第二部(第七~十二話)
第七話
1
私はリビングのソファに腰かけ、深いため息をついた。
非常に複雑な心境である。
非常に、非常に複雑な心境である。
先程──昼過ぎになって、先日バイトの面接を受けたパン屋から電話があった。
電話が鳴った時、私は二階の自室でひとり頭を抱えていた。電話に出た母は階下から私を呼んだが、私が返事をしなかったため、結局直接呼びに来てくれた。
「あんた聞こえないの? ほら、パン屋さんから」
「パン屋?」
「なにボケてんのよ。面接結果でしょ」
ああ、と慌てて部屋を飛び出した私の背中に、母が「頑張って」と声をかける。面接は終わっているのに、今更なにを頑張れというのか……。
電話に出ると、柔らかな印象の男性の声が聞こえた。店長さんだ。
面接結果は合格だった。
さっそく週明けから来て欲しいと言う。
店長は「細かい時間や持ち物なんかについては、また明日にでも連絡するから。とにかく今日は報告ということで、よろしくね」と言って電話を切った。
「どうだった?」
心配そうに聞く母に、私は無言でピースサインを送った。
「ああ、そう。いやあ、良かったわね」
「まあね」
「なによ、煮え切らない返事ね。ようやくニート脱出じゃない」
「うん。そうだね」
「……久し振りの仕事だから、緊張してるんじゃないの?」
「うん、ちょっとだけね」
「もう、しっかりしなさいよ。大丈夫だって。あんたずっと働いてきたんだから。バイトなんて楽勝楽勝」
「うん。ありがとう」
面接自体には手応えを感じていたので「受かるだろうな」と予測はしていた。しかし、実際に受かったとなると嬉しいものだ。確かに、久し振りに働くことへ不安や緊張は感じているが、それ以上に期待感や前向きな気持ちの方が大きい。
今、複雑な心境でいるのは、そんな理由からではない。
私はもう一度深いため息をつくと、意を決して二階の自室へと向かった。
「ああ……やっぱり、これはまずいなあ……」
自室の壁──勉強机の少し上辺りを見つめて、私はガリガリと頭を掻いた。
そこには歪な形をした穴が開いていた。
数日前に気が付いた時はまだ小さなヒビのようだったのだが、それは日に日に大きさを増していき、今朝になってついに向こうが覗ける程度の大きさまでに広がってしまったのだ。左上から右下へ斜めに向かうその穴の縦の長さは、見つけた時とあまり変わらず5センチ強といったところ。問題は横幅だ。最初は紙も通らないくらいだったが、翌日には髪の毛が通るくらい、また翌日にはボールペンの先が入るくらいと広がっていき、今は小指が入るくらいまでになっている。
私は穴を見ながら、二ヶ月前に全て塞がってしまった、あの不思議な穴のことを思い出していた。
ことの発端は、およそ四ヶ月前。
年の初めに、八年勤めた会社をいきなりやめた私は、ニート生活を満喫していた。
あれは、まだ夏が始まった頃。
部屋でひとりゴロゴロとしていた私は、うっかりベッドサイドの飲み物を倒してしまった。床に広がっていく飲み物を拭こうと、慌ててカーペットをめくると、それはそこにあった。
それは穴だった。
直径3センチほどの奇妙な穴。
シロアリにでも喰われたのかと覗き込んだ私の目に映ったのは、この世のものとは思えぬ光景だった。
穴の向こうは異世界に繋がっていたのだ。
カーペットをめくると、開いていた穴は三つ。それからしばらく後に二つ増えて、五つになった。
ニート生活に飽き始めていた私は、穴の中を夢中で覗いた。
そして起きた哀しい事件……。
その穴の中は、まるで絵本の中から飛び出したような妖精達が住む世界だった。観察していると、どうやらその世界は寒さに悩まされているように見えた(後からそれは正しかったことがわかった)。部屋に暖炉はあるのだが、火は入っていない。そこで私は、穴の中にマッチを落としてみることにした。結果……火は炎となって一人の妖精さんを襲った。火が消えた後、妖精さんが立っていた場所には黒い煤だけが残っていた……。私の浅はかさが起こした事件だった。
その後は慎重に観察を続けた。
もう同じ過ちは繰り返さないように誓った。
穴の中をよく見ていると、妖精さんの穴だけでなく、他の世界も何かしらの悩みを抱えているように見えた。私はそれを解決したいと思った。
最初に解決したのは、植物人間──と言ってしまうと不気味な感じだが、人の顔が付いた植物達が生活する『プラちゃんの穴』の世界だ。ちなみに『プラちゃん』というのは、最初に覗いた時に発見した、少女の顔をした木に私がつけた名前だ。『植物=プラント』でプラちゃん。我ながらなかなかのネーミングセンスだ。
その世界は暗闇に閉ざされていた。
木々は光を糧に生きているようだったが、それぞれの頭上に輝く光の玉は今にも消えて仕舞いそうだった。プラちゃんは他の木々から光の玉をわけてもらっていたが、その表情は沈痛で、決して充分な光が得られているようには見えなかった。
そんな時、夢中で観察していた私は、不意に拡がった穴の中に落ちてしまう。
穴の中に落ちた私はプラちゃんとコミュニケーションを取ろうと試みた。しかし上手くいかない。そこで、何とかジェスチャーで自分に敵意がないことを伝えようとしてみた。そして私が両手を広げた、その瞬間──。プラちゃんの頭上に輝いていた小さな光の玉が、私の手の動きにあわせてグングン大きくなっていったのだ。世界は、一気に光に包まれた。木々は大いに喜び、私はまるで神様のように扱われた。その後、自分の部屋に戻ると、プラちゃんの穴は綺麗に消えていたのだった。
どうやら悩みを解決すると穴が塞がる仕組みらしい。
こうして私は他の穴も次々に解決していった。『水槽の穴』に『ピンクちゃんの穴』、『洞窟の穴』そして──『妖精さんの穴』。
全てを解決したその時、穴は床の上から綺麗になくなったのだった。
穴の一つの特徴として、私以外の人物には(少なくとも母には)見ることが出来ないというものがある。
壁のヒビを発見した時、私は普通のヒビだと思って母に見せようとした。しかし、母には見ることが出来なかった。そこでこのヒビが、あの穴と同じようなものだと初めて気付いたのである。
さて、このヒビがあの穴と同じものであるとしたら、中の世界のお悩みを解決せねば塞がってはくれないだろう。
しかし……、
(床の穴と違って、何かあっちからも覗かれそうで……怖いな……)
私の頭を悩ませている一番の原因はそれだった。
さらに……、
(この向こうの世界は、時間の流れはどうなってるのかな……。バイトが決まったから、そんな何日も経っちゃうとかだとマズイよ……)
穴の向こうの世界はこちらと時間の流れ方が異なる。その世界によって速度はまちまちだが、行って帰ってくると、実感としては数十分ほどでも、こちらの世界では数時間経っている場合がある。今のところそういったことはなかったが、戻ってきたら数日経っている可能性もある。そうなると、必然的にバイトは無断欠勤だ。穴の中の世界を救っていた時と、今では状況が違うのである。
(さて、どうしたものか)
ポスターなどを貼って、見なかったふりをするという方法もある。
(でも……何か壁の穴って、あっちから覗いてきたり、もしかしたら誰か入ってきたりしそうで……いやああ、怖い。怖すぎる)
覗くのは怖いが、放置するのはもっと怖かった。
(……取りあえず、覗くだけ覗くか)
私は覚悟を決めて穴を覗くことにした。
壁の穴に目を当てるためには、机の上に乗る必要がある。お行儀悪いが仕方ない。
机の上に乗った私は左目を瞑り、右目をそっと穴に近付けた。
(見るだけ、見るだけ……)
薄い胸が、痛いくらい高鳴っている。
それが恐怖からくるものなのか、好奇心からくるものなのか、私には判断することが出来なかった。
2
穴の中の世界は、私の予想を大きく裏切るものであると同時に、言い様のない恐怖を心に植え付けた。
(……私の、部屋?)
そこは、どうみても私の部屋だった。
奥にベッドが見えるので、机側──まさに今『この』ヒビの向こう側から覗いているような形だ。
一度穴から目を離し、自分が今いる部屋を見渡してみる。
──間違いない。同じ部屋だ。
(どうして? どういうこと? え? 誰もいないよね……何か、ヤバイ、どうしよう。ものすごく……こわい……)
呼吸を整え、もう一度穴を覗いてみる。
このヒビがあの床の穴と同じものならば、お互いの部屋で立てた音は聞こえないはずだが、念のため音を立てないように注意する。
(やっぱり……私の部屋だ)
そこにあるのは、何度見ても同じ、私の部屋だ。そもそも、私が自分の部屋を見間違えるはずがない。何故ならこの部屋は、家を建てる時に壁紙から何から私が選んだ、大好きな部屋なのだから。
『平行世界』という言葉が頭に浮かんだ。
もしもこのヒビの向こうに見えているのがパラレルワールドだというのならば、そこには『もう一人の自分』がいるはずである。今は不在のようだが、いつ帰ってくるとも限らない。
(あっち側にもヒビがあるのかな? 穴の世界では、向こうから穴は見えなかったけど……もしヒビがあるとしたら、あっちからも覗いてくるかも……)
背筋が寒くなり、皮膚が泡立つのを感じた。
こことは違う世界に住んでいるとはいえ、相手は自分だ。必要以上に怯える必要はないのかも知れないが……。
(取りあえず、何か貼っておくか……)
私は机の中に入っていた適当なポストカードを手に取り、壁にテープで貼り付けた。
隙間がないよう、端までぴっちりと貼り付ける。
(これでよし、と)
近くの商店街のマスコットキャラが描かれた、いつ何処でもらったともわからないポストカードを見つめて、私は胸を撫で下ろした。
(……他のやつにすればよかった)
豚か犬かもわからないようなキャラと目が合う。剥がして他のを貼ろうか。いや、剥がすのも怖い。
(ママに何か言われそうだなあ……)
心に小さな(全く無用な)しこりを残しながら、私はひとまずベッドの上へと避難した。
(さて……どうするか)
このままヒビを放置しておくわけにはいかない。
何かしら対処をしなくてはいけない。
あの『もう一つの私の部屋』にも何か解決すべき悩みがあるのだろうか。
床の穴と同じ類いのものだとすれば、悩みを解決すれば塞がるはずだ。
しかし、そのためには向こうの世界へ行く必要があるだろう。
(……ああ、やっぱり、こわいよう)
言葉では説明出来ない、得体の知れない恐怖がまとわりつく。
床の穴の向こうで出会ったいくつかの生命体は、そのほとんどが人間とはまったく違った異形の存在だった。一度人間とそっくりなものにも出会ったが、コミュニケーションを取る前に逃げられてしまった。
前にも少し考えたことだが、化け物が突然部屋に現われるのと、人間が現われるのとではどちらの方が怖いだろうか。しかもこの場合の『人間』とは『自分と瓜二つの人間』だ。私個人としては、人間の方が怖い。どうして、と聞かれたらはっきりと答えられるような理由があるわけではないが、そう思う。
ふと、以前みた夢のことを思い出した。
──目が覚めると自分の部屋。起き上がって身支度を始めると、何か妙な違和感を覚える。自分の家なのに、まるで他人の家にいるかのような違和感……。
そこまでで夢は覚めてしまう。
妙に印象に残っていて、普段目が覚めると夢は忘れてしまう方なのだが、この夢は珍しく覚えている。何度かみた覚えがあるから、そのせいかも知れない。
もしかしたら、正夢だったのだろうか。
それとも──今も、夢の中にいるのだろうか。
(ああもう! どんどん怖い妄想入ってきちゃったぞ。ダメだダメだ。行動あるのみ)
行動に起こすならば、バイトが始まるその前の方が良いだろう。とすれば時間的な猶予はない。
(取りあえず、もう一回観察だ)
気持ちを誤魔化すために鼻歌をうたいながら、私は机の前へと向かった。
ヒビのある場所を見つめて深呼吸。
ポストカードのゆるキャラの顔が、異様に不気味に感じた。
(大丈夫。穴の中のわけわからない世界も救えたじゃないか。大丈夫。今度の相手は自分なんだから……たぶん)
喉がカラカラに渇いている。
唾液を飲み込み、ポストカードを剥がした。
さすがにヒビは拡がっていないようだ。
少しだけ、ほっとする。
私はゆっくりと机の上に乗ると、右目で穴を覗き込んだ。
さっきと変わらぬ、無人の部屋がそこにはあった。
中をよく観察してみる。
(……ん?)
見たところ、内装も家具も散らかり具合も同じなのだが、私は──まるで夢にみたように──何か違和感を覚えた。はっきりとはわからないが、何かが違って見える。それは本棚と時計のわずかな距離の違いかも知れない。あるいはドアノブの付けられた位置かも知れない。または机や椅子についた傷の深さかも知れない。とにかく、自分でなければ決して気付かないであろう部分が、ほんのわずかにだが違っているように思える。これが違和感の正体だろう。
(隣り合っているけれど、ほんのちょっとだけ違う『平行世界』……むこうの私も、自分とはちょっと違ってるのかな?)
改めて恐怖を感じると共に、好奇心が頭をもたげるのを感じた。
会ってみたい。
もう一人の自分と──。
私はさらに観察を続ける。
時計を見ると、こちらの世界と同じ時刻を指していた。電気の点いていない部屋の中は、こちらよりもちょっぴり薄暗く感じる。
(これなら向こうに行っても、時間を気にしなくて済むかな)
しかし、油断は禁物だ。安易に穴を潜るわけにはいかない。
それにしても、もう一人の私は何処に行ったのだろうか。
もしかして、私よりも先にバイトを始めているのか。その可能性はなくはない。そもそも年の初めに仕事を辞めなかった可能性もある。どの程度こちらと差があるのかが知りたいところだ。
(ううん……いったいこの世界の悩みは何なんだろう? 見ても全然わかんないよ……)
久し振りに集中して穴を覗いたせいで、少し頭が痛くなってきた。
いったん穴から目を離す。無意識に強く閉じていた左目がチカチカする。
(そうだ。誰もいないうちに、写真撮ってみようかな)
床の穴の時は、向こう側に何か影響を与えてしまうのが怖くて写真を撮ることはしなかった。しかし、今回は私の部屋と見た目は同じ世界。写真を撮るくらいならば問題ないのではないか。
(ええっと……デジカメは、と……)
机から降りて、引き出しの中を探る。
しばらく使っていなかったので、なかなか見つからない。
(あれえ、どこだ?)
あちこち探してみると、デジカメは本棚の上に見つかった。いつ、どうしてこんなところに置いたのか思い出せない。自分の物、自分の部屋だというのに、案外覚えていないものだ。むしろ、慣れ親しんだ部屋だからこそ、気付けない部分もあるのかも知れない。
私はカメラのバッテリーが残っていることを確認すると、机の上によじ登った。
写真を撮る前に、まずは誰もいないことを確認しようと穴に目を近付けた。
すると──、
「あっ!」
思わず声が出た。
幸いなことに、私の声は穴の向こうの『人物』には届かなかったようだ。
視界の奥、ベッドの上に腰かける影。
よれよれのTシャツに穴のあいたジャージといった出で立ちのその女性は、まさに私そのものだった。
1
私はリビングのソファに腰かけ、深いため息をついた。
非常に複雑な心境である。
非常に、非常に複雑な心境である。
先程──昼過ぎになって、先日バイトの面接を受けたパン屋から電話があった。
電話が鳴った時、私は二階の自室でひとり頭を抱えていた。電話に出た母は階下から私を呼んだが、私が返事をしなかったため、結局直接呼びに来てくれた。
「あんた聞こえないの? ほら、パン屋さんから」
「パン屋?」
「なにボケてんのよ。面接結果でしょ」
ああ、と慌てて部屋を飛び出した私の背中に、母が「頑張って」と声をかける。面接は終わっているのに、今更なにを頑張れというのか……。
電話に出ると、柔らかな印象の男性の声が聞こえた。店長さんだ。
面接結果は合格だった。
さっそく週明けから来て欲しいと言う。
店長は「細かい時間や持ち物なんかについては、また明日にでも連絡するから。とにかく今日は報告ということで、よろしくね」と言って電話を切った。
「どうだった?」
心配そうに聞く母に、私は無言でピースサインを送った。
「ああ、そう。いやあ、良かったわね」
「まあね」
「なによ、煮え切らない返事ね。ようやくニート脱出じゃない」
「うん。そうだね」
「……久し振りの仕事だから、緊張してるんじゃないの?」
「うん、ちょっとだけね」
「もう、しっかりしなさいよ。大丈夫だって。あんたずっと働いてきたんだから。バイトなんて楽勝楽勝」
「うん。ありがとう」
面接自体には手応えを感じていたので「受かるだろうな」と予測はしていた。しかし、実際に受かったとなると嬉しいものだ。確かに、久し振りに働くことへ不安や緊張は感じているが、それ以上に期待感や前向きな気持ちの方が大きい。
今、複雑な心境でいるのは、そんな理由からではない。
私はもう一度深いため息をつくと、意を決して二階の自室へと向かった。
「ああ……やっぱり、これはまずいなあ……」
自室の壁──勉強机の少し上辺りを見つめて、私はガリガリと頭を掻いた。
そこには歪な形をした穴が開いていた。
数日前に気が付いた時はまだ小さなヒビのようだったのだが、それは日に日に大きさを増していき、今朝になってついに向こうが覗ける程度の大きさまでに広がってしまったのだ。左上から右下へ斜めに向かうその穴の縦の長さは、見つけた時とあまり変わらず5センチ強といったところ。問題は横幅だ。最初は紙も通らないくらいだったが、翌日には髪の毛が通るくらい、また翌日にはボールペンの先が入るくらいと広がっていき、今は小指が入るくらいまでになっている。
私は穴を見ながら、二ヶ月前に全て塞がってしまった、あの不思議な穴のことを思い出していた。
ことの発端は、およそ四ヶ月前。
年の初めに、八年勤めた会社をいきなりやめた私は、ニート生活を満喫していた。
あれは、まだ夏が始まった頃。
部屋でひとりゴロゴロとしていた私は、うっかりベッドサイドの飲み物を倒してしまった。床に広がっていく飲み物を拭こうと、慌ててカーペットをめくると、それはそこにあった。
それは穴だった。
直径3センチほどの奇妙な穴。
シロアリにでも喰われたのかと覗き込んだ私の目に映ったのは、この世のものとは思えぬ光景だった。
穴の向こうは異世界に繋がっていたのだ。
カーペットをめくると、開いていた穴は三つ。それからしばらく後に二つ増えて、五つになった。
ニート生活に飽き始めていた私は、穴の中を夢中で覗いた。
そして起きた哀しい事件……。
その穴の中は、まるで絵本の中から飛び出したような妖精達が住む世界だった。観察していると、どうやらその世界は寒さに悩まされているように見えた(後からそれは正しかったことがわかった)。部屋に暖炉はあるのだが、火は入っていない。そこで私は、穴の中にマッチを落としてみることにした。結果……火は炎となって一人の妖精さんを襲った。火が消えた後、妖精さんが立っていた場所には黒い煤だけが残っていた……。私の浅はかさが起こした事件だった。
その後は慎重に観察を続けた。
もう同じ過ちは繰り返さないように誓った。
穴の中をよく見ていると、妖精さんの穴だけでなく、他の世界も何かしらの悩みを抱えているように見えた。私はそれを解決したいと思った。
最初に解決したのは、植物人間──と言ってしまうと不気味な感じだが、人の顔が付いた植物達が生活する『プラちゃんの穴』の世界だ。ちなみに『プラちゃん』というのは、最初に覗いた時に発見した、少女の顔をした木に私がつけた名前だ。『植物=プラント』でプラちゃん。我ながらなかなかのネーミングセンスだ。
その世界は暗闇に閉ざされていた。
木々は光を糧に生きているようだったが、それぞれの頭上に輝く光の玉は今にも消えて仕舞いそうだった。プラちゃんは他の木々から光の玉をわけてもらっていたが、その表情は沈痛で、決して充分な光が得られているようには見えなかった。
そんな時、夢中で観察していた私は、不意に拡がった穴の中に落ちてしまう。
穴の中に落ちた私はプラちゃんとコミュニケーションを取ろうと試みた。しかし上手くいかない。そこで、何とかジェスチャーで自分に敵意がないことを伝えようとしてみた。そして私が両手を広げた、その瞬間──。プラちゃんの頭上に輝いていた小さな光の玉が、私の手の動きにあわせてグングン大きくなっていったのだ。世界は、一気に光に包まれた。木々は大いに喜び、私はまるで神様のように扱われた。その後、自分の部屋に戻ると、プラちゃんの穴は綺麗に消えていたのだった。
どうやら悩みを解決すると穴が塞がる仕組みらしい。
こうして私は他の穴も次々に解決していった。『水槽の穴』に『ピンクちゃんの穴』、『洞窟の穴』そして──『妖精さんの穴』。
全てを解決したその時、穴は床の上から綺麗になくなったのだった。
穴の一つの特徴として、私以外の人物には(少なくとも母には)見ることが出来ないというものがある。
壁のヒビを発見した時、私は普通のヒビだと思って母に見せようとした。しかし、母には見ることが出来なかった。そこでこのヒビが、あの穴と同じようなものだと初めて気付いたのである。
さて、このヒビがあの穴と同じものであるとしたら、中の世界のお悩みを解決せねば塞がってはくれないだろう。
しかし……、
(床の穴と違って、何かあっちからも覗かれそうで……怖いな……)
私の頭を悩ませている一番の原因はそれだった。
さらに……、
(この向こうの世界は、時間の流れはどうなってるのかな……。バイトが決まったから、そんな何日も経っちゃうとかだとマズイよ……)
穴の向こうの世界はこちらと時間の流れ方が異なる。その世界によって速度はまちまちだが、行って帰ってくると、実感としては数十分ほどでも、こちらの世界では数時間経っている場合がある。今のところそういったことはなかったが、戻ってきたら数日経っている可能性もある。そうなると、必然的にバイトは無断欠勤だ。穴の中の世界を救っていた時と、今では状況が違うのである。
(さて、どうしたものか)
ポスターなどを貼って、見なかったふりをするという方法もある。
(でも……何か壁の穴って、あっちから覗いてきたり、もしかしたら誰か入ってきたりしそうで……いやああ、怖い。怖すぎる)
覗くのは怖いが、放置するのはもっと怖かった。
(……取りあえず、覗くだけ覗くか)
私は覚悟を決めて穴を覗くことにした。
壁の穴に目を当てるためには、机の上に乗る必要がある。お行儀悪いが仕方ない。
机の上に乗った私は左目を瞑り、右目をそっと穴に近付けた。
(見るだけ、見るだけ……)
薄い胸が、痛いくらい高鳴っている。
それが恐怖からくるものなのか、好奇心からくるものなのか、私には判断することが出来なかった。
2
穴の中の世界は、私の予想を大きく裏切るものであると同時に、言い様のない恐怖を心に植え付けた。
(……私の、部屋?)
そこは、どうみても私の部屋だった。
奥にベッドが見えるので、机側──まさに今『この』ヒビの向こう側から覗いているような形だ。
一度穴から目を離し、自分が今いる部屋を見渡してみる。
──間違いない。同じ部屋だ。
(どうして? どういうこと? え? 誰もいないよね……何か、ヤバイ、どうしよう。ものすごく……こわい……)
呼吸を整え、もう一度穴を覗いてみる。
このヒビがあの床の穴と同じものならば、お互いの部屋で立てた音は聞こえないはずだが、念のため音を立てないように注意する。
(やっぱり……私の部屋だ)
そこにあるのは、何度見ても同じ、私の部屋だ。そもそも、私が自分の部屋を見間違えるはずがない。何故ならこの部屋は、家を建てる時に壁紙から何から私が選んだ、大好きな部屋なのだから。
『平行世界』という言葉が頭に浮かんだ。
もしもこのヒビの向こうに見えているのがパラレルワールドだというのならば、そこには『もう一人の自分』がいるはずである。今は不在のようだが、いつ帰ってくるとも限らない。
(あっち側にもヒビがあるのかな? 穴の世界では、向こうから穴は見えなかったけど……もしヒビがあるとしたら、あっちからも覗いてくるかも……)
背筋が寒くなり、皮膚が泡立つのを感じた。
こことは違う世界に住んでいるとはいえ、相手は自分だ。必要以上に怯える必要はないのかも知れないが……。
(取りあえず、何か貼っておくか……)
私は机の中に入っていた適当なポストカードを手に取り、壁にテープで貼り付けた。
隙間がないよう、端までぴっちりと貼り付ける。
(これでよし、と)
近くの商店街のマスコットキャラが描かれた、いつ何処でもらったともわからないポストカードを見つめて、私は胸を撫で下ろした。
(……他のやつにすればよかった)
豚か犬かもわからないようなキャラと目が合う。剥がして他のを貼ろうか。いや、剥がすのも怖い。
(ママに何か言われそうだなあ……)
心に小さな(全く無用な)しこりを残しながら、私はひとまずベッドの上へと避難した。
(さて……どうするか)
このままヒビを放置しておくわけにはいかない。
何かしら対処をしなくてはいけない。
あの『もう一つの私の部屋』にも何か解決すべき悩みがあるのだろうか。
床の穴と同じ類いのものだとすれば、悩みを解決すれば塞がるはずだ。
しかし、そのためには向こうの世界へ行く必要があるだろう。
(……ああ、やっぱり、こわいよう)
言葉では説明出来ない、得体の知れない恐怖がまとわりつく。
床の穴の向こうで出会ったいくつかの生命体は、そのほとんどが人間とはまったく違った異形の存在だった。一度人間とそっくりなものにも出会ったが、コミュニケーションを取る前に逃げられてしまった。
前にも少し考えたことだが、化け物が突然部屋に現われるのと、人間が現われるのとではどちらの方が怖いだろうか。しかもこの場合の『人間』とは『自分と瓜二つの人間』だ。私個人としては、人間の方が怖い。どうして、と聞かれたらはっきりと答えられるような理由があるわけではないが、そう思う。
ふと、以前みた夢のことを思い出した。
──目が覚めると自分の部屋。起き上がって身支度を始めると、何か妙な違和感を覚える。自分の家なのに、まるで他人の家にいるかのような違和感……。
そこまでで夢は覚めてしまう。
妙に印象に残っていて、普段目が覚めると夢は忘れてしまう方なのだが、この夢は珍しく覚えている。何度かみた覚えがあるから、そのせいかも知れない。
もしかしたら、正夢だったのだろうか。
それとも──今も、夢の中にいるのだろうか。
(ああもう! どんどん怖い妄想入ってきちゃったぞ。ダメだダメだ。行動あるのみ)
行動に起こすならば、バイトが始まるその前の方が良いだろう。とすれば時間的な猶予はない。
(取りあえず、もう一回観察だ)
気持ちを誤魔化すために鼻歌をうたいながら、私は机の前へと向かった。
ヒビのある場所を見つめて深呼吸。
ポストカードのゆるキャラの顔が、異様に不気味に感じた。
(大丈夫。穴の中のわけわからない世界も救えたじゃないか。大丈夫。今度の相手は自分なんだから……たぶん)
喉がカラカラに渇いている。
唾液を飲み込み、ポストカードを剥がした。
さすがにヒビは拡がっていないようだ。
少しだけ、ほっとする。
私はゆっくりと机の上に乗ると、右目で穴を覗き込んだ。
さっきと変わらぬ、無人の部屋がそこにはあった。
中をよく観察してみる。
(……ん?)
見たところ、内装も家具も散らかり具合も同じなのだが、私は──まるで夢にみたように──何か違和感を覚えた。はっきりとはわからないが、何かが違って見える。それは本棚と時計のわずかな距離の違いかも知れない。あるいはドアノブの付けられた位置かも知れない。または机や椅子についた傷の深さかも知れない。とにかく、自分でなければ決して気付かないであろう部分が、ほんのわずかにだが違っているように思える。これが違和感の正体だろう。
(隣り合っているけれど、ほんのちょっとだけ違う『平行世界』……むこうの私も、自分とはちょっと違ってるのかな?)
改めて恐怖を感じると共に、好奇心が頭をもたげるのを感じた。
会ってみたい。
もう一人の自分と──。
私はさらに観察を続ける。
時計を見ると、こちらの世界と同じ時刻を指していた。電気の点いていない部屋の中は、こちらよりもちょっぴり薄暗く感じる。
(これなら向こうに行っても、時間を気にしなくて済むかな)
しかし、油断は禁物だ。安易に穴を潜るわけにはいかない。
それにしても、もう一人の私は何処に行ったのだろうか。
もしかして、私よりも先にバイトを始めているのか。その可能性はなくはない。そもそも年の初めに仕事を辞めなかった可能性もある。どの程度こちらと差があるのかが知りたいところだ。
(ううん……いったいこの世界の悩みは何なんだろう? 見ても全然わかんないよ……)
久し振りに集中して穴を覗いたせいで、少し頭が痛くなってきた。
いったん穴から目を離す。無意識に強く閉じていた左目がチカチカする。
(そうだ。誰もいないうちに、写真撮ってみようかな)
床の穴の時は、向こう側に何か影響を与えてしまうのが怖くて写真を撮ることはしなかった。しかし、今回は私の部屋と見た目は同じ世界。写真を撮るくらいならば問題ないのではないか。
(ええっと……デジカメは、と……)
机から降りて、引き出しの中を探る。
しばらく使っていなかったので、なかなか見つからない。
(あれえ、どこだ?)
あちこち探してみると、デジカメは本棚の上に見つかった。いつ、どうしてこんなところに置いたのか思い出せない。自分の物、自分の部屋だというのに、案外覚えていないものだ。むしろ、慣れ親しんだ部屋だからこそ、気付けない部分もあるのかも知れない。
私はカメラのバッテリーが残っていることを確認すると、机の上によじ登った。
写真を撮る前に、まずは誰もいないことを確認しようと穴に目を近付けた。
すると──、
「あっ!」
思わず声が出た。
幸いなことに、私の声は穴の向こうの『人物』には届かなかったようだ。
視界の奥、ベッドの上に腰かける影。
よれよれのTシャツに穴のあいたジャージといった出で立ちのその女性は、まさに私そのものだった。
第八話
1
(良かった……もう一人の私もニートみたい……)
と、何より先に思った。まったく、そんなことで安心してどうするのだ。いやいや、気が動転していたのだ。たぶん。
リラックスした様子でベッドに腰かけるその人物は、服装から顔からだらだら具合まで、寸分違わぬ『私自身』だった。
……こうして客観的に見てみると、何てだらしない姿なのだろう。
もしかして、私も何処かから『別の私』に観察されているのだろうか?
だとしたら……もう少しきちんとした生活を心掛けよう。バイトも始めるしね。うん。
私という『観察者』がいることにも気付かず、もう一人の私はベッドに横になると漫画を読み始めた。頼む、少しはしゃっきりしてくれ。
(あ、そうだカメラ……どうしよう、大丈夫かな……)
このヒビも床の穴と同じで、お互いの音は聞こえないらしい。シャッター音に気付かれることはないだろう。しかし、フラッシュはどうだろうか。焚かなくても撮れるとは思うが、薄暗いのにもかかわらず向こうの私が電気を点けようとしないので、綺麗に撮れるかどうか不安だ。
(もう、そんな暗い中で漫画なんか読んで……目が悪くなるぞ、私)
そういう私も部屋の明かりは点けていない。四時を過ぎた部屋の中は、こちらも充分に薄暗い。
(しょうがない、取りあえずフラッシュは焚かずに撮ってみるか)
私は一度呼吸を整えてから、カメラを構えた。モニターで確認しながら、レンズを穴に近付ける。良かった。どうやら写真に写らないということはなさそうだ。ということは、あちらからの光はこちらの世界に入ってきているということか。難しいことはわからないが、きっとそういうことなのだろう。
必要以上に力を入れてシャッターを切る。カシャ、っと軽い音がして、画像はカメラに保存された。モニター越しに見る限り、向こうにシャッター音は聞こえなかったようだ。『私』は先程までと同じ姿勢で漫画を読んでいる。
画像が保存されているかを確認すると、デジカメの中にはきちんと、情けない私の姿が記録されていた。
ゆっくりとカメラを机の上に置き、ポストカードを元通り貼り付けた。
(しまった……他のやつにすれば良かった)
例のゆるキャラと目が合って気付く。
しょうがない、取りあえずはこのままにしておくとしよう。
(……そうだ)
机から降りた私はふと思い立ち、机の上にその辺にあった物で即席の三脚を作った。その上にデジカメを置く。高さは壁のヒビと同じくらいだ。ここから私の部屋を撮影して、向こうとの違いを見比べて見ることにしよう。
デジカメのタイマーをセットし、私はベッドに飛び乗った。
同じ姿勢で撮影する必要はないかも知れないが、念のため、だ。
適当な漫画を掴んで寝転ぶと、小気味の良いシャッター音が聞こえた。
よし、確認してみよう。
(……うわあ)
撮れた写真を見て、思わず引いてしまった。
(何て……だらしのないかっこしてるんだ、私は……)
向こうの私と同じくよれよれのシャツに、ぼろぼろのジャージ。髪はボサボサで、もちろん化粧はしていない。こんな人間が、本当に来週から働くことが出来るのか疑問である。
(まあ、それはおいといて、と)
私はデジカメをパソコンに繋ぐと、今撮った二枚の写真を印刷してみた。
モニターでも確認出来るが、こういう時はきちんと印刷して見比べた方が良いだろう。
動作の遅いパソコンにいらつきながらも、無事に写真を印刷した私はベッドに腰かけた。いつもなら机に向かうところだが……今はまだちょっと、その勇気はなかった。
改めて見比べると、細かい差違が見て取れた。
(ああ、やっぱり時計の位置が少し……ドアノブも気持ち上だな。あ、あと本棚の本の並びが少しだけ違う……持ってる本は一緒か……)
ここに、向こうの世界の悩みが隠れているのだろうか。
こうしていると、何だか間違い探しをしているように思えて、少しおかしかった。
(ううん、やっぱりわからないなあ……おおい、何に悩んでるんだあ、私)
結局、写真を見ても何も情報を得ることは出来なかった。
わかったことといえば、自分のだらしなさくらいのものだ。
(仕方ない……穴を覗いて、観察を続けるしかないか……)
私は小さくため息をつくと写真をベッドの上に投げ出し、机の方へと向かった。
貼ったり剥がしたりを繰り返したせいで、壁のポストカードは触っただけで落下した。
──よし、これで心置きなく別のカードに変えられる。
私は穴を覗くより先に別のカードを用意すると、周りにテープを貼り付けて準備をしておいた。今度は名画がプリントされたやつだ。特別好きな絵というわけではないが、さっきまでよりはずっと良い。あのキャラは、もう見たくない。
(そもそもあのキャラは何なの? 犬? 豚? 頭に釘ってどんなセンスよ)
未だ消せない恐怖心を怒りで誤魔化しながら、私は再びヒビの向こうを覗き込んだ。
視線の先には、何か悩ましげな表情で部屋の真ん中に立ち尽くす『私』の姿があった。口元に手を当て、足下を見つめている。見るからに悩んでいる様子だ。
(おお。これは大ヒントじゃないか? さあ、何を悩んでるんだ、私)
いくらもう一人の自分とはいえ、心の中まではわからない。普段、自分の表情を観察する機会などないから、表情から意図を読み取ることも難しい。あるいは母なら可能かも知れないが……。
仕方がないので、むつかしい顔をして足下を見つめる『私』の視線を追ってみる。床に敷かれたカーペットの上に、特に気になるものはない。
(まあ、カーペットを汚した悩みとかで異世界と繋がってたらたまったもんじゃないもんね。そんな単純なわけないか)
ではいったい何を悩んでいるのだろう。
仕事か。
家族か。
それとも恋愛──いや、それはないか。それはないだろうな。うん。
あと考えられるのは……仕事か。
もしかしたら新しい仕事がなかなか見つからないとか?
しかし、それならば何故、こんな風に部屋の真ん中に突っ立っているのか。
あんな風にして、いったい何を見つめているのか。
床の上……。
もしかして──。
その時、『私』が視線を落としたまま床の上を見渡すような仕草をした。
一通り見て、ため息をつく。
間違いない。やっぱり悩みは床の上にあるのだ。
床の上にあって、悩ましいもの。
それは、私には一つしか思い当たらない。
(穴……きっと穴が空いてるんだ!)
視線の先で『私』が少し移動する。カーペットから降り、しゃがみ込む。そして、おそるおそるカーペットに手をかけ、ゆっくりとそれをめくり始めた。
その様子を、私は息を飲んで見つめた。
(穴が空いてるとしたら……行かなかったんだ。何もしなかったんだ。もう一人の私は……)
鼓動が高鳴り、息が苦しくなる。どうしてだろうか。
ヒビの向こう側で『私』が思い切ったように、一気にカーペットを床から剥がした。
するとそこには──、
(いち、にい、さん……しい、ご……え? ろく……しち……)
見える範囲では、全部で七つの──あの懐かしい──穴が空いていた。
(七つ? うそ。私の時より、多い……)
あの穴の先には、私が体験したのと同じ世界が広がっているのだろうか。だとすれば、五つの攻略は楽勝だ。
しかし……。
(新しい穴がふたつ……)
新たな穴は部屋の入口近くにひとつと、部屋の真ん中──あれは『洞窟』の穴か──から少し机側寄りにひとつ。
(もしかして……)
私は慌てて壁から顔を離すと、机の上から飛び降りた。
そして、勢いよく自分の部屋のカーペットをめくった。
(ないか……そう、そうだよね)
そこに、穴はなかった。
(どうして、あっちにだけ?)
解決して、塞ごうとしなかったせいなのか。それとも別の理由によるものなのか。何にせよ……少し、羨ましいと思った。それと同時に、私の心の中でムクムクと好奇心が膨らむのを感じた。
また、ピンクちゃんやプラちゃん、妖精さんに会える。
また、あの美しい景色が見られる。
また、新しい世界に出会える。
また、穴の中へ……。
(ああ、いかんいかん)
わくわくしている場合ではない。
バイトが始まる来週までに、私はこの状況を何とかしなくてはいけないのだ。
私は気合いを入れ直すと、再び机によじ登った。
2
さて。悩んでいる様子の『もう一人の私』を見つめながら、私は頭をひねった。
あちらの『私』が床の穴を攻略出来ずに困っているとして、もしあの穴の中の世界(少なくとも七つのうち五つ)が私の部屋にあった穴と同じ世界に通じているのならば、攻略方法を伝えることは極めて容易い。新しい二つの穴に関しては未知数だが「たぶん大丈夫」という根拠のない自信もある。
問題は、どうやって『私』とコミュニケーションを取るか、ということだ。
向こうの世界に行くことは可能だろうが、おそらく物凄く驚かせてしまうだろう。今ここに突然ドッペルゲンガーが現われたなら、私なら気絶する自信がある。第一、全ての穴を塞ぐまでこっちに戻れないのだとしたら、私にはそんな時間はない。異世界の平和よりも、今は目先のバイトの方が大事だ。手分けして救えば早いのかも知れないが、この方法は却下せざるを得ない。
では何かに攻略法を書いて、穴を通して渡すか。これなら実際に行くよりは驚かせないで済むかも知れない。
(でも……信じてくれるかな?)
突然そんな『自分からの手紙』を目の当たりにしても、不気味がられるだけかも知れない。誰かのいたずら(もちろん思い当たる『犯人』などいないが)だと思うかも知れない。
(とすれば……動画かな……)
家の何処かに、テープに記録するタイプのビデオカメラがあったはずだ。デジカメでも動画は撮れるが、メモリーカードよりテープの方が安価で良い。
(テープってどれくらいの大きさだっけ……通るかな、ここ……)
ヒビの大きさを確かめる。
──どことなく、また広がったような気がする。これなら通るだろう。たぶん。
(ビデオでも充分不気味だけど、実際に行くよりは驚かないだろうし、手紙よりは信じてもらえるよね。うん、私なら、たぶん、きっと……)
正直、まったく自信はないが、私はビデオカメラを探すことにした。
「ねえ、ママ。ビデオカメラってどこにあったっけ?」
自分の部屋にも、物置と化している一階の部屋の中にもカメラは見当たらず、私は居間でくつろぐ母に声をかけた。
「ビデオ? ビデオってデジカメのこと?」
「ううん。テープのやつ。まだ捨ててないよね?」
「捨てられないから、うちの中には物があふれてるのよね」
「確かに……で、カメラは?」
「あたしらの部屋かな……あとで探しとくわよ」
「出来れば今日中にお願い」
「今日中って……あんた何に使うのよ。デジカメじゃダメなの? あれだって動画撮れるでしょ?」
「テープが良いの、テープが」
「変なことに使うんじゃないでしょうね?」
「変なことってなによ、それ」
「あんた聞く? それ」
「ああもう。良いでしょ、お願い」
こんな時、適当な理由を話せれば良いのだが、私はどうも嘘や誤魔化しが苦手だ。正直と言えば聞こえは良いが、実際のところは単に頭の回転が遅いのだろう。
「わかったわよ。探しとくけど、たぶん空いてるテープはないわよ」
「了解。買いに行ってきます」
私は部屋に戻り、財布を引っ掴むと、秋晴れの町へと飛び出した。
外は風が心地良く、思わずこのまま散歩したい気分だった。
木陰に入ると少し肌寒い。私は傾き始めた陽で薄く色づいた道を歩く。
近頃ぐっと陽が短くなった。
秋も冬も、夏と比べればずっと好きだ。
今年は雪が降るだろうか。
そんなことを考えながら歩くと、あっというまに近くのコンビニへと到着した。
(ええっと……テープ、テープ……)
通い慣れた店だ。売り場の位置は大体把握している。
レジの前を通り過ぎ、目的の棚に近付いた。
その時、
「あ! えー、うそ―、ひさしぶり! ねえ、私、私。わかる?」
ふいに声を掛けられ、私は驚きながら振り返った。
「元気? えー、いつぶりだろう」
それは高校の時の友達だった──たぶん。化粧や服装が高校時代とは違って少し……あ、いや、かなり派手になっているので別人のようだが、面影がある。それにこの喋り方……。間違いない。間違いなくあの子なんだけど──ええっと、名前は……何だっけ?
「こ、高校卒業して以来、じゃないかな?」
「えー、そうだよねー。やだー」
嫌なら声を掛けるな、と思ったが顔には出さない。
──っていうか、私、この子とこんなに親しかったっけ?
「ねえねえ、何してるの?」
……こういった大雑把な質問が一番困るということを、この女はわからないのだろうか。
「……働いてるよ」
「だよねー」
何だよ。だよね、って。
「え、じゃあさじゃあさ、結婚は?」
……同窓会じゃないんだぞ。ここはコンビニだぞ。いきなりそんなこと聞くか、普通。
「まだ、だけど」
「そっかー。私もー」
「ああ……そう……」
「ねえねえ、このあとヒマ? すっごい偶然だからー、お茶しようよー」
「え、え、これから?」
ちょっと待て、展開が早すぎる。それに今の私の服装を見ろ。このコンビニまでがギリギリの格好だろう。
「えっと……」
「あ、もしかして忙しい感じ?」
「う、うん……」
「じゃあ、今度にしよっか。連絡先教えてー」
「あ、はい」
何故か敬語になってしまった。
「──よし、っと。じゃ、連絡するから。じゃあねー」
「じゃ、じゃあねえ……」
こうして、嵐のように現われた彼女は、嵐のように去って行った。
(何だったんだ、今のは……)
後には呆然とした私が一人、店員の視線を痛いほど浴びながら残されたのだった。
ああ……頭が痛い。
(一気に疲れた……取りあえず。テープを買って帰ろう)
私は目当てのテープを手に取ると、俯きがちにレジへと向かったのだった。
(さて、と)
部屋に帰った私は、高校の時の卒業アルバムを本棚から引っ張り出した。
(ええっと……あ、いたいた。この子だ)
先程コンビニで会ったあの子は、私の隣のクラスのページで微笑んでいた。
(同じクラスだったのって、一年の時だっけ……ちょっと苦手なタイプの子だけど、私のこと、覚えててくれたんだなあ……私なんか名前も忘れちゃって、ダメだなあ)
写真の下に書かれた名前を反芻しながら、私は高校時代の思い出に少しだけ浸った。
しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。
私にはのんびりしている時間などないのだ。
(ま、あの子のことは置いといて──ビデオ、撮るか)
ビデオは既に三脚を立ててセッティング済みだ。
ヒビの向こうにいる『もう一人の私』に送るメッセージビデオを作成しなくては。
(でも……どんな風に切り出そう。まずは「初めまして」かな? いや、自分相手に「初めまして」はおかしいか。なら最初は「驚かないで聞いて」とかかな? おお、何かすごいSFっぽいセリフだな。うん、出だしは決まりだな)
机に向かうとどうしてもヒビが気になるのでベッドに腰掛けた私は、穴について書き記したノートを膝の上に広げた。
(次は、穴の説明だな。たぶん、あっちの私は何にもわかってなさそうだったから、きちんと説明しないと……)
ノートには、以前私が体験した五つの穴の世界についてと、穴そのものについてのこととがスケッチと供に詳しく書いてある。これを全て喋って説明したら一時間近くかかってしまうだろう。
(それなら、とりあえずビデオで事情だけ説明して、わかってくれたらノートのコピーを渡そうかな。その方が良いよね。そんないきなり全部説明されても飲み込めないよね)
ノートを閉じ、ベッドから軽やかに飛び降りる。
(よし! では、やりますか……、とその前に)
私は着ていた部屋着を脱ぎ捨てると、クローゼットへと向かった。
(いや、まあ、無駄な見栄だとは思うんだけどね。うん。でもね、ほら、身だしなみは重要だよね。うんうん、大事、大事)
こうして、何故か下着から念入りに選び出した自分を心の隅で哀れに思いながら、私はビデオ撮影の支度を始めたのだった。
3
三十分ほどで着替えと化粧を済ませた私は、まずはデジカメを使ってリハーサルを行うことにした。
ビデオレターは初体験。しかも送る相手は自分だ。どんな口調、どんな声色で喋るのが良いだろうか。
(あんまり深刻な感じも良くないかな……、とはいえ軽い感じも何だか不気味……。ううむ、意外と難しいなあ)
色々考えたところで上手くイメージがまとまらない。こういう時はやってみるしかないだろう。
デジカメを動画モードに切り替えてからベッドの縁に置き、私は床に座った。
(……姿勢はどうしよう。正座? それとも、椅子に座った方が良いかな。まあ、良いか。とりあえず、正座しとけば問題ないでしょ)
録画ボタンを押し、姿勢を正す。
(き、緊張するなあ。いかんいかん、リラックスしないと)
私は努めて柔らかな表情を作ると、咳払いをひとつしてから話し始めた。
「え、ええと……何だっけ……。あ、そうだ。お、驚かないで聞いて下さい」
(自分相手に敬語っておかしいかな?)
「お、驚かないで聞いてね。私は……私はあなた……違う、これじゃ意味不明だ。ええと、私は……。そう! 私は別の世界のあなたです」
これは思った以上に前途多難である。
私はいったんデジカメの停止ボタンを押した。
「はああああ、緊張したあ」
足を崩して後ろに手をつき、大きく息を吐く。そして目を閉じ、息を整えてから、私はデジカメを手に取った。
(よし、今撮ったのを見てみるか。一応)
再生ボタンを押す。
『え、ええと──』
(良かった、ちゃんと映ってる)
『お、驚かないで聞いて下さい。──驚かないで聞いてね。私は……私はあなた……』
……私は静かに停止ボタンを押した。
(これは……想像以上に喋れてないぞ。しかも緊張で変な顔……)
このままでは、いつまで経ってもまともな映像は撮れそうにない。
(そうだ、台本。台本を書こう)
ベッドの上に投げ出してあるノートと、サイドのテーブルの上からペンを手に取ると、私は一番後ろのページに台本を書き始めた。
(まずは「驚かないで聞いて。私は別の世界のあなたです」ここまでは良いぞ。で、次は……「今あなたは、その床に空いた穴のことで困っているのだと思います」こんな感じかな)
悩んでは消し、悩んでは消しを繰り返しながら書いていく。内容だけ見ると、全く現実味がない。まるで小説でも書いているかのような気分だ。しかし、そのお陰でいくらか落ち着いてきた。
(「私の部屋にも数ヶ月前、同じように床に穴が現われました。そして……」そして、世界を救ったんだけど……いきなりそんなこと言ったら信じてもらえないかなあ。自分だったら信じるかどうか、だよね。あ、それなら「穴を塞ぐ方法を私は知っています」この方が良いかな)
ここでひとまずペンを置き、私はもう一度練習してみることにした。
髪をちょっと整え、デジカメに向かう。
「──驚かないで聞いて。……信じられないと思うけど、私は別の世界のあなたです。今あなたは、その床に空いた穴のことで困っているのだと思います」
台本のお陰で、さっきとは別人のようにすらすらと話せる。
「私の部屋にも数ヶ月前、同じようにその不思議な穴が現われました」
意識的に、一呼吸置く。
そして、少し真剣な表情を作って、
「私は、その穴を塞ぐ方法を知っています」
──完璧だ。
少し腰を浮かせて停止ボタンを押すと、私は興奮した気持ちで再生ボタンを押した。
(──うん、よし、完璧。女優だなあ、私。さて、この続きはどうしよう)
この段階であれこれ説明せずに、ひとまずコミュニケーションのきっかけを作ることが今回の目的である。と、すると……。
(「もしその方法が知りたかったら、机の向かいの壁に『OK』と書いた紙を貼り付けて下さい」とかどうだろう。これじゃ、机の壁の方から見てるってわかっちゃうかな。それともこっちから見てるって言っちゃった方が良いかな? いや、それは次に話した方が良いか……。ううむ、悩むなあ)
このテープだけでも充分怖いだろうに、その上部屋の中を覗かれているなんてわかったら……。私なら逃げ出しかねない。
(よし、あんまりよけいなことは言わないようにしよう。じゃあ、この続きは……。「いきなりこんな話をされて怖いかも知れないけど、心配しないでください」こんな感じかな……。言い訳くさいけど)
台本はこれくらいで良いだろう。もう緊張はしていない。後はアドリブで何とかなるはずだ。
(よし。じゃあ本番いくか。本番)
私は気合いを入れて立ち上がると、ビデオカメラの前に立った。
(どの辺に置くのが良いかな。部屋の中の様子がわかった方が良いよね。一発で、自分の部屋ってわかるように)
カメラを覗きながら何度も位置を調節する。床に座って撮るよりも、椅子に座った方が良さそうだ。椅子の高さもカメラに合わせ調節する。
(よし。ここでいこう)
さあ、カメラの位置は決まった。服は着替えた、化粧もした。話す内容も決まったし、肩の力も抜けている。
(では、いざ本番!)
私は小さく咳払いをすると、録画ボタンに手を伸ばした。
「──驚かないで聞いて。信じられないと思うけど、私は別の世界のあなたです。今あなたは、その床に空いた穴のことで困っているのだと思います。私の部屋にも数ヶ月前、あなたの部屋と同じように、その不思議な穴が現われました。……私は、その穴を塞ぐ方法を知っています。もしその方法が知りたかったら、机の向かいの壁に『OK』と書いた紙を貼り付けて下さい。穴を塞ぐ方法を教えます。いきなりこんな話をされて怖いかも知れないけど、心配しないでください。私も最初は怖かったけど、その穴が何なのか、どうすれば良いのかがわかれば、決して怖いものではないから。……それでは、お返事待ってます」
──どうよ。
上手くいったんじゃないの?
「よし! 良い感じに言えたぞ!」
椅子から立ち上がり、ビデオを手に取る。
(あ、しまった。停止させてなかった)
慌てて停止ボタンを押す。
(さあ、これで後はこのテープを壁の向こうに送るだけだ)
テープをカメラから取り出すと、私は机の方へ視線を移した。
今はポストカードで塞いであるが、その向こうにはあの不思議なヒビがあるはずだ。そして、その中にはもう一人の自分が……。
忘れていた緊張感が、どこからともなく湧き上がってくる。
(いかんいかん。びびってるヒマはないぞ。ええと……テープにラベルとか貼った方が良いかな。それとも封筒とかに入れる?)
封筒だと、ぱっと見何か気付きづらいかも知れない。
取りあえずラベルに『私へ』とだけ書き、その横に日付も添えてみた。
(……これで、大丈夫かな)
妖精さんの穴の時の記憶がふっと過ぎる。
(大丈夫。絶対に大丈夫)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
机の方──ヒビのある壁の方へゆっくりと近付く。
一歩、二歩。
覚悟を決める間もなく到着。
気持ちを落ち着けるために、何度か深呼吸をして、ついでに伸びをして肩をほぐした。
(大丈夫、大丈夫)
もう一度心の中で唱えると、私は机によじ登り、ヒビを覆うポストカードに手を伸ばした。カードは、ほとんど抵抗も感じずに剥がれた。
ヒビは、やはり少しだけ大きくなっているようだ。
そっとテープを穴にあてがってみる。
大きさは大丈夫そうだ。
(誰もいないかな? 誰もいない時の方が良いよね)
いたずらに驚かせたくはない。
穴に顔を寄せ、『向こう側』を覗いてみる。
どうやら誰もいないようだ。
(……ええい! いっけえ!)
私は思いきってテープをヒビへと押し込んだ。
ぱっ、と手を放す。
(……いったか?)
無意識に閉じていた目を恐る恐る開き、再び『向こう側』を覗く。
テープは、机の上に転がっていた。
(大丈夫そう、だね。良かった……、爆発とかしなくて)
ほっと胸を撫で下ろし、机から降りる。
まずは成功といったところか。
(……あ)
気持ちが落ち着いてきて、ふと気が付いた。
(撮り終わってはしゃいでるとこまで映ってるんじゃないか?)
しかし、時すでに遅し。
確認しようにもテープはもう穴の向こう側。
私はその場に座り込むと、大きなため息をついたのだった。
1
(良かった……もう一人の私もニートみたい……)
と、何より先に思った。まったく、そんなことで安心してどうするのだ。いやいや、気が動転していたのだ。たぶん。
リラックスした様子でベッドに腰かけるその人物は、服装から顔からだらだら具合まで、寸分違わぬ『私自身』だった。
……こうして客観的に見てみると、何てだらしない姿なのだろう。
もしかして、私も何処かから『別の私』に観察されているのだろうか?
だとしたら……もう少しきちんとした生活を心掛けよう。バイトも始めるしね。うん。
私という『観察者』がいることにも気付かず、もう一人の私はベッドに横になると漫画を読み始めた。頼む、少しはしゃっきりしてくれ。
(あ、そうだカメラ……どうしよう、大丈夫かな……)
このヒビも床の穴と同じで、お互いの音は聞こえないらしい。シャッター音に気付かれることはないだろう。しかし、フラッシュはどうだろうか。焚かなくても撮れるとは思うが、薄暗いのにもかかわらず向こうの私が電気を点けようとしないので、綺麗に撮れるかどうか不安だ。
(もう、そんな暗い中で漫画なんか読んで……目が悪くなるぞ、私)
そういう私も部屋の明かりは点けていない。四時を過ぎた部屋の中は、こちらも充分に薄暗い。
(しょうがない、取りあえずフラッシュは焚かずに撮ってみるか)
私は一度呼吸を整えてから、カメラを構えた。モニターで確認しながら、レンズを穴に近付ける。良かった。どうやら写真に写らないということはなさそうだ。ということは、あちらからの光はこちらの世界に入ってきているということか。難しいことはわからないが、きっとそういうことなのだろう。
必要以上に力を入れてシャッターを切る。カシャ、っと軽い音がして、画像はカメラに保存された。モニター越しに見る限り、向こうにシャッター音は聞こえなかったようだ。『私』は先程までと同じ姿勢で漫画を読んでいる。
画像が保存されているかを確認すると、デジカメの中にはきちんと、情けない私の姿が記録されていた。
ゆっくりとカメラを机の上に置き、ポストカードを元通り貼り付けた。
(しまった……他のやつにすれば良かった)
例のゆるキャラと目が合って気付く。
しょうがない、取りあえずはこのままにしておくとしよう。
(……そうだ)
机から降りた私はふと思い立ち、机の上にその辺にあった物で即席の三脚を作った。その上にデジカメを置く。高さは壁のヒビと同じくらいだ。ここから私の部屋を撮影して、向こうとの違いを見比べて見ることにしよう。
デジカメのタイマーをセットし、私はベッドに飛び乗った。
同じ姿勢で撮影する必要はないかも知れないが、念のため、だ。
適当な漫画を掴んで寝転ぶと、小気味の良いシャッター音が聞こえた。
よし、確認してみよう。
(……うわあ)
撮れた写真を見て、思わず引いてしまった。
(何て……だらしのないかっこしてるんだ、私は……)
向こうの私と同じくよれよれのシャツに、ぼろぼろのジャージ。髪はボサボサで、もちろん化粧はしていない。こんな人間が、本当に来週から働くことが出来るのか疑問である。
(まあ、それはおいといて、と)
私はデジカメをパソコンに繋ぐと、今撮った二枚の写真を印刷してみた。
モニターでも確認出来るが、こういう時はきちんと印刷して見比べた方が良いだろう。
動作の遅いパソコンにいらつきながらも、無事に写真を印刷した私はベッドに腰かけた。いつもなら机に向かうところだが……今はまだちょっと、その勇気はなかった。
改めて見比べると、細かい差違が見て取れた。
(ああ、やっぱり時計の位置が少し……ドアノブも気持ち上だな。あ、あと本棚の本の並びが少しだけ違う……持ってる本は一緒か……)
ここに、向こうの世界の悩みが隠れているのだろうか。
こうしていると、何だか間違い探しをしているように思えて、少しおかしかった。
(ううん、やっぱりわからないなあ……おおい、何に悩んでるんだあ、私)
結局、写真を見ても何も情報を得ることは出来なかった。
わかったことといえば、自分のだらしなさくらいのものだ。
(仕方ない……穴を覗いて、観察を続けるしかないか……)
私は小さくため息をつくと写真をベッドの上に投げ出し、机の方へと向かった。
貼ったり剥がしたりを繰り返したせいで、壁のポストカードは触っただけで落下した。
──よし、これで心置きなく別のカードに変えられる。
私は穴を覗くより先に別のカードを用意すると、周りにテープを貼り付けて準備をしておいた。今度は名画がプリントされたやつだ。特別好きな絵というわけではないが、さっきまでよりはずっと良い。あのキャラは、もう見たくない。
(そもそもあのキャラは何なの? 犬? 豚? 頭に釘ってどんなセンスよ)
未だ消せない恐怖心を怒りで誤魔化しながら、私は再びヒビの向こうを覗き込んだ。
視線の先には、何か悩ましげな表情で部屋の真ん中に立ち尽くす『私』の姿があった。口元に手を当て、足下を見つめている。見るからに悩んでいる様子だ。
(おお。これは大ヒントじゃないか? さあ、何を悩んでるんだ、私)
いくらもう一人の自分とはいえ、心の中まではわからない。普段、自分の表情を観察する機会などないから、表情から意図を読み取ることも難しい。あるいは母なら可能かも知れないが……。
仕方がないので、むつかしい顔をして足下を見つめる『私』の視線を追ってみる。床に敷かれたカーペットの上に、特に気になるものはない。
(まあ、カーペットを汚した悩みとかで異世界と繋がってたらたまったもんじゃないもんね。そんな単純なわけないか)
ではいったい何を悩んでいるのだろう。
仕事か。
家族か。
それとも恋愛──いや、それはないか。それはないだろうな。うん。
あと考えられるのは……仕事か。
もしかしたら新しい仕事がなかなか見つからないとか?
しかし、それならば何故、こんな風に部屋の真ん中に突っ立っているのか。
あんな風にして、いったい何を見つめているのか。
床の上……。
もしかして──。
その時、『私』が視線を落としたまま床の上を見渡すような仕草をした。
一通り見て、ため息をつく。
間違いない。やっぱり悩みは床の上にあるのだ。
床の上にあって、悩ましいもの。
それは、私には一つしか思い当たらない。
(穴……きっと穴が空いてるんだ!)
視線の先で『私』が少し移動する。カーペットから降り、しゃがみ込む。そして、おそるおそるカーペットに手をかけ、ゆっくりとそれをめくり始めた。
その様子を、私は息を飲んで見つめた。
(穴が空いてるとしたら……行かなかったんだ。何もしなかったんだ。もう一人の私は……)
鼓動が高鳴り、息が苦しくなる。どうしてだろうか。
ヒビの向こう側で『私』が思い切ったように、一気にカーペットを床から剥がした。
するとそこには──、
(いち、にい、さん……しい、ご……え? ろく……しち……)
見える範囲では、全部で七つの──あの懐かしい──穴が空いていた。
(七つ? うそ。私の時より、多い……)
あの穴の先には、私が体験したのと同じ世界が広がっているのだろうか。だとすれば、五つの攻略は楽勝だ。
しかし……。
(新しい穴がふたつ……)
新たな穴は部屋の入口近くにひとつと、部屋の真ん中──あれは『洞窟』の穴か──から少し机側寄りにひとつ。
(もしかして……)
私は慌てて壁から顔を離すと、机の上から飛び降りた。
そして、勢いよく自分の部屋のカーペットをめくった。
(ないか……そう、そうだよね)
そこに、穴はなかった。
(どうして、あっちにだけ?)
解決して、塞ごうとしなかったせいなのか。それとも別の理由によるものなのか。何にせよ……少し、羨ましいと思った。それと同時に、私の心の中でムクムクと好奇心が膨らむのを感じた。
また、ピンクちゃんやプラちゃん、妖精さんに会える。
また、あの美しい景色が見られる。
また、新しい世界に出会える。
また、穴の中へ……。
(ああ、いかんいかん)
わくわくしている場合ではない。
バイトが始まる来週までに、私はこの状況を何とかしなくてはいけないのだ。
私は気合いを入れ直すと、再び机によじ登った。
2
さて。悩んでいる様子の『もう一人の私』を見つめながら、私は頭をひねった。
あちらの『私』が床の穴を攻略出来ずに困っているとして、もしあの穴の中の世界(少なくとも七つのうち五つ)が私の部屋にあった穴と同じ世界に通じているのならば、攻略方法を伝えることは極めて容易い。新しい二つの穴に関しては未知数だが「たぶん大丈夫」という根拠のない自信もある。
問題は、どうやって『私』とコミュニケーションを取るか、ということだ。
向こうの世界に行くことは可能だろうが、おそらく物凄く驚かせてしまうだろう。今ここに突然ドッペルゲンガーが現われたなら、私なら気絶する自信がある。第一、全ての穴を塞ぐまでこっちに戻れないのだとしたら、私にはそんな時間はない。異世界の平和よりも、今は目先のバイトの方が大事だ。手分けして救えば早いのかも知れないが、この方法は却下せざるを得ない。
では何かに攻略法を書いて、穴を通して渡すか。これなら実際に行くよりは驚かせないで済むかも知れない。
(でも……信じてくれるかな?)
突然そんな『自分からの手紙』を目の当たりにしても、不気味がられるだけかも知れない。誰かのいたずら(もちろん思い当たる『犯人』などいないが)だと思うかも知れない。
(とすれば……動画かな……)
家の何処かに、テープに記録するタイプのビデオカメラがあったはずだ。デジカメでも動画は撮れるが、メモリーカードよりテープの方が安価で良い。
(テープってどれくらいの大きさだっけ……通るかな、ここ……)
ヒビの大きさを確かめる。
──どことなく、また広がったような気がする。これなら通るだろう。たぶん。
(ビデオでも充分不気味だけど、実際に行くよりは驚かないだろうし、手紙よりは信じてもらえるよね。うん、私なら、たぶん、きっと……)
正直、まったく自信はないが、私はビデオカメラを探すことにした。
「ねえ、ママ。ビデオカメラってどこにあったっけ?」
自分の部屋にも、物置と化している一階の部屋の中にもカメラは見当たらず、私は居間でくつろぐ母に声をかけた。
「ビデオ? ビデオってデジカメのこと?」
「ううん。テープのやつ。まだ捨ててないよね?」
「捨てられないから、うちの中には物があふれてるのよね」
「確かに……で、カメラは?」
「あたしらの部屋かな……あとで探しとくわよ」
「出来れば今日中にお願い」
「今日中って……あんた何に使うのよ。デジカメじゃダメなの? あれだって動画撮れるでしょ?」
「テープが良いの、テープが」
「変なことに使うんじゃないでしょうね?」
「変なことってなによ、それ」
「あんた聞く? それ」
「ああもう。良いでしょ、お願い」
こんな時、適当な理由を話せれば良いのだが、私はどうも嘘や誤魔化しが苦手だ。正直と言えば聞こえは良いが、実際のところは単に頭の回転が遅いのだろう。
「わかったわよ。探しとくけど、たぶん空いてるテープはないわよ」
「了解。買いに行ってきます」
私は部屋に戻り、財布を引っ掴むと、秋晴れの町へと飛び出した。
外は風が心地良く、思わずこのまま散歩したい気分だった。
木陰に入ると少し肌寒い。私は傾き始めた陽で薄く色づいた道を歩く。
近頃ぐっと陽が短くなった。
秋も冬も、夏と比べればずっと好きだ。
今年は雪が降るだろうか。
そんなことを考えながら歩くと、あっというまに近くのコンビニへと到着した。
(ええっと……テープ、テープ……)
通い慣れた店だ。売り場の位置は大体把握している。
レジの前を通り過ぎ、目的の棚に近付いた。
その時、
「あ! えー、うそ―、ひさしぶり! ねえ、私、私。わかる?」
ふいに声を掛けられ、私は驚きながら振り返った。
「元気? えー、いつぶりだろう」
それは高校の時の友達だった──たぶん。化粧や服装が高校時代とは違って少し……あ、いや、かなり派手になっているので別人のようだが、面影がある。それにこの喋り方……。間違いない。間違いなくあの子なんだけど──ええっと、名前は……何だっけ?
「こ、高校卒業して以来、じゃないかな?」
「えー、そうだよねー。やだー」
嫌なら声を掛けるな、と思ったが顔には出さない。
──っていうか、私、この子とこんなに親しかったっけ?
「ねえねえ、何してるの?」
……こういった大雑把な質問が一番困るということを、この女はわからないのだろうか。
「……働いてるよ」
「だよねー」
何だよ。だよね、って。
「え、じゃあさじゃあさ、結婚は?」
……同窓会じゃないんだぞ。ここはコンビニだぞ。いきなりそんなこと聞くか、普通。
「まだ、だけど」
「そっかー。私もー」
「ああ……そう……」
「ねえねえ、このあとヒマ? すっごい偶然だからー、お茶しようよー」
「え、え、これから?」
ちょっと待て、展開が早すぎる。それに今の私の服装を見ろ。このコンビニまでがギリギリの格好だろう。
「えっと……」
「あ、もしかして忙しい感じ?」
「う、うん……」
「じゃあ、今度にしよっか。連絡先教えてー」
「あ、はい」
何故か敬語になってしまった。
「──よし、っと。じゃ、連絡するから。じゃあねー」
「じゃ、じゃあねえ……」
こうして、嵐のように現われた彼女は、嵐のように去って行った。
(何だったんだ、今のは……)
後には呆然とした私が一人、店員の視線を痛いほど浴びながら残されたのだった。
ああ……頭が痛い。
(一気に疲れた……取りあえず。テープを買って帰ろう)
私は目当てのテープを手に取ると、俯きがちにレジへと向かったのだった。
(さて、と)
部屋に帰った私は、高校の時の卒業アルバムを本棚から引っ張り出した。
(ええっと……あ、いたいた。この子だ)
先程コンビニで会ったあの子は、私の隣のクラスのページで微笑んでいた。
(同じクラスだったのって、一年の時だっけ……ちょっと苦手なタイプの子だけど、私のこと、覚えててくれたんだなあ……私なんか名前も忘れちゃって、ダメだなあ)
写真の下に書かれた名前を反芻しながら、私は高校時代の思い出に少しだけ浸った。
しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。
私にはのんびりしている時間などないのだ。
(ま、あの子のことは置いといて──ビデオ、撮るか)
ビデオは既に三脚を立ててセッティング済みだ。
ヒビの向こうにいる『もう一人の私』に送るメッセージビデオを作成しなくては。
(でも……どんな風に切り出そう。まずは「初めまして」かな? いや、自分相手に「初めまして」はおかしいか。なら最初は「驚かないで聞いて」とかかな? おお、何かすごいSFっぽいセリフだな。うん、出だしは決まりだな)
机に向かうとどうしてもヒビが気になるのでベッドに腰掛けた私は、穴について書き記したノートを膝の上に広げた。
(次は、穴の説明だな。たぶん、あっちの私は何にもわかってなさそうだったから、きちんと説明しないと……)
ノートには、以前私が体験した五つの穴の世界についてと、穴そのものについてのこととがスケッチと供に詳しく書いてある。これを全て喋って説明したら一時間近くかかってしまうだろう。
(それなら、とりあえずビデオで事情だけ説明して、わかってくれたらノートのコピーを渡そうかな。その方が良いよね。そんないきなり全部説明されても飲み込めないよね)
ノートを閉じ、ベッドから軽やかに飛び降りる。
(よし! では、やりますか……、とその前に)
私は着ていた部屋着を脱ぎ捨てると、クローゼットへと向かった。
(いや、まあ、無駄な見栄だとは思うんだけどね。うん。でもね、ほら、身だしなみは重要だよね。うんうん、大事、大事)
こうして、何故か下着から念入りに選び出した自分を心の隅で哀れに思いながら、私はビデオ撮影の支度を始めたのだった。
3
三十分ほどで着替えと化粧を済ませた私は、まずはデジカメを使ってリハーサルを行うことにした。
ビデオレターは初体験。しかも送る相手は自分だ。どんな口調、どんな声色で喋るのが良いだろうか。
(あんまり深刻な感じも良くないかな……、とはいえ軽い感じも何だか不気味……。ううむ、意外と難しいなあ)
色々考えたところで上手くイメージがまとまらない。こういう時はやってみるしかないだろう。
デジカメを動画モードに切り替えてからベッドの縁に置き、私は床に座った。
(……姿勢はどうしよう。正座? それとも、椅子に座った方が良いかな。まあ、良いか。とりあえず、正座しとけば問題ないでしょ)
録画ボタンを押し、姿勢を正す。
(き、緊張するなあ。いかんいかん、リラックスしないと)
私は努めて柔らかな表情を作ると、咳払いをひとつしてから話し始めた。
「え、ええと……何だっけ……。あ、そうだ。お、驚かないで聞いて下さい」
(自分相手に敬語っておかしいかな?)
「お、驚かないで聞いてね。私は……私はあなた……違う、これじゃ意味不明だ。ええと、私は……。そう! 私は別の世界のあなたです」
これは思った以上に前途多難である。
私はいったんデジカメの停止ボタンを押した。
「はああああ、緊張したあ」
足を崩して後ろに手をつき、大きく息を吐く。そして目を閉じ、息を整えてから、私はデジカメを手に取った。
(よし、今撮ったのを見てみるか。一応)
再生ボタンを押す。
『え、ええと──』
(良かった、ちゃんと映ってる)
『お、驚かないで聞いて下さい。──驚かないで聞いてね。私は……私はあなた……』
……私は静かに停止ボタンを押した。
(これは……想像以上に喋れてないぞ。しかも緊張で変な顔……)
このままでは、いつまで経ってもまともな映像は撮れそうにない。
(そうだ、台本。台本を書こう)
ベッドの上に投げ出してあるノートと、サイドのテーブルの上からペンを手に取ると、私は一番後ろのページに台本を書き始めた。
(まずは「驚かないで聞いて。私は別の世界のあなたです」ここまでは良いぞ。で、次は……「今あなたは、その床に空いた穴のことで困っているのだと思います」こんな感じかな)
悩んでは消し、悩んでは消しを繰り返しながら書いていく。内容だけ見ると、全く現実味がない。まるで小説でも書いているかのような気分だ。しかし、そのお陰でいくらか落ち着いてきた。
(「私の部屋にも数ヶ月前、同じように床に穴が現われました。そして……」そして、世界を救ったんだけど……いきなりそんなこと言ったら信じてもらえないかなあ。自分だったら信じるかどうか、だよね。あ、それなら「穴を塞ぐ方法を私は知っています」この方が良いかな)
ここでひとまずペンを置き、私はもう一度練習してみることにした。
髪をちょっと整え、デジカメに向かう。
「──驚かないで聞いて。……信じられないと思うけど、私は別の世界のあなたです。今あなたは、その床に空いた穴のことで困っているのだと思います」
台本のお陰で、さっきとは別人のようにすらすらと話せる。
「私の部屋にも数ヶ月前、同じようにその不思議な穴が現われました」
意識的に、一呼吸置く。
そして、少し真剣な表情を作って、
「私は、その穴を塞ぐ方法を知っています」
──完璧だ。
少し腰を浮かせて停止ボタンを押すと、私は興奮した気持ちで再生ボタンを押した。
(──うん、よし、完璧。女優だなあ、私。さて、この続きはどうしよう)
この段階であれこれ説明せずに、ひとまずコミュニケーションのきっかけを作ることが今回の目的である。と、すると……。
(「もしその方法が知りたかったら、机の向かいの壁に『OK』と書いた紙を貼り付けて下さい」とかどうだろう。これじゃ、机の壁の方から見てるってわかっちゃうかな。それともこっちから見てるって言っちゃった方が良いかな? いや、それは次に話した方が良いか……。ううむ、悩むなあ)
このテープだけでも充分怖いだろうに、その上部屋の中を覗かれているなんてわかったら……。私なら逃げ出しかねない。
(よし、あんまりよけいなことは言わないようにしよう。じゃあ、この続きは……。「いきなりこんな話をされて怖いかも知れないけど、心配しないでください」こんな感じかな……。言い訳くさいけど)
台本はこれくらいで良いだろう。もう緊張はしていない。後はアドリブで何とかなるはずだ。
(よし。じゃあ本番いくか。本番)
私は気合いを入れて立ち上がると、ビデオカメラの前に立った。
(どの辺に置くのが良いかな。部屋の中の様子がわかった方が良いよね。一発で、自分の部屋ってわかるように)
カメラを覗きながら何度も位置を調節する。床に座って撮るよりも、椅子に座った方が良さそうだ。椅子の高さもカメラに合わせ調節する。
(よし。ここでいこう)
さあ、カメラの位置は決まった。服は着替えた、化粧もした。話す内容も決まったし、肩の力も抜けている。
(では、いざ本番!)
私は小さく咳払いをすると、録画ボタンに手を伸ばした。
「──驚かないで聞いて。信じられないと思うけど、私は別の世界のあなたです。今あなたは、その床に空いた穴のことで困っているのだと思います。私の部屋にも数ヶ月前、あなたの部屋と同じように、その不思議な穴が現われました。……私は、その穴を塞ぐ方法を知っています。もしその方法が知りたかったら、机の向かいの壁に『OK』と書いた紙を貼り付けて下さい。穴を塞ぐ方法を教えます。いきなりこんな話をされて怖いかも知れないけど、心配しないでください。私も最初は怖かったけど、その穴が何なのか、どうすれば良いのかがわかれば、決して怖いものではないから。……それでは、お返事待ってます」
──どうよ。
上手くいったんじゃないの?
「よし! 良い感じに言えたぞ!」
椅子から立ち上がり、ビデオを手に取る。
(あ、しまった。停止させてなかった)
慌てて停止ボタンを押す。
(さあ、これで後はこのテープを壁の向こうに送るだけだ)
テープをカメラから取り出すと、私は机の方へ視線を移した。
今はポストカードで塞いであるが、その向こうにはあの不思議なヒビがあるはずだ。そして、その中にはもう一人の自分が……。
忘れていた緊張感が、どこからともなく湧き上がってくる。
(いかんいかん。びびってるヒマはないぞ。ええと……テープにラベルとか貼った方が良いかな。それとも封筒とかに入れる?)
封筒だと、ぱっと見何か気付きづらいかも知れない。
取りあえずラベルに『私へ』とだけ書き、その横に日付も添えてみた。
(……これで、大丈夫かな)
妖精さんの穴の時の記憶がふっと過ぎる。
(大丈夫。絶対に大丈夫)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
机の方──ヒビのある壁の方へゆっくりと近付く。
一歩、二歩。
覚悟を決める間もなく到着。
気持ちを落ち着けるために、何度か深呼吸をして、ついでに伸びをして肩をほぐした。
(大丈夫、大丈夫)
もう一度心の中で唱えると、私は机によじ登り、ヒビを覆うポストカードに手を伸ばした。カードは、ほとんど抵抗も感じずに剥がれた。
ヒビは、やはり少しだけ大きくなっているようだ。
そっとテープを穴にあてがってみる。
大きさは大丈夫そうだ。
(誰もいないかな? 誰もいない時の方が良いよね)
いたずらに驚かせたくはない。
穴に顔を寄せ、『向こう側』を覗いてみる。
どうやら誰もいないようだ。
(……ええい! いっけえ!)
私は思いきってテープをヒビへと押し込んだ。
ぱっ、と手を放す。
(……いったか?)
無意識に閉じていた目を恐る恐る開き、再び『向こう側』を覗く。
テープは、机の上に転がっていた。
(大丈夫そう、だね。良かった……、爆発とかしなくて)
ほっと胸を撫で下ろし、机から降りる。
まずは成功といったところか。
(……あ)
気持ちが落ち着いてきて、ふと気が付いた。
(撮り終わってはしゃいでるとこまで映ってるんじゃないか?)
しかし、時すでに遅し。
確認しようにもテープはもう穴の向こう側。
私はその場に座り込むと、大きなため息をついたのだった。
第九話
1
部屋着に着替え、いくらか気持ちが落ち着いたところで、私は再び机によじ登った。そして壁のヒビに顔を近付ける。
テープを向こうに送っただけで安心してはいけない。それに『私』が気付かなくては、何の意味もない。テープに気付き、動画を確認し、内容を理解して、こちらへメッセージを送ってくれてようやくスタートラインなのだ。
いつ『私』がメッセージを送ってくれてもすぐに気付けるように、出来るだけ観察していなくてはならない。
穴の向こう側を覗く。少し胸が高鳴る。
視界の中には『私』の姿は見当たらない。
いったい、何処へ行ったのだろうか。
この位置からでは、あちらの時計は見えない。
部屋の中がこちらと同じ夕焼け色に染まっているから、何時間も時差があるとは思えない。最後に『私』を見かけたのは何時頃だったか。もう数時間は経つはずだ。もしかしてあちらの『私』は、私より先にバイトを始めたのだろうか。それとも床の穴が気味悪くて、別の部屋で過ごしているのだろうか。どちらかというと、後者の方があり得る気がした。
(そういえば私も、妖精さんの穴のことがあってからしばらくは、自分の部屋にいられなかったっけ)
私はひとり苦笑した。
さて、もし別の部屋に避難しているのなら、こうしてずっと覗いていても仕方ないかも知れない。たぶん寝るのは自分の部屋だろうから、夜までは戻って来ないだろう。
(ま、焦ってもしょうがないか)
その時、机の上に置いた携帯がヴヴヴと音を立てて振動した。
壁から顔を離し、机から降りる。
携帯の着信を見ると、先程コンビニで会った彼女からのメールだった。
『件名:マリリンです。
本文:さっきは忙しいところ呼び止めちゃってごめんね。
すっごく懐かしくて、思わずはしゃいじゃいました。
近々、ぜったい一緒にごはん行こうね!
じゃあまた連絡するね~。』
……、うん。直接話すより、こうして文章で見るといくらか真面目な感じがするじゃないか。彼女も大人になったということか。
しかし──、
(マリリン、って……どういうこと?)
少なくとも学生時代、彼女のあだ名は『マリリン』ではなかった。それに、名前はいっさい『マリリン』を連想させないものだ。
(……間違いメール、ってワケないよね)
内容からもそれは絶対にあり得ないだろう。
(まあ……良いか。気にしない、気にしない)
考えたところで無駄だろう。彼女の感性は、私とはあまりにかけ離れている。
しかし、きっとそれが彼女の良いところでもあるのかも知れない。もしもこれから先、彼女と友達付き合いをするとして、もし性格や感覚が似ていれば楽だろうし、親密になるのも簡単だろう。けれど、自分にないものをたくさん持っているであろう彼女と一緒にいれば、自然と未知に触れる機会も増えるだろう。それも、たぶん、楽しい。実際どうなるかは、わからないけれど。
(友達か……)
思えばもうずいぶん、友達と呼べるような人付き合いをしていない。職場には同期で同い年の人間はいなかったし、高卒で就職した私と同い年なのは後輩ばかりだった。だから、というのは言い訳かも知れないが、友達の作りにくい環境であったのは確かだ。
小中高と、ずっと友達がいなかったわけではない。しかし、私が就職してからは話も合わなくなっていき、二十歳を迎える頃には、私は独りになっていた。成人式は……行かなかった。
(そんな私が、ねえ。よりによって、あの子と友達に……)
その時、部屋をノックする音が聞こえた。誰、と考える必要もない。母だ。
「そろそろご飯だから、おりといで」
ドア越しに声が聞こえる。
「はあい」
私は携帯をポケットに突っ込むと、遠ざかる足音を追いかけた。
「さっきね、コンビニで高校の友達に会ったんだよ」
三人分のカレーをよそりながら、私は母に話掛けた。テレビを見ていた父も、こちらを振り向いた。
「へえ、珍しい。誰?」
高校の時のクラスメイトで、家の近い子はおらず、確かにあそこのコンビニで高校の時の友達に会うことは非常に珍しいと言える。そういえば、何であの子はあの店にいたんだろう。
私は母にあの子の名前を伝えた。
「そんな子いたっけ?」
「うーん、ママは会ったことないかも」
「同じクラスの子?」
「一年の時だけ」
「……思い出せない」
「ちょっと派手な子」
「後でアルバム見せてよ」
「あ、うん。そうだね」
ここで、ずっと黙っていた父が口を開いた。
「そういえば、あの子は元気か?」
「あの子って?」
「ほら、あの──」
父が口にした名前は、昔隣の家に住んでいたひとつ年上の女の子の名前だった。
その子は、私が高校に上がる年に遠くの街へ引っ越して行った。その当時、私はまだ携帯を持っていなかったから、個人の連絡先は知らない。住所や家の電話は聞いた気がするが……もうわからない。中学に上がった頃には、もうあまり親しくなくなってしまっていたから、今までそんなに気にもしていなかった。
「うわ、すっごい懐かしいね。もう十年以上連絡取ってないよ。ママは? あの子のお母さんと仲良かったよね?」
「ああ……うん。でも私も、もうずっと連絡とってないなあ……」
母は、何故か微妙な表情だ。何か、あったのだろうか。
「ああ、まあ……そうだなあ」
意外なことに、父もなにやら知っているようだ。
……気になる。
気になる、が──、止めておこう。たぶん、大人の事情というやつなのだろう。
「いただきます」
「いただきます」
どことなく上の空で食べたカレーは、少しだけ水っぽかった。
「さあて、と」
部屋に戻った私は、さっそく机の上に上り、ヒビの穴へと顔をあてた。
「おっ!」
思わず驚きが口から飛び出したのは、向こうの部屋の真ん中に『私』がむつかしい顔をして座っていたからだ。
その目の前には──、あのビデオテープが置いてあった。
(見つけたんだ! 見つけたんだ! わー、わー。すごい。すごいドキドキする。どうしよう。あ、いや、どうしようもないんだけど)
興奮する私の気持ちを知る由もなく、『私』は小さなテープとにらめっこしている。
(大丈夫だよ。怖くないから、早く見てね)
しかし『私』はテープを触ろうともしない。つんつん、とつついては、腕組みをしてにらめっこの繰り返しだ。
(ああ、もう。テープは噛みついてこないからさあ……見てよ、もう)
と言っても、自分だったら怖くて見られないだろうとも思う。自分のことは誰よりもわかるが、だからといってどうすれば良いかわかるわけではないのだ。
(まいったなあ、ビデオレター作戦は失敗かなあ……)
と、その時『私』が意を決したようにテープを手に取ると、そのまま部屋を出て行った。
(お、お、お、何処行く、私)
──、数分後、部屋に戻った『私』は、何と母を連れていた。
私の見つめる中、『私』はおそるおそるカーペットをめくると、母に対して何かを訴え始めた。
床を指さして興奮気味の『私』。
怪訝な顔の母。
何を言っているのか聞くことは出来ないが、内容は想像出来る。
勇気を出して、母に助けを求めたのだ。
……私にはこの結末が想像出来る。
必死に床を指さす『私』。
首を振る母。
哀しそうな顔で──、『私』に語りかける母。
そして、母は部屋から出て行き、後には呆然とした表情の『私』がひとり……。
私は壁からそっと顔を離した。
(……早く、ビデオ見てね)
机から降り、ベッドへと飛び乗る。
何だか、ちょっとだけ哀しい気持ちになってしまった。
(大丈夫だよ。独りじゃないからね)
そう心の中で呟きながら、ほんの少しだけ熱っぽい目頭をそっと押さえた。
時刻は夜の八時。
今夜は、長くなりそうだった。
2
──いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
時計を見ると、十一時半。三時間近く寝ていたようだ。
……頭が痛い。
さっきみた夢が、やけに生々しく思い出された。
──。
私は、ベッドで眠る自分を見下ろしていた。
まるで天井に空いた穴から覗くように、視界は狭い。
でも、私の部屋なのは間違いない。見間違えるはずはない。
屋根裏から、覗いているのだろうか。
自分の周りの様子はわからない。
穴から視線を外すことは出来ない。
──寝返りをうつ私。
そのベッドの横のカーペットが、少しだけめくれている。
そこには……、
(ああ、穴だ)
穴が空いている。
懐かしい、あの穴が……。
(あの穴の向こうの世界は、いったいどんな悩みを抱えてるんだろう)
ふと、そんなことを思う。
──覗きたい。
──行きたい。
あの穴の向こうへ。
あの、不思議で、素敵な穴の向こうへ……。
──ただ、それだけの夢だった。
ただ、それだけなのだけれど……。
(何か……妙にリアルな夢だったな。ちょっと、気味が悪いや……)
ゆっくりと体を起こし、ベッドから降りる。
喉がカラカラに渇いていた。
お茶でも飲もうと、階下へと向かった。
頭が、ジンジンと痛んだ。
冷たいお茶を飲むと、いくらか気分が良くなった。
リビングでは母が一人でテレビを見ていた。
朝の早い父は、いつもこの時間にはもう寝ている。
「あんた、何か顔色悪いけどどうしたの?」
「うん。ちょっと、寝ちゃって……」
「ヤな夢でもみた?」
さすが親、と言うべきか。
「ちょっとね……」
「来週からバイトなんだから、生活のリズム正さないとダメよ」
「そうだね」
この半年、そこまでだらだらと過していたわけではないが、仕事をしていた頃と比べたらずっとだらけた暮らしをしてきた。バイトは朝からのシフトも少なくないようだし、規則正しい生活へと戻さなくてはいけないだろう。
「おやすみ」
「今起きたんでしょ? 寝れるの?」
「うーん、でも寝なきゃ」
「そう。じゃ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
お茶を注いだコップを片手に、私は自分の部屋へと戻った。
(さて……)
いくらか暗い気持ちで、机の上に登った。
寝る前に、『私』の様子をどうしても確認しておきたかった。
そっと、穴を覗く。
暗い。部屋の電気は消されているようだ。
(寝てるのかな? それとも……)
その時、視界の隅にぼんやりとした灯りが浮かんだ。その灯りは小さく瞬きながら、ベッドの上にしゃがみ込んだ『私』の顔を照らした。
(……あ、ビデオだ! 見てるんだ!)
どうやら『私』はビデオを手に持ち、小さなモニターで映像を見ているようだ。よく見ると、耳にはイヤホンを付けている。
(私の送ったビデオを見てるのかな。きっと、そうだよね。意外と子供の頃のビデオを見てるとか? いやいや、まさかね……)
耳が痛いくらいに鼓動が早くなる。『私』は身動ぎひとつせず、モニターを見つめている。
(──そんなに、長い動画じゃないと思うんだけど……。何度も見てるのかな。そんなに何回も見返さなくても……。いや、見るか。私でも見るな。繰り返し)
その時、おもむろに『私』が立ち上がった。
カメラを手にこちらへ向かってくる。
(わわ、こっち来た!)
思わず顔をヒビから離す。
(あ、でも穴が見えてるわけ……ないよ、ね?)
改めて穴を覗く。
明かりをつけたのか。部屋の中が明るい。
視界の隅──下の方に『私』の頭が見えた。机に向かって、何かを書いているようだ。
(もしかして……)
私が思った通り、再び立ち上がった『私』は一枚の紙を手にしていた。
そして、その紙をベッド側の壁にテープで貼り付けだした。四方を貼り終わると、『私』はベッドから降り、部屋の真ん中に仁王立ちになった。
私は、壁に貼られた紙を見る。そこには──、
(『OK』って書いてある! やった! ビデオレター作戦成功だ!)
ついに『もう一人の自分』とのコミュニケーションを取ることに成功したのだ。
(やったあ! 嬉しい、これは嬉しいぞ! よおし、さあ──、あれ? えっと、これから、どうするんだっけ……)
何も、考えていなかった。
(しまったあ! うわああ、何てバカなんだ私は! この後のこと、何にも考えてないじゃん!)
穴の向こうでは『私』が、返事を待つかのように立ち尽くしている。
(待ってる、待ってるよ『私』。え、え、どうする? さあて? どうする?)
軽いパニックに陥った私は、ひとまず壁から顔を離した。
(落ち着け。落ち着いて考えるんだ──。あ、そうだビデオ! またビデオを送ろう! って……さっきテープ一本しか買わなかったから、無理じゃん)
何から何まで段取りが悪い。気持ちはどんどん追い詰められていく。
部屋の中を見渡す。何か、何かないか……。
(あ、ノート!)
机の上に立てかけられた、私が穴の世界について書き留めたノートが目にとまった。しかし、ノートは壁のヒビよりずいぶん大きい。折ったり曲げたりしても通らないだろう。
(ああ、もう、どうしよう。行っちゃう? 行っちゃうか? いや、ダメだ。それだけはダメ。じゃあ……もお、わっかんないよお)
取りあえず、このまま放置するわけにはいかない。
穴の向こうでは、きっと『私』が返事を待っているだろう。
(ええい、仕方ない。素直に手紙を書こう!)
いっても相手は自分自身。気取っても仕方がないだろう。
私は机に向かうとペンを手に取り、適当な便せんに手紙を書き始めた。
(ええと……「お返事ありがとう。」と。で……、「ごめんなさい、返事くれた後どうしようか考えてませんでした。明日にはちゃんとまとめて手紙送るね。」だな。うわあ、かっこ悪いなあ、私……)
書きながら、顔が赤くなっていくのを感じた。情けない。
(あとは……、「心配しないでね。危険はないから。」あ、あとそうだ「今夜はゆっくり寝て下さい。明日から一緒に頑張ろうね!」こんなんでどうだ?)
よし、これを向こうへ送ろう。
便せんを丸めて手に持ち、机の上によじ登る。
──しかし、穴から手紙が出てくるところを、見られてしまうのはどうだろう。
穴を覗くと、まだ『私』はこちらを見ている。
(……仕方ないか。うん、たぶん、これは仕方ない)
少し待った方が良い気はするが、耐えられそうにない。
私はいったん壁から顔を離すと、思い切って手紙を穴の向こうへと落とした。
(いった!)
すぐさま、穴を覗く。
そこには驚いた顔で硬直する『私』の姿があった。
おそらく、壁の中から突然現われた便せんに驚いたのだろう。
(ああ、やっぱり見てない時に落とすべきだったかあ……)
おそるおそる、こちらへ近付いてくる『私』。ゆっくりと手を伸ばし、便せんを手に取った。震える手で、それを開く。
(良かった、読んでくれてる)
ふいに、『私』の表情が緩んだ。初めて見る、自分の笑顔だ。
(笑われてるなあ……。そうだよね、笑うよね。まあいっか。結果おーらいだ)
読み終わった手紙をきちんとたたむと、『私』がこちらの方へと近付いて来た。
そして、壁に手をつくと、きょろきょろと何かを探し始めた。たぶん、穴を探しているのだろう。しかし──いや、やはりというか──穴は見つからないようだ。
しばらく探した後、諦めたように机の傍から離れると、今度はベッドの方へと向かった。そして、壁に貼られた『OK』の紙を指さした。
(了解、ってことかな?)
おそらく、そうなのだろう。『私』は天井の明かりを消すと、ベッドへと潜り込んだ。そして、何処にともなく手を振った。
(おやすみ、ってことかな)
体から緊張が解けていくのを感じた。
大成功、ではないかも知れないが、一応ファーストコンタクトは成功といえるだろう。
安心すると同時に、一気に眠気が襲ってきた。
(私も寝るか……)
電気を消して、ベッドへと倒れ込む。こそばゆいような既視感を感じる。
(朝起きたら、また手紙書かなきゃ)
自然と目蓋が落ちてくる。抗えない。
(おやすみ)
私は、誰にともなく呟いた。
3
「よし」
朝ご飯を食べ終わった私は、机に向かって気合いを入れた。
明後日からバイトが始まる。出来ればその前に、この壁のヒビを塞いで、すっきりとした気持ちで新生活を迎えたい。そのためにも、今から『自分』に宛てて書く手紙は非常に重要である。
さて、どういった内容にするべきか。
あちらに空いている穴は、わかっている限りでは七つ。こちらの世界とは穴の数が違うが、穴の向こうの世界は同じとしたら、そのうち私が知っている穴は五つ。いきなり全ての解決法を教えるべきだろうか。
いや、まずは穴についての基礎知識を教えるべきだろう。
(ええっと……)
穴についてのことをまとめたノートを開き、要点を便せんに書き出していく。
『昨日は準備不足でごめんね。
知ってるかも知れないけど、穴の向こうにはこちらとは全く違った世界が広がっています。そして、穴の向こうの世界は、それぞれ何かしらの悩みを抱えています。その悩みを解決することが、穴を塞ぐ唯一の方法です。
私は、あなたの部屋に空いた穴のうち、五つの穴についての解決法を知っています。解決するには順番も重要になるから、一つずつ教えるね。
まずは穴についての基礎知識を伝えます。
・いつの間にか空いている。増えることもある。
・大きさは直径2センチくらいでまんまる。大きさは変化することもある。
・深さはひとさし指の第一関節よりちょっと深いくらい。奥まで入れるとちょっと痛い。
・縁はすべすべしている。指を掛けてぐいっとすると、拡がって中に入ることが出来る。(解決するまで帰って来れないから注意してね!)
・こちらからあちらを覗くことは出来るが、向こう側からこちらを見ることは出来ない。
・お互いの声や音も聞こえない。
・中に物を落とすことが可能。(でも危ないから絶対やっちゃダメだよ!)
・中から物を持ち帰ることも可能。(これ、解決のための重要ポイントね!)
・穴の中の時間は、その穴によって流れる速さが違う。(今お仕事とかしてる? 気を付けてね!)
・穴の中とこちらでは、物理法則が異なる。(火とかは絶対に持ち込み禁止だからね!)
・穴の中で私は不思議な力を使うことが出来る。(これはまた改めて教えるね)
・穴は私にしか見えない。(少なくともママには見えない。パパは未確認)
・穴の中から持ち帰ったものも、私にしか見えない。
他にもあるけれど、重要なのはこれくらいかな。
穴の世界の攻略法は次の手紙から書いていくね。
最後に──、今私は机の少し上(机に登ってしゃがんだ高さぐらい)の壁に現われたヒビからそちらを覗いています。そっちからは見えないみたいだけど、もし良かったら、壁にポスターとか貼っておくと良いと思います。じろじろ覗いたりはしないけど、なんか、ちょっとヤだよね? たぶんそれで塞げると思うから。ただ、手紙が送れるように、ポスターは上部分だけを留めてね。
それじゃあ、一緒に頑張ろうね!』
(……こんな感じかな)
書いた手紙を読み返してみる。仕事以外での手紙なんてもう何年も書いていないから、何となく文章がおかしい気がしてしまう。ビデオレターの時も悩んだが、自分相手に敬語を使うべきか、それとも気さくな感じで話し掛けるか、悩ましいところだ。『もう一人の自分』と話した経験のある人がいたら、ぜひとも教えて欲しいものだ。
(ま、いっか)
ピンクちゃんや謎の影とは違って、相手は人間。しかも自分だ。意思の疎通も出来るし、言葉だって通じる。もしも手紙の内容に足りない点があれば、あっちから質問してくるだろう。
(よし、じゃあ投函するかな)
便せんを丸めて手に持ち、机の上へとよじ登る。だんだんと、この行儀の悪い行為にも慣れてきてしまった。良くない傾向である。
壁に貼ったポストカードを外す。ヒビの大きさは、あれから変化していないようだ。こうしてアプローチしていることで、あちらの世界の悩みが少しずつ解決に向かっている証拠だろうか。
手紙を送る前に、穴を覗いて見る。『私』は、今何をしているだろう。
(あ、いた)
『私』は部屋の中央付近に、四つん這いの格好でいた。カーペットは捲られている。どうやら、穴を覗いてみようとしているようだ。
(えっと、あの穴は……『洞窟の穴』、かな? あ、いや、違うな。『洞窟の穴』は向こうだ。ってことは……)
『私』が覗こうとしているのは、私にとって未知の穴だった。
(ちょっと待って、ちょっと待って。その穴についてはアドバイスできないから!)
もしもうっかりあの穴の向こうへ行ってしまったら、いったい何が待っているかわからない。まずは私が把握している世界から順に攻略していって欲しい。
私は慌てて便せんを穴の向こうへと落とした。落ちた時に音を立てるかはわからないが、もし音がすれば気が付いて観察を中断してくれるかも知れない。
便せんを落としてすぐ、再びヒビの向こうを覗く。
こちらを向いた『私』と目が合った。
(良かった。気付いてくれたんだ)
手紙を拾って読む『私』。
(何か、目の前で自分が書いた手紙読まれるのって……恥ずかしいなあ)
しばらくそのまま見ていると、手紙を読み終わった『私』が微妙な表情でこちらを向いた。覗かれていると知って、気分を害しただろうか。もちろん、良い気はしないだろう。『私』は目を閉じ、何か考えている様子だ。三十秒くらいそのまま考えていたが、徐ろに机に向かうと、何か書き始めた。
(何だろう?)
五分程すると、今度は立ち上がって何かを探し始めた。何だろうか、と見ていると、机の上にブックエンドを立て、そこに今書いたものを貼り付けた。どうやら、私に内容を見せようとしているらしい。
(あ、手紙の返事かな)
目を凝らしてよく見るが、高さはちょうど良いのだが、少し遠くて読めない。
仕方が無いので、手元にあったメモ用紙に『ごめん、もうちょっと壁に近付けて』と書いて投函した。
(そうそう、ありがとう)
メモを読んだ『私』はすぐにブックエンドをこちらへ近付けてくれた。
(ええっと……、なになに……)
『お手紙ありがとう。
段取りが悪いのは、どこの世界の私も同じだねえ(しみじみ)。
色々教えてくれて助かる!
後でよく読み返しておくね。
穴が現われてから今まで、誰にも相談出来なくて辛かったんだ。
怖くて、まだ一つしか覗いたことないんだけど、真っ暗でよくわからなかったし……。
同じ私なのに、そっちの私は勇気あるね。
助けてくれると、本当に心強いです。
私も頑張ってこの穴を塞がないとね。
最後に、自分相手に変だけど、一応自己紹介……的な?
今仕事はしていません。
そっちの私は仕事続けてるのかな?
私は今年の始めに仕事を辞めてしまったので、今は恥ずかしいけどニートしてます。
この穴を塞ぐことができたら、また仕事しようかな。
ごめんね、ぐだぐだな手紙で(汗)。
もっと色々話したいけど、それはまた今度……。
では、次のお手紙待ってます!』
手紙を読み終わった私は、ひとまず机から降りると、そのままベッドに飛び込んだ。何だか、妙に興奮している。
(いやあ……すごいなあ。自分とお手紙交換しちゃったよ。変な感じ。あっちも私自身なのに、何だか別の人間みたいな気もする……。ま、そりゃそうだよね。中身が一緒で、考え方が一緒でも、この瞬間考えていることは違うんだもんね。その小さな違いが積み重なれば……。双子って、こんな感じなのかな)
枕を抱き寄せ、顔を埋める。
(そういえば、あっちの『私』はまだバイト見つけてないんだな……。んんん、もっと知りたいなあ、『私』のこと)
まるで、新しい友達が出来たかのように、気持ちが高揚している。
そういえば、友達といえば──、
その時、まるで私の気持ちに気付いたかのように、ポケットに入れていた携帯が振動した。メールだ。相手はもちろん、あの子。
『件名:マリリンです。
本文:明日駅前でお茶しない?』
(……簡潔なメールだなあ)
さて、こちらの友達には何と返事しようかと、私はゆっくり起き上がった。
4
私は、悩んでいた。
今、私の目の前には二つの便せんが並べておいてある。
一通には『水槽の穴』『ピンクちゃんの穴』『洞窟の穴』に関しての一連の攻略法が書いてある。もう一通には『プラちゃんの穴』『妖精さんの穴』に関しての攻略法を書いた。
私が悩んでいるのは、どちらを送るかということではない。
これを送るか否か、ということである。
今更何を悩むのか、と思われるかも知れないが、理由を説明するのは簡単ではない。
私は、あの不思議な世界を観察し、自ら立ち向かい、色々な経験をし、一回りも二回りも成長することが出来た(たぶん)。その機会を『私』から奪って、本当に良いものだろうか。先程まではいかにしてこのヒビを(速やかに)塞ぐか、ということしか考えていなかったが、攻略法をしたためるに至って、急に不安になったのだった。
(ううむ……どうしよう……いや、ああ、ううん……)
解決法が一つしかないのはわかっている。
彼女──『もう一人の私』──に自ら観察し、世界を救う方法を見つけ出してもらうのだ。
(でもなあ……早くヒビは塞いじゃいたいんだよなあ……)
向こうの世界の悩みや状況がわかった今となっては、別にヒビが空いたままでも生活に支障はないと思われる。しかし、床の穴の時を思うと、早く塞がないとこれからどんどんヒビが増えてしまう気がしてならない。放っておいても大丈夫とは思っても、ただ放っておくのも落ち着かないのだ。とはいえ口を出せば切りがない。
(小学生の時を思い出すなあ……自分より後にゲームを買った子に、攻略法を教えたいけど、教えちゃわるいよなあ、的な感じ……もしくは友達より先に攻略本を買っちゃった、みたいな、ね)
『異世界を救う』ということをゲーム感覚、遊び半分で考えているわけではないが、あれだけ特殊で唯一無二の世界だ、せっかくなら堪能して欲しい。
(まあ、悩んでもしょうがない。いや、悩んじゃったもんはしょうがない)
私は二つの便せんを抽斗にしまうと、新しい便せんにペンを走らせた。
『こんにちは。
書き出し、ちょっと悩むね(苦笑)
さっきは穴を塞ぐ方法を教えるって言ったけど、ちょっと色々考えて、方法を直接教えるんじゃなくて、アドバイスだけを伝えていくことにしました。
いじわるとかそういうんじゃなくて、私はその不思議な世界を観察して、悩んで考えて、そして勇気を出して行動して……その結果すごく成長出来たから。
だから、あなたにも、そうして欲しいと思ったからです。
この、普通はぜっっったいに経験できないような不思議な出来事を、楽しんで欲しいと思ったからです。
不安に感じるかも知れないけど、大丈夫。
同じ『私』だもん。
私に出来たんだから、楽勝だって!
それでは、最初のアドバイスね。
まずは、怖がらずに全ての穴の中をよく観察してみてください。(安易に中には入らないようにね!)
もしも何か迷ったりしたときは、またお手紙ちょうだいね!
時々、そっちを覗くようにするから。
ごめんね。解決法を教えるって言ったのに。
でも、絶対後悔はしないはず。
またお手紙書きます。
じゃあ頑張ってね!』
(……これで、良いかな)
私は少し悩みながらも、その便せんをヒビの向こうへと送った。
──数時間後。
私がそっとヒビの向こうを覗くと、そこには『私』からの手紙があった。
『アドバイスありがとう!
ずっとこわくて放置しちゃってたけど、あなたからの手紙を見ていたら、何だか急に穴の向こうの世界が気になってきちゃいました。
今はわくわくしています。
あなたにできたなら、私にもできるよね。
だって、同じ自分だもん。
では、頑張ります!
(もしわからなくなったら……その時は助けてね)』
簡潔な手紙はハートマークで締めくくられていた。
私はほっと胸を撫で下ろす。
どうやら自分で解決する気になってくれたようだ。
もしかしたら、これでヒビも塞がってくれるかも知れない。
(何にせよ、良かった良かった)
私は『私』に「頑張ってね!」とだけ書いた返事を送った。
そして、数日が経った。
月曜から始まったバイトは覚えることは沢山だったが、それが余計に楽しく感じられた。店長も他のスタッフも(おばさんがほとんどだ)みんな良い人で、私はすぐに打ち解けることが出来た。
当面、私の仕事はレジ打ちだけだ。値札のないパンの値段を覚えるのは少し難しかったが、先輩が横からさりげなくフォローしてくれるので安心だ。
私のシフトは基本的に午後からのみだが、木曜日と定休日である日曜以外は十三時から閉店の十八時まで、祝日もお構いなしに仕事だ。終日の仕事ではないといえ、怠けきった体に久々の労働はなかなかに堪えた。
彼女が来たのは昨日──水曜日のことだった。
「え? やだー。すごーい。ぐうぜーん」
私は彼女が店内に入った瞬間に気付いていたが、彼女はレジに立ってようやく気付いたようだ。
彼女──マリリン──は飛び跳ねんばかりのテンションで言った。
「ねえ、バイト何時まで?」
「え……あ、うん六時までだよ」
「そっかあ、ざんねーん」
何が残念なのだろう。彼女の話はよく大事なところが欠けている。
「家、近くなの?」
店内に客は彼女しかいなかったので、私はレジを打ちながら気になっていた質問をした。メールで聞いても良かったが、ひととメールなどずいぶんしていなかったので、面倒に思えてしまったのだ。
「ううん。家はこないだ会ったコンビニの近くだよー。先月越してきたんだー」
そうか、だから今まで遭遇することがなかったのか。
「じゃあまた日曜にねー」
会計を済ませた彼女は、にこにこと手を振って店を出て行った。
日曜──。
そう私達は次の日曜日、駅前のカフェでお茶をする約束になっていた。最初はお酒を飲みに、と誘われたが、残念ながら私は下戸だ。別に無理に勧めてこないなら行ってもかまわないのだが、相手に勝手に酔い潰れられるのも困るので、昼過ぎにお茶でも、ということにした。
何だか、すっかり友達という感じだ。
(良いのかな……)
ふと思った。
何に対しての不安なのかはわからない。彼女と友達になることに良いも悪いもないと思うが、友達作りなど久しくしていなかったので『友達』という関係に具体的なイメージが湧かないからかも知れない。
(彼女と話してると、楽しい?)
自問自答。
(……楽しい、かな。昔は苦手だったんだけどな……)
同じクラスだった高校一年生の頃、私達はどんな会話を交しただろうか。
(……ううん。だめだめ、こんなこと考えちゃ)
打算的な考えや損得勘定に似た思いを慌ててかき消す。
そうだ、友達ってものは、そんな風に作るものじゃなかったはずだ。
(もっと知りたいから会って話す。楽しいから一緒にいる。ただそれだけで良いじゃない)
子供の頃は、何も考えずに友達になれたはずだ。高校の頃だって……。私はいつからこんな風になってしまったのだろうか。
(友達、か……)
その後は、ずっともやもやした気持ちで仕事をした。
「ただいま」
家に帰ったのは二十時少し前。
「おう、おかえり」
父はすでに食卓について、私の帰りを待っていた。台所からは母の料理する音が聞こえる。
「ご飯もう出来るからね!」
「じゃあすぐ着替えてくる!」
母の大きな声に、こちらも大きな声で返す。
階段を登る足が少し疲れている。レジ打ちは立ち仕事。早くなれなくては。
自分の部屋に入る。
何気なくヒビのある壁に目をやる。
そういえば今週は一度も覗けていない、『私』は大丈夫だろうか──。
(……あれ?)
一度ベッドの方を向いた視線を、ゆっくりとまた机の方へと動かす。
机の少し上部。壁に貼ったポストカードから、ヒビが大胆にはみ出している。
それはつまり──、
(何か『私』にあったんだ!)
慌てて壁に駆け寄ろうとする。
その時、
「出来たわよー」
階下から母の声。
「あ、ん、もう……はーい!」
ひとまず着替えて階下に向かう。
夕食の間中、私は『私』のことを考えていた。
上の空の私は、五分程の食事の中で四回も舌を噛んでしまったのだった。
1
部屋着に着替え、いくらか気持ちが落ち着いたところで、私は再び机によじ登った。そして壁のヒビに顔を近付ける。
テープを向こうに送っただけで安心してはいけない。それに『私』が気付かなくては、何の意味もない。テープに気付き、動画を確認し、内容を理解して、こちらへメッセージを送ってくれてようやくスタートラインなのだ。
いつ『私』がメッセージを送ってくれてもすぐに気付けるように、出来るだけ観察していなくてはならない。
穴の向こう側を覗く。少し胸が高鳴る。
視界の中には『私』の姿は見当たらない。
いったい、何処へ行ったのだろうか。
この位置からでは、あちらの時計は見えない。
部屋の中がこちらと同じ夕焼け色に染まっているから、何時間も時差があるとは思えない。最後に『私』を見かけたのは何時頃だったか。もう数時間は経つはずだ。もしかしてあちらの『私』は、私より先にバイトを始めたのだろうか。それとも床の穴が気味悪くて、別の部屋で過ごしているのだろうか。どちらかというと、後者の方があり得る気がした。
(そういえば私も、妖精さんの穴のことがあってからしばらくは、自分の部屋にいられなかったっけ)
私はひとり苦笑した。
さて、もし別の部屋に避難しているのなら、こうしてずっと覗いていても仕方ないかも知れない。たぶん寝るのは自分の部屋だろうから、夜までは戻って来ないだろう。
(ま、焦ってもしょうがないか)
その時、机の上に置いた携帯がヴヴヴと音を立てて振動した。
壁から顔を離し、机から降りる。
携帯の着信を見ると、先程コンビニで会った彼女からのメールだった。
『件名:マリリンです。
本文:さっきは忙しいところ呼び止めちゃってごめんね。
すっごく懐かしくて、思わずはしゃいじゃいました。
近々、ぜったい一緒にごはん行こうね!
じゃあまた連絡するね~。』
……、うん。直接話すより、こうして文章で見るといくらか真面目な感じがするじゃないか。彼女も大人になったということか。
しかし──、
(マリリン、って……どういうこと?)
少なくとも学生時代、彼女のあだ名は『マリリン』ではなかった。それに、名前はいっさい『マリリン』を連想させないものだ。
(……間違いメール、ってワケないよね)
内容からもそれは絶対にあり得ないだろう。
(まあ……良いか。気にしない、気にしない)
考えたところで無駄だろう。彼女の感性は、私とはあまりにかけ離れている。
しかし、きっとそれが彼女の良いところでもあるのかも知れない。もしもこれから先、彼女と友達付き合いをするとして、もし性格や感覚が似ていれば楽だろうし、親密になるのも簡単だろう。けれど、自分にないものをたくさん持っているであろう彼女と一緒にいれば、自然と未知に触れる機会も増えるだろう。それも、たぶん、楽しい。実際どうなるかは、わからないけれど。
(友達か……)
思えばもうずいぶん、友達と呼べるような人付き合いをしていない。職場には同期で同い年の人間はいなかったし、高卒で就職した私と同い年なのは後輩ばかりだった。だから、というのは言い訳かも知れないが、友達の作りにくい環境であったのは確かだ。
小中高と、ずっと友達がいなかったわけではない。しかし、私が就職してからは話も合わなくなっていき、二十歳を迎える頃には、私は独りになっていた。成人式は……行かなかった。
(そんな私が、ねえ。よりによって、あの子と友達に……)
その時、部屋をノックする音が聞こえた。誰、と考える必要もない。母だ。
「そろそろご飯だから、おりといで」
ドア越しに声が聞こえる。
「はあい」
私は携帯をポケットに突っ込むと、遠ざかる足音を追いかけた。
「さっきね、コンビニで高校の友達に会ったんだよ」
三人分のカレーをよそりながら、私は母に話掛けた。テレビを見ていた父も、こちらを振り向いた。
「へえ、珍しい。誰?」
高校の時のクラスメイトで、家の近い子はおらず、確かにあそこのコンビニで高校の時の友達に会うことは非常に珍しいと言える。そういえば、何であの子はあの店にいたんだろう。
私は母にあの子の名前を伝えた。
「そんな子いたっけ?」
「うーん、ママは会ったことないかも」
「同じクラスの子?」
「一年の時だけ」
「……思い出せない」
「ちょっと派手な子」
「後でアルバム見せてよ」
「あ、うん。そうだね」
ここで、ずっと黙っていた父が口を開いた。
「そういえば、あの子は元気か?」
「あの子って?」
「ほら、あの──」
父が口にした名前は、昔隣の家に住んでいたひとつ年上の女の子の名前だった。
その子は、私が高校に上がる年に遠くの街へ引っ越して行った。その当時、私はまだ携帯を持っていなかったから、個人の連絡先は知らない。住所や家の電話は聞いた気がするが……もうわからない。中学に上がった頃には、もうあまり親しくなくなってしまっていたから、今までそんなに気にもしていなかった。
「うわ、すっごい懐かしいね。もう十年以上連絡取ってないよ。ママは? あの子のお母さんと仲良かったよね?」
「ああ……うん。でも私も、もうずっと連絡とってないなあ……」
母は、何故か微妙な表情だ。何か、あったのだろうか。
「ああ、まあ……そうだなあ」
意外なことに、父もなにやら知っているようだ。
……気になる。
気になる、が──、止めておこう。たぶん、大人の事情というやつなのだろう。
「いただきます」
「いただきます」
どことなく上の空で食べたカレーは、少しだけ水っぽかった。
「さあて、と」
部屋に戻った私は、さっそく机の上に上り、ヒビの穴へと顔をあてた。
「おっ!」
思わず驚きが口から飛び出したのは、向こうの部屋の真ん中に『私』がむつかしい顔をして座っていたからだ。
その目の前には──、あのビデオテープが置いてあった。
(見つけたんだ! 見つけたんだ! わー、わー。すごい。すごいドキドキする。どうしよう。あ、いや、どうしようもないんだけど)
興奮する私の気持ちを知る由もなく、『私』は小さなテープとにらめっこしている。
(大丈夫だよ。怖くないから、早く見てね)
しかし『私』はテープを触ろうともしない。つんつん、とつついては、腕組みをしてにらめっこの繰り返しだ。
(ああ、もう。テープは噛みついてこないからさあ……見てよ、もう)
と言っても、自分だったら怖くて見られないだろうとも思う。自分のことは誰よりもわかるが、だからといってどうすれば良いかわかるわけではないのだ。
(まいったなあ、ビデオレター作戦は失敗かなあ……)
と、その時『私』が意を決したようにテープを手に取ると、そのまま部屋を出て行った。
(お、お、お、何処行く、私)
──、数分後、部屋に戻った『私』は、何と母を連れていた。
私の見つめる中、『私』はおそるおそるカーペットをめくると、母に対して何かを訴え始めた。
床を指さして興奮気味の『私』。
怪訝な顔の母。
何を言っているのか聞くことは出来ないが、内容は想像出来る。
勇気を出して、母に助けを求めたのだ。
……私にはこの結末が想像出来る。
必死に床を指さす『私』。
首を振る母。
哀しそうな顔で──、『私』に語りかける母。
そして、母は部屋から出て行き、後には呆然とした表情の『私』がひとり……。
私は壁からそっと顔を離した。
(……早く、ビデオ見てね)
机から降り、ベッドへと飛び乗る。
何だか、ちょっとだけ哀しい気持ちになってしまった。
(大丈夫だよ。独りじゃないからね)
そう心の中で呟きながら、ほんの少しだけ熱っぽい目頭をそっと押さえた。
時刻は夜の八時。
今夜は、長くなりそうだった。
2
──いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
時計を見ると、十一時半。三時間近く寝ていたようだ。
……頭が痛い。
さっきみた夢が、やけに生々しく思い出された。
──。
私は、ベッドで眠る自分を見下ろしていた。
まるで天井に空いた穴から覗くように、視界は狭い。
でも、私の部屋なのは間違いない。見間違えるはずはない。
屋根裏から、覗いているのだろうか。
自分の周りの様子はわからない。
穴から視線を外すことは出来ない。
──寝返りをうつ私。
そのベッドの横のカーペットが、少しだけめくれている。
そこには……、
(ああ、穴だ)
穴が空いている。
懐かしい、あの穴が……。
(あの穴の向こうの世界は、いったいどんな悩みを抱えてるんだろう)
ふと、そんなことを思う。
──覗きたい。
──行きたい。
あの穴の向こうへ。
あの、不思議で、素敵な穴の向こうへ……。
──ただ、それだけの夢だった。
ただ、それだけなのだけれど……。
(何か……妙にリアルな夢だったな。ちょっと、気味が悪いや……)
ゆっくりと体を起こし、ベッドから降りる。
喉がカラカラに渇いていた。
お茶でも飲もうと、階下へと向かった。
頭が、ジンジンと痛んだ。
冷たいお茶を飲むと、いくらか気分が良くなった。
リビングでは母が一人でテレビを見ていた。
朝の早い父は、いつもこの時間にはもう寝ている。
「あんた、何か顔色悪いけどどうしたの?」
「うん。ちょっと、寝ちゃって……」
「ヤな夢でもみた?」
さすが親、と言うべきか。
「ちょっとね……」
「来週からバイトなんだから、生活のリズム正さないとダメよ」
「そうだね」
この半年、そこまでだらだらと過していたわけではないが、仕事をしていた頃と比べたらずっとだらけた暮らしをしてきた。バイトは朝からのシフトも少なくないようだし、規則正しい生活へと戻さなくてはいけないだろう。
「おやすみ」
「今起きたんでしょ? 寝れるの?」
「うーん、でも寝なきゃ」
「そう。じゃ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
お茶を注いだコップを片手に、私は自分の部屋へと戻った。
(さて……)
いくらか暗い気持ちで、机の上に登った。
寝る前に、『私』の様子をどうしても確認しておきたかった。
そっと、穴を覗く。
暗い。部屋の電気は消されているようだ。
(寝てるのかな? それとも……)
その時、視界の隅にぼんやりとした灯りが浮かんだ。その灯りは小さく瞬きながら、ベッドの上にしゃがみ込んだ『私』の顔を照らした。
(……あ、ビデオだ! 見てるんだ!)
どうやら『私』はビデオを手に持ち、小さなモニターで映像を見ているようだ。よく見ると、耳にはイヤホンを付けている。
(私の送ったビデオを見てるのかな。きっと、そうだよね。意外と子供の頃のビデオを見てるとか? いやいや、まさかね……)
耳が痛いくらいに鼓動が早くなる。『私』は身動ぎひとつせず、モニターを見つめている。
(──そんなに、長い動画じゃないと思うんだけど……。何度も見てるのかな。そんなに何回も見返さなくても……。いや、見るか。私でも見るな。繰り返し)
その時、おもむろに『私』が立ち上がった。
カメラを手にこちらへ向かってくる。
(わわ、こっち来た!)
思わず顔をヒビから離す。
(あ、でも穴が見えてるわけ……ないよ、ね?)
改めて穴を覗く。
明かりをつけたのか。部屋の中が明るい。
視界の隅──下の方に『私』の頭が見えた。机に向かって、何かを書いているようだ。
(もしかして……)
私が思った通り、再び立ち上がった『私』は一枚の紙を手にしていた。
そして、その紙をベッド側の壁にテープで貼り付けだした。四方を貼り終わると、『私』はベッドから降り、部屋の真ん中に仁王立ちになった。
私は、壁に貼られた紙を見る。そこには──、
(『OK』って書いてある! やった! ビデオレター作戦成功だ!)
ついに『もう一人の自分』とのコミュニケーションを取ることに成功したのだ。
(やったあ! 嬉しい、これは嬉しいぞ! よおし、さあ──、あれ? えっと、これから、どうするんだっけ……)
何も、考えていなかった。
(しまったあ! うわああ、何てバカなんだ私は! この後のこと、何にも考えてないじゃん!)
穴の向こうでは『私』が、返事を待つかのように立ち尽くしている。
(待ってる、待ってるよ『私』。え、え、どうする? さあて? どうする?)
軽いパニックに陥った私は、ひとまず壁から顔を離した。
(落ち着け。落ち着いて考えるんだ──。あ、そうだビデオ! またビデオを送ろう! って……さっきテープ一本しか買わなかったから、無理じゃん)
何から何まで段取りが悪い。気持ちはどんどん追い詰められていく。
部屋の中を見渡す。何か、何かないか……。
(あ、ノート!)
机の上に立てかけられた、私が穴の世界について書き留めたノートが目にとまった。しかし、ノートは壁のヒビよりずいぶん大きい。折ったり曲げたりしても通らないだろう。
(ああ、もう、どうしよう。行っちゃう? 行っちゃうか? いや、ダメだ。それだけはダメ。じゃあ……もお、わっかんないよお)
取りあえず、このまま放置するわけにはいかない。
穴の向こうでは、きっと『私』が返事を待っているだろう。
(ええい、仕方ない。素直に手紙を書こう!)
いっても相手は自分自身。気取っても仕方がないだろう。
私は机に向かうとペンを手に取り、適当な便せんに手紙を書き始めた。
(ええと……「お返事ありがとう。」と。で……、「ごめんなさい、返事くれた後どうしようか考えてませんでした。明日にはちゃんとまとめて手紙送るね。」だな。うわあ、かっこ悪いなあ、私……)
書きながら、顔が赤くなっていくのを感じた。情けない。
(あとは……、「心配しないでね。危険はないから。」あ、あとそうだ「今夜はゆっくり寝て下さい。明日から一緒に頑張ろうね!」こんなんでどうだ?)
よし、これを向こうへ送ろう。
便せんを丸めて手に持ち、机の上によじ登る。
──しかし、穴から手紙が出てくるところを、見られてしまうのはどうだろう。
穴を覗くと、まだ『私』はこちらを見ている。
(……仕方ないか。うん、たぶん、これは仕方ない)
少し待った方が良い気はするが、耐えられそうにない。
私はいったん壁から顔を離すと、思い切って手紙を穴の向こうへと落とした。
(いった!)
すぐさま、穴を覗く。
そこには驚いた顔で硬直する『私』の姿があった。
おそらく、壁の中から突然現われた便せんに驚いたのだろう。
(ああ、やっぱり見てない時に落とすべきだったかあ……)
おそるおそる、こちらへ近付いてくる『私』。ゆっくりと手を伸ばし、便せんを手に取った。震える手で、それを開く。
(良かった、読んでくれてる)
ふいに、『私』の表情が緩んだ。初めて見る、自分の笑顔だ。
(笑われてるなあ……。そうだよね、笑うよね。まあいっか。結果おーらいだ)
読み終わった手紙をきちんとたたむと、『私』がこちらの方へと近付いて来た。
そして、壁に手をつくと、きょろきょろと何かを探し始めた。たぶん、穴を探しているのだろう。しかし──いや、やはりというか──穴は見つからないようだ。
しばらく探した後、諦めたように机の傍から離れると、今度はベッドの方へと向かった。そして、壁に貼られた『OK』の紙を指さした。
(了解、ってことかな?)
おそらく、そうなのだろう。『私』は天井の明かりを消すと、ベッドへと潜り込んだ。そして、何処にともなく手を振った。
(おやすみ、ってことかな)
体から緊張が解けていくのを感じた。
大成功、ではないかも知れないが、一応ファーストコンタクトは成功といえるだろう。
安心すると同時に、一気に眠気が襲ってきた。
(私も寝るか……)
電気を消して、ベッドへと倒れ込む。こそばゆいような既視感を感じる。
(朝起きたら、また手紙書かなきゃ)
自然と目蓋が落ちてくる。抗えない。
(おやすみ)
私は、誰にともなく呟いた。
3
「よし」
朝ご飯を食べ終わった私は、机に向かって気合いを入れた。
明後日からバイトが始まる。出来ればその前に、この壁のヒビを塞いで、すっきりとした気持ちで新生活を迎えたい。そのためにも、今から『自分』に宛てて書く手紙は非常に重要である。
さて、どういった内容にするべきか。
あちらに空いている穴は、わかっている限りでは七つ。こちらの世界とは穴の数が違うが、穴の向こうの世界は同じとしたら、そのうち私が知っている穴は五つ。いきなり全ての解決法を教えるべきだろうか。
いや、まずは穴についての基礎知識を教えるべきだろう。
(ええっと……)
穴についてのことをまとめたノートを開き、要点を便せんに書き出していく。
『昨日は準備不足でごめんね。
知ってるかも知れないけど、穴の向こうにはこちらとは全く違った世界が広がっています。そして、穴の向こうの世界は、それぞれ何かしらの悩みを抱えています。その悩みを解決することが、穴を塞ぐ唯一の方法です。
私は、あなたの部屋に空いた穴のうち、五つの穴についての解決法を知っています。解決するには順番も重要になるから、一つずつ教えるね。
まずは穴についての基礎知識を伝えます。
・いつの間にか空いている。増えることもある。
・大きさは直径2センチくらいでまんまる。大きさは変化することもある。
・深さはひとさし指の第一関節よりちょっと深いくらい。奥まで入れるとちょっと痛い。
・縁はすべすべしている。指を掛けてぐいっとすると、拡がって中に入ることが出来る。(解決するまで帰って来れないから注意してね!)
・こちらからあちらを覗くことは出来るが、向こう側からこちらを見ることは出来ない。
・お互いの声や音も聞こえない。
・中に物を落とすことが可能。(でも危ないから絶対やっちゃダメだよ!)
・中から物を持ち帰ることも可能。(これ、解決のための重要ポイントね!)
・穴の中の時間は、その穴によって流れる速さが違う。(今お仕事とかしてる? 気を付けてね!)
・穴の中とこちらでは、物理法則が異なる。(火とかは絶対に持ち込み禁止だからね!)
・穴の中で私は不思議な力を使うことが出来る。(これはまた改めて教えるね)
・穴は私にしか見えない。(少なくともママには見えない。パパは未確認)
・穴の中から持ち帰ったものも、私にしか見えない。
他にもあるけれど、重要なのはこれくらいかな。
穴の世界の攻略法は次の手紙から書いていくね。
最後に──、今私は机の少し上(机に登ってしゃがんだ高さぐらい)の壁に現われたヒビからそちらを覗いています。そっちからは見えないみたいだけど、もし良かったら、壁にポスターとか貼っておくと良いと思います。じろじろ覗いたりはしないけど、なんか、ちょっとヤだよね? たぶんそれで塞げると思うから。ただ、手紙が送れるように、ポスターは上部分だけを留めてね。
それじゃあ、一緒に頑張ろうね!』
(……こんな感じかな)
書いた手紙を読み返してみる。仕事以外での手紙なんてもう何年も書いていないから、何となく文章がおかしい気がしてしまう。ビデオレターの時も悩んだが、自分相手に敬語を使うべきか、それとも気さくな感じで話し掛けるか、悩ましいところだ。『もう一人の自分』と話した経験のある人がいたら、ぜひとも教えて欲しいものだ。
(ま、いっか)
ピンクちゃんや謎の影とは違って、相手は人間。しかも自分だ。意思の疎通も出来るし、言葉だって通じる。もしも手紙の内容に足りない点があれば、あっちから質問してくるだろう。
(よし、じゃあ投函するかな)
便せんを丸めて手に持ち、机の上へとよじ登る。だんだんと、この行儀の悪い行為にも慣れてきてしまった。良くない傾向である。
壁に貼ったポストカードを外す。ヒビの大きさは、あれから変化していないようだ。こうしてアプローチしていることで、あちらの世界の悩みが少しずつ解決に向かっている証拠だろうか。
手紙を送る前に、穴を覗いて見る。『私』は、今何をしているだろう。
(あ、いた)
『私』は部屋の中央付近に、四つん這いの格好でいた。カーペットは捲られている。どうやら、穴を覗いてみようとしているようだ。
(えっと、あの穴は……『洞窟の穴』、かな? あ、いや、違うな。『洞窟の穴』は向こうだ。ってことは……)
『私』が覗こうとしているのは、私にとって未知の穴だった。
(ちょっと待って、ちょっと待って。その穴についてはアドバイスできないから!)
もしもうっかりあの穴の向こうへ行ってしまったら、いったい何が待っているかわからない。まずは私が把握している世界から順に攻略していって欲しい。
私は慌てて便せんを穴の向こうへと落とした。落ちた時に音を立てるかはわからないが、もし音がすれば気が付いて観察を中断してくれるかも知れない。
便せんを落としてすぐ、再びヒビの向こうを覗く。
こちらを向いた『私』と目が合った。
(良かった。気付いてくれたんだ)
手紙を拾って読む『私』。
(何か、目の前で自分が書いた手紙読まれるのって……恥ずかしいなあ)
しばらくそのまま見ていると、手紙を読み終わった『私』が微妙な表情でこちらを向いた。覗かれていると知って、気分を害しただろうか。もちろん、良い気はしないだろう。『私』は目を閉じ、何か考えている様子だ。三十秒くらいそのまま考えていたが、徐ろに机に向かうと、何か書き始めた。
(何だろう?)
五分程すると、今度は立ち上がって何かを探し始めた。何だろうか、と見ていると、机の上にブックエンドを立て、そこに今書いたものを貼り付けた。どうやら、私に内容を見せようとしているらしい。
(あ、手紙の返事かな)
目を凝らしてよく見るが、高さはちょうど良いのだが、少し遠くて読めない。
仕方が無いので、手元にあったメモ用紙に『ごめん、もうちょっと壁に近付けて』と書いて投函した。
(そうそう、ありがとう)
メモを読んだ『私』はすぐにブックエンドをこちらへ近付けてくれた。
(ええっと……、なになに……)
『お手紙ありがとう。
段取りが悪いのは、どこの世界の私も同じだねえ(しみじみ)。
色々教えてくれて助かる!
後でよく読み返しておくね。
穴が現われてから今まで、誰にも相談出来なくて辛かったんだ。
怖くて、まだ一つしか覗いたことないんだけど、真っ暗でよくわからなかったし……。
同じ私なのに、そっちの私は勇気あるね。
助けてくれると、本当に心強いです。
私も頑張ってこの穴を塞がないとね。
最後に、自分相手に変だけど、一応自己紹介……的な?
今仕事はしていません。
そっちの私は仕事続けてるのかな?
私は今年の始めに仕事を辞めてしまったので、今は恥ずかしいけどニートしてます。
この穴を塞ぐことができたら、また仕事しようかな。
ごめんね、ぐだぐだな手紙で(汗)。
もっと色々話したいけど、それはまた今度……。
では、次のお手紙待ってます!』
手紙を読み終わった私は、ひとまず机から降りると、そのままベッドに飛び込んだ。何だか、妙に興奮している。
(いやあ……すごいなあ。自分とお手紙交換しちゃったよ。変な感じ。あっちも私自身なのに、何だか別の人間みたいな気もする……。ま、そりゃそうだよね。中身が一緒で、考え方が一緒でも、この瞬間考えていることは違うんだもんね。その小さな違いが積み重なれば……。双子って、こんな感じなのかな)
枕を抱き寄せ、顔を埋める。
(そういえば、あっちの『私』はまだバイト見つけてないんだな……。んんん、もっと知りたいなあ、『私』のこと)
まるで、新しい友達が出来たかのように、気持ちが高揚している。
そういえば、友達といえば──、
その時、まるで私の気持ちに気付いたかのように、ポケットに入れていた携帯が振動した。メールだ。相手はもちろん、あの子。
『件名:マリリンです。
本文:明日駅前でお茶しない?』
(……簡潔なメールだなあ)
さて、こちらの友達には何と返事しようかと、私はゆっくり起き上がった。
4
私は、悩んでいた。
今、私の目の前には二つの便せんが並べておいてある。
一通には『水槽の穴』『ピンクちゃんの穴』『洞窟の穴』に関しての一連の攻略法が書いてある。もう一通には『プラちゃんの穴』『妖精さんの穴』に関しての攻略法を書いた。
私が悩んでいるのは、どちらを送るかということではない。
これを送るか否か、ということである。
今更何を悩むのか、と思われるかも知れないが、理由を説明するのは簡単ではない。
私は、あの不思議な世界を観察し、自ら立ち向かい、色々な経験をし、一回りも二回りも成長することが出来た(たぶん)。その機会を『私』から奪って、本当に良いものだろうか。先程まではいかにしてこのヒビを(速やかに)塞ぐか、ということしか考えていなかったが、攻略法をしたためるに至って、急に不安になったのだった。
(ううむ……どうしよう……いや、ああ、ううん……)
解決法が一つしかないのはわかっている。
彼女──『もう一人の私』──に自ら観察し、世界を救う方法を見つけ出してもらうのだ。
(でもなあ……早くヒビは塞いじゃいたいんだよなあ……)
向こうの世界の悩みや状況がわかった今となっては、別にヒビが空いたままでも生活に支障はないと思われる。しかし、床の穴の時を思うと、早く塞がないとこれからどんどんヒビが増えてしまう気がしてならない。放っておいても大丈夫とは思っても、ただ放っておくのも落ち着かないのだ。とはいえ口を出せば切りがない。
(小学生の時を思い出すなあ……自分より後にゲームを買った子に、攻略法を教えたいけど、教えちゃわるいよなあ、的な感じ……もしくは友達より先に攻略本を買っちゃった、みたいな、ね)
『異世界を救う』ということをゲーム感覚、遊び半分で考えているわけではないが、あれだけ特殊で唯一無二の世界だ、せっかくなら堪能して欲しい。
(まあ、悩んでもしょうがない。いや、悩んじゃったもんはしょうがない)
私は二つの便せんを抽斗にしまうと、新しい便せんにペンを走らせた。
『こんにちは。
書き出し、ちょっと悩むね(苦笑)
さっきは穴を塞ぐ方法を教えるって言ったけど、ちょっと色々考えて、方法を直接教えるんじゃなくて、アドバイスだけを伝えていくことにしました。
いじわるとかそういうんじゃなくて、私はその不思議な世界を観察して、悩んで考えて、そして勇気を出して行動して……その結果すごく成長出来たから。
だから、あなたにも、そうして欲しいと思ったからです。
この、普通はぜっっったいに経験できないような不思議な出来事を、楽しんで欲しいと思ったからです。
不安に感じるかも知れないけど、大丈夫。
同じ『私』だもん。
私に出来たんだから、楽勝だって!
それでは、最初のアドバイスね。
まずは、怖がらずに全ての穴の中をよく観察してみてください。(安易に中には入らないようにね!)
もしも何か迷ったりしたときは、またお手紙ちょうだいね!
時々、そっちを覗くようにするから。
ごめんね。解決法を教えるって言ったのに。
でも、絶対後悔はしないはず。
またお手紙書きます。
じゃあ頑張ってね!』
(……これで、良いかな)
私は少し悩みながらも、その便せんをヒビの向こうへと送った。
──数時間後。
私がそっとヒビの向こうを覗くと、そこには『私』からの手紙があった。
『アドバイスありがとう!
ずっとこわくて放置しちゃってたけど、あなたからの手紙を見ていたら、何だか急に穴の向こうの世界が気になってきちゃいました。
今はわくわくしています。
あなたにできたなら、私にもできるよね。
だって、同じ自分だもん。
では、頑張ります!
(もしわからなくなったら……その時は助けてね)』
簡潔な手紙はハートマークで締めくくられていた。
私はほっと胸を撫で下ろす。
どうやら自分で解決する気になってくれたようだ。
もしかしたら、これでヒビも塞がってくれるかも知れない。
(何にせよ、良かった良かった)
私は『私』に「頑張ってね!」とだけ書いた返事を送った。
そして、数日が経った。
月曜から始まったバイトは覚えることは沢山だったが、それが余計に楽しく感じられた。店長も他のスタッフも(おばさんがほとんどだ)みんな良い人で、私はすぐに打ち解けることが出来た。
当面、私の仕事はレジ打ちだけだ。値札のないパンの値段を覚えるのは少し難しかったが、先輩が横からさりげなくフォローしてくれるので安心だ。
私のシフトは基本的に午後からのみだが、木曜日と定休日である日曜以外は十三時から閉店の十八時まで、祝日もお構いなしに仕事だ。終日の仕事ではないといえ、怠けきった体に久々の労働はなかなかに堪えた。
彼女が来たのは昨日──水曜日のことだった。
「え? やだー。すごーい。ぐうぜーん」
私は彼女が店内に入った瞬間に気付いていたが、彼女はレジに立ってようやく気付いたようだ。
彼女──マリリン──は飛び跳ねんばかりのテンションで言った。
「ねえ、バイト何時まで?」
「え……あ、うん六時までだよ」
「そっかあ、ざんねーん」
何が残念なのだろう。彼女の話はよく大事なところが欠けている。
「家、近くなの?」
店内に客は彼女しかいなかったので、私はレジを打ちながら気になっていた質問をした。メールで聞いても良かったが、ひととメールなどずいぶんしていなかったので、面倒に思えてしまったのだ。
「ううん。家はこないだ会ったコンビニの近くだよー。先月越してきたんだー」
そうか、だから今まで遭遇することがなかったのか。
「じゃあまた日曜にねー」
会計を済ませた彼女は、にこにこと手を振って店を出て行った。
日曜──。
そう私達は次の日曜日、駅前のカフェでお茶をする約束になっていた。最初はお酒を飲みに、と誘われたが、残念ながら私は下戸だ。別に無理に勧めてこないなら行ってもかまわないのだが、相手に勝手に酔い潰れられるのも困るので、昼過ぎにお茶でも、ということにした。
何だか、すっかり友達という感じだ。
(良いのかな……)
ふと思った。
何に対しての不安なのかはわからない。彼女と友達になることに良いも悪いもないと思うが、友達作りなど久しくしていなかったので『友達』という関係に具体的なイメージが湧かないからかも知れない。
(彼女と話してると、楽しい?)
自問自答。
(……楽しい、かな。昔は苦手だったんだけどな……)
同じクラスだった高校一年生の頃、私達はどんな会話を交しただろうか。
(……ううん。だめだめ、こんなこと考えちゃ)
打算的な考えや損得勘定に似た思いを慌ててかき消す。
そうだ、友達ってものは、そんな風に作るものじゃなかったはずだ。
(もっと知りたいから会って話す。楽しいから一緒にいる。ただそれだけで良いじゃない)
子供の頃は、何も考えずに友達になれたはずだ。高校の頃だって……。私はいつからこんな風になってしまったのだろうか。
(友達、か……)
その後は、ずっともやもやした気持ちで仕事をした。
「ただいま」
家に帰ったのは二十時少し前。
「おう、おかえり」
父はすでに食卓について、私の帰りを待っていた。台所からは母の料理する音が聞こえる。
「ご飯もう出来るからね!」
「じゃあすぐ着替えてくる!」
母の大きな声に、こちらも大きな声で返す。
階段を登る足が少し疲れている。レジ打ちは立ち仕事。早くなれなくては。
自分の部屋に入る。
何気なくヒビのある壁に目をやる。
そういえば今週は一度も覗けていない、『私』は大丈夫だろうか──。
(……あれ?)
一度ベッドの方を向いた視線を、ゆっくりとまた机の方へと動かす。
机の少し上部。壁に貼ったポストカードから、ヒビが大胆にはみ出している。
それはつまり──、
(何か『私』にあったんだ!)
慌てて壁に駆け寄ろうとする。
その時、
「出来たわよー」
階下から母の声。
「あ、ん、もう……はーい!」
ひとまず着替えて階下に向かう。
夕食の間中、私は『私』のことを考えていた。
上の空の私は、五分程の食事の中で四回も舌を噛んでしまったのだった。
第十話
1
昨夜は遅くまでヒビの向こうを観察していた。『私』の姿は部屋の中になく、いくら角度を変えても目を凝らしても、いったい何が起きたのかを確認することは出来なかった。
ヒビの大きさが変化したということは、向こうの世界に何らかの緊急事態が起きているということだろう。とすると、『私』が部屋にいない理由が単に外出ということは考えられない。おそらく、穴の向こうの世界に行き、そこで何かがあったのだ。
(もう……注意してって言ったのに……)
いったいどの世界へと行ったのだろうか。解決する順番を誤れば、何が起こるのか想像もつかない。今思えば、私はよく全ての穴を塞げたものだ。
(行くしか、ないよね……)
幸い、今日は木曜日。バイトは休みだ。今が朝の九時だから、最大で明日の昼までの約二十七時間は自由に使えるわけだ。
母には朝食の時に「ちょっと遠出してくる」と伝えた。何処に、と言う母からの質問に対しては、家からだいたい三時間くらいで行ける観光地の名前を答えた。他にも色々と聞きたい様子だったが、「帰り遅くなると思う。夕飯いらないから」と早口で伝え、自分の部屋へと逃げ込んだ。
(ああもう、覚悟決めるしかないか)
一応バイトに金曜休むと伝えた方が良いか迷ったが、心配していたらキリがない。バイトのシフト上、連休になることはまずないので、今日行く以外の選択枝はないのだ。
(ええい!)
私はぎゅっと目を瞑ると、壁に空いたヒビに手を掛けた。
そして、ぐいっと横に拡げ──。
(……あれ?)
ぐいっと横に──。
(拡がらないな……)
今度は目を開け、もう一度ヒビを拡げようと手を動かす。
しかし、ヒビはびくともしなかった。
(え、うそ。行けないじゃん。じゃあどうしろってのよ)
その後も、あの手この手試してみたが徒労に終わった。
私はふらふらと机を降りるとベッドに倒れ込んだ。
(どうする。どうしたら良い。考えろ、考えろ)
ヒビを拡げることが出来ないなら、もっとヒビが大きくなるまで待つか。
しかし、それではいつになるかわからない。それに手遅れになってしまう可能性もある。
ヒビは以前より拡がったとはいえ、片腕を通すのがやっとという大きさだ。無理に潜ることは絶対に不可能である。
それならば救援物資を送るしかないか。
しかし、何を?
それに『私』はおそらく穴の中──しかも七つあるうちのどの穴に入ったかもわからない──これではどう頑張っても物資を渡すことは不可能だ。
(どうする、どうする。ああ、わっかんないよう)
ベッドから飛び降り、机への方へと向かう。とにかく、何か行動をせねば。
(……ん?)
その時、足の下──カーペットの下に何か違和感を覚えた。
いや『何か』ではない。
この感触は──。
私は慌ててカーペットを捲った。
するとそこには、思った通り二つの新しい穴が空いていた。
「やった!」
思わず声に出た。
これで解決の糸口がつかめるかも知れない。
私ははやる気持ちを抑え、深呼吸と伸びをする。そして部屋の扉に鍵を掛けた。
焦ってはいけない。穴が空いているということは、向こうの世界が困っているということだ。『私』の救出も最重要事項だが、ここで焦って妖精さんの時の悲劇を繰り返してはならない。
穴の数は二つ。
一つは部屋の扉近く。
もう一つは部屋の真ん中より少し机寄りの位置だ。
他に穴がないということは、おそらく『私』はどちらかの穴の中にいるに違いない。根拠など全くないが、私にはそれ以外考えられなかった。
さて、どちらから覗いてみようか。部屋の真ん中に立って、私は腕を組んだ。
いや、悩む時間ももったいない。
取りあえず、足下の穴から覗いてみることにしよう。
鼓動がおさまるのを待って、私は床に這いつくばった。久し振りの情けない姿勢に、思わず笑みがこぼれる。
穴に顔を近付ける。
再び鼓動が早くなるのを感じた。
──。
穴の向こうは真っ暗だった。
よく目を凝らしてみるが、何も見えない。
一瞬、何処にも繋がっていないのでは、と不安になる。
しかし、そこに空間が広がっていることは何となくわかった。
状況としては『プラちゃんの穴』の時と似ているが、闇はあの時よりも深い気がした。
いったん穴から顔を離す。
四つん這いの姿勢のまま、扉の方へと向かう。
そして、もう一つの穴に顔を近付ける。
──。
先程の穴の中とは一転して、こちらは真っ白に輝く世界が広がっていた。
雪……ではないようだ。壁も床も白い部屋だろうか。白すぎて凹凸も距離感もつかめない。
もう少しだけ、観察を続ける。
すると、突然床から黒い球体が出現した。
それも一個や二個ではない。ランダムな間隔で大小さまざまな球体が、まるで床から生えてきたかのように現われたのだ。
球体の表面は艶やかで、どこか水滴を思わせる。
私は角度を変えながら、球体の林の中に『私』の姿を探した。
しかし、人影は見えない。
不安や焦りが、少しずつ絶望へと色を変えていく。
いけない。まだ諦めるような状況ではない。
ひとまず立ち上がり、深呼吸をした。
『球体の穴』の中に『私』の姿は見えなかった。もしかしたら、球体の中に入り込んでしまっているのだろうか。あんな得体の知れないものに触れでもしたら──、悪い想像はとめどない。ついつい悪い方へ悪い方へ考えてしまいそうになる。少しでも、希望を持たなくては。
『真っ暗な穴』の方は、何も観察することが出来なかった。プラちゃんの時のように、しばらく観察していたら状況は変わるだろうか。
試しにもう一度覗いてみる。
先程と変わらない、濃厚な闇が横たわっているのみだ。
もしかしたら、明るくすれば中を探すことが出来るかも知れない。
でも、どうやって?
懐中電灯を持ち込むのは不安だった。マッチなど火の類いは問題外だ。
以前プラちゃんにもらった、あの光の球があれば、あるいは可能かも知れない。
だが光の球は妖精さんの世界を暖めるために使ってしまった。
……あの不思議な力で何とか出来ないだろうか。
『洞窟の穴』の中で目をこすった時。私の視力は一時的に向上し、暗い洞窟の中もまるで陽の光の下のように明るく見通せた。
確信はなくとも、今はこの方法しかないように思われた。
この闇の中に『私』がいる。
根拠はないが、不思議と確信があった。
(行くしか、ないか……)
いわば丸腰である今の状態が、酷く心許なく感じられた。
五つの穴を塞いだ時は、どうして何も持たずに向こうへ行くことが怖くなかったんだろう。いや、怖がりながらも行ったのだったか。よく、思い出せない。
壁のヒビを見る。
昨夜から目に見えて拡がってはいないようだ。
状況は悪化も好転もしていないということか。
時計を見る。
午前十時。
いつの間にか一時間も経っている。
この穴の中の時間はどれくらいの早さで進んでいるのだろう。
新たな不安が湧き上がる。
もしすごいスピードで時間が流れていたら……。
あの頃と今とでは、生活環境が変わってしまった。始めたばかりのバイトを休みたくはない。親に心配をかけるのだっていやだ。
悩んでいる場合でないのはわかっている。
『私』を助けたい。助けてあげることに迷いはない。
なのに、思い切りがつかない。
真っ暗な穴の中を覗く。
何も見えない。
もし自分も戻れなくなってしまったら、誰か助けに来てくれるのだろうか。
行かない方が正解なのではないか……。もう少し様子をみた方が……。
いや、こうしていたってきっと何も変わらない。
変えるには──、
(行動しかない!)
私は渦巻く不安を無理矢理押し込め、穴の縁に指を掛けた。
そして、ぐいっと拡げる。
先程ヒビを拡げようとした時とは明らかに違う感覚。
私の体は、懐かしい浮遊感に包まれていった。
2
上も下もない世界に私はいた。
数ヶ月ぶりに感じる、この不思議な感覚。
何も見えず、何も聞こえない。
そろそろ向こうの世界へ着くだろうか。
以前穴に入った時は、向こう側へ到着すると足先に感触を感じた。
まだだろうか……。
何だか長く感じる。
いつの間にか閉じていた目を、思い切って開けてみる。
────。
目を開けたはずなのに、何も見えない。
何も感じない。
上から覗いていた時のように、艶も奥行きもない黒が視界を埋め尽くしている。
どうしたのだろう。
上手く向こうの世界へ行けず、おかしなところに迷い込んでしまったのだろうか。
ぞくりと背筋が寒くなる。
怖くなって、手足を動かしてみる。
触感と呼べるようなものは何も感じないが、どうやら手足自体は動かせているようだ。
(どうしよう……あ、そうだ!)
はっとして両手で目をこすった。
すると、少しずつ視界に像が現われた。
(あ、良かった良かった)
それはまるで古いコンピューターゲームのような景色だった。真っ暗な中に深緑のグリッド線が縦横無尽に走っている。その線は1メートル四方の格子状になっていて、私の足下に凹凸なく広がっている。今のところ、壁のようなものは見えない。上を向いても同様だ。天井は見えない。今はただ、果てなく広がるグリッド線のタイルの上を歩くしか選択枝はないようだ。
短く息を吐いて、歩き出す。
少し歩いて、辺りを見渡す。
景色に変化は何もない。
頭を振って不安をかき消す。
少し歩いて、見渡す。
また少し歩いて、見渡す。
正直、怖くて泣き出しそうだった。
今まで行った世界とは何かが違う。
これがこの世界の『悩み』だというのだろうか。
──どれくらい歩いただろう。
不意に、遠くの方に垂直に伸びたグリッド線が見えた。
壁だろうか。
思わず駆け足になる。
疲れは一切感じなかった。息が切れることもない。
思っていたよりもすぐに、壁のふもとへと辿り着いた。
上を向いても、相変わらず天井は見えない。左右と上方に何処までもそそり立つタイルの壁だ。
壁に手を触れてみる。感触はない。
さて、どちらに行こう。
重力は下方に働いているらしく、上方へ登ることは難しそうだ。もしかしたら不思議な力を使って飛ぶことは出来るかも知れないが、リスクを冒してまで上方を目指す理由はなにもない。
では、左右どちらかに向かうか。
迷っている時間がもったいない。私は壁に左手をついて、右の方へと歩き出した。
しばらく進むと、壁面のグリッド線が一部乱れているところを見つけた。
それはまるで──、
(ヒビだ、これ……)
私の部屋にあったヒビと似た形に見える。
この向こうに『私』はいるのだろうか。
小さく震える手で、縁に手を掛けてみる。
潜れる大きさではない。もし拡げることが出来なければ、向こう側へ行くことは出来ない。
ゆっくりと、ヒビを拡げようとしてみる。
すろと、私の手の動きに合わせて穴は拡がっていった。
(やったあ!)
心の中でガッツポーズをする。
穴はするすると大きさを変え、私が潜れるくらいのサイズになった。
(……あれ?)
てっきり床に空いた穴と同様、穴を拡げると勝手に体は吸い込まれていくのだと思った。
しかし、ヒビの場合は違うらしい。
(自主的に通らないとダメ、なのかな?)
ならば仕方がない。女は度胸、だ。
右足から少しずつ、ヒビの向こうへと差し入れる。
特に何も感じることなく、足は向こう側へと着いた。
少しだけほっとする。
体の半分が通ったところで、頭を少し下げて潜る。
すると、ふいに視界が歪む程のめまいを感じた。
(う、わ……おえ……何これ……)
思わずその場にへたり込む。
視界がまわる。目がチカチカする。
嘔気を感じた。しかし、胃酸が逆流する気配はない。
上手く表現出来ないが、とにかく気持ちが悪い。
ヒビを潜ったせいだろうか。
気分が落ち着くまで、しばらくかかった。
(ああ、気持ち悪かったあ……)
ゆっくりと立ち上がる。
まだ少しふらつくが、早く『私』を探さなくてはならない。
気持ちを奮い立たせ歩き出す。
こちらの景色も先程までと変わらない。どこまでも続くタイルの海だ。
しばらく歩くと、遠くに人影を見つけた。
どれだけ遠目でも見間違えるはずがない。あれは『私』だ。
「おーい! 助けに来たよ!」
大声で呼びかけながら駆け寄る。
聞こえないのだろうか、『私』は膝を抱えて座り込んだまま、微動だにしない。
目の前まで辿り着いたが、やはり無反応だ。
一瞬悩んでから、自分の手でそっと『私』の目に触れた。
何かを感じたのか、『私』が驚いた表情でこちらを見た。
視線と視線が重なる。
今度は『私』の耳に触れ、そのまま口にも触れる。
「助けに来たよ」
私が優しく声を掛けると、『私』はぽろぽろと涙を零した。
まるで子供のように泣きじゃくる。無理もない、こんな何もない空間に五感を塞がれた状況でひとりぼっちでいたのだ。
『私』が泣き止むのを待ってから、改めて声を掛ける。
「お待たせ」
「怖かったよう……」
また涙が零れ落ちた。
「ごめんね。ここ、私も知らないところなんだよね。もう少し、教えてあげれば良かった」
「ううん。不用意に入り込んだ私が悪いんだよ。でも、ほんとに怖かった……」
「もう安心だからね。一緒にここから出よう」
「うん。あ、ねえ、今のってどうやったの?」
「今の、って?」
「目、見えるようにしてくれたでしょ?」
「ああ、そのことね。それなら──」
私は自分の使える不思議な力について説明した。私が使えるのだから、『私』も使えるだろう。
「すごいね、私。そんなこと出来るんだ」
「あなたも使えるはずだよ」
「わかった。覚えておくね」
ようやく『私』に笑顔が戻った。
私はその場に腰をおろした。
もちろんゆっくりしている時間などない。
しかし、『私』を見つけられたことで安心したのか、せっかくのこの機会を楽しみたいという気持ちもある。
「はじめまして」
小さく頭を下げる。
「はじめまして」
まるで鏡を見ているようだ。
何だか照れくさい。
あっちもそう感じているのか、視線が合いそうで合わない。
「私達って、どれくらい同じなんだろうね」
これは『私』。
「うん。少し少し違うみたいだね」
これは私。
「隣同士の世界だし、ほとんど一緒なのかな?」
「SFとかだとそうだよね」
「でも、私は穴を放置しちゃったから……」
言って『私』は肩を落とした。
そう。おそらくは『私』が穴をそのままにした結果なのだろう。
ヒビが出来たのも、こうして今二人で話しているのも。
「大丈夫。まだ間に合うよ」
私は努めて明るく言った。
立ち上がり、『私』に手を差し伸べる。
「行こう。この世界を二人で救おう!」
「……うん!」
元気よく答えた『私』は、私の手を取り立ち上がった。
「で、どうやって救うの?」
「ええっとそれは……」
仲良く手を繋いでしばらく歩いてはみたが、景色に変化は全く見られない。
そもそも、この世界の悩みが何なのかさえ、私は知らなかった。
「……ごめん。まだわかんない」
「そっか……」
それきり、二人は黙り込んでしまった。
先に口を開いたのは『私』の方だった。
「ねえ、何か感じない?」
「何か、って?」
「足下に……あ、ほら、何か振動してない?」
「振動……」
言われてみると、微弱ではあるが地面が震えているような気がする。
それは進むにしたがって、どんどんと大きくなっていった。
振動の原因は、すぐに発見出来た。
「これは……」
「すごい……おっきい……」
それは地面に突き刺さり、極めてゆっくりと回転するドリルだった。
3
「すごい……すごいすごい!」
興奮した様子で『私』は声をあげた。
「すごいね! ねえ、これって現実なんだよね?」
「もちろん。夢じゃないよ」
「わあ……ゲームの中にいるみたい……」
私は『私』のはしゃぐ姿を見て「自分はずいぶんとこの不思議な世界に慣れてしまったのだな」と思った。この巨大なドリルを前にしても、すごいなとは思いこそすれ、特別な感動はなかった。それに、どうすればこの世界を救えるのかということも一目でわかってしまったから、ドキドキする暇さえない。
ゆっくりと回るドリルの先端を見ると、それはグリッド線に囲まれた真っ黒な地面を掘り進んでいるようだった。深さははっきりとわからないが、地面から出たドリルの形を見る限り、おそらく数メートルは掘られていると思われる。それがこの世界にどんな影響を与えているのかはわからないが、たぶん、私の力でこのドリルを小さくしてしまえば良いのだろう。
「ねえねえ、これをどうにかすれば良いのかな?」
ワクワク顔で『私』が振り向く。自分との温度差に、少しだけ寂しい気持ちになる。
どうして今、私はワクワクしていないのだろう?
「これはね──」
言いかけて、やめた。
自分が初めてプラちゃんの世界で光の球を大きくした時の気持ちを思い出す。
すごく驚いたけれど、すごく興奮した。
ここで『私』にドリルを小さくする方法を教えたら、たぶんドキドキしながらそれをするだろう。けれど、自分でその方法に気付いた時の方が、きっとずっと刺激的だ。
そう、この世界にいて、私は『私』にとっての『攻略本』なのだ。
私は、ゲームをする時は必ず攻略本を片手にプレイするタイプだ。アイテムの取り漏れや、ちょっとしたイベントなどを見逃したくないからだ。
しかし、この世界はゲームじゃない。現実だ。いわば私の人生だ。人生に攻略本なんて……いらない。
「──よし。じゃあ色々試して見てごらん。あ、危ないかも知れないから、触ったり不用意に近付いたりはしないようにね」
「う、うん。わかった」
そう言って『私』はドリルをじっくり観察し始めた。
その後ろ姿を見ながら、私はふと思った。
(ああ、わかった。私、何かお姉さんぶっちゃってるんだ)
ようやく、自分の気持ちに合点がいった。
(もう、慣れないことするもんじゃないな)
わかったら、今度は可笑しくなった。
一人っ子で、部活もまともにやったことのない私は、先輩ぶることが苦手だ。仕事で後輩に対しても、変に気を遣ってしまったりする。
(自分相手に、バカみたい)
思わず笑いが声に出た。
それを聞いて、『私』が焦った顔で振り向く。
「わ、私なんか変なことした?」
「ううん、違うの──」
一歩前に出て、『私』と並んでドリルを見上げる。
「楽しくて」
『私』も同じようにドリルを見上げた。
大きい。
何十メートルもあるだろう。
どうやって動いているんだろう。
何のために、ここにあるんだろう。
すごい。
すごいすごい。
鼓動が高鳴るのを感じる。
こんな不思議な体験、慣れるはずないじゃないか。
「確かに、ほんとすごいね」
「すごいねえ」
二人して、しばらくドリルを見上げていた。
「──あ、もしかしてこれを小さくしたりって出来るのかな?」
観察を続けていた『私』が、まるで大発見をしたかのように声をあげた。
「さあて、どうでしょう」
とぼけた口調で答える。
「正解でしょ? 態度がわかりやす過ぎるよ」
見つめ合って、笑い合う。
「よし、じゃあやってみようかな」
「──ちょっと待って」
ドリルに向かって両手を広げた『私』を呼び止める。
そうだ、大事なことを忘れていた。
「どうしたの?」
「あのね、たぶん、小さくするのが正解だと思うの」
「それで?」
「うん。それで、小さくしたら……この世界は救われました、って感じになるのね」
「そうなんだ」
「あ、いや、別に何が起こるわけでもないかも知れないけど……とにかく、たぶん小さくしたら終わりなの」
「小さくしたら、終わり……それで良いんじゃないの?」
「良いんだけど……」
言いたい言葉が上手く出てこない。
「そうしたら……来た時みたいに体がふわっとなって、部屋に戻されちゃうんだよ」
「強制的に?」
「強制的に」
どうやら、私の言いたいことに気付いてくれたようだ。『私』の表情が、少しだけ曇る。
「そうしたら、お別れ、だからさ……」
「ヒビを通って、私の部屋には来れないの? あれ、そもそもどうやってここに来たの?」
私は、自分の部屋のヒビを拡げることが出来なかったこと、自分の部屋に再び穴が空いたこと、私の側のこの世界にあったヒビを潜ってこちらに来たことを説明した。
「たぶん、これで部屋に戻ったら、壁のヒビも消えると思うんだ」
「お別れ……」
まるで、兄弟と、親友と永遠に引き裂かれるような気持ちだった。
それは『私』も同じらしい。
さっきまでの楽しさは何処へやら、二人は黙り込んでしまった。
「──少し、お話ししよっか」
「もちろん良いけど……ドリルは? 早く何とかしなくて大丈夫なの?」
「うん、たぶん、少しくらいなら」
部屋に空いた穴は、標準の大きさから拡がっていないように見えた。おそらく、切羽詰まった状況ではないはずだ。
「じゃあ……取りあえず、座る?」
『私』の提案に頷いて答える。
二人でその場に腰を下ろした。お尻の下には何の感触も感じない。座っているのに座っていないような、奇妙な感覚だった。思えば、穴の向こう世界でこんな風にくつろいだのは初めてだ。一人じゃとてもじゃないがそんな余裕はない。誰かと一緒ということが、こんなにも心強いとは思わなかった。
「──じゃあ、学歴も職歴も、家族構成とかも基本的なところは全く一緒なんだね」
「そうだね。ってことはやっぱり──」
「私達が違っちゃったのは、穴が空いてから、ってことだね」
「パラレルワールド……」
ぽつりと『私』が呟いた。
「あれ? でも、違ってるってことは、二人の世界は平行してるわけじゃないよね? 分岐してるわけだから」
「あ、そうか。そうかも。じゃあ、なに?」
「うーん……でも、パラレル……ワールドなのかな、やっぱり」
「そもそもパラレルワールドってなに?」
「知らないよお。私、SFとか詳しくないもん。知ってるでしょ?」
「確かに。ええ、でもさ、調べたりしなかったの? 穴が空いてから」
「あなただって、別に調べたりしてないでしょ?」
「そうだけど……」
自分自身と話すということは、何とも奇妙なものだと思った。
いくら『自分』といっても、リアルタイムで思考がわかるわけではない。それに、穴に関しては私の方が詳しい。感じること、思うことにも差があるだろう。
「まあ、さ、そんなことは良いじゃん。こうやって会えたんだし」
「はは、そうだよね」
『私』が笑う。
「じゃあさ、もう少し、間違い探ししてみる?」
「間違い探し?」
「うん。私と、あなた。他にもっと違うところがないか」
「そういうことね。あ、じゃあさ、友達は?」
「……友達?」
「そう、友達。もしかしたらさ、お互いに知らない友達がいるかも」
「……じゃあ、お先に、どうぞ」
「ええっと、先ずは──」
そう言って『私』は、数人の名をあげた。それは学生時代の友達の名だったり、職場にいた後輩の名だったりした。
どうやら私達の世界は、穴が空くずっと前から分れてしまっていたようだ。
「……どうしたの?」
私の様子に気が付いたのか、『私』が心配そうに顔を覗き込む。
「ううん、何でも──」
いや、ちょっと待て。
いけない。ここで誤魔化しても、何にもならない。
『もう一人の自分』には、自分と違って友達がいた。
穴の中の世界に立ち向かうのとは異なる勇気を、『私』は持っていたのだ。
「……あのね、私、友達……いなくて」
自分同士が出会ったことに意味があるのなら、『私』だけに意味があるはずはない。
私を──私の世界を救えるのは、今しかないと思った。
4
「え……それって、どういう……」
私の言葉に『私』はあからさまに戸惑った様子だ。
「……今名前あげてくれた子達と、私、もう連絡取ってないんだ」
「どう、して?」
どうして……?
どうしてだろう。
それに対する答えを、私は持っていなかった。
「どうしてだろう……。自然消滅っていうのかな? 私から積極的に連絡取ろうとしなかったからかも知れないけど……」
「そう……そうなんだ……」
『私』は困ったように口元に手をやった。
無理もない。自分には当たり前にいる友達が、私にはいないのだ。いきなりそんな告白をされても、どう反応すれば良いかわからないだろう。
しばらくの沈黙。
それが私にはひどく長く感じた。
「じゃあさ──」徐ろに『私』が口を開く。「じゃあさ、連絡してみれば良いんじゃない?」
「……へ?」
あまりにもシンプルな返答に、思わず間抜けな声が出た。
「だってさ、前は仲良かったんでしょ? それとも……最初から仲悪かった感じ?」
「う、ううん。学校にいた時とか、会社にいた時とか、仲良く、してたよ」
しどろもどろ私が答えると、『私』は少し安心した表情をした。
「じゃあ大丈夫だよ。久し振りー、って連絡してみなよ。連絡先、わかる?」
「あ、ええと……高校の時の子は、どうかな……」
「会社の子は?」
「あっちがアドレス変えてなければ」
「私の方の世界では、あの子、ずっとアドレス変えてないから、たぶん大丈夫じゃないかな? 元の世界に戻ったら、さっそくメールしてみなよ」
何だ何だ。
私は『私』の唐突な積極性に驚いてしまった。
友達がいるいないだけで、こんなにもコミュニケーション能力に差がつくものなのか?
もし私が『私』から同じ告白をされたなら、こんな風にアドバイスをしてあげられるだろうか。いいや、出来ないだろう。
「あのさ」
変な汗をかいている私に気付いているのかいないのか、『私』が再び口を開いた。
「あのさ……友達いない、って……ゼロってこと?」
ゼロ、と答えようとしたその時、マリリンの顔が頭に浮かんだ。
そういえば『私』は彼女の名前をあげなかった。
同じ顔、同じ名前。歩んできた道も同じと思っていた私達だったが、こうして話してみれば、いたるところに違いがある。まさに間違い探しのようだ。
私と『私』。
同じだけど全然違う。
──面白い、と少し思った。
「ううん。ゼロでは、ないよ」
「そっか、良かったあ」
笑顔で答えた私を見て、『私』は心底ほっとしたようだった。
「そんなに安心しなくても」
「するよお。他人事じゃないもん」
「確かに。間違いなく、他人ではないよね」
どちらともなく、ぷっと吹き出した。
「私、帰ったらメールしてみるよ」
「うん、うん。あの子、話してみるとけっこう気が合うよ」
「ほんと? でも、いきなり久し振りってメールして、びっくりしないかなあ」
「驚くに決まってるじゃん。もちろん、良い意味でね」
「そうかな」
「大丈夫だよ。久し振りならよけい、話題にも困らないじゃん」
「そうかも」
「そうだよ」
何だか、今まで悩んでいた自分が恥ずかしくなってきた。
「あ、ねえ」
「なに?」
「友達ゼロじゃないって言ったけど、その友達って、誰なの?」
「ああ、それは──」
私が言いかけたその時、突然、目の前のドリルが回転のスピードを増した。
お尻の下に感じていた振動が強くなる。
しまった。一瞬、完全に存在を忘れていた。
「わ、わ! これ、大丈夫なの?」
「ええっと……わかんない!」
「小さくすれば良いんだよね!」
『私』が叫んで、両手を開いた。
「そう! そのまま、その手を──」
「その手を?」
……何て言えば良いんだ?
「え……えい、ってやって!」
「わかった!」
めちゃくちゃアバウトな説明にもかかわらず、『私』は迷わず両手の距離を狭めていく。その手の動きに合わせて、ドリルはみるみる縮んでいった。さすが自分同士、ツーカーの仲ってやつだ。
「やったあ! ねえ、これで良いんだよね?」
「うん、やったね!」
私達はハイタッチでお互いの健闘(私は何もしてないけど)を讃えた。
「ドリル、どうなったかな?」
二人でおそるおそる穴の縁に近付き、中を覗き込んだ。
穴の一番深いところに、親指大まで縮んだドリルが落ちていた。
転ばないように気を付けながら、穴の中へと二人手を繋いでゆっくり降りる。
「触っても大丈夫だよね?」
「止まってるみたいだし、たぶん」
無造作に転がっているドリルを『私』がつまみ上げた。
「あ、大丈夫そう」
その瞬間、二人の体を光が包んだ。
急速に纏わり付く浮遊感。
「ねえ、これって──」
そう、お別れの時が来たのだ。
「これ、ちょっとタンマって出来ないの?」
私は首を振って答えた。
どうしよう。
声を出したら泣いてしまいそうだった。
まだ、全然話し足りないのに……。
つま先が地面から離れる。
何か、最後に何か一言でも──。
「ありがとう!」
「ありがとう!」
二人の声が重なり、私達は思わず笑ってしまった。
光が視界を白く塗り替えていく。
(またね)
最後の言葉は声にならなかったけれど、どちらの心にもしっかりと届いた。
──。
気が付くと、自分の部屋に……。
(あ、あれ? 私の部屋じゃ、ない)
気が付くと、私は先程までいたのと同じ、殺風景なグリッド線の世界にいた。
(え? あ、そっか)
先程救ったのは、あくまでも『私』の側にあるこの世界で、今いるこの世界ではなかったのだ。つまり、私はこれから一人でドリルを探し出さなくてはいけない、ということか。
「なんだよお」
声に出しても、もう誰の耳にも届かない。
(もう、感動のお別れが台無しだよ)
私はもやもやとした気持ちで歩き出した。
仕方ない、さっさとドリルを探すとしよう。
しばらく歩いていると、足下に微かな振動を感じた気がした。
間違い無い、ドリルが近くにあるのだ。
しかし、他の感触は何も感じないのに、この振動だけは不思議と感じることが出来る。有り難いことだ。
歩く度に、振動が大きくなる。
どんどん大きくなっていく。
(……ちょっと、大き過ぎやしないか?)
不安に思いながらも歩みを進めて行くと、突然、足下に大きな振動を感じた。
(わわっ、何だ何だ?)
一瞬の後、振動は落ち着いた。
いや、落ち着いたというより──、
(何も、感じなくなった……?)
その時、私の体が再び光に包まれた。
(ええ? ちょっと待ってよ。どういうこと?)
体がふわりと宙に浮く。
(まだ救ってないんですけど? ねえってば)
抵抗虚しく、私の視界は光に包まれていった。
──。
気が付くと、今度こそ自分の部屋の中にいた。
床にぺたんと座り込んだまま、床の上を見渡す。
穴は塞がっていない。これから塞がるのだろうか。しかし、私は何も……。
はっと気が付いて、机の上の携帯を手に取った。
日付と時間を確認する。
良かった。まだ五時間くらいしか経っていない。
窓の外を見ると、夕空の縁が黒く染まりだしていた。
壁の、ヒビの方を見る。
まだ塞がってはいない。
私は慌てて机によじ登ると、壁に顔を押し当てた。
ヒビの向こうには、『私』からの手紙が掲げてあった。
『私へ
ありがとう。
助けに来てくれて、本当に嬉しかった。
穴の向こうの世界を私も救うことができて、
他の穴にひとりで立ち向かう勇気が出ました。
部屋に戻ったら穴が塞がってて、びっくりしたあ。
そちらの壁のヒビも塞がっちゃうのかな?
もっともっとお話ししたかったけど……、
ううん、そんなこと言ってたらキリがないよね。
ほんの少しの間しか一緒にいられなかったけれど、
一生忘れられない思い出になりました。
奇跡って、あるんだね。
慌てて書いたから、汚い字でごめんね。
この手紙が見えてると良いな。
じゃあ、またね。
友達が出来るように祈ってます。
ぜったい大丈夫だよ!
もう一人の私より。』
読み終わって私はようやく泣いている自分に気付いた。
(頑張ろう)
何となく、思った。
私は机を降りると、まずデジカメを手に取った。
『私』からの手紙を記録に残しておきたかった。
ヒビを見ると、少しずつ塞がり始めているように思えた。
急がなくては。
一枚撮って、念のためもう二枚撮った。
よし、ピントもちゃんと合っている。
次に私は『私』に返事を書き始めた。
『ありがとう。
またね。
お互い頑張ろうね。』
たった三行の、短い手紙だ。
でも、それで充分だと思った。
明らかに狭まったヒビの向こうに手紙を落とし、壁に顔を寄せる。
──それは不思議な光景だった。
視界の先の『私』の部屋が、どんどん遠ざかっていく。
まるで暗く深い穴の中に写真を落としたかのようだ。
私の手紙はちゃんと届いただろうか。
……きっと、大丈夫だろう。
「またね」
声に出して言ってみる。
(またね)
誰かが言った気がした。
それは、自分だったのかも知れないけれど──。
1
昨夜は遅くまでヒビの向こうを観察していた。『私』の姿は部屋の中になく、いくら角度を変えても目を凝らしても、いったい何が起きたのかを確認することは出来なかった。
ヒビの大きさが変化したということは、向こうの世界に何らかの緊急事態が起きているということだろう。とすると、『私』が部屋にいない理由が単に外出ということは考えられない。おそらく、穴の向こうの世界に行き、そこで何かがあったのだ。
(もう……注意してって言ったのに……)
いったいどの世界へと行ったのだろうか。解決する順番を誤れば、何が起こるのか想像もつかない。今思えば、私はよく全ての穴を塞げたものだ。
(行くしか、ないよね……)
幸い、今日は木曜日。バイトは休みだ。今が朝の九時だから、最大で明日の昼までの約二十七時間は自由に使えるわけだ。
母には朝食の時に「ちょっと遠出してくる」と伝えた。何処に、と言う母からの質問に対しては、家からだいたい三時間くらいで行ける観光地の名前を答えた。他にも色々と聞きたい様子だったが、「帰り遅くなると思う。夕飯いらないから」と早口で伝え、自分の部屋へと逃げ込んだ。
(ああもう、覚悟決めるしかないか)
一応バイトに金曜休むと伝えた方が良いか迷ったが、心配していたらキリがない。バイトのシフト上、連休になることはまずないので、今日行く以外の選択枝はないのだ。
(ええい!)
私はぎゅっと目を瞑ると、壁に空いたヒビに手を掛けた。
そして、ぐいっと横に拡げ──。
(……あれ?)
ぐいっと横に──。
(拡がらないな……)
今度は目を開け、もう一度ヒビを拡げようと手を動かす。
しかし、ヒビはびくともしなかった。
(え、うそ。行けないじゃん。じゃあどうしろってのよ)
その後も、あの手この手試してみたが徒労に終わった。
私はふらふらと机を降りるとベッドに倒れ込んだ。
(どうする。どうしたら良い。考えろ、考えろ)
ヒビを拡げることが出来ないなら、もっとヒビが大きくなるまで待つか。
しかし、それではいつになるかわからない。それに手遅れになってしまう可能性もある。
ヒビは以前より拡がったとはいえ、片腕を通すのがやっとという大きさだ。無理に潜ることは絶対に不可能である。
それならば救援物資を送るしかないか。
しかし、何を?
それに『私』はおそらく穴の中──しかも七つあるうちのどの穴に入ったかもわからない──これではどう頑張っても物資を渡すことは不可能だ。
(どうする、どうする。ああ、わっかんないよう)
ベッドから飛び降り、机への方へと向かう。とにかく、何か行動をせねば。
(……ん?)
その時、足の下──カーペットの下に何か違和感を覚えた。
いや『何か』ではない。
この感触は──。
私は慌ててカーペットを捲った。
するとそこには、思った通り二つの新しい穴が空いていた。
「やった!」
思わず声に出た。
これで解決の糸口がつかめるかも知れない。
私ははやる気持ちを抑え、深呼吸と伸びをする。そして部屋の扉に鍵を掛けた。
焦ってはいけない。穴が空いているということは、向こうの世界が困っているということだ。『私』の救出も最重要事項だが、ここで焦って妖精さんの時の悲劇を繰り返してはならない。
穴の数は二つ。
一つは部屋の扉近く。
もう一つは部屋の真ん中より少し机寄りの位置だ。
他に穴がないということは、おそらく『私』はどちらかの穴の中にいるに違いない。根拠など全くないが、私にはそれ以外考えられなかった。
さて、どちらから覗いてみようか。部屋の真ん中に立って、私は腕を組んだ。
いや、悩む時間ももったいない。
取りあえず、足下の穴から覗いてみることにしよう。
鼓動がおさまるのを待って、私は床に這いつくばった。久し振りの情けない姿勢に、思わず笑みがこぼれる。
穴に顔を近付ける。
再び鼓動が早くなるのを感じた。
──。
穴の向こうは真っ暗だった。
よく目を凝らしてみるが、何も見えない。
一瞬、何処にも繋がっていないのでは、と不安になる。
しかし、そこに空間が広がっていることは何となくわかった。
状況としては『プラちゃんの穴』の時と似ているが、闇はあの時よりも深い気がした。
いったん穴から顔を離す。
四つん這いの姿勢のまま、扉の方へと向かう。
そして、もう一つの穴に顔を近付ける。
──。
先程の穴の中とは一転して、こちらは真っ白に輝く世界が広がっていた。
雪……ではないようだ。壁も床も白い部屋だろうか。白すぎて凹凸も距離感もつかめない。
もう少しだけ、観察を続ける。
すると、突然床から黒い球体が出現した。
それも一個や二個ではない。ランダムな間隔で大小さまざまな球体が、まるで床から生えてきたかのように現われたのだ。
球体の表面は艶やかで、どこか水滴を思わせる。
私は角度を変えながら、球体の林の中に『私』の姿を探した。
しかし、人影は見えない。
不安や焦りが、少しずつ絶望へと色を変えていく。
いけない。まだ諦めるような状況ではない。
ひとまず立ち上がり、深呼吸をした。
『球体の穴』の中に『私』の姿は見えなかった。もしかしたら、球体の中に入り込んでしまっているのだろうか。あんな得体の知れないものに触れでもしたら──、悪い想像はとめどない。ついつい悪い方へ悪い方へ考えてしまいそうになる。少しでも、希望を持たなくては。
『真っ暗な穴』の方は、何も観察することが出来なかった。プラちゃんの時のように、しばらく観察していたら状況は変わるだろうか。
試しにもう一度覗いてみる。
先程と変わらない、濃厚な闇が横たわっているのみだ。
もしかしたら、明るくすれば中を探すことが出来るかも知れない。
でも、どうやって?
懐中電灯を持ち込むのは不安だった。マッチなど火の類いは問題外だ。
以前プラちゃんにもらった、あの光の球があれば、あるいは可能かも知れない。
だが光の球は妖精さんの世界を暖めるために使ってしまった。
……あの不思議な力で何とか出来ないだろうか。
『洞窟の穴』の中で目をこすった時。私の視力は一時的に向上し、暗い洞窟の中もまるで陽の光の下のように明るく見通せた。
確信はなくとも、今はこの方法しかないように思われた。
この闇の中に『私』がいる。
根拠はないが、不思議と確信があった。
(行くしか、ないか……)
いわば丸腰である今の状態が、酷く心許なく感じられた。
五つの穴を塞いだ時は、どうして何も持たずに向こうへ行くことが怖くなかったんだろう。いや、怖がりながらも行ったのだったか。よく、思い出せない。
壁のヒビを見る。
昨夜から目に見えて拡がってはいないようだ。
状況は悪化も好転もしていないということか。
時計を見る。
午前十時。
いつの間にか一時間も経っている。
この穴の中の時間はどれくらいの早さで進んでいるのだろう。
新たな不安が湧き上がる。
もしすごいスピードで時間が流れていたら……。
あの頃と今とでは、生活環境が変わってしまった。始めたばかりのバイトを休みたくはない。親に心配をかけるのだっていやだ。
悩んでいる場合でないのはわかっている。
『私』を助けたい。助けてあげることに迷いはない。
なのに、思い切りがつかない。
真っ暗な穴の中を覗く。
何も見えない。
もし自分も戻れなくなってしまったら、誰か助けに来てくれるのだろうか。
行かない方が正解なのではないか……。もう少し様子をみた方が……。
いや、こうしていたってきっと何も変わらない。
変えるには──、
(行動しかない!)
私は渦巻く不安を無理矢理押し込め、穴の縁に指を掛けた。
そして、ぐいっと拡げる。
先程ヒビを拡げようとした時とは明らかに違う感覚。
私の体は、懐かしい浮遊感に包まれていった。
2
上も下もない世界に私はいた。
数ヶ月ぶりに感じる、この不思議な感覚。
何も見えず、何も聞こえない。
そろそろ向こうの世界へ着くだろうか。
以前穴に入った時は、向こう側へ到着すると足先に感触を感じた。
まだだろうか……。
何だか長く感じる。
いつの間にか閉じていた目を、思い切って開けてみる。
────。
目を開けたはずなのに、何も見えない。
何も感じない。
上から覗いていた時のように、艶も奥行きもない黒が視界を埋め尽くしている。
どうしたのだろう。
上手く向こうの世界へ行けず、おかしなところに迷い込んでしまったのだろうか。
ぞくりと背筋が寒くなる。
怖くなって、手足を動かしてみる。
触感と呼べるようなものは何も感じないが、どうやら手足自体は動かせているようだ。
(どうしよう……あ、そうだ!)
はっとして両手で目をこすった。
すると、少しずつ視界に像が現われた。
(あ、良かった良かった)
それはまるで古いコンピューターゲームのような景色だった。真っ暗な中に深緑のグリッド線が縦横無尽に走っている。その線は1メートル四方の格子状になっていて、私の足下に凹凸なく広がっている。今のところ、壁のようなものは見えない。上を向いても同様だ。天井は見えない。今はただ、果てなく広がるグリッド線のタイルの上を歩くしか選択枝はないようだ。
短く息を吐いて、歩き出す。
少し歩いて、辺りを見渡す。
景色に変化は何もない。
頭を振って不安をかき消す。
少し歩いて、見渡す。
また少し歩いて、見渡す。
正直、怖くて泣き出しそうだった。
今まで行った世界とは何かが違う。
これがこの世界の『悩み』だというのだろうか。
──どれくらい歩いただろう。
不意に、遠くの方に垂直に伸びたグリッド線が見えた。
壁だろうか。
思わず駆け足になる。
疲れは一切感じなかった。息が切れることもない。
思っていたよりもすぐに、壁のふもとへと辿り着いた。
上を向いても、相変わらず天井は見えない。左右と上方に何処までもそそり立つタイルの壁だ。
壁に手を触れてみる。感触はない。
さて、どちらに行こう。
重力は下方に働いているらしく、上方へ登ることは難しそうだ。もしかしたら不思議な力を使って飛ぶことは出来るかも知れないが、リスクを冒してまで上方を目指す理由はなにもない。
では、左右どちらかに向かうか。
迷っている時間がもったいない。私は壁に左手をついて、右の方へと歩き出した。
しばらく進むと、壁面のグリッド線が一部乱れているところを見つけた。
それはまるで──、
(ヒビだ、これ……)
私の部屋にあったヒビと似た形に見える。
この向こうに『私』はいるのだろうか。
小さく震える手で、縁に手を掛けてみる。
潜れる大きさではない。もし拡げることが出来なければ、向こう側へ行くことは出来ない。
ゆっくりと、ヒビを拡げようとしてみる。
すろと、私の手の動きに合わせて穴は拡がっていった。
(やったあ!)
心の中でガッツポーズをする。
穴はするすると大きさを変え、私が潜れるくらいのサイズになった。
(……あれ?)
てっきり床に空いた穴と同様、穴を拡げると勝手に体は吸い込まれていくのだと思った。
しかし、ヒビの場合は違うらしい。
(自主的に通らないとダメ、なのかな?)
ならば仕方がない。女は度胸、だ。
右足から少しずつ、ヒビの向こうへと差し入れる。
特に何も感じることなく、足は向こう側へと着いた。
少しだけほっとする。
体の半分が通ったところで、頭を少し下げて潜る。
すると、ふいに視界が歪む程のめまいを感じた。
(う、わ……おえ……何これ……)
思わずその場にへたり込む。
視界がまわる。目がチカチカする。
嘔気を感じた。しかし、胃酸が逆流する気配はない。
上手く表現出来ないが、とにかく気持ちが悪い。
ヒビを潜ったせいだろうか。
気分が落ち着くまで、しばらくかかった。
(ああ、気持ち悪かったあ……)
ゆっくりと立ち上がる。
まだ少しふらつくが、早く『私』を探さなくてはならない。
気持ちを奮い立たせ歩き出す。
こちらの景色も先程までと変わらない。どこまでも続くタイルの海だ。
しばらく歩くと、遠くに人影を見つけた。
どれだけ遠目でも見間違えるはずがない。あれは『私』だ。
「おーい! 助けに来たよ!」
大声で呼びかけながら駆け寄る。
聞こえないのだろうか、『私』は膝を抱えて座り込んだまま、微動だにしない。
目の前まで辿り着いたが、やはり無反応だ。
一瞬悩んでから、自分の手でそっと『私』の目に触れた。
何かを感じたのか、『私』が驚いた表情でこちらを見た。
視線と視線が重なる。
今度は『私』の耳に触れ、そのまま口にも触れる。
「助けに来たよ」
私が優しく声を掛けると、『私』はぽろぽろと涙を零した。
まるで子供のように泣きじゃくる。無理もない、こんな何もない空間に五感を塞がれた状況でひとりぼっちでいたのだ。
『私』が泣き止むのを待ってから、改めて声を掛ける。
「お待たせ」
「怖かったよう……」
また涙が零れ落ちた。
「ごめんね。ここ、私も知らないところなんだよね。もう少し、教えてあげれば良かった」
「ううん。不用意に入り込んだ私が悪いんだよ。でも、ほんとに怖かった……」
「もう安心だからね。一緒にここから出よう」
「うん。あ、ねえ、今のってどうやったの?」
「今の、って?」
「目、見えるようにしてくれたでしょ?」
「ああ、そのことね。それなら──」
私は自分の使える不思議な力について説明した。私が使えるのだから、『私』も使えるだろう。
「すごいね、私。そんなこと出来るんだ」
「あなたも使えるはずだよ」
「わかった。覚えておくね」
ようやく『私』に笑顔が戻った。
私はその場に腰をおろした。
もちろんゆっくりしている時間などない。
しかし、『私』を見つけられたことで安心したのか、せっかくのこの機会を楽しみたいという気持ちもある。
「はじめまして」
小さく頭を下げる。
「はじめまして」
まるで鏡を見ているようだ。
何だか照れくさい。
あっちもそう感じているのか、視線が合いそうで合わない。
「私達って、どれくらい同じなんだろうね」
これは『私』。
「うん。少し少し違うみたいだね」
これは私。
「隣同士の世界だし、ほとんど一緒なのかな?」
「SFとかだとそうだよね」
「でも、私は穴を放置しちゃったから……」
言って『私』は肩を落とした。
そう。おそらくは『私』が穴をそのままにした結果なのだろう。
ヒビが出来たのも、こうして今二人で話しているのも。
「大丈夫。まだ間に合うよ」
私は努めて明るく言った。
立ち上がり、『私』に手を差し伸べる。
「行こう。この世界を二人で救おう!」
「……うん!」
元気よく答えた『私』は、私の手を取り立ち上がった。
「で、どうやって救うの?」
「ええっとそれは……」
仲良く手を繋いでしばらく歩いてはみたが、景色に変化は全く見られない。
そもそも、この世界の悩みが何なのかさえ、私は知らなかった。
「……ごめん。まだわかんない」
「そっか……」
それきり、二人は黙り込んでしまった。
先に口を開いたのは『私』の方だった。
「ねえ、何か感じない?」
「何か、って?」
「足下に……あ、ほら、何か振動してない?」
「振動……」
言われてみると、微弱ではあるが地面が震えているような気がする。
それは進むにしたがって、どんどんと大きくなっていった。
振動の原因は、すぐに発見出来た。
「これは……」
「すごい……おっきい……」
それは地面に突き刺さり、極めてゆっくりと回転するドリルだった。
3
「すごい……すごいすごい!」
興奮した様子で『私』は声をあげた。
「すごいね! ねえ、これって現実なんだよね?」
「もちろん。夢じゃないよ」
「わあ……ゲームの中にいるみたい……」
私は『私』のはしゃぐ姿を見て「自分はずいぶんとこの不思議な世界に慣れてしまったのだな」と思った。この巨大なドリルを前にしても、すごいなとは思いこそすれ、特別な感動はなかった。それに、どうすればこの世界を救えるのかということも一目でわかってしまったから、ドキドキする暇さえない。
ゆっくりと回るドリルの先端を見ると、それはグリッド線に囲まれた真っ黒な地面を掘り進んでいるようだった。深さははっきりとわからないが、地面から出たドリルの形を見る限り、おそらく数メートルは掘られていると思われる。それがこの世界にどんな影響を与えているのかはわからないが、たぶん、私の力でこのドリルを小さくしてしまえば良いのだろう。
「ねえねえ、これをどうにかすれば良いのかな?」
ワクワク顔で『私』が振り向く。自分との温度差に、少しだけ寂しい気持ちになる。
どうして今、私はワクワクしていないのだろう?
「これはね──」
言いかけて、やめた。
自分が初めてプラちゃんの世界で光の球を大きくした時の気持ちを思い出す。
すごく驚いたけれど、すごく興奮した。
ここで『私』にドリルを小さくする方法を教えたら、たぶんドキドキしながらそれをするだろう。けれど、自分でその方法に気付いた時の方が、きっとずっと刺激的だ。
そう、この世界にいて、私は『私』にとっての『攻略本』なのだ。
私は、ゲームをする時は必ず攻略本を片手にプレイするタイプだ。アイテムの取り漏れや、ちょっとしたイベントなどを見逃したくないからだ。
しかし、この世界はゲームじゃない。現実だ。いわば私の人生だ。人生に攻略本なんて……いらない。
「──よし。じゃあ色々試して見てごらん。あ、危ないかも知れないから、触ったり不用意に近付いたりはしないようにね」
「う、うん。わかった」
そう言って『私』はドリルをじっくり観察し始めた。
その後ろ姿を見ながら、私はふと思った。
(ああ、わかった。私、何かお姉さんぶっちゃってるんだ)
ようやく、自分の気持ちに合点がいった。
(もう、慣れないことするもんじゃないな)
わかったら、今度は可笑しくなった。
一人っ子で、部活もまともにやったことのない私は、先輩ぶることが苦手だ。仕事で後輩に対しても、変に気を遣ってしまったりする。
(自分相手に、バカみたい)
思わず笑いが声に出た。
それを聞いて、『私』が焦った顔で振り向く。
「わ、私なんか変なことした?」
「ううん、違うの──」
一歩前に出て、『私』と並んでドリルを見上げる。
「楽しくて」
『私』も同じようにドリルを見上げた。
大きい。
何十メートルもあるだろう。
どうやって動いているんだろう。
何のために、ここにあるんだろう。
すごい。
すごいすごい。
鼓動が高鳴るのを感じる。
こんな不思議な体験、慣れるはずないじゃないか。
「確かに、ほんとすごいね」
「すごいねえ」
二人して、しばらくドリルを見上げていた。
「──あ、もしかしてこれを小さくしたりって出来るのかな?」
観察を続けていた『私』が、まるで大発見をしたかのように声をあげた。
「さあて、どうでしょう」
とぼけた口調で答える。
「正解でしょ? 態度がわかりやす過ぎるよ」
見つめ合って、笑い合う。
「よし、じゃあやってみようかな」
「──ちょっと待って」
ドリルに向かって両手を広げた『私』を呼び止める。
そうだ、大事なことを忘れていた。
「どうしたの?」
「あのね、たぶん、小さくするのが正解だと思うの」
「それで?」
「うん。それで、小さくしたら……この世界は救われました、って感じになるのね」
「そうなんだ」
「あ、いや、別に何が起こるわけでもないかも知れないけど……とにかく、たぶん小さくしたら終わりなの」
「小さくしたら、終わり……それで良いんじゃないの?」
「良いんだけど……」
言いたい言葉が上手く出てこない。
「そうしたら……来た時みたいに体がふわっとなって、部屋に戻されちゃうんだよ」
「強制的に?」
「強制的に」
どうやら、私の言いたいことに気付いてくれたようだ。『私』の表情が、少しだけ曇る。
「そうしたら、お別れ、だからさ……」
「ヒビを通って、私の部屋には来れないの? あれ、そもそもどうやってここに来たの?」
私は、自分の部屋のヒビを拡げることが出来なかったこと、自分の部屋に再び穴が空いたこと、私の側のこの世界にあったヒビを潜ってこちらに来たことを説明した。
「たぶん、これで部屋に戻ったら、壁のヒビも消えると思うんだ」
「お別れ……」
まるで、兄弟と、親友と永遠に引き裂かれるような気持ちだった。
それは『私』も同じらしい。
さっきまでの楽しさは何処へやら、二人は黙り込んでしまった。
「──少し、お話ししよっか」
「もちろん良いけど……ドリルは? 早く何とかしなくて大丈夫なの?」
「うん、たぶん、少しくらいなら」
部屋に空いた穴は、標準の大きさから拡がっていないように見えた。おそらく、切羽詰まった状況ではないはずだ。
「じゃあ……取りあえず、座る?」
『私』の提案に頷いて答える。
二人でその場に腰を下ろした。お尻の下には何の感触も感じない。座っているのに座っていないような、奇妙な感覚だった。思えば、穴の向こう世界でこんな風にくつろいだのは初めてだ。一人じゃとてもじゃないがそんな余裕はない。誰かと一緒ということが、こんなにも心強いとは思わなかった。
「──じゃあ、学歴も職歴も、家族構成とかも基本的なところは全く一緒なんだね」
「そうだね。ってことはやっぱり──」
「私達が違っちゃったのは、穴が空いてから、ってことだね」
「パラレルワールド……」
ぽつりと『私』が呟いた。
「あれ? でも、違ってるってことは、二人の世界は平行してるわけじゃないよね? 分岐してるわけだから」
「あ、そうか。そうかも。じゃあ、なに?」
「うーん……でも、パラレル……ワールドなのかな、やっぱり」
「そもそもパラレルワールドってなに?」
「知らないよお。私、SFとか詳しくないもん。知ってるでしょ?」
「確かに。ええ、でもさ、調べたりしなかったの? 穴が空いてから」
「あなただって、別に調べたりしてないでしょ?」
「そうだけど……」
自分自身と話すということは、何とも奇妙なものだと思った。
いくら『自分』といっても、リアルタイムで思考がわかるわけではない。それに、穴に関しては私の方が詳しい。感じること、思うことにも差があるだろう。
「まあ、さ、そんなことは良いじゃん。こうやって会えたんだし」
「はは、そうだよね」
『私』が笑う。
「じゃあさ、もう少し、間違い探ししてみる?」
「間違い探し?」
「うん。私と、あなた。他にもっと違うところがないか」
「そういうことね。あ、じゃあさ、友達は?」
「……友達?」
「そう、友達。もしかしたらさ、お互いに知らない友達がいるかも」
「……じゃあ、お先に、どうぞ」
「ええっと、先ずは──」
そう言って『私』は、数人の名をあげた。それは学生時代の友達の名だったり、職場にいた後輩の名だったりした。
どうやら私達の世界は、穴が空くずっと前から分れてしまっていたようだ。
「……どうしたの?」
私の様子に気が付いたのか、『私』が心配そうに顔を覗き込む。
「ううん、何でも──」
いや、ちょっと待て。
いけない。ここで誤魔化しても、何にもならない。
『もう一人の自分』には、自分と違って友達がいた。
穴の中の世界に立ち向かうのとは異なる勇気を、『私』は持っていたのだ。
「……あのね、私、友達……いなくて」
自分同士が出会ったことに意味があるのなら、『私』だけに意味があるはずはない。
私を──私の世界を救えるのは、今しかないと思った。
4
「え……それって、どういう……」
私の言葉に『私』はあからさまに戸惑った様子だ。
「……今名前あげてくれた子達と、私、もう連絡取ってないんだ」
「どう、して?」
どうして……?
どうしてだろう。
それに対する答えを、私は持っていなかった。
「どうしてだろう……。自然消滅っていうのかな? 私から積極的に連絡取ろうとしなかったからかも知れないけど……」
「そう……そうなんだ……」
『私』は困ったように口元に手をやった。
無理もない。自分には当たり前にいる友達が、私にはいないのだ。いきなりそんな告白をされても、どう反応すれば良いかわからないだろう。
しばらくの沈黙。
それが私にはひどく長く感じた。
「じゃあさ──」徐ろに『私』が口を開く。「じゃあさ、連絡してみれば良いんじゃない?」
「……へ?」
あまりにもシンプルな返答に、思わず間抜けな声が出た。
「だってさ、前は仲良かったんでしょ? それとも……最初から仲悪かった感じ?」
「う、ううん。学校にいた時とか、会社にいた時とか、仲良く、してたよ」
しどろもどろ私が答えると、『私』は少し安心した表情をした。
「じゃあ大丈夫だよ。久し振りー、って連絡してみなよ。連絡先、わかる?」
「あ、ええと……高校の時の子は、どうかな……」
「会社の子は?」
「あっちがアドレス変えてなければ」
「私の方の世界では、あの子、ずっとアドレス変えてないから、たぶん大丈夫じゃないかな? 元の世界に戻ったら、さっそくメールしてみなよ」
何だ何だ。
私は『私』の唐突な積極性に驚いてしまった。
友達がいるいないだけで、こんなにもコミュニケーション能力に差がつくものなのか?
もし私が『私』から同じ告白をされたなら、こんな風にアドバイスをしてあげられるだろうか。いいや、出来ないだろう。
「あのさ」
変な汗をかいている私に気付いているのかいないのか、『私』が再び口を開いた。
「あのさ……友達いない、って……ゼロってこと?」
ゼロ、と答えようとしたその時、マリリンの顔が頭に浮かんだ。
そういえば『私』は彼女の名前をあげなかった。
同じ顔、同じ名前。歩んできた道も同じと思っていた私達だったが、こうして話してみれば、いたるところに違いがある。まさに間違い探しのようだ。
私と『私』。
同じだけど全然違う。
──面白い、と少し思った。
「ううん。ゼロでは、ないよ」
「そっか、良かったあ」
笑顔で答えた私を見て、『私』は心底ほっとしたようだった。
「そんなに安心しなくても」
「するよお。他人事じゃないもん」
「確かに。間違いなく、他人ではないよね」
どちらともなく、ぷっと吹き出した。
「私、帰ったらメールしてみるよ」
「うん、うん。あの子、話してみるとけっこう気が合うよ」
「ほんと? でも、いきなり久し振りってメールして、びっくりしないかなあ」
「驚くに決まってるじゃん。もちろん、良い意味でね」
「そうかな」
「大丈夫だよ。久し振りならよけい、話題にも困らないじゃん」
「そうかも」
「そうだよ」
何だか、今まで悩んでいた自分が恥ずかしくなってきた。
「あ、ねえ」
「なに?」
「友達ゼロじゃないって言ったけど、その友達って、誰なの?」
「ああ、それは──」
私が言いかけたその時、突然、目の前のドリルが回転のスピードを増した。
お尻の下に感じていた振動が強くなる。
しまった。一瞬、完全に存在を忘れていた。
「わ、わ! これ、大丈夫なの?」
「ええっと……わかんない!」
「小さくすれば良いんだよね!」
『私』が叫んで、両手を開いた。
「そう! そのまま、その手を──」
「その手を?」
……何て言えば良いんだ?
「え……えい、ってやって!」
「わかった!」
めちゃくちゃアバウトな説明にもかかわらず、『私』は迷わず両手の距離を狭めていく。その手の動きに合わせて、ドリルはみるみる縮んでいった。さすが自分同士、ツーカーの仲ってやつだ。
「やったあ! ねえ、これで良いんだよね?」
「うん、やったね!」
私達はハイタッチでお互いの健闘(私は何もしてないけど)を讃えた。
「ドリル、どうなったかな?」
二人でおそるおそる穴の縁に近付き、中を覗き込んだ。
穴の一番深いところに、親指大まで縮んだドリルが落ちていた。
転ばないように気を付けながら、穴の中へと二人手を繋いでゆっくり降りる。
「触っても大丈夫だよね?」
「止まってるみたいだし、たぶん」
無造作に転がっているドリルを『私』がつまみ上げた。
「あ、大丈夫そう」
その瞬間、二人の体を光が包んだ。
急速に纏わり付く浮遊感。
「ねえ、これって──」
そう、お別れの時が来たのだ。
「これ、ちょっとタンマって出来ないの?」
私は首を振って答えた。
どうしよう。
声を出したら泣いてしまいそうだった。
まだ、全然話し足りないのに……。
つま先が地面から離れる。
何か、最後に何か一言でも──。
「ありがとう!」
「ありがとう!」
二人の声が重なり、私達は思わず笑ってしまった。
光が視界を白く塗り替えていく。
(またね)
最後の言葉は声にならなかったけれど、どちらの心にもしっかりと届いた。
──。
気が付くと、自分の部屋に……。
(あ、あれ? 私の部屋じゃ、ない)
気が付くと、私は先程までいたのと同じ、殺風景なグリッド線の世界にいた。
(え? あ、そっか)
先程救ったのは、あくまでも『私』の側にあるこの世界で、今いるこの世界ではなかったのだ。つまり、私はこれから一人でドリルを探し出さなくてはいけない、ということか。
「なんだよお」
声に出しても、もう誰の耳にも届かない。
(もう、感動のお別れが台無しだよ)
私はもやもやとした気持ちで歩き出した。
仕方ない、さっさとドリルを探すとしよう。
しばらく歩いていると、足下に微かな振動を感じた気がした。
間違い無い、ドリルが近くにあるのだ。
しかし、他の感触は何も感じないのに、この振動だけは不思議と感じることが出来る。有り難いことだ。
歩く度に、振動が大きくなる。
どんどん大きくなっていく。
(……ちょっと、大き過ぎやしないか?)
不安に思いながらも歩みを進めて行くと、突然、足下に大きな振動を感じた。
(わわっ、何だ何だ?)
一瞬の後、振動は落ち着いた。
いや、落ち着いたというより──、
(何も、感じなくなった……?)
その時、私の体が再び光に包まれた。
(ええ? ちょっと待ってよ。どういうこと?)
体がふわりと宙に浮く。
(まだ救ってないんですけど? ねえってば)
抵抗虚しく、私の視界は光に包まれていった。
──。
気が付くと、今度こそ自分の部屋の中にいた。
床にぺたんと座り込んだまま、床の上を見渡す。
穴は塞がっていない。これから塞がるのだろうか。しかし、私は何も……。
はっと気が付いて、机の上の携帯を手に取った。
日付と時間を確認する。
良かった。まだ五時間くらいしか経っていない。
窓の外を見ると、夕空の縁が黒く染まりだしていた。
壁の、ヒビの方を見る。
まだ塞がってはいない。
私は慌てて机によじ登ると、壁に顔を押し当てた。
ヒビの向こうには、『私』からの手紙が掲げてあった。
『私へ
ありがとう。
助けに来てくれて、本当に嬉しかった。
穴の向こうの世界を私も救うことができて、
他の穴にひとりで立ち向かう勇気が出ました。
部屋に戻ったら穴が塞がってて、びっくりしたあ。
そちらの壁のヒビも塞がっちゃうのかな?
もっともっとお話ししたかったけど……、
ううん、そんなこと言ってたらキリがないよね。
ほんの少しの間しか一緒にいられなかったけれど、
一生忘れられない思い出になりました。
奇跡って、あるんだね。
慌てて書いたから、汚い字でごめんね。
この手紙が見えてると良いな。
じゃあ、またね。
友達が出来るように祈ってます。
ぜったい大丈夫だよ!
もう一人の私より。』
読み終わって私はようやく泣いている自分に気付いた。
(頑張ろう)
何となく、思った。
私は机を降りると、まずデジカメを手に取った。
『私』からの手紙を記録に残しておきたかった。
ヒビを見ると、少しずつ塞がり始めているように思えた。
急がなくては。
一枚撮って、念のためもう二枚撮った。
よし、ピントもちゃんと合っている。
次に私は『私』に返事を書き始めた。
『ありがとう。
またね。
お互い頑張ろうね。』
たった三行の、短い手紙だ。
でも、それで充分だと思った。
明らかに狭まったヒビの向こうに手紙を落とし、壁に顔を寄せる。
──それは不思議な光景だった。
視界の先の『私』の部屋が、どんどん遠ざかっていく。
まるで暗く深い穴の中に写真を落としたかのようだ。
私の手紙はちゃんと届いただろうか。
……きっと、大丈夫だろう。
「またね」
声に出して言ってみる。
(またね)
誰かが言った気がした。
それは、自分だったのかも知れないけれど──。
第十一話
1
「ただいまあ」
『私』とのお別れを済ませた私は、誰にも見つからないようにこそこそと玄関へ向かうと、さも今帰宅したかのように声をあげた。
「あら、思ったより早かったのね」
良かった。さっきまで二階にいたことはばれていないようだ。
「うん、何だか疲れちゃって」
「早く帰るなら連絡してくれれば良かったのに。夕飯、いらないかと思ってた」
「ごめんごめん。私の分は良いから」
「大丈夫よ、何にもないわけじゃないから」
「ごめんね」
私は手を合わせて謝ると、再び自室へと戻った。
荷物(といっても適当に中身を詰めたバッグがひとつ)を置き、部屋着に着替える。
ほっとひと息。
何だか、ずいぶん長く出掛けていたような気がする。
(さて……)
倒れ込むようにしてベッドに寝転がる。仰向けに寝返りを打って、手に持った携帯電話を睨む。
アドレス帳を開き、その中から懐かしい名前を探し出す。
会社の後輩の、あの子。
確か五つくらい年下で、背が小さくて、長い黒髪が羨ましかった。幼い顔立ちに相応しい華奢な体つきをしていたっけ。十人並み以上の容姿だと思う。
彼女が入社した時、教育係を任されたのは私だった。先輩先輩と、いつもついて回っていた。昼食はほぼ毎回一緒に摂っていたし、話す機会も多かった。職場に友達と呼べるような相手がいなかった私にとって、彼女は本当に可愛い後輩だった。
私が会社を辞めると言った時、彼女は涙目で引き留めてくれた。
そんな後ろめたさからか、退職後、私から彼女へ連絡をすることはなかった。
彼女からも連絡はなかったが、それは当然だろう。
(怒ってるかな……)
ふと、そんな考えが頭を過ぎり、メールを打とうとした手を止めた。
別に怒られるような辞め方をしたつもりはないが、何となく、そう思った。
(まあ、そんなことで悩んでも仕方ないけどさ。ええっと……『ひさしぶり。元気してる?』と。うーん、これだけじゃちょっとなあ……)
しかし、あまり長ったらしいメールを送るのも違う気がする。
ちょっと唐突過ぎるかも知れないが、これくらいの方が良いだろう。たぶん。
(ええい、送信、と)
思い切って送信ボタンを押す。
送信完了のメッセージ。
しばらく画面を見つめていたが、宛先不明の連絡はない。どうやらちゃんと送れたようだ。
携帯を枕元に置き、深呼吸。
よし、一先ずこれで良しとしよう。
足の反動を使って起き上がった私は、今度は床の穴をチェックすることにした。
空いている穴は二つ。
真っ暗闇のグリッド線の世界と、謎の球体の世界。
グリッド線の方は攻略法ならわかっているのに、何故か帰されてしまった。
振動がなくなったことと、何か関係しているのだろうか。
もしかしたら、手遅れになってしまったのかも知れない。ドリルが地面を貫通して、何処かへ行って仕舞ったのだとしたら……。その結果何が起こるのかは全くの未知数だ。私は首筋に冷や汗が流れるのを感じた。
(取りあえず、覗いてみるか)
床に這いつくばり、穴に右目を近付ける。
──穴の向こうは、真っ暗だ。
念のため手で目をこすって再び覗いてみるが、そこには深い闇があるだけだ。
以前、自分の部屋に連れてきてしまったピンクちゃん二号を、縮んだ状態から元のサイズに戻したことがあったので身体能力も方にも力が使えるのかと思ったが、どうやらそんなに甘くはないらしい。
顔を上げ、時計をちらりと見る。
向こうの世界に行って帰ってくる時間はなさそうだ。
穴の大きさに変化はないように見える。週末は予定があるので、次に向こうに行く時間を作れるのはおそらく一週間後になるだろう。しばらくは放置しても大丈夫だろうか。
そのままにしておくのは不安だが、仕事を休むわけにはいかないし、日曜にマリリンと会う約束だって反故にするわけにはいかない。
(まいったなあ……)
その時、ベッドの上の携帯が音を立てた。
立ち上がり、取りに行く。
メールだ。
胸が小さく弾む。
画面を開くと、後輩のあの子からの返信だった。
『件名:お久しぶりです!
本文:私は相変わらず元気です!
先輩こそお元気ですか?
ずっと「どうしてるのかなあ」って思ってたんですよ(泣き顔の絵文字)
もしよかったら週末お会いできませんか?』
マリリンといい彼女といい、私の周りの人々は、私よりずっと積極的だ。
(週末か……)
明日明後日は夕方まで仕事だし、日曜の昼はマリリン(何度言っても慣れない呼び名だ)との約束がある。来週の休みは穴を塞ぐのに時間を割きたいし……。こう考えるとなかなか忙しい。
(うーん、先延ばしにするのも良くないよね)
『件名:返信ありがとう
本文:ご無沙汰しちゃってごめんね。
土曜の夜なら大丈夫だよ。
場所はどうしよっか?
私はお酒飲めないけど、何処でも構わないよ。』
仕事が終わって家に帰って、着替えて再び家を出られるのが大体一九時くらいだろう。下戸の私は二日酔いになる心配はないから、翌日の予定に響くこともない。
携帯が鳴る。返信が早い。
『件名:では土曜に!
本文:先輩のご自宅ってどちらでしたっけ?
私、あんまりお店とか詳しくないです……(汗の絵文字)』
その後数回のやり取りをし、私達は次の土曜日の一九時半に、二人の家からおおよそ等距離の駅で待ち合せることにした。お店は、会ってから適当に決めることにした。
こんなにひととメールしたのは久し振りだ。何だか変に疲れてしまった。
ベッドに俯せで寝転がり、枕に顔を押し当てる。ひんやりして、少し気持ちが良い。
ふと思い立って、マリリンにメールをしてみることにした。
『件名:そういえば
本文:どうして「マリリン」なの?』
会った時に聞こうと思っていたのだが、別に今聞いたって構わないだろう。
三十分ほどして返信が来た。
『件名:Re:そういえば
本文:あ、やっぱ気になっちゃう感じ?』
(……)
実に、もったいぶる。
『件名:Re:Re:そういえば
本文:うん。
だって高校の時は違うあだ名だったじゃん?
本名とも関係ないし、そりゃ気になるよー。』
次の返信は早かった。
『件名:Re:Re:Re:そういえば
本文:じゃあ日曜日にね!』
(…………)
実に、もったいぶる。
深い理由でもあるのだろうか。
(もしかして、『源氏名』ってやつとか?)
見た目からすれば、考えられないことではない。しかし、安易にそう考えるのも失礼だろう。では源氏名でないとして、何だろうか──。
(ま、いっか)
これだけのヒントでわかるわけもない。まあ良い。日曜日には答えがわかるのだ。
「ご飯できたわよ!」
階下から母の声が聞こえる。
「はーい!」
返事をして、部屋を出ようとすると、再び携帯が鳴った。
後輩の子からのメールだった。
内容は「先輩の好きな食べ物はなんですか?」とだけ書かれていた。
お店を探しておいてくれるのだろうか。
(好きな食べ物か……)
子供の頃ならば即答出来ただろうが、大人になると意外と返答に迷ってしまう。
(……チョコミントのアイスとか好きなんだけど、質問の意図にはそぐわないよね)
階段を降りながら考える。
食材として海老が一番好きかも知れない。
しかし「エビが好き」と言われたところで、お店を探す指針になるだろうか。
(ああ、でもシーフードのお店とかならあるか)
では初めから「魚貝類」と答えた方が親切だろうか。
そう思いながらリビングに入る。
今日の夕飯はサラダと自家製コロッケらしい。
(ああ、コロッケか。コロッケも好きだなあ)
とはいえ「コロッケが好き」と答えるのも何だか恥ずかしい。ここは無難に「シーフード」か。
いただきますの前にメールを送る。
やはり返事はすぐに来た。
『件名:ごめんなさい……
本文:私、魚介アレルギーです(泣き顔の絵文字)』
(……うーん、そうきたか)
やはり、お店を探すつもりだったようだ。
(さあて困ったぞ)
私はコロッケをかじりながら『嗜好回路』をフル回転させたのだった。
2
(やばいやばい!)
私は電車の扉が開くと同時に、駅のホームへと飛び出した。
時計を見ると一九時二十八分。
思ったより着替えに手間取ってしまったせいで、約束の時間ぎりぎりになってしまった。
今日は土曜日。
これから後輩のあの子と、久し振りのお食事だ。
「ごめんね、待った?」
といっても、事前にメールをして、彼女が約束の十五分前には到着しているのを私は知っている。
私服の彼女を見るのは初めてだが、イメージ通り可愛らしい服装だ。淡い色のコートとふんわりしたスカートがよく似合っている。すとんとおろした髪の毛も、清潔感があって素敵だ。同性ながら、ほんの少しだけときめく。
「いいえ、大丈夫です。先輩こそ、大丈夫ですか?」
ホームから全力疾走したせいで、北風が強いにもかかわらず、私は汗だくになっていた。髪もボサボサだ。恥ずかしい。
「あ、あのさ、その『先輩』って呼び方なんだけど」
「え?」
「もう私仕事辞めたんだし、名前で呼んでくれて構わないよ」
「いや、そんな、恐れ多い」
「何それ。恐れ多くなんてないってば」
慌てて答えた姿に、思わず笑いがこぼれる。
「名前で呼んでくれないなら、私も『後輩ちゃん』って呼んじゃうよ?」
「あ、はい! 是非そう呼んで下さい! それ、すごく嬉しいです!」
冗談で言ったつもりだったのだが、彼女は本気で喜んでいるようだ。頬まで赤らめて……、冗談で返してきているわけではなさそうだ。
「……じゃあ、後輩、ちゃん」
「はい!」
「取りあえず、いこっか」
「はい!」
何だかよくわからないことになってしまったが、私達二人は事前に決めておいたお店へと向かうことにした。
しゃれた店内は週末ということもあって、二十はあるだろうテーブルは七割以上埋まっていた。辺りには食欲を誘う美味しそうな香りが漂っている。空腹な私にはなかなか刺激的な香りだ。思わず、お腹が鳴ってしまった。後輩ちゃんの方をちらりと見る。聞こえていないと良いが……。
入口で名前を告げ、私達は予約していた個室へと案内された。
席に着き、まずは飲み物を注文。
彼女はビールを、私はノンアルコールのカクテルを注文した。
「こうして先輩とお食事なんて、夢みたいです」
「言い過ぎだよ」
目をきらきらさせて言うので、思わず照れて視線を逸らした。
私、こんなに慕われてたっけ?
「私、先輩のこと尊敬してるんです」
「え? どうして?」
「だって、仕事のこと何でも知ってるし、優しいし、美人だし、スタイル良いし……」
「そんな。そんなことないよ」
確かに、長年勤めていたこともあり、同年代の同僚より仕事について詳しかったのは確かだ。それに「優しい」と言われると複雑な気分だが、怒るのは苦手なので、後輩がミスをしても怒鳴ったり責めたりしたことはない。美人やスタイルが良いというのは……、残念だが、後輩ちゃんの目が悪いとしか思えない。
「先輩、後輩達に人気だったんですよ。それに、上司の方達の評判も高かったし」
「……そうなの?」
「はい! 課長なんて、もう先輩が退職されてずいぶん経ったのに、ちょっとでもトラブルがあると先輩の名前を呼んじゃうんですよ。呼んでから『ああ、いないんだった』って」
そう言って後輩ちゃんは、まるで自分が褒められたかのように胸を張った。
知らなかった。
私は社内でそれなりに評価されていたのか。
自分の評価など大して気にしていなかったし、同僚でそこまで親しい人間もいなかったので今の今まで知らなかった。
(ううむ……辞めなきゃ良かったかな)
冗談半分だがそう思った。
「お待たせ致しました」
長身のウェイターが飲み物を運んで来た。二人の目の前にコースターとグラスが並べられる。
「じゃあ先輩、乾杯しましょうか」
「何に?」
「ええと……、さ、再会に、とか」
何故か頬を赤らめる後輩ちゃん。
(私、そんなに憧れられてたのか? ぜんぜんそんな覚えないんだけどなあ)
一先ず「再会に」ということで乾杯した。
「ああ、美味しいですね」
見た目に似合わずビールをひと息に飲み干した彼女は、すかさず店員におかわりを注文する。言葉通りの『乾杯』だ。下戸の私には一生出来ない芸当である。
「先輩、お腹空いてますよね?」
そう言ってメニューを開いて見せてくれた。私達二人は、サラダや数種類のおつまみを注文した。ちなみに、選びながら何度もお腹が鳴ってしまったのは内緒だ。
食べ物が運ばれてくるまでの間、私達は他愛のないおしゃべりをした。
話題は主に、私が辞めた後の職場のことだ。
誰が辞めたとか昇進したとか。
最近あったトラブルとか、誰が結婚しただとか。
懐かしい名前を聞く度に、何となく寂しい気持ちになった。もし、あの時仕事を辞めていなかったら、私も彼女と同じ日々を送っていたはずだ。
ふと『もう一人の私』のことを思った。彼女は後輩ちゃんと継続的に連絡を取り合っていたようだから、今の私みたいな気持ちにはならないかも知れない。それとも、彼女も後輩ちゃんから話を聞く度に寂しい気持ちになっただろうか。今日の報告も兼ねて聞いてみたいところだが、それは叶わない。
「先輩……」
テーブルの上に料理が並んだところで、後輩ちゃんは急に表情を曇らせた。
「どうしたの?」
相談事だろうか。何か悩みでもあるのか。さっきまで楽しそうにしていたので、余計に心配になる。
後輩ちゃんは口を噤んで、もじもじと俯いてしまった。
「先輩、どうして……あ、いえ、退職されてから……ああ、あの……」
……なるほど。
どうやら、私がどうして仕事を辞めたのかということと、仕事を辞めてから何をしていたのかということを聞きたいようだ。
「ああ、仕事を辞めた理由?」
「はい……」
「理由かあ……。実は特にないんだよね」
私はありのままを話した。
「え?」
「ほら、私高卒であの会社入ったでしょ? それは早く社会人になりたかったからなんだけど……、この歳になったらさ、周りのみんなより人生楽しんでないような気がしちゃって。私、趣味とかあんまりないし、将来の夢っていわれてもピンとこないんだよね」
「……」
後輩ちゃんはせっかく上げた顔を、また下ろしてしまった。確かに、こんなことを言われても何と返事したら良いかわからないだろう。
「だから、思い切って仕事辞めてみたんだ。そしたら何か、私にも夢中になれるものがみつかるかも、って」
「そうだったんですか……。あの、今は……?」
「今はフリーターだよ。今日もね、さっきまでバイトだったんだ」
「あ、そうだったんですか。済みませんお疲れのところ」
「そんな、気にしなくて良いよ」
「どんなお仕事なんですか?」
「パン屋さんだよ」
「へえ。面白そうですね」
「うん。まだ始めたばっかりだけど、楽しいよ」
後輩ちゃんに少しずつ笑顔が戻り始める。
きっと、私が仕事を辞めてから今まで、ずっと気に掛けていてくれたのだろう。
「それで、何か夢中になれるものは見つかりそうですか?」
五杯目のジョッキを傾けながら彼女が尋ねる。そんなペースで飲んで大丈夫なのだろうか。少し、羨ましい。
「うーん……どうかな」
私はあの不思議な世界のことを思い描いた。確かに、あれは夢中になれるものといえるかも知れない。でも、上手くいえないが違う気もした。
「まだ、探し中、かな」
「そうですか……」
「後輩ちゃんは、ある? 何か、夢中になれるもの」
「私は……」
大分赤くなった頬を両手で押さえ、彼女は「うーん」と上を向いた。そういえば職場でも、何か考える時はいつもこのポーズだった。
「……まだ、探し中、ですかね」
その後も他愛ないおしゃべりを続け、気が付くと二十二時をまわっていた。楽しい時間はあっという間である。もっとゆっくり話したいが、後輩ちゃんもずいぶん酔っ払ってきているようだし、今日はこの辺でお開きということになった。
私が「帰る前に、ちょっと」とお手洗いに立ち、再び席に戻ると──、
「うーん……せんぱぁい……」
完全に酔い潰れた後輩ちゃんは、テーブルに突っ伏して可愛らしい寝息を立てていた。
その安心しきった表情に、私は思わず笑ってしまった。
3
三十分くらい店内で後輩ちゃんが起きるのを待っていたが、時間が経つにつれ眠りは深さを増しているように見えた。仕方なく私は後輩ちゃんを担いで店を出た。彼女が小柄で本当に良かった。
「ううん……ぴゅるるるる……」
イビキともつかない愛らしい音が彼女の口から時折もれる。私ならこんな可愛い寝息を立てることは出来ないだろう。
(さて、これからどうしたものか……)
まだ終電の時間ではないが、外で起きるのを待つには少し寒すぎる。このまま他の店に入るのもはばかられる。いくら彼女が軽くても、さすがに担いで電車に乗るほどの体力はない。タクシーという方法もあるが、そもそも私は彼女の家の住所を知らない。
(となると……)
選択枝はひとつしかない。
私は右腕で後輩ちゃんを支え、左手を挙げてタクシーを止めた。
「何処までですか?」
私は、自分の家の住所を告げた。
「おかえり……って、あらら、この子、大丈夫なの?」
家に帰ると、出迎えてくれた母が後輩ちゃんの状態を見て言った。
「うん、大丈夫。たぶん。寝てるだけだから」
「そう。布団、あんたの部屋で良い?」
「うん、お願い」
玄関で靴を脱がせてあげる。ブーツじゃなくて良かった。
「ほーら後輩ちゃん、お家に着きましたよー」
声をかけるが、彼女は一向に起きる気配がない。幸せそうな寝顔だけが救いだ。
肩を貸し、完全に脱力した彼女を二階の自室へと連れて行く。布団を持った母が後ろから付いてきた。
「ドア、開けられる?」
「ドアは大丈夫だけど……ああっ、ごめん。痛くなかった?」
部屋に入ろうとした時、うっかり彼女の頭を扉にぶつけてしまった。しかし彼女は起きない。どれだけ深く眠っているのだろう。
「すぐ布団敷くから、コートとか脱がせてあげなさい」
一先ずベッドに横にならせた彼女のコートを脱がす。
「部屋着貸してあげたら? どうせ着替えさせても起きないでしょ」
「え? あ、うん。わかった」
確かに、このまま寝てはせっかくの服が皺になってしまう。
(でも、何か、申し訳ないなあ)
友達がお泊まりに来るなんて数十年ぶり(は言い過ぎかな)なので、普通どうするものなのかさっぱりわからない。それに、同性とはいえ、服を脱がすのには何だか抵抗がある。
(……まあ、良いか)
よいしょ、と上半身を起こさせ、ブラウスのボタンを外す。
(……そういう趣味は、ないんだけどな)
少しだけドキドキした。
スカートは脱がせる前にスウェットをはかせた。
「お水、飲めるかしら」
彼女を布団に寝かせてあげていると、母がペットボトルの水を持ってきてくれた。
「どうかな……。取りあえず、そこに置いといて」
「何かあったら呼んでね」
「ありがと。おやすみ」
「はい、おやすみ」
壁の時計を見ると、もう十二時に近かった。
(私も着替えるか……)
自分も部屋着に着替えると、ようやく肩の荷が下りた気がした。顔を洗いに洗面所へ向かう。ずいぶん気を張っていたのか、すっかりくたくただ。シャワーを浴びたかったが、朝入ることにしよう。
化粧を落とし、歯を磨くと「ふわあ」と大きなあくびが出た。こんなに遅くまで出掛けていたのは久し振りだ。気も心も疲れていたが、心地好い疲れだ。
部屋に戻ると、後輩ちゃんが布団の上で上半身だけ起こしていた。
「あれえ? 先輩?」
「大丈夫? ここ、私の部屋だから。寝てて良いからね」
「うう……お水……」
「お水? ちょっと待ってね」
酔っているのと寝ぼけているのとで、彼女はまるで子供みたいだ。
(そうなると私はお母さんか……ううん、彼氏もいないのに……)
少し複雑な気分になった。
「はいどうぞ、お水」
ペットボトルの蓋を開けてあげ、彼女に手渡す。
「あいやよよよ……」
おそらく「ありがとうございます」と言ったのだろう。小さくお辞儀をしてから、彼女は水に口を付けた。小さく二口、大きく三口。ほんの少しだけ、頬の赤みがおさまったようだ。
「んん……眠い、です」
「うん、寝て良いからね」
「はい……」
その時、彼女の手からペットボトルが滑り落ちた。慌てて手を伸ばしたが、間に合わない。ボトルは床で軽くはねて、カーペットの上に暗い染みを作った。すぐに拾ったので大した被害はないが、カーペットが濡れてしまった。布団が濡れなかっただけ良しとしよう。
「あっ、ごめんなさい」
彼女も驚いたのか、はっきりとした口調で言った。
「ううん。大丈夫だから」
タオルを手に取り、カーペットを軽く叩く。それから捲って、床を──、
(……なんで?)
そこには、見慣れた穴がひとつ空いていた。
(ちょっと待って……今この位置には穴は空いてなかったはずなのに)
位置的にはプラちゃんの穴があった場所と同じように思う。覗いて確かめたいが、今は後輩ちゃんがいるので出来ない。
「先輩……手伝いましゅょぉ……」
彼女が再び睡魔に襲われながらこちらへと手を伸ばす。目がとろんとしていて、今にも眠ってしまいそうだ。
「いいよ、大したことないから気にしないで。それよりほら、無理しないで寝なさい、ね?」
「でも……床に穴も空いちゃったみたいでしゅし……」
「ああ、穴ね。この穴は……え?」
今、「穴」と言ったか?
間違いない。彼女は今「床に穴」と言った。
この穴が、見えるのか?
「こ、後輩ちゃん?」
「……ぁい?」
「この穴が、見えるの?」
彼女はこくんと頷き、そのまま(横座りのまま)眠りへと落ちていった。
それきり。私がいくら声をかけても目を覚まさなかった。
(彼女、穴が……見えたの?)
私以外には見えないのだとてっきり思い込んでいたが、よくよく考えてみれば、今まで私以外に穴と対峙したのは母だけだった。歳を取ると、見えなくなるのだろうか。しかし、それならば私だって充分大人じゃないか。精神年齢だろうか? ……それは違うと思いたい。
彼女をそっと寝かせながら、私は遠目に穴を見た。
覗いて見たかったが、いくら寝ているとはいえ、彼女の前で床に這いつくばるのは抵抗がある。ちらっと確認する程度なら良い気もするが、性格的に「ちらっと」で済ませられるとは考えられない。何より疲れていて眠かった。明日は昼からマリリンとのお茶会。寝不足で行くのは躊躇われる。
(よし、ここは我慢だ)
明日は夜には帰宅できるはずだ。ならばそれからでも充分に観察出来る。穴の大きさは標準的だから、緊急性はおそらくないだろう。
(後輩ちゃんにも、見えた……)
取りあえずベッドに入ってみたものの、頭が冴えて眠れそうにない。
しばらく輾転反側としていたが、喉が渇いたこともあり、一旦ベッドを出た。
台所へ行くと、意外なことに母がいた。
「あんたまだ起きてたの?」
「うん。何だか目が冴えちゃって」
どうやら母も喉が渇いていたらしく、二人分のコップに冷たいお茶を注いでくれた。
「あの子は大丈夫そう?」
「うん。さっき一回起きて、水飲んでた」
「会社の子なんでしょ?」
「うん」
「そういえば何で会うことになったの?」
「私からメールしたんだ。久しぶりーって」
「何で?」
「何でってことないでしょ」
「珍しい」
「たまには、ね」
ふ、と口元が緩むのを感じた。この感情は、何だろう。
「まあ良いけど。しかし、あんた友達いたのね」
「失礼な」
「友達はね、大事にしなさいよ」
母は、少しだけ親の顔になって言った。
「……うん」
私は素直にその言葉を聞いた。
『友達は大事にする』
今まで、出来そうで出来ていなかったことだ。
「それにしてもあの子、可愛い子ね」
「ね、羨ましい」
「あんたが無理に飲ませたんじゃないの?」
「まさか。そんなことするはずないでしょ」
結局その後、私と母は三十分近く薄暗い台所で話していた。
話題は先程の食事会での話と、会社にいた頃の話。どちらも話題の中心は後輩ちゃんだ。
(友達の話をするのって、楽しいな)
ふと思って恥ずかしくなった。いい大人の思うことではない気がする。
でも……、友達の話をする私を見て、母も何だか嬉しそうだったから、今夜は素直にそう思うことにした。
(友達の話をするのって、楽しいな)
1
「ただいまあ」
『私』とのお別れを済ませた私は、誰にも見つからないようにこそこそと玄関へ向かうと、さも今帰宅したかのように声をあげた。
「あら、思ったより早かったのね」
良かった。さっきまで二階にいたことはばれていないようだ。
「うん、何だか疲れちゃって」
「早く帰るなら連絡してくれれば良かったのに。夕飯、いらないかと思ってた」
「ごめんごめん。私の分は良いから」
「大丈夫よ、何にもないわけじゃないから」
「ごめんね」
私は手を合わせて謝ると、再び自室へと戻った。
荷物(といっても適当に中身を詰めたバッグがひとつ)を置き、部屋着に着替える。
ほっとひと息。
何だか、ずいぶん長く出掛けていたような気がする。
(さて……)
倒れ込むようにしてベッドに寝転がる。仰向けに寝返りを打って、手に持った携帯電話を睨む。
アドレス帳を開き、その中から懐かしい名前を探し出す。
会社の後輩の、あの子。
確か五つくらい年下で、背が小さくて、長い黒髪が羨ましかった。幼い顔立ちに相応しい華奢な体つきをしていたっけ。十人並み以上の容姿だと思う。
彼女が入社した時、教育係を任されたのは私だった。先輩先輩と、いつもついて回っていた。昼食はほぼ毎回一緒に摂っていたし、話す機会も多かった。職場に友達と呼べるような相手がいなかった私にとって、彼女は本当に可愛い後輩だった。
私が会社を辞めると言った時、彼女は涙目で引き留めてくれた。
そんな後ろめたさからか、退職後、私から彼女へ連絡をすることはなかった。
彼女からも連絡はなかったが、それは当然だろう。
(怒ってるかな……)
ふと、そんな考えが頭を過ぎり、メールを打とうとした手を止めた。
別に怒られるような辞め方をしたつもりはないが、何となく、そう思った。
(まあ、そんなことで悩んでも仕方ないけどさ。ええっと……『ひさしぶり。元気してる?』と。うーん、これだけじゃちょっとなあ……)
しかし、あまり長ったらしいメールを送るのも違う気がする。
ちょっと唐突過ぎるかも知れないが、これくらいの方が良いだろう。たぶん。
(ええい、送信、と)
思い切って送信ボタンを押す。
送信完了のメッセージ。
しばらく画面を見つめていたが、宛先不明の連絡はない。どうやらちゃんと送れたようだ。
携帯を枕元に置き、深呼吸。
よし、一先ずこれで良しとしよう。
足の反動を使って起き上がった私は、今度は床の穴をチェックすることにした。
空いている穴は二つ。
真っ暗闇のグリッド線の世界と、謎の球体の世界。
グリッド線の方は攻略法ならわかっているのに、何故か帰されてしまった。
振動がなくなったことと、何か関係しているのだろうか。
もしかしたら、手遅れになってしまったのかも知れない。ドリルが地面を貫通して、何処かへ行って仕舞ったのだとしたら……。その結果何が起こるのかは全くの未知数だ。私は首筋に冷や汗が流れるのを感じた。
(取りあえず、覗いてみるか)
床に這いつくばり、穴に右目を近付ける。
──穴の向こうは、真っ暗だ。
念のため手で目をこすって再び覗いてみるが、そこには深い闇があるだけだ。
以前、自分の部屋に連れてきてしまったピンクちゃん二号を、縮んだ状態から元のサイズに戻したことがあったので身体能力も方にも力が使えるのかと思ったが、どうやらそんなに甘くはないらしい。
顔を上げ、時計をちらりと見る。
向こうの世界に行って帰ってくる時間はなさそうだ。
穴の大きさに変化はないように見える。週末は予定があるので、次に向こうに行く時間を作れるのはおそらく一週間後になるだろう。しばらくは放置しても大丈夫だろうか。
そのままにしておくのは不安だが、仕事を休むわけにはいかないし、日曜にマリリンと会う約束だって反故にするわけにはいかない。
(まいったなあ……)
その時、ベッドの上の携帯が音を立てた。
立ち上がり、取りに行く。
メールだ。
胸が小さく弾む。
画面を開くと、後輩のあの子からの返信だった。
『件名:お久しぶりです!
本文:私は相変わらず元気です!
先輩こそお元気ですか?
ずっと「どうしてるのかなあ」って思ってたんですよ(泣き顔の絵文字)
もしよかったら週末お会いできませんか?』
マリリンといい彼女といい、私の周りの人々は、私よりずっと積極的だ。
(週末か……)
明日明後日は夕方まで仕事だし、日曜の昼はマリリン(何度言っても慣れない呼び名だ)との約束がある。来週の休みは穴を塞ぐのに時間を割きたいし……。こう考えるとなかなか忙しい。
(うーん、先延ばしにするのも良くないよね)
『件名:返信ありがとう
本文:ご無沙汰しちゃってごめんね。
土曜の夜なら大丈夫だよ。
場所はどうしよっか?
私はお酒飲めないけど、何処でも構わないよ。』
仕事が終わって家に帰って、着替えて再び家を出られるのが大体一九時くらいだろう。下戸の私は二日酔いになる心配はないから、翌日の予定に響くこともない。
携帯が鳴る。返信が早い。
『件名:では土曜に!
本文:先輩のご自宅ってどちらでしたっけ?
私、あんまりお店とか詳しくないです……(汗の絵文字)』
その後数回のやり取りをし、私達は次の土曜日の一九時半に、二人の家からおおよそ等距離の駅で待ち合せることにした。お店は、会ってから適当に決めることにした。
こんなにひととメールしたのは久し振りだ。何だか変に疲れてしまった。
ベッドに俯せで寝転がり、枕に顔を押し当てる。ひんやりして、少し気持ちが良い。
ふと思い立って、マリリンにメールをしてみることにした。
『件名:そういえば
本文:どうして「マリリン」なの?』
会った時に聞こうと思っていたのだが、別に今聞いたって構わないだろう。
三十分ほどして返信が来た。
『件名:Re:そういえば
本文:あ、やっぱ気になっちゃう感じ?』
(……)
実に、もったいぶる。
『件名:Re:Re:そういえば
本文:うん。
だって高校の時は違うあだ名だったじゃん?
本名とも関係ないし、そりゃ気になるよー。』
次の返信は早かった。
『件名:Re:Re:Re:そういえば
本文:じゃあ日曜日にね!』
(…………)
実に、もったいぶる。
深い理由でもあるのだろうか。
(もしかして、『源氏名』ってやつとか?)
見た目からすれば、考えられないことではない。しかし、安易にそう考えるのも失礼だろう。では源氏名でないとして、何だろうか──。
(ま、いっか)
これだけのヒントでわかるわけもない。まあ良い。日曜日には答えがわかるのだ。
「ご飯できたわよ!」
階下から母の声が聞こえる。
「はーい!」
返事をして、部屋を出ようとすると、再び携帯が鳴った。
後輩の子からのメールだった。
内容は「先輩の好きな食べ物はなんですか?」とだけ書かれていた。
お店を探しておいてくれるのだろうか。
(好きな食べ物か……)
子供の頃ならば即答出来ただろうが、大人になると意外と返答に迷ってしまう。
(……チョコミントのアイスとか好きなんだけど、質問の意図にはそぐわないよね)
階段を降りながら考える。
食材として海老が一番好きかも知れない。
しかし「エビが好き」と言われたところで、お店を探す指針になるだろうか。
(ああ、でもシーフードのお店とかならあるか)
では初めから「魚貝類」と答えた方が親切だろうか。
そう思いながらリビングに入る。
今日の夕飯はサラダと自家製コロッケらしい。
(ああ、コロッケか。コロッケも好きだなあ)
とはいえ「コロッケが好き」と答えるのも何だか恥ずかしい。ここは無難に「シーフード」か。
いただきますの前にメールを送る。
やはり返事はすぐに来た。
『件名:ごめんなさい……
本文:私、魚介アレルギーです(泣き顔の絵文字)』
(……うーん、そうきたか)
やはり、お店を探すつもりだったようだ。
(さあて困ったぞ)
私はコロッケをかじりながら『嗜好回路』をフル回転させたのだった。
2
(やばいやばい!)
私は電車の扉が開くと同時に、駅のホームへと飛び出した。
時計を見ると一九時二十八分。
思ったより着替えに手間取ってしまったせいで、約束の時間ぎりぎりになってしまった。
今日は土曜日。
これから後輩のあの子と、久し振りのお食事だ。
「ごめんね、待った?」
といっても、事前にメールをして、彼女が約束の十五分前には到着しているのを私は知っている。
私服の彼女を見るのは初めてだが、イメージ通り可愛らしい服装だ。淡い色のコートとふんわりしたスカートがよく似合っている。すとんとおろした髪の毛も、清潔感があって素敵だ。同性ながら、ほんの少しだけときめく。
「いいえ、大丈夫です。先輩こそ、大丈夫ですか?」
ホームから全力疾走したせいで、北風が強いにもかかわらず、私は汗だくになっていた。髪もボサボサだ。恥ずかしい。
「あ、あのさ、その『先輩』って呼び方なんだけど」
「え?」
「もう私仕事辞めたんだし、名前で呼んでくれて構わないよ」
「いや、そんな、恐れ多い」
「何それ。恐れ多くなんてないってば」
慌てて答えた姿に、思わず笑いがこぼれる。
「名前で呼んでくれないなら、私も『後輩ちゃん』って呼んじゃうよ?」
「あ、はい! 是非そう呼んで下さい! それ、すごく嬉しいです!」
冗談で言ったつもりだったのだが、彼女は本気で喜んでいるようだ。頬まで赤らめて……、冗談で返してきているわけではなさそうだ。
「……じゃあ、後輩、ちゃん」
「はい!」
「取りあえず、いこっか」
「はい!」
何だかよくわからないことになってしまったが、私達二人は事前に決めておいたお店へと向かうことにした。
しゃれた店内は週末ということもあって、二十はあるだろうテーブルは七割以上埋まっていた。辺りには食欲を誘う美味しそうな香りが漂っている。空腹な私にはなかなか刺激的な香りだ。思わず、お腹が鳴ってしまった。後輩ちゃんの方をちらりと見る。聞こえていないと良いが……。
入口で名前を告げ、私達は予約していた個室へと案内された。
席に着き、まずは飲み物を注文。
彼女はビールを、私はノンアルコールのカクテルを注文した。
「こうして先輩とお食事なんて、夢みたいです」
「言い過ぎだよ」
目をきらきらさせて言うので、思わず照れて視線を逸らした。
私、こんなに慕われてたっけ?
「私、先輩のこと尊敬してるんです」
「え? どうして?」
「だって、仕事のこと何でも知ってるし、優しいし、美人だし、スタイル良いし……」
「そんな。そんなことないよ」
確かに、長年勤めていたこともあり、同年代の同僚より仕事について詳しかったのは確かだ。それに「優しい」と言われると複雑な気分だが、怒るのは苦手なので、後輩がミスをしても怒鳴ったり責めたりしたことはない。美人やスタイルが良いというのは……、残念だが、後輩ちゃんの目が悪いとしか思えない。
「先輩、後輩達に人気だったんですよ。それに、上司の方達の評判も高かったし」
「……そうなの?」
「はい! 課長なんて、もう先輩が退職されてずいぶん経ったのに、ちょっとでもトラブルがあると先輩の名前を呼んじゃうんですよ。呼んでから『ああ、いないんだった』って」
そう言って後輩ちゃんは、まるで自分が褒められたかのように胸を張った。
知らなかった。
私は社内でそれなりに評価されていたのか。
自分の評価など大して気にしていなかったし、同僚でそこまで親しい人間もいなかったので今の今まで知らなかった。
(ううむ……辞めなきゃ良かったかな)
冗談半分だがそう思った。
「お待たせ致しました」
長身のウェイターが飲み物を運んで来た。二人の目の前にコースターとグラスが並べられる。
「じゃあ先輩、乾杯しましょうか」
「何に?」
「ええと……、さ、再会に、とか」
何故か頬を赤らめる後輩ちゃん。
(私、そんなに憧れられてたのか? ぜんぜんそんな覚えないんだけどなあ)
一先ず「再会に」ということで乾杯した。
「ああ、美味しいですね」
見た目に似合わずビールをひと息に飲み干した彼女は、すかさず店員におかわりを注文する。言葉通りの『乾杯』だ。下戸の私には一生出来ない芸当である。
「先輩、お腹空いてますよね?」
そう言ってメニューを開いて見せてくれた。私達二人は、サラダや数種類のおつまみを注文した。ちなみに、選びながら何度もお腹が鳴ってしまったのは内緒だ。
食べ物が運ばれてくるまでの間、私達は他愛のないおしゃべりをした。
話題は主に、私が辞めた後の職場のことだ。
誰が辞めたとか昇進したとか。
最近あったトラブルとか、誰が結婚しただとか。
懐かしい名前を聞く度に、何となく寂しい気持ちになった。もし、あの時仕事を辞めていなかったら、私も彼女と同じ日々を送っていたはずだ。
ふと『もう一人の私』のことを思った。彼女は後輩ちゃんと継続的に連絡を取り合っていたようだから、今の私みたいな気持ちにはならないかも知れない。それとも、彼女も後輩ちゃんから話を聞く度に寂しい気持ちになっただろうか。今日の報告も兼ねて聞いてみたいところだが、それは叶わない。
「先輩……」
テーブルの上に料理が並んだところで、後輩ちゃんは急に表情を曇らせた。
「どうしたの?」
相談事だろうか。何か悩みでもあるのか。さっきまで楽しそうにしていたので、余計に心配になる。
後輩ちゃんは口を噤んで、もじもじと俯いてしまった。
「先輩、どうして……あ、いえ、退職されてから……ああ、あの……」
……なるほど。
どうやら、私がどうして仕事を辞めたのかということと、仕事を辞めてから何をしていたのかということを聞きたいようだ。
「ああ、仕事を辞めた理由?」
「はい……」
「理由かあ……。実は特にないんだよね」
私はありのままを話した。
「え?」
「ほら、私高卒であの会社入ったでしょ? それは早く社会人になりたかったからなんだけど……、この歳になったらさ、周りのみんなより人生楽しんでないような気がしちゃって。私、趣味とかあんまりないし、将来の夢っていわれてもピンとこないんだよね」
「……」
後輩ちゃんはせっかく上げた顔を、また下ろしてしまった。確かに、こんなことを言われても何と返事したら良いかわからないだろう。
「だから、思い切って仕事辞めてみたんだ。そしたら何か、私にも夢中になれるものがみつかるかも、って」
「そうだったんですか……。あの、今は……?」
「今はフリーターだよ。今日もね、さっきまでバイトだったんだ」
「あ、そうだったんですか。済みませんお疲れのところ」
「そんな、気にしなくて良いよ」
「どんなお仕事なんですか?」
「パン屋さんだよ」
「へえ。面白そうですね」
「うん。まだ始めたばっかりだけど、楽しいよ」
後輩ちゃんに少しずつ笑顔が戻り始める。
きっと、私が仕事を辞めてから今まで、ずっと気に掛けていてくれたのだろう。
「それで、何か夢中になれるものは見つかりそうですか?」
五杯目のジョッキを傾けながら彼女が尋ねる。そんなペースで飲んで大丈夫なのだろうか。少し、羨ましい。
「うーん……どうかな」
私はあの不思議な世界のことを思い描いた。確かに、あれは夢中になれるものといえるかも知れない。でも、上手くいえないが違う気もした。
「まだ、探し中、かな」
「そうですか……」
「後輩ちゃんは、ある? 何か、夢中になれるもの」
「私は……」
大分赤くなった頬を両手で押さえ、彼女は「うーん」と上を向いた。そういえば職場でも、何か考える時はいつもこのポーズだった。
「……まだ、探し中、ですかね」
その後も他愛ないおしゃべりを続け、気が付くと二十二時をまわっていた。楽しい時間はあっという間である。もっとゆっくり話したいが、後輩ちゃんもずいぶん酔っ払ってきているようだし、今日はこの辺でお開きということになった。
私が「帰る前に、ちょっと」とお手洗いに立ち、再び席に戻ると──、
「うーん……せんぱぁい……」
完全に酔い潰れた後輩ちゃんは、テーブルに突っ伏して可愛らしい寝息を立てていた。
その安心しきった表情に、私は思わず笑ってしまった。
3
三十分くらい店内で後輩ちゃんが起きるのを待っていたが、時間が経つにつれ眠りは深さを増しているように見えた。仕方なく私は後輩ちゃんを担いで店を出た。彼女が小柄で本当に良かった。
「ううん……ぴゅるるるる……」
イビキともつかない愛らしい音が彼女の口から時折もれる。私ならこんな可愛い寝息を立てることは出来ないだろう。
(さて、これからどうしたものか……)
まだ終電の時間ではないが、外で起きるのを待つには少し寒すぎる。このまま他の店に入るのもはばかられる。いくら彼女が軽くても、さすがに担いで電車に乗るほどの体力はない。タクシーという方法もあるが、そもそも私は彼女の家の住所を知らない。
(となると……)
選択枝はひとつしかない。
私は右腕で後輩ちゃんを支え、左手を挙げてタクシーを止めた。
「何処までですか?」
私は、自分の家の住所を告げた。
「おかえり……って、あらら、この子、大丈夫なの?」
家に帰ると、出迎えてくれた母が後輩ちゃんの状態を見て言った。
「うん、大丈夫。たぶん。寝てるだけだから」
「そう。布団、あんたの部屋で良い?」
「うん、お願い」
玄関で靴を脱がせてあげる。ブーツじゃなくて良かった。
「ほーら後輩ちゃん、お家に着きましたよー」
声をかけるが、彼女は一向に起きる気配がない。幸せそうな寝顔だけが救いだ。
肩を貸し、完全に脱力した彼女を二階の自室へと連れて行く。布団を持った母が後ろから付いてきた。
「ドア、開けられる?」
「ドアは大丈夫だけど……ああっ、ごめん。痛くなかった?」
部屋に入ろうとした時、うっかり彼女の頭を扉にぶつけてしまった。しかし彼女は起きない。どれだけ深く眠っているのだろう。
「すぐ布団敷くから、コートとか脱がせてあげなさい」
一先ずベッドに横にならせた彼女のコートを脱がす。
「部屋着貸してあげたら? どうせ着替えさせても起きないでしょ」
「え? あ、うん。わかった」
確かに、このまま寝てはせっかくの服が皺になってしまう。
(でも、何か、申し訳ないなあ)
友達がお泊まりに来るなんて数十年ぶり(は言い過ぎかな)なので、普通どうするものなのかさっぱりわからない。それに、同性とはいえ、服を脱がすのには何だか抵抗がある。
(……まあ、良いか)
よいしょ、と上半身を起こさせ、ブラウスのボタンを外す。
(……そういう趣味は、ないんだけどな)
少しだけドキドキした。
スカートは脱がせる前にスウェットをはかせた。
「お水、飲めるかしら」
彼女を布団に寝かせてあげていると、母がペットボトルの水を持ってきてくれた。
「どうかな……。取りあえず、そこに置いといて」
「何かあったら呼んでね」
「ありがと。おやすみ」
「はい、おやすみ」
壁の時計を見ると、もう十二時に近かった。
(私も着替えるか……)
自分も部屋着に着替えると、ようやく肩の荷が下りた気がした。顔を洗いに洗面所へ向かう。ずいぶん気を張っていたのか、すっかりくたくただ。シャワーを浴びたかったが、朝入ることにしよう。
化粧を落とし、歯を磨くと「ふわあ」と大きなあくびが出た。こんなに遅くまで出掛けていたのは久し振りだ。気も心も疲れていたが、心地好い疲れだ。
部屋に戻ると、後輩ちゃんが布団の上で上半身だけ起こしていた。
「あれえ? 先輩?」
「大丈夫? ここ、私の部屋だから。寝てて良いからね」
「うう……お水……」
「お水? ちょっと待ってね」
酔っているのと寝ぼけているのとで、彼女はまるで子供みたいだ。
(そうなると私はお母さんか……ううん、彼氏もいないのに……)
少し複雑な気分になった。
「はいどうぞ、お水」
ペットボトルの蓋を開けてあげ、彼女に手渡す。
「あいやよよよ……」
おそらく「ありがとうございます」と言ったのだろう。小さくお辞儀をしてから、彼女は水に口を付けた。小さく二口、大きく三口。ほんの少しだけ、頬の赤みがおさまったようだ。
「んん……眠い、です」
「うん、寝て良いからね」
「はい……」
その時、彼女の手からペットボトルが滑り落ちた。慌てて手を伸ばしたが、間に合わない。ボトルは床で軽くはねて、カーペットの上に暗い染みを作った。すぐに拾ったので大した被害はないが、カーペットが濡れてしまった。布団が濡れなかっただけ良しとしよう。
「あっ、ごめんなさい」
彼女も驚いたのか、はっきりとした口調で言った。
「ううん。大丈夫だから」
タオルを手に取り、カーペットを軽く叩く。それから捲って、床を──、
(……なんで?)
そこには、見慣れた穴がひとつ空いていた。
(ちょっと待って……今この位置には穴は空いてなかったはずなのに)
位置的にはプラちゃんの穴があった場所と同じように思う。覗いて確かめたいが、今は後輩ちゃんがいるので出来ない。
「先輩……手伝いましゅょぉ……」
彼女が再び睡魔に襲われながらこちらへと手を伸ばす。目がとろんとしていて、今にも眠ってしまいそうだ。
「いいよ、大したことないから気にしないで。それよりほら、無理しないで寝なさい、ね?」
「でも……床に穴も空いちゃったみたいでしゅし……」
「ああ、穴ね。この穴は……え?」
今、「穴」と言ったか?
間違いない。彼女は今「床に穴」と言った。
この穴が、見えるのか?
「こ、後輩ちゃん?」
「……ぁい?」
「この穴が、見えるの?」
彼女はこくんと頷き、そのまま(横座りのまま)眠りへと落ちていった。
それきり。私がいくら声をかけても目を覚まさなかった。
(彼女、穴が……見えたの?)
私以外には見えないのだとてっきり思い込んでいたが、よくよく考えてみれば、今まで私以外に穴と対峙したのは母だけだった。歳を取ると、見えなくなるのだろうか。しかし、それならば私だって充分大人じゃないか。精神年齢だろうか? ……それは違うと思いたい。
彼女をそっと寝かせながら、私は遠目に穴を見た。
覗いて見たかったが、いくら寝ているとはいえ、彼女の前で床に這いつくばるのは抵抗がある。ちらっと確認する程度なら良い気もするが、性格的に「ちらっと」で済ませられるとは考えられない。何より疲れていて眠かった。明日は昼からマリリンとのお茶会。寝不足で行くのは躊躇われる。
(よし、ここは我慢だ)
明日は夜には帰宅できるはずだ。ならばそれからでも充分に観察出来る。穴の大きさは標準的だから、緊急性はおそらくないだろう。
(後輩ちゃんにも、見えた……)
取りあえずベッドに入ってみたものの、頭が冴えて眠れそうにない。
しばらく輾転反側としていたが、喉が渇いたこともあり、一旦ベッドを出た。
台所へ行くと、意外なことに母がいた。
「あんたまだ起きてたの?」
「うん。何だか目が冴えちゃって」
どうやら母も喉が渇いていたらしく、二人分のコップに冷たいお茶を注いでくれた。
「あの子は大丈夫そう?」
「うん。さっき一回起きて、水飲んでた」
「会社の子なんでしょ?」
「うん」
「そういえば何で会うことになったの?」
「私からメールしたんだ。久しぶりーって」
「何で?」
「何でってことないでしょ」
「珍しい」
「たまには、ね」
ふ、と口元が緩むのを感じた。この感情は、何だろう。
「まあ良いけど。しかし、あんた友達いたのね」
「失礼な」
「友達はね、大事にしなさいよ」
母は、少しだけ親の顔になって言った。
「……うん」
私は素直にその言葉を聞いた。
『友達は大事にする』
今まで、出来そうで出来ていなかったことだ。
「それにしてもあの子、可愛い子ね」
「ね、羨ましい」
「あんたが無理に飲ませたんじゃないの?」
「まさか。そんなことするはずないでしょ」
結局その後、私と母は三十分近く薄暗い台所で話していた。
話題は先程の食事会での話と、会社にいた頃の話。どちらも話題の中心は後輩ちゃんだ。
(友達の話をするのって、楽しいな)
ふと思って恥ずかしくなった。いい大人の思うことではない気がする。
でも……、友達の話をする私を見て、母も何だか嬉しそうだったから、今夜は素直にそう思うことにした。
(友達の話をするのって、楽しいな)
第十二話
1
「ほんっとーに、済みませんでしたあ!」
翌朝七時半頃、私が目を覚ますと、後輩ちゃんは布団の上で正座したままこちらを見ていた。そして、私が「おはよう」と言おうとするのを遮って、いきなり土下座で謝ってきた。
「そんな、良いから良いから」
「でもっ」
「全然気にしないで良いよお。それより、二日酔とかない? 大丈夫?」
「あ……はい。ちょっとだけ、頭が痛いですけど」
「気持ち悪くはない?」
「はい。それは大丈夫です」
ベッドから下りて、後輩ちゃんの頭を撫でてあげた。申し訳なさそうにこちらへ向けた瞳は、ほんの少し充血していて、うっすらと潤んでいた。
「良かった。朝ご飯は食べれる?」
「いえ、そんな、私なんかに気を遣っていただかなくても……」
「何言ってるの。そっちこそそんな気にしないで良いから。友達でしょ?」
私の言葉に何か感じたのか、彼女は無言で背筋を伸ばすと軽く足を崩した。そして、こちらを真っ直ぐに見ると、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「え? ごめん。どうしたの? 大丈夫?」
「せんぱぁい」
泣きながら、私に抱きついてきた。
何だ何だ?
「どうしたの? 泣くようなことないよ?」
「だって、先輩、私のこと、友達って……」
「う、うん。あ、ごめんね──」
『勝手に友達とか言って』と言おうとして飲み込んだ。
「先輩、嬉しいです。こんな、久しぶりに会って、いきなり迷惑かけちゃったのに、私のこと、友達って……」
どうやら、これは嬉し泣きだったらしい。昨日も思ったが、私ってこんなに慕われてたのか?
「大げさだよ。ほら、顔上げて。下降りよ? 喉渇いてるでしょ?」
枕元のペットボトルは空になっていた。いつ飲んだものかはわからないが、深酒をすると喉が渇くと聞く。小さなボトル一本じゃ足りないだろう。
「はい……」
小さく頷いて、私から体を離した。そこで初めて気が付いたが、後輩ちゃんはすでに自分の服に着替えていた。部屋着は綺麗に畳んで、布団の脇に置かれている。
「もう着替えたんだ」
何気なく聞いたのだが、彼女はまた少し体を固くした。
「はい。もう、何から何まで……」
「別に良いから」
「お布団も畳もうと思ったのですが、寝ている傍でホコリを立てても申し訳ないと思って……」
「本当に良いってば」
あんまり真剣なので、逆に可笑しくなってしまった。思わず、小さく笑いがこぼれた。それに後輩ちゃんが素早く反応した。
「済みません。私、可笑しいです、よね」
「ううん、違うの。何か、可愛いなって」
その時、ノックの音と同時に扉が開いた。母だった。
「あ、良かった。二人とも起きてたのね」
「お母様ですか? 昨晩は本当にご迷惑をお掛けしました──」
後輩ちゃんが頭を下げ、自己紹介をする。礼儀正しい子だ。
「気にしないで良いのよ、別に。それより、二日酔は? 大丈夫?」
「はい。おかげさまで」
「そう、良かった。じゃあ朝ご飯食べられる? それとも朝は食べない人?」
「あ、いえ……いただきます」
「じゃあ降りておいで。もう出来てるから」
「はい」
私達二人は、母についてリビングへと向かった。
すでに食卓についていた父に自己紹介を済ませ、私達はテーブルに並んで座った。
「何だか妹が出来たみたいね」
「こら、そういうことを言うんじゃない」
笑って言った母の言葉に、何故か父がはにかんだ。
我が家の朝食は純和風だ。ご飯にお味噌汁に納豆。そして焼き鮭にほうれん草のお浸し。夕飯の残りがメインとなることもあるが、基本的にはこんな感じである。
「ねえ、朝はご飯派? パン派? 嫌いなものあったら、無理して食べないで良いからね」
「あ、はい。大丈夫です。私も朝はご飯派です」
「良かった。あ、魚介アレルギーって言ってなかった? 鮭、食べれる?」
「はい、焼き鮭は大丈夫です」
「そうなんだ。全般ダメってわけじゃないんだね」
「はい。貝類とか甲殻類はほとんどダメなんですけど、火が通っていれば食べられる魚もあります」
「へえ、難しいんだ」
そんなことを話しながら一緒にご飯を食べていると、本当に妹が出来たみたいな気分だった。父も母も何だか嬉しそうだ。
(そういえば……)
つい忘れていたが昨夜の件──、そう、後輩ちゃんが「床の穴」と言った件だ。
(覚えてないのかな?)
起きてからの後輩ちゃんを見ている限り、覚えていたら「水をこぼしてしまい済みませんでした」とか言ってくるだろう。それがないということは、忘れているのだろうか。
(気になるけど……どうしよう。聞くべきかな、それとも……)
本当に穴が見えるのだとして、私は彼女に何を求めるのか。
秘密の共有?
一緒に穴の世界へ?
もしかしたら彼女の部屋にも穴が──?
(……こんなこと確かめたって、何の意味もないか)
あの不思議な穴のことは、誰かに話すべきではない、と思った。
話したことで、彼女に迷惑がかかることだって考えられる。
気にはなるが、私は後輩ちゃんに昨夜の件は聞かないことにした。
(それが良いよね)
無邪気に笑う彼女は、まるで本当の家族のように見えた。
「この度は本当に、ご迷惑をおかけしました」
出掛ける私と一緒に家を出た彼女は、玄関で見送る父と母に深々と頭を下げた。
「ほんと気にしないで良いから。いつでも来なさい」
「ありがとうございます。良いんですか?」
ちら、と不安そうにこちらを見る。私は笑顔で頷いた。
「本当に、いつでもおいでよ。家もそんなに遠くないし」
「……そんなこと言うと、私、本当に来ますよ?」
「喜んで。あれ、一人暮らしだっけ?」
「はい」
「私もさ、後輩ちゃんの家に行っても良い?」
「は、はい! もちろん、喜んで!」
彼女は本当に飛び跳ねて喜んだ。これだけ喜んでもらえると嬉しいが……、どことなくプレッシャーのようなものを感じるのは何だろうか。
「じゃあ、駅まで一緒に行こう」
「はい!」
「二人とも行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」
私達二人は、仲良く駅へと向かって歩き出した。
「素敵なご両親ですね」
後輩ちゃんがぽつりと言った。
「そんなことないよ」
何と答えたら良いかわからず、意味もなく否定した。
「いえ。とても素敵でした。楽しかったです」
「私も楽しかったよ」
「また、メールして良いですか?」
「もちろん。もうご無沙汰しないようにするよ」
「約束ですよ?」
くすっ、と彼女が笑う。
私がもし男だったら──、間違い無く惚れていただろう。
「先輩、これから会う方は学生の頃のお友達なんですか?」
「うん、そう。こないだ偶然、コンビニで会ってさ。卒業してから一回も会ってなかったんだけど、わかるもんだね」
「それは嬉しい偶然ですね」
「だね。そんなに仲の良かったわけじゃないんだけど……うん、やっぱりこういうのは嬉しいよね」
「先輩の卒業アルバムとか見てみたい」
「えー、やめてよー」
「ダメですか?」
「うーん、後輩ちゃんの見せてくれるなら」
「……考えておきます」
「お、何、見せるの恥ずかしいの?」
「先輩だって」
「だって、ねえ。恥ずかしいよね」
「ですよね」
顔を見合わせ、笑う。
(私、友達が出来たよ)
心の中で『もう一人の私』に向かって囁いた。
壁にヒビが出来なければ、きっと今の自分はなかっただろう。
今頃『私』はどうしているだろうか。
たぶん、床の穴をどんどん塞いでいっているに違いない。もしかしたら、仕事だって見つけているかも。
(ああ……私も、床の穴何とかしないとな)
私の部屋の床には、昨夜ひとつ増えたので、現在三つの穴が空いている。正直忙しくて、穴に構っている時間はないのだが、いつまでも放置はしていられない。
(うーん……、めんどくさいな)
少しだけ、思った。
2
「ごめんね、待ったあ?」
彼女──マリリンは約束の時間を十分程遅れて現われた。
時刻は十二時四十分。元々は「昼過ぎにお茶を」という話だったが、せっかくなのでご飯も、ということになったのだ。
「ううん。私も着いたの予定ぴったりだったし」
日曜昼のカフェレストラン。店内は家族連れやカップルで非常に混み合っている。私は店の外で待っていようと思っていたが、予約をしていたわけではないので、席がなくっては困るので先に入っていることにした。彼女にはメールで報告しておいた。
コートを脱いで、彼女が向かいの席に座る。ふわり、と香水の良い匂いがした。香水のことは全く詳しくないが、何というか上品な……大人の香りだった。
「もう注文した?」
彼女の問いに首を振る。
「まだ。メニュー、どれも美味しそうだよ。迷っちゃう」
「このお店初めて?」
「うん。マ……あなたは?」
「私も初めて」
二人でメニューを見ながら、どれにしようかとはしゃぐ。何となく、学生に戻ったような気分になる。実際には、こうして二人仲良く食事なんて、初めてなのだが。
結局、二人ともランチメニューを頼むことに決めた。サラダもスープもデザートも付くからお得だ。
「飲み物は?」
「私は……アイスティで」
「私ビール飲んでも良い?」
「もちろん。今日休みなんでしょ?」
「さすがに仕事のある日の昼間から飲まないわよ」
こうして面と向かって話していると、まるで十年来の親友のように思えてくる。不思議だ。何だか騙されているような気にさえなる。
(なんて……いくらなんでも失礼か)
私は心の中で彼女に謝った。
「かんぱーい!」
「乾杯」
飲み物が先に届き、私達は取りあえずグラスを傾けた。
彼女があんまり美味しそうにビールを飲むので、私も思わず飲みたくなる。別にアレルギーというわけではない。人より少し弱いくらいなのだから……、たまには一杯くらい良いかも知れない。
「ねえ、今日何時くらいまで大丈夫なんだっけ?」
「え? ああ、別に、何時でも大丈夫だよ」
「良かったあ。せっかくだもん、色々話したかったからさ」
「うん。そうだね」
「だって、ね、高校卒業して以来でしょ? 大学は何処に行ったの?」
「あ、私は……」
私は高校を卒業してすぐに就職したことを話した。
彼女は一々「へー」「すっごーい」「そうなのー?」等と相槌を打ってくれた。その調子についのせられて、仕事を辞めたところまで一気に話してしまった。なかなかの聞き上手だ。
「そっかあ。あ、じゃあパン屋さんはバイト?」
「うん。お恥ずかしい」
「そんなことないよお」
「……ありがと。さ、じゃあ今度はあなたの番ね」
「私は──」
「おまたせしました」
そこでウェイターが、まるで会話の切れ目を待っていたかのように、食事を運んできた。彼女がワインを追加で注文。私も思いきってビールを頼んだ。
「お酒、大丈夫なの?」
「うん。一杯くらいなら……何か、楽しいから、良いかなって」
私が言うと彼女はにっこりと微笑んだ。
「えっと、私はね──」
プレートの上のお肉を切りながら、彼女は自分の話を始めた。
「高校卒業して、大学行って……。ギリギリだったけどストレートだったんだよ。こう見えても」
私は上手い返事が見つからず「ははは」と笑った。
「大学は……うーん、あんまり馴染めなかったんだよね」
「そうなの?」
「うん。私こんなんだけどさ、別にそんな遊んでるわけでもないのね? ほんとに」
またしても私は返事が出てこない。誤魔化すようにサラダを口に運ぶ。彼女みたいに上手く相槌が打てないことが申し訳なかった。
「見た目だけで決めつけて、軽い奴ばっか近寄って来てさ。男も、女も。だから、大学辞めちゃった」
「え、辞めちゃったの?」
「別に勉強したくて入ったわけじゃないし。それに、服装とか化粧とか、そんな理由で変えるのは嫌だしさ」
「そんな理由……」
「だって、嫌じゃない。周りに合わせて自分を変えるなんて」
また、私は黙り込んでしまった。
自分でも、今何を感じて、何を思っているのかわからなかった。
「で、大学辞めて、働き始めて、今に至るわけ」
「……何の仕事してるの?」
「普通の会社よ。事務員さん。あ、もしかして夜の仕事とかかと思った?」
「いや、そんな、まさかあ……」
思っていた。見た目で、決めつけて。
「就職してすぐは、ちょっとは見た目のこと言われたけどね。良い会社なんだよ~。小さい会社なんだけどね。いわゆるアットホームな職場って感じ」
「そうなんだ。雰囲気って大事だよね」
「うん。マリリンってあだ名もね、職場でつけられたんだ」
「あ、そうだ。何でマリリンなのか教えてよ」
「これ」
彼女はそう言って口元を指さした。
「ほくろ?」
「うん」
なるほど。納得だ。
理由を聞いてしまえば何てことない。
「いやあ、でもお互い色々あったんだね~」
彼女がくいっとグラスを傾けた。私もビールに口を付ける。まだ半分も飲んでいないが、ほんのり頬が火照ってきた気がする。飲み過ぎないように気を付けねば。
「ねえ、彼氏とかはいないの?」
「……残念ながら」
「え~、どれくらい?」
「ノーコメント。そっちは?」
「いるよ。同棲始めたんだ」
「もしかしてそれで引っ越して来たの?」
「正解」
ウェイターが空いた食器を下げる。彼女がまたワインを追加で注文した。ついでに私はお冷やを頼んだ。もう、お酒は止めよう。
「仕事、辞めて後悔とかしなかった?」
彼女がふいに訊いてきた。
「うーん……、後悔しなかった、って言ったら嘘になるかな。辞めてすぐは特に思わなかったけど、今頃になって、ちょっとね」
私は昨日後輩ちゃんと会った時の話をした。職場で実はずいぶん評価されていたことや、後輩達から憧れられていたらしいこと。
「え~、それじゃ辞めなきゃ良かったのに。辞めないでいたら、今頃昇進してたかもよ?」
「やめてよ、もう。十年も勤めてヒラだったのよ? 今更昇進なんて……」
「わかんないよ~?」
「もう……。ねえ、あなたは?」
「私?」
「大学辞めたこと、後悔してる?」
彼女は「うーん」と目を閉じた。その仕草が、何となく色っぽい。まさに『マリリン』という名に相応しい。
「この歳になって考えると、やっぱり辞めたのはちょっと浅はかだったかなって思うよ。パパとママにも超怒られたしね」
「そりゃそうでしょー」
「だよね。他にやり方は色々とあったと思う。でもね、あの時の私は、自分の世界を守ることで精一杯だったのよね」
「自分の世界を、守る?」
「高校卒業して、バイトも始めて、好きな服装も化粧も出来るようになってさ。宝物だったんだよ。あの時、自分自身が。だから周りに左右なんて絶対されたくなかった。他人にとやかく言われるくらいなら、こんなところ辞めてやる~って。いやあ、若気のいたりだよね~」
「……格好いい」
つい、思ったことをそのまま声に出して言ってしまった。
格好いい。
確かに浅慮で、軽率な行動だったかも知れない。けれど彼女は、戦ったのだ。自分の世界を、守るために。それは、すごく格好いいことじゃないか。
「かっこよくなんてないよ~。バカよバカ」
「そんなことないよ。私にはとても出来ない」
「良いんだよ、出来なくて。っていうか、あなたも仕事辞めてるじゃん」
「でも、私は……」
彼女のように、明確な理由があって辞めたわけではない。何だか、自分が情けなかった。
「理由なんてなくても良いじゃない」
「そう、かな?」
「無理して続けるより、ずっと良いと思うよ」
「……ありがとう」
私は、また一つ、心の中のもやが晴れたような気がした。
彼女の言葉に、特別なものはなかったかも知れない。それでも、私にとっては新鮮で、ずっと望んでいた言葉だったのだと思う。
理由なんてなくても良い。
うん。
そうだよね。
私の、人生なんだから。
私の、世界なんだから。
「ありがと」
もう一度言って、ビールに口を付けた。
すっかり温くなって、炭酸も抜けていたけれど、何だか特別な味がした。
3
家に帰ったのは、十七時過ぎ。慣れないお酒を飲んだせいか、頬が変に火照っている。
水分を摂っておこうと台所に行く。リビングでは母と父が並んでテレビを見ていた。
「おかえり」
母が振り向かずに言った。
「ただいま」
「楽しかった?」
「うん。盛り上がっちゃった」
あの後、私達は別のコーヒーショップへと移り、延々とお喋りを続けたのだった。高校の頃の話もした。共通の話題は思ったよりもあった。話をしているとだんだん思い出していき、あの先生は変な癖があったとか、何組の誰と誰が付き合っていたとか、まるで高校生に戻ったかのように盛り上がった。
「夕飯は。どうする?」
「普通に食べる」
「あっそ」
私はコップにお茶を注ぎ、それを片手に自分の部屋へと上がった。
自分の部屋に戻ると、手にしたコップは机の上に置いて、バックを下ろしブラを外した。ほっとひと息。体も頭も疲れていた。
すぐにベッドに飛び込みたかったが、ぐっとこらえて部屋着に着替える。やはりお酒を飲んだのは失敗だったかも知れない。気を抜いたら急に酔いが回ってきた気がする。
着替えてベッドに横になると、強い眠気に襲われた。
まだ、十七時半だ。夕食まで一時間半……二時間は寝られそうだ。一応携帯電話のアラームをセットして、私は目を閉じた。眠りはすぐに訪れた。
──私は、ベッドで眠る自分を見下ろしていた。
まるで天井に空いた穴から覗くように、視界は狭い。
──いつか同じような夢をみた、と思った。
これは、誰の視点なのだろう。
いや、あの寝ている『私』が『私自身』とは限らない。
もしかしたら、壁の向こうの『私』とはまた別の『私』なのだろうか。
──視線の先で、寝返りをうつ『私』。
そのベッドの横のカーペットが、少しだけめくれている。
そこには……、穴。
穴が空いている。
(ああそうだ。穴、塞がなきゃいけないんだ……)
すっかり忘れていた。
私は、あの穴の向こうの世界を救ってあげないといけないんだった。
私が……。
どうして、私が?
どうして……。
──アラームの音で目が覚めた。
時計は十九時を伝えている。
起き上がり、カーペットを捲る。
穴がこちらを見つめている。
勝手に塞がってくれてれば良かったのに、と思った。
『もう一人の私』と穴の向こうで感じた、ワクワクもドキドキも、今は感じなかった。
明日は朝からバイトの予定だった。ベテランのおばさんに、明日だけ午前と午後替わって欲しいと頼まれていたのだ。朝のシフトは七時から。つまり後十時間も経てば、私は起きて着替えて、仕事に行かねばならない。仕事が終わって帰ってから、穴の向こうの観察くらいは出来るかも知れない。しかし穴の向こうに行けるのは、少なくとも次の休みである木曜──四日後だ。それまで、世界は私を待ってくれるだろうか?
「ご飯よー」
母の呼ぶ声が聞こえる。
私はカーペットを元に戻すと、一階へと向かった。
「そういえば後輩の子、大丈夫だった?」
食事の席で母が聞いてきた。
「うん。駅までは一緒に行ったけど、すっかり元気そうだったよ」
「そう。良かった」
「そういえばメールもきてた。ママとパパに『済みません』って伝えてって」
「まあ毎回あれじゃ困るけどね」
「また来るって」
「良かったわね」
「で、いつ来るんだ?」
父が言う。いい歳をした娘のこととはいえ、友達が出来て嬉しいのは、父も母も同じらしい。
「次はあっちの家に遊びに行く予定」
「なんだつまらない」
「つまらないって……うちに来てもパパと遊ぶわけじゃないでしょ」
「そうよ、もう」
母と口をそろえて言った。
(次は、後輩ちゃんの家に……)
いつ行こうか。
早く決めてしまいたかった。
少し性急だろうか?
ずっと、仲良く出来たら良いな……。
色んなことが頭を過ぎった。
穴のことは、少しも考えられなかった。
再び部屋に戻ったのは、十一時を過ぎてからだった。食事の後、家族でテレビを見て、お風呂に入って、母とお茶を飲みながらお喋りして……。明日は五時過ぎには起きなくてはいけない。もう、寝る時間だ。
穴のある辺りをちらりと見る。少しだけでも覗いてみようか。いや、止めておこう。
ベッドに横になり、携帯電話を見る。食事の後くらいから、後輩ちゃんとマリリンとずっとメールをしている。昨日の話、今日の話、次の予定に、他愛の無い冗談。まるで一緒にいるかのように楽しい。
後輩ちゃんの家には、次の土曜の夜にお泊まりに行くことになった。いきなり泊まりに行くなんて悪いと思ったが、是非と言われては断る理由も無い。
マリリンとは次の予定は決めていないが、家も近いのだし、気が向いたら当日の約束だっていつでも会える。
何気なく、電話のアドレス帳を見た。一応、数十人分の登録はある。誰かに連絡してみようか。アドレスの中には『もう一人の私』が友人として名前をあげていた人のものもある。『私』に友達付き合いが出来ているのなら、きっと私にも出来るだろう。今日はもう時間が遅いけれど、明日になったら連絡してみようか。
バイトが決まった頃から今日まで、何だか急速に生活が充実してきた気がする。
それもこれも、全てはあの穴の世界と出会えたお陰だ。
お陰、なのだけれど……。
(まいったなあ……、時間が足りないよ)
次の土日は後輩ちゃんの家に行くので、穴の向こうに行っている暇はない。そうなるとやはり木曜しかないが、その日はのんびり過したい気もする。元来インドア派なので、働き始めるとそういう『何もしない日』が欲しくなる。会社で働いていた時は、週末はいつも読書とゲームに費やしていた。
(ほんとに、どうしよ……)
あの穴には感謝している。停滞して崩れかけていた私の世界を救ってくれた。そう、私はもう救われたのだ。だから、もう、塞がってくれて良いじゃないか。もう、穴を塞ぐために使う時間はないのだ。いや、穴を塞ぐために使う時間があるなら、友人や自分自身のために使いたいのだ。
今床に空いている穴は三つ。
これを塞いだら。もう、終わりだろうか。
もう、穴は増えないだろうか。
それならば良いのだけれど……。
私は立ち上がり、そっとカーペットを捲った。
「……嘘でしょ」
そこには四つの、穴があった。
「嘘でしょ? ちょっと……どうしよう」
机と扉を結ぶ直線の真ん中辺りに、見覚えのない穴が空いていた。
「嫌だ、もう!」
バサッとカーペットを敷き直し、私はベッドに飛び込んだ。
いつまで続ければ良いの?
何で私がやらなきゃいけないの?
どうして私なの?
どうすれば終わりになるの?
頭がくらくらとする。
少し、涙が出た。
(後輩ちゃんに、手伝ってもらおうかな……)
それも一つの手かも知れない。彼女にはこの穴が見える可能性がある。こんな突拍子のない話でも、彼女なら真剣に聞いてくれるだろう。誰かと一緒なら、またこの『フシギ』を楽しめるかも知れない。マリリンだって、もしかしたら……。いや、やっぱりダメだ。二人だって働いているのだし、それに、もし信じてもらえなかったら……。それが一番怖かった。
(お願い。私は神様じゃないの。だからももう、頼らないでよ……)
このままずっと放っておいたらどうなるだろう。『もう一人の私』は長く放置してしまっていたが、それでも生活に支障はないように見えた。こうなったら見て見ぬふりをしようか。私は神じゃない。穴の向こうの世界に対して責任だってないはずだ。だから……だから……。
ふと、ピンクちゃんのことを思い出した。
あの頃は、楽しかった。
素直に異世界の不思議を楽しめた。
でも今は、知ってしまったのだ。
自分の世界の楽しさを。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。
ようやく眠って見た夢は──、
穴のひとつもない床の上で、ごろごろしながら友達とお喋りする夢だった。
1
「ほんっとーに、済みませんでしたあ!」
翌朝七時半頃、私が目を覚ますと、後輩ちゃんは布団の上で正座したままこちらを見ていた。そして、私が「おはよう」と言おうとするのを遮って、いきなり土下座で謝ってきた。
「そんな、良いから良いから」
「でもっ」
「全然気にしないで良いよお。それより、二日酔とかない? 大丈夫?」
「あ……はい。ちょっとだけ、頭が痛いですけど」
「気持ち悪くはない?」
「はい。それは大丈夫です」
ベッドから下りて、後輩ちゃんの頭を撫でてあげた。申し訳なさそうにこちらへ向けた瞳は、ほんの少し充血していて、うっすらと潤んでいた。
「良かった。朝ご飯は食べれる?」
「いえ、そんな、私なんかに気を遣っていただかなくても……」
「何言ってるの。そっちこそそんな気にしないで良いから。友達でしょ?」
私の言葉に何か感じたのか、彼女は無言で背筋を伸ばすと軽く足を崩した。そして、こちらを真っ直ぐに見ると、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「え? ごめん。どうしたの? 大丈夫?」
「せんぱぁい」
泣きながら、私に抱きついてきた。
何だ何だ?
「どうしたの? 泣くようなことないよ?」
「だって、先輩、私のこと、友達って……」
「う、うん。あ、ごめんね──」
『勝手に友達とか言って』と言おうとして飲み込んだ。
「先輩、嬉しいです。こんな、久しぶりに会って、いきなり迷惑かけちゃったのに、私のこと、友達って……」
どうやら、これは嬉し泣きだったらしい。昨日も思ったが、私ってこんなに慕われてたのか?
「大げさだよ。ほら、顔上げて。下降りよ? 喉渇いてるでしょ?」
枕元のペットボトルは空になっていた。いつ飲んだものかはわからないが、深酒をすると喉が渇くと聞く。小さなボトル一本じゃ足りないだろう。
「はい……」
小さく頷いて、私から体を離した。そこで初めて気が付いたが、後輩ちゃんはすでに自分の服に着替えていた。部屋着は綺麗に畳んで、布団の脇に置かれている。
「もう着替えたんだ」
何気なく聞いたのだが、彼女はまた少し体を固くした。
「はい。もう、何から何まで……」
「別に良いから」
「お布団も畳もうと思ったのですが、寝ている傍でホコリを立てても申し訳ないと思って……」
「本当に良いってば」
あんまり真剣なので、逆に可笑しくなってしまった。思わず、小さく笑いがこぼれた。それに後輩ちゃんが素早く反応した。
「済みません。私、可笑しいです、よね」
「ううん、違うの。何か、可愛いなって」
その時、ノックの音と同時に扉が開いた。母だった。
「あ、良かった。二人とも起きてたのね」
「お母様ですか? 昨晩は本当にご迷惑をお掛けしました──」
後輩ちゃんが頭を下げ、自己紹介をする。礼儀正しい子だ。
「気にしないで良いのよ、別に。それより、二日酔は? 大丈夫?」
「はい。おかげさまで」
「そう、良かった。じゃあ朝ご飯食べられる? それとも朝は食べない人?」
「あ、いえ……いただきます」
「じゃあ降りておいで。もう出来てるから」
「はい」
私達二人は、母についてリビングへと向かった。
すでに食卓についていた父に自己紹介を済ませ、私達はテーブルに並んで座った。
「何だか妹が出来たみたいね」
「こら、そういうことを言うんじゃない」
笑って言った母の言葉に、何故か父がはにかんだ。
我が家の朝食は純和風だ。ご飯にお味噌汁に納豆。そして焼き鮭にほうれん草のお浸し。夕飯の残りがメインとなることもあるが、基本的にはこんな感じである。
「ねえ、朝はご飯派? パン派? 嫌いなものあったら、無理して食べないで良いからね」
「あ、はい。大丈夫です。私も朝はご飯派です」
「良かった。あ、魚介アレルギーって言ってなかった? 鮭、食べれる?」
「はい、焼き鮭は大丈夫です」
「そうなんだ。全般ダメってわけじゃないんだね」
「はい。貝類とか甲殻類はほとんどダメなんですけど、火が通っていれば食べられる魚もあります」
「へえ、難しいんだ」
そんなことを話しながら一緒にご飯を食べていると、本当に妹が出来たみたいな気分だった。父も母も何だか嬉しそうだ。
(そういえば……)
つい忘れていたが昨夜の件──、そう、後輩ちゃんが「床の穴」と言った件だ。
(覚えてないのかな?)
起きてからの後輩ちゃんを見ている限り、覚えていたら「水をこぼしてしまい済みませんでした」とか言ってくるだろう。それがないということは、忘れているのだろうか。
(気になるけど……どうしよう。聞くべきかな、それとも……)
本当に穴が見えるのだとして、私は彼女に何を求めるのか。
秘密の共有?
一緒に穴の世界へ?
もしかしたら彼女の部屋にも穴が──?
(……こんなこと確かめたって、何の意味もないか)
あの不思議な穴のことは、誰かに話すべきではない、と思った。
話したことで、彼女に迷惑がかかることだって考えられる。
気にはなるが、私は後輩ちゃんに昨夜の件は聞かないことにした。
(それが良いよね)
無邪気に笑う彼女は、まるで本当の家族のように見えた。
「この度は本当に、ご迷惑をおかけしました」
出掛ける私と一緒に家を出た彼女は、玄関で見送る父と母に深々と頭を下げた。
「ほんと気にしないで良いから。いつでも来なさい」
「ありがとうございます。良いんですか?」
ちら、と不安そうにこちらを見る。私は笑顔で頷いた。
「本当に、いつでもおいでよ。家もそんなに遠くないし」
「……そんなこと言うと、私、本当に来ますよ?」
「喜んで。あれ、一人暮らしだっけ?」
「はい」
「私もさ、後輩ちゃんの家に行っても良い?」
「は、はい! もちろん、喜んで!」
彼女は本当に飛び跳ねて喜んだ。これだけ喜んでもらえると嬉しいが……、どことなくプレッシャーのようなものを感じるのは何だろうか。
「じゃあ、駅まで一緒に行こう」
「はい!」
「二人とも行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」
私達二人は、仲良く駅へと向かって歩き出した。
「素敵なご両親ですね」
後輩ちゃんがぽつりと言った。
「そんなことないよ」
何と答えたら良いかわからず、意味もなく否定した。
「いえ。とても素敵でした。楽しかったです」
「私も楽しかったよ」
「また、メールして良いですか?」
「もちろん。もうご無沙汰しないようにするよ」
「約束ですよ?」
くすっ、と彼女が笑う。
私がもし男だったら──、間違い無く惚れていただろう。
「先輩、これから会う方は学生の頃のお友達なんですか?」
「うん、そう。こないだ偶然、コンビニで会ってさ。卒業してから一回も会ってなかったんだけど、わかるもんだね」
「それは嬉しい偶然ですね」
「だね。そんなに仲の良かったわけじゃないんだけど……うん、やっぱりこういうのは嬉しいよね」
「先輩の卒業アルバムとか見てみたい」
「えー、やめてよー」
「ダメですか?」
「うーん、後輩ちゃんの見せてくれるなら」
「……考えておきます」
「お、何、見せるの恥ずかしいの?」
「先輩だって」
「だって、ねえ。恥ずかしいよね」
「ですよね」
顔を見合わせ、笑う。
(私、友達が出来たよ)
心の中で『もう一人の私』に向かって囁いた。
壁にヒビが出来なければ、きっと今の自分はなかっただろう。
今頃『私』はどうしているだろうか。
たぶん、床の穴をどんどん塞いでいっているに違いない。もしかしたら、仕事だって見つけているかも。
(ああ……私も、床の穴何とかしないとな)
私の部屋の床には、昨夜ひとつ増えたので、現在三つの穴が空いている。正直忙しくて、穴に構っている時間はないのだが、いつまでも放置はしていられない。
(うーん……、めんどくさいな)
少しだけ、思った。
2
「ごめんね、待ったあ?」
彼女──マリリンは約束の時間を十分程遅れて現われた。
時刻は十二時四十分。元々は「昼過ぎにお茶を」という話だったが、せっかくなのでご飯も、ということになったのだ。
「ううん。私も着いたの予定ぴったりだったし」
日曜昼のカフェレストラン。店内は家族連れやカップルで非常に混み合っている。私は店の外で待っていようと思っていたが、予約をしていたわけではないので、席がなくっては困るので先に入っていることにした。彼女にはメールで報告しておいた。
コートを脱いで、彼女が向かいの席に座る。ふわり、と香水の良い匂いがした。香水のことは全く詳しくないが、何というか上品な……大人の香りだった。
「もう注文した?」
彼女の問いに首を振る。
「まだ。メニュー、どれも美味しそうだよ。迷っちゃう」
「このお店初めて?」
「うん。マ……あなたは?」
「私も初めて」
二人でメニューを見ながら、どれにしようかとはしゃぐ。何となく、学生に戻ったような気分になる。実際には、こうして二人仲良く食事なんて、初めてなのだが。
結局、二人ともランチメニューを頼むことに決めた。サラダもスープもデザートも付くからお得だ。
「飲み物は?」
「私は……アイスティで」
「私ビール飲んでも良い?」
「もちろん。今日休みなんでしょ?」
「さすがに仕事のある日の昼間から飲まないわよ」
こうして面と向かって話していると、まるで十年来の親友のように思えてくる。不思議だ。何だか騙されているような気にさえなる。
(なんて……いくらなんでも失礼か)
私は心の中で彼女に謝った。
「かんぱーい!」
「乾杯」
飲み物が先に届き、私達は取りあえずグラスを傾けた。
彼女があんまり美味しそうにビールを飲むので、私も思わず飲みたくなる。別にアレルギーというわけではない。人より少し弱いくらいなのだから……、たまには一杯くらい良いかも知れない。
「ねえ、今日何時くらいまで大丈夫なんだっけ?」
「え? ああ、別に、何時でも大丈夫だよ」
「良かったあ。せっかくだもん、色々話したかったからさ」
「うん。そうだね」
「だって、ね、高校卒業して以来でしょ? 大学は何処に行ったの?」
「あ、私は……」
私は高校を卒業してすぐに就職したことを話した。
彼女は一々「へー」「すっごーい」「そうなのー?」等と相槌を打ってくれた。その調子についのせられて、仕事を辞めたところまで一気に話してしまった。なかなかの聞き上手だ。
「そっかあ。あ、じゃあパン屋さんはバイト?」
「うん。お恥ずかしい」
「そんなことないよお」
「……ありがと。さ、じゃあ今度はあなたの番ね」
「私は──」
「おまたせしました」
そこでウェイターが、まるで会話の切れ目を待っていたかのように、食事を運んできた。彼女がワインを追加で注文。私も思いきってビールを頼んだ。
「お酒、大丈夫なの?」
「うん。一杯くらいなら……何か、楽しいから、良いかなって」
私が言うと彼女はにっこりと微笑んだ。
「えっと、私はね──」
プレートの上のお肉を切りながら、彼女は自分の話を始めた。
「高校卒業して、大学行って……。ギリギリだったけどストレートだったんだよ。こう見えても」
私は上手い返事が見つからず「ははは」と笑った。
「大学は……うーん、あんまり馴染めなかったんだよね」
「そうなの?」
「うん。私こんなんだけどさ、別にそんな遊んでるわけでもないのね? ほんとに」
またしても私は返事が出てこない。誤魔化すようにサラダを口に運ぶ。彼女みたいに上手く相槌が打てないことが申し訳なかった。
「見た目だけで決めつけて、軽い奴ばっか近寄って来てさ。男も、女も。だから、大学辞めちゃった」
「え、辞めちゃったの?」
「別に勉強したくて入ったわけじゃないし。それに、服装とか化粧とか、そんな理由で変えるのは嫌だしさ」
「そんな理由……」
「だって、嫌じゃない。周りに合わせて自分を変えるなんて」
また、私は黙り込んでしまった。
自分でも、今何を感じて、何を思っているのかわからなかった。
「で、大学辞めて、働き始めて、今に至るわけ」
「……何の仕事してるの?」
「普通の会社よ。事務員さん。あ、もしかして夜の仕事とかかと思った?」
「いや、そんな、まさかあ……」
思っていた。見た目で、決めつけて。
「就職してすぐは、ちょっとは見た目のこと言われたけどね。良い会社なんだよ~。小さい会社なんだけどね。いわゆるアットホームな職場って感じ」
「そうなんだ。雰囲気って大事だよね」
「うん。マリリンってあだ名もね、職場でつけられたんだ」
「あ、そうだ。何でマリリンなのか教えてよ」
「これ」
彼女はそう言って口元を指さした。
「ほくろ?」
「うん」
なるほど。納得だ。
理由を聞いてしまえば何てことない。
「いやあ、でもお互い色々あったんだね~」
彼女がくいっとグラスを傾けた。私もビールに口を付ける。まだ半分も飲んでいないが、ほんのり頬が火照ってきた気がする。飲み過ぎないように気を付けねば。
「ねえ、彼氏とかはいないの?」
「……残念ながら」
「え~、どれくらい?」
「ノーコメント。そっちは?」
「いるよ。同棲始めたんだ」
「もしかしてそれで引っ越して来たの?」
「正解」
ウェイターが空いた食器を下げる。彼女がまたワインを追加で注文した。ついでに私はお冷やを頼んだ。もう、お酒は止めよう。
「仕事、辞めて後悔とかしなかった?」
彼女がふいに訊いてきた。
「うーん……、後悔しなかった、って言ったら嘘になるかな。辞めてすぐは特に思わなかったけど、今頃になって、ちょっとね」
私は昨日後輩ちゃんと会った時の話をした。職場で実はずいぶん評価されていたことや、後輩達から憧れられていたらしいこと。
「え~、それじゃ辞めなきゃ良かったのに。辞めないでいたら、今頃昇進してたかもよ?」
「やめてよ、もう。十年も勤めてヒラだったのよ? 今更昇進なんて……」
「わかんないよ~?」
「もう……。ねえ、あなたは?」
「私?」
「大学辞めたこと、後悔してる?」
彼女は「うーん」と目を閉じた。その仕草が、何となく色っぽい。まさに『マリリン』という名に相応しい。
「この歳になって考えると、やっぱり辞めたのはちょっと浅はかだったかなって思うよ。パパとママにも超怒られたしね」
「そりゃそうでしょー」
「だよね。他にやり方は色々とあったと思う。でもね、あの時の私は、自分の世界を守ることで精一杯だったのよね」
「自分の世界を、守る?」
「高校卒業して、バイトも始めて、好きな服装も化粧も出来るようになってさ。宝物だったんだよ。あの時、自分自身が。だから周りに左右なんて絶対されたくなかった。他人にとやかく言われるくらいなら、こんなところ辞めてやる~って。いやあ、若気のいたりだよね~」
「……格好いい」
つい、思ったことをそのまま声に出して言ってしまった。
格好いい。
確かに浅慮で、軽率な行動だったかも知れない。けれど彼女は、戦ったのだ。自分の世界を、守るために。それは、すごく格好いいことじゃないか。
「かっこよくなんてないよ~。バカよバカ」
「そんなことないよ。私にはとても出来ない」
「良いんだよ、出来なくて。っていうか、あなたも仕事辞めてるじゃん」
「でも、私は……」
彼女のように、明確な理由があって辞めたわけではない。何だか、自分が情けなかった。
「理由なんてなくても良いじゃない」
「そう、かな?」
「無理して続けるより、ずっと良いと思うよ」
「……ありがとう」
私は、また一つ、心の中のもやが晴れたような気がした。
彼女の言葉に、特別なものはなかったかも知れない。それでも、私にとっては新鮮で、ずっと望んでいた言葉だったのだと思う。
理由なんてなくても良い。
うん。
そうだよね。
私の、人生なんだから。
私の、世界なんだから。
「ありがと」
もう一度言って、ビールに口を付けた。
すっかり温くなって、炭酸も抜けていたけれど、何だか特別な味がした。
3
家に帰ったのは、十七時過ぎ。慣れないお酒を飲んだせいか、頬が変に火照っている。
水分を摂っておこうと台所に行く。リビングでは母と父が並んでテレビを見ていた。
「おかえり」
母が振り向かずに言った。
「ただいま」
「楽しかった?」
「うん。盛り上がっちゃった」
あの後、私達は別のコーヒーショップへと移り、延々とお喋りを続けたのだった。高校の頃の話もした。共通の話題は思ったよりもあった。話をしているとだんだん思い出していき、あの先生は変な癖があったとか、何組の誰と誰が付き合っていたとか、まるで高校生に戻ったかのように盛り上がった。
「夕飯は。どうする?」
「普通に食べる」
「あっそ」
私はコップにお茶を注ぎ、それを片手に自分の部屋へと上がった。
自分の部屋に戻ると、手にしたコップは机の上に置いて、バックを下ろしブラを外した。ほっとひと息。体も頭も疲れていた。
すぐにベッドに飛び込みたかったが、ぐっとこらえて部屋着に着替える。やはりお酒を飲んだのは失敗だったかも知れない。気を抜いたら急に酔いが回ってきた気がする。
着替えてベッドに横になると、強い眠気に襲われた。
まだ、十七時半だ。夕食まで一時間半……二時間は寝られそうだ。一応携帯電話のアラームをセットして、私は目を閉じた。眠りはすぐに訪れた。
──私は、ベッドで眠る自分を見下ろしていた。
まるで天井に空いた穴から覗くように、視界は狭い。
──いつか同じような夢をみた、と思った。
これは、誰の視点なのだろう。
いや、あの寝ている『私』が『私自身』とは限らない。
もしかしたら、壁の向こうの『私』とはまた別の『私』なのだろうか。
──視線の先で、寝返りをうつ『私』。
そのベッドの横のカーペットが、少しだけめくれている。
そこには……、穴。
穴が空いている。
(ああそうだ。穴、塞がなきゃいけないんだ……)
すっかり忘れていた。
私は、あの穴の向こうの世界を救ってあげないといけないんだった。
私が……。
どうして、私が?
どうして……。
──アラームの音で目が覚めた。
時計は十九時を伝えている。
起き上がり、カーペットを捲る。
穴がこちらを見つめている。
勝手に塞がってくれてれば良かったのに、と思った。
『もう一人の私』と穴の向こうで感じた、ワクワクもドキドキも、今は感じなかった。
明日は朝からバイトの予定だった。ベテランのおばさんに、明日だけ午前と午後替わって欲しいと頼まれていたのだ。朝のシフトは七時から。つまり後十時間も経てば、私は起きて着替えて、仕事に行かねばならない。仕事が終わって帰ってから、穴の向こうの観察くらいは出来るかも知れない。しかし穴の向こうに行けるのは、少なくとも次の休みである木曜──四日後だ。それまで、世界は私を待ってくれるだろうか?
「ご飯よー」
母の呼ぶ声が聞こえる。
私はカーペットを元に戻すと、一階へと向かった。
「そういえば後輩の子、大丈夫だった?」
食事の席で母が聞いてきた。
「うん。駅までは一緒に行ったけど、すっかり元気そうだったよ」
「そう。良かった」
「そういえばメールもきてた。ママとパパに『済みません』って伝えてって」
「まあ毎回あれじゃ困るけどね」
「また来るって」
「良かったわね」
「で、いつ来るんだ?」
父が言う。いい歳をした娘のこととはいえ、友達が出来て嬉しいのは、父も母も同じらしい。
「次はあっちの家に遊びに行く予定」
「なんだつまらない」
「つまらないって……うちに来てもパパと遊ぶわけじゃないでしょ」
「そうよ、もう」
母と口をそろえて言った。
(次は、後輩ちゃんの家に……)
いつ行こうか。
早く決めてしまいたかった。
少し性急だろうか?
ずっと、仲良く出来たら良いな……。
色んなことが頭を過ぎった。
穴のことは、少しも考えられなかった。
再び部屋に戻ったのは、十一時を過ぎてからだった。食事の後、家族でテレビを見て、お風呂に入って、母とお茶を飲みながらお喋りして……。明日は五時過ぎには起きなくてはいけない。もう、寝る時間だ。
穴のある辺りをちらりと見る。少しだけでも覗いてみようか。いや、止めておこう。
ベッドに横になり、携帯電話を見る。食事の後くらいから、後輩ちゃんとマリリンとずっとメールをしている。昨日の話、今日の話、次の予定に、他愛の無い冗談。まるで一緒にいるかのように楽しい。
後輩ちゃんの家には、次の土曜の夜にお泊まりに行くことになった。いきなり泊まりに行くなんて悪いと思ったが、是非と言われては断る理由も無い。
マリリンとは次の予定は決めていないが、家も近いのだし、気が向いたら当日の約束だっていつでも会える。
何気なく、電話のアドレス帳を見た。一応、数十人分の登録はある。誰かに連絡してみようか。アドレスの中には『もう一人の私』が友人として名前をあげていた人のものもある。『私』に友達付き合いが出来ているのなら、きっと私にも出来るだろう。今日はもう時間が遅いけれど、明日になったら連絡してみようか。
バイトが決まった頃から今日まで、何だか急速に生活が充実してきた気がする。
それもこれも、全てはあの穴の世界と出会えたお陰だ。
お陰、なのだけれど……。
(まいったなあ……、時間が足りないよ)
次の土日は後輩ちゃんの家に行くので、穴の向こうに行っている暇はない。そうなるとやはり木曜しかないが、その日はのんびり過したい気もする。元来インドア派なので、働き始めるとそういう『何もしない日』が欲しくなる。会社で働いていた時は、週末はいつも読書とゲームに費やしていた。
(ほんとに、どうしよ……)
あの穴には感謝している。停滞して崩れかけていた私の世界を救ってくれた。そう、私はもう救われたのだ。だから、もう、塞がってくれて良いじゃないか。もう、穴を塞ぐために使う時間はないのだ。いや、穴を塞ぐために使う時間があるなら、友人や自分自身のために使いたいのだ。
今床に空いている穴は三つ。
これを塞いだら。もう、終わりだろうか。
もう、穴は増えないだろうか。
それならば良いのだけれど……。
私は立ち上がり、そっとカーペットを捲った。
「……嘘でしょ」
そこには四つの、穴があった。
「嘘でしょ? ちょっと……どうしよう」
机と扉を結ぶ直線の真ん中辺りに、見覚えのない穴が空いていた。
「嫌だ、もう!」
バサッとカーペットを敷き直し、私はベッドに飛び込んだ。
いつまで続ければ良いの?
何で私がやらなきゃいけないの?
どうして私なの?
どうすれば終わりになるの?
頭がくらくらとする。
少し、涙が出た。
(後輩ちゃんに、手伝ってもらおうかな……)
それも一つの手かも知れない。彼女にはこの穴が見える可能性がある。こんな突拍子のない話でも、彼女なら真剣に聞いてくれるだろう。誰かと一緒なら、またこの『フシギ』を楽しめるかも知れない。マリリンだって、もしかしたら……。いや、やっぱりダメだ。二人だって働いているのだし、それに、もし信じてもらえなかったら……。それが一番怖かった。
(お願い。私は神様じゃないの。だからももう、頼らないでよ……)
このままずっと放っておいたらどうなるだろう。『もう一人の私』は長く放置してしまっていたが、それでも生活に支障はないように見えた。こうなったら見て見ぬふりをしようか。私は神じゃない。穴の向こうの世界に対して責任だってないはずだ。だから……だから……。
ふと、ピンクちゃんのことを思い出した。
あの頃は、楽しかった。
素直に異世界の不思議を楽しめた。
でも今は、知ってしまったのだ。
自分の世界の楽しさを。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。
ようやく眠って見た夢は──、
穴のひとつもない床の上で、ごろごろしながら友達とお喋りする夢だった。