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case2『愛をメモリー』

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 仕事というのは思い通りに行かない。それはなにも、上手く行かない時だけじゃないから、人生というのは波の連続だと思う。
 私――藤田椛はルポライターだ。雑誌に載せる記事を書くのだが、具体的に何をやっていたかと言うと、『なんでも』と言う他ない。
 他の人間は結構専門分野が決まっているのかもしれないが、私は好奇心が旺盛な性格で、気になったらとことんなタイプなのでいろんな事に首を突っ込む内、『なんでも書くルポライター』になってしまった。
ルポには『自分で取材したことをマスメディアに乗せて発信する』という意味と『事件や社会問題なんかを客観的に書く文学』という二つの意味があるけれど、そういう意味では、ある意味正しいルポライターの姿なのかもしれない。
 大きい物は政治家の汚職事件から、小さなモノはコーヒーが評判のカフェでその味を書いたり。本当にいろいろやっている。
 生活する為には、受け皿は広い方がいいからだ。
 まあ、そういう生活には割りと満足していたが、最近はそうでもない。
「藤田ー。来週号の記事、書けたかー!」
 編集部の一番奥にある編集長のデスクから、大声が聞こえてきた。私はその声で鼓膜が震えた事になんだか妙な不快感を覚えたので、耳たぶを軽く引っ張ってから「あとすこしでーす」と返事をした。
 今書いているのは、先日起こった恋人間のトラブルにより起こった殺人事件。どうやら彼氏の方がとんでもない浮気男だったらしく、それに腹を立てた女がその男をめった刺しにしたのだと言う。
 その事件から、浮気の見抜き方についての特集へ繋げるという、今までなら回されなかった仕事だ。なぜ急にそんな物が回されたのかと言えば、優と一緒に調査した事件のルポが、とんでもなく評判が良かった所為に他ならない。
 当然特別ボーナスなんかも出たりしたが、事件の顛末からあまり喜べるモノではなかった。
 あんな事件が二度と起こらないよう願いを込め、みんなに知ってもらおうと思ったのだが、それをきっかけに事件に関するルポばかり書かされるハメになるとは思わなかった。
 取材と称して飲食店でタダ飯が食べられていたあの頃が懐かしい。
 私は煙草(ピアニッシモ)に火を点け、咥えながらパソコンに向かった。
 ちなみに、あの事件からすでに三ヶ月。あれ以来、優とはなんとなく会っていない。お互い仕事もあるし、会う用事が特に無いのが大きい。
 優はどうしてるんだろう、そんな事を考えながらジリジリと煙草と時間をすり減らし、ようやく原稿を書き終え、印刷。ホチキスで留め、編集長へと提出した。
「はい、ご苦労さん」
 その一言で私の苦労が流されるのにも、もう慣れた。こんなことで腹を立てていては、胃がオシャカになるというのは社会人一年目でわかっている。
「それじゃ、私は帰ります……」
 あー、疲れた。どっかで飲んで帰ろうかな。って、結局大漁旗行くのよね。どうせなら、もうちょっとオシャレな店に繰り出してみようかな。
 そう思ったが、大漁旗の特製ダシをかけたカツオのたたきの味が舌の上に思い出され、よだれが出てしまう。
 やっぱり、大漁旗に行こう。そう決めて帰ろうとしたのだが、編集長に「あー、ちょっと待て」と呼び止められてしまう。
「……なんでしょう」
 もう帰る算段をしていたのに。仕事を押し付けられたらどうしよう。
 その不満が顔に出てしまっていたらしく、編集長から「今日の事じゃない」と言われてしまった。
「俳優の『寿丸菊太(すまるきくた)』って知ってるか?」
「まあ、一応」
 数々のドラマに出演した名俳優と名高い人のはず。顔はもちろん、出演作品もいくつか挙げる事ができる。ニュースしか見ない私が知っているのだから、相当有名なはずだ。
「その人がどうかしたんですか?」
「今度、映画やるだろ? 逃亡犯を追う刑事役で。その番宣を兼ねて、いろんなところでプロモーションかけてるんだが、実は取材を受けてもいいと言ってくれている」
「へー……、それはすごいですね」
「でも、それには条件があってな。何故か、お前になら取材をさせてもいいと言ってきてるんだ」
「……わ、私ですか!? ちょ、待ってくださいよ! なんで私なんですか!」
 驚きに声のボリュームを捻られ、思わず大きな声を出してしまった。背中に編集部みんなの視線を感じる。
「いや、それはわからんが、まあ行って来てくれないか? 質問のリストとかは作ってやるから、行ってすこし話すだけでいいんだ」
 珍しく、編集長が頭を下げた。
 まあ、正直乗り気じゃないわけでもないので、私は「了解しました。後でメールで送ってください」と言い、その場を後にした。
 編集部を出て、一直線にエレベーターで地下へ向かい、駐車場のフィアットに乗り込んで、帰路へ出た。


 その後、大漁旗で翌日に響かない程度のお酒を飲んで、私は誰も待っていない我が家へと帰宅した。玄関で靴を脱ぎ捨て、
「たっだいまー!」
 とお酒の所為で上擦った声を家中に響かせる。
 1Kの我が家には、一緒に住んでいる恋人なんかはいないが、その代わりに、一匹動物を飼っている。
 電気をつけ、すぐにパソコンの横に置かれた水槽を覗きこんだ。
「ただいま、サブロウ。変わりないかー?」
 コツコツと水槽の壁を叩くと、中のミドリガメが大きく口を開いた。彼は私が一人暮らしを初めてからずっと一緒に住んでいるペットのサブロウだ。
 彼に餌をやり、スーツを脱ぎ捨て、ベットに座り、サブロウをジッと見つめる。のそのそとスローに動き、餌をゆっくり楽しむ様に食べる。
「実はさ、今日久しぶりに刑事事件以外でルポを書いてくれーなんて言われちゃったのよね。ああいうのばかり書いてると、やっぱり気分も滅入るじゃない。こういう仕事がリフレッシュになるのよね」
 サブロウは、餌を食べ終わったようで、のそのそと水の中へ帰っていく。もちろん、返事はしない。
 亀はいい。こうして話しても返事をしないし、興味も持たない。だがその姿勢が、なんだか逆に真摯に見える。
 さて、明日は早い。私はさっさと寝る支度を整えて、パソコンのメールボックスで明日の予定を確認し、ベットに潜った。この仕事をやっていると、頭も肉体も毎日程よくを少し通り越す程度に疲れるので、寝付きは随分よくなった。



  ■



 先方が指定したのは、なんと彼の自宅だった。
 いいのだろうか、と思ったけれど、指定している以上行かないわけにもいかない。場所は東京のとある高級住宅街。その中でも一際目立つ、失敗したテトリスみたいな凸凹した家が、寿丸菊太さんの家らしかった。
 近くのコインパーキングに車を停めて、門柱にセットされたインターホンを押す。そして、一分少々待つと、奥に見える玄関から人が出てきた。彼は、「どうも、いらっしゃい」と言いながら、門を開いて私を中へ迎え入れてくれた。
 深緑のセーターにベージュのチノパン。灰色に近い髪をオールバックにした恰幅のいい男性。彼が寿丸菊太さんだ。
「どうも、一新社の週刊スポットから来ました。藤田椛と申します。本日はよろしくおねがいします」
 名刺を差し出し、頭を下げる
 寿丸さんはそれを受け取り、「どうもよろしく。藤田さんは、この仕事長いのかい?」と訊いてきた。どうやら世間話から、らしい。
 玄関を開いて、大理石なのかわからないがつるつるぴかぴかした石のタイルの廊下を歩き、応接間に通される。ふかふかのソファに、上等な材質で作られたのであろう木製の机。
 大きな窓は精一杯陽の光を迎え入れており、シンプルな部屋がそれのおかげで妙に明るい印象がある。――甘露寺探偵事務所とは大違いだなあ、と内心比較してしまう。
「いえ、そんなには……。まだ二年ほどです」
「へえ。仕事が出来そうな雰囲気があるから、もっと務めているかと思ったなあ」
「ははっ、そうですねえ。よく言われます」
 とりあえず、とっつきにくいという事は無さそうだ。私は安心して、質問事項をメモした紙とボイスレコーダーを取り出し、インタビューを開始した。
 マズイ質問などは特になかったようで、映画の見どころや彼の私生活なんかを聞き、少しだけ予定外な質問もしたが、かなりスムーズに終える事ができた。
「――以上で、インタビューは終了です。ありがとうございました」
 レコーダーのスイッチを切り、私はもう一度頭を深々と下げる。すると、寿丸さんの方も「いえいえ。こちらの方こそ、君の聞き方が上手いから、いろいろ喋りすぎちゃったなあ」と照れくさそうに笑う。
 そう言われて悪い気はしないわね。うん。
「……それで、実は君を指名したのには理由があるんだ」
 と、少し言いにくそうに視線を泳がせる寿丸さん。
 ……まあ、そりゃあ私みたいなペーペーをいきなり指名するんだから、訳があるとは思っていたけど。なんだろう、枕営業的な話じゃないだろうか。だとしたら、一応逃げる準備くらいは整えておこう。
 私はさり気なくハンドバックを持った。
「君が以前書いたルポ……。そこに登場する探偵に、依頼したいことがあるんだ」
「……依頼、ですか?」
 よかった、と思う反面。
 またその話か、と思ってしまった。あのルポは受けがよかったけど、よすぎるから仕事の幅が狭くなってしまい、段々と嫌いになりかけている。
「ああ。私には『日向子(ひなこ)』という娘がいて、今は神奈川の大学に通うため一人暮らしをしているんだ」
「一人娘ですか。それは、心配でしょうね」
 確か、寿丸さんは何年か前に同じ女優の奥さんと離婚していたはずだ。そうなると、唯一の家族が遠くで暮らしているというのも、まあ寂しいだろう。亀を飼ってはいかがです? と薦めそうになったところで、寿丸さんは「ああ、そうなんだよ」と深々頷く。
「それで、どうも悪い虫がついたという話も聴いてね……。居ても立ってもいられないんだよ、どうだろう。その探偵さんは、受けてくれるかな」
「ど、どうでしょう……。報酬次第だと思いますが……」
「そういうと思っていた」
 彼は、どこから取り出したのか、テーブルの上に茶封筒を一つ置いた。
 恐る恐るそれを取って、中身を覗きこむ。
 なんと札束とご対面。私は悲鳴に近い声をあげそうになったが、グッと我慢。二百万はある。
「これでどうだろう? 受けてくれるだろうか?」
「いえ、あの、そのぉ……」
 私は顔を真っ赤にして、目が回るような思いでそう言うのが精一杯だった。札束を見たショックで、何が何やらわからなくなってしまったのだ。
 その後も必死で私に頼み込む彼を見て、結局、私は「そ、相談してみます」と頷いてしまった。


  ■


「んで、あたしのとこにその依頼持ってきた、と」
 正面には、私が買ってきたチーズケーキを食べる、優の姿。もちろん、ここは甘露寺探偵事務所。
「あ、あはは……。まあ、頼まれたからには、ね」
 寿丸さんのインタビューが終わった私は、その足で甘露寺探偵事務所へと向かった。
 暇そうにソファで寝っ転がっていた彼女は私が来た事に少し驚いていたようだが、概ね歓迎してくれたらしく、箱買いしているらしいマックスコーヒーを出してきてくれた。そして私は代わりに、手土産に買ってきたチーズケーキを彼女へ差し出し、先ほどあった事を話した。
「それで、どうするの優。やるの?」
「もちろん。美味しすぎる話でしょ。たかだか娘の素行調査して二〇〇万なんて。終わったら美味しいモンでも食べ行こう。手伝って、椛」
「なんで私まで……。っていうか、探偵の仕事に素人手伝わせていいの? 今更だけど」
 彼女は、幸せそうな顔でチーズケーキを味わいながら、「いいのいいの。車があると助かるし、椛は外に情報漏らしたりしないでしょ」と言った。その視線にはチーズケーキしか入っていない。きちんと意識して話しているんだろうか。
 それに、本音は車があると張り込みが楽、というだけだろう。
 まあ、今は抱えてる仕事もないし……。別にいいけれど。
「オッケー。手伝うわ。その代わり、すっごく高いバーに連れてってよ?」
「任せてちょうだい!」
 チーズケーキをもぐもぐと咀嚼しながら、胸を叩く優。大きいからか、ぽよんと弾む。頼り甲斐がありそうだ。
 ――よく考えてみれば、貴重な体験も出来て高いお酒が飲めるのだから、一石二鳥な話だし、断る理由はまったくない。
「ほいでー、その子はどこ住んでんの? 一応話、通しとかないとじゃん? あと写真とかさ」
 もちろん、それはもらってきている。私はハンドバックから日向子ちゃんの資料を取り出し、優へ渡した。

 寿丸日向子。年齢は二一歳。神奈川にある仁堂大学の英文学科に通っている。
 その顔はさすが有名俳優の娘というべきか、端正なモノだった。毛先をウェーブにした茶髪のボブ。鼻は高く、顎も細く、どこか洗練された都会の美人という印象だ。これは心配になる気持ちもわかるな、と思ったのを覚えている。
 住んでいる場所は根岸にあるそこそこ家賃が高そうなマンション。女子大生が一人暮らしするには、少々不釣り合いに見えるが……。まあ、有名俳優の娘なのだから、それなりに援助してもらっているのだろう。

 優はそれを確認し終わると、ポケットからチュッパチャップスを取り出し、包みをやぶいて頬張る。よくチーズケーキ食べた後に食べられるな……。
「悪い虫がついた、って言ってたんだっけ。このくらいの歳なら彼氏くらい居てもおかしかないでしょ」
「そうねえ。可愛い子だから、心配になる気持ちもわからなくはないけど……。心配しすぎじゃない、っていうのが正直なところね」
「まあ、そうだけど。探偵は受けた仕事をこなすだけだから。――んじゃ、行こうか」
 頷き、私は優と一緒に事務所を出て、その前に停めてあった車で、寿丸日向子の家へと向かった。張り込みが終われば、美味しい酒が飲める。それが楽しみで、よだれが出てきた。
 この軽い考えが、事件への一歩なのだとは、もちろんまだ知らない。
 トラブルへの道は、いつも手軽なのだ。



 case2『愛をメモリー』
 私と優がフィアットに乗り込み、私は運転で優はラジオを操作していた。彼女はFMヨコハマを選局し、流れてきたのはクレイジーケンバンドが歌う『男の滑走路』
 警戒なリズムで運転が楽しく感じてきた辺りで、優は椅子を深々と倒し、帽子を顔に乗せ寝てしまった。――助手席の人間は寝ちゃいけないという暗黙のルール知らないのかしら。
 一応、彼女が寝る前に「煙草吸ってもいい?」と尋ねて、「あー、私別にそういうの気にしないからいいよ」という許可をもらい、煙草に火を点けた。

 事務所から三〇分ほど車を走らせ、寿丸日向子が住んでいるマンションへと到着した。一〇階建て、焦げ茶色の外壁にオートロック。
 やはり、大学生のひとり暮らしには少々豪華すぎるなあ……。私が大学生の時は、六畳一間のボロアパート暮らしだったんだけどな……。
「ふあ……。ついたの?」
 優は助手席側の窓から外を覗きこむ。
 そして、寿丸日向子が住んでいるマンションを見て、「うおー。大きいー」と初めて東京タワーを見た少年の様な感想を漏らした。
「――で、どうするの、優」
「とりあえず、見張るしかないでしょ」
 そう言いながら、羽織っていたベストの内側に手を突っ込み、小さな望遠鏡を取り出す。それを窓の外に向け、覗き込み、「五〇四号室は――」と言いながら寿丸日向子の部屋を探す。
「おっ、あったあった。――うへっ、隣の部屋ドアのポストに広告溜め込んでるよ……。あたし、ああいうのダメなんだよねえー。自分では大雑把な方だと思うけどさぁー」
「私それよくやるわ……」滅多に帰宅しないから、必然的に溜まってしまって、見るのが面倒になるからだ。
「ダメだって。家の玄関くらいは綺麗にしなきゃ。……そういえば、いつまで見張ればいいのこれ?」
 外を見たまま、優はこちらも振り向かずに言った。
「成果が出れば、その段階でやめていいって」
「マジで? 成果、って……。つまり、その『悪い虫』とやらの存在が確認できたら? 確認できなかったらどうするのよ」
「さあ……。甘露寺探偵事務所の規定料金で、二百万以上の働きになると思ったら、相談してからやめたら?」
「お得な仕事だと思ったんだけどな……。二百万って、相当働く事になるじゃない! 早く現れろ悪い虫ー! あたしは啓介のダンナみたいに辛抱強く無いの!」
 車を揺さんばかりの勢いで暴れる優。
 っていうか、揺れた。張り込みしてるっていうのに目立つじゃない。
「優、落ち着きなさいよ……」
 本当に彼女は探偵なんだろうか。そんな疑問が頭を過るが、シガーソケットで煙草に火を点け、紫煙で疑問をかき消した。
 その後も、彼女は望遠鏡で寿丸日向子の部屋を見続けた。アメを咥え、私がノートパソコンで原稿を書いたりメールチェックをしている間、ずっとだ。本人は辛抱強くないと言っていたが、すでに私が飽々している事を鑑みると、彼女は大分辛抱強いのだろう。
「はあ……。次週の原稿も終わっちゃった……」
 先ほどのインタビュー原稿が、もう第一稿完成してしまった。もちろんまだまだ書きなおすけれど、それしかやることがないという状況でやる仕事は、妙に捗るなあ……。案外、ルポライターと探偵の両立ってできるのかもしれない。そんな事を考えさせられる時間だった。
 伸びをして、首をコキコキと鳴らしてから、優の方を見る。
「どう? なんか進展あった?」
「いや……。まったく、全然……おっ?」優の身体が窓から乗り出した。「あれ、寿丸日向子ちゃんかな?」
 私も優の肩越しに外を覗くと、マンションの廊下を、寿丸日向子らしき女性が男と一緒に歩いているのを発見した。遠目だから、二人の顔は見えない。
「男と歩いてるわね……」
「しかもめっちゃ楽しそうに話してる。こりゃー確定だわ」
 優はベストの内ポケットから小さなデジカメを取り出し、ズームして、その二人を撮影。画面で写り具合を確認してから、もう二、三枚撮影する。
「悪い虫かどうかはともかく――彼氏が居ることは確定かなあ。あんだけ楽しそうに笑って歩いてるんだし」
 優は、デジカメの画面を確認しながら呟く。
「――もしかして、これで仕事終了?」
「……悪い虫かどうかはともかく、彼氏の存在を確認できたんだから、終了じゃないかしら」
「マジ!? 時給一〇〇万の仕事じゃん!」
 張り込みをしてからまだ二時間しか経過していない。そう考えると、とんでもない高給取りだ。私達はホステスか何かにでもなったのだろうか?
「うっし。んじゃー、その寿丸某さんのウチに行って、報告してきますか! 二百万かあ、どこで飲もうかなあ」
 優は自分の好物を目一杯想像しているのか、ほくほく顔でアメを頬張った。私も、今日は遠慮せず高いお酒が飲めるのかと思うと、年甲斐もなくワクワクしてしまう。キーを回し、エンジンを吹かして、車をゆっくり発進させた。


 寿丸菊太さんは、その結果には大変満足されたらしい。優はさすがに二時間の労働で二百万という対価は申し訳ないと思ったらしく、『もっと時間をかけての調査をおすすめしますが』と言ったのだが、寿丸さんは『いえいえ。彼氏がいるとわかっただけで安心です』と笑顔で私達に頭を下げ、二百万を支払ってくれた。
 まあそれでいいなら、私達も受け取らない理由がないので、受け取って、寿丸邸から出て、車を甘露寺探偵事務所の前に停めて、横浜のインターコンチネンタルホテルにあるバーで豪勢に酒を飲み、そのホテルに泊まった。
 私は、「貯金とかした方がいいんじゃないの?」と一応注意を促すも、「宵越しの銭は持たねー!」などと言い、顔を真っ赤にしながら酔っ払っていた。
 まあ、さすがに今日一日で使い果たせるはずもないので、半分以上は残っているだろうけれど。



  ■



 そして、私達がそんなことを忘れかけた二ヶ月後。とある依頼が甘露寺探偵事務所に持ち込まれた。
 私はその日、一応依頼を受けてくれた優には報告しておくべきだろうと思い、寿丸菊太さんとの独占インタビューが乗った『週刊スポット』と、最近話題の古時計堂という喫茶店のコーヒーゼリーを手土産に甘露寺探偵事務所へとやってきた。
「おはよう、優ー? 起きてるー?」
 私の声に反応したように、ソファから手が生えた。どうやら、優はまたソファで寝ていたらしい。この子、いっつも寝てるけど、実は結構暇なのかしら?
「ふあ……。なに椛、また来たの? 暇だねー」
 上半身を起こして、帽子をかぶり直しながら、そんなことを言われた。暇だと思っている相手に暇なのかと言われるのは、妙にカチンと来る物がある。しかし、私は大人。そういう事でいちいち怒らない。
「これ、こないだの。寿丸菊太さんのインタビューが乗ってるやつ。一応持ってこようと思って」
「あー、別に興味ないなあ」
「ま、そういうと思ってた。一応、置いとくわよ。あとこれ。古時計堂って喫茶店の、コーヒーゼリー」
「うおーサンキュー!」
 そっちには興味あるのね……。いや、わかってたけど。
 優は私が差し出したコーヒーゼリーをひったくると、その中身を取り出し、シロップをかけて一口頬張る。
「んー……。このシロップ、そしてコーヒーの芳醇な香りがなんとも……んぁ?」
 甘味を味わっていると、優が途端にピタリと止まった。
「どうしたの?」
「足音……。これは、依頼人だわ」
 そう言うや否や、コーヒーゼリーを勢いよくかきこみ、完食してしまう。あとで食べようと思っていた私の分も。
「ちょっ、ほんとになにしてんの」
「だって、仕事の話もあるからさっさと食べなきゃと思って。それを椛に強要するのも、なんか変かなと思って」
「いや、ちょっと! 楽しみにしてたんだけどそれ!」
「あーあー、来るから、依頼人来るから。また後で」
 くっ。この状況も計算尽くか。社会人がコーヒーゼリーでうだうだ言っているところを見られるのも嫌だし。私は頭を掻き、コーヒーゼリーを諦める事に。
 そうして、とりあえず席を移動し、優の隣に腰を下ろす。――って、私勝手に依頼を聞く感じになってるけど、いいんだろうか。しかし優は文句言わないし、どうやら私も依頼聴いていいらしい。
 ……どうでもいいけど、なんだかどんどん、私は探偵の真似事がクセになってきている気がする。
 そんな事を考えていると、事務所の扉が開いて、中に依頼人と思わしき二人が入ってくる。私は――いや、優も。私達二人は絶句してしまった。
「あの、ここは甘露寺探偵事務所で間違いないですか?」
「す、寿丸日向子……」
 その女性は、明らかに寿丸日向子だった。間違いない。二ヶ月程前に素行調査をした少女。
 白のブラウスに黄緑のTシャツ。赤地に白と黒のチェック模様が入ったスカートという、ガーリーなファッションに見を包んでいる。
「えっ、なんで私の名前を知ってるんですか?」
「あ、いや、えっと……」
 私がもたついて答えられないでいると、優が「こ、こっちの藤田椛はね、ルポライターもやってるのよ。その縁で、あなたのお父さんを取材したことがあって、写真を見せてもらったことがあるのよ」とフォローを入れてくれた。さすが探偵、口が回る!
「ああ、そうなんですか……。じゃあ、私の自己紹介はいりませんね。こっちは、私の恋人で、仲代孝二(なかだいこうじ)」
 日向子さんは、自らの隣に立つ男性を差した。なんというか、背が大きくて体格がいい事以外、特に何か印象に残る事もない男性だった。黒髪のベリーショートで、細い目に太い眉。ドカ弁を思わせる四角くて大きい顔。気は優しくて力持ち、というキャッチコピーが似合いそうだ。
「ど、ども。仲代です」
「はあ。あたしはここの所長代理で、風祭優っていいます。所長は仕事中なので、私が伺いますよ」
 二人は、その言葉に頷いて、私たちの向かいに腰を下ろした。優は、キッチンの冷蔵庫からマックスコーヒーを取り出してきて、それを二人に差し出した。いきなり缶コーヒーを飲めと出されたのはさすがに戸惑ったようで、手をつけずに仲代さんから話始めた。
「実は……。僕と日向子は、その、同棲してまして。――その生活が、覗かれているようなんです」
「なんで、覗かれているとわかったんですか?」
 優がアメを咥えながら尋ねる。彼女は何かを考えたり、真剣になったりする時は、このようにアメが必需品のようだ。
「その……。毎日、ポストに手紙が投函されるんです。パソコンで書いた文章が……。あ、これ、一応持ってきたんです」
 みるみる仲代さんの隣に座っている日向子さんの顔が赤くなっていく。どうやら、よほど恥ずかしい事が書かれていたようだ。優は、仲代さんから差し出された手紙を開いて、私はそれを覗きこんだ。
 そこには、日向子さんの生活が、食べた物や見ていた番組、読んでいた本まで事細かに書かれていた。そして、仲代さんへの恨み事が少々。
 これが突然誰かから送られてきたらと思うと、なるほど、背筋が凍る。
「ふうむ……。これは、盗聴だけでなく盗撮も行われている可能性がありますね」
「と、盗撮もですか?」
 絶望したような顔の日向子さん。
 優は、取り繕うような事も言わず、ただ淡々と自らの推理を述べていく。
「まず、食事は二人で摂られたんですよね?」
「ええ……。基本的に、食事は二人一緒ですが……」
 仲代さんの顔に緊張が走る。当たり前だ。自分の生活が盗聴盗撮されていると知って、緊張しない人間なんて居るはずがない。それこそ、気づけば丸裸にされていたような物なのだ。
「食事をしていれば料理名を口にすることくらいはあるでしょう。盗聴だけで賄える部分です。見ていた番組も、テレビは音がしますし、どういった番組を見ていたかは時間から逆算して簡単に割り出せます。けど、本は基本的に一人で読む物ですし、なかなか名前を口走る事はないですよね。――つまり、本は盗撮の結果得た情報である可能性が高いですね」
「な、なるほど……」
 感心したように優を見ている仲代さんだが、しかし日向子は肩を抱いて震えていた。顔色が真っ青だ。やはり、ショックが大きかったらしい。
 当然だ。プライバシーというのは、知られたくない物。人に見せたくない部分。それが誰かに漏れているというのは、不安でしょうがないはずだ。
「まずは、元を断ちましょう。幸い、ウチには盗聴器と盗撮カメラの探知機もありますし」
「お願いします」
 日向子さんの表情から、少しだけ怯えの色が消える。希望が降りてきたのだから、当たり前だろう。こういうのは人手があったほうがいいはずだ。優に聞く前に、私がついていくのは私の中で決定事項となっていた。
 正義感を振りかざす年齢ではないが、私はやっぱり、こういう事は放っておけない。



  ■


 日向子さんのマンションに向かった私達は、二人が見ている中、お互いに探知機を使い盗聴器と盗撮カメラを探した。こういうのは初めてだったので、ちょっとワクワクしてしまったのは、不謹慎なので内緒だ。
『いい、椛。盗聴器は、基本的に、電源をそう長く確保できないから、長期的にするなら、電源がある場所に仕掛けられてる場合が多い。電化製品とか、タコ足配線とか、リモコンなんかもそうね。カメラは小型となるとけっこう高いから、そう台数はないはず。できるだけ情報を得ようと、見通しのいい場所に仕掛けてあるはずだから、高い所を探してみて』
 というアドバイスを優からもらって、私は家中を探知機持ってゆっくり歩きまわった。するとどうだ。盗聴器は四個、カメラは三つ見つけた。
「こっちは盗聴器六個にカメラは二つ。――予想より大分多い。ここは2LDKだっけ。大体一部屋に一つずつくらいでいいんだけどなあ……。よほど情報の精度にこだわってたみたいね。執念みたいな物を感じるわ」
 優はまるでゴキブリでも見るように、手の中の盗聴器やカメラを見る。
「それって……。そんなに多いんですか?」
 先ほど少しだけ戻ってきた安心が再び出て行こうとするのがありありと見て取れる顔を見せる日向子。
「ん、ああ。けど、安心してください。これで全部取り除きましたから、もう盗聴や盗撮は心配ないと思います」
「そうですか……。よかった」
 仲代さんはほっとため息を吐いて、日向子さんを抱き寄せた。若いカップルはこういう事がさらっとできるから初々しい。
「それじゃあ、盗聴器とカメラはこっちで処分しておきます。では、マンション前で張り込みをしているので」
 私達は頭を下げ、日向子さん達の部屋から出て行った。
 マンションの廊下に出ると、急ぐでもなくゆっくりと階段を降りていく。
「――……」
 そんな中、優がアメを咥えながら、何かを考え込んでいた。
「どうしたの優」
「ん? いや、大した事じゃないんだけどさあ。一つだけ気になる事があって」
 エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押し、ドアが閉まるまでなんとなく話が途切れた。
「――あの盗聴器とカメラ、どっかに受信機があるはずなんだよね。家の中には置けないと思うけど。大きいし……」
「別に見つからなくてもいいと思うけど? 元は断ったんだし、もう二人の生活が漏れる事はないじゃない」
「ま、それはそうなんだけどねー……。さて、張り込み張り込み」
 エレベーターの扉が開いて、一階のエントランスへ到着した。
 そこにはマンション住人達へのお知らせを張り出す掲示板や、ポストなんかがあり、一人の男性がポスト前に立っているのが見えた。私達はなんとなしに、無言でその後ろを通りすぎようとしたのだが、ちらりとそれを一瞥した優が、男性の肩を叩いた。
「ちょっとアンタ」
 びくり、と男の肩が跳ね、恐る恐る振り返る。キャップにサングラス、そしてマスクと、怪しさを演出する三点セットがばっちり装備されていた。
「そこ、寿丸さん家のポストよねえ。今、何を投函したのか、教えてくれる? ――私達は探偵でね、ストーカー撃退を依頼されてんのよ。そんな手紙出して女脅すなんて、いい趣味してるじゃない。この変態野郎ッ!!」
 その瞬間、優の前蹴りが男の腹を突き刺そうとする。が、男は横っ飛びでそれを躱し、慌ててホールから逃げ出した。
「あっ、ちょ、待ちなさい!」
 私はその背中を呼び止め、追いかける為走りだそうとするのだが、優が全く走り出さない。
「優、なにやってんの!! 間違いなくアイツがストー……カー……?」
 振り返って、怒鳴ったのだが、怒りは驚きで掻き消された。
 優の足が、集合ポストの一つにめり込んでいたのだ。それを引き抜こうと必死で足掻いており、その様は、正直酷く間抜けだった。
「なにしてんの……」
「ちょっ、椛手伝って! 硬くて抜けない!」
 呆れて物も言えなくなりそうだった。
 っていうか、威力高すぎでしょ、優の蹴り。
 絶対優は怒らせないようにしよう。そう誓うには、充分すぎる光景だった。
7, 6

  

「あー……。ひどい目にあった……」
 ポストから足が抜けた優は、心底ホッとしたように胸を撫で下ろす。子供じゃないんだから、自分の力と相談して行動しなさいよ。
「まったく……こっちは大変だったんだから」
 私も、安堵ではなく疲労の溜息を吐いた。私が後ろから優を引っ張り、大きなカブの話みたいにして引きぬいてあげた。
「優、なんでそんなに蹴りの威力あるのよ? 探偵ってそういうの必要?」
「へっへっへ。実は、かつて悪の秘密結社に拉致されて、悪の科学者に改造手術を――」
「子供じゃないんだから、そんな嘘信じないわよ」
「バレたか。――ま、腕っ節……っていうか足っ節? あたしみたいな探偵には結構必要よ? ヤクザとかストリート・ギャング相手にしたこともあるしねー」
 どうも、優は私とはまるで違う壮絶な体験をしているらしい。
 探偵って、そこまで荒事になる職業じゃないはずなんだだけど。まあ、尾行がバレたら相手によってはまずいだろうけど。
「……それにしちゃ、優の手はあんまり使い込まれてない感じがするけど」
「そりゃーね。情報得る時に拳骨の皮が向けた手なんか見せちゃ警戒されるでしょ? 足なら使い込んでも引き締まるだけでバレにくいし」
「なるほど……。って、それなら武器持ち歩けば?」
「あんまり武器に頼りたくないのよねー。ナメられそうで」
「あ、そ……」
 よくわからないけど、まあ優がそういうのならそれでいい。
「で? どうすんのよこれから。肝心のストーカーも逃しちゃって」
「とりあえず、日向子さん達が通っている大学に行きましょうか。ストーカーの犯人は人間関係の中にいることが圧倒的に多いからね」
「ん、了解」
 私と優は、マンションのエントランスから出て、その前に停めてあるフィアットに乗り込むと、日向子さんと孝二さんの通う大学へと車を発進させた。アクセルを踏むと、ゆっくり滑り出し、優は再びラジオをいじりだした。
 流れてきたのは、湘南探偵団の『BLUE』軽快な音に乗せられるように、車はどんどんスピードを上げた。


  ■


 日向子さんと孝二さんが通う『仁堂大学』までは、車で一時間ほどかかった。
 どうやらそれなりに名門らしく、広くて綺麗な校舎が居心地の良さを演出していた。綺麗に舗装された石畳と、陽の光をいっぱいに浴びる芝生。寝転がったら気持ちよさそうで、周囲の学生たちはきゃっきゃうふふと愛想を振りまいている。
 ……そんな中、明らかに在校生ではない私と、在校生にしては恰好が派手すぎる優はとてつもなく目立っていた。
「……ああ、なんか恥ずかしい……」
 私の母校ではないので、自然そんな感想が漏れてしまった。卒業生なら、まだ『昔この学校に通っていた』という免罪符が仕えるけど、そうも行かないのでなんか周囲の大学生に見られている気がする。若さが私をいじめる。
「何をモジモジしてんの?」
 妙に澄んだ優の目が、私をとっても馬鹿らしい存在へと貶めるような錯覚に囚われてしまう。
「まあ気持ちはわからないでもないけどねー。私は高卒だから大学入るの初めてだけど。学食でビール飲めるってマジ?」
「マジよ」
「……飲みたいなあ」
「後でね。まずは仕事でしょ?」
「――っと、そうだった。えっと、英文学科……」
 優はキョロキョロと、英文学科へどう行けばいいのかを探そうとしていた。私もそれに倣おうとした所で、「……優さん?」と遠慮がちな声が聞こえて、私と優は振り返った。
「あっ、桃子さんじゃないっすか!」
「うわーやっぱり優さんだあ! 久しぶりー!」
 優と、その声をかけてきた少女は、抱き合ってきゃるきゃると若々しい再開の喜びを表現しあっていた。私がポカンとしていたら、優は忘れてたと言わんばかりの表情で「この人は、啓介のダンナの助手で、胡桃沢桃子(くるみさわももこ)さん」と、私にその女性を紹介してくれた。
「初めまして。胡桃沢桃子、仁堂大学文学部哲学科の一年生です」
「あ、ご丁寧にどうも……」女子大生……若い……!
 前髪こそ揃ってはいないが、茶髪のボブカットにビー玉みたいに丸く大きなブラウンの瞳。白いレースのカーディガンにヒヨコ色のキャミソールとホットパンツに、白のパンプス。どうでもいいけど、甘露寺探偵事務所のメンバーは外見のレベル高い……。
「私は藤田椛。週刊スポットという雑誌でルポライターやってます」
 名刺を差し出すと、桃子さんはそれを受け取って、まじまじと見つめる。
「ルポライターですか。なんかすごいですね」
「はは……弱小出版社ですけどね」
「あたしの仕事手伝ってもらってんすよ。そっか、桃子さんの大学ってここだったんですね」
 優は懐かしむみたいに、桃子さんの姿を頭から爪先までじっくりと眺めていた。成長した姿を頭に刻み込もうとしているようだ。それに、どうやら甘露寺探偵事務所のメンバーには、『~っす』口調というのが、私にとってはなんだか新鮮だ。
「うん。優さんは仕事?」
「そうなんすよ。寿丸日向子さんって人から、ストーカー撃退を依頼されて、人間関係の調査を」
「あー。ストーカーは顔見知りの犯行が多いですからねー。なんか懐かしいなあ」
「昔は啓介のダンナとよくこういうのしたっすからねえ」
 二人は、探偵時代を懐かしんでいるようだった。それに、ストーカー撃退も初めてではないらしい。って、そういえば前に私が手伝った事件でも、ストーカーをやっつけたって言ってたなあ。
「で、寿丸日向子さんだっけ? その人が所属してるサークルなら知ってますよ。大学内じゃサークルメンバーで固まってる場合も多いし、人間関係を探るのにちょうどいいんじゃないですかね」
「マジっすか! 案内お願いできます?」
「もちろん。授業もないし」
 桃子さんの頼りがいある一言で、私達は行くべき場所をなんとか見つけることができた。
 彼女を先頭に、私と優は大学内を歩き、やってきたのは体育館と思わしき建物の近くにある部室棟。その二階、一番奥にある『ポップス研究会』という何をやってるのかよくわからないプレートが掲げられた部屋。
「失礼しまーす」
 桃子さんは、ノックして、返事を待たずに開いた。
 部屋の中は、まるで誰かの家みたいに生活感のような物で満たされていた。本棚には漫画が置いてあり、ホワイトボードには落書きと思わしき物が多数。さらに、部屋の中央に寄せ集められたテーブルにはペンやルーズリーフ、教科書などが産卵し、誰がやっているのか部屋の片隅にはギターとベースが一本ずつ。
 そんな部屋に、人が三人。
 一人、妙に派手な恰好をした男が立ち上がると、桃子さんに歩み寄ってきた。
「なにぃ、どうしたの桃子ちゃん。後ろのお姉さんたちは?」
 ニキビが消えかけてきている、子どもと大人の中間というような顔をした、赤いバンダナを巻いた彼は、タレ目で妙に覇気がなく、そのクセ革ジャンに白シャツとケミカルウォッシュのジーンズで、昔のロックスターみたいな恰好をしていた。
「この二人は私の友達ですよ。――あ、この人はポップス研究会の部長、金城文世さん。英文学科の三年生です」
「どもーっす」
 へらへら笑いながら、頭を下げる金城さん。その様は世間知らずな大学生、というのがまさにぴったり。
「あたしは風祭優。で、こっちがあたしの助手。藤田椛」
「どうも」
 私はいつから助手という扱いになったのだろう。まあ、わざわざルポライターと言って余計な好奇心を煽ることもないけど。
「助手……?」その聞きなれない表現に、彼は戸惑っているようだった。そこへ、優が助け舟を出す。
「あたしは探偵。ちょっと、ストーカーの調査で来たわけ」
「ストーカーって……誰が?」
 さすがに、ストーカーという物騒な言葉を聞いて彼も黙ってはいられなくなったらしい。金城さんは、訝しげに目を細めた。
「寿丸日向子さんからの依頼で、あたし達は彼女のストーカーを探してる」
「……日向子にストーカーがいるの?」
 金城さんの後ろから、ひょっこりと顔を出したのは、部屋にいた内の一人で紅一点の女性だった。金髪のポニーテールに紺色の肩出しチュニック。
「この人は幸塚未那美(こうづかみなみ)さん。寿丸日向子さんの友人です」
 桃子さんに紹介され、未那美さんは軽い会釈を私達にしてくれた。
「ええ。かなり質の悪いやつがね。……それで、いろいろと聞きたいことがあるんですけど、調査にご協力願えませんか?」
「私は構いません。友人のピンチですし。ね、部長」
 優の言葉に頷いた未那美さんは、隣に立つ金城さんの顔を覗き込む。
「ああ。部員のピンチだからな。いいよな、馬島?」
 金城さんは、机に座ったままだった眼鏡の青年に声をかける。黒いシャツにジーンズ。黒縁の眼鏡に、伏し目がちな瞳。前髪が長めの彼は、「ああ、うん。もちろん」と頷いた。
「彼は馬島桐吾(まじまとうご)さん。ポップス研究会の一人です」
「ども……はじめまして」
 人見知りなのか、私達と目を合わせてはくれない。
「直球で申し訳ないのですが、ストーカーをしそうな人間に何か心当たりはありませんか?」
「んー、俺らのサークルってカラオケやって飲むだけの飲みサーなんだけど、結構恋愛関係は少ないんだよなあ。そういう気配があった覚えもないし、カップルなんて、寿丸と仲代だけだったしなあ」
 金城さんの言葉に、他の二人も頷いていた。
「そうね。サークル内では祝福ムードだったし。どーせなら結婚まで行って、私達を結婚式に呼んでくれーとかって、飲み会で冗談半分言ってたくらいだし」
 未那美さんは、サークル内に犯人はいないと。表情で語っている。
「二人は……お似合いだったし、なんていうか、お互いにもうラブラブで、邪魔しようなんて考えられない」
 と、馬島さんも真剣な表情をしている。どうやらあの二人は、よほどの熱愛を振りまいていたらしい。まあ、彼女がストーカーに遭って、あそこまで心を痛めた表情ができるのだから、本当に彼女を愛しているのだろう。
「ということは、皆さん本当に心当たりがないんですね?」
「ないな。少なくとも、俺の友人の中にはいないはずだ」と、自信満々に金城さんは胸を張った。
「私も。少なくとも、この中の三人は無いんじゃないかな」未那美さんも、確信とまではいかないまでも、それに近いレベルで他の二人を信用しているらしい。
「俺もそう思う。ストーカーの心当たりは、特に無い」
 馬島さんは、ゆっくりと頷いた。
 その後も、いろいろ話を聞いてみたのだけれど、結局情報はあまり得られなかった。どれだけそのサークルが仲良くやっているか、という事を聞かされただけの時間となってしまい、私と優は辟易としながらその場を後にした。


  ■


「ううむ……なんか、大学生の青春を垣間見ただけって感じ……」
 青春的空気が苦手なのか、仁堂大学の学食に来てから、優はビールを煽り、天井を仰いでいた。あまり話は訊かれないように端の席に座り、私達三人は遅めの昼食を摂っていた。ちなみに、ビールなんて飲んでいるのは優だけだ。私は車の運転があるし、桃子さんは未成年。
 私はオムハヤシライス。桃子さんはラーメン。優はハムカツ定食。
「人間関係外のストーカーってことかなあ、そうなると」
「ま、大学内には人間たくさんいるし、しばらくはここで張り込みかなあ……」
 優はすごく面倒くさそうに、ハムカツを口に放り込み、何度か咀嚼してビールで流しこむ。
「へへっ、優さん。私の特技、忘れてない?」
 頬にネギを貼りつけた桃子さんは、少年のような笑みを見せ、自分の顔を指差す。
「……あ、もしかして。『いた』んすか?」
「いました。嘘吐いてる人」
「どういうこと?」
 二人の意味深な会話に、私は思わず口を挟んだ。優の助手なのだから、一応の権利はあるだろうが、しかし旧知の仲である二人に間に割って入るのは、なんだか勇気がいるものだ。
「桃子さんは、人の嘘が見破れるのよ」
「ええ? それこそ嘘でしょ」
「ホントなんですよー」
「……桃子さん、頬にネギついてるわよ」
「あ、それホントですね――って! それ早く言ってくださいよ!」
 慌てて頬についたネギを取り、人差し指ごと頬張る桃子さん。まあ、信じてみよう。わざわざこの大事な事件で嘘を吐くとも思えない。
「――で、誰が嘘吐いてるんすか?」
「馬島桐吾さん。ストーカーの心当たりがない、っていうのは嘘だった」
「そんな詳しくわかるものなの?」
 私の疑問に、桃子さんは自信満々にゆっくりと頷く。
「二年間、啓介の元で磨いた技術ですから」
 桃子さんはミスター・Kの事は呼び捨てなのか……。なんだか、優より深い付き合いを感じる。恋仲だった――ということはなさそうだが。
「あと――もう一つ嘘があったんですけど……。馬島さん、最初に『はじめまして』って言ったでしょ? そこも嘘の匂いがしたんですよね……。二人とも、どこかで馬島さんに会いました?」
「いや……」会っていない。私がそう答えようとした瞬間。
「もしかして、さっきのストーカー……。あれが馬島さん?」
 優の呟きに、私と彼女は顔を付き合わせた。
 あの自信なさそうな会話の仕方――あれは嘘をついていた罪悪感か?
 確かに、いきなり蹴りをかましてきた女が目の前に現れたら、動揺してそう見えてもおかしくはない。私達は、まさか。と口の動きだけで同時に呟いた。
「でもまだ、疑わしいの域を出ないかなあ……。あたしも椛も、人と会う仕事だし……。どこかで会ってた可能性は否定できないからね」
 優も私と同じようなことを考えていたらしい。
「そうね……。もしかしたら、友達を庇ってるっていう線もあるわけだし」
「とりあえず、日向子さんには馬島さんに警戒だけするよう伝えておこっか。ありがとうっす、桃子さん。とりあえず、依頼人に報告してくるっす」
「うん、わかった。お役に立ててよかったよ」
 そうして、私達は桃子さんと別れた。
 その足で日向子さんの家に向かい、日向子さんと仲代さんに『馬島さんが疑わしいので、警戒をするように』と言っておく。
 友人である二人は、もちろん戸惑った表情をしていたけれど。
「誰がいつ、どんな形で牙を向くかはわからない物です。疑わしい以上、一定の警戒はしておいたほうがいいと思います」
 という優の言葉で、二人は納得したようだった。
 その日はそれで解散。明日は二人、別れて行動する相談をした。私は二人のガード。そして優は馬島さんの尾行。それだけ決めて、私と優も別れた。


 翌日、馬島さんが死んでいるという連絡を受ける事になるなんて知らずに。
 私の目覚めは最悪だった。
 久しぶりに自宅で眠っていたら、ベッドボードに置かれていたケータイがけたたましく鳴り、まさか上司から仕事を回されるのかと思いきや、それがマシかと思えるほど最悪の電話だった。
「……もしもし」
 寝ぼけていたので、相手の確認もせず、私は電話を耳に当てる。
「椛! 大変よ!!」
 その大声は、優だった。朝に女性の大声というのは少しつらいが、私は「何が……?」と尋ねてみる。
「ストーカー疑惑があった馬島桐吾、あいつが死んだって!!」
「――なっ」
 目が一瞬で覚めた。
 血の気が引き、私は思わず上半身を勢い良く起こし、「どっ、どういうこと!?」と優に負けず劣らない声で叫び返す。
「とにかく、馬島桐吾の家まで来て。住所は――」
 優から、馬島桐吾が住んでいたアパートの住所を聞き、着替えとメイクをそこそこに、私はマンションを飛び出した。時刻は既に午後の三時を回っており、私は寝過ぎた事を後悔していた。起きていた所で、結果は何も変わらなかったかもしれないが。


  ■


 馬島桐吾が住んでいるアパートは、東神奈川にあった。駅から徒歩一〇分というなかなかの好条件ではあるが、少しばかり隙間風とか入ってきそうな二階建ての木造アパート。その二階、一番奥の部屋に、警察の進入禁止テープが張り巡らされ、野次馬やマスコミが集まっていた。
 その中には私の知り合いも何人かいたが、挨拶している余裕はない。優を探すと、優はアパートの前で苛立った表情を顔に貼り付けながら、棒付きキャンディを咥えていた。
「優!」
 私は、野次馬の中から優の名前を呼ぶ。すると彼女はこちらに気づき、手招き。入っていいのだろうか。と私達野次馬を止めている警官をちらりと見ると、頷いてくれた。警察には多大なコネがあるようだ。
 迷わずテープを潜り、後ろの知り合い達に驚かれながら、優の元へ駆け寄る。
「現場は見たの?」
 私が尋ねると、優は首を横に振る。
「とりあえず椛が来てからと思ってたから、まだ」
「……現場に入れるの?」
「鴨ちゃんが入れてくれるって」
 鴨川刑事か……。あの人、なんだか妙に優を買っているようだ。
 しかし捜査をする上で、それはありがたい。実際に現場を見ているのと見ていないのでは、得られる情報量が違う。
 私は優に導かれ、馬島桐吾の部屋へ。警官達に頭を下げ、その中に入ると、異臭がした。
 糞尿の匂い。そこは、六畳一間の1Kという間取りで、どうやらトイレのドアノブに首を吊ったらしく、トイレ前に白線で死体の形が枠取られている。股間に当たる部分には、畳に染みこんで茶色い染みがある。――首締めは体中の穴という穴から排泄物が出る。涙はもちろん、糞尿まで。
「……ん、来たな優。それと、椛さん」
 居間の中で、部屋を調べていた鴨川健二さんが、私たちの姿を見ると、キッチンに出てきた。そして、その後ろに控えるように、鳴海アキラさんもおり、私達に「どうも」と不機嫌そうな表情で軽い会釈をする。
「ま、見ての通り、死因はトイレのドアノブにひっかけたネクタイでの首吊り。死亡推定時刻は今日の昼一二時から一時の間。……ま、自殺だろ。遺書も見つかってるしな」
 そう言って、鴨川さんは優に一枚の紙を手渡す。私も横から覗き込むと、そこには部屋のパソコンで打たれたのだろうワープロの無機質な文字が並んでいた。




 寿丸日向子さんのストーカーをしていたことを、死んでお詫びします。
 大学にまで探偵さん達が来て、もうバレるのは時間の問題だと思い、こうして死ぬ事にしました。日向子さん、盗聴や盗撮など、迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。



 その短い文章の下に、日付と名前が書かれていた。
 なんとも後味の悪い文章で、私と優の間に静寂が姿を表す。
「……まだ納得できない。鴨ちゃん、部屋を調べさせて」
「ああ、構わねえが……」
「風祭さん、これ以上は無駄なんですよ。自殺ですよ、自殺。遺書だって出てるじゃないですか」
 後ろから、鳴海アキラが口を挟む。だが優は、「ホントにそう思う?」と鳴海さんを睨みつける。
「この遺書は明らかにおかしい。ストーカーは、自分の事をストーカーと認めようとしない物。そして、つきまといを迷惑行為だなんて考えない。――探偵としての経験がそう言ってる」
「……そこまで言うのなら、その推理を覆す物を見つけてみてください。無駄だとは思いますがね」
 鳴海さんの横を通り、優が居間へと侵入した。私もその後に続く。
 その部屋は、普通の大学生らしいものだった。部屋の中心には小さなテーブル。ぐしゃぐしゃになった万年床らしいベッド。テーブルの上にはパソコンと、部屋の片隅には遺書を印刷したと思わしきプリンター。
 そして、もっとも特徴的だったのは、ラックにしまわれた大量のDVD。映画がたくさん、統一感なく並んでいる。
 優はDVDラックを調べ始め、私は押入れを調べる事にした。
 衣服がしまわれているらしいそこを、どんどん掘っていくと、私は見つけてしまった。
「……優」
「ん?」
「これ……」
 私が押入れの衣類棚から見つけたそれは、日向子さんのマンションで出会ったストーカーが着ていた衣服だった。その服を見て、優の顔色が明らかに変わる。目を見開いて、驚き、そして落胆しているようで……。
「どうやら、馬島桐吾がストーカーである、という証拠を見つけたようですね」
 部屋の外にいる鳴海さんが、厳しい表情をしている。よくも警察を疑ったな、と言わんばかりの物。
「これで自殺の線は濃厚――。仮に、他殺だとして。容疑者筆頭は、寿丸日向子さんということになりますが」
 その言葉を聞いた瞬間、優はビクリと体を揺らす。まるで、飛びかかろうとしたのを精一杯押さえ込んだような。その表情も、眉間にシワが寄り、咥えていたアメを口の中で噛み砕いた。
「……鳴海。あんた、あたしの依頼人を疑う様な事言ったら、次は足が出るわよ……」
「そうなれば、公務執行妨害です」
「――ッ!!」
 優が、飛び出そうとした。
 しかし、それを私は寸前で前に出て、肩を押し、押さえ込んだ。
「ちょっと優! 今そんな事してる場合じゃないでしょ!?」
「鳴海。てめーもあんま優を挑発するようなこと言うんじゃねえ。確かに警察と探偵、立場は違うが、犯罪者をとっ捕まえようって気持ちは変わらねえんだ。……もうちょっと柔らかく考えろや、鳴海」
 と、まるで子供のイタズラを優しく叱るような笑顔を見せる鴨川さん。
 鳴海さんは、素直に「……すみません、熱くなりました」と頭を下げた。だが、優はそっぽを向いて何も言わない。ここにいたら、また無用な争いが生まれそうな気がしたので、私は鴨川さんへと向き直り、
「すいません。今日はこの辺りで失礼します」と頭を下げて、馬島桐吾の部屋から優を連れ出した。
 アパートの近くに停めておいた私の愛車まで引っ張ってくると、優はブスッとした顔のまま「……ごめん」と謝った。
「ん? なにが」
 私が運転席に乗り込み、優も助手席に乗り込む。
「はぁー……どうしても熱くなっちゃうんだよなあ……いけないよなあ……。あそこであのダメ刑事蹴っ飛ばしてたら、間違いなく公務執行妨害と傷害がついて捕まってたし。啓介のダンナだったら、逆に相手を怒らせて自分は軽ーく躱すくらいの事はするのに……」
 溜息を吐いて、優は背もたれを倒し、帽子を顔に被せる。
「……ま、いいんじゃない? 優らしくて。突っ走りそうになったら、私が止めればいいだけよ」
 私は煙草を咥えて、火を点けた。紫煙が肺いっぱいに広がる。
「はあ。……椛って、探偵助手に向いてるのかもね」
「そりゃどうも。――で、どこ行く?」
「日向子さん達の家。まず、二人の様子見と、アリバイを確認しなきゃ」
「……あれ? 日向子さん達を、疑ってるの?」
 だってさっき、それで鳴海さんに対して怒っていたんじゃ。
「まあね。疑ってないってわけじゃないけど、正直二人が犯人っていう可能性はかなり低いとは思ってるよ。理由は二つ。私達探偵を雇ってる事。ストーカーに付け狙われた女性がいる場合、まず彼氏を頼るパターンが多い。――が、日向子さんは私達を雇っている。これはストーカーの撃退が結構困難な仕事であるということを自覚しているということ。父親が芸能人だし――そういう覚えがあるのかもね」
「……二つ目は?」
「私達探偵が、『警戒するように』と言った翌日であること。そんな日に殺したのでは、自分達がやったと宣伝するようなもの。いくら守秘義務があるとはいえ、探偵がそんな重大情報を警察に漏らさないと信用するわけがない。それに、ストーカーを何とかしてほしいだけなら、私達を雇っているのだから、結果を出すまでは待つでしょ普通」
「……確かに」
 私は煙草の灰を、車に備え付けられていた灰皿に落とす。
「だから、アリバイを聞きに行くのは、犯行に及んでいないという確信を得る為。――車出して」
「――了解」
 私はキーを回し、エンジンを吹かして、アクセルを踏む。滑りだす車をハンドルで操作する。
 向かうのはもちろん、日向子さん達の家。


  ■


 車をマンションの駐車場に停め、私達は重い足を引きずりながら、日向子さんの部屋までやってきた。インターホンを鳴らすと、中から出てきたのは、痛々しいほど目を赤くした日向子さんだった。
「……風祭、さん。友達が……、馬島くんが……」
「……知ってます。現場を見て来ました」
 奥の部屋から、仲代さんが出てきた。そして、日向子さんの肩を抱き、「風祭さん。……本当に、桐吾がストーカーだったんですね」と沈んだ顔で呟いた。
「……それを確認するためにも、教えてください。二人のアリバイを。今日の一二時から一時まで。どこで何をしていましたか?」
 二人は、疑われてもしょうがないと思っていたのか、それとも怒るほどの気力はないのか。日向子さんは何も言わないが、仲代さんは呟き始める。
「……俺たちは今日、ずっと家にいました。それは、さっき警察の人にも話しました」
 優は、一瞬だけ苦々しい顔をした。二人には気づかれていないようだったが、警察の手が二人に伸びた事は快く思っていないようだ。
 日向子さんも頷いて、その言葉を肯定する。
「……馬島くんは、誰かに殺されたんですか……?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。――調査してみます」
 お願いします。二人はそう言って、頭を下げる。
 私達はそれを受けて、今度は仁堂大学へと向かう。
 ポップス研究会には、どうやら日向子さんと仲代さんの他には、昨日聞き込んだあの三人しかいないらしく、馬島さんが亡くなった今となっては、金城さんと幸塚さんしかいない。
 二人は、馬島さんの死を知ったのか、日向子さん達と同様に、沈んでいた。
「ああ、探偵のお姉さんたちか……。悪いけど、ストーカーについて話すような気分じゃないんだ……」
 金城さんは、椅子の背もたれにたっぷりと体重を預け、天井をぼんやりと見上げていた。幸塚さんも、机に突っ伏して泣いている。
「いえ。今日は、馬島さんが亡くなった件で来ました。事件の調査で、お二人のアリバイを聞かせていただきたいのです。今日の一二時から一時までの間」
「……俺たちを疑ってんのかよ?」
 金城さんは、怒る一歩手前というような表情を見せる。だが、優は冷静に「いえ、疑ってるわけではありません。が、もしあなた達が何らかの偽装用装置として利用されたりしていた場合、それを知るためには必要なんです」と返す。
 その言葉に、言い返す語彙がないのか、金城さんはぽつりと「今日はずっと大学に居た。その時間も授業があったしな。……出席カード出したし、友達と一緒だったから、立証はそう難しくないと思うぜ」
 そして続けて、出た授業と友人の名前を告げる金城さん。
「……私は家にいました。一人暮らしなので、証明は少し難しいかもしれませんけど……。でも、一二時から一時までですよね? 私の家から和馬くんの家までは少し遠いので……和馬くんを、その……殺して……家に戻るには、一時間以上かかりますから、そんな時間はないと思います……」
 そう言って、彼女は家の詳しい住所を教えてくれた。
 磯子の方で、徒歩はもちろんだが交通手段の都合上乗り換えも多く、どうスムーズに行っても少々手間になる距離だった。
 ――それに比べ、日向子さん達の家は、正直行って馬島さんの家から近い。徒歩でも三〇分くらいで住む。殺す時間くらいはあるし、顔見知りだからこそ油断を誘える。私の頭の中で、どんどん日向子さん達がやったのではないかという思いが形を成していく。
「……ちなみに、馬島さんが殺されたとして。恨みを買うようなことは考えられますか?」
 優の言葉に、金城さんと幸塚さんが顔を見合わせる。まず口を開いたのは、金城さんだった。
「いや、あいつは特にそういうのはなかったかな。少しテンションは低いやつだったけど、遊べば楽しいやつだし」
「ね。結構歌も上手かったから、ポップス研ではカラオケの盛り上がり役も兼ねてたし……。あ、でも。最近なんか、妙に羽振りがよかったかな?」
 首を傾げる幸塚さん。
「ああ、そういやそうだなあ。なんかおごってくれる事が増えたっつーか。割のいいバイトとか言ってたけど」
 金城さんは顎に手をやり、左上へと視線を彷徨わせた。
「そうですか。参考になりました、ありがとうございます」
 優はそう頭を下げて、部屋を出る。私は、抱いてしまった疑念を払うように頭を振ってから、金城さんと幸塚さんに頭を下げ、優を追いかけた。
 廊下に出て、先に歩いていた優を追い掛け、その背中に「次はどうするの?」と尋ねる。
「……一回事務所帰ろう。情報は止まったし、ね」
 情報が止まれば事務所に帰る。
 それは、甘露寺探偵事務所の捜査テクニックの一つだ。


  ■


 車を走らせ、事務所に帰ってきた。
 優はキッチンからマックスコーヒー二つを持ってきて、応接セットの向かいに座る私に投げて手渡すと、それを勢い良く呷って、空になった缶を机に叩きつけた。そしてポケットから棒付きキャンディを取り出し、咥える。その様は明らかに苛立っていた。ただのストーカーが殺人事件にまで発展してしまった事が、依頼人が疑われている事が、彼女にとっては手痛い事なのかもしれない。
 黙って考える優に、私はなんだかよくない物を感じて、気晴らしになればとローテーブルに置かれていたリモコンでテレビをつけた。
 やっていたのは、どうやらストーカーが意中の女性をどんどん追い詰めていくという、今見るのは最悪とも言えるドラマだった。ドラマの中の男優は、部屋の中に女性の写真を貼り付けており、その写真を一枚取って、女性の部分だけ執拗に舐めながら、
『もうすぐ一緒になれるよ……』などと言いながら、幸せそうに笑っている。
「ご、ごめん優。すぐ消すから」
「――や、待って」
「へ?」
 何故か、優はストーカーが部屋でおぞましい光景を繰り広げている映像を食い入る様に見ていた。
「……そうだ! 椛、行くよ!!」
 彼女は勢い良く立ち上がると、事務所を飛び出していった。
「ちょっ、優!?」
 私はまだマックスコーヒーを開けてすらいないのだけど。少し迷ったが、マックスコーヒーを持ったまま、優を追いかける。
 彼女を車に乗せると、ダッシュボードを蹴っ飛ばす勢いで慌てており、ただずっと「馬島桐吾の家に向かって!」と叫んでいた。



  ■


 馬島桐吾が住んでいたアパートの周りにいたマスコミや野次馬はもういなかった。警官もまばらになっており、私は車を停め、その瞬間飛び出した優を追い掛け、走る。
 優はテープを潜ろうとして警官たちに止められていたが、しかし鴨川刑事の知り合いだと言うと通してもらえたらしく、私達は難なく馬島さんの部屋に来ることができた。
 優はまだ異臭が漂う部屋に入ると、構わず居間へと行き、キョロキョロと辺りを見回す。
「ちょっと優……。さっきも見たでしょ? ここには何も無いんだって」
「――それがおかしいんだって」
「は?」
 何を言っているんだろう。優はニヤリと笑い、「馬島桐吾はストーカーやってた疑惑がかかってる人間でしょ? そんな人間の部屋に、日向子さんの形跡が全くないのはおかしくない?」
「――あっ」
 そうか、さっきのドラマで、優はそれに気づいたんだ。
 あれはドラマだからある程度の脚色はあるだろうが、しかし全くないってことはないだろう。
「つまり、馬島桐吾さんはストーカーじゃないってこと? ――それだと、そもそも自殺する理由がないから……」
「これは他殺、ってことになる」
「本当のストーカーが口封じ、ってこと?」
「それも、私達がストーカーを調査していると知っている誰か。私達が話したのは、日向子さんと仲代さんを除けば、幸塚さんと金城さんしかいないけど――。相手はストーカーだし、盗聴器もあったから、探偵が調査してるって情報くらいならすぐ得られるんじゃないかなって」
「友人を庇ってたってこと? じゃあ、ポップス研究会の――幸塚さんは女性だから考えにくいし……金城さん?」
「いや、桃子さんが嘘吐いてないって言ってたから、それはないと思う」
「じゃあ一体誰が……。ストーカーと馬島さんを殺した犯人は同一なんでしょ?」
「……一人だけ、気になる人はいるんだよね」
「誰よ」
 私の問いに、優はDVDラックから、一枚のDVDを取り出した。それは時代劇で、主演は――
「寿丸菊太、さん?」
「そう。――馬島桐吾は、どうやらよっぽど寿丸菊太さんのファンらしくてね。他のDVDは特に出演者や監督、脚本や演出なんかに統一性はないのに、寿丸菊太さんのだけは全作品揃ってるのよ」
「……偶然じゃないの?」
「だとしても、調べる価値はあるんじゃない? ――とりあえず、寿丸菊太さんの家に行きますか」



9, 8

  

  ■


 優が立てた作戦は、こうだ。
『仕事上の付き合いもあるんだし、椛が適当な口実でもでっち上げて引きつけといてよ。私はその間にこっそり家の中を探してみるから。もしいなかったらピッキングでもして入ればいいしね』
 とのことだった。
 簡単に言ってくれるなあ……と呆れもしたが、それ以上に優がピッキングできるということに驚いていた。これで無駄骨だったら、もしくはバレたりしたら。私たちはお互い捕まってもおかしくないのである。
 私は、菊太さんの自宅のインターホンを押し、優は物陰に隠れてそれを伺っていた。
 玄関から出てきた菊太さんは、意外そうな顔で私を見た。
「あれ……どうしたんですか? 藤田さん」
「いえ、その……以前書いた記事。もうあれは終わったんですけど、個人的にお話を聞きたくて……」
 彼は一瞬首を傾げたが、しかし笑顔で快く「ええ、いいですよ」と言って、私を家の中に招き入れてくれた。
 ――優の侵入を手助けするプランとして、私はまず、ドアが閉められたら、さっさと中には入らず、彼が鍵を閉めるのを阻む様に鍵の前に立つ。
 来客を相手に、「鍵を閉めたいから退け」と言えるほど、日本人の防犯意識は高くない。そして、それを言うことで相手に不快感を与えるのではと考え、ならばと自分から先に家に入る。在宅中に泥棒が入っても、怖くないし気づくと思うからだ。
 狙い通り、菊太さんはさっさと応接間へ向かう。私はホッと胸を撫で下ろし、その後をついていく。
 以前と同じように、応接間で向かい合って座ると、まずは私が菊太さんに対し、本当に話を聞きに来ただけであることをアピールする。
「以前の取材で、菊太さんの出演作をいくつか見せていただいたんですが、ファンになってしまったようで」
「おやおや。それはありがとうございます。あなたみたいな美人にファンと言われるのは嬉しいですね」
「それに、以前依頼を受けた娘さんが、ストーカーに合っているとの事で――。やはり、父親である菊太さんには一度伝えておいた方がいいのではと思いまして」
 疑惑のある人間に、その話をする。こうする事で、私が菊太さんはストーカーだと思っていないのではないか、と彼に思わせる。盗聴器で聞いている可能性が高いからだ。あえて隠さないのも嘘の一つなのだと、優が言っていた。
「そうなのかい? ……娘にストーカー、か。現実味がないけれど……だとして、なぜ連絡してきてくれないのか……不思議だよ」
 寂しそうに笑う菊太さんに、私は慌てて「心配かけたくないんですよ、きっと」とフォローを入れる。そうして、話題を逸らすように彼の出演作の話をする。そうして、三〇分ほど時間を稼ぐと、私のケータイが鳴った。
「どうぞ」
 と菊太さんから許可を貰い、開いて見ると、そこには優の文字。
「もしもし?」
『オッケー。調べ終わったから撤収して』
「はい、わかりました」
 そう言って電話を切り、寿丸さんに頭を下げて、「……すいません、上司から会社に戻ってこいと電話が来てしまい……」と、あたかも残念がっているように言ってみせる。彼に疑っている様子はなく、彼も話が終わるのが名残惜しいかのように
「ああ、そうですか……。では、玄関までお送りしますよ」
 と言って、私を玄関前まで送ってくれた。
 彼は、私が曲がり角を曲がるまで手を振ってくれ、私は曲がり角に入ると、すぐに停めてあった車の元へ小走り。
「――よっす。さすが椛、見事に時間稼いでくれたねえ」
 車に寄りかかっていた優は手を上げて迎えてくれた。もう片方の手には、何か封筒が握られている。
「それは何?」
「……ストーカーやってた証拠」
 まるで汚物か何かのように苦々しげにそれを見つめた後、封筒を私に差し出す。
 それを開いてみると、中にはDVDや写真、そして二本の鍵。
 鍵とDVDは何か判別できないが、私は写真を見て、背筋が凍った。――血の気も、引いた。こんなことがあっていいのかとさえ思い、怒りが湧き出してくる。
 その写真には、日向子さんの自宅が写っていた。くつろいでいる所、食事している所。
 さらに――セックスの最中まで。

「な、によ、これ……。これが肉親の部屋から出てきたっていうの!?」
 思わず、その悲惨すぎる現実に耐え切れず、叫んでいた。その大声で、悪夢を晴らせるのではないかと思って。だが、優は小さく頷いて、帽子を深くかぶり直した。
「DVDの中にはその写真の動画が入ってる……。正直、胸糞悪くてしかたないわよ、私だって。――これを日向子さんに報告しなきゃならないのかと思うと、ね」
 確かに。それが一番気が重たい。
 ……実の親にセックスまで盗撮されていただなんて、誰が思う。そして、誰がそんな事耐えられる。赤の他人に見られるのだって耐え難いのに、それが実の親だなんて……。しかも、それはイコール……父親が殺人犯であるということだ。
 私は、日向子さんの心情を思うと、泣きそうだった。人生に絶望しても、父親を殺しても、許されるのではとさえ思ってしまう。
「……んじゃあ、行きますか。報告しに」
「そうね……」
 車に乗り込む私達。
 日向子さんの家に向かう道中、もちろんだが会話は一切なかった。エネルギーのいる作業だから、ここで余計な気力は使わないようにと、無意識で思っていたのかもしれない。


  ■


 日向子さんの家について、私達は――というか、優がすぐに『ストーカーの正体は寿丸菊太だ』と切り出した。
 ダイニングで向かい合う私達の目に、彼女の困惑と絶望は色濃く写った。
「間違いないんですか……?」
 呆然となり、口が利けない日向子さんに代わり、仲代さんが口を開いた。その表情は、日向子さん程ではないにしろ、やはり困惑が大きい。
「ええ。あまり褒められた手段ではないのですが、私は寿丸菊太さんの家に侵入し、得た証拠です……。中身は見ない方がいいかと思います。――こちらで処分しようかと思うのですが、どうでしょう」
「……お願い、できますか。きっと俺たちだと、寸前に見てしまう……」
 仲代さんが優に頭を下げた。
 優も、わかりましたと言って、頭を下げる。
「ただ……分からない点があるんです。この封筒の中に入っていた鍵、二本。おそらく一本は、この家に侵入した際の合鍵だと思うんです。親ですから、入手するチャンスはいくらでもあったと思います」
「……それは、私が父に渡した物です……」
 と、日向子さんの力のこもらない声。まるで搾り出すような囁きだ。
「父は……確かに過保護な所もありました……そして私が邪険にしてきたのも事実です……けど、その結果がこれって……そんなのあんまりじゃないですか……!! 友達まで殺すなんて、あいつは本当に人間なんですか!?」
 絶叫だった。喉が裂けるのではないか、と思うほどの声に、私は思わず怯んだ。しかし優は、「人間ですよ。でも、人間はああなったらおしまいってことです」と、彼女の怒りや絶望に巻き込まれない、大きくはないがはっきりとした声で言った。優の毅然とした態度を見て落ち着いたのか、日向子さんは押し黙る。
「……もう一本の鍵、仲代さんの実家ってことはない?」
 口を挟むタイミングだと思ったので言ってみたが、しかし非常にも、仲代さんはゆっくりと首を振った。
「ウチの実家はマンションで、ディンプルキーですから、絶対違いますよ」
 ディンプルキー(鍵の表面に凸凹がある、ピッキングに強い鍵)……。この封筒に入っていたのは、ピンタンブラー錠(一般的にイメージされる鍵。側面に凸凹がある)だから、なるほど。確かに仲代さんの家の物ではなさそうだ。それに、ディンプルキーは複製しづらいらしいし。正規のスペアならまだしも、複製はそう何本もできないだろう。
 じゃあどこの鍵だろう。きっと、ストーキングに関係してる鍵であることは間違いないんだけど……。
 ――そこまで考えていたら、突然優が「あ」と小さく口を開く。そして、
「ちょっ、椛来て!」
「え、何!?」
「お二人はここに居てください!」
 優は、封筒を持ち、私の手を引っ張ると、すぐに日向子さん達の部屋を飛び出し、マンションの廊下に出てきた。
「ちょっと何よ。急に飛び出して」
「これ、見て」
 そう言って、優は日向子さん達の部屋の右隣の扉を指差した。相変わらず、郵便物が溢れんばかりに詰まっている。
「……これがどうかした?」
「二本目の鍵、それはこの部屋の鍵よ」
「……え。なんで、どういうこと?」
「いいから。差し込んでみて、開けばそれで当たりってことなんだから」
 そう言うと、優は鍵を差し込む。すると、難なく回って、開かずの扉は開いた。
 まったく躊躇なくその中へ優が踏み込む物だから、私はそれと対照的に、恐る恐る中へ踏み込む。人がいない事もあって、薄暗い室内は、ほとんど日向子さん達の部屋と同じ間取りをしていた。
 しかし、同じなのは間取りだけで、キッチン・ダイニングに当たるそこには、おそらく盗撮していた映像が受信されるのであろう何台ものモニター。そして、辞書ほどの見慣れない黒い機械がいくつか転がっている。優はそれを拾い上げ、「盗聴器の受信機ね」と言い、床に叩きつけた。派手な音を立てて壊れる受信機に視線を奪われたが、しかしそれ以上に、好奇心が私を動かす。
「……ねえ、優。どうしてわかったの? ここが受信部屋だって」
「それは、私もぜひ教えてほしいよ」
 その声に、おそらく今もっとも聞きたくない声に、私は飛び退いた。優の隣に並んで、振り返ると、そこに立っていたのは、おそらくこの部屋の主であろう。寿丸菊太さんだった。表情はいつもの笑顔ではなく、氷の様に冷たい無表情。
「私の家から鍵を持ちだしたの、風祭さんかな? 鍵だけでなく、私の成果まで」
「あんなド汚いモン、この事件が終わったら処分するわよ。――で、この部屋が受信部屋だってわかった理由だけど……。まず、玄関のポスト。やたらにチラシが挟まってたけど。ああなるには理由が三つしかない。『滅多に帰ってこない』か『よほどの大雑把』か『チラシを取る必要がない』か。前者二つが無い場合、なぜチラシを取る必要がないか。それは、この部屋を居住以外で使ってるんじゃないか。そう思った」
「……それだけだと弱いんじゃないかな?」
 少しだけ歯を見せるように唇を歪める菊太さん。優も、それを真似するかのようにニヤリと笑う。
「二つ目は、馬島桐吾の羽振りのよさ。多分だけど、彼はあなたに雇われていた。『娘に手紙を出したいから、こっそりポストに入れておいてくれ。バレないよう変装をしてくれるとありがたい』とか、適当な事を言って、盗撮盗聴を匂わす手紙を届けさせた。
 これには、彼をスケープゴートにするという意味がある。
 多少、意味を疑うかもしれないけど、馬島桐吾はあなたの大ファンだし、その上金を積めば深くは訊かないでしょ。
 おそらく、盗聴してる時に、日向子さんと仲代さんの会話で馬島桐吾があんたのファンだって事を知り、彼を隠れ蓑にする事を思いついた。
 事実、彼は脅迫状まがいの物をポストに入れてたんだから、現行犯逮捕なんてされたら彼がストーカーであると決めてかかるのは当然。
 親がストーカーの実行犯だなんて、普通は思わないし」
「……そうか」わかってしまった。馬島さんが、殺された理由。私は、口を止めることができず、まくし立ててしまう。「私達は変装した馬島さんに、手紙の内容を喋った上、大学にまで行って、ストーカーの調査をしてると言った。そうなれば馬島さんは当然、菊太さんに『どういうことだ』って聞くだろうし、最悪すべてをバラすと言い出しても不思議じゃない」
 それに、前の事件でやったじゃないか。交友関係に外れれば逮捕はされにくい、って。同級生の親、なんて薄すぎる繋がりでは、捜査線上には上がらないだろう。
「それが、菊太さんを殺した理由。――そして最後。寿丸菊太の経済力」
「……私の経済力、だって?」
「ええ。よく知らないけど、日本を代表する名俳優なんですって? そんな煽り文句がついてるなら、娘にマンションの一室買い与えて、その隣にもう一室買うくらいは余裕だと思ったからよ。
 隣に住めば、ちょっと出かけたくらいの隙でもカメラを設置したりできるし、メリットは多い。
 休校なんかがあれば、馬島さんに報告してもらってもいいし、ね。
 どう、寿丸。あんたのやったことは、こんな所だと思うけど。
 大体、呼び出してもいないのにここまで来た段階で、言い逃れできないわよ。ここはどう見てもストーカーの部屋。
 馬島桐吾がストーカーでなかった以上――というより、馬島桐吾がこの部屋の持ち主でない限り、彼が自殺する理由がない。盗聴盗撮で迷惑をかけたとか書いてあったけど、私達が回収した盗撮カメラと盗聴器が、この部屋にデータを送っていたと証明できれば、当然部屋の契約者が怪しい。
 じゃなくても、ここに来るより、ストーカーされている娘が心配なら、普通は娘の部屋に直行するでしょうし」
「――何が目的ですか? お金かな?」
「そんなもんいらないわよ。報酬なら日向子さん達からもらってる。今一番欲しいのは、あの二人が誰にも邪魔されずに愛を囁ける場所よ」
 ポキリ。骨が鳴る音。それは寿丸菊太が発した音だった。指の骨を鳴らし、
「……私はこう見えて、柔道空手合わせて五段だ。君達二人、ここで口を封じることくらい簡単だよ」
 と言って、一歩踏み出す。
 私はさすがに耐え切れず、一歩退いてしまった。が、優は動かない。それどころか、ポケットから棒付きキャンディを取り出し、咥えてみせた。
「来るなら来てみなさいよ。根性がネジ曲がったジジイに負けるほど、探偵ってのはヤワじゃないわ」
 それを聞いた菊太さんは、優に向かって、右のストレートを放つ。
 私にとっては早すぎて目視するだけでやっとだったが、しかし優は、それを掌でたたき落として軌道を逸らす――。つまり、パーリングして、右のハイキックで菊太さんを弾き倒した。
 パーリングから追いかけるような蹴り。素人には難しいそのコンビネーションを、優は一呼吸であっさりとやってのけたのだ。
「ぐあっ――!!」
 まさか優から、あんな処刑鎌のような蹴りが飛び出すとは思ってもみなかったらしい菊太さんは、あっさりと沈んだ。床に倒れ、優を忌々しげに見上げ、「なぜ……私の邪魔をする……! 娘の幸せを願っただけなのに……!」と、まるで自分が正しい事をしている、という確信を持っているような言葉を吐く。
「あなた……日向子さんの顔を見ても、そんな事言えるわけ?」
 私は、思わず口を開いていた。感情から湧き出てくる言葉が抑えられなかったのだ。
「日向子さんはね、ストーカーを受けてて辛そうだった。しかも、それが父親だった上、友人まで殺されて、いつ心が壊れてもおかしくない状態だったのよ!? どこが幸せだって言うのよ!! あんたより、そばで支えてきた仲代さんの方がよほど日向子さんの幸せを願ってるわ!!」
 思わず怒鳴ってしまったが、私は後悔などしていなかった。こんな、娘の幸せをぶち壊すような父親、今すぐこの場から消えて欲しかったし、二度と日向子さん達の前に現れて欲しくもなかった。
「……椛」
 私が寿丸菊太を睨む表情が、どういう物だったのか。それは見ていた優と寿丸菊太本人しか知らない。その優が、私の肩に手を置いて、「とりあえず、さっさと警察呼んで、逮捕してもらいましょうか。明日の朝刊に載るわねー、日本を代表する名俳優の、寿丸菊太さん?」と、意地の悪い笑顔を見せた。



  ■報告書


 優の予言――というか、当たり前なのだけど、寿丸菊太が実の娘をストーキングし、その挙句、娘の友人まで殺して逮捕という事件は、朝刊どころかそれから一ヶ月ほどセンセーショナルな事件としてテレビにも取り上げられた。
 私はその事件の殆ど中心にいたが、日向子さん達の心情を考えたらルポなんて書けるわけがないと思っていたのだが、寿丸菊太が逮捕された後、アフターケアのような物で日向子さんの家を尋ねた時、彼女はこう言った。
『私……自分に子供ができたら、父みたいに強すぎる愛情を持って、子供の身を滅ぼしてしまわないか不安なんです。そしてそれは、きっと私以外にもいると思います。歪んだ愛情を受け、愛情を間違えてしまった人は。今回みたいな手段ではなく、暴力などで愛情を伝えようとしてしまう人が。――だから、これは間違っているんだと、藤田さんが伝えてください』
 そんな事を言われては、私は必死になってルポを仕上げた。
 彼女が感じた事、思った事。綿密な取材と、自分が体験した事を、キーボードに叩きつけた。
 結果としてそのルポは、どのメディアよりも事件を濃密に、そして痛烈に社会風刺したと言われ、ルポが載った週刊スポットは創刊史上最も売れたという。
「なーんか……。やるせないなあ……」
 人の不幸を売り物にしているようで、私は酷く落ち込んでいた。
 会社にいると、よくこんな大スクープを掴んできた。と言われて持て囃されてしまうため、甘露寺探偵事務所に逃げてきたのだ。応接セットのソファにもたれかかり、天井を見上げながら煙草を吸う。
「なにが?」
 私の向かい側に座っていた優は、私が手土産にと買ってきた、有名スイーツ店『ハッピールージュ』の看板メニュー。イチゴづくしケーキを幸せそうに食べている。イチゴが入ったスポンジにジャムをかけて、その上にイチゴを乗せるというなんともくどそうなケーキで、甘いものはそこまで得意じゃない私に取っては見るだけで胸焼けがしそうなものだが、しかし優にとって幸せの味なのか、とても笑顔だった。
「……私は今回の事件、ルポ書いてお金貰って、会社内での評価は上がったけど。それって日向子さん達の不幸があったからこそだって考えると、なんか罪悪感があってさ……」
「難しく考える事はないんじゃない。ルポ読んだけど、いい出来だったと思うし。文章に、体験した人じゃないと出せない……なんだろう。リアリティ? があったしさ」
「まあ、そりゃね……」
「それに、最後椛が言ってた、『あんたより仲代さんの方がよほど日向子さんの幸せを願ってる』って言葉。あれ、実はこっそりあたしが二人に伝えてたのよね」
「はぁ!?」
 突然の事に、私は思わず煙草を床に落としてしまった。リノリウムだったので、焦げ付いたりはしなかったが。それを拾い上げ、灰皿に突っ込んでから、
「いつの間にそんなことを……」
「いい言葉だと思ったからよ。二人はそれ聞いて、喜んでたしね。――だから、椛にルポを書いてほしいと思ったんじゃない? 椛なら、きっと自分たちの為にならないようなルポは書かないと思ったから。事実、私の目から見ても、このルポ以上に二人の事を考えてる報道は存在しない」
 ――その言葉を聞いて、気分が晴れたというより、何か憑き物が落ちたような。
 あるいは、腑に落ちたような。私は、ルポで何をしたかったのか思い出したような。そんな気分だった。
「……飲み、行きましょうか」
「え? いや、別にいいけど……。椛、仕事は?」
「いいわよ別に。取材って言ってサボるから」
「ふうん。なら、付き合うけど」
 私達二人は、そう言って事務所を出る。しっかりと戸締りを確認して、共用階段を下りながら、何事もなかったみたいに会話する。
「じゃあどこ行く? また大漁旗行ってもいいわね。あそこは昼も空いてるわよ」
「いや、今日は私の行きつけに行こう。下にあるブルーケイプって喫茶店なんだけど、酒も置いてるし料理も美味い。カクテルは――まあ、怖い物見たさで飲んでみてもいいかもね」
「じゃ、ブルーケイプにしましょうか」
 私たちはそう言って、下の喫茶店の扉を開いた。
 いいことがあったら祝い酒。嫌なことがあったら涙酒。私たちは、二人の若いカップルの幸せを、カウンターの上で祈ることにした。依頼が終わった今、もうそれしかできないのだから。
 どうか二人に、もう不幸など訪れませんように。
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七瀬楓 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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