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一,『盛者必衰』

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 たとえば、100。
 ぴんと表面張力で張り詰めたコップの水。
 あとほんのわずかな荷重で千切れんとする蜘蛛の糸。ほんの少し、目にも見えない埃のような重みでさえ。
『100』を限界とするならば、2116年5月17日6時34分現在の日本が、『99.9999』だった。
「比率、51.997%を突破しました!」
 その部屋は――日本がまだなんとか国としての機能を保っていた、例えば2014年頃と比べて、はっきりと文明の進歩が見てとれる空間である。広さは大学の大講堂くらいであろうか。窓はなく、床・壁・天井に至る全面が液晶画面となっており、常に多様な情報を省の人間に伝えてくれる。株価や国内外の大きなニュースを流したり、リラックスの為に世界の美景100選やプラネタリウムが室内を彩ったりもする。現在、その液晶システムは真っ赤な警報色に塗られていた。
 一人の女性が、その絶望を隠す気力もなく虚ろな目で部屋中心部のメインモニターを見上げた。地球をモチーフに造られた360°液晶の巨大球形モニターでは絶え間なく数字が踊っている。
 ――51.999%。
「もう……無理です」
 女性は諦めたようにそう吐き捨てると、ヘッドセットのマイクを机の上に投げ捨てた。やがて両目に蓄えた雫はせきを切ったように溢れだし、その一滴が自分の名札の上に落ちた。『神林』
 その様子を見た周囲の人間もまた、伝染されるように手を止めただぼんやりとメインモニターを見上げた。そして遂に数字は『52%』の臨界線を越え、それを待っていたかのように部屋中に警報がけたたましく鳴り響いた。
「6時37分09秒、限界です!! 想定された『超限界数値』――」
 音の振動を肌が感じる。体は震え、毛穴が開くのがわかる。
「『老人比率』が52%を突破しました!」
 遥か、あまりにも規格を越えた数値にいざ直面し、その場の人々は誰もが絶望に包まれた。
 65歳以上の人口比率21%超で「超高齢社会」と称していた時代すらあった。ならば、この時代をなんと呼ぼうか。
「もう……。どうすればいいの?」
 神林は両手で顔を覆った。
 超高齢化社会対策の為、2077年に創設された人類保管省。国を挙げた子作り政策は当然、21世紀末には安楽死も合法化され寝たきりの老人や老人ホームに受け入れられず彷徨う人々の安楽死を積極的に煽ったが効果は見られなかった。
「全員、聞け」
 メインモニターの下で机に座ったままの男の声が拡声器を通して響き渡る。
「はっきり言って、この国は終わった」その言葉は比喩でもなんでもなく、そのままの意味として皆の胸に突き刺さった。「この事態を招いたのは大臣である私の責任でもある。――あまりにも。あまりにも手遅れかもしれないが、これをもって超特殊公共宣伝レベル5を発令する。すぐさま各庁に通達してくれたまえ」
「レベル5……!!」
 神林は絶句した。
「構いませんね? 総理大臣」
 そう呼ばれた男は静かに、諦めたように頷いた。その様子に、誰もが後に倣うしかないことを悟らされる。
「やはり、ゴミを捨てずに散らかった部屋を片付けることはできんか」
 口元からマイクを外してから、総理大臣は静かにそう呟いた。その言葉を、横の大臣だけが聞いていた。
 一つの国が。終焉に向かいながら、絶望の断末魔を撒き散らしながら。一か八かの闘いが始まった。

「――母崎大臣!!」
 大臣である母崎(ははさき)の号令によって保管省の人員がそれぞれ己の職務を全うしようと動き回る中、神林だけが母崎の元へと真っ先に詰め寄った。止んだばかりの警報が、未だ残響となって頭の中を揺らしていた。
「お言葉ですが大臣。“レベル5”の発令は耳を疑います」
 彼女は、至って真剣な顔つきで。母崎を非難する自分を誤魔化そうとすることもなく、睨むがごとく眼光ではっきりとそう告げた。この発言が元で首を切られようがド田舎に飛ばされようが関係ない。おかしいことはおかしいと言いたい。神林の子供の頃からのまっすぐで正義漢な気質が牙を剥いていた。
 しかし、椅子に座ったままの母崎がその細い目を更に細めて嫌悪感を露わにすると、針に全身を刺されるかのような緊張感が神林の華奢な身体を包んだ。握った拳がしっとり湿る。
「神林。君はまだそんなことを言っているのか」口を開くと同時に、いつもの顔つきに戻っていた。緩い口角に下がった目尻。社会の荒波に揉まれる中で張り付いたのであろう仮面のような微笑の奥で、何を考えているのか見当もつかない、いつもの彼の表情に。「君は優秀だが、少し、いつまでも夢見がちなきらいがあるねぇ。そんな様子じゃ、来週には田舎で老人ホームの職員をさせられていないとも限らないよ」
 柔らかい物言いが逆に見えない重圧となって抑えつけてくる。神林には、母崎の目を直視することができなかった。
「覚悟の上です」神林がまるで諦めたかのようにそう言うと、母崎もまた呆れたようにため息をついてから言った。「強情だねえ」
「君のように優秀な人材は貴重なんだ。できれば我々に足並みを揃えてくれることを願うばかりだが――、良い機会だ。今日は畦森と“外回り”に行っておいで。少しは刺激になるだろう」
「畦森さん、ですか?」
 神林が復唱した後、母崎が顎で神林の背後を指した。顎の先を振り返ると、そこには畦森(あぜもり)が立っていた。齢は30手前と言ったところであろうか――、何日放置しているのか分からない無精髭にやる気のないたるんだ目。神林はこの男が苦手だった。

 ○

「今日はご引率とご指導・ご鞭撻の程、何卒よろしくお願いします。畦森さん」
 歩きながらの神林がそう言って軽く頭を下げると、『虫唾が走る』。そう言わんばかりに畦森は舌打ちをした。
「お前さんにそんな言葉遣いされたって、何の足しにもならねえな」
 そう言いながらさっさと歩くペースを上げる。畦森の早歩きは神林にとっては少し小走りにならないとついていけない速度だった。自分のことなど気にも留めないといった様子の畦森の死角で、神林は顔をしかめて見せた。
 保管省を出ると、丁度タクシーが目前を通るところだった。「止めろ」畦森は慌てる様子もなくそう言った。
「自分で止めれば良いじゃないですか!!」
 そう反論しながらも言われるがままに慌てて右手を上げるとタクシーは止まったが、神林は怪訝そうに訊ねる。
「タクシーを使うんですか? 地下鉄でも行ける場所なのに……」
「アホか。俺に加齢臭で死ねってのか?」
 そう言いながら畦森は、消臭剤をタクシーの車内に撒いてから乗車した。その様子を見て、神林は畦森のことを心の底から軽蔑した。形容しようもない程の嫌悪感。夜になって人気のなくなった路地裏で腕を首に回されようものなら思わず吐き気を催すだろう。お前の方がよっぽど汚らわしい人間だと心の中で非難しながら、神林はできるだけ車内の端に乗車した。
「神保町へ」

「“外回り”くらい、一人でもできるのに」
 会話の無い車内でやがて神林が呟いた。畦森はそれに対して何ら反応を示そうとはしなかったが、少ししてからまるで思い出したように口を開いた。
「レベル5だぞ、お嬢ちゃん」
 その言葉に息を呑む。
「馬鹿にしないで下さい。私だってそれくらいできます」
 それは自身でも嫌になるくらい目に見えた虚勢だった。くっくっく、と畦森が嘲笑している。
「まあー……、大学出立てのお譲ちゃんを虐める趣味はねえよ。だが万が一お前さんに仕事ができたとしても、引率が必要な理由はそれだけじゃねえ」
 前を向いたままの視界の端で、畦森の右手の人差し指が「こっちを見な」とひょこひょこ動くのが映った。神林はゆっくりと、視界を畦森の方へと向ける。
「携帯許可されてねえだろ、お前さん」
 そう言って畦森が胸元から取り出したのは、たしかな重量感を備えた黒く光る拳銃だった。
2, 1

  

「なんですか、それ」
 やっとの思いで一言絞り出して、また神林はごくりと太い唾を呑み込んだ。
 畦森は笑っていた。
「びびってんのか、神林」
 慣れた手つきで、まるで鉛筆でも回すようにクルクルと右手で拳銃を操って見せる畦森。神林は慌てて飛びかかると両手で覆い隠すようにしてその手を止めさせた。
「やめて下さい」バックミラーに映る運転手の顔がこちらを向いていないことを確認して続ける。「運転手の目もあります」
「真面目だなあ、お前さんは」
 相変わらずそんな風に神林のことを嘲笑しながら畦森はそれを胸元へと戻した。あんなものを胸ポケットにずっと隠していたのか。あくまでもそう言われてみれば、だが、スーツの左胸が僅かに厚みを帯びているようにも見える。
「安心しな。こりゃ別に、老人共を撃ち殺そうって訳じゃねえ」
「当たり前です!!」
 そう言いながら神林は、どこかほっとしている自分がいることに気が付いた。……どうかしている。
「あくまで護身用さ」
「護身用?」
 頭の悪そうな声で復唱するしかなかった。じっと畦森の目を見つめて続きを待つ。
「お前、俺らの“二つの敵”については理解してんのか?」
「それは――」神林は思わず言葉を詰まらせた。その続きを畦森が代弁してくれるのに期待してみたがどうやらそれは叶わなそうだったなので、五秒くらい経った後に口を開いた。「『人権派』と『左翼』です」
「正解。さすがにそんくらいは知ってるな」
 口にしたくないことを口にさせられる神林を見て、畦森は楽しんでいるようだった。
「今の時代、分かってるとは思うが真っ当なやり方で国を立て直すなんてのはもう不可能だ。政府としてはかなりグレー、いやブラックなことにも手を染めなきゃならん。が、頭ん中お花畑なクソ人権派ってのはどの時代にもいるもんでな。事この期に及んでも、政府の手から老人を守ろうとしやがる。この集団がまず一つ。そして何より厄介なのが左翼の連中だ」
 そこまで言って、口を休めるように畦森は煙草に火をつけた。
「奴らはこの国をぶっ壊そうとしてる」
 火を灯したばかりの煙草から、ゆらゆらと煙が立ち込めていた。
「現在、左翼の勢力は甚大だ。人口過多と社会の超高齢化が極まって、この機に日本を滅茶苦茶にしてやろうって過激派が後を絶たん。一人暮らしのゴミをわざわざ保護して長生きさせたり、他国から老人を呼び寄せて日本に住ませる活動までやってやがる。安楽死の企業や効率的に老人を収容できる老人ホームビルなんかはこいつらの妨害を受けていくつも潰されてもいるし、政府も頭を抱えている」
「そんな……」神林は思わず絶句した。「私が聞いていたのはあくまで老人を保護する人達がいるってだけで、まさかそこまでしているなんて……」
「恐らく今が末期。“現場”で鉢合わせりゃあ、左翼に殺されたっておかしくはないんだぜ。そういう訳で、レベル5発令後は必ず銃を携帯した人間が最低一人はいなきゃ行動してはいけないことになっている。お前にも、直に携帯許可が下りるだろう。良かったな」
 畦森はそう言って、動揺する神林を見てまた嘲笑った。
「だが、震えるこたあねえよお譲ちゃん。光がありゃあ陰がある。黒と白、上と下、ってなもんだろ? 世の中は」
 一瞬、神林にはその言葉の意味が分からなかった……が、次の瞬間はっとして顔を上げる。――左と、右。
「俺達は、右翼を味方につけている」
 そう語る畦森の顔は、大凡政府の人間とは思えぬような形相で。口角は釣り上がり、まるで、と言うよりこのことを愉しんでいるようにしか見えなかった。
「左翼が老人を守るなら、右翼はそれを妨害する。……つまり、」
 平に伸ばした右手で二、三回、自らの首を叩くジェスチャーを見せた。
「レベル5が発令されりゃ待ったなしだ。始まるのは世直しなんかじゃねえ。左翼・人権派と右翼・政府の、国を懸けた戦争だ」
 そう語る畦森の言葉は、あまりにも説得力を帯びていて。今の話が、決して冗談やヨタ話の類でないことが神林にも理解できた。
「お前さん。一方の組織に身を置いておきながら、その思想に逆らうなんてことやってっと――」
 思いっきり顔を近づけ、吐き捨てるように言った。
「マジに死ぬぜ」
 ――神林は、何も言えなかった。
 しっとりと背中を走る冷や汗がこの上なく気持ち悪くて、そっと車内のシートから背中を離した。
「着きました」
 やがて、永遠に続くかのように思われた静寂の中で運転手がそう言って、タクシーは目的地の前でその足を止めた。
「払っときな。経費で落ちる」
 そう言って畦森はさっさと車を降りようとした。が、一度完全に車を出てから何かを思い出したように顔を車内に戻すと、「そういえば、お前さんはどっちだい?」運転手にそう言い放って今度は本当に出ていった。
 また嫌な静寂が訪れる。神林には、ミラーに映る運転手の顔を見るなんてことは到底叶わなかった。やがて、運転手がゆっくりとその重い口を開いた。
「そりゃあ……。私の立場としては、人権派の肩を持つしかないですよ、そりゃ」
 運転手は、65歳以上の老人だった。
 哀しい顔をした神林は、やがて「すいません」と精一杯絞り出すと、お釣りも受け取らずにその場から逃げるように降車した。
 畦森はさっさと目的のマンションへと歩を進めていて、神林はまた小走りになってその背中を追い掛けた。
「もう!! なんであんなこと言ったんですか畦森さん!」
「さあねえ。臭かったからかな」
 その背中を思い切り蹴飛ばしたい衝動を抑え込む。
 マンションの前には管理人が立っていて、二人の存在に気が付くとお待ちしていましたと微笑んだ。
「人類保管省の畦森だ」
 そう言うと畦森は、管理人の差し出すカード型の端末にICカードを通した。すると端末の液晶画面には『人類保管省 第八対策室 畦森清太朗』の文字と顔写真が表示される。このカード型端末は現代の社会人であれば誰もが持っている必須アイテムであり、たとえば、百年くらい前でいう名刺の役割を担っている。クレジットカードと同じくらいの大きさで厚さはその三枚分。下部にはICカードを読み込むリーダーがあり、そこにICカードを通すとその個人情報が表示されるといった具合である。軽くて小さく、これ一枚でほぼ無限に他人の情報を保存しておける上、ICカードを介すが故に面通しと同時に確実な身分証明を行えるというシステムだ。
 神林も同じように自分のICカードを管理人の端末へと通した。
「神林です」
「お話しは聞いております。今日はよろしくお願いします」人あたりの良さそうな笑みを浮かべながら管理人は二人を中へと案内した。「どうぞこちらへ」
 畦森がくっくっ、と笑う。
「あんたはまだ“ギリギリ”大丈夫そうだな」
 今度こそ神林は、畦森の脇腹を肘で小突いた。これでも相当抑えている方であろう。
 正門から入って一番奥の棟。そのオートロックを開けて、管理人は後のことを二人に任せて管理人室へと戻っていった。
「開けろ」
 エレベーターの前まで来ると、畦森は命令口調でぼそっと言った。
「ご自分で開ければよろしいのではなくて?!」
 反論しながらも、神林は言われるがままにエレベーターのボタンを押す。
「ご老人様が押しまくってるからなあ」
 そう言って、ファブリーズを撒きながらエレベーターに乗り込んだ。
 神林はいい加減、畦森がこういう行動をした時にどう反応すればよいのか分からなくなってきていた。
「いつかバチが当たりますからねっ」
 そう吐き捨てて神林も後へと続く。
 中に入ると、神林が何階か訊ねるより早く畦森がただ一言「16」とだけ呟いた。
 神林にしてみればなら自分で押せとやはり思うところだが、もうこういう人間なのだと諦めることにした。
 最上階の一番奥。「大川」と書かれた液晶を見つけて二人はそちらへ足を向ける。
「よし。気合い入れてけよ」
 果たしてどこから取り出したのか、マスクを装着しながら畦森はそう言った。当然のように神林がインターホンを押させられると、だいぶゆっくりとした間を置いてからしゃがれた女性の声がした。
 ――結局、二人が身分を名乗ってから更に約五分。「これだから老人は嫌いなんだ」という畦森の心の声が聞こえてきそうな空気に神林は耐えながら待ち続け、そしてやっと部屋の扉が開かれた。案の定というか、出てきたのは足腰の悪そうな一人の老婆だった。
「どうも、初めましておばあちゃん。神林といいます」
 虚ろな目をした畦森もマスクの下で自己紹介らしき何かをモゴモゴ喋っているような気がしたが、無視して続けた。
「今日は、おばあちゃんの様子を見にきたんだ。中に入ってもいいかな?」
「ああー……あ。そりゃあ、どうも、わざわざすまないねえ」
 老婆は実にゆったりとしたペースで言葉を連ねた。
「今日はおじいさんもおりますが、上がってってください」
 その言葉を聞いた瞬間、畦森は眉をひそめた。その表情の変化に老婆はもちろん神林も気がついてはいないようである。
「どうもありがとう。それじゃ、お言葉に甘えるね」
 ほらっ、行きますよ。
 小声で囁きながら腕を引く神林に、畦森もそっと囁き返した。“心の準備はしておけ”。
「えっ?」
 神林が聞き返す暇もなく、畦森は今度は神林の前に出て中へと進んだ。胸ポケットからそっと拳銃を取り出し、その安全装置を下ろす。
(まさか、中には敵が……?)
 そう考えると、もう神林は緊張感からパニックになっていた。体中から汗は噴き出し声帯は詰まり手足は痺れ頭の中はガンガンと鳴る。必死の思いで畦森の背中に隠れると、ゆっくり慎重に歩く彼のペースになんとか合わせながら進んでいった。
 ……が。
 どうやら、それは畦森の杞憂だったようである。しかし何しろ、この老婆は現在一人暮らしであると事前に調べてあったのだ。そのはずの老婆が中におじいさんがいると言い出せば、たとえば老婆は現在アルツハイマーが進行していて、中にいる左翼の正体があやふやになっているのでは、と畦森が考えたのは至極自然なことであった。
 神林は大きく息を吐いた。緊張からどっと解放されたが、まだ指先が痺れているように感じる。無意識の内に掴んでいた畦森のスーツの裾を、払うようにして慌てて離した。何はともあれ、いきなり銃撃戦が始まるのではないかという最悪の想像は免れたのだ。……その代わり、見たくはないものを目の当たりにすることになったが。
 食卓には、カピカピに干乾びた白米と味噌汁、それに鮭の切身が並んでいた。それは老婆が自らの為にこしらえたものではない。椅子には、にっこりと優しそうに笑う老人の遺影が立てかけられていた。
 畦森は神林の方を振り返ると、右手の人差指をこめかみのあたりでクルクルと回して見せた。
4, 3

  

 その右手を掴むと老婆から隠すように力ずくで折り曲げ、神林は畦森の前に出た。
「ねえ、おばあちゃん。……このご飯、誰に用意したのかな?」
 女性にしてはすらりと伸びたその上背を老婆の目線にまで窮屈に下げ、ぎこちない笑顔で訊いた。
「ああー……こりゃ、お恥ずかしい。ここのところおじいさん、すっかり食欲が無くなってしまってねえ。今日もほら、手つかずなんです」
 二人は無言でその場に立ちすくんだ。神林はともかく、畦森はこんな場面に出くわすのも初めてではない。だがしかし、それにしても――何度立ち会っても、鬼気迫るものがあるものだ、と畦森は思った。少なくともこの老婆は、夫がまだ生きていると信じているのだ。物言わぬ笑顔を振りまくだけの遺影を相手に、一日中語りかけているのだろう。一日中、朝から晩まで、たった一人きりの部屋で。神林と違い、決してそれを不憫に思うようなことはなかったが……。
 椅子に腰かけた老婆の対面に、畦森も腰を下ろした。
 机に肘をつき、顔を寄せる。マスクの上の細い目が老婆を値踏みするように光っていた。
「神林。千代田第一老人ホームタワーの空き部屋状況を確認しろ」
 突然の指示に、神林は我に返ったように慌てて携帯を取り出した。携帯を開き、専用のデータベースから空き部屋状況を確認する。
「……二十階、全室満員です」
 畦森は老婆に構うことなく舌打ちをした。
「第二」
「満室です」
「第三」
「同じく」
 痺れを切らした畦森が、腹立ち紛れに神林の頭をバシッと叩いた。“ポン”なんて生易しいものではない。容赦のない張り手である。
 痛みに悶える神林をよそに、畦森が何かを思い出して立ち上がった。一度部屋を出て、玄関口に溜まったままの新聞をあらかた持ってくる。その中の一部に目当ての記事を見つけると、神林の胸へと投げつけた。
「ほらよ、そういやこの事件が一昨日のことだ」
 それは、一昨日文京区で起こった老人ホームタワーでの集団食中毒事件の記事だった。十五階建てのホームに住む老人達が相次いで食中毒の症状を訴え、その中の七割が死に至ったという大事件である。
「一昨日~今日、で、まあ、遅くとも明日には“片付け”も済んでいるだろう。明日中にはこのバーサンを入居させる」
 その言葉に神林は耳を疑った。
「ちょっ、本気ですか?!」
 新聞の記事を再び畦森へと突き返した。
「集団食中毒事件ですよ。大量の死者を出しています! 衛生管理局の監査もこれから入り、新しい入居者を受け入れる体制は整っていないと思われます。それに――」
 神林は畦森に顔を近づけ、より一層声を潜めて言葉を続けた。
「ご存知でしょうが、今回の事件はいわゆる右翼の関与も噂されています。つまり、老人達を殺す為の作為的集団食中毒事件だと……。お言葉ですが、そんなホームにみすみす入居させる訳には」
 瞬間、神林は世界が揺れるのを感じた。
 畦森は神林のスーツの胸倉を掴むと、そのまま後ろの壁へと叩きつけていた。息が詰まり、背中には激しい痛みが走る。
「……なめんなよ」
 鼻息がかかる程の距離で、マスクの奥でそう呟く畦森の両眼は、神林に反論の選択肢をまるで与えなかった。
 もしも、神林の二の句がなお自らの意にそぐわないものであった場合、そのまま腕に力を込め絞め殺してしまいそうな。有無を言わさぬ絶対の迫力をその両眼は放っていた。神林は、初めて畦森に対して“恐怖”を感じていた。
「お前が保管省の方針に疑問を抱いているのはどうでもいい。だが、言われたことはそのままやれ。逆らうな。俺の邪魔だけは絶対にするんじゃねえ」
 気が付けば、涙で視界が歪んでいた。それが恐怖から来たのか首を圧迫されたことから来たのかはわからなかったが、その涙目を見て満足したかのように畦森は手を離した。
「お前も、分かっているんだろ? 神林」
 咳込む神林をよそに話を続ける。
「超特殊公共宣伝レベル5。それは国が発する最終命令。もちろん、これはあくまでも“国側の心構え”という意味だが――」
 レベル5。その意味は……。
「社会的価値をもたらさぬ六十五歳以上の全て国民は、人権を失う」
 神林の顔が歪む。話が聞こえてこない老婆が、心配そうに二人の様子を眺めていた。
「もう一度言う。このバーサンは明日中には文京第二タワーに強制送還する。話はお前がつけておけ」
 そう言って畦森は一枚のメモに電話番号等を記すと、神林の胸ポケットに突っ込んだ。
5

鶏徳きりん 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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