」
「二階によじ登る」
 俺たちは駐輪場を通った先にある、建物と植え込みの間の狭い抜け道を腰を折って進んだ。
「このわけのわからんパイプを登れば、ちょうど窓と窓の間に出れるから二階にいる連中にもバレずに済む」
「ふうん。それにしてもこういうパイプの中って何が詰まってんだろうな」
「夢か何かだろ」
 俺と沢村はパイプをよじのぼった。俺は自分の尻のすぐ下にある沢村の顔を睨んだ。
「パンツ見ないでよね!」
「どんだけパンツ好きなんだ後藤」
 そんな好きじゃねーよと思ったが、そういえば紺碧の弾丸さんのパンツ鷲づかみにしたこともあったな……俺パンツ好きなのかな。今度かぶってみよう。
 するするとパイプをよじ登った俺たちは食事もできないほどの小さなテラスに身を滑り込ませることに成功した。
「ふうっ、一仕事だぜ」
「中の連中は……?」と沢村が不用意に窓から中を覗き込もうとしたので俺はダブルスレッジハンマーを喰らわせた。ベジータがよくやるやつである。
「げほっ……な、何をするんだ後藤……」
「二階だから警戒は薄いだろうが、確実性を重んじろ。この先に棚と棚の間にある窓がある。そこから忍び込めばトイレからも近い。この向こうはテーブルとかがたくさんあるゾーンだぞ」
「マジかよ……俺はテーブルとかがたくさんあるゾーンに迂闊に顔を出そうとしていたのか……」
「ああ。テーブルがたくさんあるんだぞ。座ってないわけねえだろ」
「すまん」
「分かればいいんだ」
 俺たちは目的の窓の下まで移動した。音もなく窓を開ける。
「読み通りだぜ。いくら冷房中につき開放厳禁とはいえ空調だけじゃどうにもならんケースもあるからな。朝っぱらに開けた後は鍵をかけないもんだと思ってた」
「たまたまだろ」
 ぶち殺すぞ。
「いいから中に入ろうぜ」
「おう」
 俺たちはそうっと図書館の中に侵入した。俺たちの税金で買われた質のいい絨毯が足音を消してくれる。そのまま流れるようにトイレに入った。
「見たかよ後藤、あいつら勉強してやがった」
 チラリと見えたテーブルがたくさんあるゾーンの光景を思い出し、沢村が唇を噛む。
「夏休みに勉強なんて……何考えてんだよ……!」
「ああ、その通りだ沢村。夏休みの宿題を図書館でみんなしてやってるようなやつらにロクなやつはいない」
 和気藹々と自由研究の画用紙にポスカでペン入れしやがって。腹立つわァ。俺の記憶によれば今年の俺は夏休みの宿題をぶっちして担任の遠藤先生に木っ端微塵にされたはずである。男の先生は声が大きくて怖いが、女の先生は掌底を心臓に打ってくるから始末に負えない。というか殺す気かあの女。
「で、トイレに着いたわけだが……」
 と俺が回想のような未来予知のような何かから振り返ると沢村がおしっこしていた。いやまあトイレだからいいけど俺の話もちゃんと聞けよ。
「いいか沢村」
「ションベンしてる時の肩に顔を乗せるなあああああああああ!!!!」
「ほう……」
「ほう、じゃねーよ! 見るな!!」
 俺だって好きで見たわけじゃない。ただ面白状況を作ろうとする俺の男子としての心が俺の身体を支配していたのだ。男子とはそういう生き物なのである。勉強なんかしてる場合じゃねーんだマジで。
 俺は丁寧に手を洗いお母さんが仕組んだに違いないハンカチをポケットから出して手を拭き拭きする沢村を横目に、話を続けた。
「いいか、これから俺たちがやることは簡単だ」
「ふむふむ」
「まずトイレのドアの脇に立つ」
「立ったぞ」
「終わりだ」
「うんうん……うん!? 終わり?」
「ああ。これでいい。後は時を待つだけ……」
 俺が遠い目をして言った瞬間、ドアが開いて金色シャツの男子が中に入ってきた。俺は男子が二、三歩進んだところを見計らって体当たりし、そいつを跪かせた。首を後ろからロックし、目の前には男子用便器がある。
「死にたくなければ逆らうな」
 さっき沢村がションベンしたばかりの男子用便器の破壊力と汚さは甚大だった。金シャツは真っ青になって呼吸もできない有様だったが小さく何度も頷いた。
「まず、その手にあるものを渡せ」
 金シャツがパタリと左手に握っていたものを落とした。
 夏休みの宿題一式である。
 なぜそんなものをトイレに持ち込んでいたのかというと――
「俺たちとの抗争中とはいえ、宿題をやっていかなかったら先生から怒られるのは明白……だから図書館にまで宿題を持ち込んでやっていたんだろうが、そこが俺たちとお前ら南小の違いよ。そんなもんテーブルに置き去りにしたら俺たちが図書館に1クラス単位で勝ち込みかけてきたら見捨てて窓から逃げなきゃいけない事態もあるかもしれないもんな。一番確実なのは、常に持って歩くこと……」
「な、何者だお前……」
「西小の後藤だ」
「ご、後藤!? あの天ヶ峰の手綱を握ってるとかいう……!!」
「もしお前がヤツの手綱を握ることが可能だと考えているなら、幼稚園からやり直した方がいいな……」
「くっ……お前に見つかるなんて……いいぜ、南小を裏切ってやる。好きなようにしな……」
「ほお? いいのか? 金髪美少女の紫電ちゃんを裏切っても?」
「正直重いよあの人……」
 金シャツの口から本音がこぼれた。気持ちはわかるがちょっと頭のネジがガタついてるだけだって。あの程度で面倒くさがってたらこの町で生きていくことは物理的に不可能である。
「どうする、後藤?」と沢村が聞いてきた。
「こいつを利用して、この図書館を制圧できないかな」
「無理に決まってんだろそんなの。裏切った時の報復が大きすぎる。口先だけだよコイツは」
「え、それじゃあ、どうするんだ……?」
「こうするんだよ」
 俺は躊躇うことなく水鉄砲でぴゅーっと金シャツの宿題を水浸しにした。金シャツが甲高い悲鳴を上げかけたので、俺は首のロックを強める。
「悪く思うなよ。病人に喧嘩売ってんのはそっちなんだからな」
「むぐっ……ひぐっ……」
「これでお前は宿題をやりにおうちに帰らないといけなくなったな……しかも全部オシャカだからどんなに頑張っても十日は缶詰だ。おっと。この図書館にいる仲間のを写さしてもらおうなんて思うなよ。そんなことしたらお前の家に夏休みの間ずううううううっとカチコミをかけてお前の宿題を全部駄目にしてやるからな」
 俺は『算数ドリル 小学五年生』を左手で持ち上げて、ひらひらと振ってみせた。
「なあ……わかるだろ、地柱南小学校五年三組、豊川牧之介くん?」
「う……うう……」
 豊川牧之介はその場に跪き、嗚咽を漏らした。
 降伏したのである。後は二階から蹴落としておうちに帰ってもらうだけだ。
「な? ドアの横に立ってるだけでよかったろ沢村。この調子でトイレに来たやつを一人ひとり潰していこうぜ」
「後藤、俺はたまに一番なんとかしなきゃいけないのはお前なんじゃないかって思うんだ」
「何言ってんだ、風邪引いた女の子を助けたい、俺はその気持ち一つで頑張ってるんじゃないか!」
「風邪引いた無敵の女の子を、だろ……天ヶ峰が回復したら南に負けるはずないもんな」
「たぶん、な」
「……?」
「まァなんでもいいや。悪いのは――」
 俺は蛇口でマガジンに弾丸(みず)を注ぎ込み、ぴゅっと試し撃ちしながら言った。
「夏休みに宿題なんかやってるヤツさ」



「ふふ……やつらの苦しそうな顔を見ているとスカッとするぜ」
「後藤……おまえは本当に終わってるな……」
 俺と沢村はトイレ備え付けのゴミ箱の底から予備のビニール袋を引っ張り出し、トイレにやってきた南小の連中の宿題をひとまずそこにぶちこんでいた。我ながら機転の利く俺である。
「同じ小学校だったら宿題を丸写しにできたんだがな」
「後藤……」
「ふふふ、次の獲物が来たようだぜ」
 俺たちはドアの脇に潜んだ。息を殺してドアが開くのを待つ。
 すると――
 ドアがひしゃげて、吹っ飛んだ。
「…………」
「…………」
 俺と沢村は壁にぶつかって緩い「く」の字に折れ曲がったドアを見て、顔を見合わせた。その間からぬっと人間の顔が出てくる。
「ひィィィィィィィッ!!」
「うわあああああああ!!」
 俺たちは風を喰らって退散し、トイレの奥に逃げた。ちなみに窓には落下防止用の鉄格子がはまっていて逃げ出せない。
 カツン、と来訪者の靴が男子トイレの床を打った。
「後藤くん……」
 髪で隠れていたその顔が露になる。
 女子だ。うわもうホントやだ助けて。よりによって女子かよ。
 濡れたような長い黒髪は藻のように鈍く蛍光灯の光を照り返し、着ているのは少女趣味のワンピース、靴は絵本に出てきそうな『赤い靴』でそこからワンピのスカートに吸い込まれていく細い足は死体のような白。
 そして、だらりと下がった左腕が掴んでいるのは……
「茂田……」
 失神した茂田が、少女に足を掴まれてトイレに大の字になっていた。
 お前……いくら裏切ったかつての仲間とはいえ敵の武器になって戻ってくるとは……
「後藤ぉぉぉぉぉくぅぅぅぅぅん」
 反応したら殺される気がする。べったりと鼻のあたりまで伸びた黒髪の狭間から、充血した目が俺を見ていた。背筋に悪寒が走る。
 コイツ……どこかで見たことが……
「ごっ、後藤……この子は……?」
「俺にも分からん……」と言ったあたりで俺の中の嘘吐きが本領を発揮したのか、その黒髪少女の記憶が一挙にリフレインしてきた。
 あっ、あいつだ。中学の頃に俺に付きまとってきた東小出身の女子。
「荒宮蒔火……」
「ふふ……ふふふ……知っててくれたんだァ? そうだよォ、マキビだよォ、後藤くんとは運命の赤い糸で結ばれてる、マキビだよォ」
 荒宮はケラケラと壊れたオモチャが鳴り続けるかのように高笑いすると、手に持った茂田をぶうんと一薙ぎした。洗面台の人工大理石が粉々に砕けて、だらりと伸びた茂田のデコにでかいコブが出来た。
「荒宮……な、なんでお前が……」
 俺とコイツが出会うのは中学になってからのはずだ。忘れもしない、コイツのせいで俺のアバラは天ヶ峰のボケナスにへし折られたのである。
 なぜ小五の俺を追ってきたのか、それとなぜ茂田を持っているのかはよく分からないが、まァ毒電波を受信してしまっているコイツに何故もクソもない。撃退しなければ俺は荒宮の自宅にお持ち帰りされて亀甲縛りにされた挙句に監禁されてしまう。それだけは避けなければ……
「沢村、かめはめ波だ!」
「分かった、波ぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 沢村が双掌を噛み合わせて伝説の構えを取ったが、かすかに隙間風が吹き込んだ程度で、何も起こらない。
 荒宮は茂田の頭を踏みにじって笑っている。
「だ、駄目だ後藤。冗談でどうにかなる空気じゃない」
 俺的にはかすかに沢村の覚醒に期待していないでもなかったのだが、やはり小五では駄目か。この路線は捨てよう。
「荒宮! 俺はいま忙しいんだ。お前に構ってるヒマはない」
「あの美里とかいう子を病院に連れて行こうとしてるんでしょ……? それは忙しいって言わないよねェ。マキビのために使わない時間なんてあっても意味ないよねェ!!」
 囁き声から金切り声へとクレッシェンドしていく独特の喋り方で荒宮は喚き出した。これだけ叫べば職員がすっ飛んできそうなものだが、恐らく荒宮のネリチャギでも喰らって軒並み昏倒しているのだろう。
「話をしていても無駄なようだな……」
「そんなことないよォ。マキビはね、後藤くんと喋ってるだけで幸せなんだァ……」
 返り血を浴びてる女に言われてもちっとも嬉しくない。
「えっと、マキビさん!? 俺たちは君と敵対する気はないんだ! 武器/茂田を下してくれ!」
「誰ェ君ィ……」
 レーザーポインターのように輝く荒宮の目が沢村を捉えた。俺の隣で沢村が身震いするのが分かった。
「マキビは後藤くんと喋ってるの……邪魔しないで……」
「くっ……やっぱりこうするしかないのかっ……!」
 沢村が主人公オーラを出しながら、掃除用具入れからよさげなモップを取り出した。ガチャリと金具のところを外してモップ部分を外し、それはただの棒となる。
「切捨て御免!」
 いや切れねえしそれ、という俺のツッコミを置き去りにして沢村が荒宮に飛び掛った。雄叫びと共に振り下ろされた棒が、荒宮の左耳の上を直撃した。
 いやな音がした。
「なっ……ガードしないなんて……」
 かえって撃ち込んだ沢村の方が動揺している。荒宮はくらっと二、三歩あとずさると、割れた頭から流れ出した血を左手ですくいとった。
「血……」
 それを俺の方に突き出して、荒宮はヨタヨタと近づいてくる。
「ねェェェェェェ見てェェェェェェ後藤くぅぅぅぅぅん……マキビの、マキビの血ィ……!!」
「うわあああああああ後藤やばい後藤やばいよ! この子ホントに危ない!」
 俺はもう中学の頃に嫌というほど見慣れているので今更驚かない。
「沢村、なんとかしろ! 俺たちがやられたら、俺たちの夏休みは他校の思い通りになってしまうんだぞ!」
「うっ、ううううう!!」
 沢村はマジでベソ入れながら再び荒宮に打ちかかっていった。が、今度は荒宮も応戦し、沢村の棒をかっしと受け止めた。
 茂田で。
「へぶっ」
 荒宮に盾にされ、脇腹をしたたかに打たれた茂田が呻いた。
「ああっ、茂田スマン……!」
「そんな裏切り者に情けをかけてやる必要はないぜ、沢村」
「なんでそんな冷静なんだよ! お前もちょっとは手伝っ、うわっ」
 荒宮が横殴りに茂田を振り、茂田の頭部がぶち当たった個室のドアがバカンと割れた。ささくれ立ったドアの中から、入り込んだ茂田を荒宮がずるりと引き抜く。あとには破れた茂田の衣服と乾いた血だけが残された。
「くそっ、荒宮め……男子便所でなんていう狼藉を……」
「どうする……もう後がないぞ……」
 俺たちは一番最後の個室の前まで追い詰められていた。荒宮は泥酔したようによろめきながら、蛇行して近づいてくる。おまわりさーん!
「仕方ねえ……正面突破するしかねーな」
「それができないから追い詰められてるんだろ!」
「ふふふっ、沢村よ、所詮お前はまだ小五よ……だが今の俺には六年分の知恵があるっ! どらあああああああっ!!!!」
 俺は気合一声、荒宮めがけて猛ダッシュをかけた。
「ああっ……後藤くん、ようやっとマキビと結ばれてくれる気になったんだね……!」
 茂田を捨て、両手を挙げて満面の笑顔と共に俺を待ち構える荒宮。ケッ、誰がお前みたいなヤンデレと添い遂げたりするもんか。俺はもっと普通の女の子と結婚するんだ。
「だからぁ……どきやがれぇぇぇぇぇぇぇ!!」
 俺はズボンが引き裂けるような低姿勢でスライディングをぶちかました。
 ……荒宮の向こう脛に。


 ドッガァ!!!!


「っっっっっっっっっ!!!!!!!!!!」


 いくら悪魔の化身とは言え弁慶の泣き所へダッシュスライディングをまともに喰らってはひとたまりもなかったらしい。荒宮は目に涙を浮かべてその場にしゃがみ込んだ。かくいう俺はスライディングしたまま荒宮の背後へ抜けており、そのまま振り返って沢村に向かって手を伸ばした。沢村が俺の手を取り荒宮の頭上を飛び越える。
 こんなところにいちゃたまらない、と俺たちは南小のやつらの宿題が詰まったゴミ袋も置き去りにしてトイレを出た。
 去り際に耳を傾けると、中から怨霊のような囁きが聞こえてきた。



「……ふふふっ、ふっ、くふっ、ご、後藤くんのキック……か、カッコよかったあ……ラ、ラッキー……」



 ダッシュで逃げることにした。
 死屍累々の図書館(べつに荒宮は南小と手を組んでいたわけではなかったらしく、あちこちに金シャツたちが倒れていた)を駆け抜けながら、沢村がグッと親指を俺に立ててきた。
「やったな後藤、彼女が出来たじゃん」
 人の気も知らないで、と俺は沢村を睨みながら言ってやった。
「……お互い、面倒な女に好かれるなァ」
「?」
 近い将来に実妹から求愛されることになる男は、無垢な疑問符を顔に浮かべた。
 呑気なこったぜ。
 俺たちは無人になったカウンター前を突っ走り、屋内からはやけに白く見える夏の世界へと戻っていった。
 あ。
 茂田忘れた。

13, 12

  






 俺と沢村は図書館を出て大本営へまで駆け戻った。途中までヨタヨタ歩きのバケモノと化した荒宮に追い掛け回されたが俺の機転でヤツはマンホールの中に飲み込まれて消えた。上からフタを閉めたのでしばらくは地下道に幽閉されただろう。まさか弁慶の泣き所を蹴り抜いて、そこからさらに追っかけてくるとは思わなかったぜ……荒宮蒔火おそるべし。早いとこ逮捕されてくんねーかな。
 俺は荒宮の気配を滲ませているマンホールをガンガン蹴った。
「ちっ、しくじったぜ。ボンドがあればマンホールの上からハンダ付けしてやるんだが」
「ボンドの使い方もハンダ付けの意味も間違ってるぞ!」
 俺は沢村をぎろりと睨んだ。
「ふざけんな、モノの使い道は使う人の数だけあるって金物屋の親父が言ってた」
「そんな使い道が沢山あったら絶対に何個か犯罪に使われちゃうだろ……特に金具系は」
「お前に鈍器の何が分かるんだよ」
「まずその言葉のチョイスが怖いよ!! なんで鈍器限定なんだよ!! 金物屋さんは合鍵とか作ってくれる店だよ!!」
 ちなみに俺が言っている金物屋は地柱商店街にあるのだが、今は店主とその奥さんがハワイだかグアムだかに旅行にいっていて店はシャッターが下りている。おかげで武器の調達に俺たちも敵も苦労しているわけなのだった。
「それにしても暑いな……」と俺。
「今日ずっと走りっぱなしな気がするな」と沢村。
「俺なんかさっきまで天ヶ峰を担いで走ってたんだぞ。あいつ筋肉の質がゴリラか何かだとしか思えねーよ」
 おかげで俺は腰痛に苦しんでいる。
「おまえゴリラも担いだことないのにそんなこと言ってちゃいけないよ」
「何がいけないんだよ。おまえゴリラの肩担ぐとかゴリラなんじゃねえの?」
「なんだよその小学生みたいな絡み……」
「いや小学生だし……」
 とにかく喋ってないとぶっ倒れそうなので、遠足道中のしりとりよろしく俺と沢村は無駄話を叩きながら、ようやくのことで大本営に辿り着いたのだった。
 だが、そこで俺たちを待っていたのは驚くべき光景だった。
 大本営の店先が滅茶苦茶にされていた。バットか何かで突いたような穴がガラスにいくつも空いている。道路にヒゲが倒れていた。
「……清志さん!!」
「……後藤……か……」
 俺は清志さんの背中に手を差し込んで、軽く起こしてやった。
「すまない……あの子は……守れなかった……」
「あの子って……天ヶ峰のことか!? そんなことはどうでもいい、清志さん、俺は、俺は清志さんに死んで欲しくないんだ!!」
 俺はうわっと清志さんの胸に取りすがって泣いた。
「清志さん! 清志さん! 死なないでくれ、清志さあああん!! うわあああああああああ!!」
「生きてる」
「どうして清志さんが死ななきゃいけないんだ!! いったい誰がこんな……こんなことをおおおおおおおおおお!!!!」
「生きてる」
「このカタキは必ず取る……清志さん、教えてください!! いったい誰が天ヶ峰を退治してくれたんです!!」
「いや退治はされていない」
 おーいて、と清志さんは後頭部を撫でさすりながら、ようやく立ち上がった。
「不覚だった……まさか酒を飲んでいるところを襲撃されるとは」
「まさかもクソも普通の襲撃ッスよ清志さん。何を夜討ち朝駆け喰らったみたいな顔してんスか。昼間っから酒飲んでる方が確実に駄目な子ッスよ」
「まァ酒はいいじゃないか」
 清志さん、とてもいい笑顔。
 駄目だ。これは駄目な大人だ。
「泥酔していたからよくわからんが、いきなりイチツブテをパチンコで喰らってな……ガラス戸が割れててんやわんやしているうちにあの子がさらわれてしまったんだ」
「清志さん、大の男として小学生にしてやられてちゃマジでヤバイっすよ。どんぐらいヤバイかって銀行に知れたらクレジットカードの申請下りないくらいヤバイ」
「ふざけるな! たかが小僧に侮られたものだ……クレジットカードを使わなくてもエロビデオを通販で購入する方法など無限にある」
 誰がそんな話してたよ。つーか無限にあんのかよ。現代に戻ったら教えてもらおう。値千金じゃねーかその話題。
「清志さん、とにかく天ヶ峰を回収しないとラチが開かないんで、連中の特徴とかどこへいったとか可能な限り教えてもらえないスか」
 俺はぺろりとエンピツの先を舐めて、手元の手帳に先端を押し当てた。ちなみに大本営の一隅にあるせせこましい文房具コーナーからたった今かっぱらったものである。清志さん、まだアルコールで足に来ているのか俺の早業に気づかない。
「一人、とても大きな子がいたな。男だったが……身長二メートルはあった」
「後藤、駄目だこのおじさん。もう眠らせたほうがいい。永久に」
「いや沢村、意外と交友関係が狭いお前は知らないかもしれないが、南小の身長二メートル男子といえば俺は心当たりがあるぜ」
「っ!? なぜ今さりげなく俺を傷つけた!?」
 趣味かな。
 俺はガリガリと頭をかきむしりながら、記憶のオモチャ箱をひっくり返した。
「確か名前は早乙女千鶴。女みたいな名前だが男だ。引越し団地組の一人で、確かアボリジニの血が混ざってる」
「アボリジニ……?」
 沢村が明らかに分かっていない顔つきをしたが俺もよく分かっていない。オーストラリアの原住民だったかな? たぶん。
「とにかく褐色系の肌で見りゃあ身長もあって一発で分かるぜ。コイツは単純な質量だけなら天ヶ峰をも凌ぐ」
 当たり前だが天ヶ峰は身長二メートルもない。
「コイツが出てきたとあっちゃあさすがに俺たちだけじゃお手上げかもな……」
「そんな……それじゃ捕まった天ヶ峰が可哀想だ……」
 沢村がしょんぼりする。
「俺に……俺にもっと力があれば……」
「どうする……?」
 俺は沢村の肩を掴んで、まっすぐにその目を見ながら、尋ねた。
「帰るか……?」
 沢村がばしぃっと俺の手を振り払った。
「最低だ! おまえ最低だぞ後藤! いまマジで帰ろうとしてたろ!」
「だって暑いし」
「お前ぇぇぇぇぇぇぇぇ!! 人間の心を取り戻せよ! ヒューマンビーイングカモンアゲンッ!!」
「ヘイユー帰っちゃおうぜユー」
「駄目ぇぇぇぇぇぇぇ!! 見捨てちゃ駄目なのぉぉぉぉぉぉぉ!!」
 沢村がまるで駄々っ子のように俺にしがみついてくる。めんどくせぇ正義感だなァもう。
「わかった、わかったよ。ちゃんと天ヶ峰を探そう」
 まァ天ヶ峰が元気になってくれないと荒宮に見つかった途端にゲームオーバーの状態が続くからな。天ヶ峰とぶつかれば荒宮もタダでは済まん。というか双方相打ちで死滅してもらえると世界が平和になって優しい風が大地に吹く。
 とりあえずサイゼにでも探しにいくかと俺たちが肩を回すと、遠くからなにやらガチャガチャという騒々しい音が近づいてくるのが聞こえた。何奴、と思い大本営の軒先から道路の果てを見やると、なんと西洋甲冑がどすどすと走ってこちらへ向かってきていた。七歩に一度膝に手を当てて息を整えている。
 俺と沢村は顔を見合わせ、西洋甲冑が来るのを待った。
「なんだアレ」と俺。
「鎧……だよな」と沢村。
 俺は目を細めた。
「パイロットは誰だ?」
「鎧の中身をパイロットって言うやつ俺初めて見た」
 沢村は呆れている。
 俺たちが退屈し始める頃になって、ようやく西洋甲冑は俺たちの前へ辿り着いた。
「ぜえっ……ぜえっ……」
 鎧は腰に佩いた剣を思ったよりも仕事にてこずっているひったくりみたいなたどたどしい動きで抜き放った。俺はそれを手刀で叩き落した。
「あっ、何をする」
「それはこっちのセリフだ。おい沢村、後ろから羽交い絞めにしろ」
「わーっ!! さわるな近寄るなバカバカ変態!!」
「後藤、俺泣きそう」
「メンタル弱すぎだろ沢村……いま兜を剥ぎ取ってやる。とりゃっ」
 くっ、と西洋甲冑人間が露になった顔を背けた。覆面レスラーかお前は。
「紫電ちゃん何やってんの」
「っ……!! だっ、だから下の名前で呼ぶな!! 貴様とは縁もゆかりもない!!」
 兜を剥ぎ取られた紫電ちゃんは、その美しい金髪を太陽光でますますギラギラと輝かせながら俺にぐるるると唸った。犬かおのれは。
「紫電ちゃん、どう考えてもこの真夏日に西洋甲冑は無茶だよ」
「やっ、やめろ! その哀れみのこもった視線で私を見るなぁぁぁぁぁぁ!!」
 この猛暑で熱を逃がさない鉄板の中に埋もれていたら顔も赤くなるわな。
「で、フルアーマー装備で何してんの紫電ちゃん。つーかよくこんなのあったな」
「……さっきはこの男に」と紫電ちゃんは約束を破ったパパを見る幼女のようなぶんむくれた視線を背後の沢村に当てた。
「その、ふ、不覚を取ったからな。私なりに対策を考えてきたんだ」
「ああ、お嫁にいけない身体にされたもんね」
「言うなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
 紫電ちゃんと沢村が同時にその場にしゃがみ込んで顔を覆った。
「ううっ……」と声で涙ぐむ紫電ちゃんは耳まで真っ赤である。
「ひどい……ひどいよ……男の子なんてキライだ……」
「おい見ろ沢村。未来のオールドミスのタマゴがいま誕生したぞ」
「ワケわかんねーけどお前がスゲー失礼なこと言ってることだけは分かる! 最低だぞ後藤!!」
「はっはっは。なあに、女は度胸だってば紫電ちゃん。周りの子から一歩多く経験を積んだと思えばいいのさ」
「やめてって言ってるのにぃ……」
 このまましゃがみ込んでいる紫電ちゃんの周囲をぐるぐる回って「ねえどんな気持ち? いまどんな気持ち?」をやってもよかったのだが、これ以上つつくとガントレット着きの拳から生み出される綺麗な軌道の右ストレートが俺のボディにブッ刺さる可能性があったので、潮時と見た。
「ふん。どうせ天ヶ峰を殺りに来たんだろ」
「……」
 紫電ちゃんがおっかなびっくりという感じで指の間から俺をチラ見してきた。心配しなくてももう下ネタは言わねーよ。
「そんなに天ヶ峰が憎いか?」
「憎くはないが……彼女の存在はこの町ではあまりに危険だ」
 どの町でもあまりに危険だと思うがなアイツは。
「話を聞けば、その行動はあまりに悪逆非道。弱きをくじき強きを討つ皆殺しのエンジェル……」
 俺の知らない間に天ヶ峰のあだ名が増えている。俺はため息をついた。
「で、その話って?」
「え?」
「だから、紫電ちゃんが聞いたっていう話だよ。どんな話なの?」
「それは……」と紫電ちゃんが視線を虚空に彷徨わせた。記憶でも読んでいるのだろう。
「たとえば、公園を占領して小さな子供を泣かせている、とか、裏山で動物を殺している、とか……」
「ちげーよそれ」
「え?」
 紫電ちゃんは目を丸くした。
「違う……?」
「公園を占領したのはその小さいガキの方だよ。金持ちだかなんだかしらねえが、連日連夜公園でバーベキュー大会開いてドンチャン騒ぎしてやがったからな。あの公園の裏にあるアパートに住んでる高遠さんって人がいるんだけど、そこんち今赤ん坊がいるから近所で毎晩ドンチャンされたら夜泣きが止まらねえんだと。だから天ヶ峰が出てってそのガキとその馬鹿な金持ちの家族の用意してた肉を全部喰っただけだ。あ、高遠さんは天ヶ峰が幼稚園だった頃の先生らしい」
 紫電ちゃんはポカンとしている。
「それとなんだっけ、裏山? たぶん天ヶ峰が一人で山に入っていくのを見たやつが作った噂だろうけど、あいつは裏山で動物殺してたんじゃなくて逆だ逆。捨てられてた猫を育ててたんだよ。あいつん家のお母さんが猫アレルギーだからさ。そっか、そういえばこんぐらいの時期だったっけな、あいつが猫飼ってたの……」
 最後のは独り言。
 天ヶ峰が拾った猫は、これから間もなくどこかへ去ってしまうはずだ。何を考えてたのか知らんがその二匹の猫に自分の名前とあろうことか俺の名前をつけていたので、どうか雄猫の方は雌猫から逃げ切れたことを当時の俺は祈るばかりだった。あの馬鹿、雌猫と一緒になって雄猫と俺を追い掛け回して喜んでやがったからな。とんだサイコロリ野郎だ。
 ったく、懐かしいぜ。
「だからさ、紫電ちゃん。ひょっとすると、天ヶ峰は、紫電ちゃんが思ってるよりは悪いヤツじゃないかもしれないぜ?」
 紫電ちゃんはしばらく黙っていたが、やがて、
「ひぐっ」
 としゃくりあげた。
 俺と沢村はマジでビビッた。
「な、なぜだ。今俺の何が紫電ちゃんを泣かせる原因になったんだ」
「ごっ、後藤! とりあえず謝れ! 土下座だ、最後はやっぱり土下座だよ!!」
 わけもわからず俺が土下座しかかると、紫電ちゃんが俺を気合砲で消し飛ばそうとしているかのように片手を上げた。だが、どうも俺を地球もろとも宇宙の塵にするつもりは微塵もなく、ただ「ちがう」と言いたかっただえらしい。
「わっ、私はっ、人から聞いたはなっ、話っ、だけっ、鵜呑みにしっ、して、なんてひどっ、うぐっ、ひどいこと、あの子、に……」
 どうやら俺の話で自分の罪を意識してしまい後悔の念を抑えられなくなったらしい。紫電ちゃんの涙が天ヶ峰ごときのために流されているとなんだかもったいないので、かえってこちらが謝りたいくらいだ。おのれ天ヶ峰。
「うわあああああああ。うわああああああああ」
 とうとう大声で泣き出してしまった紫電ちゃん。
「うおおおおおおおおお!!!!」
「くううううううううう!!!!」
 女子に泣かれて男子に出来ることは少ない。
 とりあえず俺と沢村も泣いた。泣きに泣いて泣き抜いた。
 泣きながらも俺の冷静な目が、清志さんが割れたガラス戸の向こうでポン酒を注いでいるのを捉えた。あのオッサン、完全に飽きて自分のゾーンに戻ってやがる。
 俺たち三人は泣き疲れると、示し合わせたように笑ってしまった。
「ま、そういうわけで紫電ちゃん。天ヶ峰が南小に狙われてるのは、まァあいつの普段の素行が現代に舞い降りた悪魔のようだからでもあるんだが、そうクズなとこばっかじゃないって分かってくれたよね?」
「ああ。決めたよ後藤。私は、あの子に謝らなきゃならない……」
 紫電ちゃんはゴシゴシと顔を擦ると、キッと涙を切って凛々しい顔つきを見せた。さすが将来、この町を仕切る女傑になる運命を背負った金髪ロリである。
「よーし、じゃあ風邪っぴきのお姫様を俺たちで助け出してやろうぜ!」
 俺たち三人は手を重ねて、えい、えい、おおっ、と掛け声を出した。
「ところで紫電ちゃん。南小の早乙女が天ヶ峰を拉致ったっぽいんだけど、どこにいそうか分かる?」
「早乙女……? あいつグアムから帰ってきたのか」
 どいつもこいつも海外ばっかいきやがって。マジ切れそう。
「恐らく……土手沿いの廃工場だな。あそこなら周囲に気を配らなくても済む」
「そうと決まれば、とっとと行くか!」
「あっ、ちょっと待ってくれ。剣が重いんだ」
「持ってくのその装備?」
 そんなのなくても充分に君は強ェと思うんだケド。

「ぜぇっ……はあっ……ぜぇっ……」
「はい、腕の振り落ちてるよーっ! そんなんじゃ世界は取れないぞ。もうやりたくないなら荷物まとめて田舎に帰んな!」
「うぷっ……はぁっ……げぇっ……」
 甲冑姿の紫電ちゃんがガチャガチャと鎧を鳴らしながら、溺れるように不様なフォームで走っている。俺は沢村にチャリンコを漕がせ、走りこんでいる紫電ちゃんを手に持ったメガホンで叱咤している。
 玉のような汗が兜の奥の紫電ちゃんの顔をびっしょりと濡らしていた。
「後藤……立花さん大丈夫か? なんか息遣いがヤバイ気がするんだが」
「バカヤロォ、キツくない修行なんてあるか!」
「修行なのかコレ?」
 べつにイジメているわけではない。ただ紫電ちゃんは鎧のせいでチャリンコに乗れないので、どうせなら廃工場へ着く間に鍛えてあげようという俺の優しさである。
 もちろん、水はペットボトル詰めの500mlを定期的に放ってやっている。どんなバケモンでも水くらい飲まなくっちゃな。
 ちなみに、チャリンコは鍵がかかってないやつを適当に拝借した。まァ地柱ならテキトーにほっといても誰かが乗り終わったら戻ってきたりすることが度々ある。
「ホレホレ、そんなトロっちぃ走り方じゃ夕陽が沈んじまうぞ!」
 と俺は紫電ちゃんを炊きつけた。
「くっ……」
 紫電ちゃんが満身創痍の足に力をこめて、ダッシュをかける。俺はそれを見てウンウンと頷いた。
「いいねえ、若いって。沢村ァ、もっとスピードあげていいぞ」
「そんな……可哀想だろ」
 沢村が耳が見える程度に振り返りながら、言った。
「可哀想だ? アボリジニの末裔とやり合うんだからな。努力はしておいて損ってことはねえ。二メートルだぞ二メートル。バス乗れねーよ」
「でも、無理してまで頑張ることになんの意味が……」
「けっ、負けるよりマシだろ。オラ漕げオラ」
「だぁぁぁぁぁぁぁくそっ、こっちだって暑いんだよ!!」
 とかなんとか言いつつ、沢村はペダルの回転をアップさせた。俺はカラっと笑って、紫電ちゃんにやろうとしていたペットボトルに口をつけた。意図したわけではなかったのだが、それが紫電ちゃんには屈辱的に見えたらしくパンツを盗まれた女子のように顔を赤らめている。やべぇーSに目覚めそう。

 地柱川の水面を、真っ赤な太陽が血まみれに染め上げている。白刃じみた小魚が翻るたびに、水柱が上がった。土手を突っ走る俺たち三人を夕暮れの風が洗って抜けていく。汗で貼りついたTシャツが冷たくて、暑いのに涼しい。
 結局、今のこの状況がタイムトラベルなのかなんなのか分からないが、単に俺が忘れていただけで、今みたいなことが昔にもあったのかもな……
 しかし、こうして他人の修行に付き合っているともっと昔のことも思い出されてくる。天ヶ峰がまだコンクリートの塊と木綿豆腐の区別が着いていた頃の話。イジメられるのが嫌だと公園で一人タイヤを引きずって走りこんでいた頃もこうして俺は何もせずにあの馬鹿を眺めていた。
 よくやるよなァ、とか思いつつ。
 結局、俺は何もしない。
 天ヶ峰みたいにイジメられたら俺なら親父にウソ泣きでもなんでも泣きついて引っ越すと思うし、紫電ちゃんみたいに人の役に立ちたいとかワケ分からん理由で鎧まみれの身体引っ張って走りこもうとかも思わない。お前って結構卑怯だよな、と昔、黒木に言われたことがある。そうかもしれない。
 でも俺は、自分が何もしない分、何かをやろうとしているヤツはスゲェって思うし、ちょっかいは出しても馬鹿にしたりするつもりはない。それは、多分、一番卑怯で、一番やっちゃいけないことだからだ。
 たとえば俺が就職活動したら、面接で、「今まで何やって来たの?」と聞かれてしまうだろう。天ヶ峰や、紫電ちゃんには、言えることがあるだろう。だが、俺にはきっと多分ない。
 でも、いつかそのうち、俺にも、「俺はこれをやってきた」と胸を張って言えることができるのかな……
 いつか……
「後藤?」
 ハッと我に返ると、紫電ちゃんが思ったよりも近いところで、不思議そうに首を傾げていた。なんかほっぺが赤いのでちゅーして欲しいのかなとか妄想しちゃった。うへへ。
「水を……」
「え? ああ、水な。ほれ」
 俺がペットボトルを投げると紫電ちゃんはそれを鳥が魚を獲るような鮮やかさで掴んだ。ごくごくと水を飲んでいる紫電ちゃんに俺はニヤケ面を突きつけた。
「うへへへへ、間接キスだぜ」
「~~~~~~~~~~~っ!!」
 紫電ちゃんが空になったペットボトルをバットにして俺に殴りかかってきた。俺はゲラゲラ笑って沢村の背中を叩いた。
「沢村っ、スピード上げろって! 殺されちまうぞ!」
「はぁ!? お前何やったんだよ!!」
「あっはははははははははは……」

 はぁー。
 笑った笑った。
 でもやっぱ、改めて思う。
 あの馬鹿がいねえとイマイチ張りがねえって。
 まったく、仕方ねーなァ。
 べつにあの馬鹿がどうなってもいいけど、助けてやるか。
 宿題やるよかマシだからな。
 ホント。
 それだけの話。

 ツボに入った俺の笑いが収まる頃、俺たちはくだんの廃工場の前へと辿り着いた。
 電気が落ちている。
 あたりはもう、半ばほども夜だった。
15, 14

  


 廃工場に着いた俺たちは、錆びだらけの鉄門に身を寄せて中を窺った。
 二階から灯りが見える。
「あそこは元事務所になっていて、早乙女たちがよくタムロしているんだ」
 と紫電ちゃんが俺の肩に顎を乗せるようにして言った。
「紫電ちゃん、そういうのこそ取り締まるべきなんじゃないかな」
「っ!! 後藤、さては貴様天才……?」
「紫電ちゃんがうっかりさんなだけだと思うよ」
 この程度で俺が褒められているのを知ったら桐島に塩を塗られる。
「沢村、覚悟しておけよ」
「何を覚悟すんの?」
「俺の盾になって死ぬ覚悟だ」
「嫌だよ!! 死ぬ時はみんな一緒だろ」
 そんな恩着せがましい一蓮托生もなんだかイヤである。
「まァいいや、とにかく中に入ろうぜ」
 俺たちはそおっと、工場の敷地内に入り込み、灯りの点いている建物に潜入した。
「真っ暗だな……」
「ああ……」
 などと言っているうちにパァッと灯りが点いた。
 俺たちは急に目を焼かれて怯んだ。
「ぐっ……気づかれていたか……!!」
「よく来たな……」
 明るくなった工場内の中央に、腕組みをした大男が立っていた。
 早乙女である。
 改めて見るとマジで筋肉隆々だった。油を塗ったように黒光りする肌はどう見てもグアムかサイパンでこんがり焼いてきたそれである。たくましい腕が、着ている黄色Tシャツをバンバンにして、はち切れんばかりになっている。丸太のような太股が短パンからにゅっと突き出し、スニーカーは誰のものとも知れない血に塗れていた。
 早乙女は、かけていた眼鏡のつるをくいっと中指で押し上げた。
「立花……うぬがまさか裏切るとはな」
 俺は小刻みに震えている沢村の脇を小突いた。
「うぬって何? 今って戦国?」
「乱世にしかいねえよあんなの……!!」
 今が乱世だなんて初めて知ったわ。ヤベーだろアレ……何かのパロ漫画に出てくるマッチョなのび太みたいになっている。俺たちが二次元から出てきて欲しいのはあんなバケモノではないぞ。
「後藤、お前同じ眼鏡だろ! なんとかしろ!」
「冗談は大概にしておけよ」
 口調だけ抽出すれば俺も乱世の出に思えるから迷惑だ。
「フレームの太さが俺とあいつじゃ二倍は違う。勝てねえ」
「そこなの!? 戦闘力の差が浮き彫りになるのそこ!?」
 二人とも、遊びはそこまでだ、と紫電ちゃんがバスタードソードを構えなおして囁いた。どう見ても遊んでいるのはお前である。英霊かお前は。
「私が早乙女を引きつけているうちに、天ヶ峰美里を探してやってくれ」
「それは出来ぬ」
 早乙女の後ろの暗がりから無数の目玉が生まれた。南小の連中がワラワラと現れる。
「俺と立花の決着がつくまでは、こやつらがその二人を一歩たりともあの化物に近づかせること罷りならん」
「だってよ紫電ちゃん」
「くっ……やはり私がやるしかないのか! 二人とも離れていろ! 巻き添えを食うぞっ、でやぁぁぁぁぁぁぁ」
 どたどたどたどた。
 紫電ちゃんがかけっこの苦手な子のように駆け出した。
「うおおおおお、早乙女、覚悟ぉぉぉぉぉ!!」
 ヤバイヤバイ。早乙女がこっち見てる。「俺これ攻撃していいの?」みたいな顔して見てる。俺に聞くな。見てるこっちがマジで恥ずかしい。
 俺は全裸で走り回る幼女をとっ捕まえるパパのごとき俊敏さで紫電ちゃんを羽交い絞めにした。
「っ!? 後藤、何をする!」
「アホかテメー機動力がやっぱり死んでるじゃねーか! その鎧外せボケ!!」
「あっ」
 俺は沢村を顎で呼んで紫電ちゃんの鎧を、ガントレットとグリーブガード(スネを守るフットアーマー)だけを残して後のパーツを全て引っぺがした。すると中から紫電ちゃんの裸体が現れた。
 ブラもパンツも黒に紫のラインが入った、ちょっと色っぽいやつだった。
 俺は諸手を天空に突き上げた。
「よっしゃああああああああああ!!!!」
「!?!?!?!?」
 いきなり半裸に剥かれた紫電ちゃんはとりあえず俺からバックステップを取って距離を稼いだ。俺はいまだぐっと拳を突き上げたまま神に感謝を捧げている。
「せ、正論を振り回した挙句に女の子を半裸に剥ける機会が俺に訪れるなんて……生きてて良かった……!!」
「おっ、お前こんな時まで……!! ふざけるな、敵も私たちを笑っているぞ」と紫電ちゃんが振り返ると南小の連中も諸手を挙げて喝采していた。動じていないのは早乙女だけである。
「………………」
 持ち上げかけた紫電ちゃんの拳がピクピク震えている。
「沢村、俺って最高だよな」
「どう見ても最低だよ!!」
「へっ、最高の褒め言葉だぜ。おい紫電ちゃん、身軽になったろう。今こそおめぇの真の力を発揮する時うぐぇっ」
 ガントレットの硬度をプラスさせた紫電ちゃんの左ボディが俺のみぞおちを急襲した。い、痛ぇ!! コイツマジで殴りやがった!!
 紫電ちゃんは冷凍庫の中の氷みたいな目で俺を見下ろしてきた。
「後藤、いままでも思うところはあったが、やはり貴様はどーしようもないカスヤローのようだ……すまない早乙女。私たちの決闘に水が入ってしまった」
「構わぬ。いつの世にもゴミは漂う」
 おい同い年の小学生をゴミとか言うなよ! 傷つくんだぞ!! なんだよちょっと女の子を半裸に剥いただけじゃないか……おっぱい触らなかっただけありがたいと思えよ!!
「聞こえないように囁いて文句言うあたりが後藤だな……」
 うるせぇぞ沢村。
 紫電ちゃんがバスタードソードを放り捨てた。文鎮を投げ捨てたようにドン、と重い音と埃を巻き上げて、剣が床に落ちた。
「私を笑わなかったのはお前だけ……気に入った。正々堂々と死合おうじゃないか、早乙女」
「よかろう」
 ほぉぉぉぉぉ、と早乙女が手で円の動きを描いて、猫のような足さばきを始めた。何かの格闘技っぽい。紫電ちゃんはだらりとガントレット着きの両拳を下げたまま。
 その瞳に光が走った。
「だあっ!!」
 半身のまま突っ込んだ紫電ちゃんの上段蹴りが早乙女の、
「っ!!」
 鉄筋のような首に突き刺さった。ニイッ、と紫電ちゃんの口元に笑みが浮かぶ。
 が、
「ふんッ!!」
「っ!?」
 紫電ちゃんの蹴り足をそのまま担いだ早乙女は、そのまま紫電ちゃんを床に餅つきのように叩きつけた。背中から打ち落とされた紫電ちゃんが、
「げぇっ……」
 と、鈍い声で呻いた。その目に涙の雫が光ったが、すぐに身体を回転させて早乙女の拘束から逃れ三連バック転で距離を稼ぐ。
「さすがにタフだな……そのガタイは伊達ではないということか」
「娘っ子に負ける俺ではない」
 おお。
 地柱の土地でそんな粋なセリフを吐ける男子がいるとは。俺はなんだか変に感動してしまった。
「……私を女扱いしてると後悔するぞ?」
 紫電ちゃん、不敵に笑うがパワー不足は否めない。さて、どうするのやら。
 すっと左腕をL字に構え、右拳を顎のそばに寄せた。御馴染みのデトロイトスタイルである。
「――シィッ!!」
 かつて天ヶ峰をも沈めた左のフリッカーが雨のように早乙女の肉体に降り注ぐ。
 が、早乙女は散歩でもしているかのように悠然と紫電ちゃんへと近づいていく。
「それがパンチか?」
「なんだと……!!」
「軽いな……パンチとは、こう打つのだ!!」

 ずっどぉ!!

 早乙女のパンチが、紫電ちゃんをかすめて床にブチ刺さった。コンクリ仕立ての床が砕けて瓦礫が四方へ飛び、その一つが俺のスネに当たった。
「ぎゃあああああああああああああ」
「後藤ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
「クソが! 俺は関係ないだろ!」
 あの野郎……もう許さねえ。血が出たじゃねーか。
「くそっ……こんな時、島袋先生がいれば……!」
「世紀末リーダー伝たけしの作者でも身長二メートルの小学生はどうにもできないと思うぞ!?」
 俺と沢村のボケを無視して、早乙女と紫電ちゃんは激闘を繰り広げていた。紫電ちゃん、まともに筋肉に当てても無意味と悟り、膝や足首に蹴たぐりを見舞っているが早乙女は少しも動じていない。
「なんなんだァそれはァ」
 完全にブロリーである。
「くっ……たあああああああっ!!」
 紫電ちゃん、背中を見せて逃げると見せかけ、その場に両手を着き、後ろ足で早乙女の顎を蹴り上げた。そのまま体勢を振り戻して右ボディを二連続で叩き込む。早乙女の身体がくの字になったところを下がった頭を両腕で掴み、膝を相手の顔面に叩っ込んだ。あのアマ容赦ねえ。さすがに鼻血を出してよろめいた早乙女に左右のストレートを愚直なまでに交互に繰り出して追い詰めていく紫電ちゃん。
「おおおおおおおおおっっっっっっ!!!!!!!」
 が、早乙女は頭を下げて紫電ちゃんの腹にもぐりこませるとそのまま袖釣り込み腰のように紫電ちゃんを持ち上げてひっくり返してしまった。突然早乙女が意志を持った跳び箱になったようなもので、紫電ちゃんはそのまま早乙女の背中を転げ落ちて背骨を強かに床に打った。
 そこを早乙女のサッカーボールキックが紫電ちゃんを直撃した。
「ぎゃあっ……」
 小動物が踏み潰されたような音を立てて、紫電ちゃんがゴロゴロと何度も転がり、何度も烈しくえずいた。胃液をガントレットで拭いながら立ち上がる紫電ちゃん、足元が完全にフラついている。
 その目は驚愕に見開かれていた。まだ天ヶ峰にリベンジされる前の紫電ちゃんは、当たり前だが荒宮ともなんの接点もなく、この時代この時点では最強の少女である。敗北は、知らないはずだった。ちなみに清志さんは口だけのクソヤローだったことがさっき判明した。どう考えても麻雀で負けてドラゴンスープレックス喰らったのはあの野郎の方だったはずである。話盛りやがって、汚ぇ大人だ。
「そんな……馬鹿な……」
「自惚れたな、立花。武の道とは驕った時に過つものだ」
「くっ……そぉ!!」
 なおも挑みかかろうとする紫電ちゃん。
 だが、勝敗は明白だった。
 紫電ちゃんのパンチ力そのものは、実はそれほど大したことはないのだ。これを機会にハッキリ言わせてもらえば、俺の知っている限りで最も攻撃力の高いハードパンチャーは、男鹿である。天ヶ峰ですら、キレればどうだか知らないが、通常時では本物の超能力者の男鹿には攻撃力では勝てない。ましてや紫電ちゃんはテクニックで鳴らしたボクサー。そのパンチは、圧倒的な『肉体の厚み』の前には、たやすく軽い質のそれへと成り果てる。
 五分もしないうちに、紫電ちゃんはボロ雑巾のようにされて、床に転がされた。
 血まみれである。
 早乙女はパンパンと手を叩いた。ゴミ掃除でもし終えたかのような仕草だ。
「さて……次はうぬらの番だ。今日が俺の塾の日で命拾いしたな……アバラの二、三本で勘弁してやろう」
「そいつはありがたいね」
 よいしょ、っと俺は紫電ちゃんの捨てた剣を拾い上げた。重ぇ。
 沢村も、ぐっぐと膝を屈伸させて準備運動している。
 それを見た早乙女が馬鹿笑いをした。
「……どうやら俺と闘う気らしいな。正気か? 逃げる時間を与えてやろうか」
「いらん」
「立花が適わなかった俺を、うぬらごときがどうにかできると思うてか」
「どうにもならねえかもしれねえが」
 俺は剣を肩口に背負った。
「仲間をやられて黙ってはいられないんでね」
「右に同じ」と沢村が言った。
「……よかろう」
 早乙女が眼鏡のつるを押し上げた。
「俺を本気にさせたことを後悔するんだな」
 そう言って一歩、早乙女が踏み出した瞬間、俺は叫んだ。
「後ろっ!!」
「え?」と早乙女が振り返る。
 そこには、血の流れを幾筋もまとった紫電ちゃんがいた。飛び上がり、そのまま太股で早乙女の顔面を挟んだ。
「――――りゃああああああああああっ!!!!!!!!!!!」
 結論から言えば、投げ技である。ワイヤーのように強靭でしなやかな紫電ちゃんの背筋が反り返り、そのままクルリとホールドした早乙女ごと回転し、自分の全体重が早乙女の顔面にかかる体勢で落とした。
 ばきばきばきばき、と骨が砕けるような音がした。
 シィン、として、呼吸すら憚れるような沈黙が工場内に満ちた中、俺はぼそりと呟いた。
「し、『幸せ落とし』……」
 だいぶ後になって、中学時代の茂田が紫電ちゃんから貰うことになる、あてがわれた股間の柔らかさと叩きつけられた時の地獄の落差がそのまま甚大なダメージになる危険な技だ。この俺でさえコレだけはどんなに幸福を得られるとしても貰うまいと忌避し続けてきた一撃だった。
 いくら早乙女といえど、幸せな状態から急転直下で叩き落とされては一溜まりもない。ピクリともしなかった。落とされた早乙女の身体の下から血が滲み出していた。
 どう考えても塾はお休みしなきゃならないダメージである。
「う……」
 早乙女の顔面に乗っかったままだった紫電ちゃんが、ぐらり、とよろめいて倒れこんだ。沢村が慌てて駆け寄ってその身体を抱きかかえた。
「立花さん!!」
「沢村か……すまない、深手を負った……」
「そんなことはいいよ!! よく、よく頑張ったな……!!」
 ウンウンと涙を浮かべながら何度も頷く沢村。ケッ、格好つけやがって。
 紫電ちゃんは、震える手で沢村の頬を撫でた。
「頼む……私たちは間違っていた……あの子を……助けて、あげ、て……」
「立花さん? ……立花さあああああああん!!!!」
 気絶したらしい紫電ちゃんを抱き締めて沢村が慟哭する。
 そして、ひとしきり泣いた沢村は紫電ちゃんを床にそっと下してやり、その両手をおなかの上で組ませてやった。おい死んでねーぞ。
「許さねえ……てめえら、絶対に許さねえぞ!!」
 ボスを倒されて浮き足立っている南小の連中に、涙目で沢村が叫び、遮二無二その群れの中に突っ込んでいった。む、無茶しやがって!! 慌てて俺も加勢したが多勢に無勢である。ただ男子である俺らが勝てるわけがなかった。
 後から考えても、よく勝てたものだと思う。
 全員ボコボコにして追っ払った時点で俺らの方が凄惨な姿に成り果てていた。俺らの怪我っぷりに連中が怯んで逃げていったようなものである。二人とも顔面から血は噴くわ服はボロボロだわ青アザまみれで誰だか分からんわで、家に帰ったら確実にお母さんに追求されるツラ構えに成り果てていた。まァ俺んちにはお母さんはいないけど。
 気絶したままの早乙女にケツを乗っけたまま、俺と沢村は背中合わせで荒い息を整えていた。
「勝ったな……」と沢村。
「らしいな……」と俺。
 くそっ。こんな柄じゃねーのに。しかもなんだかんだで連中をボコボコにしてたのは沢村だったので、俺は面白くないのであった。一番よわっちそうなやつ捕まえてこっちはこのザマだってのによォ。
 無茶させんじゃねえっての。俺ァ主人公体質じゃねーんだ。
 それもこれも、天ヶ峰の馬鹿のせいだ。会ったら文句言っちゃる。
 俺はなんとか、立ち上がった。
「おお、後藤、いくのか……?」
「ああ、上に多分、あの馬鹿がいるからな。ツラ見て文句の一つも言ってやらァ」
「そうか……俺はまだいいや……早乙女が起きるかもしれないし、ここにいるわ」
「そうかい」
 俺は鉛のように重たい足を引きずって、電気の点いている二階の事務所への階段を登っていった。
「……ったくよぉ。手間、かけさせ、やが、ってぇ……」
 やっとのことで体当たりするようにドアを開けると、そこには誰もいなかった。
「っ!? 天ヶ峰……!!」
 クソッ! なんてこった、また攫われやがった! ピーチ姫かよ。道理でやたらと任天堂びいきだと思ったぜ。
 意気消沈した俺は、階下に戻って沢村に天ヶ峰不在の報を伝えようとドアに振り返ったが、ふと部屋の隅にある冷蔵庫の唸りが耳に入った。
 ブゥゥゥゥ……ンと、冷蔵庫は蜂のようなイビキをかいている。
 俺はおそるおそる、その取っ手を掴んで引き開けてみた。
 すると……

「zzz」

 体育座りの状態で冷蔵庫に押し込まれた天ヶ峰が、幸せそうに眠っていた。
「…………」
 どうやら南小の連中は風邪っぴきの天ヶ峰を冷蔵庫にぶちこむことによって殺害を試みたようだが、この幸せそうな顔色を見るとかえって熱が下げられてキモチヨクおなりあそばしているようだぞ。冷蔵庫ごときで天ヶ峰が殺せるか。こいつはファブリーズと称して殺虫剤を部屋に振りまいてる女だぞ。かえってくせえわ。
 俺は一応、天ヶ峰の額に手をやって体温を確かめた。うん、まァ、平熱なんだが、たぶん冷蔵庫から引っ張り出せばまた熱が上がるだろう。たぶん。こいつに人間の常識はあまり通じないから俺にももうよく分からない。
 ひとまずドアを閉めて、俺はそこに背をもたれかけさせ、ずるずると座り込んだ。柄にもなく大立ち回りをしたのでスゲー眠い。
 俺はそのまま、かくんと顎から力が抜ける感覚を最後に、真っ暗な闇に引きずりこまれていった。
 まさか夢の中で寝るとはね。
16

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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