『マヨヒガダマシ』
憧れていた従姉が失踪して、もう十年にもなる。
当時の、山中の寒村の、何らの力も持たない(つまり、権力なり財力なりのことだが)家にしては、相当に頑張って捜し尋ねてはみたのだが、今に至るまで、見かけたとも知っているとも話をきかない。まだ五ツだったぼくもぼくなりに(何の|援《たす》けにもなっていなかったが)手を尽くしたし、すでに死んだものだとみなが思うようになった今でさえ、ぼくはまだ諦めきれないでいる。それで、暇を見つけては、別の村だの、町だのに顔を出して、あれこれ家で作ったものを売りながら、色んな人に尋ねているのだ。
津田マヌカという女性を知りませんか、と。
返ってくる答えは常に|否《いな》で、だいたいはその後に、「もう死んでいるんじゃ」という言葉がついてくる。たまには婉曲に「神隠しにでもあったのかね」と言う人もいるし、「売られたんだろう」と意地悪く言う人もいた。
ぼくは理由なんかどうでもよくて、知らないんなら知らないでいいので、否という答えをきいた後にはもう、ハハと曖昧に笑って誤魔化した。眉尻を下げて、いかにも情けなさそうに、仕様がなさそうに、諦めを含んだように笑うという、何の役に立つのだか分からない演技だけは、巧くなった。
今回もまた、当然に空振りで、何の成果もなく(商いは上手くいったのだから、家の者は文句を言わないだろうが、ぼくにとっての|主《おも》はマヌカ|姉《ねえ》のことで、商売がどうだろうとどうだっていいのだ)ぼくは、山を歩いていた。
ざくり、ざくり
深靴に踏まれた雪の、粒と粒との隙間がなくなって、|擦《こす》れる音だけがよく聞こえる。
雪の怖いのは、滑るのもそうだし、積もったのが落ちてくるのも雪崩も怖いのだけど、隠す、というのが一等怖ろしいと、ぼくは思っている。
吹雪で前が見えないこともあるけれど、積もった雪というのは、踏んだ先に尖った枝があろうが、つんつるの石が転がっていようが、地面がなかろうが、全部ぜんぶ雪は呑み込んで、真白い面ツラだけ見せて澄まし顔をしている。それが怖ろしい。 雪の下に隠されてしまえば何もかもが、あるのかどうだか分からなくなる。
(マヌカ姉も、)
ざく、ざくり
(雪の下にいやァしないだろうか)
ざく――
本当に地面がなくなっているとは、さすがに想像が及ばなかった。
目を覚ますとぼくは、暗い|洞穴《どうけつ》の底にいた。真暗い中でどうにか手探りさぐり、壁を伝ってみたものの、上へ戻れそうな道はない。
代わりに、ゆるゆると下っていく方へは道がある。
仕方なしにそちらへと、手で壁を足で地面を探りながら、そろそろと歩き出した。
たどり着いた先は広く明るい広間のようになっていて、途方もなく大きな館があった。
大きさだけならまずまずのぼくの家を、いくつ足せば追いつけるのだか分からないほど、大きい。
(まさか、これは)
マヨヒガ、というやつではないだろうか。
迷い込んだ者に、望むものを一つだけ与えてくれるという。|お《・》|は《・》|な《・》|し《・》の中の建物だ。
(なら、ぼくが望むのなら)
マヌカ姉は帰ってくるのか?
いや、真偽はどうだっていいのだ。ただぼくは望みさえすればいい。何もマヨヒガがこちらを害するわけでもない。
昂奮で鼓動と鼻息を強くしながら、ぼくは門をくぐり、玄関に入り、座り込んで深靴を脱ごうとして、
「待ちなさいアリタ」
……脱いだ。のと、どちらが早かったのだか遅いのだか、懐かしい声が聞こえた。
「マヌカ姉!」
振り向けば、額に手をやって嘆息するマヌカ姉が、失踪した当時そのままの姿でいた。
「待てと言ったでしょうに、もう……」
「ねえちゃんがそう言って、ぼくが待ったことあったっけ」
マヌカ姉は両手で顔を覆って座りこんでしまった。あれ?
「そうね、そういえばアリタはひとの話をきかない子だったわね」そうですエッヘン。
十年経ってもマヌカ姉がまるで歳をとっていない不審さは、十年経って成長したぼくを見てすぐに分かってくれた喜びに紛れてしまう。ねえちゃんは、やっぱりねえちゃんだった。今や|背《せい》の高さも追い抜いてしまって、同年代のようにしか見えないけれど。
「……あがってしまったのなら、もう仕様のない話、か」
聞こえても聞こえなくてもどちらでもいいような、投げやりな大きさと調子でマヌカ姉は独りごちると、立ち上がってぼくを手招いた。
「来なさい、アリタ。たぶんアンタの訊きたいことに、少しなら答えられるだろうから」
「え、やだ」
ぼくは当たり前に断わった。
「……何ですって?」
奥へ歩き出していたマヌカ姉が、眉を|顰《ひそ》めて振り返る。
「訊きたいことなんか一つしかない、それだけ聞ければいいんだ」
「……何を?」
「ねえちゃんは、マヌカ姉は、望んでここにいるのかってこと」
それだけだった。
姉ちゃんは顔を一瞬歪ませると伏せてしまって、それからいきなりぼくの胸元を掴むと、何度か逆の手でぼくの胸を打った。痛みなんてまるでない、力の篭っていない|打擲《ちょうちゃく》だった。
「望んでなんか……いるわけないでしょ……ッ!」
絞りだされた声は、震えを抑えきれていなかった。|洟《はな》をすするような音もする。
ぼくはそれらを気付かなかったことにして、|胸座《むなぐら》を握るマヌカ姉の手に、両手でそっと触れた。邸内は暖かいのに、ひどく冷たい手だ。
「なら、出て行けばいい」温めて、やりたいと思う。
ぎゅっと包んで、己の体温を少しでも伝えてやろうとする。
「全部をうっちゃって、ねえちゃんに何も残らなくても、ぼくがなんとかする」
家族が何と言うかは分からなかったが、少なくとも、自分は味方であり続けると、それは伝えておきたかった。
しかしねえちゃんはゆるゆると、首を振る。
「出られないの。ここはマヨヒガダマシ。|常世《とこよ》と|現世《うつしよ》の|狭間《はざま》の一つ。マヨヒガに見せかけた、|生者《せいじゃ》を捕らえ、嘲笑うための装置――」
「何それかっこいい」
「えっ」
率直なぼくの感想に、深刻な表情を見せたマヌカ姉も、間抜けた声を出すのだった。ねえちゃん、洟垂れてきてるよ。
館の奥、ハイカラな板敷きの部屋で、洋風の背の高い|卓袱《しっぽく》を囲んだ椅子に落ち着いたぼくは、マヌカ姉の話を聞くことにした。といっても、
「何から話したもんか分かんないから、アリタ、アンタが訊きたいこと言いなさいな」
というのだから、まずはイの一番、気になることを訊く。
「あのーねえちゃん。じゃあさっき言ってた『常世と現世の狭間』ーってのは?」
「あ、あぁ、アレ、ね」
急に気恥ずかしそうにどぎまぎと、マヌカ姉が動揺する。
「変よね! ああいう言い回しって!」
「いやかっこいいと思うけど」
「あっ、そ、そう……」
うん、ならいいわ別に……とか何とか、口の中でごにょごにょと言う。
「まぁ、言い回しはともかくとして、内容は実際そうらしいの。らしい、っていうのは本当かどうかは分からないからね」
「ええと……?」
「ここが、『常世と現世の狭間』であること――今ここにいるわたしたちというのは、半死人みたいなもので、言ってしまえば棺桶に片足突っ込んでる、ってやつ。この邸の一角に、地下につながる階段があって、それはとてつもなく長いのだけど、それを下りきると『あの世』があるって聞いた」
「聞いたって、誰に」
「わたしがここに迷い込んだときにいた人。その人も、前にいた人から聞いたって。要するにずーっと口伝えで、そういう話が残ってるの。だから、多分本当なんだろうけど、確認する方法はない。分かるのは、条件を満たさなくては『あの世』に辿り着けないということ」
台上で緩く組んだ両手の、親指同士をくるくる回しながら、マヌカ姉は続ける。
「ここにいれば飢えも渇きもしないけど――ついでに成長も老化もしないけど、食べ物がいくらでも出てくる皿や、使ってもつかっても尽きない|水甕《みずがめ》なんかがあるのね。そういったものから出てきたのを飲み食いすると、本格的に死人になって、『あの世』に辿り着けるのだそうよ」わたしは、まだ口にしていないけど、と付け足す。
「……もしかして、その、前にいた人って」
「ええ、わたしが来てしばらくしたら、地下へ向かったわ……それで、戻ってこない。しばらくあとにわたしも下りてみたのだけど、行けども行けども階段が終わらなかった」
マユツバものの話だけれど、もう今この状態が、普段なら信憑性に欠けるその話に説得力を与えている。地下空洞にある豪邸に、十年分の成長のない従姉。『あの世』への入り口があるというのが、何だか尻の下を寒くするようで、怖気が背中を這い上がっていった。
「そんなところ、出ていきたくないの? 逃げちゃおうよ」
「言ったでしょ? 出られないって。この邸に上がった者はね、次に誰かが来るまで、出られないの。履物を脱いでこの邸に上がると、そのときに命を半分落っことすようなのだって。それで、脱いだ履物を、自分ではもう履けなくなる。上がろうとして、つまり望んで捨てたものだから」
だから、別の人の履物を、もう半分の命をもらわなくては、マヨヒガダマシからは逃げ出せないのだと。
「えっ、じゃあ今ならねえちゃんは逃げられるんじゃ……?」
ぼくの履いてきた深靴が、|三和土《たたき》に転がっているはずだ。
「バカ言わないの」
以前には見下ろしていた顔を、今は上向けて、少しやりにくそうに伸ばされた手が、ぼくの頭にポンと置かれた。
「待てっつったのに待たなかったおバカさんを、ほっぽって行けるわけないでしょ」
ぐしゃぐしゃと、髪の毛をかき回される。十五にもなって、という気恥ずかしさもあるけれど、でもマヌカ姉が、失踪してしまうより前と同じように弟分のぼくを見捨てようとはしないのが、たまらなく嬉しかった。玄関口での震えた声や、まだ腫れぼったいまぶたを思えば、葛藤がないわけもないのに、それらをおくびにも出さずにぼくを慰めようとしてくれている。
「あーあァ、泣いちゃって。そういうとこも変わってないのね……図体ばっかデカくなっちゃって」
仕方ないなぁと、苦笑するマヌカ姉。ぼろっ、と涙がこぼれるのを、こらえきれなかった。歯を噛んで我慢しようとしても、鼻の奥からこみ上げてくるものが、涙腺にかかる圧が、どうにも抑えられない。
「ちが……ッ、これっ、これはァ…ッ!」
嬉しくて泣いてるンだと言おうとして、
「分かってる」
マヌカ姉は目を閉じて、額と額を合わせてくる。ひやりと、やはり冷たかったけれど。
「わたしも、嬉しかった。まだ探していてくれたのが。そりゃあ、止めたのに上がりこんできたのは、バカじゃないのって思うけど。でもね、ありがと」
ねえちゃんの囁き声が、涙をこらえようとしていっぱいいっぱいの胸にするりと入ってくる。この十年の自分が、いっぺんに報われたような心持ちになってまた、涙があとから出てくるのだった。
ようやっとに平静に戻ったぼくは(まだすんすんと洟をすすっていたが)、決断的に言った。
「ねえちゃん、一緒にこっから出よう」
「……アンタねぇ」
さすがにマヌカ姉も鼻白んで眉間に皺を寄せる。
「だから! 出られないって」
「試したいことを思いついたんだ。うまくすれば、二人で出られるかもしれない」
「……えっ」
にやりと笑(おうとしたけど、うまく顔面が動かずにひどい顔にな)って、ぼくは尋ねた。
「藁はあるかな」
数時間後。ぼくとマヌカ姉は立ち尽くしていた。
――マヨヒガダマシの|門《・》|の《・》|外《・》で。
「うまく、いっちゃった、ね……」
隣のマヌカ姉を見ると、あちらもぼくを見上げて、口をぽっかり開けたまま呆けている。
それが妙に可愛らしくて、にまにまと笑っていたら、ねえちゃんの両手がぼくの襟元を握っているのに気付くのが遅れた。
「なんで?! どーして二人そろって?!」
「うえええええええ」前後に激しく揺さぶられて、首ががくがく動く。
「ちょ、ねえちゃん、まっ、止めて」
放されて|一頻《ひとしき》り、えほえほと咳きこんでから、ぼくは答える。
「なんでも何も、ぼくが何やってたかは見てたじゃないか」
「用意した藁で深靴の修繕をして、それにもう一個新しく作ったんじゃないの?」
「|違《・》|う《・》。ぼくの履いてきた深靴をバラして、新しく足した藁と一緒にして、二つ作ったの」
「……つまり」
「ぼくの履いてきた靴|で《・》|は《・》|な《・》|い《・》からぼくも履けるし、同時にぼくの履いてきた靴|で《・》|も《・》|あ《・》|る《・》から、ねえちゃんも履ける。どっちも出られないかもしれなかったけど、試すだけならタダだからさ」命の総量、というものがあるとすれば、それは一人前より減ってしまっているから。
博打だったが、ぼくらは二人でマヨヒガダマシを出られた。結果から言えばそれでも良し、ということなのだろう。
「やっっったぁあああああッ!!」
「どぉわァッ!?」
いきなり、今度は首すじをぐるっと抱え込まれて、ぎゅーされてしまう。嬉しいんだけどねえちゃん、強すぎつよすぎ。
「やるじゃないアリタ! アンタってこんな頭良かったっけ?」
「詐欺みたいなもんだよこりゃ……それに、上手くいけば儲けもんで、失敗したって良かったんだし」
そう、|失《・》|敗《・》|し《・》|て《・》|も《・》|、《・》|良《・》|か《・》|っ《・》|た《・》。どう転ぼうと、とっくにぼくの勝ちは決まっていた。
マヌカ姉には会えた。言葉も、交わせた。十年前と変わらずぼくに優しくしてくれた。そこまででもう充分だったのだ。あとの今、こうしてマヨヒガダマシから揃って出られたことは、余禄のようなものだ。
「こらこら、そんなこと言わないの。そりゃあ、わたしだって別に、アリタとならあすこの中でずっと一緒でも良かったし、アンタがもし望むなら、あの世にだって付き合ったげても良かったけど……」ねえちゃん、割とすごいこと口走ってるけど大丈夫? 結婚する?
まぁ勢いで言ってるみたいだし、実際そうなったときにはどうだったろうなと、少し冷めているぼくの部分が囁いている。
「でも、いいじゃない。出られたんだもの! 失敗したときのことなんて、やる前ならともかく、終わったあとに考えるもんじゃないんだから!」
首元に|埋《うず》めていた顔を少し離し、ねえちゃんが笑って言う。
そういうもんかな。うん、それでいいのかもしれない。
どうやって地上に出たもんかなとも思ったけど、ねえちゃんの笑顔を曇らせるのが嫌で、しばらくのあいだ黙ってぎゅーされておくのだった。今はもう、同じだけの体温のこの従姉に。