第一部
人間が融合する……というのを初めて聞いた時から、僕はそれがなんだか気持ち悪い感触のするものなんじゃないかと思っていた。
だってそうじゃないか?
二つの肉体がくっついて、混ざり合って、一つになる……なんだか考えるだけで抵抗があるし、車に酔った時のような吐き気さえ覚える。とてもじゃないが、自分から進んで望んで誰かと融合したいなんて、思えなかった。
だから僕が彼女に『その時』の感覚について尋ねた時は、あまりいい答えは返してもらえないだろうと思っていたのだ。
だが、僕の隣で葉桜を見上げながら、ぼんやりとベンチに座った彼女は、想像していたよりも軽い口調でこう言った。
「気持ちいいよ」
「……ええ? ほんと?」
「うん……」
なぜか彼女は少しだけ顔を赤らめていた。
「あのね、あんまり覚えてないけど、でもなんか、ふわあっとしたよ」
「浮いてるような感じなの?」
「それもあるけど……雨に降られて家に帰ってすぐにシャワーを浴びた時とか、子供の頃にお母さんに抱きしめてもらった時とか、そういう『ふわあ』なの。……わかる? 安心するっていうか」
「うん、なんとなくわかった。説明、上手いね」
僕が何気なく褒めると、彼女は照れてそっぽを向いて、手元の缶コーヒーに口をつけた。
「塚森くんは、合体、したい?」
ちょっと卑猥な言い方をされたので、僕は咳払いして平静を取り戻してから答えた。
「……うーん、どうかなァ。正直言って、ちょっと怖い。自分がどうなっちゃうのか……なってみないと、分からないんでしょ、やっぱり?」
「まァね……でも」
彼女は、黄緑色に染まり始めたソメイヨシノを仰いで、呪文のように呟いた。
「私はやっぱり、嬉しかったよ。後悔は、もうない」
「そっか」
僕たちは肩を並べて、終わっていく夏に目を向ける。
僕の隣にいる女の子が、まったく別々の二人の女の子だったのは、たった三ヶ月ほど前のことだった。
○
血の繋がりも何もない赤の他人同士が、なんの前触れもなく、後遺症もなく、融合して一人の人間になってしまう……
この現象が始まったのは、確か僕が中学一年の頃だったから、まだ三年前のことだ。
突如起こったこの怪奇現象は、最初はタチの悪い悪戯なのではないかと言われていたが、そう言って笑っていたニュースキャスターがたまたますれ違った別の局のアナウンサーと融合してしまい、本人も困惑した顔で朝のニュースに出たことによって、日本全国津々浦々の皆々様が、この怪奇現象は真実だと認めざるを得なくなった。
すぐに政府によって調査団が組まれ、医学的、生化学的、あるいは超自然科学的な側面から研究が重ねられたが、原因はいまもって不明。
ただ発生条件として、
1.同性であること
2.同年代であること
3.背格好が似通っている(これは諸説ある)こと
4.半径二メートル以内に接近すること
……などが挙げられた。
この条件を満たし、なおかつ神の見えざる手に選ばれれば、その二人は一人の人間として『融合』する。
融合した人間は、お互いが別々の人間だった頃の記憶を持ってはいるが、基本的にはそれぞれの人格が混ざり合った、元のどちらでもない『別人』だと言われている。人格面における融合体の反応結果は様々で、どちらかのベースに極めて近い人格もいれば、どちらとも似つかないタイプもあるという。いずれにせよ、共通しているのは融合体が元の二人よりも一般的に見て極めて『優秀』である、ということだ。
たとえば、元の二人のうち、片方は勉強はできるが運動は駄目、もう片方は勉強は嫌いだが運動は大好き、という組み合わせが融合したとする。その結果、勉強もできて運動も大好きな融合体が誕生する。これは今のところ、例外はない。運動も勉強も駄目になる融合体がいない、ということが、この問題をとても複雑で気まずくさせている原因の一つだ。
元の二人にも家族や友達がいるし、いなくなった本人を寂しがるのが普通だが、中には『前よりよくなった』とか『融合してくれてありがたい』という、まァ、そういう元の二人が聞いたら悲しくなりそうな励ましを受ける融合体もいる。彼らの精神衛生がどのようなものかは、当事者ではない僕には分からないが、あまりいい気持ちはしないだろう。
この謎の病気――融合症候群(フュージョン・シンドローム)を『治療』しようという試みは今も続けられている。その治療というのが、時間が経つにつれてますます癒着して区別がつかなくなっていく元の二人の人格をなるべく別個のまま保つことを指すのか、それとも完璧に、融合体を元いた二人に戻すのか――おそらく両方だろうが、それはどちらにせよ、いまだ実現していない。
つまり、一度融合したら、元には戻れないのだ。
少なくとも2014年現在の科学技術では。
こう書くと悲劇的だが、驚くべきことに、わずか発生から三年しか経っていないというのに、融合症候群は実に見事にこの現代社会に受け入れられていた。なぜなら、人間が融合することによってある社会問題が解決に向かうからだ。
人口問題である。
少子高齢化は、僕の両親が子供の頃から問題にされてきたことだ。
日本の人口ピラミッドが不安定な壷のように下細りになっている図を、あなたも見たことがあるだろう。
ところが、融合症候群が流行すれば、一番に減っていくのはお年寄りなのだ。僕たち若い世代も融合していくが、元々数が少ないし、それになぜか発症件数が若くなればなるほど少ない。赤ん坊で融合した、という事例にいたってはいまだ確認されていない。
それに比べて、おじいちゃんおばあちゃんは、それはもう、もの凄い勢いで融合していく。
いままで僕が見聞きした中で一番面白かったエピソードは、自分では生活できない要介護者を集めた老人ホームが、一夜明けたらたった一人の老人しかおらず、しかも朝の六時に素っ裸で乾布摩擦をしていたというのだ。これによって介護業界はまさかの『人手過剰』に悩まされているらしい。
おじいちゃんおばあちゃんが、記憶を残しているとはいえ、『別人』になってしまうことを喜ぶのが正しいのかどうか、僕には分からない。ただ、それまで動けなかった人が、『融合』することによって『優秀』……というより『回復』して、元の生活を取り戻せることは、いいことなんじゃないか……などと、僕は高校一年生の分際で思ってみたりする。難しいことは分からない。僕はまだ子供だから、いつか分かるようになるんだろう。
他にもいろいろな問題が、人間が融合すると起こってくる。二人の人間が融合してしまったら、財産や、戸籍や、名前はどうするのか。
戸籍と名前については、新しいものが『融合庁』という新しく出来た庁舎によって設定されることになっている。融合体は、融合した瞬間に『国の子』という扱いになり、一般人の戸籍からは抜ける。その方が管理しやすいからだ。社会的な混乱を避けるための、やむをえない処置なのだろう。また、財産も、融合した二人の家族がどのような経済状況にあるか、それは当然考慮されるが、あまりにも長く紛糾しそうな場合は全て国が接収することになっている。とは言っても、それはあまりにもあんまりなので、よほどの場合以外は、融合庁から派遣された『融合調整官』たちが上手いこと分配してくれる、らしい。よくわかんない。
そういうわけで。
いろいろな問題はあるけれど、僕たちはこの新しい病気と新しい世界と、なんとか折り合いをつけながら、この三年間を過ごしてきた。
そして幸か不幸か僕は、遠い親戚で何人かが融合した以外では、近しい身内で誰かが融合したという話も聞かず、平々凡々、のんびりと学校生活を楽しみ、春からは高校生になる予定だった。
そして、社会や世界や現実よりも、僕にはもっと重大で、困り果てている問題が一つだけあった。
僕は恋をしていたのだ。
○
「好きです。付き合ってください」
「なおう」
「なおうじゃねーよ……」
僕は愛猫のかぐやを抱えあげながら、ため息をついた。顎の下をぐりぐりといじってやるとかぐやはナオナオと鳴いて気持ち良さそうに目を瞑った。どうでもいいが、まったく抵抗しないなんて、誇り高き猫族とは思えない。タヌキの間違いじゃないだろうか。
「ナ」
「わ。なんだ、通じたのか?」
「ナー」
「ごめんごめん、悪かったよ」
かぐやを下ろして、自分のベッドの上にぼすっと倒れこみ、天井を見上げる。
猫相手に告白の練習か……我ながら、へっぽこだ。
どんな結果に終わろうと、彼女はきっとこんな僕を見たら、笑うだろう……
僕は寝そべったままゴソゴソとそばの本棚を漁って、お気に入りの小説のページに挟んでいた一枚の写真を抜き出した。
そこには、去年の彼女の姿が写っている。
駒木花燐。
僕と同じ中学校出身で、女子バスケットボール部に所属。誕生日は七月七日の七夕で、好きな食べ物はオムレツとかハンバーグみたいなガッツリ食べれて美味しいやつ。運動が得意で中学の運動会では選抜リレーで何人もごぼう抜きにしたりしていた。土煙を上げながらぶっ飛ばしていく彼女は可愛いというよりもカッコよかった。
写真の中の駒木さんは、修学旅行で行った鎌倉の大仏の前で笑っている。くしゃくしゃの、ちょっと犬っぽい髪。身長は少しだけ僕より高い。胸は、残念ながら今後に期待するしかないが、僕はそんなの気にしない。もう拳を振り上げて声を大にして言う。僕にとって、そんなものはちっぽけな問題だと。
彼女が僕に笑ってくれるなら、他に何もいらない……
おなかの上にかぐやを乗せながら、僕はそんなことを思った。
「ナオ」
「はいはい。どうせ僕は根性なしだよ。……入学してすぐ言おうと思ってたのに、もう五月の終わりだもんな……」
というか、そもそも中学の卒業式で奮えなかった勇気が、新生活に入ってすぐのゴタゴタの中でひょっこり出てきてくれるわけがなかったのだ。新しいクラスや高校生活に馴染もうと頑張っているうちに、いつの間にか時間だけが経っていた……
駒木さんは可愛い。
これはもう、空が落ちてきても揺るがない僕の中の真実だ。
だから、あんなに可愛い駒木さんに目をつけない先輩がいないわけがない。きっと高校生というのは野蛮で粗野で乱暴で、バスケットボール部に入ろうものならすぐさまイケメンで茶髪でピアスなんかつけてるキラキラネームの先輩がめぼしい新入生にはハイエナのように襲い掛かっていくに違いない。駒木さんがその毒牙に襲われる前に、僕が勇気を出さないといけない。
結果がどうなろうとも。
僕は携帯のメール画面を開いた。送信箱を開く。
三十分前に、僕は駒木さんにメールを送っていた。
部活が終わった後の、呼び出しのメール。
死にそうなほどの吐き気を乗り越えて送ったメールは、どんなにビビっても嘘や幻にはなってくれそうもなかった。僕はため息をついて、携帯を畳んだ。時計を見る。今から自転車で学校に戻れば、ちょうどいい頃だろう。
「いくか」
僕はかぐやをおなかから退けて、制服の上着を着た。
○
自転車を飛ばして、僕たちが通う県立鳴門高等学校前へ乗りつける。夕暮れの校舎は、部活動の音が奥から寂しく鳴り響いてくるだけで、あとは静かだった。
自転車を置き場に残して、高鳴る心臓の音を感じながら、上履きに履き替える。
体育館から、もうバスケットシューズの音はしなかった。あたりに人気はない。僕は体育館裏の、狭いスペースに入り込んだ。そこは僕が彼女を呼び出した場所だった。
駒木さんは、制服に着替えて、汗にほつれた髪のまま、体育館の壁にもたれて、そこにいた。
ああ。
とうとう、この日が来てしまった。
あんな意味深なメールを送った以上、駒木さんもこれが『どういうこと』なのか分かっているのだろう。
いつもは八重歯を見せて明るく笑う顔が、ほんのりと桃色に染まっている。
僕を見ると、さっと顔を背けた。
肩が少し震えている。
「えっと……用件、って?」
お互いがシナリオを知っている演技が始まる。
「……ちょっと話があって」
僕はいまのところ、ヘマをしていない。
駒木さんは、意味もなく体育館履きで土を蹴っている。
「話、って?」
「…………」
僕は黙り込む。
戦術はいくつかある。僕は二つ知っている。
回り道を取るか、それともまっすぐいくか。
僕はまっすぐいった。
「駒木さん、好きです。僕と付き合ってください」
言った。
言ってしまった。
駒木さんがピクリともしないので、時間が止まってしまったかのように感じる。
心臓が痛い。胃がキリキリする。
早く答えが欲しい。ラクにして欲しい。
沢山練習したのに、こんなに辛いなんて……
かぐやが僕をナメるのも、無理はなかった。
……気の遠くなるような時間が経って。
僕が貧血を起こしかけた頃、駒木さんが体育館から背を離した。
彼女が僕を見る。あの強い、押されるような目で。
触れただけで傷がついてしまいそうな唇が動いた。
「……保留、してもいいかな」
と、彼女は言った。
ほりゅう。
保留?
僕は一瞬、なんのことだか分からなかった。紙を火で炙るように、じわじわとその意味が脳に染み渡っていく。保留。
……保留。
「え……と」
「あたし、塚森くんのこと、嫌いじゃないから」
僕が何か言う前に、それだけ言って彼女は、さっと僕の隣をすり抜けて、行ってしまった。
あとには僕だけが残された。
どこかで誰かが笑っている。
「……保留」
そして、
「……嫌いじゃない」
希望を捨てるには、僕はあまりに彼女を好きになりすぎていた。
明日だ、と思った。
明日、ちゃんと答えを聞こう。ちょっと早すぎるかもしれないが、それなら待つし、いずれにせよ、ちゃんとした答えが欲しい。
それまでは、諦めるもんか。
こんなに好き、なんだから。
空を見上げると、一番星が輝き始めていた。
けれど、僕が駒木花燐さんから返事を聞くことは、永遠になかった。
なぜならその日の帰り道、僕と別れたそのすぐあとに。
彼女は『融合』してしまったのだから。
『――本日午後六時半頃、鳴門町の駅前広場で『融合』が一件発生しました。これで今月の融合された方々の数は、鳴門町だけで二十八名になります。
ご家族の方は慌てず、落ち着いて、融合庁へご連絡ください。電話番号とメールアドレスは下のテロップになります』
僕はそのニュースを風呂上りの湯気もそのままに、歯磨きしながら見ていた。交通事故や汚職事件よりも、ダメージのないニュースは軽く聞き流すにはちょうどよかったが、まさかそれが僕自身にも関係のある報道だとは、その時はまだ知らなかった。
自分の部屋に戻って、王女のように僕のベッドに丸まったかぐやをどかし、買ってきた漫画をパラパラめくっていると、携帯がぶるるっと水に濡れた犬のように震えた。開けると、担任の教師からだった。
僕はその文面から、駒木さんが融合したことを知った。
何度もメールを見直したが、表示されたディスプレイは頑なに自分の正しさを主張し続けていた。
「そんな……駒木さんが……」
咄嗟に頭によぎったのは、彼女の心配ではなく、あの一件のことだった。保留にされた僕の告白は、どうなるんだろう……
僕は自分の頬をパンと叩いた。
「落ち着け……いくらなんでも身勝手すぎる」
僕は本棚に行って、学校から年に一度は支給される、『融合症候群のしおり』を取り出して、読み始めた。融合体の周囲の人間が、彼ら彼女らにどう対応していけばいいのか、そのマニュアルが書いてあるはずだった。だが、ろくなことは書いていない。落ち着いて行動しろ、の一点張り。その落ち着いて行動するためにどうすればいいのかが知りたいのに。
僕はむしゃくしゃして髪をかきむしりながら、何度も部屋を行ったり来たりした。
「死んじゃったわけじゃない。死んじゃったわけじゃ……」
そうだ。駒木さんの記憶と人格は融合体に引き継がれている。融合体に、いなくなった人たちが死んでしまったような態度を取ることはタブーだと聞いたことがある。
「……一番大変なのは、融合しちゃった駒木さんだ。僕がテンパったってしょうがない……」
自分で自身に当たり前のことをつぶやく。
それにしても……いったいどこの誰と融合したのだろう?
駅前広場で融合したとニュースで言っていたから、同じ学校の誰かだろうか……融合症候群の対策として、二年前から一クラス十五名制度が取られている。それで融合が無くなるわけではないが、三十名もすし詰めにされているよりかは、融合は起こりにくくなっている。それに、ただでさえ子供が少ないのに、いくら優秀になるとはいえ数が減ってしまっては国も困るのだろう。
「誰だろう……」
融合すると、たとえ元の人格がねじくれ曲がった人間でも、『他人』の存在を強く意識するようになるから、人格が矯正されるという噂は聞いたことがあるから、誰と融合してもおかしな性格にはなっていないと思うけど……
そもそも、明日、彼女は学校へ来るのだろうか? うちの学校は融合体の受け入れは認めているし、近くに融合体用の寮などもあるが、融合した相手の都合や状況などによって、向こうの生活をベースにすることもあるかもしれない。もし他校の人間と融合したのだったら、彼女はこれっきり、僕の前には現れない可能性もある……
何もかも保留にしたまま。
言うに言えない苦しさに胸を焼かれながら、僕はしんどい三日間を過ごした。
四日目、彼女は学校へ登校してきた。
○
日直だった僕は、いつもより十五分早く学校へ登校した。
普段は自転車通学なのだが、雨が降っているので徒歩だ。おかげとても眠い。
この三日間、ほとんど眠れていない。馬鹿な話と思うかもしれないが、彼女がどうなったのかが気になって、何にも考えられない状態なのだ。
傘にぶつかる重たい雨が、僕の気分に嫌な負荷をかけてくる。
結局、彼女は登校して来なかった。どうなったかも分からない。担任の教師に聞いても「それはまだ向こうで調整しているみたいだから」と要領を得なかった。
駒木さんの友達にもいろいろ聞いてみたが、彼女たちも詳しい話は何も聞いていないし、連絡も取れないという。僕の意気はますます消沈した。
ただ、彼女が融合したのがどうも他校の生徒らしい、ということはわかった。二つ隣の町の高校生だという。映画か何かを見に駅前に来ていたところを、ぶつかって、融合してしまったのだ。
実際に見ていた人の話、という触れ込みで出回っている話によると、二人は肩がぶつかった瞬間に『ぐにゃり』と歪み、そのまま融合してしまったのだという。バネ仕掛けのように。二人は制服を着ていたが、別々のデザインのそれらは癒着してしまった皮膚のように混ざり合って、歪な一着になっていたそうだ。
それだけでも分かっただけ、よかった、と言えるかもしれない。何も分からなければ、それこそ僕は気が狂っていたと思う。
……神様を恨もう、という気持ちにはならなかった。
確かにタイミングは悪かったけど、そんなことでいちいち恨んでいたら心が持たない。
仮にもう、駒木さんに会えなかったとしても、彼女が幸せに暮らしてくれればそれでいい……そんな風に殊勝に思っていたのが、よかったのかもしれない。
通学路の途中で、僕は駒木さんの顔をした女の子と出会った。
○
その子は、泥の中で蠢くなめくじを、しゃがみこんで見下ろしているようだった。
赤い傘越しにちらっ、と見えたその顔は、紛れもなく僕の知っている駒木さんのそれだった。ただ、奇妙な違和感というか……数年ぶりに会った友達を見た瞬間のような、ちょっと息を呑んでしまう差が、その顔にはあるような気がした。
「駒木……さん」
僕の呼びかけに、ぴく、と肩を震わせたその子は、ゆっくりとこちらを振り向いた。
駒木さん……
いや、よくよく見れば、いろんなところが違っていた。顔はそのままのようにも思えたが、ほんの少し幼い印象を増している。目が少し大きくなって、釣り目が下がったのかもしれない。うっすらと開かれた口からは、あの特徴的で可愛らしい八重歯がなくなっていた。髪型も、いや、それどころか髪質が変わっていた。溌剌とした犬のような茶色っぽい癖毛が、艶やかな黒髪になり、背中まで届いていたはずの髪が綺麗に首筋のあたりで切り揃えられていた。髪の長さだけは、融合に関係なく、散髪したからなのかもしれない。
僕とその女の子は、しばらく無言で見つめあった。少女が、どこかぼうっとした口調で言う。
「塚森……くん」
「あ、うん。よかった。覚えててくれたんだ。って、当たり前か。記憶がなくなるわけじゃないもんね」
僕はわけもなく動揺して、意味もなく差した傘をくるくる回した。
「融合……したんだってね。ニュースで見た」
「うん」
「大丈夫? あ、ていうか、学校は変わらないんだね」
「……うん。へいき。いろいろ手続きはあったけど、それが終わったから」
登校した、ということだろう。
「何を……見てたの?」
「なめくじ」
僕は一瞬、変な顔をしたのかもしれない。彼女は、ぷいっと顔を背けた。
「ぼうっとしてて、家を早く出すぎちゃったの。今から行ったら、学校に早く着きすぎちゃうでしょ。だから」
べつになめくじが好きなわけじゃない、という抗議なのだろうか。べつに僕は、駒木さんになめくじ愛好癖があっても、平気だと思う、のだけど……
「……ここにこうしててもしょうがないから、行くね」
と言って、彼女はすたすたと歩き始めてしまった。慌てて僕は小さな水飛沫を立てて、追いすがる。
「ま、待って待って。一緒にいってもいい?」
「え、うん……?」
彼女はどこか、ぼうっとしていた。それからはっと我に返ったような顔になった。
「そうだ。あたし、名前変わったの」
「え?」
僕はマヌケな声を出してしまったが、そうなのだ。融合したら、元の二人のどちらにも公平なように、名前を変えることになっている。
駒木花燐さんは、もういないのだ……
「え、と。どんな名前になったの?」
「火崎花燐」彼女はどうでもよさそうに言った。
「火崎……え、でも花燐って? そのまま?」
「……あたしと融合した相手が、同じ名前だったから。特例で、そのままでもいいって、調整官の人が言ってくれたの」
「そうなんだ」
これは嬉しいアクシデントだった。僕は彼女の名前が、とても好きだったのだ。
「そっか、じゃあ、苗字が変わっただけなんだ」
「うん」
「……よかった、駒木さん、あんまり変わってなくて」
僕がほっと胸をなでおろすと、彼女はくるくると傘を回した。
「そう?」
「うん。別人になってたらどうしようかと思ったよ」
きっと、融合こそしたものの、人格は駒木さんのものがベースになったのだろう。どんなに偏っても人格は7:3の割合にしかならないと聞いていたが、こうして接していると、少し元気はないが、十中八九、ほとんど駒木さんのままだ。
神様はまだ、僕のことが嫌いになったわけじゃないらしい。
しばらく僕らは、無言で、雨の中の通学路を歩いた。
僕は彼女の隣を歩けているだけで、満足だった。ちらちらっと横目で窺うと、彼女は俯いて、アスファルトに弾ける柔らかい雨を見ていた。ほんの少し、やっぱり、疲労の影が見える。それがわかっていて僕は、どうしようもないことに、聞かずにはいられなかった。
三日間の空白は、僕にはあまりに長すぎたのだ。
「駒……あ、火崎さん」
「……何?」と彼女は、視線をこちらに振ってきた。
僕は生唾を飲み込んでから、言った。
「あのさ、色々あって、火崎さんも大変だってのは分かってるんだけど、あの、僕どうしても……聞きたいんだ」
「聞きたいって……?」
「その、返事を」
「返事……」
それから彼女は、目が覚めたように息を呑んだ。
「あ」
……ひょっとして、僕が告白したことは、忘れられていたのだろうか。
まァ、他人と融合するなんていう人生がひっくり返るような大事件の後では、僕なんかのことが頭から吹っ飛んでしまっても、仕方のないことなのかもしれない。
「……それって、あの、……あの返事のこと、だよね」
「……そう」
一拍の間があって、
「いいよ」
と彼女は言った。
「えっ、聞かせてくれるの!?」
彼女は慌てて首を振る。
「ちっ、ちがう。だから……その……」
彼女は、頬を桜色に染めながら、卑猥なものから逃げるようにすばやく呟いた。
「付き合ってもいいよ、ってこと」
僕の世界から音が消えた。
「ほんとに……?」
「うん」
彼女は、まるで初めて僕のことを考えたかのように、じろじろとこっちを見ていたが、
「こんなあたしで、よければ」
そう言って、またもやぷいっと背けられた顔は、僕が告白したあの日よりもずっとずっと、赤かった。
チン、とトースターが鳴って、パンが二斤、驚いたように飛び出した。僕はそれを手にとってラフにジャムとマーガリンを塗りたくり、朝のニュースを見ながら簡単な朝食を済ませた。それから妹と母に「いってきます!」と声をかけてから、家を出る。
火崎さんから返事を貰ってから、一日が経っていた。つまり、彼女が出来てから初めての朝だ。春の日差しは眩しく輝き、ただのアスファルトに過ぎない通学路がやけに白く見えた。
そしてその先に待っていてくれているのは、もちろん――
「よっ」
クラスメイトの男子が立っていた。
「……なんだ、柳田か」
「なんだとはなんだ、失礼な」
「うるさいうるさい。くそっ、さてはからかいに来たな?」
「あったりまえだろう?」
柳田はにやにやと笑った。目つきが悪いので、笑うと何か企んでいるような顔になる。
「なにせ塚森くん、人生最高の朝だろうからな」
「茶化すなって……」
まァ、確かに人生最高の気分、ではあるけど……
僕らは連れ立って歩き出した。
寝足りないのか、ゴキゴキと身体の関節を鳴らしながら、柳田が言う。
「で、俺はてっきり火崎サンとここでばったりってことになると思ってたんだけどな。待ち合わせてないのか?」
「誘ったんだけど、まだ一緒に登校するのは恥ずかしいって言うから……」
「へぇぇ、あいつにそんな一面があったとはね。知らなかったな」
「お前が彼女の何を知ってるっていうのさ」
「これでも、幼稚園は一緒だからな」
へへへ、と柳田が意味もなく笑う。
こいつは高校に入ってからの友達だ。ちょっと変わり者で、僕以外とはあまりつるまない。そしてなぜ、まだ一日しか経っていないのに、しかもまだ秘密にしておくはずの僕と彼女の関係がこいつにバレているのかというと……一週間前、駒木さんに告白する勇気を奮い出したかった僕は、まず柳田に「僕は駒木さんが好きだ! これから告白してくる!」とメールを打ったのだ。結局、それから三日も怯んだ上に、成功したら成功したで、柳田にだけは泥を吐かされてしまった。なぜかこいつは勘がよく、僕が上手くいったことを昨日ちょっとメールしただけで悟ってきたのだ。恐ろしい。
「柳田、頼むから、このことはみんなには……」
「わかってるって。安心しろ」
柳田はバンバンとこちらの肩を叩いてきたが、僕の不安は晴れない。
「誰かにチクりたくても、俺にはそれを言う相手がいない」
「いや、笑えないからそれ」
「なんで? 笑っとけよ塚森。ハハハハ!」
……やっぱり、柳田のことはよく分からない。とても楽しそうに自分の不幸を笑い飛ばすなんて、どういう神経をしているんだろう?
「で、どうよ。昨日はたくさんメールしたのか?」
「ああ、うん。それなりに」
「見せろよ」
「駄目に決まってるだろ」
「じゃ、内容だけ」
「ええ……? まァ、普通のことだよ。今日は喋れて嬉しかったよとか、あたしも、とか……そんな感じ」
「くぅーっ。やるねぇ、青春だねぇ」
柳田はポケットに手を突っ込みながらケラケラ笑った。なぜか馬鹿にされたような気分に僕はなった。
「けどさ、実際問題、違和感とかないのか?」
不意に、横断歩道で青信号を待っている間に柳田がぽつりと言った。
「違和感?」
「融合したんだろ、火崎サンは。だったら、やっぱり元の二人とは違うだろ」
「……ああ、それも心配してたんだけど、杞憂だったよ」
「杞憂?」
「うん。人格は駒木さんベースだったみたいで、ほとんど変わってなかった」
「ふうん。それはよかったな。ま、駒木は我が強かったからな。色で言うと黒だ。何色を混ぜても取り込んじまう」
その言い方に、僕はムッとした。
「ちょっと、イヤなたとえ方はよせよ」
「お? 怒ったのか、彼氏くん。まァいいじゃねえか、褒めてるんだぜ、これでも。たとえば俺とお前が融合したら」
ギクリ、と僕は肩肘を張った。
同い年で、背格好も似通っている男友達。
……気にしていても始まらないから、普段は考えないようにしているが、こうしている間にも、僕たちは融合してしまう危険があるのだ。
柳田と融合したら……
「まず、俺が基準人格になるだろうからな。そうならなかっただけ、駒木は強かったんだよ。な? 褒めてる」
「……僕は貶されたような気がするけど?」
「じゃ、ま、もし融合することがあったら、俺みたいなやつには負けないようにしておけよ。流行ってるらしいぜ? メンタルトレーニング。座禅を組んでお経を読んで、心頭滅却すれば邪魔な他人の意思なんて跳ね返せるっ! ……簡単な話だよな」
僕はそっぽを向いた。
「……座禅、始めようかな」
「本気にしたか? まァ忘れておけよ。考えたって仕方ない、融合するときはするんだ。為すがままに――それでいいじゃん」
僕はため息をついた。
悪いやつではないと思うのだが、この友人は言葉の使い方が激しすぎる。一緒にいて、ひやっとすることがあまりに多い。
とはいっても、同じクラスの学級委員、水鏡空葉ほどとっつき難くはないけど。
割と平穏な部類に入るといわれている、僕ら一年A組の中で二人だけ混じっている変り種が、この柳田と水鏡さんだ。柳田とは友達になれたが、なぜか水鏡さんは僕のことが嫌いらしく、ことあるごとに突っかかってくる。
「好かれてんだろ、どうせ」
「なんでだよ。というか僕の心を読むな、柳田」
「お前、分かりやすいもん」
柳田は両手を頭の後ろで組んで偉そうに言った。
「単純なのはいいけどな、もう少し上手に世渡りしていかないと、今後困ると思うぜ。なにせ融合体の彼氏をやっていくんだからな。……そういや知ってるか、融合体と付き合ってると政府からアンケートが来るらしいぞ。解答すると図書券がもらえるんだと」
「そんなの、僕らは黙ったままにしておくから、関係ないよ」
「それがさ、どんなに秘密にしておいても必ず届くらしいんだよ。ま、融合体の方に報告義務でもやんわりとあるのかな? それは分からんが……いやはや、わずか一日でお前の人生もずいぶん変わったみたいだな、塚森。ひょっとすると全世界がお前らの未来に興味津々ってわけだ。せいぜい楽しめよ」
僕は額を押さえた。
「……なんだろう、お前と喋ってたら気が重くなってきた」
「じゃ、明るい話に変えようか」
柳田が僕の肩に馴れ馴れしくもたれかかってきた。金の無心にきた文無し男のように、甘ったるい声で僕の耳元でささやく。
「……火崎サン、おっぱいでっかくなってた?」
きっと顔が真っ赤になっていただろう、僕は、柳田を突き飛ばした。
「柳田っ!!」
「アッハッハ、そんなに怒るなってぇ。……あ、俺は退散したほうがいいのかな」
柳田が真顔になったので、何かと思って前を見ると……少し前の通学路を、小柄なショートカットの女子生徒が歩いていた。ちらちらとこちらを窺っている。合流しようか、どうしようか、迷っているのだろう、火崎さん。
そそくさと離れようとする柳田の腕を、僕は引っ張った。
「なんだよ」
「……いや、一緒にいてくれた方が、ありがたいんだけど」
「ああ、なるほど、たまたま一緒になって、会話の弾みで合流した同じクラスの三人組って演出がお好みなんだな? いいよ、付き合ってやる」
「言い方は気に入らないけど、助かるよ」
「感謝しな。……おーい、火崎サン!」
柳田が声をかけると、火崎さんがこちらを振り向いて、歩調を合わせてきてくれた。
「おはよ」
小さく笑って、咲きかけの花みたいに開いた手を振ってくる。僕はにやけてしまって、ろくに答えられもしなかった。柳田の方がよっぽど明るい。
「融合したんだって? 大変だったな」
「え? あ、うん。まあね。……君、また塚森くんをからかってたでしょ」
そういえば、駒木さんはよく調子に乗りすぎた柳田を僕の代わりに叱ってくれていた。そのたびに駒木さんとの会話のチャンスが生まれるので、僕は密かに柳田に感謝していたのだった。
「塚森くんを悪の道に引きずりこまないでね」
「人を腐ったミカンみたいに言いやがって」
「じゃ、もうちょっとマジメになってよ。授業もすぐサボるし。留年するよ?」
「うぐっ」
痛いところを疲れたのか柳田の歩調が緩んだ。その隙に僕は火崎さんと距離を詰めた。
目が合う。
……うーん、なんとまァ、照れくさいものだ。
視線を逸らすのもおかしいので、お互いにじっと見詰め合ってしまう。
「えーと」僕が言う。
「えーと?」彼女が言う。
「……おはよう?」
遅ればせの挨拶に、彼女がくすっと笑う。
「おはよ」
泣きたくなるほどの喜びが僕の脳髄を駆け巡った瞬間、予鈴が鳴った。
「あ、やば」彼女が運動部特有の機敏さを見せて、僕の腕を掴んだ。
「走ろ、塚森くん」
「あ、うん――」
僕たちは駆け出した。
出席が危うい柳田が慌てて追いかけてきてくれなければ、遅刻寸前のカップルとして、一瞬にして校内全土に知れ渡ってしまうところだった。
火崎さんが融合したことは、ホームルームで一度だけ軽く紹介されたほかは、何事もなかったかのように扱われた。
机も椅子もロッカーも、駒木さんのものがそのまま流用された。クラスも一緒だ。
おかげで僕はまた、窓際一番後ろの席から、教壇前から二列目の彼女の後ろ姿をいつでも好きな時に見ることが出来る。
いつか自分にも訪れるかもしれない運命に、早くもぶつかった同級生を見ようと他クラスから見物人が何人もやってきて、ちょっとうちのクラスの廊下は混雑したが、表立って彼女に話しかけようとする男子はいなかった。
女子は火崎さんの周囲に輪になって群がったが、それだっていつものことだ。
彼女の姿が見えない休み時間にはイライラさせられた。けど、僕と彼女の関係を暴露するわけにはいかないのだから、どっち道、いままで以上に人前で馴れ馴れしくすることはできない。
慎重にならなければ。
初めて出来た彼女だ、つまらないことでお別れになんかなりたくない……
と言っても。
お昼ごはんはやっぱり、一緒に食べることになったわけだけれど。
学校の中で人目につかないところと言えば、屋上へと続く階段だろう。
屋上そのものは封鎖されていて入れないが、一番上の段に腰かけると、下がよく見渡せるし、それにちょっと薄暗いくらいの方が、雰囲気があるような気がする。
僕がそう言うと、火崎さんは「うーん?」と曖昧に笑った。あまり伝わらなかったらしい。
そりゃ本当は屋上で、青空の下で食べるご飯が一番美味しいのは、僕だって同感だけど。
僕は恨めしくドアを封じる南京錠を見たが、安全上の問題なのだから仕方がない。
「いいじゃんいいじゃん。それより早く食べよ? あたしお腹空いちゃった」
火崎さんが階段に腰かけ、水色の巾着からお弁当箱を取り出した。可愛い。
「それ、綺麗な色だね」
「あ、ほんと? いやあ、なんか恥ずかしいなあ。中学一年の頃から使ってるやつでして……」
そういえば、確かに何度か運動会などに持ってきているのを見たことがある気がする。
僕も彼女の隣で自分の弁当を開けながら、言った。
「自分でご飯作ったりする?」
「んー……たまにね。でも、ほとんどやらないかなあ。やっぱり、駄目でしょーか。女子として……」
ちょっと考え込んでしまって火崎さんに、僕は慌てて両手を振った。
「いや! そんなことないと思うよ!」
「そう?」
「うん、だって、僕だって弁当は母親任せだし……」
と言いつつ、実は僕はそれなりに台所に立つこともあるので、ありふれたものなら一通り作れたりするのだが、それはいまのところは黙っておこう。
プライドってものがある。
「それに、火崎さんは部活やってるから、仕方ないよ」
「あはは、ありがと」
火崎さんはシャキシャキのレタスにくるまれたミートボールを箸でぱくんと食べた。しばらく僕らは、黙ってお弁当を軽くし合った。
「そういえば、今日も部活?」
火崎さんはきんぴらごぼうをモグモグやりながら、首を振った。
「え、でも今日バスケ部って活動日だよね」
「うん。でも、継続届、出さなかったから」
「継続届?」
「融合すると、それまで所属していた部活を続けるかどうか、届け出を出すんだって。まあ、あたしの場合は転校しなかったから、そういう必要があったんだけど」
「え、なんで出さなかったの?」
「んー……なんだろ。あたしたちのどっちかが、というかこの場合は駒木花燐じゃなかったほう? ……が、バスケがあんま好きじゃなかったのかな。あんまり、やりたいって気分にならなくて」
「そんな……」
僕は一気にしょげてしまった。僕の中で、駒木さんといえばバスケというか、ボールを巧みに回して相手を切り抜けていく姿がとても印象的だったので、なんというか、残念だった。べつに駒木さんは僕のためにバスケをしていたわけじゃないのだから、仕方ないのだけれど。
それまでお弁当に夢中だった火崎さんが、僕のほうを見て「わっ」と声をあげた。それに驚いて僕も「わっ」と言った。
火崎さんが僕の二の腕を掴んで、軽くゆすった。
「ねぇねぇ、ちょっと、凄い顔してるよ」
「え、どんな?」
「世界の終わりみたいな顔」
「嘘?」
僕は自分の顔を両手で挟んでみたが、よく分からなかった。
「そんな顔してた?」
「うん……なんか、ゴメン」
火崎さんが、空になった弁当箱を悲しげに見つめた。
「……塚森くんが続けて欲しいなら、続けよっか? バスケ」
「いや、あの、そんな。僕はべつに……というか、こういうことって本人の気持ちが大事だし。嫌なのに無理やり続けてたっていいことないよ」
僕が言うと、火崎さんがうっすらと笑った。
「優しいんだね、塚森くんって。知らなかったな」
「そりゃ……彼氏ですから?」
ちょっといきがった僕のわき腹を、にやにやしながら火崎さんが小突いてきた。うわぁ。なんか仲良しって感じ。
「こんなことなら、中学の頃からもっと仲良くしておけばよかったね」
話が昔のことに入ったので、僕は前から彼女に聞きたかったことを訪ねてみた。
「あの、駒木さんって、昔の僕をどう思ってた?」
「うん? うーん」
火崎さんは、箸を唇に当てて、考え込んでしまった。
「そうだなあ……正直に言って……」
「うん」
「……嫌いじゃなかった、かな?」
僕はどっと階段に倒れこんだ。
「やっぱりそれかあ」
「あは、ゴメンね。でもさ、だってさ、一緒のクラスになったのって一年の頃だけじゃなかったっけ?」
「……三年間、一緒でしたけど?」
「え、嘘、そうだっけ? あれっ?」
「いーよいーよ、どうせ僕は影が薄いし。柳田にもそんなようなこと言われるし」
「いやあ、柳田くんはさ、ほら、ちょっと考え方が豪快なひとだから」
「そうかなあ」
と言いつつ、内心では全面的に同意する僕だった。
それから驚いたことに、チャイムが鳴った。昼休みは五十分あるが、まだ十分くらいしか経っていないような気がした。
「あ、五時間目始まる」
火崎さんが立ち上がって、ミニスカートがひらっとはためいた。僕は慌てて目を逸らした。
「次って日本史だっけ?」
「えと、うん、確かそう」
「やった、楽しみ」
「……え? 火崎さんって日本史、苦手じゃなかったっけ」
「ふふふ」
火崎さんは悪の親玉のように不敵に笑って、自分の頭を白くて細い指でトンと小突いた。
「実はあたし、司馬遼太郎を読破したことがあるみたいなんだよね」
そう言って彼女は笑った。
その意味を僕が理解したのは、教室に戻った頃だった。
……記憶と経験の融合……
その日、いつもなら教科書を立ててこっくりこっくりうたた寝するはずの日本史を、彼女は起きたまま過ごしているのを、僕は見た。
放課後になった。
帰りのホームルームの内容なんて、僕の記憶には残らなかった。
大事なことは、今日、火崎さんと一緒に帰るかどうかだけだった。
一応、みんなには伏せておくことにはなったけれど、悪いことをしているわけじゃなし、いつまでも学校ではただの友達、というのは、ちょっと辛い。
なんとかして、一緒に帰れるようにならないと。
せっかくというわけでもないが、彼女が本当に部活を続けないなら、下校時間は一緒になるわけだし。
そう思って、とりあえず今日は柳田あたりを誘ってみて、三人で帰ってみようかと思っていたところに、火崎さんが鞄も持たずにふらっと教室を出てしまった。
見ると、教室の入り口のところで何人かの女子が彼女を呼んだようだった。
バスケ部の子たちだった。
ひょっとして無理やり引き止められるんじゃ、と僕は心配になった。
中学の頃、吹奏楽部のメンバーが抜ける抜けないでゴタゴタを起こしているのを横目で見ていたので、そういう女子同士のつながりがなかなか粘つくことを僕は知っている。
もしそうなら、なんとか理由をつけて加勢したい……あれは本当に神経に応えるものだ。
だけど、僕にはなんのツテもない……
と、思ったが、笑い声が聞こえたので顔をあげてみると、彼女たちはそんなドロドロした感じではなく、普通に話しているだけのようだった。
ただ、火崎さんが時折困ったような横顔を見せるので、やはり話題は退部のことだとは思う。
彼女は中学の頃から地域で有名な選手だったし、入部早々レギュラー入りもあるんじゃないかと言われていたエースだ。
彼女がやめたらチームのメンバーは残念がるのは当然だろう。
話はすぐには終わらなかったらしい。
僕にチラッと「先に帰ってていいよ」と言いたげな視線を残すと、火崎さんはバスケ部の女子たちに連れられて、どこかへいってしまった。
空き教室か何かで、じっくり話し合うつもりなのかも。
「残念だったな」
僕の肩を柳田が叩いた。ずっと僕の背後にいたらしい。
僕はその手を払った。
「うるさいな、ほっといてくれよ」
「心配してやってんのに。いや、向こうのこと」
僕は肩をすくめた。
「仕方ないから、お前と帰ろうかな」
「ん? ああ、悪いけど俺も野暮用があるんだ」
野暮用って……古臭い言い回しだ。
「ふーん……柳田に用事なんかあるんだ」
「先輩に誘われてちょっとな」
柳田は何か小さなものを摘む真似をしてみせた。僕はそれがなんのことだか分からなかった。
「なにそれ」
「麻雀」
うわあ、と僕は思った。
「柳田って、先輩と麻雀なんか打ってるの? やばくない?」
「何がだよ」柳田はケラケラ笑った。
「ただ遊ぶだけだって。まァ誰かに見つかるとやばいから、体育館上の放送室でこっそりやるんだけどな」
僕はそこまでして学校で麻雀を打つ意味が分からなかったし、麻雀そのものにも興味がなかったので、ただただ柳田に同情した。
「おじさんくさい趣味を持って、お前も大変だな」
「煽ってんのか心配してんのかどっちだよ」
おい、と呼び声がかかって、見ると教室の外にちょっと強面の先輩が三人いた。柳田は「ウィーッス」と軽く返事して、「じゃな」と教室を出て行った。
僕は取り残された。
しかし……趣味か。
柳田の麻雀はあまり褒められた趣味じゃないかもしれないが、僕自身には、これといって趣味がない。
家に帰ってもゲームや漫画だとか、ありきたりなものでしか遊ばないし。
これじゃあゆくゆく彼女に自分のことを打ち明けていった時、「つまんないやつ」とガッカリさせてしまうかも……
そう思うと、「自分の好きなこと」がある柳田が、ほんのちょっとだけ羨ましくなった。
ほんのちょっとだけ、だけど。
仕方ないから帰ろうかな、と鞄を持った時、その手を上からがしっと押さえつけられた。
「塚森くん」
わっ。
クラスメイトで、委員長の水鏡空葉が僕の動きを封じていた。
「な、なに、水鏡さん」
僕は彼女が苦手だ。
なぜか入学早々、僕のことを目の仇にしていて、ことあるごとに衝突してしまう。
僕がうっかり後ろを見ずに誰かとぶつかるとそれは決まって彼女だし、登校して下駄箱で鉢合わせるのも彼女しかいなかった。
お互いに登校時刻をずらしてみてもたびたび激突するのだから、これはもう性質の悪い運命なのだろう。
彼女は、レンズも凍りつきそうな目で、眼鏡越しに僕を睨んでいた。
「今日、ゴミ捨て当番でしょ? 何を帰ろうとしているの」
「え、あ、ごめん」
そういえばそうだった。
彼女は僕を解放し、綺麗な黒髪に手をやって、ため息をついた。
「私も早く帰りたいから、燃えるゴミのほう、持ってってくれる?」
ちなみに、燃えないゴミのほうが量が少ないので軽い。これはまァ、男子の僕が重い方を持つのが当然だろう。
「わかったよ、水鏡さん」
「…………ふん」
彼女は軽く鼻を鳴らして、顔をそむけた。
いまの会話のどこに、嫌われる要素があったのだろう……
僕らはゴミ箱を持って、教室を出た。僕らが最後だった。
人気がなくなった校舎を、水鏡さんと二人で歩く。
会話はない。
……気まずい。
ゴチャゴチャとゴミ箱の中のゴミが揺れる音が、僕らを嘲笑っているような気がする。
僕はべつに、彼女と喧嘩したいわけじゃないし、仲良くできるのなら、誰とでもそうあった方がいい。
こっちがそう思っていても、どういうわけか嫌われてしまうのは、いったい誰が悪いのだろう。やっぱり僕だろうか。
一人で凹んでいると、彼女の方から話しかけてきた。
「……塚森くん、あなた、気をつけた方がいいわよ」
いきなりのことに、僕は何がなんだか分からない。
「……えっと、どういうこと? ゴミ捨てのことなら、ごめん。次からは気をつけるよ」
「違うわ。あなた、いま付き合ってる人いるでしょ」
僕はゴミ箱を落とした。
フタが取れたゴミ箱から、中身がぐちゃあっと廊下にぶちまけられる。
僕は「わっ、わっ」と言いながら慌ててゴミを片付けた。
水鏡さんは冷たい目でそれを見下ろしていた。
「み、水鏡さん、なぜそれを?」
「あなたの顔を見れば、女子なら誰でも分かるわよ。浮かれすぎ」
僕は自分の顔に手をやった。
そんなに浮ついた顔をしていたのか……
「えっと……教えてくれてありがとう。ちょっとまだ、周りには言わないことにしてあるから、これからは気をつけるよ」
「気をつける?」
え。
そこって、揚げ足取られるところ?
水鏡さんは首を振って、また歩き出した。僕もそれを追う。
「どうでもいいけど、相手って、ひょっとして火崎さん?」
往生際悪く、僕はそれを否定しようとして、一瞬、詰まった。
水鏡さんがため息をつく。
そして、予想だにしない一言を告げてきた。
「あなたって、軽率な人ね」
…………
さすがに、僕もちょっと怒った。
「軽率ってなに? 彼女と付き合ったことが?」
「ええ、そうよ」
ちょっと強めに聞き返したのに、水鏡さんは少しもブレなかった。その口調に、なんだかやっぱり僕の方が悪いことをしてしまったかのような罪悪感が湧いてくる。
そんなわけがない。
「理由は? あるなら言ってみてよ」
「じゃあ言うわ。……彼女が融合体だ、ってことよ」
「……なにそれ。融合した人とは付き合っちゃいけないって? 水鏡さんってそういう差別する人だったんだ。知らなかったな」
「あなたこそ、彼女の何を知ってるの?」
僕はカッとした。
「……付き合ったばかりで、何もかも知ってるわけないだろ!」
僕の怒鳴り声は、誰もいない校舎を震わせた。
水鏡さんは、いまや立ち止まって、僕と向かい合っていた。
「君が何を不愉快に思っているのか知らないけど、はっきり言って迷惑だし、そんなこと言われる筋合いはないよ。最初から何もかも分かり合った状態でしか付き合い始めちゃいけないなら、そんなの誰にもできやしないだろ」
彼女はじっと僕を見つめていたが、ふいっと視線を逸らした。
「そうかもしれないわね」
なんなんだよ……
僕はなんだか、本当に彼女のことが嫌いになってきていた。そんな風に思いたくなかったのに……どうして一緒のクラスなのに、わざわざ仲違いなんてしなくちゃいけないのか、それが僕にはわからない。
それから無言になって、校舎裏のゴミ捨て場に僕らはゴミをぶちまけた。あとのことは僕は知らない。
僕は水鏡さんの手から空のゴミ箱を取った。
「軽いから、両方持っていくよ。水鏡さんは先に帰っていいよ」
気を利かしたつもりだったが、災いした。
「鞄、教室にあるんだけど」
「…………」
また妙な空気になってしまった。最悪だ。今日は厄日に違いない。火崎さんとは一緒に帰れないし、柳田もどっかいっちゃったし、彼女とは……。これからまた教室まで戻るのかと思うと胃が痛んだ。
どうせ無言になるならと、最後に言いたいことを言ってしまった。
「水鏡さん、僕は火崎さんとは真剣な気持ちで付き合っていきたいと思っているし、心配されなくてもちゃんと彼女のことをわかっていきたいと思ってるよ。融合症候群に罹ったこともそうだし、彼女本人のことにしてもそうだし。当たり前のことだよ」
「…………ならいいわ」
水鏡さんはそう言って、僕の前を歩き始めた。僕はその冷たい背中に言った。
「あと、誰にも言わないでね、このこと」
水鏡さんは答えなかった。
その日はぐったりして家に帰った。リビングに入るとソファに寝転がってアイスを食べていた妹の志保が「どったの!?」と心配してきてくれたが、僕は「ちょっとね」と言って自分の部屋に戻るのが精一杯だった。
どっと疲れた。
やっぱりあの子は苦手だ……
それからがっつり二時間は疲労困憊してベッドから動けず、僕は死んだようになっていた。携帯電話が鳴らなかったら夕食も食べずにそのままだったかもしれない。僕はのろのろと亀のように動いて、しゃがれきった声で電話に出た。
「もしもし。……誰?」
「あ、うん、……火崎ですけど」
僕は自分の額をべしっと叩いた。なんて声で出てしまったんだ……
「ご、ごめん。なんか凄い出方しちゃって」
「うん、かけ直そうか?」
「いや! そ、そんな恐れ多いことはとても……」
僕の慌てふためきっぷりに火崎さんが電話の向こうでくすくす笑う。くそう。なんだか悔しいぞ。
「なんか嫌なことでもあったの?」
「え、いや……」
僕が言いあぐねていると、電話口から「……」とちょっと重たい沈黙が返って来た。これは全て白状しないと、かえって険悪になりそうだ。
そういうわけで、僕は水鏡さんとちょっとイザコザを起こしたことを、彼女に白状したのだった。
○
「ぐすっ」
全てを聞き終った彼女は、電話口の向こうでいきなりすすり泣き始めた。
心配されるのは嬉しいけど、泣かせてしまったのは少し申し訳ない……なんだか僕の中でますます水鏡さんの株が下がっていくのだった。
「あの、火崎さん、泣かないで……」
「うん、ごめんね、でも……あたし嬉しくて」
僕が水鏡さんに対して、きちんと自分の態度を表したことだろう。勇気を出してよかった。
「いやあ、それほどでも……」
「水鏡さん、あたしのこと本当に心配してくれてるんだねっ」
えっ、そっち?
僕は意味もなく冷や汗を流した。そっちか……今まで自分の中で考えていた方向性が全て頓挫した瞬間である。
「えーと……そうだね! 水鏡さんはいい人っぽいね」
僕の適当な発言に、火崎さんは「うんうん」と律儀に相槌を打ってくれた。
「はー……なんかその話聞いたらラクになっちゃった。明日、水鏡さんとお話したいな」
事態の予想外の方向性に僕はちょっと面食らっている。
僕としては、罵られたりしたので、フォローして欲しいところなんだけどなあ……
そのことについて勇気を振り絞って自ら慰めを求めよう、と勢いこみかけた時、火崎さんが先手を打った。
「あのさ、水鏡さんのお兄さんが融合体だ、ってことは知ってる?」
僕は口先まで出かかった言葉を飲み込んだ。
知らなかった。
「……お兄さんが?」
「そう。去年くらいのことだったらしいんだけどね。あたしも、まだちょっと人伝に入学したばっかの頃に聞いただけなんだけど……ひょっとしたら、お兄さんのことで、何か辛いことでもあったのかもね。だからあたしのこと心配してくれたのかも」
「そっか……そうかもしれないね」
家族の誰かが他人と融合して、ある日、突然、知らない人になってしまう……
中には耐え難いショックを受けたり、トラウマになってしまう人もいるだろう。
「でも、僕はちょっと傷ついたけどね……」
「あはは。もしチャンスがあったら、あたしからちょっと言っておくよ。あんまり話したことないけど」
僕は心配だった。なんだかんだ言って、火崎さんも水鏡さんの悪辣さの餌食になってしまうのではないかと……
僕だけならともかく、彼女にまであの毒舌を振りまいたら、流石の僕も黙ってはいられない。
「火崎さん、気をつけてね」
「え、なにその危険に挑んでいくんだね的なノリ? 大丈夫、大丈夫。クラスメイトだよ?」
そのクラスメイトに半べそかかされた身としてはあまり安堵できない。
それからちょっと学校のことや明日のことを話して、通話を切った。
僕は自分のベッドに再び倒れこむ。
いずれにせよ……
僕には彼女が出来たのだ。
あの日から始まった彼女との他愛ないメールを全て見直してから、僕は目を閉じた。眠気が一気に増してくる。
今度、彼女をデートに誘おう。
きっと夢のような……一日に……なるはずだか……ら……