「イヤホンジャック」
ふと思い立ってイヤホンを外した。
丁度聴いていたアルバムの最後の曲が終わった事も理由の一つだったかもしれない。だが、次の選曲すらせずにイヤホンを外したのには、ウォークマンから流れ出す音楽に突然嫌悪感を抱いたのが特に大きな理由だった。すぐにでも外さないと何か後悔する―ただ、一体何を後悔する事になったのかは、帰宅した今になっても分からないでいる―気がしてならなかった。
イヤホンを外すと、鈴虫の音が聴こえてきた。
風が通り過ぎる音がした。
車道を行き交う車のエンジンの唸り声がした。
何より、自分の足音がした。
ナトリウム灯が照らす橙色の窮屈で淀んだ空気の中で、一歩、二歩、三歩と歩く度に音が反響してはうわんうわんと輪郭を無くして消えていった。薄暗くどこか不気味で、油彩画の上に垂らした水彩絵の具みたいな空間が、何故だか今はとても心地よく、何より「自分の味方」でいてくれるような気がした。
反響する自分の足音に耳を傾けながら、出口の付近で振り返ってやってきた方を見つめる。
そこには、私がいた。
イヤホンを付けたまま、只々呆然と足元を見つめる私が、立っていた。
私はなんだかその姿が酷く憎く思えて仕方がなかった。私だと理解しておきながら、あれを私とは認めたく無いと、強く思った。
私は踵を返すと、周囲に誰も居ないことをよく確認してから、何度も深く呼吸をした。ナトリウム灯の先で呆然とするそれは、私にはまだ気づいていないようだった。
私は、ただ一文字、大きく口を開けて発する事のできるたった一文字を、喉が痛むような声に乗せてトンネルに向けてぶち撒けた。
それから再び踵を返し、私は帰路についた。
帰宅するまで、振り向くことは一度足りとも無かった。
随分時間を掛けて漸く到着した家にほっと一息ついてから、私は頭上に目を向けてみた。
燦然と輝く星々の、雑然とした並びに、酷く安心してしまった。これだけ沢山あれば、どれが既に死後かも分からない。この中には恐らく、自らの消滅を経てやっと注目された星だってあるかもしれない。
なんだか生きるのも悪くはないのかもしれないなあと、そんなことを思った。
せめて、私を私として繋ぎ止め続けてくれる何かを遺すべきかもしれない。
そうやって残したものが極微小なものでも構わない。何れ何処かの誰かの小さな部品となってくれるのならば、活力の一つとなってくれるのならば、それはどれだけ幸福なことだろうか。
最早名前も擦り切れ、記憶すら消えた小さな歯車が、誰かの中で咬み合ってくれたなら……。
鍵を開けて、ドアを開けた所で漸く私は振り返ってみた。
果たして私はイヤホンを外しただろうか。
それとも次の曲を再生しただろうか。
今更知るべくもないそんな疑問を抱きながら、玄関に足を踏み入れ、扉を閉めた。
そのうちに彼も帰ってくるだろうから、鍵だけは閉めずにおいた。