第三話 神さまはいるのかも
第三話 神さまはいるのかも
珍しく仕事が立て込んでいつもの時間にうんこができなかった。昼休みが終わって惰性で仕事をしていると、1時半を過ぎた頃についぞ味わったことのない便意が襲いかかってきた。
顔を青くしながらトイレに駆け込むと3つあるトイレはすべて使用中だった。一瞬、目の前が暗くなったものの、僕の会社はビルの3フロアを有していることを思い出して気を持ち直す。各階には同じ間取りのトイレが設置されているのだ。
気持ちの余裕からか便意の波がかすかに遠のいた。ふいに僕は「暴発寸前のうんこを我慢しながら放尿する」という子供のような挑戦をしてみたくなった。さっそく小便器の前でちんちんを取り出して、ゆっくりと力を抜いていく。……これは力の加減が難しい。慣れないコントロールに集中して細い尿をちょろちょろ出していると、弛めた肛門がひくひくと蠢いた。「はぅ……」と熱い吐息が漏れそうになるのをすんでのところで堪え、肛門をきゅっと締める。力を抜きすぎると危険だ。僕は細心の注意を払い、なんとか無事に尿を済ませることに成功した。うんことのぎりぎりの攻防は思いがけない達成感を僕にもたらしたのだった。
手を洗っていると真ん中の個室が空いた。状況を考えれば一も二もなく飛び込むべきだろう。血気盛んなじゃじゃ馬うんこは自由への扉をいまにも蹴り破ろうとしているのだから。
けれど、「あいつそんなにうんこしたかったんだ」と尿の人たちに笑われそうな気がして二の足を踏んでしまった。前の人の便座の温かみや残り香のことなんかを逡巡しているうちに、空いた個室は後から来た人に入られてしまった。とんびに油揚げをさらわれた格好の僕は「うんこなんてぜんぜんしたくなかった」みたいな顔でトイレを出ると、上の階に続く階段を内股気味に上っていった。
僕は我が目を疑った。上の階のトイレもすべての個室が埋まっていたのだ。立ち尽くす僕に尿の人たちが刺すような視線を向ける。混乱した僕は逃げるようにトイレを飛び出し、くそったれ……と心の中で毒づいた。
額に脂汗が滲む。もう僕のうんこはじゃじゃ馬などというかわいいものではなく、荒れ狂う嵐のように僕の直腸をかき乱していた。嫌な予感がする。それでも上に進むしか道はない。僕は尻肉全体をぎゅっと締め、体中に力を入れた状態で階段を上っていく。まるでねじの切れかけたおもちゃにでもなった気分だ。息が乱れてきた。階段が、長い。
嫌な予感は的中してしまった。ようやくたどり着いた最上階のトイレも個室の扉はすべて閉ざされていたのだ。尿の人がいないのを幸いに、僕は洗面台に手をついて身をよじり、祈るような思いでどこかが空くのを待った。
だが、一向に誰も出てこない。いや、出てくるどころか人の気配すらしない。扉の向こうの男たちは身じろぎひとつせず、トイレットペーパーも回さず、放屁も、排便さえもする気配がなかった。
――ああ、彼らは僕と同じだ
僕は絶望と共に悟った。彼らも排便空間にやすらぎを求めているのだ。彼らに僕の動きは筒抜けだ。尿もせずに立ち尽くす僕がうんこ待ちであることなど百も承知だろう。その上で彼ら――無言の排便者たちは気配を殺している。それはすなわち、この場を譲る気など毛頭ないという決意表明に他ならない。無言の排便者たちは僕が諦めて去っていくのをじっと息を潜めて待っているのだ。
僕はうつむき、汗の滲む顔を片手で覆った。涙が出そうだった。友達から仲間外れにされた時のような悲しみが僕を苛んだ。
――なぜ、僕はあの時、ためらってしまったんだ
最初のトイレ、せっかく空いた個室をやりすごしたことを心の底から後悔した。そもそも今日の僕はうんこに対して不誠実だった。便意を弄ぶようなことをして、挙げ句の果てにトイレを蔑んだ。僕だけの排便空間じゃないなんてわかっていたのに、他人が使った直後なんて汚いって差別した。だからばちが当たったんだ。
「ごめん……うんこ……ごめん……」
僕が喘ぐようにつぶやくと、無言の排便者たちがビクリと身体を震わせ、ざわざわした気配を発するのがわかった。
――償おう
腹を決めた僕はゆっくりと歩み出し、そっとトイレを後にした。もう普通に歩くことさえままならない。誰かに背中をポンと叩かれたら、その瞬間に破滅が訪れるだろう。身体中が冷たく、指先は痺れている。血液のすべてが肛門付近に集まっているようで意識さえ朦朧としていた。
それでも僕は一歩一歩前に進む。集中が途切れたらお終いだ。死刑台に向かう囚人のように、永遠に続くかのような階段を一歩、また一歩と踏みしめていく。
いつものトイレに帰ろう。そしてそこで裁きを受けよう。個室が空いているか否か、それで僕の運命は決まる。走馬燈のようにトイレでの日々が甦った。いつも僕を優しく受け入れてくれた排便空間。もしもうんこの神様が僕を許さなくても決して恨むことはすまい。それが排便に対する僕の真心のすべてなのだから。
僕はトイレの入口に立った。ここまで耐えられただけでも奇跡のように思える。すべての個室が閉ざされていたなら、もう抗うことはできないだろう。そっと目を閉じ、小さく息を吸い、吐いた。そして僕はトイレのドア――裁きの門を押し開いた。
その瞬間の喜びを、その瞬間の感動を、いったいどう表せばいいのだろうか。そこにあったのは、すべての個室が開かれ、尿の人さえいない、僕の、僕だけの排便空間だったのだ。
――神さま……
僕はなにかに感謝せずにはいられなかった。そして許しを乞うように、さっき入らなかった真ん中の個室に入り、厳かに尻を出して便座に座った。さあ……行こうか……。
――あああああああああああああああああっっ!!!
肛門という名の堰を切ったうんこは激流と化し、僕を僕たらしめている個の感情というものをを完膚なきまでに蹂躙していった。たしかにあったはずの耐え難い苦痛や落涙するほどの喜びは便意と共に宇宙の塵にでもなってしまったかのようで、遺された僕は軽くなった腰回りに喪失感を覚えるばかりだった。
そして虚無の時が訪れた。
うんこを失くした僕には、なにも残っていなかった。
……それからどれだけの時間が流れたのだろう。僕は虚無の果てに、ほのかな灯火を見出した。その小さな明かりは瞬く間に輝きを増していき、あっという間に僕を排便の煌めきで包み込んだ。僕はその暖かさに戸惑いを覚えた。からっぽだったはずの僕の心は静かな喜びに満たされ、便器と一緒にどこまでも飛んでいけそうな気がしたのだ。
便器に乗った僕は草萌ゆる排便世界を天上から見下ろしていた。僕たちの周りには天使が舞い、彼方からは祝福の鐘の音が聞こえてくる。人々の惜しみない喝采に僕は手を振って応えた。
ありがとう、みんな……ありがとう、うんこ……
僕は排便世界の限りない愛に涙した。そして僕は心から願ったのだ。
――God bless you!
――すべての人に幸あれ、と。