6 病院方面
白衣にガスマスクの集団が手にカナリアの入った鳥篭を持ち、一列に並び病院方面へ向かうのを見た。大彗星がもうじき到来するのでその尾に含まれる毒に対する対策だ。写真を撮ろうとした民衆に向かって集団が発砲して一時的に騒ぎになった。私は面倒そうなので映画館に戻った。
■■■は点灯夫を続けていたが、自宅が盗聴されているといってやめたがっていた。新しく雨乞い師の仕事の募集があるという話だ。それは軍閥成金の■■子爵の庭園でずっとブリキのタライを叩いているという近所迷惑な仕事だ。
あるとき、月が二つになる日があった。片方は三日月で灰色だった。■■■は、「また停滞の時期が来たかもしれない」と言った。「前の停滞も月が二つに分裂した日のことだったから」彼と同じ年齢になることができるかもしれないと少し期待したがもしかしたら追い抜いてしまうかもしれないという危惧もあった。
ある土曜日の朝近所で殺人事件があった。三本のナイフが胴体に突き刺さった死体だ。容疑者として近所に住む軍人の■■少尉(あとからニュースで彼女の階級を知った)が疑われた。ナイフは軍用のもので急所を明確に貫いていたからだ。相変わらず傷は塞がっていなかった彼女と憲兵が口論しているのを通勤途中に見た。「やってないわよわたしは。昨日は一晩中消毒をしてたんだから。消毒を! 膿んでいないでしょうわたしの傷は! そういうところが杜撰だというのよ! 血税はドブに捨てられてるんじゃないの! せめてもの救いは何処!」と怒鳴っていた。
大彗星が到来するときラジオもテレビも機能しなくなるという噂を聞いた。その隙を狙って演説をしたがる革命家志望は必ずいるだろう。そしてそいつは無残に射殺されるのである。私は怪談ばかり流すチャンネルを発見して大抵ぼんやりと聞いていた。墓場で人魂を見たというだけの話が延々三時間。砂浜でこちらを海に引きずり込もうとする幽霊の話を友人の友人から聞いておびえるというだけの話。そうするうちに彗星は通り過ぎてしまったらしい。予定より早かった上にラジオも停止しなかったので気づかなかった。
夏のさ中で都市のあちこちの街路樹が異常に繁茂し緑色の天井が出来ているような状態になっていた。造船所跡は完全に草木に埋没していた。といっても都市が涼しくなるわけではなかった。次第にテロルが沈静化していったが反抗者が消えたのではなく地下に潜っただけだろうと分かっていた。ある日、影のような放送たちが異様な数に膨れ上がり人々はそれらと木漏れ日の隙間を汗を拭きながら歩いていた。大彗星の後遺症かもしれないと思った。
私が考えているのは日々多くの人々の頭脳や内臓にごく小さな機械を埋め込みそれを同時多発的に作動させ正気を失わせるという手法だ。機械に関しては党にいた頃使っていた倉庫に大量に撃ち捨てられているので入手は容易、とはいえ数が足りなくなることは考えられるので日々グレープフルーツの中からスプーンでかき出して補充するしかない。
そして埋め込みだがひとつひとつ刃物を使って入れていくしかない。誰かを雇うのもいいかもしれない。口の堅い人間に限る……少なくとも人口の四割に機械を埋め込みたいところだ。憲兵から武器を奪って彼らを殺害したり爆弾で市議会を吹き飛ばすのとは一味違うことをしたい。当然ながら。青い鳥を頭の中に飛ばせるのである。実行はいつになるか分からない。
日常は退屈だった。起床、窓を開ける。隣の団地の窓からは毎日全員がこちらを見ている。軍服を着る。眼鏡をかける。拳銃の手入れ。映画館へ向かう。路面に血痕。それは灰色。人々の眼球もまた灰色。人為的に腐敗の速度を速めた昆虫の死骸が駅の階段に転がっているがそれの意味するところを知るものはいない。
ホームには犬小屋、中には大人の上腕ほどの芋虫が三体のたくっている。排泄物か唾液か分からない白い糸を引いている。突然一人の子供が犬小屋ごとそれを線路に投げ捨てた。それはひどく快活な挙動だ。電車が滑り込んでくる。右目から血をたらしたままの成人女性が嘆息してそれを見送った。日々、憂鬱が潤滑剤。線路の軋む音は毎日同じで少しの変わりもない。それはコマーシャリズムによって高官たちと密輸業者たちが革命を起こしたかつての皇国と同じく。そのずっと前、黄金時代の遺産である鉄の船に乗って我々の祖先は群島へ入った。群島はすべて焼き尽くされ獣たちの墓場となった。
眼前に分裂した方の月みたいな灰色の血液が飛んだ。誰かを敵対者と認識した老人が刃物で刺したのだ。電車は走り出す。私は何事もなく疲れている人々を見て彼らの頭部に付着した葉の断片を数える。百五十七まで数えて駅に到着した。この車両は冷房が効きすぎていた。駅を出る。生ぬるい風。
私は職場の映画館に入る。
客席は満員だった。