「応答願フ」
『ハロー、ハロー、こちら応答願います』
スピーカーから聴こえてきた声は若く、何より耳馴染みが良かった。
「いつからだろうね、あの放送が当たり前になったのは」
そう言って女性は僕の隣のカウンターに腰掛けた。赤いドレスに真っ青なカーディガンを羽織った、やけに目のチカチカする合わせをした女性だった。ただ、顔だけは人形のようにはっきりとしていて、魅力的だなと感じられた。
「青と赤が好きなのかい?」僕が尋ねると、彼女は一度だけ自分の服を見て、それから笑った。
「そういうわけじゃないの」
「ならどうして?」
バーテンダーが彼女の前にグラスを置く。不透明な真緑のそれを見て、僕は少しだけ驚いた。
「単色じゃないと不安で仕様が無くなるの」
「単色?」
「そう、単色」
彼女はグラスを傾けると、目を一度だけぱちんと閉じてみせた。
「色が滲んでいて、それがだんだん綺麗になっていくのを見ていると、なんだかそれまでの色が正しくなかったみたいに思えてしまうのよ。だってそれまで赤や青として存在していたものが、突然滲んで紫になって、綺麗だって認められてしまう。以前だって綺麗だったのに、もうそれまでの色はそこからいなくなってしまう」
「そんなもんだよ。僕らの『キレイ』程根拠の無い言葉も無いさ」
「そんなものかしら」
僕は頷く。
「美的感覚なんて誰もが違うもので、本来ならそれらが完全に交わることなんて有り得ない。でも衝突し続けるのではどうしても気持ちが悪いから、誰もが『まあ悪く無い』と思える落とし所を用意して、それを正義とした」
「それで?」
「僕らは正義って言葉に弱いからね。自分の背中に『貴方は正しいですよ』と証明証を貼ってくれるんだ。大抵は納得したんだろう」
「大抵以外は?」
僕はバーテンダーにドリンクを注文すると、頬杖をついてみせた。
「狂ってると考えれば何の問題もないじゃないか」
「そっか、落とし所で止まれなかった。正義から逸脱したから狂っているのね」
「そういうこと」
「貴方と私は?」
「今のところそう呼称されていないところを見るに、少なくとも落とし所に踏みとどまれているんじゃないかな」
「単色が好きな私でも?」
「単色が好きな君でも、だ」
そう言うと彼女はふふ、と笑みをこぼし、それからグラスを満たしていた緑の液体を最後の一滴まで飲み干してみせた。
『ハロー、ハロー、こちら応答願います』
「この放送は、いつまで続くのだろう」
「さあ、私が生まれた頃からこの放送はずっと流れているから」
「君が? そうすると少なくとも十数年はこのままなのか」
「お世辞は嬉しいけど、それなりに歳は取ってるの」
女性は目を細めて首を傾げてみせた。
「この放送は録音されているものをずっとなのかな」
「どうだろう、未だに何処からこの放送を拾ってきているのか分からないそうよ」
スピーカー越しに聴こえる声に僕は耳を傾ける。
「何処かの誰かが何かを伝えたくて発信したのかな」
「どんなことを?」
「さあ……」
彼女はおかわりを頼んでから、ふう、と溜息を一つついた。
「ねえ、もしこの放送主の言葉に応答できていたとしたら、どうなっていたと思う?」
「さあ、少なくとも、これは何かの挑戦なのだろうね。誰もが出来ないと思っていた事をしようとした結果がこの発信だとしたら、彼は褒められるかもしれない」
「でも誰も応答しなかった」
「きっと、彼は落とし所で留まれなかったんだろうね。だって僕らは応答しなかったんだから」
「私達が悪いわけじゃないわ。だって、ねえ……」
『ハロー、ハロー、こちら応答願います』
声をかけられたバーテンダーは困った顔をして、それから赤い液体の注がれたグラスを僕の前に置いた。
濁った色をした真紅がグラスの中で揺れている。
「この言語、まるで解読しようがないんだもの」