「鏡の懺悔」
ある日頭にスッポリと仮面を被った男に出会った。
唐突に目の前に現れたので悲鳴を上げようか迷ったが、既のところでそれは避けられた。
男は私に気づくと腕組みをして暫く考えた後、私の前までやってきて、少し話がしたいのだがいいだろうかと相談してきた。なんだか君になら懺悔できる気がするのだと、彼はそう言って頭を深々と下げた。
私はどうにも悩んだが、やがて彼に肯定の意を示すと、行きつけのバーがあるからと彼に勧めた。顔も素性も知れない男に付き合ってやるのだ。場所くらいは私に都合が良くないととてもフェアではない。
初めは断るだろうと思っていたのだが、彼は構わないと一言だけ告げるとバーはどこにあるかを尋ねた。私は男の素直さに戸惑いながらも、彼を横に連れて大通り、それも人通りの多い道を選びながら彼を案内してやった。
大通りの奥の路地に足を踏み入れると、街灯すら見えない暗闇の奥に点る灯りへと歩いて行く。本来ならこんな男を連れてバーに行くことなどありえない。
だが今は都合が良いのか悪いのか、私にはそういった類の異性の付き合いが無いし、何より今日は友人に約束事をすっぽかされたばかりでどうにも具合が悪かった。とどのつまりなんでもいいから愚痴相手が欲しくて堪らなかったのだ。
バーテンダーも良いのだけれど、彼はとても話とお酒を作るのが旨すぎて、気が付くといい気分にさせられてしまうのだ。時には鬱憤を全て溶かしてもらうのではなく吐き出したい時だってある。
その操に男はとてもうってつけだったのだ。
そしてもう一つ、これは出会った瞬間に酷く興味を惹いた事だ。多分これがなければ私はバーテンダーに鬱憤を溶かしてもらうことで我慢しただろう。
ーー男の仮面は、正面から後ろまで全て鏡面で、周囲を満遍なく映しているのだ。
・
人の顔を石膏で型どりしたみたいに現実味のある仮面を全て満面無く鏡面状に仕立てあげたそれを、もうかれこれ五年は身につけていると男は言った。
五年。それも自分の顔を隠し、更には周囲を映し込むそのアイテムをそれだけ長く愛用するのは余程の理由でも無ければ無理だろう。私の言葉に男は頷いた。それだけの事があったのだと、そういった意味での肯定だろう。
敢えて奥の個室を頼んだが、顔見知りのバーテンダーがわざわざこちらにやってきた時、彼は男の仮面を見て酷く怯えた顔をしてみせた。
「なんだか不思議な仮面を付けていますね」
接客をする際に見せてはいけない顔をどうにか誤魔化したくて口にした言葉に、男はいえ、気にしないでくださいと告げた。先程と言い会話を交わしてみるとそれほど気性が荒いわけでもなく、コミュニケーションに欠落があるわけでもない。至って普通の、いやそれなりに人との応対に手慣れた感覚を持っている。
バーテンダーはホッとするとお詫びにそれぞれに飲み物を、と言って個室を後にしていった。彼が離れていったのを見届けると、男はぽつぽつと喋り始めた。
元々男は他人と会話することがとても苦手だったらしい。相手の顔を見続けているとどうにも気分が落ち着かず、感情のバランスも保てない。振られた話題に対してキツく締めた蛇口のように押し黙ったかと思うと、少しでも知識のある話題になると決壊したダムのように言葉が滂沱して相手を引かせてしまう。
更に興味の無いものからあるもの全てに対して表情が露骨に出てしまうようで、結果的に好意と嫌悪をはっきりと抱かれてしまうようになり、次第に篩いに掛けられた粉のように男に好意的な印象を抱く人間は極小数となっていったらしい。
そうやって孤立していく時に、ふと思い立って男はこの鏡で出来た鏡を思いついたらしい。
全くもって人とは単純なもので、顔を隠し、更には相手の顔が映るそれは意外にも効果的で、仮面を通してなら相手の欲しい言葉を緊張せずに的確に探し、口に出すことができるようになったという。結構なことだ。
男は、こうやって他人の顔が映るからこそ、まるで自分自身と話しているようになる。そして返ってくる意見を彼好みにすることで誰もが男に好意的な印象を持つようになった。それ以来男にとって仮面は必須の物となったらしい。
それだけなら特になんでもないいい話だった。目の前の男は良い人になれたし、周囲も敵がいなくなった。めでたしめでたし。
「で、何が懺悔なの?」
バーテンダーの運んできたカクテルを一口飲んでから私がそう言うと、男は俯いてから、自らの仮面をそっと左手で撫でた。私の顔が思い切り映っているからか、なんだか自分の肌を触れられているようで少し嫌な気分になった。
そうしているうちに、分からなくなったのだと男は告げた。私が困惑した表情を向けていると、男は若干開いた仮面の口からカクテルを器用に飲むと、小さく息を吐き出した。
暫くして、クラスメイト達が一斉に自分の名前を忘れ始めたのだという。
一対一で会話しても、授業で教師が名指ししようとしても、一瞬だけ名前を忘れ、それから思い出したように自身の名前を口にするようになったらしい。
その時点で男は不安を覚えたが、もうこの相手にしてもらえる感覚を捨てる気にはなれない。もう一度コミュニケーションの不安定な人間には戻りたくなくて、結局そのまま放っておいたらしい。恐らくここでやめておけば、こんな懺悔をするような人生を送る必要は無くなったと男は言った。
彼はとうとう名前を覚えてもらえなくなった。いや、忘れられたと言った方が正しいのかもしれない。
どれだけ会話が弾んでも、どれだけ周囲の輪に組み込まれても、遊びに誘ってもらえても、男の名前を口にできる人間はいなくなったそうだ。
それでもこの居場所が守られれば……と思っていたが、男にもとうとう限界が来た。
それはふと便所で用を足した後、鏡に目を向けた時の事だった。
周りの何もかもがハッキリと鏡面に映っているのに、自分の顔だけが合わせ鏡となって顔の奥へと消えていく。それだけ移動しても、どんな角度から映っても、自分の姿が鏡に映らない。
それから男は思った。今まで自分の言葉で喋った事がどれだけあっただろうかと。他人の顔を映して、他人の好意を掬い取って、その結果得られたものが途端に綺麗に崩れ去っていったのだという。
怖くなって男は教室に戻ると、クラス中の生徒に自分の名前を聞いて回った。だが皆困った顔をするばかりで、結局答えられた生徒は誰も居なかったという。
ならばと教師に当たってみたが、反応は生徒とまるで同じものだった。そればかりか名簿の名前もロッカーの名札も、何もかもがすっぱりと消えてなくなっていて、男は自分の名前が消失していっている事に酷く怯えたという。
最後に帰宅して、男は家族に恐る恐る尋ねたそうだ。
「ねえ、僕が分かる?」
そこまで話し終えると、男はカクテルをまた啜った。私は全てを聞き終えた後、ふと先日事件があったことを思い出す。
父親も母親も子供も全て軒並み殺された一家惨殺事件。詳しくは知らないが、今朝なんとなく見ていたニュースのワンシーンが思い出される。一軒家に黄色いテープとブルーシート。多分警察やレポーターも沢山居たと思うけれど、そこまでは覚えていない。
男の鏡に映る私の顔は、明らかに何かに気がついた顔をしていた。
男はその通りです、とだけ告げると、カクテルを飲み干して小銭をテーブルに置くと、席を立った。
誰も僕を知らない。誰も僕自身を見てくれない。何より、僕の事を僕自身が分からない。僕はどんな人間であったのか。他人に合わせている前のあのコミュニケーションの不器用な自分すら今は思い出せない。男は寂しそうに言った。
「ねえ待って」
私は私の顔の映った男を追うように立ち上がると、尋ねた。
「なんで、私にそれを話したの?」
男は暫く天井を見つめて、それから首を傾げて言ってみせた。
「貴方は、私を見てくれましたから」
それだけ言うと、男はバーを後にして消えてしまった。多分、もう追っても見つからないだろうと思って、私は再び座り込むと、カクテルを口にしてそれから深く溜息を吐いた。
・
カクテルの傍で突っ伏していると、バーテンダーがやって来て向かいに座った。
「随分へんてこな方を連れてましたね」
「見てくれたってだけで私に胸糞悪いこと告白して消えるとか、酷いものよ」
空のカクテルの隣に別のカクテルを置くと、口直し、と彼は微笑んでみせると席を立った。カウンターに来たかったらどうぞ、と彼は優しげな口調でそう言うと私に背を向ける。
「ねえ、今朝の殺人事件のニュースって知ってる?」
バーテンダーは振り返ると、腕組みをして小さく唸った。
「酷い事件でしたね。一家惨殺で、犯人はまだ見つかってないそうですよ」
「一家? 全員?」
彼は頷く。
「夫婦も、一人息子も、一緒に暮らしていた祖母も全てだそうです」
それだけ言うと気分悪そうに顔を顰めて彼は行ってしまった。
私は背もたれに身体を預けると、先程の仮面以外を思い出そうとしてみる。だが、どうにも思い出すことが出来ない。あれだけ長時間彼の話を聞いていたのにも関わらず、彼に関する痕跡が一切記憶に無いのだ。
気持ち悪かった。
この世の中にそんな不可思議な現象があり得るものだろうか。
そして事件の概要だってそうだ。あれが真実なら、彼の語った懺悔は一体何だったのだろうか。
「鏡になった男、ねえ……」
カクテルを飲み干してから私は立ち上がると、カウンターに向かうことにした。
彼の懺悔が事実にしろ、嘘にしろ、彼はきっとこれからも同じ道を歩むのだろう。
自分の存在を認めて欲しくて、自分が誰であったのかを思い出したくて……。
カウンターに座ると、バーテンダーが再びやってきて、私の好みのカクテルを作り始めてくれた。
「ああ、そういえばさっき裏で色々確認してきたんですよ」
「事件について?」彼は頷いた。
頷いてから、こう言った。
「どうも証拠が無さ過ぎて、迷宮入りになるかもしれないって」
ふうん、と私は言ってから、サイドメニューを彼に頼んだ。
多分、彼はきっといつまでも鏡でい続けるのだろう。