「呼吸の仕方」
切れかけの街灯の下で俯くようにしてその男は立っていた。
足の形がはっきりと分かるくらいの黒いスキニー、黒いコートを身につけた、全身スッポリと筒に入っているみたいに黒尽くめの男だった。
なんだか気味が悪くて横を通り抜けようか僕は暫く悩んだ。迂回しようと思えば出来たが、恐らく普通に帰宅するよりも二十分は到着が遅れる。真っ直ぐ突き進めば到着する道を辞めて、手入れの行き届いていない険しい山道に切り替える必要があるのだ。夜も深いこんな時刻にそんな迂回案を選ぼうとは流石に思えなかった。
僕はウォークマンのボリュームを上げ、肩提げ鞄を背負い直すとコートのポケットに両手を突っ込み、視線だけは男に向けつつ、なるべく距離を空けてその横を通りすぎようと思った。
ごくりと生唾を飲み込み、一歩足を踏み出した。
結果として言えば、特に何も無かった。
チラチラと彼の事を盗み見つつその横を通り過ぎたが、彼は相変わらず街灯の下で俯いたままだし、身動きを取る様子も無かった。よく見ると髪だと思っていた黒はニット帽で、点滅する光の中で唯一見えた肌の色は顔だけだった。その顔も俯いているせいでよく確認出来なかったのだが。
なんにせよ取り越し苦労かとほっとした僕は、ポケットの中で握りしめていた拳を解くと、一つ息を吐き出した。キンと冷たい外の空気に冷やされてそれは滲むように白色に変わると、チラチラと星の点在する頭上に立ち上ってやがて消えていった。
「なあ、君の吐く息はなかなか白いんだな」
少し高めの、掠れた声が聞こえた。背後からだ。
僕の脳裏で黒い男が顔を上げる。そしてそいつははっきりしないボヤケた顔でニヤリと僕の背中に向けて笑みを浮かべていた。立ち上って消えていく僕の息を眺めて、彼はとても嬉そうに笑っていた。何故だかそんな光景が過ぎった。
慌てて振り返ってみたが、街灯の下に男性はもう居なかった。点滅する街灯は、その存在を最後まで全うしようと誰もいない車道の脇を精一杯照らしていた。
移動したのかと思って周囲を確認したが、結局黒い男の姿は何処にも無かった。足音さえ無かった。いや、イヤホンをしていたのだからそんなもの最初から聞こえるわけが無いのか。僕は両耳のイヤホンを取ると周囲を見回す。
遠くでタイヤの擦れる音が響いている。
風で山の葉のこすれ合う音がさらさらと聞こえる。
すぐ傍の一軒家のシャワーの音がする。
一歩踏み出した足元で小石達がコンクリートに押し付けられてじゃりり、と悲鳴を上げた。
ボリュームを上げたままでは聞こえなかった音達が忽ち帰って来た。
ふと僕はもう一度息を吐き出してみる。
僕の吐息は真っ白い煙になると、やがて頭上に立ち上ってまた消えた。夜空には星が幾つも輝いていて、何一つ表情を変えずに煌煌とその光を以って僕のことを見下ろしている。
なあ、君の吐く息はなかなか白いんだな。とハスキーがかったその声は言っていた。僕の息はそんなに白いのだろうか。他の人より? この吐息の白さに基準でもあるというのだろうか。白ければ白いほど良いのだろうか。それとも薄いほうが偉いのだろうか。
次第に僕は、他人と自分の息の白さがどれだけ違うのかが不安でたまらなくなり始めた。
ーー幼なじみのアイツは僕より白いのだろうか。
ーー学校でよく絡むアイツは? アイツには勝っている気がするが、実際はどうだろうか。
ーー恋人はどうなのだろうか。もう二年は一緒にいる彼女は……? できれば僕と同じくらいの白さであったら良いのに。
ーー母は? 父は? 弟は? 他と比べて僕はどれくらい息が白いのだろうか。
考えだすと、途端にそれは不安に変わった。自分の息がどれくらい白いのかという事よりも、他の人とどれくらい自分の息の白さが違うのかが気になって仕方が無くなった。
他の人は僕の息の白さを見てどう思うのだろう。あんな出会った事も無い男性に言われるくらい白いのだ。他の人が気付かない筈が無い。皆僕の息の白さを見て笑っているかもしれない。いや、好意的に受け取られているかもしれない。彼はただ自分の息がやけに白いと言っただけだ。
別に嫌悪感を抱いているような口調ではなかった気がするし……。
それはまるで池に落とされた石のように沈殿していた汚泥を巻き上げていった。あの男の言葉で次から次へと自分がまるで普通では無いような感覚が湧き上がり、そして泡のように膨らんでぱちんと割れていく。
僕は他人からどう思われているのだろうか。
僕の吐くソレは相手にどう見えているのだろうか。
僕はもしかして模範的な呼吸の仕方が出来ていないのではないか。
そうして不安に見舞われた後、手に握りしめていたイヤホンを見て、あ、と思わず声を上げてしまった。途端にあの声の出処がまるで分からなくなってしまった。
ーーこれは、この石は、もしかして僕自身の投じたものなのか?
答えを知ろうにも、あの黒い男はもう居ない。