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あの娘のビッグウェンズデイ

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 英二はおおきなあくびをして高校への道を歩いている。三日目の、まだ真新しさが残る通学路には、同じ服を着た学生がたくさんいる。そのなかには、当然アベックもいて外車のように目を引く。
 かつては、英二もああいったふたり連れをトリミングしては憎まれ口をきいたものだが、昨夜の経験を通過してからは、どこか達観した風にみることができた。完全に魔莉のペースに飲まれただけだが、結果からすると同級生の男子のほとんどがいまだ知らない領域に足を踏みいれた。言うなればゲームのベータ版だったわけだが、ゲームの名前すら知らない者もいるなかで、英二は無駄に博識になったのだ。
「今日はいつもより眠そうだな」
 いつものタイミングで曲がり角に姿をみせる湯田と合流すると、肩を並べて登校する。眠気の理由をすべて隠さずに話したら、きっとゴールデンウィークまで口を聞いてくれない。
「ああ、本読んでてさ」
 だから、英二は簡単な嘘でごまかした。とってつけたように目をこすると湯田は苦笑しつつ
「もう本は読まなくていいんじゃないか。図書委員じゃあるまいし」
 とからかう。英二は余裕をかました表情で言ってやる。
「お前、卒業式から音沙汰がまったくなかったと思っているんだろ」
「連絡あったのかよ?」
 湯田の問いに、英二は口角をさらに上げた。湯田は油断ならないといった顔で
「まさかあるとはな。ま、ともかくよかったじゃないか」
 賛辞を呈した。それでもまだ少しの疑念があるということが、目尻のあたりで分かる。
 その日から学校では授業がはじまった。まだ今後一年の内容や教師の紹介などといった授業らしくない中身だったが、英二は入学してはじめて自分が高校生になったということを実感した。
 いくらなにかを教授されたわけではないと言っても、六時限目まであると疲れを覚えた。水筒のなかのお茶は昼までに尽きて、いまは自販機のペットボトルで喉の渇きを潤している。
 英二は学校ではあまり開かない携帯電話をみた。退屈でもまだ喋るコミュニティは形成されていないし、湯田は初日に提出するはずだった書類をだしていないとかなんとかで職員室に呼びだされたのでまったく話す相手がいなかったのだ。
 珍しくメールが受信されていた。スパムも何も来ないから、下手すると三日メールが来ないこともある英二の携帯電話にとって、メールは「まれびと」のような存在である。
 どうせ魔莉がアドレスを交換したので面白がってふざけたメールを送信したのだろうと思いきや、差出人は志野だった。ボタンを何度か押し間違えながら本文にたどりつく。
 ――昨日は偶然だったね。あまりお使いをすることはないから、なおのこと偶然の度合いが強いというか……。矢川くんはお姉さんと来ていたみたいだけど、よくあのスーパーには行くのかな。
 なんとも奇妙なメールだった。あのスーパーに行くのはあまりないことだし、偶然であったことには間違いないのだけれど、わざわざメールを送るようなことだったのか。英二は首をかしげたが、わざわざ志野が自分にメールをした事実を好意的に受けとめることで疑問に思う心を振りきった。
 疑問に思う心を振りきったところで、次にどう返信するかに悩んだ。スーパーによく行くかになんて、いったいどんな文面で返せばよいのだろう。
 悩んだあげく、話すときのようなそっけなく話題の広がらない言葉しか打てなかった。
 いや、あんまり行かないけど。
 メールを送信しおわったあと、携帯電話の液晶をみて、そこにうつる情けない顔に英二はため息をつくばかりだった。メールを受信したのは正午すぎ。三時間後の返事がこれだけとは、志野もあきれているはずだ。
 志野が英二に送るメールを打ったのは、スーパーから家に帰ってからすぐだった。それから何度も文面をチェックして、結局送ったのは午前の授業が終わってからになってしまった。
 会話の途中、英二はなんだか落ち着きがなかった。誰かが来るのを気にしているような様子で通路を気にしているようだった。
 姉にせかされていたのならまだいいが、志野が別れ際に聞いた声は、中学校のときに聞いた覚えがある満春の声と符合しなかった。
 だが、志野はその声を聞いたことがあった。昨日会ったばかりの、謎と可愛げをちりばめたような女の子、魔莉の声だった。
 志野は駆け足で声がしたほうに向かった英二を追いかけようか迷ったが、耳を立てて英二と魔莉の声を喧騒のなかから探すだけに留めた。
 どうして英二は、姉と来ているなんていう嘘をついて魔莉と買い物に来ていたのだろうか。
 魔莉は海外から越してきたばかりというから、スーパーの場所を教えるついでに買い物を一緒にしていたのだろうか。もしくは、すでに一緒に買い物をするほどの仲なのか。
 考えれば考えるほど、邪推は堆積して心に層を重ねた。心臓はトレモロのようにせわしなくはやいテンポで鼓動を打った。
 だから、志野はメールを送ったのだ。婉曲にしようとした結果、本題はずれてしまったが、文のなかに毒を少しばかり塗っておいた。姉と来ていることを自然と認めるような内容にしたのだ。おそらく英二は単純なイエスかノーでしか返信してこない。ぶっきらぼうだから、考えても洒落た文章なんて打つ柄じゃないと、自分自身を決めつけてしまっているはずだ。
 はたして返信は志野の予想どおりメールを送ってから時間を経てきた。六時限目が終わってから、打ったのだろう。携帯電話越しに英二の行動が透けてみえるようで、志野は吹きだしてしまいそうになった。
 内容も思ったとおりシンプルそのものだった。これからどうやって嘘を崩そうか、志野は学校では珍しい笑みをこぼした。
 返信を待っていないにしても、英二はきっと携帯電話がいつ震えるかを気にしている。はやいうちにメールを送信してやろうと、志野のタップする指もはやくなる。
 英二の携帯電話の液晶がふたたび光り、バイブとともにメールを着信したことを告げる。志野だった。驚くほどはやい。
 ――そうなんだ。あ、そういえばスーパーでマリをみかけたよ。たまたま行ったスーパーに知っている人がふたりも買い物していたなんて、驚いちゃったな。
 背中の産毛が逆立つような気がした。志野が魔莉と知りあったことは承知していたが、店内でみかけているとは思わなかった。
 ふたりでいるところをみられていたら、どうしようか。姉ときたという建前は、発泡スチロールよりも簡単に崩れてしまう。志野の英二にたいする信頼も、どれほどあるかはわからないがその大部分が崩れてしまうだろう。
 英二は顎先をつまんで、真剣に言い逃れる言葉を練りだした。
 へえ、いたなんて知らなかった。ひとりできてたの?
 送信する前から黒の液晶になるまで、英二の心には後悔しかなかった。おとといから嘘をついてばかりで、まだ初心から脱皮していない英二はいたずらな心労が溜まるばかりだった。
 志野は頬杖をつきながら幼児の砂場遊びのようにみていた。いつかは必ず壊れる脆い山を必死に築いている英二は、憎らしさよりも微笑ましさを感じさせた。
猫が玉を転がして遊ぶように、志野はなおも英二がうろたえるような文書をしたためて送る。
英二がびくびくしながら志野の返信を待っていると、携帯電話は英二の心を反映するように震えた。ただのバイブでも、他人事には思えない自分の心がふがいない。
返信の内容は、さらに英二の首を真綿で絞めるものだった。
――そういえば誰かときていた気がする。矢川くんはお姉さんと来ていたようだけど、お姉さんはみなかったな。でも矢川くん、誰かに呼ばれていたよね? お姉さんじゃなくて、学校の友達に呼ばれたのかな?
白状すべきなのだろうか。
しかしここまできて素直になるのは、英二には難しいことだった。
英二は新津が教室に入ったことを理由に、返事を放棄した。魔莉といい志野といい、どうして女子はこうも気持ちを弄ぶのがうまいのだろうか。
同刻、志野のクラスもホームルームがはじまっていた。担任は定年間近といった風のおばあさんで、その年代特有の異常なまでの利己と先達然とした雰囲気はなかったが、話が長いのが玉に瑕だった。
その日もいつもの連絡から脱線して昔話へ爆走していた。またその話というのが呆れるほど詳しいのだ。年だけではなく、月日まで正確に憶えている。この人の辞書にボケなんて言葉はないなと、志野はへんに感心してしまった。
話はまだ続きそうだったので、志野は机の物入れのなかにスマートフォンを忍ばせて受信ボックスを確認した。新着はゼロ。ときどき更新してみても、受信される気配すらない。
詩の朗読のように続く担任の昔話を傍らに、志野は英二と魔莉の関係を確かめる方法と、それがある程度の高さまで構築されているとしてどうやって自分が割って入ろうかということを考えた。性悪だと愚かしい自分をたしなめながらも、自分のほうがつきあいは長いのに誰かがあいだに割りこむのを許せない、醜い独占欲を志野は微かに抱いていた。
悪い考えに歯止めをかけるように、ホームルームが終わった。ドアの隙間から片目で教室を窺っていた他のクラスの生徒とすれ違い、志野はひとり教室をでた。
英二も同じようにひとりで廊下を歩いていた。湯田は梅田と先に帰ったので、二日続けてひとりでの帰宅となった。入学初日から現を抜かした様子で、英二はどう話していいのかいまだにわからない。
一日を振りかえると、今日はあまり人と話していなかった気がする。魔莉も特にあちらから喋りかけてこなかった。とは言っても、英二はあまり寂しい気はしなかった。昨日と一昨日の反動で、今日は静かにすごしたかったのだ。
魔莉と言えば、昨夜の姿はいったいなんだったのだろうか。まるで悪魔のような、邪気と魅力を兼ね備えた表情と仕草だったから、あやうく目にみえない流れに身を任せてしまいそうになった。もし尻尾に気付いていなかったら、今日は魔莉を考えることすらできなかったはずだ。
ともかく、それはもう過ぎたことだった。あれは自分の見間違いか、もしくはそもそもすべてが夢だったのだ。そう考えるのが、もっともてっとりばやい。それよりも、いまの英二が考えるべきことは今夜のメニューだった。
魔莉は石を乗せたような頭の重さに苦しんでいた。いわゆる二日酔いである。久々に飲んだせいなのか、たったあれだけでこの有様だ。このせいで一日中まともに人と話せる状態ではなかった。まだ本格的に授業がはじまっていなくてよかったと心底思った。
保健室に行こうかとも思ったが、入学早々授業を放棄するのはあまりいい気がしなかった。クラスメイトは心配してくれたので、少しは気が和らいだ。
頭痛のせいで英二に昨日の弁解をするどころではなかった。またなにか理由でもつけてアパートまで呼ぶにしても、今日の具合では話をするのは厳しい。
英二は心配しているかと思ったが、昨日の今日でそう簡単に話しかけるのは勇気がいるようだった。無理もない。
アパートに帰る途中に薬局で買った薬を飲んで、魔莉はしばらく寝ることにした。しばらく横になれば、気分もよくなるだろう。英二には電話でもメールでも話をつけることはできる。
英二は家に帰るとまず服を着替えて空いた小腹を紛らわせるために菓子パンの袋を開けた。ソファに座って眠たくなる静けさのなかにいると、自分がものすごく退屈な状態にあることを実感する。今日はそれでいいのだが。
思えば、高校に入学してからひとりで過ごす放課後はこれがはじめてである。中学生のときは友人と遊ぶのも一ヶ月に一回あるかどうかといった頻度だったのに、驚くほどの忙しさだ。これが毎日続いたら、部活なんて入る余裕はない。
六時限まであると、放課後が短い。英二は帰宅してから一時間もしないうちに家の財布を持って買い物にでかけた。
 英二の日常の繁忙期と閑散期に波はあっても、商店街はあいもかわらず毎日混んでいた。
 ここを歩いていると、背中から魔莉に呼ばれる気がするのは、自意識過剰というやつなのだろうか。
 英二は気晴らしついでに商店街の本屋に入った。志野が話していた作家の作品でも読んでみようと、格子状の本棚の迷路を英二はうろついた。
 ちょうど海外の作品が並んでいるところに、見覚えのあるシルエットを発見したのは物色を開始してから五分ほど経ったころだった。志野だ。
 英二の眉目の動きを鋭敏に見受けたのか、志野は器用に片方の口角をニッと上げると
「今日はひとりでお買い物?」とからかう。英二は肩をすくませた。
「嘘ついているって、いつからわかってた?」
「レジで会計済ましているあたり」
 英二は行儀よく並ぶ本に視線を逃がして頭を掻いた。困ったように笑うと、志野は肩を英二に近づけた。揺れた髪はリードディフューザーよろしく火も電気も用いずに芳香を立たせる。鼻腔を無視して神経に直接届いた匂いは、英二を安穏と困惑のあいだで揺らす。
「嘘ついたって自覚あるんだ、矢川くん」
「そりゃあ、ね」
 怒るかと思ったが、志野は距離をふたたび開けて口元の笑みをそのままに本棚をみている。志野の心中は、男子にはわからない喜怒哀楽をまぜあわせた感情に染まっているのかもしれない。その正体は、横髪に隠れて窺うことができない。
「それを償う気はある?」
「償う」
「そう、嘘を償うの」
 英二はふと心配になって横に立つ志野をみたが、横顔では言葉の本意はわからない。
「……魔莉のウチ、教えてくれる」
 連絡先でも消去しろと言うかと思ったが、その「償い」は意外なものだった。正直、そんなものでいいのかと英二は気が抜けた。
 ただ、すぐに道を案内するのはいい気がしなかったから、軽くとぼけてみることにした。
「知っているとでも思うか?」
「知っているんでしょ」
 志野が顔を本棚からそらして、英二はその日、はじめて志野と目を合わした。魔莉の目の色を紫に比喩するなら、志野の目はスティールブルーだ。金属のような輝きを放っているようで薄寒い青を塗装している。英二は黙ってうなずくしかなかった。
「じゃあ行こっか。魔莉のウチ」
 英二の返答を待たずに志野は本屋をでた。今日も買い物は長丁場になりそうだ。選択権を持ちあわせていない英二は、足早に商店街の雑踏に戻った。
 商店街から魔莉の住むアパートまではざっと十分弱といったところだが、その道程の途中、志野はまったくしゃべらなかった。むしろ早歩きをして、英二としゃべるのを避けているような感じだった。
志野がどういった目的で魔莉の家を教えてほしいと言ったのか、考えてみても英二にはさっぱりわからなかった。ふたりの接点は一昨日昼食を食べた程度だし、関係なんて友人未満の知り合いのはずだ。そもそも、あれ以来会ってもいないのではないか。
魔莉に会いたいという理由をつけても、英二に聞くのが納得いかなかった。メールでも電話でもして本人に教えてもらえばいいものを、どうしてこんな気まずい役目を果たさなければいかないのか。もしかして、この気まずさこそが、志野の言う「償い」とやらいうものなのだろうか。英二は慣れない早歩きをしつつ、少しうしろを歩く志野の理解しがたい思考を訝しんでいた。
そんなことを考えているうちに、駅を過ぎて魔莉のアパートの前に着いた。
「このアパート」 英二は指さして志野に教える。
魔莉の部屋はカーテンで様子がわからない。電気もついていないようだし、寝ているのかもしれない。適当な理由で早々に立ちさろうとした英二を、志野は手首を握ってひきとめた。
「どの部屋なの」
「あとは自分でみて確かめればいい」
 つっけんどんな対応にしまったと後悔した英二をよそ目に、志野は菓子をねだる幼児のように「ここまで来たんだから、教えてよ。矢川くん」と言う。
 志野にそんな言われかたをされたら、英二に断ることなんてできない。ふたりはアパートの階段を上がり、二階の隅の玄関まで行く。ドアを隔てて魔莉がいると思うと、胸が早鐘を打つ。
「ここ?」
「あんまり話さないほうがいいんじゃないか。夢野が気づいたら……」
「矢川くん、マリのこと夢野って呼んでるんだ。そうだよね。マリは矢川くんのものでもないし、矢川くんに名前をつける権利なんてないものね」
 急にゴライトリーまがいの台詞をつぶやいたと思ったら、志野は魔莉の部屋のインターホンを押した。子供のいたずらのような無邪気に満ちた行動に、英二はただ驚くばかりだったが
「夢野がでてきたらどうするんだよ」
 と慌てて志野の手をひきアパートの階段を下りて駅の方へむかった。高校と駅にはさまれた路地に入ると、ふたりはようやく走るのをやめて荒い呼吸でおたがいの顔をみつめあった。英二は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、志野は鳩に豆鉄砲を命中させたような顔をしていた。乱れた裾を細い指で整えながら
「私、ピンポンダッシュなんてはじめてした。矢川くんは小学校のころにしたことある?」
 なんてのんきなことを言っている。犬を散歩に連れた中年の男性が一瞥して通りすぎる。もうそろそろ五時になるのか、胸あたりの背丈の子供たちが家路を急いでいる。
 そのなかで、英二は志野と、なにかとりかえしのつかないことをした気分になっていた。実際はピンポンダッシュなんてありふれたいたずらをしただけなのに、ずっと息が乱れているのはその標的が魔莉だったからだろうか。
「志野、なんか今日は変だ」
 思わず英二はそう言ってしまった。告白もできそうなくらい、思ったことが素直に口からでてしまう。余程気が動転しているのだ。
 そんな英二に、志野は一言
「私のことなんて、なんにも知らないくせに」
 と言葉を吐いて、そのまま走り去ってしまった。
 英二は胸の波がおさまるまで、しばし呆然としたまま突ったっていた。やがて学校のチャイムが鳴りひびくその時――春の薄暗い夕方のなかを歩きだすのには時間が必要だった。
志野は自分の部屋のベッドに顔をうずめて無意味な行いを反省しながらも、後悔はしていなかった。きっと魔莉がペットみたいに大切にしている出来事に、志野は一方的にぶしつけな態度でスプレーをふりかけた気分に浸っていた。心の隅のほうで申し訳なさそうにする自分がいるのも事実だけど、それ以上に幸福に顔をほころばせる自分がいる。志野はいま、とても意地悪になっている。
英二はいつも志野に飄々とした態度で接しているが、あれでとてもナイーブなのだ。下手に嫌うよりも、ああして良心に鈍器を叩きつけるほうがずっと胸に響く。
 でも、と志野は言い訳をひとりごちる。まったく英二が悪くないわけではない。今日は確かに振りまわしてしまったかもしれないが、いちばん振りまわされたのは志野自身ではないか。嘘が漆喰のようにはがれるとわかっていながら、その場しのぎのでたらめを並べたのは、英二なのだから。
 路地に放置した英二がはたしてちゃんと夕飯の買い物ができたのかどうか、ひととおりの愚痴を枕にこぼした志野が考えることは、それぐらいだった。
「おかえり、英ちゃん……って、何それ」
 満春がスナック菓子の袋を片手に不審そうにみるレジ袋のなかには、たくさんの肉が入っていた。英二は右手を挙げて
「今日は肉だ。肉を食いまくる」
 と宣言した。弟の突発的な意思表明に、満春はおかしそうに笑って
「どうしたの。もしかして夢野さんとなにかあった?」
「うるさいな、なんもねえよ」
「そういや、昨日遅かったよね。英ちゃん、もしかして夢野さんと会っていたんじゃないの」
 この洞察力のよさを違う方向に生かしたらよいのにと、英二は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。もちろん姉の前ではポーカーフェイスを装いきった。
「違うって。それよりも、姉ちゃんそろそろ夕飯の当番してくれよ」
「はいはい」
 ようやくテレビに目を戻した姉をみて、英二はエプロンをつけて調理をはじめた。
 魔莉が長すぎるシエスタを終えたのは、ちょうどそのころだった。当然英二と志野がピンポンダッシュをしたのも知らない。
 夢もみないくらいの深い睡眠のあとは、まどろみのなかに清々しい心地がする。酔いは完全に醒めた。
 気分がよくなると、魔莉は無性に腹が減った。思えば昼食も気分が悪いから抜いていたのだ。当然である。英二からもらったレシピをみつつ、きょうはひとりぶんのカレーをつくることにした。
 家からでると空は深い藍色で、明星がまたたいている。もう夜はすぐそこまで来ているようだ。魔莉は薄手の上着をはおって昨日行ったスーパーに行くことにした。履歴があることを告げるインターホンの点滅に気付くのは、カレーをきれいに食べ終わってからだった。
 志野は夕食を食べたあと、さらなる意地悪を自分の部屋で考えていた。次は魔莉にしかける番だ。
 魔莉を偶然にも事前に知っていたことは好都合だった。ただ、一昨日の昼を思いだすと、少し複雑な気にもなる。
 ここで志野が気をつけるべきことは、自分がまるで英二とは知り合い程度のなかだったようなフリをすることである。志野だって、最初から荒波を立てていこうとは思っていない。
 スマートフォンの電源を入れて、メールの作成画面に移る。こういうのは、最初の一文が肝心なので悩んでしまうのはしかたがないことだ。志野は何度も画面をタップしては、文字を消去するのを繰りかえした。
「彩花、はやくお風呂入りなさいよ。お湯冷めちゃうから」
なぜ物事というのは、いいところに来るときまって邪魔が入るのだろうか。志野は階下の母の声に眉をひそめると、一文字も書いていないメールを下書き保存して洗面所に向かった。
「英二、英二?」
父の声に、英二はワンテンポ置いて反応した。
「え、あ、何?」
「そろそろ風呂入れてきてくれ」
「姉ちゃんに頼んでくれよ。どうせ一番に入るのは姉ちゃんなんだし」
「満春は自分の部屋に行っちゃったしさ。頼めんの英二しかいないんだよ」
「自分で入れてくれば」
「んなこと言ったら、最後に入るのは俺なのにアホらしいじゃないか」
これ見よがしにため息をついてみせると、英二はソファから立ちあがり、洗面所に行く。
父に話しかけられたとき、英二はどうやって志野に詫びようかについて考えていた。何を詫びるのかはわからないが、ともかく謝意が心に湧いていた。
志野はどんな思惑で、英二に魔莉の住むアパートの場所を聞いたのかも英二を悩ます謎だった。ふたりが始業式の日に昼食を食べたことは電話で聞いたが、ならばますます英二に聞いた理由が理解できない。
ただひとつ、志野に申し訳ない気持ちを覚える所以を英二はおぼろげにわかっていた。昨日の魔莉の家での出来事だ。英二からしかけたことではなくても、流れに乗りかけたのは事実だった。そして、その経験を内心得意げに感じていたせいで、罪悪感が割り増ししているのも事実だった。
もしも志野がメールで嘘をついたことよりも魔莉のアパートまで行ったことを怒っているのなら、それはもっとも不可解なことだ。志野が英二に多少なりとも慕情を抱いているならまだしも、その可能性はまったくないと英二は断言できる。いつもどこかそっけない態度をとる志野の本心をくみとるのは、ラクダが針の穴を通るより難しい。それができるなら金持ちだって天国に行ける。
すっきりしない心とは裏腹に、浴槽には勢いよく湯がたまっていく。英二は自分の部屋で寝転んで少しのあいだまどろんだ。
魔莉の携帯電話に着信が入ったのは、シャワーを浴びて髪を乾かしながらラジオを聞いているときだった。昼間寝ていたせいで時間の流れがやけにはやく感じられる。時計はもう九時に近い。
 受信ボックスをあけてみると、一昨日会った志野だった。
 ――彩花です。昨日メールを送ろうと思ったんだけど、いろいろあって打ちそびれちゃいました。ここでの暮らしは馴染めましたか? なんて、マリには愚問かもしれないけど。困ったことがあったら、気兼ねせずに呼んでください。
 どこまでもいい人間だと、ここまで読んだ時点では心の底から思っていた。ただ、追伸をみて魔莉はしてやられたと唇を噛むことになる。
 PS.インターホンにお気をつけて。
 はじめはその意味がわからなかったが、実際にインターホンの操作パネルをみてみると、記録が一件だけあった。日時は今日の午後。魔莉が寝ているときだ。再生してみると、画面に映ったふたりはどちらも見覚えがあった。英二と、志野だ。
「夢野がでてきたらどうするんだよ」
 うろたえる英二に、志野はいたずらっ子の笑みを浮かべてカメラ目線。英二に手を引かれて画面から消えるまで、ずっと続けていた。よく響く足音が遠ざかり、聞こえなくなってから少しして映像はプツリと切れた。
 魔莉は気持ちをうまく口にできず、黒い画面に映る自分と見つめあっていたがすぐに平常心を取り戻し、時計の秒針が一回りするまでにはもう打つべき次の一手を思案しはじめていた。魔莉は男を落とすためにこの国に来たのだ。その修行相手を盗られるわけにはいかない。これはただひとえにプライドが燃料となって燃える闘争心である。
 ひとまず魔莉は、一昨日のカフェでの会話を思いだした。あのとき、志野が話していたことを、ひとつひとつ。
 あのね、夢野さんと同じ高校に進学したんだけど。
 中学の卒業式が終わった後に、あちらからやってきて。
 線と点がつながった。このとき志野が話していた片思いの相手とは、英二だったのだ。
 その瞬間、魔莉には当然のように疑問をひとつ持った。英二は志野をどう思っているのだろうか。そもそも、どうしてふたりで?
 わざわざ待ちあわせをして魔莉のアパートまで来るなんて、そんな大層なことはいくらなんでもしないだろう。となれば、英二と志野は偶然街で出会って英二の案内で魔莉のアパートまで来たことになる。
 ただ、これもおかしな話だった。もし志野が魔莉の住んでいる場所を聞きたければ、連絡先を交換したのだから直接メールでもすればいい。
 もはやこれは、あてつけとしか思えなかった。志野は英二が魔莉に盗られたと思っているのだ。意外なことに、友人にするべきと思っていた親切な女の子は毒牙を隠しもっていた。それもずいぶんと上等なのを。
 魔莉は返信せず、かわりに英二にメールを送った。
 ――せっかく玄関まで来てくれたのに、気付かなくてごめんね。明日よければ来ない? 私も、話したいことがあるから。
 明日は忙しい放課後になりそうだ。魔莉は昼寝のせいで眠くはなかったが、はやめに休もうとラジオと電気を切った。
 英二の携帯電話の着信音が鳴るのは、今日だけでもこれで四度目だった。今度の差出人は魔莉。おそらく、インターホンの記録をみたのだろう。これで普通の内容なら、クラスの男子に自慢してもいいくらいなのに。
 メールの内容は思ったとおりだった。ただ、予想よりもいくぶんか婉曲的で、とがっていた。まるで胃袋を爪先でつまむような文面に、英二の気力はマイナスまで一気に降下しそうだ。
 いまさら英二に目を背ける権利はない。子供のころやったゲームのように、目が合えば背中を向けて逃げることは許されないのだ。「いいよ」と短いメールをため息の延長線上で送信すると、気疲れを癒すように柔らかいベッドの上へ身体を沈めた。
 志野は魔莉からの返事を待つことなく、スマートフォンを充電器につなぐと本屋で買おうとして、結局買えなかったシリーズの既刊を読んでいた。一作家が生涯をかけた大作は、マドレーヌと紅茶から始まる。志野も、かつての記憶を本のページからしばしば辿ることがある。
 それは、英二も知らない中学校のエピローグだ。
 志野は卒業後、一冊返していない本があった。何度か催促されたし、実際、志野も返さなくてはと思っていたのだが理由をつけて返却できなかったのだ。その理由は、あるときは読破していないとか、もうすこし読みたいとか、わがままみたいなもので、司書の先生もあきれ顔でたしなめながらも見逃してくれていた。
 その本を返却したのは、卒業式があった日の夜だった。志野には本と交換に中学校から頂きたいものがあって、それを密かに取るには夜がうってつけだった。
 あの日の夜はまだ冬の風が漂っていて、パーカーを着ても身が震えた。いちばん低いフェンスを乗りこえると、半日前には卒業式をしていた学校が、眠ったように建っていた。
 志野は土足のまま学校の廊下を歩いた。いつもいい体裁でいるせいかときどき志野は咎める気も起きないような幼稚な欲望に支配されることがあった。それはたいてい、人のみていないところでゴミをついばむカラスや、ふいにいなくなる飼い猫と同程度のいたずらをすることで収まるのだが、まれにブレーキが利かなくなった列車のようになることがある。
 その夜も、志野の気まぐれは惰性で積み重なった。図書館の本を返したあとに未整理の本をめちゃくちゃな順番で並べたり、からっぽのプールに拾いあつめた花と木の葉を注入したり。もちろん、窓ガラスを割ったり備品を盗んだりはしないけれど。
 ただひとつ、例外はあった。それこそが学校に侵入した目的だった。志野が不規則な道草を食って到着したのは被服室。鍵はかかっていなかった。
 中学三年になると、家庭科で取りかかる課題も簡単になり三学期は自由作品を提出することとなった。たいていの生徒は負担を減らしたいがために簡単なものにする。ミサンガや、一枚の布でできる小物。志野も英二も例外ではなかった。志野は編み物。冬休みのあいだにだいたい完成させていたのもあって、それほど大変ではなかった。
 志野が中学校から頂きたいのは、その英二がつくった簡単なものだった。
 英二がつくっていたのはパッチワークだった。大きさからすると、パッチワークというよりはせいぜいコースターがいいところで、布地も余りものを適当にかき集めたような、ありていに言えばセンスのない素材だった。
提出日ギリギリに完成させたので、英二にそれが返却されることはなかった。いちおう受けとるチャンスはあったが本人は返してもらっても迷惑だと思ったのか、結局布切れの集合体は被覆室の棚の奥のほうでこやしになることになった。
志野は提出された作品がいったん収納される棚を開けて、風呂敷をほどくように、丁寧に手芸の地層を採掘した。柔らかく波打つ色彩豊かな地層の奥のほう、そこに英二の作品はあった。
それから何事もなかったように誰もいない学校をでて、誰もいない通りを過ぎて、誰も起きていない家に戻ると、志野はパーカーのポケットに掌とともに納めていたパッチワークをだした。読書灯の明かりのもとで広げてみると、いびつな形をしたモザイクも、れっきとしたクラフトの矜恃を持っていた。
志野は母にも知らない、秘密の趣味を持っていた。それはクローゼットのなか、制服や上着を隠れ蓑にして完成する日を待ちわびる何着もの衣類――裁縫である。
これを家庭科の課題に提出する気はまったくなかった。時間を割かれないし編み物よりもずっといい評価をもらえただろうが、ださなかった。これはいわば志野の矜恃だった。誰かから強制されずにはじめた、純粋に志野の意志で縫いあげた布製の鏡なのだ。
志野がそのとき、完成させようとしているのはワンピースで、もう形は完成していた。あとはアクセントになにか飾りを重ねるだけ。志野はそのアクセントに、英二のパッチワークを使おうと前々から考えていた。
 他にも志野は、英二から能動的にもらったものがある。それは真鍮製のブックマーカーだ。
 このブックマーカーは、他ならぬ志野が英二にプレゼントした。図書委員の当番を三ヶ月ほど続けた梅雨が明けたあとの蒸し暑い放課後、何気なく英二の誕生日を聞きだしたのだ。
「矢川くんって、誕生日いつ」
「え、急にどうしたの」
 不思議そうにパソコンの貸出履歴のページから目をそらした英二に、志野はつくり笑顔をして「なんとなく」とごまかす。
 しばらく答えなかったから、英二が教えたくないのではないかと志野は一瞬不安がったが、スクリーンに視線を戻した英二は
「七月十九日」と、英単語を憶えるようにボソッとつぶやいた。
「ふうん」
 志野はそれきり、何を話すというわけではなくふたたび当番の仕事に戻った。ときどき送られる英二の一瞥は、志野の質問を訝しんでいるようだったが、どこか少しあてのない期待をしているようにもみえた。
 当然、志野はただの興味本位で聞いたわけではなかった。待ちあわせをする気もないのに、休日の予定の有無を聞く者はいないのと同様だ。
 それから志野は、放課後の隙間に足を延ばして大きな文具屋に何度かプレゼントを探しに行った。ペンや小物入れ、売り場をまわって悩んだが、最終的にブックマーカーを贈ることにした。デザインは志野好みの、派手ではない、勉強机にも涼やかな陰をつくる唐草模様。
 十九日は登校日ではなかったが、三年生は自主的に来て勉強する人も多く、英二も志野も勉強道具を詰めて思い思いの場所で勉強していた。
三年生の教室はどこもそれなりに生徒がいて、区切りがいいページまで終わるといろいろな話をしていた。だいたいは夏休みの話だった。当然、遊ぶ予定より、夏期講習や家での勉強会の相談がメインになっていた。だが、受験の天王山なんて言われる夏休みは、まだ肝心の山麓さえ姿をみせず、普段どおりの遊ぶことが日常になる夏が来るのではないかと、希望めいた予測を誰もがしていた。
ふたりのクラスも休み時間と授業を混ぜあわせた、半端な空間と化した。そんなところから、志野はそれらしい理由をつけて抜けだそうと英二を誘った。
「矢川くん、ちょっと図書室で手伝ってほしいことがあるんだけど」
英二と一緒に勉強していた友人がひやかすように英二の脇腹を小突いた。うっとうしそうに顔をしかめながら「いいよ」と英二は答えた。志野は肩に入っていた力が少し抜けた気がした。
図書室までの廊下がその日だけはやけに長く感じられた。窓は全開されていて、ときどき太陽に燻された風が制服からはみだした首元をなでた。
「急に、暑くなったな」
英二も志野と似たようなことを感じたのか、珍しく話しかけてきた。
志野は半歩うしろを歩いていた。肩を並べて歩くのが、気恥ずかしい年頃だった。
「そうだね」
気持ちが先行してか、返す言葉も短くなってしまった。あとに残るのは、上履きが廊下を叩く微妙に規則が定まらない音だけだった。
図書室は本を読んだり勉強していたりする人がいたが、教室と人数はあまり変わらず、相対してみるとずっと開放感があり空いていた。ふたりはいつものように、ドアのすぐ横手にある貸出口に入って座った。落ち着かない様子の英二が、もたない間をもたせようと志野に聞いた。
「で、手伝ってほしいことって?」
「そんなのないよ」
驚いた瞳でこちらをみる英二に、あえて目を合わせずラッピングされた小さな袋を差しだし、話を切りだす。
「今日、誕生日なんでしょう」
「言ったっけ」
英二はとぼけた表情で変な方向に顔を背ける。――憶えているくせに。
「いいから、受けとりなって」
「ああ、うん」
ぶっきらぼうに袋の端を掴むと、英二は
「開けていい?」と聞く。志野は黙ってうなずいた。
それからいじらしく思えるほど丁寧に紙を破る音がして、「これ、栞?」と英二がプレゼントを取りだした。志野はもういちど、黙ってうなずいた。
「ありがとう。……志野の誕生日はいつなの」
「えっ、えっと、五月二日」
あまり喜ばないだろうと思ったが、案外英二は心の底から嬉しいというような様子で礼を言ったので、志野は面食らってしまい、答えるのが少し遅くなった。
英二は月日を聞くと、いつもの調子で「そうか」と答えた。その声に寂しさを覚えたのは、クーラーの冷風のせいだろうか。
そんな所以で手にしたブックマーカーを、英二は愛用していた。少なくとも、志野からみて、愛用しているように思えた。なぜなら夏休みの当番の日に図書室で英二が読んでいる本をみると、きまってあの唐草模様のブラスが頭を覗かせていたからだ。
志野がそのブックマーカーをふたたび自分の鞄に入れたのは、それから二週間経った夏の盛りだった。英二が返却された本をもとの場所に戻している隙に、志野は貸出口にほっぽりだされた英二の本から抜きだしたのだ。
作業が終わってから、英二は自分の本をみて一瞬慌てたようにみえたが、そんなそぶりは一切みせずに当番の仕事を続け、結局、下校するまで何もなかったように過ごしていた。
志野はそんな英二をみて、安心もしたし不満も覚えた。なくなったと言われても困るけれど、何も言われないのも寂しい。自分からしかけておいて贅沢な話だと思ったが、それくらいねだってもいいはずだと、志野はひとり口をへの字にした。
あれから英二にプレゼントをしたことはない。する機会がなかったとも言えるが、もしなにか贈り物をすると、欲しがってしまう自分がいることを、志野はよくわかっていた。
要するに、志野は英二がつかったものが欲しかったのだ。わざわざプレゼントしておいて、そのあとに盗むような姑息な真似をしたのも英二との関わりを自分自身に確信させるためで、そこにロマンチックな感情はなく、志野のわがままが罷りとおっているだけだった。そう思うと、なんだかむなしい気もする。
昔話は思いだすとキリがない。担任の老教師に同感しつつ、志野は集中できない読書をやめて予習をするために教科書を開いた。落ち着かない硬いページが、まだはじまったばかりの新年度をほのめかした。

 
15, 14

  

 誰にも言えない悩みを抱えていても、あたりまえのように朝は来る。満春は相変わらず朝練のためにはやめに学校に登校していた。英二は焼く手間も惜しくなってトーストを袋からだすとそのまま口に入れた。時間は七時半ちょっと前。洗い物をする時間を入れると、余裕はあまりない。昨日はひさしぶりに午前様ではなかった両親も、いつもどおりの遅い目覚めで頼りにならない。そんなことを習慣にされても、英二からしたら困ったものだ。
 出がけに両親の寝室に乱暴なモーニングコールをすると、英二は玄関を飛びだして競歩のスピードで通学路を歩いた。いつもの時間より歩いている生徒は少ないせいで、余計に焦る。
 いつもの分かれ道でも湯田に会うことはなく、ひとりでずんずんとアスファルトを歩く英二の背中を、軽く叩く手があった。振りかえるとすでに影はない。脳裏をよぎる始業式の日の光景と重ねて既視感を覚えると、やはり顔を戻した先に魔莉がいた。正直、今朝いちばん顔を合わせにくい相手。
「メール、みた?」
「ああ」
「私もみたよ」
そうか。英二は半分閉じた瞼のなかの目も下を向く。触れにくい話題に、魔莉は真っ向からぶつかる。
歩きだすのが難しい雰囲気のなかで、タイミングよく予鈴が響いた。なにか言いたげな視線をよこす魔莉を無視するように、英二は地面をみつめて学校をめざした。
「今日はギリセーフだったな」
そう言った湯田に短い応答をしながら英二は席につく。少し遅れて教室に入った魔莉は通学路で話しかけてきたときとはうって変わっていつもどおりの明るくて少し間の抜けた魔莉だったが、英二の横を通りすぎる刹那、少し寂しそうな流し目をしてみせた。それはいつもの安い秋波ではなくて、変な言いかただが気持ちがこもった視線だった。気まずくなる必要なんてないのに、英二も誰もいないグラウンドに流し目をする。
それから間を置かずに新津が来て、ホームルームがはじまった。だるそうに約四十人の生徒が立ち、礼をして座ると、これまただるそうに新津は諸連絡と小話をする。
「おはよう。今日は日本史の最初の授業があるよ。ちゃんと起きておくようにね。最初の授業は一年の説明と雑談は終わらすつもりだから。ま、寝ている人がいたらしょっぱなからガンガン教科書進めるつもりだけど」
あと、書類だしてない人ははやくしてね。それだけ言うとホームルームはあっさり終わった。ベラベラと英二の学校生活を姉に報告するのはどうかと思うが、ホームルームが短いのはありがたい。
一時限目は化学。さっそく教室移動がある。英二ははやめに行って席を確認しようと荷物をまとめて教室をでた。あとから湯田もついてくる。
「英二、新しいクラスどうよ」
並んで歩いたものの、特に話題がないので湯田は使いふるしたテーマを選ぶ。
「まだわかんねえ。だいたい、クラスの大部分の顔と名前も一致しないし、名前はそもそも知らない人多いし」
「ダメだぜ、英二」
当然のようにダメだしする湯田に、英二は憮然とした態度で反発する。
「そう言うタツはもう全員と知り合いにでもなったのかよ」
「いいや、まだだ」
「偉そうに言うなよ」
「でもって、だ。今度、クラス会があるらしい。これで親睦でも深めようぜ」
「今度っていつ?」
「それはまだ詳しく決まってないそうだ」
「その連絡って、どうやって回ってきた?」
「これだよ」
湯田はブレザーのポケットからスマートフォンをとりだすと、SNSのアプリを起動した。確かに、グループの更新履歴にはクラス会をする旨のメッセージがある。
「こういうのが苦手ってのは知ってるけど、なるべくやったほうがいいと思うぜ。クラスの連絡とか、いろいろなことがここでアップされるから」
苦手というよりも、そういう付き合いを無駄に絡ませるようなツールが面倒なのだ。湯田は人と絡むことを楽しいと思える人だからいいのだろうが。
「まあ、考えてみるわ」
適当にお茶を濁したところで、理科室に到着した。そこでも出席順に座るので、湯田とは隣になる。
「そういや、席替えとかっていつするんだろうな」
「はじまってもいないのに、気がはやいな」
「いや、化学じゃなくてクラスのほう」
「さあ。新津先生は自由にやらせてくれると思うけど」
英二の返答に湯田は首を動かすだけで、それから授業がはじまるまでなにかを話しかけてくることはしなかった。
理科室は実験等をする都合上、四人一組のボックス席になっている。男女ふたりずつ。ということは、前に来る女子は――
はたと気付いて英二が黒板から視線を前の席に移すと、魔莉が座ってもうひとりの女子と雑談をしている。湯田はというと、楽しげに話す魔莉にただただ見惚れていた。出席順だとはいえ、ずいぶん運命めいた並びだ。
一時限目が終わったあと、廊下を歩きながら英二が
「化学は席替えしなくてもいいんじゃないか」
と冗談のつもりで言うと、湯田は真顔で
「ああ、そうだな」
と答える。始末に負えなかった。
午前中の授業は昨日に引きつづき閑話が大部分をしめたのでするすると進んだ。本命である新津の四時限目の授業も本当に説明と雑談だけで終わり、つくづく抜ける手は抜く人なのだと実感した。
 昼休みがはじまると、英二はまず購買でパンを買ってから自分の席に腰をかけて暇になった左手に携帯電話を持った。そう頻繁にみるたちではないのだが、昨日志野からメールが送られていたのを思いだして、みたほうがいいんじゃないかと気まぐれをおこしたのだ。
はたして着信は確かにあった。それは、魔莉からのだった。英二は教室をみまわして魔莉を探す。彼女は教室のうしろのほうに集まって昼食を食べている女子のなかにいた。
メールの受信時刻をみると、どうやら三時限目と四時限目のあいだに打ったらしい。英二は多少の緊張を抱きながらメールの本文をみた。
――放課後、駅前まで直に来てください。
英二が暇か否かなんて知ったことではないと言いきるようなドライなメールに、英二は呆れを通りこして可笑しさを覚えた。返信はいらない。魔莉だって、暇なのを見越してメールを送っているのだ。
英二は携帯電話をショルダーバッグにしまうと、残りのパンを食べて袋をゴミ箱に捨ててから自分の机に伏した。
「どうしたの。やけに前のほう気にしてるけど」
「ううん。なんでもない」
「そう?」
となりで小さい弁当箱につまった米を食べる女子がふたたび箸を口元に運んだのをみると、魔莉は椅子にもたれかかるようにしてコンビニの弁当を食べつつ英二の様子を垣間見た。さっきまでパンを食べていた英二は、何もすることがないのか寝る体勢を取っていた。
「そういえば、魔莉って今度の日曜日、予定とかってない?」
魔莉の前で弁当を食べる女子がふと聞いてきた。注意が逸れていた魔莉は変な声で答えてしまう。
「いや、あのね。今度の日曜日にみんなで買い物でもいかないかなって」
「いいね。私、その日空いてるよ」
「ホント?」
じゃあ決まりねと、その女子はポケットから手帳らしきものを取りだしてペンを走らせた。
学校がはじまって四日経ったが、思った以上に魔莉は馴染むことができていた。勉強も故郷である程度予習したおかげで苦労はしなかった。特に英語は、日本語よりも故郷の言葉に近かった。交友関係は言うまでもない。
そのなかで、唯一魔莉を悩ませているのは英二と志野のことである。特に志野が意外と計算高く、小賢しい行動をしてくることが驚きだった。ファーストインプレッションなんて馬鹿げた話と思わされる。
英二には説明がつくとして、どうやって志野と折り合いをつけていくのかが今後の焦点となる。別に魔莉は英二と志野がどうなろうが構わないのだが、志野は英二と魔莉がどうにかなると構わずにはいられないはずだ。英二が魔莉との関係を割りきってくれればこじれる問題ではない。しかし、ふれあうだけでも勘違いしてしまうような男子高校生が、それ以上の接触になんの意味もないと悟ることができようか?
ひとつの疑問に問題をまとめたところで、せっかくの昼休みをアンニュイな物思いで潰すのは無益だと、魔莉は自分の思考を責めた。とりあえず、いまは目の前のデミグラスソースをかけたオムライスを食べることが最優先事項である。それに、せっかく集まって食べているのに苦悩の袋小路に入りこんでも面白くない。
魔莉が大勢で昼食を取っているのとは対照的に、志野はひとりで弁当を食べていた。中身のほとんどは、志野自身がつくったものだ。
クラスは相変わらず中学から上がってきたグループと、高校から入ってきたグループに二分していた。なかには例外がいて、そういう組分けを無意味だと言わんばかりに集団で食べる混合グループと、あとはひとりか二、三人で食べる人が散在していた。
「そのお弁当って、志野さんがひとりで作っているんだっけ」
なるべく目立たぬようにこぢんまりとしていても、ときどき話しかけてくる人がいる。宇田川はそのひとりだった。
志野は宇田川の問いかけに、咀嚼しながら首を小さく縦に振る。昨日聞いてきたとき、志野はそう言ったのだ。宇田川はそれをわざわざ憶えていたらしい。
「志野さん、すごいね。私なんて朝起きたらすぐに用意しなきゃ間にあわないくらいなのに」
宇田川は照れ笑いをした。志野もつられて小さく笑う。うなずきがわりの底の浅い笑い。
だが、これはけっして宇田川を卑下するような笑いではなかった。普通なら次の授業が終わるころには忘れてしまうささいなことを次の日まで持ちこせるのは、宇田川の人となりを知るにはじゅうぶんな証拠になった。
「宇田川さんはもうごはん食べたの」
「ああ、うん。きょうは菓子パン。例によって時間なかったから」
 宇田川はそう言ってまた笑った。
志野はひとりでも構わなかったが、話せる人がクラスにいないとちょくちょく辛い場合が生じてくるので、これはこれでいいかと思い、その日の昼は宇田川と話していた。
午後の授業は退屈の極みである。好きな教科でも、昼のあとにやると哲学の講義のように思える。
志野はシャーペンの芯をノートにぶつけながら、英二と魔莉のことについて考えていた。明言こそしなかったが、英二は魔莉の家に行ったことがあるのだ。家の場所だけ知っているなんておかしな話はあるまい。
魔莉の家で何をしたのか。それはきっと、どんな脅しや惑わしをしても教えてはくれないだろう。不器用で鈍い英二も、絶対に言わないでおこうと決めているゾーンがあるはずだ。
だとしたら――志野は長くだした芯を一押しでシャーペンのなかに戻した。英二ではなく、直接魔莉に聞けばいいではないか。あまり女子に免疫がない英二を、一週間も経たないうちに手中におさめようとした魔莉のことだ。はぐらかされるかもしれないが、英二に聞くよりはずっといい。あのまま会わずにいるというのもきまずいから、ちょうどいい理由になる。
 志野はほくそ笑むと、さっそく机のなかでスマートフォンの画面をタップしたりスライドしたりして魔莉に送るメールを作成した。今日の放課後が正念場。週末に入る前に、やきもきは浄化しておきたいのだ。
 メールを送信すると、志野はふたたび退屈な授業に耳を傾けるふりをした。そして、あと二時間どうやって眠気を取りはらうかについて、窓越しの抜けるような青空に目をやって考えていた。
 志野がみている空を、英二もまた午後の授業の退屈を紛らわせるために眺めていた。空は口を聞かず、ただそこに色と形だけを変えて存在する。
 英二は教師の持ってきたラジカセから流れる英文を聞きながしながら、志野と次にであったら、どうやって声をかけるか悩みあぐねていた。まず、会うまでが難しい。こちらから誘うにしても、誘い文句が浮かばない。
 では志野から誘ってくるのかというと、それは英文の考えの及ぶところではなかった。中学校のころから志野をみているが、いまだに志野が好きな色も英二は知らないのだ。そんな英二に志野から会う約束をしてくるかどうかなんて、わかるはずもない。
 だから、魔莉だけでもひとまず今日会うことができるのはありがたい話だった。双方と気まずいままで過ごすのは、英二には荷が重すぎる。魔莉ならきっとごまかしながら笑いとばしてくれるはずだ。
 最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、英二はノートと筆箱を鞄にしまって、かわりに文庫本をだすと新津が来るまで時間をつぶした。
 魔莉はふたつ前の席で文庫本を読む英二の背中をみて、一昨日の失態の弁解をどうするか考えていた。もともとあの日のことを説明するためにアパートまで呼ぶつもりだったのに、昨日の志野の気まぐれでついついそれを解決する糸口に考えが行ってしまいがちになっていた。それでは本末転倒である。
 あれから英二とは、今朝言葉を少しだけ交わした以外に話はしていない。思いかえしてみると魔莉から英二に話しかけてばかりで、英二が魔莉に声をかけることは全然ない。英二があまり自分から話しかけるような人ではないことは始業式からの四日間でじゅうぶんわかっていたが、それでも、まったく魔莉がいじらしさを抱かない訳ではなかった。
 ただ、どうして自分が英二にいじらしさを憶えるのか、志野にこうして対抗心を燃やしているのか、魔莉はよくわからなかった。志野が英二にたいして抱く気持ちは簡単に言葉に表せるのに、肝心の魔莉自身の心はいくら言葉をつくしても表せないような複雑なものになっていた。
 やがて新津が来てホームルームがはじまった。魔莉はそのあいだうつむいてずっと答えのない、形のない疑問を考えていた。魔莉がつぎに目を上げたのは、ホームルームが終わって掃除のために机と椅子を下げるときだった。
 魔莉は机と椅子を下げると鞄を肩にかけて教室をでた。でる間際に英二に一瞥をくれると、英二も同じタイミングで魔莉をみる。おたがい、メールの件を確認しあったのだ。目は口ほどに物を言う。
 なるたけはやく家に帰るために、魔莉は早足で廊下を過ぎた。英二には直に駅前で待ちあわせをしようと提案したのに、自分だけ帰ってしまうのはフェアじゃないかもしれないと思ったが、一昨日英二が少し遅れたときの借りを返してもらうということにした。
 英二はわざと時間をおいて教室をでた。一緒に帰るところをみられたら、瞬く間に英二と魔莉はそういう仲だと認定され、学年中に知れわたるだろう。英二はあまり、目立つのは好きではない。
 あのアパートで魔莉が何を話すつもりなのかは知らないが、まず説明してほしいのは、とにもかくにも尻尾がいったいなんなのかについてだった。昨日話しかけなかったのは、目立ちたくないというのもあるが、魔莉にたいして恐怖心らしき感情を覚えたというのが本当の理由だ。あれについては考えれば考えるほど邪推になると思い、目を逸らしておくことにした。
 これからも魔莉とこういった関係でいるとしたら魔莉の正体は教えてほしい。それが振りまわされてばかりの英二が魔莉に求める数少ない条件だ。
 学校と駅は隣りあっているから、校門をでれば二、三分で着く。先に学校をでたはずの魔莉は、まだ来ていない。ちらほらとみえる同校生に、英二はむやみに緊張した。
 携帯電話がショルダーバッグのなかで震えたのは、英二が駅前で待ってから五分ほど経ってからだった。携帯電話を開き、読むほどもないメッセージをみる。
 ――路地裏に来てください。
 英二が魔莉のアパートへ向かう道に視線を移すと、そこには猫にするような手招きを英二にたいしてやっている魔莉がいた。英二と同様、目につく場所で会うのはちょっと気まずいと思ったのかもしれない。
 ただ、英二には魔莉をみて気がかりに思うところがあった。服を着替えに帰ったと思ったが、魔莉は制服のままだったのだ。
 携帯電話をしまうのも面倒に思えて、英二は上げたままのかぶせを閉じると日陰まで駆ける。
「ごめんね、少し遅れちゃって」
 魔莉がおどけるように頭を下げると、英二は無言で首を横に振る。
「いや、いいよ。それよりはやく行かない? 下校ラッシュだからさ」
 英二がうしろに目を向けて足を踏みだすと、今度は魔莉が首を横に振った。
 不可解な答えに、英二は苛立たしさをちらつかせて
「どうして。夢野もうちの生徒にみられたくないから、わざわざメールでここまで呼んだんだろ」と言った。
 いつもなら、きっとふざけた調子で科をつくって冗談でも飛ばすところだが、今日はなにかにおびえているようにみえた。英二はそっと聞く。
「なにか、あったのか」
 魔莉はうなずくが、何があったのかは言いたくなさそうだった。
「とりあえず、一緒に行ってみよう。俺も理由がわかんなくちゃどうもできない」
 それでも動こうとしない魔莉に英二はふたたび苛立ちを覚え、勝手に魔莉のアパートへと歩みを勧めはじめた。少しあとに、気弱そうな足音がついてくる。
 やたらと足音を響かせて歩く英二の心中には、嫌な想像がうずまいていた。魔莉のことだから、他の男にも気を惹かせるような行為をして、それで変な勘違いをした自意識過剰な奴がアパートまで来たのではないか。それとも――
 人の想像力は負の走性をもっているようで、意思とは関係なく勝手に悪いほうへ仮定してしまう。英二は無意識に握っていた掌を楽にして、平常心を保つことに努めた。
 魔莉のアパートまで、あと電信柱が二、三本というところまで近づくと、それまで半歩うしろを歩いていた魔莉がふいに英二の手を握った。
「こんなときにどうした」
「ダメ、英二。アパートに近づいちゃ」
 やはり、変質者でもいるのか。英二は意を決して、その理由を聞いた。
「どうして近づいちゃいけないんだ」英二は思わず唾を飲む。
 魔莉は顔を下に向けたまま、とぎれとぎれに言った。
「アパートの前にね……その、彩花が来てるの」
 英二は意外な答えに、言葉を失った。まさかこんなタイミングで、志野が魔莉のアパートに来るなんて想像だにしていなかった。

 
 目を細めて、電信柱の陰から魔莉のアパートを窺う。顔まではみえなかったが、確かに志野が通学している高校の制服を着た女子がいる。
「あれが、志野なのか」
「顔、みえない?」
 英二は少し信じられないと言ったように魔莉をみた。距離はけっこう離れている。さすがに普通の視力では、ここからは顔を判別できない。
 魔莉には、それができるというのか。
 こんなところで嘘をついてもしょうがないし、魔莉の言うことは本当なのだろう。英二の脳裏には昨日の夕暮れが浮かぶ。志野に魔莉のアパートの場所を教え、そして志野が子供じみたいたずらをした。思いだすと、さらに滑稽な出来事に思えた。
「夢野、昨日の夕方って、何してた」
「なんで夕方?」
「それはさ……」
「ああ、ピンポンダッシュのとき?」魔莉は乾いた笑いをする。英二の視線は宙をみた。
「あのときは寝ていたよ。学校から帰って、ずっと」
「そうだったのか」
「それで?」
「え?」英二はいまいち要領がつかめないといったように、首をかしげる。
「言うことはないの」
「言うことって?」
 魔莉がなにかを言わせたいということはわかったが、その内容まではわからない。困ったようにまばたきを繰りかえしていると、魔莉は目だけ笑ったまま電信柱の陰から通りにでて、そのままアパートまで走る。英二はバランスを崩しながらよれよれのフォームであとについていく。魔莉の走るスピードは予想以上で、英二がふだん使わないハムストリングに力を入れても追いつけなかった。
 やっと魔莉がスピードを落として、飛行機が着陸するように停止したころ、英二は魔莉に追いついた。息を切らしてうっすらと汗ばむ身体を上げると、英二の目の前には無表情でこちらをみつめる志野がいた。
「マリが返事くれないから、来ちゃった。でも、迷惑だったかな」
 魔莉はそれにたいして何も答えようとはしなかった。ふたりのあいだで、なにかやりとりがあったのだろうが、英二はまったく知らない。
 三人は互いにみつめあっていたが、志野が口元をまげて冷やかしじみたことを言う。
「学校から直帰か。ふたりで」
 英二の鼓動は乱れているのに、心はいやになるほど冷静なまま志野の言葉を受けとめた。
 きっと、いや、確実に志野は勘違いをしている。英二が駅からアパートまで歩いている途中にしたように、負の走性に基づいた想像の悪循環にはまっているのだ。
 それは違う。
 ちゃんと言葉にしなければいけないのに、英二は何も言うことができなかった。
「違うよ」
 汗が凍るほどの張りつめた場に、魔莉の言葉は放り投げられた。志野は口元のゆがみを元に戻す。英二は依然として、呼吸を整えるのに精一杯だった。
「ダメだよ。マリが言うんじゃ、私信用できないよ」
 志野はスカートの裾を親指と人差し指で強くつまんだ。それをみて、英二はやっと一言
「違う」と口から吐くことができた。
 志野はなにか言おうとした口をそのままに、所在ないくちびるを噛んだ。
 ふたたび沈黙に落ちた空間に、言葉を投げたのは魔莉だった。
「きょうはね、英二に私の秘密を教えようと思ったの。だけど、彩花がもしも知りたいなら、彩花にも教えようと思う」
「教えるって、魔莉の……」
「そう。私の、秘密」
 魔莉が言うと、「秘密」という言葉はそれが本来持っている神秘性が高まって聞こえた。だからだろうか、英二と魔莉になにか言いたげだった志野も、あまり時間を使わずにゆっくりとうなずいた。
それをみて、魔莉はなぜか不敵な笑みを浮かべた。英二の横で自信ありげに口角を上げる魔莉の表情は、四日間ではじめてみる表情だった。普通の笑顔ではなかった。
不思議そうな顔をしている英二と志野を連れて、魔莉は二階の隅にある自分の部屋まで来た。ドアの前で鞄から鍵を手探りで探す。
魔莉はもともと英二だけに、例の「秘密」を教えるつもりだった。だが今日の放課後になってその予定は狂った。きっかけは志野のメールである。
――昨日は失礼しました。今日の放課後にお詫びをするつもりです。もう学校から直接行こうと思うんだけど、マリはなにか予定がありますか。
魔莉は迷ったが、それには結局、返信をしなかった。どう言っても角が立つと思ったからだ。振りかえると、この優柔不断な選択が失敗の原因だった。
ただ、魔莉は志野に「秘密」を知られても特に問題はないと考えたし、むしろ志野が自分と英二にたいしてよからぬ誤解をしているならここでそれを解いたほうが志野も気兼ねや疑りをせずに付き合いをしてくれるのではないかと思った。それは魔莉自身にも言えることである。志野が知っているうちで英二に修行を手伝ってもらうのがいちばん安全で、確実なのだ。
 狭い玄関は靴が三足並ぶだけでもういっぱいいっぱいだった。はじめて入った志野は、一昨日の英二と同様の反応をしていた。やはり家具等が足りないと思っているようだった。
「クッション、ふたつあるからそこに座ってて」
 そういうと魔莉は台所へ向かった。
 英二と志野は、魔莉が英二と自分のためにと買ったクッションに座った。ふたりが感じる、居心地の悪さと言ったらなかった。英二はともかく、志野もただ部屋の白い壁をみているだけだった。天井から落ちる水滴のように、時間は可能なかぎりどこまでも一秒を伸ばしていた。
「はい、飲むヨーグルトでいいかな」
 魔莉は余らせていたぶんをコップに並々とついでふたりにだした。どうして飲むヨーグルトなんだろうかと怪訝そうな顔をしていたが、どちらからともなく口をつけた。
「それで秘密って?」
 志野は両手でコップを持ちながら、立ったまま座ろうとしない魔莉を見上げて聞いた。
 だが、魔莉は志野の質問には答えようとせず、口を一文字にして床におろした脚に力を入れている。それはイニシエーションを前にした部族の青年然とした凛々しさと怯えを捨てた心意気を英二と志野にみせつけているようだった。
依然として黙る魔莉を目前に、ふたりはただ息を飲んで「秘密」が明かされるのを待つほかなかった。
「ふたりにだから、みせるんだよ」
時計の秒針だけが規則正しい音を生みだす部屋に、魔莉の声が響いたのは何分経ったあとだったのだろうか。きっと三分程度なんだろうが、そこにいる人々には永遠とも思える長さだった。
宣言ともとれる言葉の次に、魔莉はうしろを向いた。英二と志野の前に、髪にうもれるうなじと、しゃんとした背中と、なだらかな稜線を描く下半身が現れた。その曲線美に、志野でさえも背徳心が芽生えそうだった。
ふたりが魔莉のうしろ姿に見惚れていると魔莉はやおら自分の制服のスカートをゆっくりとたくしあげた。めくるスピードは遅くても、長さはあまりないからすぐにミルク色の腿が露わになって、その上のほうの肌を覆う白い布地も部屋の薄い光にさらされた。
英二は危ういラインを軽々と超えたことに気付かず、しばらく素敵なシーンの釘付けになっていたが、志野が「矢川くん、何みてるの」と英二よりも慌てた様子で英二の瞼を掌のなかに隠そうとした。だが、魔莉は志野の動作を察したのか
「隠さないで」と鋭い声をあげた。
英二もその声で我に返ったようで、「あ、み……みてないから」と目を逸らそうとしたが、これも魔莉に感づかれて
「目を逸らさないで」と言われる。
ふたりは同じ光景を目にして、まったく違うことを考えていた。志野は急にはじまった魔莉の奇行に驚きつつも、見世物小屋で蛇を飲む女をみているような、それでいて大切にしている写真に火をつけられるような、とにかく一言では収集がつかない心模様となっていた。
英二はもっと単純な心構えだった。すでに魔莉の下着はみたことがあるので、それに邪な感情を抱くことはなくただ単に美しいものだと受けとめていた。たとえるなら魔莉は美術館に飾られた裸婦像やビーナスの類で、いくら露出しても興奮は呼びおこされず、みることを許された肉体にたいして惚れ惚れする思いがさらに募るだけなのだ。
魔莉が両手の指でスカートを吊るしてから時間は経ったが、三人は部屋の空気に密閉されたかのようにまったく動かなかった。真相を言えば、魔莉の微々とも動かないうしろ姿に圧倒されて英二と志野が動けずにいた。
その魔莉に最初の変化が現れたのは、頭頂部の左右だった。湧水が吹きあがるがごとく隆起しはじめたのだ。英二と志野が目を細めて魔莉の頭部を注視すると、だんだんとそれは顕著になっていった。
「んっ……わかる? 頭の……ツノ……んっ」
魔莉は力んでいるような、くすぐりを我慢しているような調子でふたりに聞いた。
ツノ?
いま、魔莉の頭の上に生えつつある象牙細工に似たツヤをもつ黒色の物体が、ツノだと言うのか。
英二と志野は次の変化を確認するべく、目を魔莉の全身に滑らせた。それがまた、魔莉の羞恥心やそこから生じる諸々の気持ちを焚きつけるのだ。
細かく身を震わせる魔莉の身体に次の変化が起きたのは、頭部のツノが生えきるころだった。部位でいうと、尾?骨のあたり。
 それはツノよりもはっきりと認知できた。
尻尾が、生えてきたのである。
志野は、驚きのあまり表情を変えることも忘れたのか、ただただ目を点にしてうねる真っ黒な物体をみていた。英二は一昨日みた謎の影の正体を目にして妙な納得をしていた。
尻尾は、さらに伸びた。
魔莉はそれを意識して伸ばしているのか、息を荒くして白い脚にうっすらと汗を流している。それをみるふたりも、つい力んでしまうほどだった。
尻尾は、最終的に曲げていないと床についてしまうほどの長さになった。
それから魔莉は気の抜けたような声をだしてへたりこんだ。英二と志野が心配そうに顔を覗きこむと、動脈血よりも鮮やかな赤に染まった瞳がふたりを映した。魔莉は呼吸が落ちついてくると、床と身体を平行にしたまま一言々々くぎって話しはじめた。
「これが、私の本当の姿なの」
「へぇ。……まるで悪魔みたいだね」
志野は婉曲しようとせず、率直に姿をみた感想を口にする。英二は遠慮して言わずにおいたが、心中ではまったく志野と同じことを思っていた。
「ご名答。実は、私、夢魔なんです」
 うっすらと笑みすら浮かべて魔莉に、ふたりはかける言葉が思いうかばなかった。唐突に私は夢魔ですと告げられて、すぐに普通の反応ができるほうがおかしい。
「あれ、ふたりとも、夢魔って知らない?」
「知ってるよ」即座に志野が返す。「でも……実在しないでしょ、そんなの」
「私は現に、この姿でここにいるよ」
 志野はそう言われるとぐうの音もでないといった様子で黙った。かわって英二が魔莉に問う。
「仮に夢野が本物の夢魔としてだ。……夢野はどこから来たんだ?  目的は? 家族は?」
「そんなに質問されても答えらんないよぉ」
 疲れたのか、魔莉は少々ご機嫌斜めといった様子で英二に拗ねてみせる。英二はその口振りに既視感を覚えた。そしてそれは現実のものとなる。
 魔莉は紫煙をくゆらすようにしていた尻尾を不規則に激しく動かしはじめたかと思うと
「どうしよう、英二。私……スイッチ入っちゃったかも。一昨日の修行の続き、しよ?」
 そう言って、かがんだ英二のふくらはぎに両腕を絡ませてきた。英二は無下にもできないので、ただ困ったように手をおろおろとさせるばかりである。
「ちょっと!」それで志野が黙っていられるわけがなかった。
「矢川くん、『一昨日の修行』ってなんのこと」
 志野は宙ぶらりんな英二の腕の右のほうを身体で包むようにしてひっついた。
 ただでさえねじがゆるゆるになった魔莉の相手をしなければいけないのに、なぜかくちびるを尖らせて問いつめてくる志野も加わって、英二はその場から逃げだしたくなった。
「おい、夢野。おまえの秘密はわかったから、志野に説明してくれよ」
「だってぇ」
 魔莉は夢魔の姿のまま、擬似的な酩酊から醒めようとしない。
「ちゃんと話しなさいよ。マリ」
 手をこまねいた英二にかわって、魔莉を正気に戻したのは志野だった。混沌とした状況に見兼ねたのか英二から離れて魔莉の脇腹をおもいきりくすぐったのだ。
 志野のくすぐりに高笑いをして身をよじらせた魔莉は、次第に人間の姿へと化けていった。息も絶え絶えにぱちくりとさせた瞼のなかの瞳は見慣れた薄茶色だった。
「いやぁ……ごめんごめん。もう人の姿のほうが慣れちゃってて。もとに戻るとつい箍が外れちゃうんだよね」
 照れ笑いをして魔莉は乱れたスカートの裾を直す。志野は深いため息をついた。
「で、矢川くんと何したのか、ちゃんと説明してくれる?」
「うん。三日前――始業式の日にね――商店街でばったり会って、まだ引っ越してきたばかりの私のために料理を教えてくれることになったの」
「それで?」
「一昨日、料理を教えてくれたの」
「それだけ?」志野は拍子抜けしたように聞きかえす。
「うん。それだけ」
「じゃあ修行ってのは」
「和食を上手につくれるようになるための修行だね」
「なんだぁ。そっかあ」
 志野は胸中の勘違いを紛らわせるように笑った。魔莉も、英二もつられて笑う。
「――って、嘘でしょ」
 志野はふたたび眉をひそめてくちびるを尖らせた。笑ったのは芝居だったようだ。
「だって和食の修行に触れあう必要はないでしょ」
「いやいや、やっぱり料理は身体使いますから」
「じゃあなんのスイッチが入ったの」
「うーん、IH?」
「このアパートガスじゃん。やっぱり嘘だよ」
「逆になんでそう思うの」
 完全に嘘がはがれおちても、魔莉はやけに強気だった。志野はそっぽを向いて、言葉を選びながら理由を述べた。
「だ、だって……夢魔ってその……だ、男子の精を寝てるあいだにとるのが仕事なんでしょ? ならその『修行』って」もじもじとしながら答える志野に、軽骨ながら英二は興奮した。
「彩花、あなたおとなしそうな顔をして、そんなことを考えていたんだね」
 意地悪そうに魔莉が笑うと、志野は顔を真っ赤にしてうつむいた。スカートの裾をひっぱる掌から、英二は心情を少しばかり察した。
「安心して。私、英二のがどれくらいなのかも知らないから」
「おいなんてこと言ってんだ」今度は英二が顔を赤くする番だった。
 魔莉は初心な英二と志野を前に、達観した表情をしていた。志野は他の女子と同様に執着心や独占欲を持っているけども、それを抑制し、うまく力を他の感情へ逃がすことができるようだった。やはり悪ぶったりやきもきしたりしても根はいい子なのだ。
 それは英二も同じだった。そっけない態度をしていても、簡単に感情に身を任せない。つくづく人運がいいと魔莉は思った。
「これで安心できるでしょ、彩花。私は英二が信用できるから修行のパートナーに選んだの。さっき英二が家族とか目的とかどこから来たとか聞いてきたけど、それを聞いてもたぶん意味はあまりないわ。私たち夢魔は本当に血が繋がっているわけじゃないし、ましてや性別も曖昧な存在で、ようは擬似親族のような関係をまとまった集団で結んでいるだけ。故郷だって人間が行けるようなところじゃないし。目的はさっき言ったとおり。夢魔は一定の技術を積むと、最後の試練として実践をしに人間の世界までやってきて、実際にその世界に住みながら修行をして先達に認められると晴れて一人前の夢魔になれる。つまり私は、その最終試験にここに来たっていうわけ」
 一息で説明をすると、志野が
「じゃあマリは矢川くんが好きとか、そういうわけじゃないんだね」
「心までは取るつもりはないよ。安心して、彩花」
「なんの話だ?」英二はふたりだけがわかる話に首をかしげる。
「な、なんでもないから」
 志野は英二が聞くと途端に目をそらしてもじもじとした。女子の気分はまったく先が読めない。英二は困ったように顔の縁を撫でた。
 魔莉は目の前の、意中の人の気持ちを知りたいと思いながら、自分の気持ちさえうまく操れない志野にじれったさを感じつつも応援したい気になった。
 だからひとつ、ある提案をすることに決めた。
「一件落着したところで、休みの日にどこか買い物に行かない?」
「買い物?」
「うん。このウチ、テレビも洗濯機もないんだよね。他にもいろいろ買いたいものがあるし」
「ああ、全然いいよ」
「英二も来るでしょ」
「たぶん」急に話を振られた英二は、茶をにごすように適当な返事をする。
「ダメだよたぶんじゃ。ぜったい来ないと」
「え? ……わかった、いちおう休日は空けておく」
「あ、あとさ。英二の友達、ひとり誘っておいてくれないかな」
「どうして」
「荷物持ち」
「なるほどね。しょうがないな」
 魔莉の英二への誘いに、志野は目を見開いた。魔莉に視線を移すと、志野に茶目っ気のあるウィンクをしてみせた。なるほど、そういうことか。確かに魔莉は、英二に好意を寄せているわけではなく、それどころか手助けをしてくれるらしい。
「じゃあふたりとも暇な日教えてね。英二はちゃんと誘っておくように」
「はいはい」
 英二はかったるそうに返事をしたが、さほどいやそうにはみえなかった。
「マリ、私そろそろ帰るね」
 志野は話が済んだところで立ちあがった。時刻はすでに四時半にさしかかっている。もうすでに灯りをつけないと暗いほどだ。
「じゃあ俺も帰るわ」
 英二もショルダーバッグを持って立つ。
 魔莉はふたりをアパートの駐車場まで見送りにでた。外はまだ素肌に優しくない温度の風が吹くが、着実に春が満開に近づいていることを教えてくれる。
 手を振りながらふたりがみえなくなるまでアスファルトの上に立ったあと、魔莉は自分の部屋に戻っていった。今日は残りのカレー。二日目になるとコクが増しておいしくなると聞いたことがあるが、はたしてどうだろうか。魔莉は火にかける前から楽しみでしょうがなかった。


 
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