第二部
むぎゅっ。
ある日曜日の朝、僕は何者かに押し潰されていた。
寝苦しい……顔に朝日がかかって眩しい……
僕はうめいたが、腹上にいる何者かは、ますます圧力を増してくるばかりだった。
厳かな幼い声で、彼女は言う。
「審議。審議だよお兄ちゃん」
「……志保。なにやってんだ、そんなところで」
僕は目を開けて、自分の腹の上にいる妹を見上げた。今日は学校が休みなので、中学の制服ではなく、私服を着ている。
「朝からこんな破廉恥なことをしていたら、お嫁にいけなくなるぞ」
「黙れ愚民」
ええ……愚民……? お兄ちゃん愚民……?
志保は僕のことを冷たい目で見下ろしながら、何か光り輝く印籠的なものを突きつけてきた。
「このスマホが目に入らぬか」
「ああ僕のだね……ってええええええええええええ!?」
火崎さんと毎晩のように交し合っているメールの記録が、スマホのディスプレイに表示されていた。慌てて僕はそれを奪おうとしたが、妹の両膝が僕の両腕と血管を押さえつけていて身動きが取れない。まずい。これは鬱血してるパターンだ!
「どいてくれ志保、腕が駄目になる!」
「当然の報いだよお兄ちゃん。入学早々、女子とメールするだけに留まらず……彼女を作るなんて! 何を考えてるの!? 学生の本分を弁えて地獄の業火で焼かれなよ!」
「どういうこと!?」
よくわかんないけどそのコースだとお兄ちゃん死ぬよね。
僕はとにかくブリッジを繰り返して妹を弾き飛ばした。ぶらぶらしている両手を振り回して血の巡りをよくする。
「よすんだ志保、話し合えばわかる」
「何が分かるっていうの!? お兄ちゃん、教えて、この人の何を弱味として握っているの!?」
くそっ、駄目だ話が通じない。僕は枕を盾にして、手刀を放ってくる恐るべき妹を防いだ。
「落ち着いてくれ志保、お兄ちゃんはべつにクラスメイトを脅迫してそんな蜜言を紡いでいるわけじゃないんだ」
「じゃあお兄ちゃんが女の子と付き合えるわけがないじゃない!!」
志保は赤茶けたツインテールを振り回して叫んだ。うん、ちょっと待って。いま毛先が目に入った。
「志保、お兄ちゃんはな、いろいろあったけどその人に告白してオッケーを貰ったんだ。バレたからには今日は赤飯を頼むよ」
「ふざけないでお兄ちゃん。じゃあ今ジャーの中にある炊き込みご飯はどうすればいいの!」
食べるよ。食べるけど。
「食べるけども……」
「っ!? わかったよお兄ちゃん」
志保はキラリと目を光らせる。
「その人、実は男だね。狂言ってわけだ。はっ、たばかりおって」
「ねえ、それ誰に対する狂言なの? 自分?」
「そんなこと、シホが知るわけがないでしょ!!」
志保さんガン切れ。僕はもうちょっと駄目かもしれない。
時計を見る。
約束の時間は、午前十時、駅前広場。
そう。
今日は、火崎さんとの初デートの日なのだ。
初デートだったのに、いろいろ準備とかあるのに、
なんで僕はいま妹の回し蹴りを避けているんだろう……
「信じられない!!」
志保の膝蹴りが僕の前髪をかすめていく。助けてお母さん、どうか物音を聞きつけて。
「お兄ちゃんが誰かと付き合えるわけないよ!! その女の人、頭おかしいんじゃない!?」
「融合体だから、志保よりも偏差値は高いと思うよ」
ちなみに僕の妹は頭が悪い。頭の悪さだけで保護者会を開かれるほどだ。だから九九だけは覚えろって言ったのに。
「それに志保、人を差別するような発言をするのはよくないよ」
「だって、お兄ちゃんみたいになんの面白みもない人と付き合うなんて、お試し気分以外には考えられないよ」
「志保、お兄ちゃんは今マジで凹んだよ」
「それが?」
魔王のごとき風格と目つきで僕の苦言は圧殺された。
「あっ、わかった」
志保はパンと手を叩いた。
「お兄ちゃん、騙されてるんだよ。お年玉、溜めてるんでしょ?」
「僕お年玉を女子高生に狙われてるの?」
どこからその情報をキャッチしたのかがとても疑問だ。
「志保、彼女はそんな生々しい悪に身を染めてはいないよ。会ってみればわかる」
「じゃあ会う」
あっ、やばい。
僕は脂汗を流しながら、「どう、どう」と妹をなだめたが、志保はそれを無視し、僕のスマホを暗殺者のようなすばやさでフリック操作し、真実を知った。
「今日、デートなんだ……」
あーあーあーあー。
終わったー。
今日の僕の人生終わったー。
もう駄目だ。おしまいだ。
その場に膝から崩れ落ちて最後の抵抗をしている僕をよそに、志保は着々と準備を進めていった。本気でついてくる気のようだ。
僕は唇を噛み締めた。
ごめん火崎さん。
自分の身は自分で守る感じでお願いします……
待ち合わせの駅前広場には、もうすでに火崎さんが待っていた。私服姿だ。ボーイッシュな雰囲気が、ちょっとお嬢様チックな衣装で緩和され、いつもより女の子っぽく見える。意外となで肩なんだなァ……そんな彼女が僕らを見つけると「あれ?」と小首を傾げた。そりゃそうだろうね。二人いるからね。
「やあ……お待たせ」
「うん、それはいいんだけど……その子は?」
「塚森の妹、志保です。よろしく」
「とりあえず近いね」
背伸びをした志保のメンチが火崎さんの前髪の中で切られている。僕は妹が背負っている小学校からの愛用リュックを掴んで火崎さんからひっぺがした。
「ごめんね火崎さん、なんか……付いてきちゃった」
「ふーん」
火崎さん、思ったよりも落ち着いてるように見えるが、無表情……これは怒ってるパターンか? 初デートに妹を連れてきたら怒るよね……何やってんのかわからないもの。
「あなたですね、うちのお兄ちゃんを誑かしてるのは」
「うん」
み、認めた……?
志保と目線を合わせるために少し前かがみになっていた火崎さんがくるっと僕のほうを向いた。
「そうだよね? あたしが塚森くんを誑かしたんだよね?」
「……えーと、はい」
駄目だ、スマホで「妹 初デート」で検索かけても変態しか出てこないから対策が打てないよ。グーグル先生どうしちゃったの。
「塚森くん、これからちょっとぶらつくんだよね」
「え、うん」
今日のデートはとりあえずぶらつくところから始まる。初デートだからね。予算もないし。地元最高。
僕がそんなことを考えていると、志保が目を皿のように見開いて叫んだ。
「つまんなっ!! 初デートなのに最寄!? 最寄駅をぶらついて済ませるの!? お兄ちゃんこの女センスないよ」
ごふっ
あ、やばい血ぃ出たわ。血ぃ吐いたわー。
「塚森くん、大丈夫だよ」
「火崎さん……」
「あたしも電車代、ちょっときついなって思ってたから!」
ぐっと握り拳を作ってみせる火崎さん。
彼氏としては「お前とのデートに往復300円とか出したくねーよ」って言われたのも同然なので、僕はますます足元がよろついた。次からはね、そういう機会があったらね、奢る。奢るよ。
「お兄ちゃん……」
志保が同情のまなざしを向けてくる。僕の喀血を見て事情を察したらしい。出来れば兄を追い込む前に欲しかった、その思いやり。
「どうして三つ先の駅の水族館にしなかったの……」
「志保ちゃん、しっ!」
火崎さんが志保の口を塞いだ。
だってデート先は下調べとかしなきゃいけないんでしょ?
三つ先の駅まで下調べにいく根性が僕にはなかった……
それだけさ……
「お兄ちゃんが灰に」
そりゃ火崎さんも内心ではこっそりそう思ってたのが分かったからね。
「ていうか電車はちょっとみたいな雰囲気を出してたじゃないか火崎さん! ひどいよ! 意見があるなら言ってよ!」
「えへへ……いやあ……塚森くんクルマとか持ってないの?」
「僕まだ十五だよ!」
火崎さんの思考回路が心配。志保のせいかな……
「とにかく、もう行こうよ! なんか目立ってるし!」
駅前の人たちの視線は、ショートカットでありながらさらっとしたワンピースの上に薄緑色のカーディガンを羽織った火崎さんの可愛さと、そして天下無敵のツインテールを振り回しているうちの妹に集中していた。うん、志保それ武器じゃない。威嚇やめて威嚇。
「いいでしょう、それではデートを始めてください」
志保が腕を組んで、高らかに宣言する。帰ってくれないかなー。
「テストみたいだね」火崎さんが真顔で言い、
「いこう、塚森くん! 志保ちゃんに怒られる前に!」
「うぇ!? ちょ、ちょっと……」
抵抗する僕に構わず、火崎さんは僕の腕を掴んでぐいぐいと街中へ引っ張っていく。
うう。
楽しみにしていた初デートなのに、いったいなんでこんなことに……
僕らは本屋にやってきた。なんとなく、普段自分が通いなれているところがいいと思ったのだ……だが我が妹の「マジかよ」という面構えを見ていると、どうやら僕は失敗したらしい。
ところが、火崎さんは割と乗り気のようで自分からラノベコーナーに僕を引っ張っていった。へぇー火崎さんラノベとか読むんだ……てっきりそういう趣味は困った笑顔で「ちょっとね」とか言いそうな感じだと見受けていたのだが、鼻息荒くMF文庫の新刊を漁っている火崎さんはどっからどー見てもオタ女子だ。僕も一介のラノベ好きとして、話題が合いそうなことは嬉しい。
「話題が合いそうだからって調子に乗らないでよ、お兄ちゃん」
志保は俺妹の最新刊を立ち読みしている。ここはシュリンクかけていないのでラノベは立ち読みオッケーなのだ。
そういえば、二十年くらい前はコミックスもシュリンクをかけていない本屋があったとかなかったとか。僕は子供だったのでよく覚えていないが、なんだか一時代を感じる。古きよき90年代よ……
「塚森くん、ラノベとか読む?」
「読む読む、超読む」
というか志保が読んでる俺妹もうちにあるくらいだし。なぜか自宅にあるラノベを書店でも手にとって読んでしまうのは、僕もそうだが不思議な習性である。
「志保ちゃんも?」
火崎さんが志保の首に手を回して抱きしめながら言う。仲良くなるの早いなー。
志保は後頭部を火崎さんの口元に数度にわたってぶつけるという抵抗行為をしながら、
「読みます。フェイバリット電撃文庫」
うちの志保はキノの旅を読書感想文にしていた女だからね。
「俺妹よかったよね」したたかに打たれた口元を押さえながら火崎さんが言う。
「特に最終巻のミステリ仕立てが」
ああ、確かにあれはやばかった。
「11巻まではチョロいラノベって感じも抜けなかったけど、12巻でまさかの技巧を見せてきたよね」
「そうそう!」火崎さん嬉しそうに手を叩く。
「それまでは『ああ、次の巻への引き作るのうまいなーはいはいラブコメ』って感じもあったんだけどね。あやせたん超可愛いくらいしか考えてなかった」
僕は黙って火崎さんと握手をかわした。
「賛否両論だったけど、それまで出てきたキャラクターを同窓会みたいに総出演させながら、メインシナリオを進めた手際のよさと章立ての上手さは評価に値するよね」
「そうそう。まァ、なんだっけ、リオだかリアだか外人の妹ちゃんだけいなかった気もするけど」
「そういうゲストキャラまで全て出演させてこじつけっぽくするよりは、よかったんじゃないかな」
「うんうん。いいよねー……あのラスト。最後がミステリ仕立てだった分、なんか推理したらあれが誰かなのか分かりそう」
「誰でもないかもしれないし、誰かでもあるかもしれないっていうのがいいよね。まァ候補は一人しかいない気もするけど」
「12巻読んで、あたしネットの感想全部シャットアウトしたんだけど、してよかったって思う。下手な考察とか、手がかりをすべて網羅されるより、『なんとなくの記憶』の中で味わうっていう楽しみが、いまの時代には欠けてる気がする」
時代にまで言及し始めた僕の彼女である。
「そういえばそろそろ伏見先生の新刊出るけど、どうなんだろうねー。塚森くん的には期待値はどんな感じ?」
「うーん、微妙。義妹とはいえ、また妹かーって気もするし。二番煎じをそつなくこなして作家ぶろうっていう姿勢は嫌い。『ミナミノミナミノ』みたいなことになりそう」
「ミナミノ!」火崎さんはそれがまるで異国の祝福の挨拶のように叫んだ。
「ね! 秋山瑞人ってぜっっっっったいああいう二番煎じ書けっこないよね! 書こうとしても!」
「なんか逆にミナミノが書けないから天才性が増してる気もするよね。自分が書きたいことしか書けない、みたいな」
というか火崎さん、瑞っ子か。絶滅危惧種にこんなところで出会えるとは。
「まァでも、伏見先生はラノベ作家として極めて高い水準にいると思うよ。読者に求められたことにちゃんと応えようとしてるあたり、やりたいことだけやったような顔して1~2巻だけで消えてく作家よりは全然凄いし」
「ちょっと書いただけで消えてくって聞くと、なんか秋山みたいだよね」
「秋山って本質的にはやっぱりそういう一発屋と変わらないんだと思う。そのクオリティが高すぎるだけで。だから我侭だし、商業作家として求められることが出来ない。そんなんじゃ売れないし出版社からも推してもらえない。納期までに原稿をあげられない作家の出版方針を編集会議でどうこう出来るわけないもんね。イラストレーターとの兼ね合いだって、続刊の展開の仕方だって考えなきゃいけないんだから、やっぱり商業って『書けばいい』だけの世界じゃないよ」
「なんか、そう考えると悲しいよね……ラノベ……」
火崎さんが新刊台をその綺麗な指先で切なそうに愛撫した。
「まァ、僕ら読者はそんなこと考えないで『おもしれー』って言ってればいいんじゃないかな。出版社に投書してお気に入りの作家の後押しするでもなければ、食い扶持に困ってるかもしれない作家を探し出して『生きろ! 書け!』って現金押し付けるわけにもいかないしね」
「食い扶持って渡してもすぐなくなるしね」
火崎さんは売れないバンドマンに貢ぐバンドガールみたいなことを言い出した。いや、実家にいるやつならそうでもないかもしれないけど。
「なんか暗い雰囲気」
と志保が『ハイスクールD×D』を立ち読みしながら僕らにジト目を向けてきた。あれビックリするけど乳首描いてあるんだよねイラスト。下手なあとみっく文庫よりエロイ。
「志保、そんなえっちぃの読んじゃ駄目だ」
しかも僕、彼女と初デート中だし。空気読んで空気!
「頭が馬鹿になるぞ」
「馬鹿になるためにラノベって読むんじゃないの?」
僕の妹は思想が深遠。
「馬鹿になるためのラノベか……」
火崎さんが名探偵のように考え込んでしまった。そこ食いついたかー。
「確かに、今のラノベは『設定厨歓喜! ラノベペディア小説!』と『なんもかんがえたくない人生つかれた』系日常小説が二大ニーズだよね」
「まァ、若者にチャンスがないから、会社のルーチンワークでは決して発揮できない溢れた知性を設定小説にぶっこんで粗探ししたい奴と、仕事や学校で疲れ果てた層が癒しを求めてるってのが、二大基盤だよね」
「じゃあ全部老害が悪いんだね」
吉田松陰みたいなことを言い出したよこの子。斬首されるよ。
「まァそうかもしんないけど……」
「塚森くんは馬鹿になりたい時は何読むの?」
「『庶民サンプル』は6巻だけ買った」
「みゆきさん目当てか……外道め……」
外道て。
「もう、ビックリするぐらい『はがない』すぎてどうしようかと思ったよ」
「ああ、ほんと似てるよね。というか、あそこまで文章を軽量化して展開にも差別化を催さないってなると、本当にハンコ絵ならぬハンコ文だよね」
「それが最近のニーズなのかもね。下手にハズレ引くぐらいならつまんなくてもいいから当たり障りのないものがいい、っていう」
「確かに、ラブコメ漫画とかで絵がトガってたら『もっと矢吹健太朗みたいな感じで描いてよ!』って思うもんね。それと一緒かな?」
「ああ……うん……そうじゃない?」
なんか反論できるところが少なくて逆に気乗りのしない返事になった。
「僕はあんま好きじゃないんだよね、日常系」
「俺妹は読むのに?」
「あれはやっぱり売れるだけの基盤は持ってたと思うよ。実際、僕の友達の書店員のところでも俺妹はかなりコンスタントに掃けてたし。『はがない』は売れるんだけど、新刊だけなんだよね。本当に面白いのって、あとから既刊が掃けるんだよ」
「そっか……そうだよね、ぶっちゃけ中身がないラノベだって分かってたら、塚森くんみたいにお気に入りの子が表紙で活躍しそうな巻だけ買ったりみたいな層もいるかもだしね」
自分でやっといてなんだが、少数派ではあると思う。
やっぱり最初から順を追いたいっていう人は、結構多い。僕は『面白いとこから面白いところだけ読めばいいや』って感じだけど。わかんないところは勝手に脳内補完するし。
「庶民サンプルは一巻から買おうって思わなかったの?」
「ちょっと思ったけど、一巻が置いてなかったんだよ、近所の書店に。一迅社はこれっていう作品がないから、書店によっては棚から切り落としてるところが多い」
「マジか……たとえ面白くても、レーベルによっては最初から入荷してもらえないから、実績を残せないってこともあるんだね」
「ザラだよそんなの。だってラノベの棚って異常なくらい溢れかえってるもん。毎月の新刊多いし、棚持ってる人にラノベの知識なかったらそれこそ『メディアミックスしてるかしてないか』で平気で整理されるよ。だからゴリ押しでコミカライズしたりして箔をつけるんだよ」
「じゃあ、ラノベの知識を持ってる人が棚を持てばいいんじゃ?」
「そんな柔軟な考え方は、この国にはないよ」
僕たちは揃ってため息をついた。
「僕の書店員の知り合いも、みんなラノベとか一般文芸の知識なんかパートのおばさんとかよりあるけど、そんな話は上から来ないし、仮に棚持たされても給料あがるわけじゃないしね。その給料を捻出できないのが小売の現実だし」
「そうなんだ……だから法律でたびたび最低賃金があがるんだね」
「そうしないと永遠に給料あがらないからね」
なんだかラノベの話から逸れてしまった。
まァでも、このあたりの問題は『融合化』の影響もあって緩和されるのじゃないかと思う。とにかく高齢者から片っ端に融合していくのだから、いまは全国的に人手不足だ。雇用も増加しているし、若者が実際的な仕事に就くケースも増えていくだろう。
「だから明るい話!」と志保が『のうりん!』を読みながら言った。実は『のうりん!』、まだ読んでいない僕だった。
「期待してる作家とかいるの?」と火崎さん、明るく話題転換。
「あたしはね、山形石雄」
「戦う司書の人か! わかってるねー火崎さん」
「あはは、まァジョジョの作者が褒めてたから買ったんだけどね」
「僕もそう。いい傾向だよね、ベテランが推して若手が伸びるっていう。荒木先生なんてよほどじゃないとそういうの受けそうにないし、逆にレアでリアリティが増すっていう」
「うんうん。で、戦う司書なんだけど、あれってぶっちゃけどこまで面白いと思った?」
「6巻」
「やっぱりかー」火崎さんはがくっと肩を落とした。
「あたしは最後まで楽しかったんだけど、やっぱクオリティは6巻まで?」
「若干ね、若干。まァ僕が飽き性ってのもあるけど。6巻まではかなりいいバランスだったと思う。ファンタジーでありながら剣と魔法モノじゃないのも先鋭的だったと思うし。まァ6巻はインパクトがね、最大風速だったから」
「あれはビックリだよねー……『えっ』って叫んだもん、『えっ』って」
「山形先生は『ネウロ』の人にちょっと似てるよね」
「外してくるよね、ツボを。そこがいいんだけど。新作の『六花の勇者』はどう?」
「僕はあんまり」
「えー……」火崎さんは残念そう。
「そうかなあ。ファンタジーミステリって、いいじゃん」
「ネタはいいんだけど、キャラクタがね、ちょっとね。まァ司書は装飾が薄かったから、結構キャラにゴテゴテと記号を貼り付けてる『六花』はちょっと僕は合わない……かな。まァ単純にこれが山形先生の新作じゃなくて、別人の本だったら通読したし評価もしたかも」
「あー、ちょっと分かるかも。じゃあ作家って1シリーズごとに変名したほうがいいのかな?」
「それも極論だけど……でも今の時代って『スターシステム』流行ってるじゃん」
「スターシステム?」
「上遠野浩平作品みたいに、作品は違っても世界観は共通っていうやつ」
「ああ、あれね。ワクワクするよね」
「ワクワクする。でも、そのせいで『一人の作家は一つの世界観しか描いちゃいけない』みたいな風潮があるのも事実だと思うんだ。でもそれって不幸なことだと思うんだよね。だってずっと一つの作品に縛られ続けるなんて、つまんないし、書いてて苦しいと思う」
「でも読者はやっぱり、つながりを期待するよね」
「する。僕もする。でもその風潮を打破することが、必要だとも感じる」
「うーん、ラノベって難しい」
火崎さんは眉をひそめて唸ってしまった。
「あ、それで塚森くんのオススメは?」
「作者っていうか作品だけど、『デートアライブ』とかはアニメ楽しかった」
「あれはお祭り作品として優秀だよね。ホワイトベースみたいなところでまじめ腐って選択肢考えてるところとかすでにギャグ」
「考えたやつの勝ちって感じだよね。それに新しいといえば新しいし」
「俺妹みたいに『エロゲーからエロを抜いてお手軽にしたコメディ』みたいなジャンルからの派生なのかな、やっぱり」
「ラノベの購買層が上がっていくにつれてエロゲーっぽさが入ってきたのか、それともエロゲーを購入できない、する気分になれない層が手軽に楽しめる『擬似エロゲ』としてのジャンルを確立してきたのかはわからないけど、エロゲーから輸入された描写は本当に増えたよね」
「うーん、でもエロゲーやりたいならエロゲーやればいいと思うんだよねぇ。だってPSPで全年齢版とか出てるじゃん」
「たぶん」と僕は言った。
「ライトノベルで日常ラブコメを追っかけることにはライブ性があるんだと思う。『ヒロイン競馬』っていうか。誰が主人公とくっつくんだ、みたいな。あの子が可愛いこの子がいいみたいに読者同士でじゃれあいながら、お気に入りの子に感情移入してその子が登場したら喜んで。一種の賭博的な楽しみがあるんだと思う」
「アニメ追っかけて神回だったら歓喜みたいな感じだね」
「そうそう。ラノベはゲームに比べて安価だし、会社や学校へ行った帰りに『自分へのご褒美』でふらっと買うのに適してる。漫画だと大人買いしたらそれまでだもん。新刊を一年は待たされるし、最近だと」
「なるほどねぇ……このジャンルって終わりはあるのかな?」
「ないんじゃない? と言ってもあれだけ隆盛した王道ファンタジーも枯渇して、今では『小説家になろう』の専売特許状態だから、いつかは終わるかもね。でもその時代に生きた人たちは決して自分たちが愛好したジャンルを手放さないと思うよ。それは自分を否定することになるし」
僕はヒーロー文庫の棚をちょちょいと突いた。
「結局、子供の頃に憧れたものが現実にないっていうのが今の時代の苦しみだよね。ガンダム世代はどんなに頑張っても人型ロボットに乗れないし、ハリーポッター世代は東京からでも品川からでもホグワーツにはいけないし、魔法も杖もハーマイオニーも手に入れられない。いま思えば『ハルヒ』はそういう『何もない自分』に気づき始めた世代の先駆けだったのかもね。テーマもそんな感じだったし」
「じゃあ、苦しまないためには現実を受け入れるしかないのかな?」
「それに気づき始めてる層が日常ものを求めてるって部分もあるのかもね。もう夢物語はいいから、普段の暮らしに幸せを得ないと不味い。自分の精神が持たない、っていう」
「うーん。あたしとしては、夢のあるお話の方が好きだなあ」
「僕も。……あれ?」
話に熱中していた僕たちは同時に振り返った。
志保がラノベ棚の前に立ち、文庫を一冊持った状態で目を瞑っている。
ね、
寝ている……
ずしっ
僕の双肩に立ち寝をかました妹の重量がのしかかってきた。めきめきと僕の肩甲骨が嫌な音を立てるが、志保が太っているというより僕の運動不足が原因だろう。
「重い……」
「頑張って、お兄ちゃん」
火崎さんはのんきなもんである。
僕は曖昧に笑ってよろつきながら、帰り道を歩き始めた。
本当はどこかでご飯でも食べていきたかったけど、このままサイゼリアに入ったらどう見ても行き倒れの中学生を助けた親切な人に思われてしまう。
「いやあ、久々に背負ったけど、成長したなあ、志保のやつ……」
「いま中学何年生?」
「二年」
「ふーん……」
火崎さんは指を伸ばして、眠っている志保の前髪をすくった。
「兄妹の仲いいよね、塚森くんちって」
「そうかな?」
ついついラノベ論を書店の中でぶちまけていたさっきの僕らも相当仲良しだった気がするよ。
ふと周囲の目(と眠りこけた志保)に気づいて我に返ったけど、はしゃぐのだって高校生の立派な仕事だからいいのだ。
まだ昼をちょっと過ぎたあたりだったので、人影はまばらだ。ぽつぽつと木が植えられた歩道を僕らは歩いていく。
火崎さんは少し眠そうだった。
「あたしんちは、あんまり家族仲が良くなかったから、憧れるなあ、可愛い妹……」
「可愛いかな?」
ツインテールを振り回しては兄の目にぶつけてくる妹君ですよ。
「なんだったらあげるよ」
「貰う貰う」火崎さんはコロコロ笑って、
「ごめんね、せっかくのお出かけだったのに、途中で終わっちゃって」
僕は一瞬ポカンとした。
「え、いや、そのセリフはこっちのものですよ? 火崎さん。どー考えてもうちの志保が……」
「や、本屋さんではしゃいじゃったし……」
「いやいや、それは僕もだし!」
うわあビックリした。なんか彼女、本当に気にしてそうだったし、こんなことで負い目を感じてもらっちゃこっちが申し訳ないよ。
「まあ、これで最後じゃないし、またどっか出かけようか」
「いいね、どこがいい?」
さすがバスケ部。
「あたしここ行きたい!」じゃなくて「どこがいい?」と聞き返してくるところが男らしい。
なんていうかもう火崎さんがイケメン。
「そうだね……」と僕。
ここで「なんでもいいよ」っていうと「いや、聞いてんじゃん」って女の子はなるらしい。風邪で学校休んだ時の午前のテレビで言ってた。
だから僕はそばを通り過ぎていく車の音を聞きながら、ちょっと考えて、
「水族館とか行きたい、かな?」
「水族館……」
火崎さんはその言葉を口の中で弄ぶと、ふっと笑った。
「あたしもそこがいいな。水族館か……懐かしいなあ……」
「小学校の頃、いったよね」
「そうそう。塚森くんも一神水族館だった? 遠足」
「うん、火崎さんも?」
僕は第一小学校出身、彼女は二小出身のはずだ。
「あたし、あの日、熱出したんだ……」
「うんうん」
あの日というのは、遠足で水族館に行った日のことだろう。ひょっとしてすれ違ったりとか、と思ったりもしたが、向こうに迷惑をかけないように学校同士がスケジュールを伝え合って被らないようにしてるんだとか。夢も浪漫も今ではすっかり稀少品だ。
「あたし、凄く具合悪くて、イルカショーも見れなかったし、サカナもクラゲもあんまり覚えてないんだ……」
「それは残念だったね……じゃあ、今度は元気な時にいこう」
「そうだね……そうしたいな……」
マンションのカラス除けだろうか、どこからかチラチラした光が反射してきて、僕ら二人の顔をさっと過ぎ去っていった。志保が僕の背中で何がもごもご寝言をこぼした。
「ねえ、水族館って、いいよね」
「そうだね」
いまその話をしてたよね、と思ったが、たぶん火崎さんも志保につられて眠くなっているのだろうと思って、僕はフラットに返事をした。
「あの頃はよかったな……小さなことが楽しみで……ねえ、塚森くん、幸せすぎるって怖くない?」
「え?」
火崎さんはガードレールに触れるそぶりをしながら、俯いて歩いていた。まるで一本の鉄骨の上を行くように、その歩調は心配になるほど真っ直ぐだった。
「あたしは今日、幸せだったけど、なんだか怖いな……」
そうぼそっと呟く火崎さんは、なんだかとても寂しげだった。
最近、火崎さんの元気がない。
どこがどう、と具体的に言えるわけでもないけれど、話をしていても糸を引き抜くように話が終わってしまうことも多いし、帰り道もなにかとちょっと寄るところがあるからと別れてしまうことが増えた。このことを柳田に言ってみたところ「そりゃお前、何もかも終わりだよ」と胸焼けのするようなアドバイスをもらっただけだった。なんてことを言うんだ。
いずれにせよ、僕の彼女は毎日があんまり楽しくなさそうだった。約束していた水族館に行ったあたりがピークだった気がする。あの日は特に話が弾んだわけでもないけれど、二人とも笑ってさよならが言えたのでいいデートだったんじゃないかと自負していたのだが……
「気のせいだったんじゃないの?」
「うるさいな、水鏡さん。水差さないでよ」
「それってダジャレ?」
「そんなセンス背負って生きてないよ。深読みはやめてよ」
「水鏡だけに?」
「なんで続ける! もうよせよ、みんな悲しんでる」
そういうわけで昼休み。
僕と水鏡さんは、机をくっつけてお弁当を食べていた。べつに白昼堂々と浮気に励んでいるわけじゃない。
ちょっと前まで僕と水鏡さんは触れれば静電気の勢いで反目しあっていたわけなんだけれども、柳田のやつが珍しく気を利かして、僕らの中を取り持ってくれたのだ。最初は「いや、いくらなんでも柳田が間に入ったくらいで僕らの間の不和は取り除かれないよ」と厭世観丸出しで構えていたのだけれど、一緒にご飯食べてたら仲良くなった。お互いにびっくりだ。
水鏡さんはしっとりとした黒髪をかきあげて、僕を藪睨みし、自分で握ってきたというおにぎりをぱくついていた。そのおにぎりがまたでかい。力士の拳くらいあるおにぎりを二口くらいで食べる。祖先は武士か何かじゃないかと思う。
「で、なんの話だったかしら? 塚森くん」
「いやだから、うちの相方が元気ないんだよねって話」
「彼氏がつまらないからでしょう」
「そういうのいいから」
僕は目元をハンカチでぬぐった。水鏡さんが顔をしかめて、そういう女々しいところがむかつくのよ、と視線で告げてくる。ごめん。
「でもほんとに心配なんだよ。お昼ご飯も一緒に食べなくなったし……」
また茶化されるかなと危惧したが、水鏡さんはもぐもぐおにぎりをかみ砕きながら、思慮深げに考え込んだ。
「……塚森くんはどう思うの? 仮にあなたの言う通り、二人の関係がまだ良好だったとして」
「うーん」僕は腕を組んで考え込んだ。
「なにか僕に言えない心配事がストレスになってるのかな、とか……」
「妊娠ね」
僕は三分ほど教室中の女子から袋叩きにされた。
「やめてくれるかな」椅子を起こしながら水鏡さんに懇願した。
「死にかけたんだけど」
「ごめんなさいね」水鏡さん、最高にいい笑顔。
「まあでも、そういうこともしてないんでしょ?」
「はい」
「じゃあセーフね」僕の弱気の白状を、水鏡さんは実に得意げな顔つきで受け取った。
「ま、塚森くんが自発的にあの子を傷つけるようなことをするとも思えないし、なにか心当たりとかないの?」
あることにはあった。
前にも言ったが、僕の彼女……火崎花燐さんは融合体だ。バスケ部のエース、駒木花燐さんともう一人の女子高生が合体してしまった存在。なので、いろいろとそれまでの生活との軋轢みたいなのが彼女にはあると思うし、それを支えていかなきゃいけないと彼氏としては思うんだけど、ええとなんだっけ?
水鏡さんがあきれたように言ってくる。
「あなた、しゃべってる間にものを忘れすぎじゃない?」
いつの間にか独り言をいっていたらしい。せっかくなのでそれに乗っかる。
「なんか、融合したての頃、バスケ部を抜けるときにそのメンバーに呼び出されてたりしてて、それがまだ尾を引いているのかな……と」
「つまり、バスケ部の子たちがいきなり抜けたエースにいやがらせをしてきてるってこと?」
「いやそこまでは」
「確かめましょう」
「えっ」
水鏡さんは反重力装置を背中に貼りつけていたかのように敢然と立ち上がり、すたすたと教室から出ていこうとした。なんだその無駄な行動力は。僕はその背中を追った。
「ちょっとちょっと水鏡さん! 何も僕はそうだなんて言ってないわけで」
「千夏、そうなの? あんたが火崎さんをいじめてるの?」
「いじめてないよ」
「速いっ! 展開がとにかく速いっ! 待って待って落ち着いて、ていうか僕を落ち着かせて」
「うるさいわね」
たまたま教室の外を通りかかったバスケ部の村越千夏(むらこし ちか)さんに水鏡さんが速攻で切り札を切ってしまっていた。村越さんは「へぇ~あたし花燐のこといじめてたんだ」みたいな顔でむしろ興味深げ。くそぉ。みんなの行動が制御できない。
「塚森くん、なんか花燐に言われたの?」
きゅっと締まった体つきの村越さんがワンステップ踏んで僕のそばに近寄ってきた。
「千夏だけに?」
「水鏡さんどうしちゃったの。ちょっと黙ってなよ」
ちょっと一緒にご飯を食べたらダジャレ魔女になった委員長は放っておくことにする。
「いや……火崎さん、最近元気ないからさ、なんか事情があるのかな、と思って」
「ふうん。疑ったんだ、うちらのこと?」
つぶらな瞳で村越さんが僕を見上げてくる。やめてー。許してー。
「ごめん、僕が間違ってた」
「いや、いいと思うよ? 彼女を心配する彼氏。青春なんてくそくらえだよね」
村越さんが窓の外の青空を見上げながらふっと乾いた笑いを見せる。うちの学校ってそんなに偏差値低くないはずなんだけどなー。おかしいな、普通のやり取りが在庫切れ。
「ま、でもうちらはなんもしてないよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと。花燐がバスケ部抜けるときにちょっと引き留めたこと気にしてるんでしょ? あれっきりだから」
「でも、エースがいなくちゃ大変なんじゃ……」
「ふんっ、エースね」
村越さんはくせの強い髪を振って、シニカルな笑いを浮かべた。
「たかが一人抜けたくらいで落ちぶれるほど、もうろくしてないよ」
「そっか……なんだかよくわかんないけどそれならよかったよ」
「うん。だから花燐が落ち込んでるんだったら、バスケのことじゃないと思うよ。やってないから恋しいってのも、たまにふらっと来て軽くボール触って帰っていくし、違うんじゃないかな」
「わかった。ありがとう、村越さん。調査を続けてみるよ」
「はいな。頑張ってね~探偵彼氏クン」
村越さんが購買部に向かって歩き去ってから、僕は隣に立つ水鏡さんに言った。
「なんか村越さんの印象が変わったよ」
「ええ、そうね。ほぼ初めて同級生の男子と喋ったので必要以上のテンションを持ち出してきてたわね」
「そうなの!?」
それはそれで印象がまたさらに変わったよ。女の子もたいへんだね。
「でも結局、火崎さんの落ち込みの原因はわからずじまいか……」
「そうね、でもべつにいいんじゃない?」
水鏡さんはしれっとそんなことを言う。僕はちょっとむっとした。
「なんでだよ、この悪魔」
「は?」
「ごめんなさい」
返事ひとつで人を黙らせる人をそう呼ぶって僕聞いたよ。
水鏡さんはお腹を押されたように深いため息をついた。
「あのね、塚森くん。彼女が落ち込んでる原因を探るのもいいけどね、それより励まし方を考えたらどう?」
「励まし方?」
「そうよ。マイナスを見るよりプラスを作る。それが男ってもんでしょーが。それに誰にだって言いたくないことの一個や百個あるんだし、いいんじゃない? ほっとけば。何にへこんでるのか知らないけど、そんなこと忘れちゃうくらい、笑わせてあげればいいじゃない」
僕はちょっと息を呑んで彼女を見つめた。
「水鏡さん……」
「な、なによ」
「いい人だったんだね」
足を踏んづけられた。
だが、これで当面の目標は決まった。僕は握り拳を作って、新たな作戦を練り始めた。
もちろん、デートの作戦だ。