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第三部

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 それから僕は何度か火崎さんとデートをした。
 美術館にもいったし博物館にもいった。
 前みたいに駅前で本屋さんデートもしたし、彼女の誕生日にはプレゼントも渡した。
 彼女は僕のプレゼントを受け取って、わあ、と一言だけ言った。
 わあ、と。
 それでも彼女の笑顔は見られなかった。
 いや、笑ってくれたことは何度かある。
 それでもそれは、どこか偽物っぽくて、僕はそれを信じることができなかった。
 いったい何が悪いのか、何度も何度も考えたけど駄目だった。
 彼女は微笑んで、頷いて、相槌を打って、僕の話に感心して、自分の体験談を慎ましげに語り、僕の隣を歩いた。歩いてくれた。
 それでも彼女は、本当の笑顔だけは見せてくれなかった。
 そんな彼女といるのは、楽しいはずのことをしているのに、どこか空虚だった。
 何が足りないのか、僕は一生懸命グーグルで検索をかけたけど、どこにも載ってはいなかった。
 やがてそんな僕の背中を叩くように、心のどこかで予感していた、一通のメールが届いた。
 携帯の画面には、
 別れよう、
 と一言だけ書いてあった。
 そんなひらがなは、くそくらえだった。

 ○

 僕は荒れた。
 荒れに荒れた。
 それはもうひどい暴れ狂い方で、目につくものはすべて破壊し、自分の身体をこん棒のように振り回しては跳ね返され、床をのたうち回っては転がっているすべてのものを蹴飛ばして壁にぶつけた。髪をかきむしり、どうしていいのかわからず、獣のように吼え、壊れもしない机を叩いては拳を傷めた。駄々をこねる子供のように、泣き疲れると眠った。なんで、なんで、と口からこぼれる言葉だけが他人じみた声で聞こえた。猫のかぐやは僕を見捨てて出ていった。その行方なんて、知るもんか。
 とうとう妹の志保が見かねて、僕が投げ捨てた携帯から最近のメールを検索し、相談相手になりそうな文面の相手を僕の家まで呼び出した。余計な心配をかけてしまったと思うけれど、それを焼き尽くすくらい僕は怒り狂っていた。彼女に。女性に。火崎さんに。 
 ベッドの上で毛布にくるまった僕を、水鏡さんは閉じたドアにもたれて、冷たい目で見降ろしてきた。僕の喉が猫のように唸った。
「久しぶり。最近見かけないと思ったら、そんなところにいたのね」
 僕は答えない。
 水鏡さんは顔を隠すような手つきで眼鏡を掌で押し上げた。
「一週間も学校をサボって。定期試験、終わったわよ。留年したくないのなら、出席だけでもしといた方がいいんじゃない?」
 返事をする気がないことを読んでいたのか、水鏡さんは髪をぐしゃりとひとまわし掻き混ぜてから、自分の話を続けた。
「別れたんですってね、あなたたち。まァ、この惨状を見ればわかるけど」
 破壊と暴力が未成年によって成し遂げられた六畳間を水鏡さんは一瞥した。
「だから言ったのに。早く別れた方がいいって。そうすれば、こんなに傷つく羽目にならなくて済んだのに」
「……君に何がわかるんだ? 勝手にあがってきて、好き勝手なこと言うなよ」
「じゃあ、あなたにはわかるの? なんで彼女があなたと別れたのか。言っておくけど、嫌われたからじゃないわよ」
 僕は眉をひそめた。
「……なんで君が知ってるんだ?」
「わかるからよ。最初から、わかってたから。こうなることは」
 水鏡さんはふっと笑う。
「この部屋を見て安心した。あなたにも人間らしい感情ってものがあるのね。私、てっきりあなたは『当事者』にはなれっこないと思ってた。所詮はただの卑怯で下劣な傍観者なんだろう、って。でも、これだけ物を壊して家族に心配をかけられるようなら、まだ生きる余力はいくらか残ってると見ていいわね」
「話を逸らすなよ」
「逸らしてないわよ。理路整然とした会話がお望み? それは無理ね、人間なんてもともとが滅茶苦茶なのよ。生きてるんだから、嘘だってつく。それこそ、火崎花燐もね」
 彼女の名前を聞いた瞬間、胸の奥で不快感の卵が割れて、僕は吐き気を催した。水鏡さんはそれをいとおしそうに眺めてくる。
「トラウマになったみたいね。かわいそう」
「うるさいな」
 僕が言うと、水鏡さんは組んだ腕を指先でトントンと叩いた。
「なんの話だっけ? ああ、彼女のことよね。なんで彼女があなたと一緒にいられなくなったか、教えてあげる」
「教えてくれよ」
「誕生日プレゼント渡したでしょ」
「ああ」
「それ」
 僕はすぐには納得できなかった。
 誕生日プレゼント?
 確か、そんなに恰好つけたものを渡すのもどうかと思って、読書用のライトスタンドを買って贈ったはずだ。
 それが気に入らなかったってことか? 彼女の自尊心をそれで傷つけた?
 わけがわからない。
 だから僕はその気持ちをそのまま打ち明けた。
「……わけがわからないよ」
「なんで? あの日は彼女の誕生日じゃないのに」
「え?」
 水鏡さんはじっと僕を見ていた。
「塚森くん、融合体の誕生日は、融合した日になるの。だからあと一年は絶対に、彼女の誕生日は来ないのよ。それでもあなたは誕生日に彼女にプレゼントを渡した。落ち込んでいる、とわかっている彼女に。それは誰の誕生日?」
 僕の肩から、毛布がずり落ちた。
「……駒木、さんの……」
 僕は生唾を飲み込んでから、続けた。
「だ、だって……僕は……べつに悪気なんか……それが? それがいけなかったっていうのか?」
 彼女はすぐに反論した。
「いけなくないとでも思ってるの?」
 僕は弁解できなかった。
 水鏡さんはポケットから折りたたまれた紙を取り出すとそれを僕に向かって放った。
「……これは?」
「開けてみて」
 僕はそれを開けた。
 履歴書に似た、A3のプリントだった。片方には駒木さんの写真と経歴があり、もう片方には別の少女の写真と経歴が載っていた。
 名前を見る。
「西野……花燐?」
「駒木さんと融合した子は、偶然、同じ名前だったの。べつにそれがどう、ってわけじゃないけどね。でも、この軋轢の一環にはなったのかも。普通なら、両者とは違う名前が融合後にはつけられるはずだったのに、同名だったため、そのまま二人の名前を引き継ぐことになったのよ」
「……それが?」
「結果的に言えば、その子は騙ったのよ」
「騙った? 何を?」
「自分の人格ベースを。そのカルテ、もっとよく見てみたら?」
 下の方に、融合後の簡単な診断がついていた。
 人格ベース、駒木花燐、とある。
「異常なのよ」
 水鏡さんは視線を伏せたまま言った。
「私の兄もね、融合した。聞いたことあるでしょ? なんだかみんな勝手にタブー視してくるけど、逆にそういうのって、気まずいのよね。まァいいわ。……融合したら、どちらかの人格がベースになる。私の兄の場合は、兄のほうがベースだったけどね。でもね塚森くん。あんなに元の人格を維持してる融合体なんて、いないのよ」
「つまり……火崎さんは」
 僕の言葉を無視して水鏡さんは続けた。
「西野花燐がどんな人生を歩んできたかは知らないけどね、写真、見たらわかるでしょ。駒木さんとは似ても似つかない。どっちが美人かは男子の判断に任せるけど、選ぶのに迷う人はいないと思う。
 あのね塚森くん。
 あなたみたいに何の苦労もなく、神様なんていまだに信じていられるような、何事もない人生を送ってきた人にはわからないかもしれないけど。
 もし、ある日、ほとんどそっくりそのままの人格を維持したまま、他人の記憶と容姿の大部分を引き継いだ女の子がいたら。そしてその女の子に、僕は君に告白したと言う男の子が近づいてきたら。
 私があの子でも、あなたにすがるわ」

 沈黙が下りた。
 僕は手元のカルテに載った、二人の少女を見比べながら、何も言えなかった。
「騙るのはつらい、ってお兄ちゃんは言ってた」
 水鏡さんがぽつりと言った。その口調は、少しだけいつもより砕けていた。
「最初ね、あたしがあんまり嫌がるもんだから、合わせてくれてたの、あの人。本当に顔だけ変わったお兄ちゃんが戻ってきたみたいだった。でもね、ちがうの。全然ちがうの。あたしにはわかるの。あの人がもうあたしのお兄ちゃんじゃないってことは」
「水鏡さん……」
「記憶と経験を総動員して、いなくなった人間のフリをする。そうすれば、残された人たちは喜ぶよ。手を叩いて褒めてくれるよ。でもね違う、それは絶対に違うことなの。やってはいけないことなのよ」
 水鏡さんの指が、その腕に食い込んで、震えていた。
「本当の自分を偽って、生きていくなんて、ただの人間にも辛いのに、『自分』を失ったばかりの、これから『自分』を作っていかなきゃいけない融合者には、出来ないことなのよ……それを、あの子はやった。あんな完成度で。瓜二つじゃ済まされない、ほとんど誰もが、あの子を『駒木花燐』として扱った。……たったひとりの彼氏さえもね」
 水鏡さんは、細く息を吸って、吐いた。それから僕を見た。鋭い目で。
「あなたにわかる? 彼女がどれほど凄いのか。彼女がどれほど本当の気持ちを押し殺してきたのか」
「……それは……」
「そんな彼女に、あなたは渡した。誕生日プレゼントを。誰の誕生日に?
 駒木花燐の誕生日に」
 水鏡さんは、身体から力を抜いた。少しだけ優しくなった目で、僕を改めて見る。
「あたしが言いたいのはこれだけ。あとはあなたが決めたらいい」
 そう言って、彼女は自分の携帯を僕のベッドに投げた。僕はそれを拾って、どうしていいかわからず、困惑する。
「えっと……」
「電話してもメールしても、向こうに連絡、つかないんでしょ? あたしからの連絡ならたぶん出ると思うから、使っていいわよ。委員長として、」
 ため息をついて、彼女は出ていく。
「不登校児がクラスに二人もいると、困るのよね」


 ○


 あとには、僕と壊れたものと見慣れぬ携帯電話だけが残った。僕はその画面を見ながら、考えた。
 いつかもこんな場面があったな、と。
 もうそれがいつだったのか、どういう場面だったのか、暴れて泣いて疲れて眠って、それから同級生の女の子にしこたま糾弾されたばかりの僕にはちっともわからない。本当はわかっているのに思い出さないだけかもしれない。
 とにかく、僕の手元には電話があって。
 繋げる先は一つしかない。
 僕はそれを手に取る。
 ダイヤルを押して、震える呼吸を整えて、耳に当てる。
 呼び出し音が、だいぶ長く続いて。
 そして、僕のコールに彼女が出た。

 ○

 待ち合わせは、朝焼けの広がる、高台の公園だった。
 僕はもう夏なのに冷え込む公園に、少しだけ厚着をして出かけて行った。
 彼女はもう待っていた。ブランコの前の柵に腰かけて、朝陽が消していく星を見上げていた。
 透き通った白い肌にさっと刷いたように桃色が映えていて、薄い唇をわずかに開けて、知らない国の詩集を読んでいるような顔をしていた。
「ありがとう」
 僕が近寄ると、彼女は僕を見ずに言った。
「嬉しかった、ライトスタンド。毎日寝る前、使ってる」
「……火崎さん」
「水鏡さん、余計なことしてくれちゃったなあ」
 彼女は、あはっ、と騙る。
「このまま何事もなく、思い出になっていってくれたら、いいのにって、思ってたのに……」
「……それは、違うよ。火崎さん」
「あの子の受け売りでしょ。わかってるんだから」
「そんなことない。このままでいいなんて、僕だって思ってない」
「そうかな……」
 まだ闇が抜けきっていない朝焼けの公園で見る彼女は、どこか皮肉げな雰囲気をまとっていた。
「だって、塚森くん、続けていけると思うの? 本当に。全部暴露されちゃったのに。何もかもが嘘だったんだって」
 火崎さんは足をぶらぶらさせる。
「嘘、嘘、嘘。そんなことばっかり。やっとつまらない人生から解放されて、べつの人生を手に入れたと思ったのに、それもどうして、上手くいかないんだろう。きっと神様はあたしのことが嫌いなんだね」
「そんなことない」
「あるよ。君に何がわかるの? ……ね、卑怯でしょ、あたしって。負けない言葉、知ってるんだ」
 くすくすと火崎さんは笑う。彼女の前髪が流れて、目元を隠す柔らかい檻になる。
「この気持ちが、駒木さんのものだったらいいな」と彼女は言った。
「……え?」
「そうでしょ? こんな嫌な気持、あたしのものだって思いたくない。この胸の中の嫌なもの全部、あたしじゃなかった子のものなんだって思いたい……そうじゃないとも言い切れないしね。わからないもの、あたしにはもう、何も」
「火崎さん、僕は……」
「ずっとつらかった」
 彼女はぽつんと言った。
「融合して初めて思ったのは、なんて簡単なんだろう、って気持ちだった。二人分の記憶と経験が流れ込んできて、その渦の中で、眩暈がして、気分が悪くて、でもそれがゆっくり沈殿していって、暗闇の中で整理できるようになった時、あたしは思った。簡単だって。あたしと融合したもう一人の誰かは、ビックリするぐらい簡単な人生を送ってきたんだって。……あたしの人生は、あんなじゃなかった」
 ぎゅう、っと。
 誰かが拳を握る音がする。
「融合症候群は、著しくどちらかに人格ベースが偏った場合、そっちの人格が今まで続けていた生活を維持するコースを選択されることが多い……っていうのは、いままで他人事だと思ってたあたしでも知ってることだった。だからあたしは融合庁の人たちの質問を、自分の全能力を使って、先読みした。当てるべきところでは当て、外すべきところでは答えを外して見せた。そしてこの融合症候群が、あたしのベースが西野花燐じゃなく、駒木花燐だってことを診断させた。だって、欲しかったから。新しい人生が」
 火崎さんが顔を上げる。火照った顔は、何かに酔っているみたいだった。
「診断された後、何度も打ち明けようと思った。だってこれは、間違っていることだから。あたしにだってわかってたから。最初の日、あの日、学校にいくとき、しゃがみこんで、あたしは迷った。融合庁の人に相談して、すぐ言って、全部なしにして、誰も知らないどこかで一から全部やり直すべきだって。そうしようって思った。あとほんの少しでそうしてたと思う。そこに、
 君が来た」
 その目から、涙が落ちる。
「あたしは、嘘をついた。嘘をつき続けた。いなくなった人間のフリをして、その人が積み重ねてきたものを全部奪った。それともあたしはやっぱり駒木花燐なの? あたしは、不当に奪われそうになったものを自分の手で取り戻そうとしただけ? あたしは誰? ねえ塚森くん、教えてよ」
 僕は首を振った。振るしかなかった。
「こんな関係」
 ひきつるように、彼女は笑った。
「こんな関係、続けていけるわけない。もう。だって、つらいもん。みんなが、あたしじゃなくて、あたしによく似た誰かの影を見てるのは、つらいから。それは絶対にあたしじゃないから。そうでしょ、だって、バスケ部のエースがさ、あんなさ、ラノベなんかたくさん読んでるわけないじゃん。ね。そうでしょ」
「あれが、本当の君なの?」
「本当って何?」
 彼女は噛みつくように言った。
「どうしたら本当ってことになるの? あたしがそうって言ったら? みんながそうって言ったら? あたしにわかるのは、わかるのは……」
 両手で顔を覆う。
 首を絞められたように、彼女はえずいた。

「楽しかった、はずなのに……」

 漏れて聞こえる声は、泣いていた。
「塚森くんといて、一緒にいて、嬉しかったし、楽しかった。なのに……駄目だった。どうしても、このままずっとは、出来なかった……だから」
 彼女は両手を下ろす。
 涙の欠片も見えない綺麗な顔で、彼女は笑った。
「さよなら、塚森くん」
 僕は、何も言わなかった。
 少しずつ昇ってきた陽光が、僕たちの足元を照らしていた。僕はそれを見ながら言った。
「僕はさ、駒木さんのことが好きだった」
 はは、と彼女が笑う。やっぱりね、と。
 僕は気にせず続けた。
「駒木さんはバスケ部のエースだったし、可愛かったし、いつも楽しそうだったし、なんていうか、気持ち悪い言い方かもしれないけど、僕から見たら完璧だった。完璧に思えた。そんな人と一緒にいられたらいいな、って思ってた。でも、君と付き合ってみてわかった。
 彼女は絶対、僕のことを好きになったりしないと思う」
 火崎さんは微動だにしなかった。凍ったように、その表情は動かなかった。ただ僕を見つめ返していた。
 嘘をつこうとしている人間の目だ。
「あのね塚森くん、それは」
「つまりさ、僕もさ、人間だから。……自分のことを好きでいてくれない女の子のことは、好きなままではいられなかったと思う。伝わるし、そういうの。そんなの僕だってつらい。でも、
 君といて、つらかった時はなかった」
 火崎さんの目は、思っていたよりも茶色だということに、僕は初めてその時、気が付いた。いや、本当は最初からなんとなく気が付いていた。
 駒木さんは、本当にきれいな黒い目をしていたから。
「君が駒木さんの顔とか、仕草とか、雰囲気とか、そういうの全部、引き継いでることはわかる。そういうものに惹かれてるだけだろうと聞かれれば、返す言葉はないかもしれない。でも今、僕が君を好きだということだけは確かだし、それは少しも変わってない。絶対に変わってない。たとえ君がどんなに嘘つきでも」
 だから、と僕は彼女に言う。
 そして、彼女は僕に答えた。


 ○


 市役所の中は結構、混雑していた。
 思っていたよりも僕たちの日常はいろいろな手続きを求める人でいっぱいらしい。
 そういう人たちの苦労を両肩で感じながら、僕は屋内には入らず、外のベンチに座ってだらだらしていた。
 携帯を取り出して、ちょっと前に柳田と水鏡さんに送ったメールに返事はないものかと確かめてみたりもしたが、こういうときに限って二人ともなんの音沙汰もない。
 僕はため息をついて、かっこつけて買った缶コーヒーをぐっと煽った。苦かったけど、美味しかった。

 それが空っぽになる頃、彼女が出てきた。
 ありがたいことに私服姿。ちょっと子供っぽいくらいのパステルカラーでまとめたカーディガンとロングスカートの組み合わせは、どこか活発だった頃の彼女と比べると違和感があるように思えるけれど、僕はこっちの方がいいと思う。かわいいし。
 風にさらわれかける帽子を押さえて、彼女は僕の前に立った。
 にやにやとはにかんでいる。まるで悪戯が上手くいった子供みたいに。そしておほん、と咳払いすると、彼女は言った。
「初めまして、塚森祐樹くん。
 塚森陽葵、です」
 僕は意味もなく吹き出してしまった。当然、そんな僕を彼女は怒る。
「ちょっと! 人の名前を笑うとか!」
「いやいやごめんごめん。なんか面白くって」
「何がそんなに面白いのかなあ……?」
 彼女に耳を引っ張られ、僕は全面降伏する。
「参った、降参降参。許して」
 むー、と彼女はしばらく僕を睨んでいたが、にっと笑うと腕を組んで宣言する。
「じゃ、許してあげるから、早く言って」
 今度は僕が咳払いをする番。居住まいを正して、木陰のベンチの前に立ち、彼女に言った。
 いつだって、緊張する一瞬。

「はい、えーと。初めまして。塚森祐樹です。
 あなたが好きです。
 付き合ってください」

 彼女はもじもじとつま先で地面をひっかく。うーんとか、どうしようかなあとか言いながらにやにや笑って。
 僕はほんのちょっとだけ、本当に焦らされているかのようにあせる。
 やがて、彼女は言う。
 最高の笑顔で。
「こんなあたしで、よろしければ」



 名前を変えて、やり直そう。
 改めて、新しい誰かとして。
 僕の提案に、彼女は乗った。
 彼女はもう駒木花燐ではないし、
 そしてそれと同じくらい、西野花燐でもない。
 ただ、限りなく人格のベースが一方に偏っていただけで、もしかしたら本人も気づかない割合で、彼女は駒木さんの性格も引き継いでいたのかもしれない。
 人間の心は数学では割り切れない。
 だから、その割合も真実も永遠にわからないままだ。

 これから、彼女は塚森陽葵として生きていく。
 ……名字まで変更してしまったのは、なんというか、やりすぎというか、それはもうこの関係の行きつく先が一個しかない感じで、僕はプレッシャーに押し潰されそうだったりするのだけれど。
 僕の隣で笑う彼女は、まだ心のどこかで疑っているだろう。
 僕が無理をしたんじゃないかって。
 でも、それは違う。
 確かに僕は駒木さんが好きだった。
 でもそれは、所詮は憧れに過ぎなかったんだと思う。
 彼女が教えてくれない、彼女の心の中にだけ仕舞い込まれた、あの日の『保留』の答えを僕が知ることはないと思う。
 それでいい。

 いつかの水鏡さんが言った通り、僕はガキだった。
 だから、なんの問題もなく、ごくごく自然に、
 すぐそばにいて笑ってくれる女の子を、好きになった。
 そういうことだ。




              『融合症候群;彼女の場合』

                    おしまい

12

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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