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恋はあせらず

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 この国では、春は別れと出会いの季節なのだという。昨日聞いていたラジオパーソナリティのたわいない話の最後はそう締めくくられていた。
 ふと空を見上げると、本に載っていた時期よりもいくぶんかはやく咲いた桜が散りはじめ、もう葉桜が少しずつ芽吹いていた。アスファルトに沈んでも美しさを保った花弁は、春雨と靴底によって押花と化した。それを踏みつつ、夢野魔莉は慣れないブレザーの袖をもてあましていた。
 魔莉が学校の近くのワンルームマンションに引っ越してきたのは、ほんの一週間前のこと。がらんどうな部屋にたくさんの本とそれをいれる本棚、テーブルとラジオとCDプレイヤーとベッドをおいて、いちおう生活できる体裁は整えた。だが、三食カップ麺をすすっているのはちゃんと「生活」しているとはいいづらいのかもしれない。
 故郷では、もっぱら魔莉はでてくるものをすすっているだけだった。ここでは、そう簡単に主食は手に入らないと、出かけの時、魔莉の母は言っていた。どうやらヨーグルトやカルピスが代用品になるらしいので、ためしにスーパーで買ってみたがそれは見た目だけの話で、味はまったくといっていいほど違うものだった。
 困った魔莉は、軟弱だと自嘲しつつ母に助けを乞うた。すると「あたりめ」なる食べものと一緒に食べると似た味になると教えてもらったので、さっそく魔莉は近所にあるコンビニのおつまみコーナーで「あたりめ」を買い、ヨーグルトにつけて食べてみた。なるほど、たしかにあの故郷の味を思いださせるにおいがする。
 魔莉は一度ためしたあと、その解決法を試みようとはしなかった。なぜなら、においは酷似していても、いかんせん食感が別物だからだ。あれは噛みちぎるような代物ではない。それに味もいうほど近くはなかった。
 しかしそうも言っていられない深い事情が魔莉にはあった。なにせその主食を自給自足し、そして一人前になる修行をするためにこの国に来たのだから。母と同じ国で修行することは、暮らしをするにおいていろいろなアドバイスをしてもらえるのと同時にハードルを上げることにもつながる。母は早熟で、同年代とくらべてもテクニックが段違いだったというから、なおさら娘である魔莉にかかるプレッシャーは強くなる。
 魔莉は同じ通学路を歩く、入学式へ向かう同級生の顔を窺った。女子のレベルは、全体的にそれほど高いようには思えなかったが、案外ポテンシャルは高いかもしれない。それに男子のなかにはデブ専やブス専とよばれる特殊な嗜好をもつ人もいるらしい。要注意だ。
 校門をくぐると一年生はとりあえず体育館に集合となった。事前の報告によると、魔莉はC組。男女比はどのクラスもほとんど均等だった。
 それから二時間、魔莉は睡魔と激しい攻防戦をくりひろげた。習得中の言葉でこねくりまわしたあまり中身のない話をされるのは辛いものだった。結局、同族との戦いに魔莉は勝ち、なんとか入学式で寝るという失態を犯さずにすんだ。
 式が終わると、眠気とばしに魔莉はトイレにいって顔を洗うことにした。母も通った学び舎は、木造特有のにおいが木の隙間から常時じわりじわりと漏れだしていた。廊下に足をつける度に床は軋み、その音は故郷の夜を思いださせた。
 洗面台の前に立って、魔莉は自分の顔をじっとみた。ややウェーブのかかった髪はその縁を肩にかけて広がり、カーテンのような滑らかな光沢をたたえていた。ぱっちりとした目と適度に柔らかく肉をつけた頬は愛らしさ以外の何物でもなく、純粋なかわいさを否応なしに周囲にふりまく。
 ブレザーのボタンのふたつめがみえる位置まで身を引いて上半身を確認しても、それは非の打ちどころのないものだった。素肌のように制服を着こなして、スタイルも絶妙なバランスの上にある。
 このまま最終下校時刻まで自惚れて、鏡のなかに身を滑らせて溺死しても許されるほどの美しさを、魔莉はもっていた。そしてそれを、魔莉は物心がついたときから自覚していた。自分は男を誘惑し、翻弄する存在であること。また、もうひとつの事実――男は美しいものに誘惑、翻弄される存在であることも心得ていた。
 どれほどの時間、トイレの洗面台の前に立っていたのだろうか。魔莉はチャイムの音で現実に呼びもどされた。乱暴に蛇口をひねって水をすくい、顔を洗ってすばやく身なりを整えると、魔莉はハンカチで額に付着した水滴を拭きながら廊下をパタパタと走った。
 魔莉は走りながら、春の陽気と自分の美しさに嵌ったことを悔やんだ。ろくに教室の位置も確認せずに、体育館にいちばん近いトイレにはいったせいで、自分がいまどこにいるのか把握できずにいたのだ。
 これがシメンソカ、いやバンジキュースという状況なのか。先日寝転びながらめくっていた四字熟語辞典でみた言葉を思いだしつつ、魔莉は廊下を揺らしながら校舎をさまよった。
「あれ、教室の場所わからないの」
 そこに声をかけたのは、魔莉のしらない男子生徒だった。内履きのラインの色は魔莉と同じ緑色。一年生だった。
「うん、そうなんです」
「何組?」男子生徒も同級生だということに気づいたのか、気軽に言葉をかける。
「えっと、C組」
「じゃあ俺と同じだ」
 相好をくずすと男子生徒は階段の手すりに手をのせた。
「一年の教室は三階だよ」
「あ、気付かなかった」
「ひとつ上の姉ちゃんがさ、ここに通っているから」
「そうなんだ……」
 男子生徒のうしろで階段を一段一段ふみながら、魔莉は母の言葉を思いだしていた。
 ――もし、修行をする相手が決まらないなら、最初に話した異性にしなさい。いやだったら変えればいい。ただ、最初に話すってことは、それなりの因果がその人とのあいだにはあるということに違いないから。
 カモの子のすりこみのようだが、たしかに母がいうように、その男子生徒にたいして、魔莉はなにか運命めいた、不思議な感覚を覚えずにはいられなかった。
 ここに行き着くまでの過程をふりかえっても、たまたま投げた石の生んだ波紋がぶつかりあったようなものだった。
 魔莉はカバンの持ち手を強く握りしめた。
 この人に、決めよう。そう決心した。
 そんな内心を察するわけもなく、男子生徒はだるそうにショルダーバッグをぶらさげている。
 魔莉はそのバッグが覆い隠す背中にかぶさるように男子生徒に体重をかけて、ふらつかないように手を首に回した。
「え、ちょっ、えっ?」
 表情は窺えない。誰もいない廊下は、かろうじて各教室からざわめきがかすかに聞こえるだけだった。
 悪戯気な笑みを浮かべ、魔莉はくちびるを男子生徒の右耳に寄せた。そのそぶりを、気恥ずかしさか動揺のせいかわからないが男子生徒はみようとはせず、ただ穏やかな光がさしこむ廊下に視線を固定したまま、蝋人形のように体を硬直させていた。
「ねえ、私の修行につきあってくれる?」
「……修行?」
 返す言葉を探しあぐねているのか、男子生徒は指をかすかに動かすばかりで、なにも言おうとはしなかった。
 まあ、当然よね。
 魔莉は密着させていた背中から、勢いをつけて離れた。よろめく男子生徒を追いこして、頭ごしに声をかける。
「返事まってるからね」
 魔莉が教室に駆けこんだほんのあとに、本鈴が鳴った。
 男子生徒は、ショルダーバッグがずり落ちそうになっているのにも気づかず、依然として十秒にも満たない出来事を頭のなかで整理できずにいた。
「おっ、何やってるんだ。矢川の弟」
 ふたたび歩みを進めることができたのは、ヒールの踵の音を小気味よく響かせて歩く新津に出席簿で叩かれたあとだった。
 C組は新津が「静かにして」と言うまで雑談が止まなかった。新津の陰に隠れるようにして矢川英二は教室に入り、空いていた席に座った。バッグを机の脇にかけて一息つくと、背中をつつかれた。顔をみなくても誰だかわかる。小学校からの顔なじみである湯田だ。
 名字順に並んで二人組をつくると、きまって英二は湯田とペアになった。そのおかげでいまではよく話す間柄である。
「英二、いきなし遅刻か」
「うるさい、家族みんなで大寝坊したんだ」
 湯田は声を殺して笑った。必死に声量を我慢したので、喉の奥で鳥が鳴いているような、耳障りな笑い声になった。英二は「なんとでも言え」と眉をまげて頬杖をついた。
「えぇっと、みんな、とりあえず入学おめでとう。私はC組の担任になった新津優です。今日は入学式があったので頭の先から爪の先までばっちり決めているけど、明日からはだらしない恰好になるよ」
 新津は白いチョークで自分の名前を書きながら、簡単な自己紹介をした。大学では何を専攻していたとか、好きな食べ物とか、個人を特定しづらい、あいまいな情報を並べた。
「先生って何歳なんですか」男子がふざけた声色で聞いた。
「ああ、三歳」
「俺らより年下じゃないですか」手をたたいて多くの生徒が笑った。
「彼氏とかいるんですか」冗談半分で質問する女子には
「そうだね、星の数くらいいるよ」と十割の冗談で返した。
「じゃあ出席確認するから、呼んだらちゃんと返事してよ。安宅、大見……」
 自分の名前がよばれるまで、英二はクラスをぐるっと見回した。知っている顔はせいぜい一桁で、あとは他の中学校から進学した生徒だった。
「……矢川、おい、矢川の弟」
「あ、はい」
 新津の二度目の呼び声で英二は返事をした。笑い声があちこちから聞こえた。「まだ寝ぼけているんじゃねえの」と湯田はからかった。
「もう春休みは終わったぞ。次、湯田。夢野」
「はい」
 英二はふたつ後ろの席から聞こえた声に、びくっとしてふりむいた。ついさっき、耳元で囁いた声だったからだ。夢野というのか、同じクラスとは聞いたけど。
 目が合うと、夢野と呼ばれた女子は英二に微笑みかけた。慌てて英二は視線をそらした。そらした先にいた湯田に、いぶかしげにみられた。
「どうしたんだよ、英二」
「あ、いや、何も」
「夢野さんか。あの人、むちゃくちゃかわいいよな。すごい清楚そうだし」
 清楚、か。英二は廊下でのことを思いだし、ため息をついた。あれが清楚な女子のすることなのか。
 そもそも、やはり自分は寝ぼけているだけで、ただの白昼夢だったのだろうか。
 悩みながら英二は外を見た。誰もいない校庭は、やけに広いように思えた。
「今日は何もないから、これでおしまい。でも出席とっただけじゃ名前が憶えられないから、自己紹介してもらいたいんだけど、いいかな」
 生徒はみな乗り気だった。これがないと年度最初のホームルームという感じがしないのは、共通の感覚だった。
 英二はこういう時のために、フォーマットを持っている。矢川英二です。ロック歌手に名前が似ていると言われます。だけど音楽はなにもやっていません。そんな感じですが、一年間、よろしくお願いします。ちぐはぐだけど、一定のウケは取れて滑らないあいさつ。
 そのあいさつを終えて、湯田の騒がしい自己紹介が終わると、魔莉の番になった。
 静かに椅子をひくと、玉を転がすような、それでいながら練絹のような上品さをもった声で短く自己紹介した。
「夢野魔莉です。その、外国暮らしが長く、あまり日本には慣れていないので、いろいろ教えてもらったら嬉しいです。よろしくおねがいします」
 たどたどしく言葉を並べて最後にぺこりと頭を下げると、すだれのように揺れる髪を耳にかけて席に座った。
 一瞬、拍手をするのを忘れてしまうほどだった。あまりたじろぐ性分ではなさそうな新津も、どぎまぎしているようにみえた。
「……あ、じゃあ明日は身体計測だから、体操着持ってきてね。はい、解散」
 新津がそう言っても、みなは立てずにいた。魔莉がつくりだした、えもいわれぬ雰囲気が、魔法のようにこの教室をつつんでいた。
「タツ、帰るか」英二は例外にはみだすことなく、魔法にかかった湯田に声をかけた。
「あ、ああ」湯田はおおきな音をたてて席を離れると、リュックをかついだ。
 教室はなおも異様な空気のなかにあった。その空気をつくりだした当の本人は、なにごともなかったような顔をして、出席をとったあとに配られたプリントに目を通していた。
 ふたりが教室をでるとき、またしても英二は魔莉と目が合った。英二に目を合わせる気はなかったが、なぜか合ってしまった。もしかしたら、潜在的にはかなり意識しているのかもしれない。
 魔莉にそんな気はあるのだろうか。ないならば、あんなことを突然しないだろう。いや、でも、外国での暮らしが長かったというから、もしかしたらああいう習慣がある国にいたのかもしれない。急に異性にうしろから抱きついて、「修行しよう」なんていう習慣が……。
「何を修行するってんだ」
「へ、何か言ったか?」
「いや、ただのひとりごと」
 英二はショルダーバッグを担ぎなおして、少しだけ歩くスピードを速めた。
「それにしてもさ、夢野さん」
「え、タツも修行に誘われたの」
「え、なんのことだよ」
 湯田は訳がわからないという具合で眉をひそめたが、「思い違いだった」という英二の返答で納得したのか話を続けた。
「あの人、なんかオーラというか、全然違うよな。ルックスも抜群だし、たどたどしいところも高ポイントっていうかさ」
「さっきから夢野さん夢野さんって、なんだよタツ。夢野さんにでも気があるのか」
 もちろん冗談のつもりで聞いたのだが、湯田は即答しなかった。英二は出所のわからない不安に駆られた。
「え、何。お前本気なの」
 おどけてみても、湯田はノッてこようとはしなかった。それどころかいつもは締まりがない顔をシュッとさせてみせた。まるで、答えは察してくれと言わんばかりに。
「まあ、なんというか、英二の志野さんに対する気持ちがわかった気がする」
 湯田はそれを、返答のかわりにしたようだった。
 英二はすぐにイエスだとわかった。あまり友人同士で、触れないようにしている類の話だ。
「そうか、わかったよ」
「英二はどうなんだよ」
「どうなんだって言っても、違う高校に行ったわけだし、諦めはついているよ」
「でも、アドレスはもらったんだろ」
「そりゃそうだけどさ……」英二は困ったように、視線を宙に放り投げた。
 湯田が唐突に会話に混ぜてきた志野というのは、英二が中学生の時に思いを寄せていた志野彩花のことである。思いを寄せていたといっても、他の女子よりも少しばかりよいとみていただけで、特に近づこうと努力したことはなかった。携帯電話のアドレスだって、卒業式のあとの高揚感にまかせて聞いただけで、その際、特別な理由は添えていない。
 志野の進学先は私立の女子高ときいた。それを聞いて、ただ胸をなでおろしただけの自分が情けない。
「英二、女子しかいないからと思って、安心しているんじゃないだろうな」
「いや、そんなこと」図星だったので、ぎこちない返事になった。
「女子高のほうが、案外そういうのってガツガツいくって聞くし、アドレスごときで安心しちゃ危険だと思うが」
「いいよ、俺のことは。それよりもタツのほうだ。一目惚れなんだろ。なあ、そうなんだろ」
「悪かった。ごめんな、英二。このことはまたメールでもなんでも、ともかく別の機会にしよう」追及されたくないようで、湯田は強引に話を切りあげた。
 己の欲せざる所人に施すことなかれ、だ。英二は心の内で湯田をたしなめた。
 場所がまだいまいち把握できない下駄箱から、まだ数えるほどしか履いていないローファーをだした。具体的には、靴屋での試し履きと、今日の登下校の三回。
 湯田はスニーカーだった。成長期なのか、一年前新しいのに買えたと思ったらこの春にまたひとまわりおおきなサイズを新調していた。
「樹。矢川と同じクラスだったんだ」
 ふたりが内履きをいれるのを見計らったように、下駄箱の影から女子が顔を覗かせた。
「梅田、D組だっけ」
 湯田がいつもの調子で言う。さっきまでしていた話を、すっかり忘れてしまったみたいに。英二は自然と遠慮するように携帯電話を取りだし、操作しているフリをした。湯田ではなく梅田に遠慮したのだ。
 梅田沙恵は、湯田と英二よりも長い付き合いがある。家が近所だから、家族ぐるみで仲がいいと聞いた。それは梅田が湯田を下の名前で呼ぶことからわかる。他の女子は湯田を誰も「樹」なんて呼ばない。
 メガネをベストの裾で拭きながら、梅田は湯田に話しかけた。英二は傍らで聞く気がなくても、自然に会話の内容を耳にはさんでいた。
「樹、クラスどうだった」
「知り合いはほとんどいなかった。同じ中学のやつも、英二をふくめて五人くらいだったし」
「D組もそんな感じだったよ。でも友達がけっこう一緒だったからよかったかな」
「そうだね。入学したばっかだし、まわりが知らない人だらけだと、緊張するもんな」
 梅田は湯田が言葉を返すと、いちいち小さい子供のように、おおげさにうなずいた。
「かわいい子とかいたの? C組には」
 しばらく新しいクラスの話を続けたあと、梅田は確認するようにその質問をした。
 それは新年度になると、きまって湯田に聞く質問だった。英二は知っている。小学校のころから、メガネをかけてもふたつ結びをやめて髪を伸ばしても、それだけはかわらないことだった。
 湯田もそれに、毎年同じ返答をしていた。
 どうだろ、そういうのあんまり興味ないし。
 面倒だとか、ごまかしとかじゃなくてそれは本心だったのだろう。
 ただ、今年は違った。湯田は出会ってしまったのだ。梅田はそれを知らずに、無邪気にサンタクロースを信じるが如く同じことを聞いている。
 数秒の沈黙のあとの湯田の対応は、英二が予想したものと同じだった。
「どうだろ、そういうのあんまり興味ないし」
「だよね。樹、いつもそうだもんね」
 英二は携帯電話をたたんで、湯田に声をかけた。
「ごめん、姉ちゃんが昼飯つくっとけって」
「ああ、じゃあまた明日」
 英二は梅田が自分に困ったような笑みを浮かべたのをみて、歩幅を気持ちおおきくした。
 あの場にいるのが、苦しかったのだ。
 湯田はたぶん、梅田をただの幼馴染としてしかみていない。それ以上でもそれ以下でもなく、ただの幼馴染。
 そして湯田の気持ちの変化を垣間見たあとでは、素直にあのふたりを客観することはできない気がした。
 校門をくぐると、体育館からは姉が所属するバレー部が打つボールの音と、かけ声が漏れて英二の耳にはいった。姉は部活動のあいだ、携帯電話の電源を切っている。
 ひとりで歩く通学路でも、つい英二は背中を気にしてしまう。
 自分の友人と、その幼馴染の関係が揺らぐであろう出来事があっても、英二の脳中には魔莉の言動が否応なしに割りこんでくる。その後も英二は帰路のなかで不定期にフラッシュバックする囁きと、背中を支配した柔らかさに悩まされることとなった。
 いちばん魔莉の魔法にかかっているのは、もしかしたら俺なのかもしれない。
 路地裏で寝そべる猫と目があっても、教室でのまなざしを思いだしてそらしてしまうような自分を、英二は鼻で笑うのであった。
2, 1

  

 高校生になったばかりの英二を視線だけで弄んだ魔莉は、家路で悶々と悩む彼の心内をつゆも知らずに、鼻歌まじりで配られたプリントを読みおわり、カバンにしまった。
 あのあと、C組の生徒は我先にと魔莉に話しかけてきた。
 夢野さんっていつこっちに越してきたの?
 いま、ひとり暮らし?
 すごい髪の毛きれいだよね、シャンプーとかって何使っているの?
 他にもいろいろなことを聞かれ、それに魔莉は当たり障りのない言葉で返した。さすがに、「外国って、どこにいたの?」という質問には一瞬とまどったが。
 ひとしきり話したところで最後に女子のひとりが「魔莉って呼んでいい?」と言って、魔莉がそれにうなずき、魔莉を取りかこむ人の群れは散っていった。
 彼女はこの数分の言動をみるに、活発で、クラスのムードメーカーになりそうな人だった。もうすでに、他校から上がってきたという女子も彼女のまわりでぞろぞろと歩いている。魔莉は誰にもわからないくらいの小ささで口角を上げた。
 魔莉にとって、クラスの中心人物に好かれるのはさほど重要視していることではなかった。むしろ、母の逸話のように、次々とクラスの女子から彼氏を寝取って総スカンを食らうぐらいの豪快さがあったほうがよかったぐらいだろう。
 しかし、魔莉には魔莉のやりかたがあるのだ。みんなに好かれて悪いことはない。それに、「いい人」でいれば多少ハメを外しても許されるし、英二に近づく上で、手助けをしてくれることだってあるかもしれない。
 クラスは三々五々といった感じで、各々友人と空白の午後にむかって、好きなように計画を練っている。魔莉もさっきの女子グループに食事でもしないかと誘われたが、家のかたづけがあると言って断った。
 それにしても、この一時間程度で二度も目が合うということは、あちらは余程魔莉のことを気にしているのだろう。最初はインパクトがありすぎたかと杞憂したが、思い通りの結果となり魔莉は満足していた。しょせん男子高校生、女子の匂いと胸にはいとも簡単にひれ伏す。
 とりあえず、明日のうちに携帯電話のアドレスと電話番号は聞いとかないと。魔莉は故郷を発つ際に渡された、現代の通信手段である小さな二枚貝のようなものを開いた。母がこの国に来たときは、数字だけで連絡を取りあう不思議な機械が主流だったらしい。時代は変わるものだ。
 これは数字だけではなくちゃんと文字も打てるし、他にもいろいろなサービスが受けられる。すくなくとも、母の来たころよりは連絡が格段に取りやすい時代になっている。
 母や故郷の先輩方には、修行は質より量だからとにかく食えとしつこいくらいに言われた。携帯電話は、やはりその過程で重要な役割を果たすのだそうだ。
 だが魔莉は、最初だから誰でもいいので短期間で済ませるのではなく、最初だからこそひとりに時間をかけていろいろなことを習得したいと考えていた。それにその最初の相手と狙いを定めた英二は、みた感じ悪くはない。口当たりもよかった。スパッと捨てるのはもったいないし、英二がかわいそうに思えた。
 魔莉はクラスメイトに手を振って、廊下を上機嫌で歩いた。その日の天気はまるでこれからの楽しい学園生活を予兆するかのようだった。
 階段を下りて下駄箱にむかうとそこには男女のふたり組がいた。男子のほうは見覚えがある。英二といっしょに教室をでた、魔莉の前の席の男子だ。
 実のところ、彼は英二よりもこちらに視線を送っていた。それに魔莉はきづいていたが、あえて目は合わさないでおいた。年頃の男子は目が合っただけで意識するから、むやみに視線をぶつけないほうがよいと考えたのだ。これは母を反面教師にして学んだことだ。
 魔莉は親しげに話すふたりをみて、自分の選択は正しかったと思った。たぶんあのふたりは付きあっているのだろう。男子の気持ちを揺らがせてしまっては、母の二の舞になってしまう。あの女子は他クラスだが、敵はつくらないのが善だ。
 校門をでてにぎやかな部活動の音を聞きながら、魔莉は今後の戦略を考えていた。
 まず部活動はどうするか。これはまだよくどんな部活があるかわからないから、様子見である。もし入るならやっぱり女子らしい、見栄えのいい部活が最適なのだろうか。だとすると、ダンス部とか、そういうのがいい。でも、運動部でがんばればその姿をみた英二の心をつかむことができるかもしれない。だが、文化部でおしとやかな女子というのも……。
 ひととおりシミュレーションしたあとで、自分の浅はかさを笑いとばし、魔莉は恥ずかしさを消すためにカバンをおおきく振った。昼間の住宅街には、人影はほとんどない。
 しばらくそのストロークをくりかえしていると、カバンのチャックをちゃんと閉めていなかったのか、プリントや筆箱がこぼれでて宙に踊った。
 あまりに突然で、呆然と立っていたところに「大丈夫ですか」と誰かが声をかけてきた。
 ふりかえると、知らない制服を着た女子が心配するように伏し目がちにしてこっちに駆けよってきた。見た目からして、もの凄くよさそうな人のオーラが溢れでている。こればかりは、いくらみてくれをよくしてもつくりだすことのできないものだ。
「あ、ありがとうございます」
「へえ、あそこの高校に通っているんですか?」
「知っているの」
「うん、私もこの町に住んでいるから」品のいい笑顔でその女子はうなずく。
「そうなんだ」
 魔莉はあいまいにうなずきながら、ふたたび母の言葉を思いだしていた。
 ――修行しにいくと言ってもね、やっぱり同性の友達は、ひとりはいなきゃダメよ。友達はあなたが好きに選べばいいけど、あなたが困ったとき、手を差しのべてくれた人はきっと友達にしてもいい関係を築けるはずだから。あと、なるべく上品そうな人にしておきなさい。
 条件にぴったり当てはまる、すべからく友人にするべきような人ではないか。
 魔莉はプリントと筆箱を受けとりつつ、さりげなく彼女のことを聞いた。
「ありがとう。名前はなんていうの」
「私は志野彩花。高校はここから電車で十分ちょっとの女子高」
「女子高……へえ、なんだか雰囲気よさそうだね」
「そうでもないよ。なんだかみんな、腹のさぐりあいって感じで落ち着いて話できないし。私は編入組だからなおさら」遠慮がちに否定する様も上品である。
「助けてもらったお礼に、お茶でもおごるよ。時間ある?」
「助けたなんて、私はただ落ちていたものを拾っただけだよ」
「まあいいから、少し話でもしようよ」
 多少強引だったが、志野はそれでも嬉しそうにうなずいてついてきてくれた。ちょうど春休みにみつけた雰囲気のいい喫茶店に、魔莉は志野を引きつれて入った。
「へえ、こんなところに喫茶店なんてあったんだ」
 志野は驚いた表情を浮かべ、きょろきょろと店内を見回した。ギターとピアノとシェイカーと、言葉はまったくわからないが耳あたりのよいボーカルの声がうまく調和して、昼間の休息に合った音楽を奏でるなか、ふたりはハーブティとキッシュのセットを頼んだ。
「そういえば、まだあなたの名前を聞いてなかった」
「夢野魔莉。一年生」
「だよね。私の友達も、同じ制服着ている人たくさんいるから」
「じゃあどうしてうちの高校にこなかったの」
「私も行きたかったんだけどね、親がどうしても行けっていうから、しょうがなく女子高に。なんか気品とか、そういうのを気にして勧めたんだろうけど、中身知ったらびっくりするだろうな」先に置かれた水をひとくち飲んで、志野は苦笑いをした。
「大変だね、女子高って」
 魔莉の目的からすると女子高はまったく眼中になかったが、志野の話を聞くに入学しなくてよかったのだろう。女はやけに争いを好むというのは、母の思い出話からリサーチ済みだ。
 それはともかくとして、女子高に通っているとなると付きあうまでにどういった過程を踏むのだろうか。ふいに魔莉は気になった。
「ねえ、彩花の学校には、彼氏がいる人ってどれくらいいるの」
「何、いきなり」
 唐突な質問に、志野は不思議そうに笑った。
「そうだね、まあ私も小耳にはさんだぐらいだけど、いるらしいよ。何人かには」
「どうやって知りあったの、その人たちは」
「さあ……でも、塾とかで知りあえるんじゃないかな。男子校でも、たぶん同じような状況だと思うから」
 魔莉はなるほどとうなずいた。それをみて、志野はおかしそうに
「そんなに気になる? そういうこと」と尋ねる。
 魔莉はふたたびうなずく。当然だ。同年代の同性がどう考えるか、知る必要が魔莉にはある。
 やがてふたりが頼んだセットが届くと、志野はいただきますと手を合わせ、頭を下げてからサラダに手をつけた。それを魔莉はつけあわせのスープを飲みながら感心しつつみていた。
「いい香りだね。これ」
「うん」ふたりはハーブの匂いを食むように、茶をひとくち飲んだ。
 それからは食事をしながら、とりとめもない話でもして昼をゆっくりと消化していった。
 言葉を交わせばかわすほど、志野は育ちがいいということがわかった。習いごとはピアノとヴァイオリンと、子供向けの料理教室。末はソリストか良妻か。野暮な選択肢はさておいて、志野がこのような人間に育ったのは、家がよかったのだろう。
「羨ましいな。そういう恵まれた環境に生まれて」
 軽い気持ちで魔莉が言うと、それまで穏やかな口調だった志野は
「そんなことない」と語気を強くした。カップのなかに、波紋ができた気がした。
 魔莉がまたたいて言葉を発せずにいると、志野はハッとした表情になり
「ごめんね。びっくりさせちゃった。でも私はあの家を、居心地がいいゲージだと思っているの」志野は小さく舌を出して、茶目っ気に謝罪した。
 魔莉は「大丈夫だよ。ごめん、こっちも」と言いつつ、底に残ったハーブティを、なるべく時間をかけて飲んだ。
 志野は自分の言葉にする必要のない反省をしているのか、うつむいてキッシュを咀嚼した。店内には、相変わらず愁いを帯びた異国の音楽が流れている。
 何か言わなきゃなと思い、魔莉はカップを置いて口を開いた。
「話を戻すけど――」フォークを持った志野が顔を上げる。
 目が合ったのを確認して、魔莉は無垢な幼児の視線を送りながら
「彩花は中学の時、好きな人っていたの」
 志野が動揺しているのは、ぶっきらぼうに響いたフォークの落下音でわかった。
「ね、どうなの」
「え、あの、それは……」
 志野はわかりやすい人だった。手を無意味にせわしなく動かして、目を泳がせる。魔莉が身を載りだして答えを迫ると、それはさらに激しくなった。
 魔莉がじっとみつめるのに観念したのか、志野は一呼吸してちょこんと首を縦に振った。
「あのね、夢野さんと同じ高校に進学したんだけど」
「連絡先とか持っているの」興味津々といった風に、魔莉は質問を重ねる。
「あ、まあ、うん。一応ね。中学の卒業式が終わった後に、あちらからやってきて」
「へえ」
 短い返答にとどめたが、魔莉の心中は、めまぐるしく駆ける余計な推測で満ちた。それは、もう両思いではないか。それなのにどうして、ふたりはなんのアプローチをかけずに、現状を維持しているのだろうか。とてもじれったく思えた。
「この話はもうヤメにしようよ。なんだか恥ずかしい」
「いいよ、全然。ありがとね、人のそういう話を聞くのって楽しい」
「いやだなあ」手で顔を仰ぎながら、志野は困ったように笑顔をつくった。
 会話にひとくぎりついたころ、ふたりの前には空のプレートと、スープとティのカップが並んだ。腕時計を確認して、志野は「そろそろでない」と言う。魔莉はうなずいた。
「ありがとね、夢野さん。誰かにこういうの話すのって、なんだか気分がいいね」
「こちらこそ。あと、魔莉でいいよ」おじぎをした志野に、魔莉もつられておじぎした。
 頭を上げて目が合うと、一連の動作がなんだかおかしくてふたりは笑ってしまった。それは喫茶店をでてからもしばらく続いた。

 表面が装飾されたドアを開けると、まっさきに母親がやってきた。表情は硬い。志野はため息をつかないように口をつぐんだ。
「彩花、今日って午前だけでしょ。どうして遅くなったの」
「ごめんなさい、友達と外で食べてきたから」
「外食?」声色はさらに黒く、曇ったものになる。
 それからは、いつもどおりの文句を聞かされることとなった。親の気分で決まる門限を、守ることなどどうしてできようか。小言のひとつも返したいが、志野がそんなことをすれば、母は十の説教をくりだしてくる。
「ちゃんと連絡してよ。高校生になったと言っても、まだ十五なんだから」
 背中越しに聞く言葉を、志野はずっしりと背負いながら二階の自分の部屋に上がった。ここだけが志野のサンクチュアリと呼べる場所だ。子供のころ添い寝したぬいぐるみたちと、写真と、ヴァイオリンがおいてある。本当は、もっと自分の好きなものばかりで囲まれていたはずだったが、成長するにつれて殺風景な工業都市の様相と重なってきた。勉強机に整然とならぶ工業団地は前時代のもので、今週中にも上のレベルに様変わりする。
 志野は、どこへ行っても絶えることのない波が自分の足をすくうような気がしてならなかった。上品な立振る舞いも、本心からすればうわべの仮面にすぎない。
 普段着に着がえることも面倒に思い、志野はセーラー服のまま雪原の冷たさを持ったベッドに身を投げた。スプリングが軋む音で、自分の存在を再確認する。
 両親は自分にたいして、常に到着すべき港を定めて進路を強要してきた。ピアノを弾きなさい、ヴァイオリンを弾きなさい、料理もできるようになりなさい。幼い志野には、両親の言うことの全てが正しさに直結した。
 はじめて逆らったのは、小学校六年生のときだった。中学受験のために二年間通っていた塾を、やめたのだ。言葉にすれば一行で終わる出来事だが、相当揉めた。
 近所の公立中学校はほとんどが知り合いで、日々は楽しく、私服から制服を着ただけで他はあまり変わっていないように思えた。
 しかし家のなかでの圧力、もしくは重力は確実に変わっていた。それまで舵を切った方向に進んだ船が自ら望んで難破したのだから、船長が船に辛く当たるのは当然だった。結局、高校は三年前に受験するはずだった中高一貫校を志望することになった。
 女子高に進学することが決まってからは、なるべく心を潰して真空のなかで生きていこうと決心し、中学三年の一年間にむけて徐々に同級生との距離を置いた。
 それが、志野と英二が出会うきっかけだった。
 志野は中学での三回目の係決めで、図書委員になることにした。放課後友人と一緒にならずにすむ理由をつくるためだ。
 司書の先生には訝しがられたが、志野は週三日で放課後の本の貸し借りの当番を担当することができた。両親に事後報告をしたら、案の定大目玉だったが、どうでもよかった。
 そしてもうひとりの図書委員が、英二だった。
 図書室の貸し借りの受付は、原則各クラスの図書委員ふたりがペアになってする。だが、三年生は例外でそれぞれの融通がきくように当番を組むことができた。それなのに、英二は自由に日にちを決めていいと言ったばかりか、一緒に当番をしても構わないとつけくわえた。
 それまであまり英二とは話したことがなかった志野だったが、カウンターや本の整理で言葉を交わしてみると、読む本の趣味が似ていることに気づいた。主にアメリカ文学の、ロスト・ジェネレーションが書かれた本を読むということ。ときどき、気まぐれに昔の文豪の作品のページをめくること。いつからか、本は話題のツールだけではなく、ふたりのあいだで貸し借りするものになっていた。
 志野は、カレンダーの双六の上をサイコロの一の面をだしつづけて進むうちに、他の英二の好きなことを知りたいと思った。それは夜の際限がない読書に似た好奇心だった。
 でも、志野は卒業するまで実行することはできなかった。
 だからこそ、卒業式の日に英二がアドレスと電話番号を交換しようと言ってくれたのが本当にうれしかった。志野はあのとき、自分が英二に抱いた感情の名前を知った。
 あれからもう、三週間も経ってしまった。中学生から高校生になっただけで、性格や身長は変わっていないはずなのに、三月の自分と四月の自分には歴然たる違いがある。いままでと同じように、たえまなく訪れる出来事をステンレスの流しのように喉元へ飲みこんでいるつもりでも、不安を覚える心は消えない。
 今日、はじめて会った人に桐箱のなかで大事にしていたことを赤裸々に話したからか、志野はやけに、過去になった出来事ばかり思っていた。
 志野はそのあともベッドに寝転がり続けていたが、急に思いたち、スマートフォンをとって英二の携帯電話の番号をタップした。呼び出し音は志野を茶化しているように聞こえた。


4, 3

  

 英二の部屋の勉強机の上に置いた携帯電話が鳴ったのは、スラックスに着がえて本を読んでいるときだった。表示された着信先をみて、英二はすぐに電話をとった。
「矢川くん?」
 尋ねるような調子の志野の声を聞いて、英二はサイダーを一気飲みしたような感覚に襲われた。頭まで痺れそうだ。
「ああ、ひさしぶり、志野」
 そっけない答えかたをしてしまうのは、中学のときから変わらない、悪いクセだった。いつもそうやって返すたびに、しまったと心内で舌打ちをする。
「いま、家?」
「うん、今日は学校、午前までだったから」
「私もだよ」志野はそんな些細な共通点で、すごく嬉しそうな声で答えてみせる。
「高校、うまくやっていけそう?」
「まあ、同じ中学のやつはけっこういるし」
 志野は、どうなんだ。
 それを聞きたかったが、得体のしれない恐怖のせいで、英二は聞けなかった。言葉を続けて言えずにいるうちに、志野は
「私も、なんとかやっているよ」
 と、まるで英二が尋ねたのを予想したように言葉のボールを放り投げた。
「それならよかった」
 具体的なことを聞くこともなく、英二は無様なポーズでボールをキャッチした。
 何か言わなくちゃいけない。鼓膜を震わせるノイズは、身体に刺さる細い針のようだ。
「そういえばね、今日、矢川くんの高校の子と一緒にごはんを食べたよ」
「知り合い?」英二は受け身に徹することを決めた。
「ううん、今日はじめて会った人。おかしいよね」
「それって、男?」
「まさか。女の子だよ。プリントや筆箱を道の上に落としていたところを拾ったらさ、お礼におごるから食事でもしないかって」
 義理堅いのか、積極的なのかよくわからない人だった。それよりも、英二にとっては相手が男子ではないだけでよかった。
 しかし、次に志野が言った名前に、英二は驚かされるのだった。
「その子さ、夢野魔莉って名前なんだけど、矢川くん同じクラスだったりする?」
 あ、という驚愕の声が舌の根元までせりあがってきた。こんな偶然があるとは、なかなかどうして世界は狭いのだろう。
 しかし英二は、動揺はおくびにもださず
「ああ、海外からやってきたとか言っていたよ」とつとめて冷静に答える。
「そう言われると、なんかわかるかも。ちょっとピンぼけした感じが」
 ピンぼけ。せっかく忘れられると思っていたのに、意外なところから記憶は大きなうねりをもって蘇った。
「そうだね、そうかも」
「ただ、すごくかわいかったな。ちょっと子供っぽいところも、無邪気な感じで逆に好感がもてて」
「ああ――」
 英二は言葉の全身像を描かずに筆を投げた。それに同意することはできなかった。
 志野が相手なら、なおさらだった。
「そうだ、矢川くん。このまえ本屋さんいったらね、グレート・ギャツビーの新訳が……」
 それからふたりはそれまでの話は無かったような調子で、図書室でしたような話題を並べて機械伝いの囁きを交わした。それは楽しかったし、昔に戻ったようだった。でもどこか、志野の口調は寂しげだった。
「じゃあね、矢川くん。また電話するから」
「うん、俺もするよ」
 あとに続く不通音に、英二はこれが電話だということに気づき、電話というものは、あまりよくないものだなと思った。電話では、本の表紙絵をみることはできない。
 携帯電話をふたたび机の上に置くと、英二は電話がかかってくるまで読んでいた本を手にとり、表紙をじっとみた。戦前の自殺した作家の箴言集で、緑の枠のなかに題名がでかでかとプレスされている。
 英二が中学三年時に図書委員になったのは、実に不純な理由だった。志野が図書委員に手を挙げたからである。当番はいっしょにすることを知っていた。ウジウジと思うばかりでは野暮なので、いっそ接点をつくってみようと決心したのだ。
 不純なりに、英二は努力してみた。まず、志野の読んでいる本を自分も借りたり買ったりして読み、同じ作者の本も読み、同じ年代の本も読んだ。海外文学ならば、著者と同国の人間の作品も読んだ。
 そして不純なりのポリシーをもっていた。絶対にネットであらすじは調べない。ちゃんと自分で最後まで読んで、自分の感想をもつことに努めた。
 本来の読書からすれば、邪道かもしれない。それでも英二は本好きという接点をつくることに成功した。終わりよければすべてよし、だ。
 だが英二は、いつも不安な気持ちを抱えていた。志野はいつも、本当の感情を隠しているような気がしてならなかったからだ。結局、ふたりで本の貸し借りをするには至ったも、それからの段階には進まずに卒業してしまった。
 電話は、いまでも志野と英二がなんらかの形でつながりを持っているという、唯一の証だ。そう思うから、一言々々を大切にしたい。青臭くても、英二はそう願った。詩的表現がなければ、この思いはただの欲望になってしまう。
 そう考えると魔莉の行動はやはり感情を通過していない、ただの衝動なのだ。魔莉が何を考えて急に抱きついてきたのか、そしてあんなことを言ったのか、それを英二が知ることはできないし、どれだけ考察しても答えにはたどりつかない。
 しかし、偶然は恐ろしいものだ。自分を惑わした張本人が、自分の片思いの相手と路上で会い昼飯を食べる。狭い町のなかで起こったことだが、英二が家でだらけているあいだに近くで生まれた偶然と考えると不思議に思えた。
 明日、どんな顔で魔莉は登校して、どんな目で自分をみるのだろうか。英二は気になってしかたがなかった。
 湯田と梅田は、英二が一足先に帰ってからも、何人かの生徒を見送りながら下駄箱の脇で話していた。
 部活着を着た上級生がちらっと下駄箱の奥をみては、口元だけ笑って足早に通りすぎた。梅田はそれを一瞥しては、うすっぺらい満足感を短い言葉にしたためて喉の奥でひとりごちた。
「そろそろいくか」
 高校の初日の感想も尽きたところで、湯田は下駄箱にもたれかけていた背中を弾みをつけて起こし、ポケットに手をつっこんだまま歩きはじめた。梅田は黙ってその隣につく。
 梅田はもう幼稚園のころから湯田の隣について歩いていた。近所の幼稚園へ通うときも、裏道を探検するときも、小学校と中学校の通学路も、ずっと。
 そんな梅田に、湯田は何も言わなかった。いいよとも、ダメだとも。
 梅田は、それを不安がることはしなかった。小学校中学年くらいのとき、同じクラスの男子から茶化されても、中学のときしきりに聞かれても、湯田は否定せず「まあ子供のころからだし」と笑って受け流していた。
 嫌、じゃないんだと思う。
 湯田はおちゃらけているから本心がみえないこともよくある。でもそれは、きっと照れ隠しを兼ねた行動なんだろうと、そう梅田は受けとめていた。
 でもその認識は、もしかしたら思いこみなんじゃないかと、今日はじめて憂えてしまった。
 いつも学年があがったときに聞く、おきまりの質問に即答しなかったのだ。
 かわいい子とかいたの? C組には。
 きっといるんだ。
 いま隣を歩く幼馴染が何を考えているのか、梅田は年を重ねるにつれてだんだんわからなくなっていた。そしてこの瞬間も、わからない範囲が拡大している。
 湯田がわがままを許してくれるなら、学ランの裾をつかんで、本当の答えを知りたかった。でも、梅田にはそれができなかった。
「じゃあ、また明日」
 本当の答えを知って、明日がなくなるのが怖かったのだ。
 湯田も、じゃあねと言った梅田の背中をドアの前でしばらく見ていた。
 申し訳なさが身体を真冬の空気のように包み、しんしんと皮膚の上に冷たさを積もらせた。能天気な太陽が、なんだか憎らしかった。
 湯田には、気持ちをはぐらかしているつもりはなかった。隣に歩く梅田は、自分の隣で足を並べていればそれで満足だろうと、そんな関白めいた傲慢をいつしか心に持っていた。でも、それが湯田の気持ちで、それを維持することによってふたりの関係は保たれると信じていた。
 湯田は玄関に入り、今春買ったスニーカーを脱ぎながら過去の自分をせせら笑った。馬鹿だな、自分のほうから、積木をくずすことになるとは知らずに。
 自分の部屋に入ってほとんど何も入っていないリュックを下ろすと、窓の遠くを歩く梅田の姿が自然と目に入った。ブラインドのモザイクにでたり入ったりを繰りかえすうちに、梅田は家のなかに消えた。
 湯田は普段着に着がえて、リビングで食パンをプレーンで食べた。両親が共働きの家は、昼間は静寂の盛りである。
 食パンの白さを齧って、湯田が思いだすのは魔莉の肌だった。白色から不純物をろ過してできた、透明とみまがう究極の白色だった。湯田は食パンを三枚食べた。
 梅田の小さな背中を窓越しにみても、二分後には魔莉のことを考えていた。
 これは恋だった。
 湯田はやおら立ちあがると、伸びをして自分の部屋に戻った。勉強しようと思ったのだ。勉強でもしないと、湧きあがった罪悪感は消えない気がした。
6, 5

  

 魔莉はというと、鬱屈とした気分は微塵も抱えずに夕方にむかう時を部屋のなかで過ごしていた。正確に言えば、ただのんびりとしていたわけではなく、故郷からの便りを待っていたのだ。
 お目当ての便りがきたのは、大相撲の幕内力士が土俵入りするころだった。赤い布のようなものをくちばしにくわえて、カラスが二日酔いのような声で鳴いた。思ったよりも早かった。
「こっちだよ、バンア」
 てまねきをしてやると、バンアとよばれたカラスはベランダの手すりへ器用に着陸して、愛嬌のある目を窓越しの魔莉にむけた。魔莉は冷蔵庫から余らせていたヨーグルトとカルピスを小皿によそうと窓を開けて外へでた。昼間にくらべて風が少し肌寒い。
 布のようなものを受けとると、魔莉は頭をなでてバンアに言った。
「ずっと飛んできたから、おなか空いたでしょ。これ食べていいよ」
 小皿を少しつつくと、バンアは小さくひと鳴きして、押しかえすようにくちばしを縁に当てた。あまり好きな味ではないらしい。
「バンア、たまには乳酸菌とらないとダメだよ」
 それでも、もうついばもうとはしなかった。魔莉は所在ない小皿をいったん流しへ置きに、部屋に戻った。バンアもうしろからついてくる。
「で、ママからの伝言は?」
 洋服掛けに爪をひっかけたバンアが、右の翼を広げる。魔莉はそのなかから一枚羽を毟る。すると羽毛がさらさらと抜け、机の上にメッセージを記した。
 ――あなたがそちらに行ってからもう、二週間くらい経ったのかしら。はじめてお便りを送ります。元気にしていますか? こっちはみんな相変わらずです……。
 つらつらとつづられた文章は、頭のなかで息の置きかたまで母の声で再生された。
 ――最後に、あなたに贈り物をします。それは私が使っていた体操着です。いまもそうなのかはわかりませんが、始業式の翌日は身体計測で体操着を着ることになると思います。体操着も男の子の心を掴む重要なアイテムです。ゆめゆめ気を抜かないように。
 メッセージの最後はそうしめくくられていた。魔莉は右手に握った、母の贈り物に目をやった。入学前に買った体操着よりもずいぶん前のデザインのようで、丈がすごく短かった。
 これはいいものをもらった。体操着はもともとのアドバンテージが高い衣類だが、これならディープインパクト確定だ。きっと英二も、これを着て歩けば露わになった腿に目がいってしまうに違いない。
 まじまじと体操着をみつめる魔莉は、傍からみれば大層けったいにみえた。
 そのとき、魔莉は布地に白いシミがあるのに気付いた。おそらくヨーグルトかカルピスが、バンアがつついているときにはねてしまったのだろう。ほうっておくと、明日あらぬ誤解を受けるかもしれない。
 壁にかけた時計をみると午後四時。いまから洗濯すれば乾くので、魔莉はコインランドリーに行くことにした。トートバッグに母のプレゼントと洗剤と財布を入れて、バンアを肩にのせると玄関のドアを開ける。
 バンアは上空へ翼を広げた。故郷から気休めの魔力でやってくると、滞在できる時間は短くなる。タイムリミットがきたようだ。
「じゃあね、バンア。またよろしく」
 手を振りながら、魔莉はあることを忘れているのに気付いた。
 返事を、書いていなかった。
 英二は志野の電話を受けてから、ずっとマタタビを嗅いだ猫のようにハイになっていた。魔莉のことは頭の片隅で気になりつつも、志野が電話してくれたことのほうが、リアルタイムの最大のトピックニュースだった。誰かに話したい、そんな気分になるくらいに。
 浮かれている英二を引きもどすように、家のドアホンが鳴った。
 リビングまででて、画面を覗きこむと姉が照れ隠しに笑っていた。
「ごめん、英ちゃん。鍵忘れてきちゃった」
「ボケボケだな」聞こえよがしに大きく息を吐く。
「英ちゃんだって、今日廊下で突っ立っていたり、返事が遅れたりしてたらしいじゃん。新津から聞いたよ」マズった。あの先生、そういや女子バレー部の顧問だったな。
「そうだよ、悪いかよ」
「別に悪かないけど、はやく鍵、開けてくんない?」
 はいはい、とかったるそうに返事をして英二は鍵を開けた。姉にはかなわない。
「ふぃー。春なのに暑いぜ」
「身体動かしたからだろ」
 英二はめんどうくさそうに言葉を返す。弟としての、最低限の義理である。
「英ちゃん、アイス!」
「ないよ」
 英二はだらしなく四肢を広げる姉を横目に、頭を掻いた。
 さすがに、コイツには話す気にならない。
 靴下を洗面台で脱いだ英二の姉、満春はテレビの前のソファにダイブして、すでにくつろぎモードだ。しゃあない。これはもう買い出しルートだなと、英二は腹をくくった。
「姉ちゃん、アイス買ってくるから金くれ」
「頼みたいことを一歩先に察するなんて、さすがわが弟」
 姉はカジュアルなバッグから財布をだし、英二に硬貨を投げてよこした。
「いってらっしゃい」
 無抵抗なんて情けないが、もしも抵抗しようものなら姉の殺人スパイクが頭を直撃するのでただ従うしかない。三回目の脳震盪を起こすのは勘弁だった。
 満春は身長が同学年の男子よりも高かった。正直、平均的な英二にとってはうらやましくてしょうがない。少し削ってわけてほしいくらいだった。
 そのあと、二階の自分の部屋に戻って硬貨を受けとった掌を広げてみると、穴があいた金色のコインが三枚だけ並んでいた。これじゃ氷菓子も買えやしない。自分の財布の風通しがまたよくなる。姉と弟のスワップ協定は崩壊していた。
 外は春の陽気とはいえど、四時を過ぎれば日陰にひそんでいた冬が顔をのぞかせる。英二は両手で腕をさすった。財布を取りにいくついでに、上着を持ってこればよかったと、ひそかに後悔した。
 家から少し歩いたところにある商店街は、これからがピークの時間帯で買い物客がわんさかいた。英二はうまくよけながらひとごみのなかを進んだ。
 視線のなかの魔莉に気付いたのは、アーケードに入る手前だった。
 魔莉が英二を認識したのは、それよりも少し前のことだった。妙齢の主婦と遊び疲れた子供たちが過ぎるなか、英二のことはすぐに英二とわかった。
「英二、英二」
 けっこう大きな声で呼んだので、まわりの通行人たちは魔莉に目を向けて、つぎに呼ばれた相手であろう青年をみた。英二は視線を地面に落とした。
「どうしたの、英二。買い物しにきたの」
 身体をひっつかせると、さらに英二の動揺は目にみえてわかる程度になった。もちろん、それは無邪気ではなく打算なのだが、英二は気付いていないようである。
「あ、ああ。夢野は、その、なんだ。なんで?」
 尋ねているのかすらわからない言葉を不器用に並べて、英二はやっと発した。
 魔莉はからめた腕の強さをゆるめずに、そのまま歩きはじめた。英二はひきずられるように足を動かす。魔莉は英二の顔をみあげて、いま行っていることがさぞ自然だというように、普段の口調で答える。
「コインランドリー行こうと思って。なかなか歩くんだよね」
「へえ、家にないの」
「そのうち買いに行こうとは思うんだけど」
 ずんずんと進むふたりに、商店街の客は道をゆずる。英二は居心地悪く感じているだろうと思い量りながらも、魔莉はそれを心地よいものと受けとめた。
「じゃあ、俺はコンビニに用があるから、ここで」
 英二は商店街のなかに一際強い光を放つ、コンビニを指差して爪先の方向を変えようとした。
マズい、と魔莉は腕を離し、英二の手をふたつの掌で包んだ。急につながれた手に、英二は戸惑っているようだった。
「あ、あのね。家にお財布を忘れてきちゃったみたいなの。だからお金を貸してほしいなって」
「じゃあここで……」
金を借りるだけではダメなのだ。つかんだ偶然を、簡単に手ばなすわけにはいかない。
魔莉は上目遣いをして、喧騒のなかで聞こえるか否かの微妙な声量でお願いをする。
 英二は自ずと耳を魔莉に近づけた。
「私、不器用だからうまく洗濯機が使えないの。だからね、時間があったら教えてほしいんだけど……ダメ?」
魔莉は目線をそのままに、英二の反応を窺った。迷っている。ここであともう一押しが必要みたいだ。
 英二の耳に、魔莉はぐっとくちびるを近づけた。まるで、学校の廊下でしたみたいに。
「英二だけが、頼りなの」
ハッとした表情をしてみせて、英二はトビムシの勢いで顔を魔莉から遠ざけた。それからは魔莉の予想通りだった。照れ隠しにそっぽを向いて、少ない口数で承諾する。
「そんなに言うなら、別に時間がないわけじゃないし」
英二はコンビニに背を向けて、ふたたび商店街のなかの喧騒の一部になった。魔莉は手を離すと満足げな笑みを浮かべて、英二の左腕に身体も寄せた。
「夢野はさ」
「魔莉でいいよ」
オフェンスはいつでも攻める心を忘れない。ディフェンスはというと、攻撃を受け流すこともある。
「……ひとり暮らししてるんだよな」
「そうだけど」
「飯とかどうしてんの。自炊?」
「うーん、私ね、あんまりそういうの、得意じゃないんだ」
英二はそれから特に何も言わずに、商店街を歩いた。魔莉は途中で切れたような、中途半端な会話の続きを始めた。
「英二って、料理できるの」
「いちおうは。俺んち、共働きだからもっぱら姉ちゃんと交代で夕飯つくっているし」
「……じゃあ今度、私の家に来て晩御飯をつくってほしいなんてお願いしたら、OKしてくれる?」魔莉は思いきった質問をした。
英二は使いふるしたパソコンみたいに、さっきから対応につまっている。さすがに引かれているのかもしれない。英二はこういうことには弱気なのだろう。
「ひとり暮らし、ね」
「……え?」
「俺もさ、前に親戚の葬式があったとき、どうしても外せない用事があって、ひとりで留守番したことがあったんだ。そのとき、いつもは狭く感じるリビングとか、自分の部屋でさえがらんどうに思えて。だから、なんというか、外国から来たばかりなのに、ひとりで一日中いろんな家事して夢野も大変だなって」
たどたどしい英二の言葉に魔莉は、不器用ながらもなんとかして英二が自分のことを励まそうとしている気持ちを感じた。
「ふふっ、英二って優しいんだね」
「俺は別にそんなんじゃねえよ」
魔莉はそれから、コインランドリーに着くまで目を合わせることができなかった。
 ずっと英二が顔をそらしていたせいで。
洗いたての服やカーペットだけが持っている特別な匂いが鼻をかすめるころになって、英二は魔莉にふたたび口を利くことができた。
「でさ、何洗うの」
 魔莉はトートバッグをもったいぶってまさぐると、その答えを無言でみせた。
 とたんに、英二の顔が赤くなった。
「なんでそんなもの洗うんだよ。てか、それだけなのかよ。他にないのかよ。なんでだよ」
 その反応は、魔莉からしてみればとてもかわいらしく、またいじらしくもあり、さらにからかいたい衝動をかきたてさせた。
「明日使うからに決まってるじゃん。……それとも英二は一足先にみたいの? 私がこれをはいたのを」両手で裾をもって、魔莉は英二の目の前で煽情するかのようにそれを振った。
 許容範囲を超えたのか、英二は一言も返さずにコインランドリーのなかに入った。
 魔莉はへそを曲げた英二の背中をみて、なんだか微笑ましい気分になり、えくぼをつくってコインランドリーに入った。
 英二は回る水の渦と、そのなかでひらひらと泳ぐブルマをみて、どうして自分はここで魔莉と一緒に洗濯機を眺めているのか、今更になって疑問に感じた。
昼間のホームルームを思いだしてみると、やはり魔莉には何か人を惹きつける特別な力があるのかもしれない。詐欺師とかに向いてそうだなと、英二は失礼なことを考えた。
「まだ、三十分はかかるよな」
「そうだね」
頬杖をついて魔莉はただぼぅっと前の渦潮をみていた。催眠にでもかけられるように、目をうつろにさせて。
英二はコンビニの前でないがしろにした、魔莉のお願いにたいする答えをぽつりぽつりとつぶやくように言いはじめた。
「あのさ、もしそっちが材料を用意するんだったら、こっちが出むいて料理を作っても、構わないから。でも、これから何もひとりで作れないんじゃ困るだろうし、教えながらっていう感じで――」
そこまで話したところで、英二は肩に置かれた魔莉の頭の重さに自分がひとりごちていたのに気付き、困ったように笑った。
あんなに自分のペースで振り回していたのに、瞼を閉じて寝息をたてれば、あどけない面立ちになるのだから女子はわからない。
ふたりが寄りそって洗濯が終わるのを待っているあいだに、太陽は街並みに沈み、商店街には灯りがいたるところで滲みはじめた。渦の回転がとまったのは、五時ちょっと前だった。
「夢野、洗濯終わったみたいだけど」
「え……あ、うん。そうだね」
魔莉は頭を上げると、しばらくとろんとした目で正面の洗濯機の、点滅するボタンをみていたが、英二の肩にもたれかかっていたのに気付くとあたふたして髪を指でいじくった。
「ごめん、英二」
なんでもないことのように受け流していた英二も、そんな魔莉をみると、すごく恥ずかしいことだったように思えて、またも顔をそらしてしまう。今日はずっとこんな調子だ。
 魔莉はそのまま他の洗濯機をみていた英二の頬をつねる。寸胴の白肌たちに、ジェラシーを感じたのだ。不機嫌な顔の英二に、財布から百円玉を三枚だして渡す。魔莉の行動が、理解できないというような表情をした英二がつっこまないうちに、魔莉は乾燥されてきれいになったブルマをトートバッグに入れて、舌をだして去り際に言葉を残した。
「私、お肉と野菜を用意しておくから。メニューは英二の得意なのでいいよ。じゃあ明日ね」
 なぜ金を持っていたのか。借りるということは、忘れたんじゃないのか。英二の質問は洗剤の香りにまぎれて、そのうち英二自身の心のなかでも何を聞くつもりだったのか、あやふやになってしまった。
 夢遊病患者のような足取りで、英二が商店街からふらふらと自宅に帰ったのは遠くで学校のチャイムが鳴るのを聞いてからだった。そんな調子だから、アイスを買うことは姉に玄関でタックルを食らうまですっかり忘れていた。
「英ちゃん、本当はスパイクが私の十八番なんだけどね、さすがにそれやっちゃ英ちゃんの頭が無事でいるか保証できないから、夕飯を肩代わりするのを条件にタックルで許してあげるよ」
 タックルでも十二分に身体はダメージを食らう。昼間食べたカップ麺がのどひこの奥から戻ってきそうになった。
 そんなわけで、英二はエプロンをかけてまな板の上のにんじんをリズミカルに切っているところである。にんじんは単体で茹でてもいいし、たいていの料理に合う。万能な奴だ。
 英二は野菜を次々と切っていきながら、魔莉の家で料理を教えるとしたら、何を教えたらよいか考えていた。
 思い返すと、英二が料理をはじめたのは小学校中学年のころだ。学童に行くのをやめて姉と留守番するようになり、徐々に姉から料理をするよう脅迫、もとい嚮導された。
 最初に作ったのは、たしか味噌汁だった。作ったと言っても、豆腐を切って味噌をとかし、椀によそったあとにねぎをちらしただけだが。さすがに味噌汁は、初心者であっても教える料理ではない。たしかに簡単だけれど、簡単すぎる。
 自分が教えられる立場だったころを思いだすと、やはり作りがいのあるものがいい。完成したときに、達成感を得られるようなもの。基本はハンバーグ。しかし野菜もあるならカレーのほうがいいだろうか。肉じゃがも捨てがたい。
「英ちゃん、英ちゃん」
 冷蔵庫の麦茶を取りにきた満春が、まな板とそのまわりで転がる食材をみて訝しげに聞いた。
「そんなに野菜とか、しいたけまで切って何作るの? 別に筑前煮でもいいけど、私のお皿にしいたけ入れたらダメだからね」
 英二は姉の言葉で、はじめて自分の手元をみた。いつのまにか色とりどりの野菜がきれいに一口大に切られていた。英二は肩をすくめた。今日は温野菜にでもしよう。この量の野菜を処理するにはちょうどいいメニューだ。
「そういえばさあ、英ちゃん」
「何、姉ちゃん」英二はタジン鍋を食器棚からだした。去年の冬に買った新入りだ。
「新津から聞いたんだけど、英ちゃん、夢野さんって女子知ってる?」
 あやうく鍋を落としかけた英二をみて、満春は顔をにやつかせた。知っているのを前提に聞いたのだろう。いやらしい姉だ。
「やっぱり知ってるんだ」
「そういう姉ちゃんは、どうして知ってる?」
 体勢を直して鍋を置くと、英二はエプロンを椅子にかけて姉のもとに詰めよった。
「新津から聞いたんだよ。廊下歩いて教室向かっているとき、夢野さんが英ちゃんにいきなり抱きついたとかなんとか」
 満春は他人事なのにまるで自分のことのように舞いあがり、黄色い声を上げた。
「ね、ね、夢野さんってどんくらいかわいいの」
「なんでかわいいの前提なんだよ」
 苦虫をつぶしたような顔をする英二にかまわず、満春は弟を追撃する。
「だって新津言ってたよ。その、夢野さんって子、むちゃくちゃかわいいって」
 どんだけ話してるんだ、あの人。英二は頭が痛くなった。これから一年間、新津のクラスにいたら昼休みに購買で買ったパンまで姉にダダ漏れするんじゃなかろうか。
「あれは軽はずみだって、きっと。そのあとも特になかったし」
 英二は少なくとも半分嘘をついた。そのあともいろいろあったわけだし、あれが軽はずみだったかなんて、魔莉にしかわからないのだから。
「嘘つけ。軽はずみで知らない男子にそんなことする女子はいないって。だって夢野さん、海外で長いあいだ暮らしていたんでしょ」
 このこのぉと満春は英二の脇腹を肘でついた。鬱陶しいし、割と痛い。
 英二もこのまま誤解をされたままだと迷惑なので、クギを刺しておいた。
「でも、海外ってそういうのあっけらかんとしているんじゃない。ハグとかさ」
 苦し紛れだったが、満春は案外納得した顔だった。
「ああ、確かにね。ま、学生生活は短いから、楽しんでおきたまえよ。少年」
 アンタとひとつしか違わねえじゃねえかというツッコミは心に留めて、英二はエプロンをつけて調理を再開した。
 余ったしいたけは、ささやかな復讐としてスープに使った。
 ちょうどそのころ、魔莉はスーパーの野菜コーナーを回っていた。いつもは適当にカップ麺をみっつかよっつカゴに入れるだけで買い物は終わるのだが、今日はちょっと違うのだった。
 野菜と肉を用意しておくと言っても、何を選べばいいのかてんで見当がつかなかった。なにせ故郷ではここでいう食事はたまにしか行っていなかったのだから。それもずいぶんと手間をかけたものだったから、参考にならない。
 わからないことがあったら、近くの人に聞くといい。なるべく人のよさそうなおばさんに。ここでも魔莉は母の教えに従うことにした。
「すみません」
「はい。……何かお探しですか」
 緑のバンダナを頭に巻いた店員のおばさんは、思ったとおり人がよかった。
「お肉と野菜を使ったメニューを考えていて、それでどういうのを買えばいいのかなって」
「どんな料理を作られる予定なんですか」
「うーん、なるべくいろいろな野菜を使ったのがいいです」
 店員のおばさんは少し頬に手を当てて考えるポーズをしたあと、こう提案した。
「なら筑前煮とかはどうですか」
「筑前煮」
 魔莉が首をかしげると、筑前煮を知らないことに多少困惑したのか店員のおばさんは慌てて説明した。
「あっ、筑前煮っていうのは、にんじん、たけのこ、しいたけ、れんこん、お肉は鶏肉を使った煮物料理で……」
「じゃあそれを買えばいいんですね」
「よければ案内しますよ」
「ありがとうございます」
 筑前煮も知らずに筑前煮の材料を買おうとした魔莉が心配になったのか、店員のおばさんは丁寧に各々の野菜、肉の質がいいものをみわけるポイントを教えつつ、各コーナーをいっしょに回ってくれた。丁寧なことをしても給料は変わらないのによくやるなと、魔莉はずっと感心していた。
レジを通ったあとに財布を確認してみると、残金にはあまり余裕がなかった。お金は定期的に母が送ってくれるのだが、そのお金をどうやって集めているのか、魔莉はよく知らない。
これまではあまり考えずに買い物をしていた。今後は倹約しなければならない。ただ、魔莉には倹約のしかたがいまいちわからなかった。なるべく安いものを買うにしても、カップ麺の値段なんてどれもあまり変わらないからだ。
スーパーからレジ袋を持って歩くたびに、中身が少し揺れて音がした。このなかの野菜と肉が、英二との関係を強めるのに繋がることを、魔莉は願わずにはいられなかった。
駅の方へ商店街を歩き、そのまま駅を通りこして南へ少し向かったところに、魔莉の住むマンションがある。都会にならごまんとある、何の変哲もない普通のマンションだ。そのせいで、来たばかりのころは何度か迷いかけた。
魔莉は電気をつけて、廊下の先端からリビングを眺めてみた。客人を招いても大丈夫な程度には片付いている。逆に片付きすぎているぐらいなのかもしれない。英二の言葉で気付いたわけじゃないが、洗面室には洗濯機もないし、いま目の前にあるリビングにはテレビもパソコンもない。キッチンの横の冷蔵庫も、ひとり暮らしということを考慮しても、ちょっと足りないサイズだ。
ヨーグルトと牛乳も、実を言うと冷蔵庫の容量が満杯になったので、スペースを開けるためにバンアにあげたのだ。
 いっそ冷蔵庫からだそうかとも考えたのだが、ヨーグルトはどうやら発酵食品とかいうもので最初から腐っているも同然だそうから別に心配いらないにしても、牛乳は腹を壊す可能性があった。それにバンアは故郷でもここの食べ物を基準にすればろくなものを食べていないので、そう簡単に腹を壊さない。もっとも、彼の舌には合わなかったようだが。
噂をすればなんとやらというが、ちょうど魔莉がバンアのことを考えていたときに、ベランダから彼の鳴き声がした。まさか一日のあいだに二度も来るとは思わなかったので、最初は空耳かと思い、動きを止めてしまった。
時間を開けずにバンアはもう一鳴きした。はやく窓を開けてほしいと急かしているのだ。魔莉はレジ袋を置いて急いで窓にバンアが通れるくらいの隙間をつくってあげた。
さすがに二度もここまでやってくるとバンアでも疲れるのか、部屋に入るや否や先程と同じ場所に羽を休めて、鳴き声を繰りかえすこともなく右の翼を魔莉の前に出した。
一枚毟ると、羽毛が机の上に行儀よく散る。差し出し人は母ではなく友人のレティーシャだった。
――魔莉がそちらに行ってから、はじめての便りを送ります。こっちは相変わらずみんな元気にやっています。バンアが言うには、まともなものを食べていないようだけど、大丈夫ですか? そちらにはここで普段食べているものが手に入らないと聞きました……。
内容は母のとあまり変わりばえはしなかった。故郷の話をしたあとに、魔莉に学校のことやひとり暮らしのことを尋ねる。ただ、相違点があるとするなら自分も魔莉に続いてはやく修行をしたいと綴られていたことだった。
レティーシャは結構どんくさく、男を誘惑することが苦手のようだった。素材はいいのに、もったいないと歯痒さを感じているのは魔莉だけではなかっただろう。
 魔莉はレティーシャ宛てのメッセージをバンアに伝えた。バンアは何度かうなずいたあと、大きく胸を膨らませた。どうやら、レティーシャも魔莉に贈り物をしてくれたらしい。魔莉が頭をなでるとバンアは口を開けてプレゼントをみせた。古めかしい陶器の瓶だった。
 それをみると同時に、羽に残っていた羽毛が追伸を記した。
 ――いろいろ試しても無理なら、それを飲んでみてください。けっこう、アレに似ていると思います。ただアルコールが強いので、飲みすぎには注意ね。
 レティーシャの気遣いに感謝しながら、魔莉はひとくち飲んだ。白く濁った酒は、ほのかに甘く、そしてひとつまみの酸味を隠していた。確かに似ていなくもない。むしろいままでのと比べればずいぶん上等だ。
 きっと、ずいぶん苦労して手に入れてくれたのだろう。魔莉たちは、一定期間主食を切らしていると禁断症状を起こし、その果てに死んでしまうこともある。「一定期間」はけっこう長いのである程度摂取しなくても平気だが、精神面は不安定になる。
 みかけだましでも摂取するのは必要なことなのだ。それをレティーシャも知っているから、こうして贈り物をしてくれたのだ。持つべきものはいい母と友人であると、つくづく魔莉は感じた。
「ありがとね、バンア。今日はゆっくり休んで」
 バンアはまばたきの相槌を打つと、風をカーテンに孕ませる窓の隙間から空へ飛びたった。
 慣れないこと尽くしだった魔莉も疲れていたのか、冷蔵庫に食材を入れて明日の用意をしたあとにシャワーを浴びると、本も読まず、ラジオのチャンネルも回すことなくすぐに横になった。故郷では人間でいう昼夜逆転の状態だったが、いまではすっかり早寝早起きが身についた。
 ひとくちだけ飲んだ酒が、強かったのかもしれない。アルコールは体裁上、ここでは買うのも飲むのもできない。魔莉はそれほど好きではなかったが、たまに飲むと気分を良くしてくれる。そのふわふわと浮かんだ心持ちのまま、魔莉は眠りについた。

8, 7

  

 英二は姉にたたかれた背中をさすりながら、二階の階段を上がっていた。ちゃんと姉の言いつけを守り、スープにはしいたけを入れないでおいた。卵だけが漂うスープを勢いよく飲んだ姉は、直後に顔をしかめ激しくむせた。まさかにおいで気付かずに一気に飲むとは思わず、英二はその悶える表情にうっぷんを晴らしたとばかりに高笑いした。そして、御覧の有様である。
自分の部屋に入ると、英二は机に向かい紙とペンを持った。勉強ではなく、魔莉に教えるメニューを書いておこうと思ったのだ。
いろいろ考えあぐねた結果、魔莉にはとりあえず家で筑前煮を教えることにして、他にもいろいろなレシピを渡してやることにした。料理ができないとなると、せいぜい出来合いの惣菜くらいしかまともな食べ物を食べる方法がないだろうし、毎日それを買ったり外食なんかをしたりしていたら金がかかってしょうがない。ひとり暮らしとは言えど、あまり勝手に金を使っては親に迷惑をかけるのではないかと、英二は他人事ながら真剣に考えてしまった。
だが待てよ、と英二はシャープペンシルの頭で机にテンポを刻む。外国での生活が長かったと言うなら、和食の代表格の筑前煮は口に合わないのではなかろうか。そうなると、まずは誰でも食べられそうなカレーにするべきなのではないか。
魔莉が同じ料理を英二に教えてもらおうとしているとは夢にも思わず、英二はひとり料理のレシピに悩んでいた。風呂に入ったのは、九時過ぎだった。
 濡れた髪を風にさらして乾かしつつテレビをみながらコーヒー牛乳を飲んでいると、先に入った満春があくびをして英二の頭をぐしゃぐしゃとかき乱す。満春は眠くなると、きまってこういった茶目っ気のある、ありていに言えば幼稚な行動を気まぐれにする。
「なんだよ、せっかく整ったまま乾いてきたところなのに」
 英二はソファのクッションに頭をのせて顔をしかめた。弟のしかめ面に、姉はにんまりと気味の悪い笑みを浮かべ
「髪型なんて気にする歳になったのか」とからかう。英二はテレビに目を移し、無視した。
「そういや、英ちゃん。なんでコンビニにアイス買う程度であんな時間使っていたの。てか、結局アイス買い忘れてたし」
 満春は冷蔵庫の麦茶を取りだして自分のコップにそそぐ。英二の背中が少し震えた。
「ああ、友達に会っててさ。ちょっと話してて、それで忘れた」
 英二は話をごまかした。ここで正直に話せば、面倒なことになる。
「ふーん、そう」満春はそれきりで話は続けなかった。
 姉が二杯分の麦茶を飲み干して二階へ上がるのを見届けると、英二は胸をなでおろした。魔莉の話になると、どう他人に話していいのかわからなくなってしまう。
 効果音と煽り立てるようなナレーションを絶え間なく流すテレビでは、下品な話題で盛り上がる芸能人が手を叩いていた。
 俺ももうすこし、気楽にカジュアルな話ができれば苦労はしないのに。
 英二は半乾きの髪を手櫛で梳いて、息を漏らした。
 そのあと、テレビを消して自分の部屋に戻った英二は、日付が変わる直前までレシピを書いていた。
 目が覚めたのは七時過ぎだった。あくびを繰りかえして制服に着替え、リビングに下りるとトースターで食パンを焼いた。姉は朝練があるから、もう家をでたのだろう。流しに置いてある食器でわかる。それらを洗うのは英二であるということも、自ずとわかる。
両親が帰ってきたのは日付けが変わったあとのようだった。鍵を外す音も覚えていない。二人とも夜勤だった日はいつもこんな感じだ。
靴を履いて鳥のさえずりが聞こえる道路を歩くと、途中で何人も同じ高校の生徒とすれちがった。ときどき朝の挨拶を交わしながら英二はポケットに手をつっこんでだるそうに通学路を歩いた。
「今日は遅刻しなかったんだな」
「湯田か」
曲がり角で手をあげた湯田に、英二も同じように返す。
「今日さ、身体計測だけなんだよな」
「そうだけど」
「いや、もう授業とかあったかなって」
 昨日先生が言っていたじゃんと英二が笑うと、湯田も笑った。ただ、それは単に同調するような笑いで、心ここにあらずといった感じだった。
 英二は昨日の学校でのことを思いかえして、どこかうつろ気な湯田の歩調に苦笑いした。このまま魔莉に現を抜かしているようじゃ、呆れを通りこして心配になる。
 教室に入るとすでにグループが形成されつつあった。いまのところは同じ中学で固まっているが、そのうち部活や性格で段々とみえない層ができるはずだ。とりあえず英二と湯田は例外に漏れず中学の知り合いと雑談をした。
 知り合いと話しながら、俺も何か、部活に入るべきだろうかと英二は悩んでいた。中学では科学部の幽霊部員だった。そもそも理数系の科目が苦手なのに、見た目で面白そうと入部したのが間違いだった。
 だがこの三年間は、中学生のように笑い話にできるほど軽い三年間ではないと英二は勝手に意気込んでいた。きっとフィクションを平均と考えているだけなのだろうが、そう思いつつも自分なりのドラマが起きるのではないかと期待していた。
 初日はその期待を大幅に超える滑りだしだった。正直、超えすぎて何がなんだかわからないくらいだった。志野からの電話がいちばん心躍らせる出来事だったはずなのに、上から落書きするような魔莉の言動のせいで淡白に消化されていた。
 魔莉は本当に、あれを履いて身体計測をするのだろうか。計測する部屋は内科や歯科などで違い、生徒は巡礼よろしく各教室を決められた順序で回る。つまり、トータルでなかなかの移動を求められるのだ。
 もし、英二が魔莉をまったく知らなくて廊下でブルマ姿の女の子をみたら、どんな感想をその瞬間に抱くだろうか。きっと眼福程度にしか思わない。しかし知っている女の子がそうなると、話は別だ。ましてやそのブルマが洗濯されていく様をみていたとなると、さらにまた別の話になる。要は、さらに目を離せなくなるということ。
 更衣室で着がえたあと、すこし遅めのホームルームがはじまった。クラスのざわめきは少し前から教師の目を憚るように床を這っていた。ざわめきの中心には魔莉がいる。
「魔莉、それ何」
「ブルマって、ちょっと古くない?」
 口数が多い女子たちが、知らない言葉をはじめて聞いたような顔をして魔莉の下半身をみる。遠巻きに男子が目を細めた。鳥瞰的にクラスの視線を解析すると、そのほとんどが机の陰に遮られる魔莉の脚に注がれていた。
「あのね、これ実はお母さんが持っていきなさいって。私のときはこれだったからって……」
「前時代すぎるだよ、魔莉」
「お母さんも相当だね」
 耳に響く笑い声がクラスを埋めた。男子のなかにもつられて笑う者がいたが、それは女子のとくらべてずいぶん下卑ていた。
「男子にみられちゃうから、隠さないと」
 女子のひとりがおどけて魔莉の腿に掌を滑らせた。何気ない動作だったが、車のフロントガラスを磨いているみたいで、男子の鼓動を乱すにはじゅうぶんだった。
 新津はみてみぬふりをして、出席を取り一日の流れを手短に説明するとそそくさと教室をでた。もしかしたら新津も魔莉の姿に戸惑い、恥ずかしさを覚えたのかもしれない。
 それはしょうがないことだった。なんの違和感も覚えていないような顔でそんな体裁で座っていると、ジャングルジムで下着がみえてもお構いなしに遊びつづける幼い女児のようで、妙な屈託を心に抱かせるのだ。
 英二が湯田と計測する教室を回っていると、湯田はぽつりと言った。
「夢野さん、みただろ」
 英二はああ、と返した。さすがにみていないとは言えなかった。それに、興味がまったくないわけではないし、みてみたい欲求だって持っていた。あんな予告をされては、なおさらだ。
「なんだかさ、俺あの人みてると不安になるんだよね」
「不安?」
「うん。危なっかしいことばかりして。でも、その反面みていないと不安になるんだ」
 そうか、としか英二は言えなかった。勝手にしてくれというのが本心だった。
 身体計測も折り返しまできて、残り半分というところで同じクラスの女子たちとすれ違った。短い言葉を交換するクラスメイトもいたが、誰ともまだほとんど話していない英二は牛の歩みで進む列の前をみるだけだった。
 女子の列の最後に、魔莉がいた。そのときだけ一瞬英二は目を列から移した。その一瞬を捕らえるように、薄い色素の目が英二の瞳の奥をみる。それを二秒ほど続けて、ウィンクしてみせた。英二は慌てて目をそらした。何度目かのデジャヴ。
 計測表を埋めて更衣室で着がえて教室に戻るまで、湯田は英二に話しかけなかった。いつもは退屈を紛らわせるためにどうでもいい話をするのに、むしろ時間が足りないという顔で、何か真剣に思い詰めるような顔をしていた。英二はそんな湯田をみて、荒々しく髪をかきあげた。湯田はどうしようもない病気に罹ってしまったようだった。
 新津が来るまで、英二は席を離れて他の生徒と話していた。背中に湯田がいると思うと肩が凝りそうだった。
ホームルームは昨日と同じようにあっさりと終わった。明日から授業がはじまると言っていたが、それほど憂鬱ではなかった。こんな一年の最初から憂鬱になってはどうしようもない。いまはまだ、期待のほうが大きいのだ。
湯田が今日はひとりで帰ると言うので、英二は教室のドアをくぐり背中のバッグの位置を調整しながら歩いていた。でる間際に一瞥した湯田は、心にフィルターをかけるような表情をしていた。
 梅田に会ったら、湯田はいつもどおりの表情を取り繕うのだろうか。だとしたら、それは両人にあまりよくない気がした。だが結局、英二が不安がったところでそれは解決もしないことだ。英二には、いまのところ湯田が思いに耽るのをみていることしかできなかった。
 水流のように無規則な線を描く木目に目をむけて歩いていると、突然背中に衝撃を感じた。ふりかえると、誰もいない。周囲で聞こえる内履きのステップを追うと、魔莉が笑っていた。
「英二。昨日のこと、覚えているよね?」
 昨日のこと――コインランドリーでの出来事だ。
 英二が無言でうなずいた。
「今日の夜って、都合いい?」
「まさか、今日ってわけはないよな」
「そのまさかにしようと思うんだけど、ダメ?」
 ダメではないけど、さすがに急すぎるのではないか。そう言って日を延ばそうとしたが「昨日のこと」を思いだすにここで断るとまた魔莉の上目遣いがため息まじりな英二の許諾を求めてくるので、英二はうなじに手を当ててかったるそうにわかったよと答えた。
 英二が首を縦に振るのを確認すると、魔莉は花のような笑顔で
「じゃあ五時に駅前でね」と手をひらひらとはためかせた。
 昨日に引き続き、今日も慌ただしくなりそうな気がした。
 帰り道の魔莉は上機嫌だった。身体計測の恰好は、賭けみたいなものだったが案外クラスからのウケはよかった。女子は気の利いた冗談のように受けとったし、男子たちは言わずもがなである。あれで魔莉のキャラは「どこか間の抜けている明るい帰国子女」で固まった。
 ただひとつ、不満なところを提示するなら英二の反応が薄かったところだ。せっかく昨日、予告をしておいたのに少ししか目線を寄こさなかったのだ。
 そのかわり英二とよくいる湯田という男子はこちらをしきりにみていた。きっと、姿に惚れているのだろう。下駄箱の彼女を放って不埒なことをするのは、感心できない。それに魔莉が欲しいのは、英二の視線なのだ。他人がみることを咎めないが、みたところでどうするということもない。
 家までの道を魔莉は道草をくいながらゆっくりとたどった。忘れていた調味料を買ったり、ふたりぶんのクッションを雑貨店で探したりして、殺風景で不十分なアパートの部屋を今夜の勝負の舞台にするべく魔莉は商店街をジグザグに通る。
 魔莉がアパートに着いたのは、一時半だった。それから英二を迎えに行くまでの二時間強はセッティングと昼寝に使った。
10, 9

  

 本を読んだりゲームをしたりしても、英二はいまいちざわつく心を静められずにいた。誰かの家に行くこと自体に緊張しているのではない。むしろそれは慣れているのだが、女子の家に行くのは友人の家に行くのとはもう別世界なのだ。
しかも魔莉はひとり暮らしときている。あの魔莉がふたりきりになって何もしないわけがない。誰の視線もないと、きっと更に歯止めがかからなくなって……。
英二は首を横に振って逸れていく思考回路の軌道をふりだしに戻した。まるで何かが起きることを期待しているような自分が、嫌になった。
時計に目をやると、まだ三時にもなっていない。今日の午後はやけに時間の流れが遅く感じられた。英二はベッドから起きあがると伸びをして、机に放っていた本の続きを読みはじめた。
ゆっくり読んでいたつもりだったが、家を出るころまでに百ページほどめくっていた。雑念を払うように集中して読んでいたから、肩に気だるい重たさを感じ、目は少しばかり引きつった。
椅子の背もたれに身体を預けて背中を張ると、骨が軋む音がした。英二はあくびをしたあとに昨夜書いたメニューと鍵と携帯電話を小さなバッグに入れて、薄手のパーカーを羽織ると家をでた。別に焦っているわけではないのに、英二は足早に駅への道を向かった。
魔莉は駅の改札口の時計を窺った。もうすぐで待ちあわせの四時になる。英二と約束をするのはもちろんはじめてだから彼が時間を守る人かどうかは知らないが、遅れたとしてもせいぜい五分くらいのはず。魔莉は気長に待つことにした。
駆け足で英二が商店街から姿を現したのは四時を微妙に過ぎたあとだった。誤差程度の遅刻に、英二はごめんと一言詫びた。それで許してもよかったが、意地悪をしてみたくなった魔莉はとってつけたような不満気な顔をして
「女の子を待たせるって、どうかと思うんだけど」と言って、頬を膨らませた。
英二は魔莉の表情に驚いたのか
「ごめん、間にあうかと思ったら意外と時間がかかった」などと言い訳を並べる。
もう少しいじっても面白いだろうがあまりそうすると拗ねてしまうだろうから、魔莉は組んだ腕を背中のうしろに回して
「じゃあ、これからはちゃんと連絡取れるようにしようね」
と携帯電話をベージュのカーディガンのポケットからだした。英二はああ、と携帯電話をバッグから手に取る。それから、魔莉のアパートまで歩きながらアドレスと番号を交換した。
そういえば、と英二は会話を切りだす。
「今日は何をつくるつもりなの」
「あのね、筑前煮っていう料理が日本らしいって聞いたから、それにしようと思うんだけど。……英二、つくり方わかる?」
すると英二は目をみひらいて
「偶然だな。それにしようかなと候補に入れていたんだ」と答えた。
運がいいと魔莉はほくそ笑んだ。その表情を英二にみせることなく、鍵を外して部屋に入る。洗面台で手を洗う魔莉の耳に、英二のぎこちない口調の「おじゃまします」が聞こえた。
 魔莉の住むアパートはものがあまりなく、すっきりしていた。引っ越してからまだ日が経っていないからか、必要なものさえないように思えた。そのかわり、隅々にまでいままで嗅いだことがない果実のような香りが満ちていた。
 自然と視線を泳がせていたことに、みなくても気づいたのか魔莉は
「あんまりみないでよ。恥ずかしいから」とクギを刺す。
 リビングにふたつ並んだクッションに座ると、英二は開放感のある部屋を魔莉が洗面室にいるうちにぐるりと見渡した。洋服掛けにテーブル、CDプレイヤー、ラジオ、本棚、ベッド。ゆきとどいた生活をするには、少々物足りない気がした。衣類の種類も、男からみても不足しているということがすぐにわかる。
「英二。あんまりみないでって言ったのに」
 部屋に気を取られた英二は、魔莉がやってきたことに声で気付いた。言い訳のひとつでも並べてごまかそうと思いながらふりかえると、そこには――
 地肌に白いエプロンを着た魔莉が、少し前かがみになってくちびるを尖らせていた。
 英二は霊でもみたような反応をした。窓まで後ずさりしたのだ。そしてすばやくカーテンをひいた。
「誰にもみえないようにして、どうするつもりなの」
「近隣住民に誤解を与えないようにしたんだ」
「ふぅーん」
 妙なテンポで身体をひねる魔莉は、例えるなら砂糖だった。少しみるなら目の保養になるが、過剰摂取は毒である。
 忍び寄るように魔莉は英二に近づいた。電気をつけていない部屋は、太陽の光を遮断すると宵と同等の暗さで、頼んでもいないのに雰囲気を勝手に演出した。
「待った。とりあえず筑前煮つくろう。話はそれからだ」
 そう言うと英二は魔莉の返事を待たずに立ちあがり、電気をつけてキッチンに向かった。魔莉は満塁で三振したバッターに送るような視線を英二の背中に刺すと、そのうしろを追いかけた。
「しいたけとかれんこんとかって、冷蔵庫に入っているんだよね」
「うん。お肉も下の段に入れてあるから」
 英二の隣に立って肩越しに材料をみようと跳ねる魔莉をなるべくみないようにと英二は努力した。いま取りだした野菜のほうがずっと魔莉よりも魅力があって、鶏肉は素肌のようだ……なんて器用なことができるほど、英二は妄想力に長けていない。
 だいたい、隣であられもない姿でそんなモーションをするほうが悪い。これじゃイメージビデオの収録を同じ部屋でしているようなものだ。
「調味料は?」
「今日買ってきたよ」
 下の戸棚を魔莉はかがんで開けた。かがむと、当然英二は魔莉を見下ろすことになる。
 英二はキッチンの小窓から、自分の住む街並みを眺めながら口笛を吹いた。ときどき視線を下に落とした気もするが、それは抗えない力のせいということにした。
「ほら、これ」
「ちゃんと買ってきて……ないじゃん」
 並べられたのは、ローリエにバジル、トマト缶、オリーブオイル等々だった。これはきっとおいしいイタリア料理ができる。
「夢野、おまえ料理のさしすせそとか聞いたことある?」
「えっと、サフラン、白胡椒……」
「いいや。一緒に買い物行こう。醤油もない和食なんて、聞いたことない」
 英二はいったんキッチンをでて、玄関に向かった。魔莉は衣擦れの音と共についてくる。
「ちゃんと、財布は持っているよな」
「うん」
「その恰好では行かないよな」
「嬉しいクセに」
「それとこれとは話が別なんだよ」
 はいはいと魔莉は間延びした返事をしつつ、魔莉は洗面室に入った。やっぱり何もないわけがなかった。英二は待っているあいだ、靴紐を三回結びなおして気を紛らわせた。
 ふたりは駅ビルのスーパーで必要な調味料を買うことにした。わざわざ商店街へ行くのは面倒だったし、またあんなにひっついて歩かれると、英二が気疲れしてしまうからだ。魔莉はそちらのほうがいいと言いたげだったが、英二は聞く耳を持たないようにした。
駅ビルは帰宅ラッシュの人波が立ちはじめていた。スーパーも、その下の店も揃って混んでいた。ふたりはそのなかを肩がぶつからないように歩いた。
スーパーに入ると、魔莉の顔に気付いた店員のひとりが寄ってきた。
「昨日のお客様ですよね。どうでした、うまく筑前煮はできましたか?」
魔莉は苦笑いして、首を横に振った。
「実は調味料を切らしてるのを忘れてて。今日のお夕飯につくるつもりだったからあらためて買いに来たんです」
そうですか、と愛想のいい笑みを浮かべて答えると、英二に目をやり
「今日は彼氏さんも一緒なんですか」
と聞いてきた。丁寧な対応をしても、おばさんはおばさんである。
「いいえ、僕はいとこです。ごちそうになるので買い物を手伝ってこいと言われて来たんです」
魔莉が適当な相槌を打つまえに、英二は適当な嘘をついた。隣で眉をひそめている魔莉は気にしないでおいた。
「困ったことがあったら、聞いてください」
頭を下げると、店員は商品棚の整理に戻った。
「買い物はすぐ終わるし、夢野はお菓子コーナーでもみてたら」
英二がカゴを取りながらそう言うと、途端に魔莉は反対した。
「いいじゃん。私もどこにどういうのがあるか知りたいし」
「またひとりで来たときに探してみなよ」英二はうまく受け流そうとする。
「それにお菓子コーナーって、なんだか子供扱いじゃない?」
「食後になにか食べたいだろ。夢野はそれを選ぶ係だ」
といったやり取りをしばらくしたあと、魔莉はしぶしぶそれに従った。
英二はひとりになると、一安心したような顔で息をついた。ふたりでいるところを同じクラスの人間にみられたら、どう思われても反論できない。店員のおばさんは、この際ノーカウントだ。
買い物と言っても、売場は固まっているし買うものだって決めているから時間はかからない。どれがいいかなんて悩んでいると魔莉がやってきて一緒に選ぶと言いだすかもしれないし、いいものを選んだところで味もわからないだろうからほどほどの安さのを選ぶことにした。
「あれ、矢川くん?」
聞きおぼえのある声が英二を呼びかけたのは、ちょうどそのときだった。
もしやと思って声のしたほうへ顔を向けると、昨日電話で話した志野がそこにいた。
「久しぶりだね。同じ町に住んでいるのに、すれ違うこともなかったから」
面と向かって会うのは卒業式以来だが、志野の話口調はまったく変わっていなかった。電話していなければ、少しは緊張していたのかもしれない。
「でもさ、電話で話したじゃん」
「そう。そうだよね。昨日の今日で偶然会うなんて、すごい偶然だよね」
英二の何気ない一言にも、志野はオーバーなくらいに同調した。その様子が、英二にはとても懐かしく思えた。
「何買いに来たの?」
「醤油切らしててさ。お使いさせられた」
「私も。他にも文房具とかみたかったし」
英二は今日、二度目の嘘をついた。魔莉がでてくればすぐにバレるというのに。
「矢川くん、電話で言ってた本なんだけど……」
志野は昨日の話の続きをはじめた。こうしてまた話が直にできたのはとても嬉しいのだけれど、お菓子コーナーに魔莉がいて、そのうち痺れを切らし探すかもしれないという可能性を考えると、落ち着かない。
志野をあまり傷つけないようにこの場を抜ける方法を考えあぐねつつ志野と話しているうちに
「英二、お醤油みつからないの? それともみりん?」
と英二を呼ぶ魔莉の声が聞こえた。マズい。志野と魔莉には面識がある。
「ごめん。姉ちゃんに呼ばれたから。じゃあまたね」
「え? あ、うん。またね……」
志野に振る手もほどほどに、英二は魔莉の声がしたほうへ走り去った。
魔莉をみると、わざわざカゴまで用意してお菓子を選んでいた。
「いいけど、買うのは夢野なんだぞ」
「大丈夫だよ、お金はあるし。それよりさっき誰としゃべってたの」
「友達」手短に答えて、英二は両手にもった調味料をカゴに入れる。
 それ以上聞こうとはせず、魔莉はレジに直行した。英二は距離を置いて胸をなでおろした。
「遅くなっちゃったね。ごめん」
 駅前から一本入った路地で、魔莉はぽつりと謝った。意外な言葉に、英二は
「いや、そんな遅くなってないから大丈夫。姉ちゃんには連絡入れる」
「へえ、お姉さんいるんだ」
「最初に会ったとき、言わなかった? ひとつ上だって」
 そう言いつつ最初に会ったときのことを思いだして、英二は魔莉にたいして言いたかったことがあるのを思いだした。
「そう言えば、新津先生にみられたらしいんだけど」
「さっきのエプロン?」
「それじゃなくて、昨日廊下で……」
「そうなんだ」
 魔莉は新聞の隅に載った小さな記事のことのように、どうでもいいという感じだ。その態度を訝しんだ英二は、少し苛立った語気で
「いいのかよ、夢野は。しかもそれ姉ちゃんから聞いた話だし」
「じゃあお姉さん公認ってこと?」
 心配したり嫌がったりするどころか、逆によかったとでも言いたげな反応だ。盛大に息を吐いた英二に、魔莉は強い眼差しで聞いた。
「英二は、嫌なの」
「何が」
「私と仲良くしているところをみられて」
「仲良くっていうか、そっちが一方的に……」
「ならどうして、家まで来て料理を教えてくれるの」
 英二は言葉に詰まった。魔莉の瞳はメデゥーサのようだった。うつむいているうちに、ふたりは魔莉のアパートに戻っていた。
 マンションまでの道でみせた目はまるで別人だったかのように、魔莉は普段どおりの言動をとった。洗面室でまたさっきの服装と言いがたい服装に着替えようとするし、筑前煮をつくっているときも過度なスキンシップを英二にしかけた。
だがそれは「普段どおり」を装っているようにもみえた。魔莉でも自分の部屋に異性を呼ぶとなると多少の緊張をするのかと、英二は内心、驚きつつも安心した。
料理ができるのとあわせて、インスタントの味噌汁を椀のなかでつくるとそれらをリビングのテーブルに並べた。小さいから、すぐにテーブルは埋まってしまう。
「ラジオでもつける?」
飲み物を注いだコップを置くと、魔莉は先に座っていた英二に聞いた。無言でうなずくと、魔莉はスイッチをひねった。中身があまりなく聞きやすい会話がBGMとともに耳に入る。
「いただきます」
英二が手を合わせると、それをみて魔莉も同じことをした。
「案外うまくできてる。味もしみてるし」
箸をもってこんにゃくをひとつ口に入れると、英二は予想以上の出来に顔をほころばせた。
「だね。こんなにおいしくできるとは思わなかった」
魔莉は筑前煮と味噌汁を交互に食べつつ、ときどきコップの白い飲み物を飲んだ。英二には緑茶が渡されているが、魔莉の飲み物がなんなのかはわからない。
そのあともふたりは淡々と箸を動かした。ラジオの音が響いているから静かというわけではないが、会話のない食卓に気まずさを覚えた英二は
「でもこれ、ご飯があるといいな。やっぱりあるかないかで違う」
とアドバイスめいたことを言う。
「なら買えばよかったね」
「買うと言っても炊飯器はないし、電子レンジもないからパックのも使えないからな。……なあ、ちゃんと聞いてる?」
「うん、聞いてる聞いてる」
英二の横で動かす箸がおぼつかなくなってきた魔莉はこちらに猫のような瞳の光をよこす。英二は目を逸らそうとするが、宝石まがいの茶色は、それを許さなかった。
「夢野さ、この箸とか茶碗とかどうしたの。お父さんの?」
「ううん、買った」
まさかと思い、言わずにおいた予想が答えだったので英二はそうかの一言もうまく言えなかった。
だが魔莉にとっては英二がどう思ったなんて関係ないようで、そのまま聞いてもいないことに答えつづける。
「いま英二が座っているクッションも、来る前に買ってきたの。……これから、毎日三食ウチでご飯が食べられるように」
「そんな頻繁に来るつもりはない」
「遠慮しなくてもいいのに」
 そう言って大笑いしたかと思えば、急に目を据わらせて
「英二はぁ、私のご飯が食べられないってことなのぉ?」
 と頬を膨らませて英二に身体を崩しながら胸を叩いた。英二はよろけながら気でも触れたような魔莉のテンションについていけず、ただただ目を点にさせるだけだった。
「夢野。落ち着け。どうしたんだよ」
「落ち着いてますぅ。英二が受け流しているだけですぅ。これ、マーボードウフって言うんですぅ」そしてまた、何がおかしいのか英二の腹に顔をうずめて大笑いする。
 馬耳東風じゃないのか、と突っこんでも、たぶん魔莉はまともに返してくれないだろう。通常時でも軌道の上をギリギリのバランスで運転する魔莉が、今日は箍が外れてしまっている。
 魔莉はしばらく英二をクッション代わりにして顔を上げずにいたが、唐突にグッと顔を上げて親指ひとつぶんくらいの距離で英二をみつめた。
「分かっちゃった。英二、最初からそう言えばこうやって焦らさないであげたのに――」
 何が分かったというのか。英二はえも言われぬ空恐ろしさを背筋に感じた。
 魔莉は立ちあがると、ベージュのカーディガンを床に落とした。なんのためらいもなく、下に着ているブラウスも脱いだ。英二は手を伸ばして制止しようとしたが、魔莉は捕虫網から逃げる蝶のように軽やかなステップでリビングを回る。そのあいだに電気を消し、ラジオの電源を切ってカーテンの如きマキシスカートも絨毯にしてしまった。あとは下着だけだが、暗くてはたしてつけているかどうか英二は確認することができない。
 英二はそのあとも続くステップを止めることもできず、カーテンを幽かに通過する月光だけが部屋の間接照明となっていた。柔肌に直接エプロンを着ていたときよりも暗さは増している。それが魔莉の媚態を引き立たせた。
 踊りあきると、魔莉は貧血を起こしたように急に倒れた。英二は受けとめようとするが、勢いが強くそのままふたつのクッションに倒れこんでしまう。つむった目を開くと、魔莉が純情そうな笑顔で英二をみつめる。
「ねぇ、私のはじめていくつ欲しい?」
 衝撃で半開きした英二の口に、間髪を容れず魔莉は自分のくちびるを重ねた。麻酔に似た、すべての感覚を遮断する痺れが身体を駆けぬけた。自ずと瞼は閉じていた。
 三十秒か一分か、あるいはそれよりも短い、されど花火のように色彩豊かな時間が、頭の奥深くで弾けた。
「これがひとつめね」
 窒息するかと思うほどの密着を解いて、魔莉はいよいよ背中に手を回した。英二の夜の闇に慣れた目は、それを瞬きひとつせずにみつめていた。ふたりが起こした感情の波は、もう抑えようのないうねりを帯びていた。
 しかし、英二は肌からはがれ落ちた下着の他に、もうひとつの動く影をみつけた。
 それは、地を這う蛇のように壁にのたうち、魔莉の腰へとラインを描く――
 尻尾だった。
 
12, 11

  

 英二はそれをみて、催眠術にかかりかけたような心に冷静を取りもどした。すでに状況は急転に急転を重ね、何が起きても動揺するに値しなかった。だから英二には、それがなんなのか真剣に考える余裕があった。もっとも、そんなことを真剣に考える時点ですでに催眠状態のなかにいるのかもしれないが。
ともかく、英二は魔莉の身体の影に隠れて動くものがなにか気になってしかたがなかった。英二は黙って、それに触れるチャンスが来るのを待った。
「英二も……はやく」
好機は意外にもすぐおとずれた。魔莉が最後に身につけている下着を脱ごうと立ちあがったのだ。胡乱な影も、それについて動く。英二はついに実物を、魔莉の腰あたりから生えた尻尾を目視した。それは闇のなかでもはっきりとわかるほどの漆黒だった。
「夢野、ごめん」
小さくつぶやくと、英二はやおら身を起こし、背中のうしろ側に手を伸ばした。そして尻尾を思いきりつかんだ。
「ひゃぅんっ」
力が強かったのか、魔莉は声を上げた。気が抜けたのか、へなへなと腰を下ろし膝を曲げて立つ英二の脚に頭をもたれかけた。
英二はそっと座って、魔莉の肩を支える。さっきまでの言動が嘘のような静けさに多少心配して魔莉をみた。息遣いから、ただ眠っているだけということがわかって英二はホッとした。
 時計をみるとまだ七時にもなっていない。街を歩く人々よりも少しはやく下ろした帳のなかで、英二は急速に醒めていく感情に、なぜか落ち着く節があった。
 魔莉を抱えてベッドに寝かせることもできないし、このまま放っておくこともできない。英二はせめてもの親切をと、羽毛の詰まった掛布団で魔莉を包みこんだ。もう尻尾は引っこんでいた。
 英二はしばらく無音の部屋に留まり、残っていたお茶でほてった身体を冷やした。それでも魔莉が舌先に残した、甘美な残り香はなかなか消えなかった。結局、英二は二十分ほどして魔莉のアパートを去った。鍵を外して勝手にでていくのには抵抗があったが、どうにもこうにも魔莉は目を覚まさなかったのだ。空いた食器をシンクに持っていき、水を張るとテーブルにレシピを置いて英二は部屋をでた。廊下はうすら寒く、服の奥の肌にもしんしんと伝わってきた。
「また明日」
 返事のない別れは、どんなことがあってもその瞬間、少し寂しさを覚えるものだ。英二はませた寂寞を抱えつつ、家路を急いだ。
 家に帰ると、満春がひとりで買ってきた弁当を食べていた。自宅のドアを開けた瞬間、連絡するのを忘れたことを思いだしたが、満春は特に気にしていないようだった。
「あ、弁当買ってきちゃった。英ちゃんは」
「友達と飯食ってきたから」嘘は言っていない。アバウトに言っただけだ。
 特に反応はせず、姉はそのまま食事を続けた。英二は二階に上がり、昔志野に勧められて買った本を読んだ。そうすることで、魔莉の部屋でみた白昼夢――と言っても、夜での出来事だったが――を、忘れられるような気がした。だが、口のなかで転がりつづける香りは、まぎれもない魔莉のそれだった。英二のファーストキスは忘れがたいものとなったが、その反面忘れたいと思うものでもあった。
 魔莉が目を覚ましたのは、英二が家をでてから何時間も経ったあとだった。あくびをして、英二のいない部屋を見渡す。テーブルの食器は片付けられ、かわりになにか書かれた紙がおいてある。ほぼ裸の身体には掛布団がかけられていた。
のそのそと掛布団をかぶったまま、魔莉はテーブルの紙を手に取った。いちばんの上に料理名が書かれていて、その下に材料と作り方が続く。それらはみな、レシピだった。
魔莉は、掛布団の裾を強く握った。
すでに日付けは変わり、英二が来たことは昨日の話になった。それでいいのかもしれない。あれははやく、思い出にして忘れられないようにしておきたいのだ。魔莉はシャワーヘッドからこぼれ落ちる温かい雨のなかで、ハンギングをつくるように夜の幕間のなかで起こったすべてを記憶の軒先にぶらさげた。
パジャマ姿で濡れた髪を丁寧に拭きながら魔莉はラジオをつけた。音量をしぼると、秘密の話をするように旧い歌が流れる。
軽快なテンポを刻むその曲は、恋はギヴアンドテイクだと歌っている。
もしかしたら、ああやって与えすぎるだけでは英二の気持ちはこちらに寄りそわないのだろうか。時には釣り人みたいに気持ちが食いつくのを待つのもアリなのだと、ひとつの失敗を過ぎて魔莉は思った。
魔莉は乾ききっていない髪をそのままに、英二の書いたひとりぶんのレシピをふたりぶんの量にしてノートに写した。あの姿のことは、また明日説明すればいい。夜はペンが紙を走る音と、知らない時代のサウンドのなかで更けていった。

 
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