トップに戻る

<< 前 次 >>

七番キャッチャー江口眼鏡

単ページ   最大化   

 俺はサインに首を振った筈だった。なのに次のサインもカーブだった。……何だよ、俺の言うことが聞けないって言うのかよ。と、二番手捕手の吉岡あたりには苦言を呈することも吝かでないが、ここは江口だから首を縦に振っておこうと思う。読者諸賢、どんな話もオチが最後にあると思ってはいけない。オチの内容が想像できてしまう決定的一節が最初にチラッと見えてしまう失敗小説と似た構造を持ちながら、この話はそんな駄作とは異なる。ここでオチを言うべくして言うのである。
 高らかに言おう。俺は江口が好きだ。



 バッターボックスに立つのは古巣、横浜の三番打者で、目下リーディングヒッターの木村である。名前はありふれているが、あんなに下衆な男も珍しい。
 俺がまだ横浜にいた今シーズンの春先、先発した試合で四失点した時があった。首位打者やら本塁打王やらを擁しておきながら、横浜は今季も徹底的に負ける。清々しいほどに負ける。そんなチーム事情だから、その日もきっと負けると思っていた。まあ、まだシーズンは長いのだ。一敗目がついたところで、一勝一敗の五分だ。シーズンが終わる頃には、負け数が勝ち数にダブルスコアはおろか、トリプル、投手によってはクアドラプルスコアをつけて上回るなんてことがザラにある球団である。心配することは無い。
 そんな風にぼうっとしながら、しばらくベンチに座っていた。ふと我に返って、思わずアウトカウントを確認した。自分のチームがワンアウトを取られたくらいで、投球練習の準備をしておかねばならないからだ。しかしこの回はまだアウトの欄にランプが点っていない。ふうん、珍しい事もあるもんだと思ってフィールドに目を向けてみると、塁上はウチのランナーで埋まっている。
 その時だった。木村が俺の右側で、気味悪く優しい声で、耳打ちし始めた。
「おい。今日は、何だか、打てそうな気がするんだ」
眉を寄せながら右側を向くと、やっぱり気持悪く微笑む木村の姿があった。
「実はさあ、俺かお前、阪神にトレードに出されるらしい。相手は吉野。ウチもアホだよな。先発も心許ないってのに、抑えピッチャーを欲しがるなんてな。……それでだ。この打席ホームラン出そうだから、もし打てたら、お前が阪神行ってくれ。頼むな」
俺はポンと肩を叩かれた。ちょっと待てと呼び止めたかったが、木村はバットを持って体を捻りながらもう素振りを始めていた。俺は右端のコーチ陣を見た。皆次の展開を食い入るように見つめているだけだったが、ヘッドコーチだけが、俺の方を見て哀しく笑った。

 ふざけやがって。俺は憎しみを込めて、ボールを強く握った。江口の構えるミット目がけて、目一杯腕をしならせたカーブボール。握りが強かった所為か、いつもより指に長く掛かって、江口の構えたあたりよりも低めに入っていく。ワンバウンド寸前のボールを、木村が渾身の力で叩く。ゴルフのようなスイングで、土とボールの間にバットが嵌まり込む。思い切り下端を叩かれたボールは、凄まじい回転で甲子園の銀傘に吸い込まれていった。ファールボール。これで木村を追い込んだ。
 江口は、またしてもカーブを要求した。……そうか。そんなに俺のカーブが欲しいか。嬉しいぞ。欲しけりゃくれてやる。グラブの中でボールを握り直し、一塁ランナーを警戒する。ランナーは柳瀬。……柳瀬? そういえば、あいつに五千円貸したまま、俺は移籍してきてしまったんだった。試合が終わったら取り立てに行かないと。次に三塁ランナーを見る。西原だ。あいつは俺の派閥の人間だったのに、トレードに出ると分かった瞬間に木村の派閥につきやがった。刺してやりたい。しかし、生憎俺は牽制が下手だ。
 もういちど柳瀬を見る。五千円。そしてバッター木村。……柳瀬は走ってくるだろう。でも良い。一球外したところで、江口は肩が弱いから、きっと刺せない。送球を、あとでみっちり指導してやらねばならないな……
 かくして俺は足を上げ、柳瀬が走り出した音を後ろで聞きながら速球を投げ込んだ。江口のミットはインハイにあったが、俺のボールはやや外れて真ん中高めに向かっていた。

 ピッチャーが被弾した瞬間の感覚と、バッターがもの凄い当たりを打ち込んだ時の感覚は、似ていると言う。それはともにある種の快感を伴うものだ。俺は思わずその場に膝を着いた。木村が一塁に向かう途中、俺に言葉をかける。
「江口はなあ、お前だけのもんと違うぜ」
 俺はかくしてピッチャー交代を宣告された。江口と、内野のみんながマウンドに集まった。
「……まあ、しゃあない」
俺は投手コーチにボールを預けて、三塁側ベンチへと歩いて行く。三回七失点。見事な大炎上である。大した悔しくもないのだが、大体のピッチャーがそうするからと、俺も虚偽の悔しさでもって振り返る。江口の尻を柔らかく叩く二番手投手の顔が見えた。
3

江口眼鏡 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る