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プロローグ

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 昼頃から怪しくなっていた空模様は、夕方になってついに崩れた。
 天気予報を完全に信じていた僕には、当然ながら傘などの用意はない。できるだけ濡れないようにと小走りで家に向かうが、雨は次第に強くなっていく。やっとの思いで家に到着した時には、もう外は土砂降りになっており、走ったかいもなく全身がずぶ濡れになっていた。
 靴の中にまで雨水が入ってきていて、歩くたびになんとも言えない不快感がある。
 僕は鍵をあけて玄関に入ると、そのままそこで服を脱ぐことにした。普段ならこんな場所で脱ぐことなどありえないが、家族が皆出かけている今日だけは特別だ。
 雨に濡れた衣服を持って脱衣所に行き、それを洗濯カゴに投げ入れる。バスタオルで全身を拭き、いつも部屋着にしているジャージを着ると、そのままリビングに向かった。
 髪をバスタオルで乱雑に拭きながらソファに腰を降ろしたところで、僕はようやく、リビングの固定電話のランプが点滅していることに気がついた。
 留守番電話?
 一体何なのだろうと点滅するボタンを押すと、録音されていたメッセージが流れ出す。それは女性の声だった。
 目の前が一瞬だけ真っ黒な何かに覆われる。
 僕はもう一度だけその音声を聞くと、それからすぐに部屋着のジャージのまま家を飛び出した。
 自転車を奥から引っ張り出し、それにまたがる。僕は勢い良くペダルを踏むが、それに対して自転車の挙動はひどく緩慢だ。その勢いのなさに自転車に対する怒りが瞬時に沸騰しかける。
 落ち着け。
 自転車が遅いのではなく、僕の気が急いているだけだ。
 僕はそのまま自転車に乗って、主観的にはひどく遅いスピードで目的地へと向かった。
 そしてやっとのことでたどり着いたそこは大きな病院だ。
 自転車を適当な場所に置いて入り口に向かって走る。ズボンが水に濡れてひどく動きにくい。その動きにくさでようやく僕は自分が土砂降りの雨の中を自転車でやって来たということを意識した。乗っている間は自分がずぶ濡れになるということについてまったく考えていなかった。
 病院に入ると、そのまま僕は電話で聞いていた通り四階へと向かった。途中、水を滴らせたまま歩いている僕を見かけて嫌な顔をする人が沢山いたが、いちいちそういうのに構っていられるだけの余裕はなかった。
 そして、廊下を水浸しにしながら僕がたどり着いたのは、四階にある集中治療室が並んでいるエリアだった。
 そこには白衣の男が一人立っていた。
「君は、支倉正人くんかい?」
 彼は僕の名前を呼んだ。
 その声にはどこか事務的な様子が含まれている――と思いかけるが、すぐにそれは違うと僕は気づいた。それは事務的なのではなく、感情を表に出さないようにしているだけだ。
 その彼の声だけで、僕は自分が間に合わなかったことを理解した。
 彼はそのまま説明を始めた。
 僕の家族が昼に交通事故に遭ったということ。救急車が到着した時、もう父と母は死んでいたが、妹の由紀だけはまだ生きていたということ。そしてなんとか命をつなごうとしたが、その手術の甲斐なく由紀は死んでしまったということ。
 前半は留守番電話で聞いていた通りで、後半は僕が予想した通りだった。
 僕の家族は皆、死んでしまったのだ。
 今日は家族全員で水族館に行く日だった。しかし僕は海や川の生物に対してほとんど興味を抱くことができなかったので、僕だけはそれに行かず、かわりにその日、友人の勇次郎と映画を見る約束をしていたのだ。だから僕は一人だけ生き延びることができた。
 ふと、「水族館のよさが分からないなんて、兄貴もまだまだ子供ね」などという由紀の発言を思い出した。お前だってただペンギンが見たいだけだろうに。どう考えても、ペンギンのグッズを集めているお前の方が子供だろう。
 視線を下げて足下を見ると、そこには小さな水たまりができていた。なんとなく後ろを振り返ってみると、点々と水の跡が続いているのが見えた。
 どこからともなく、何かの機械の音が聞こえてくる。そしてその向こうに、強く激しい雨音がある。
 僕の前にはまだ白衣の男が立っている。ただ立っているだけなのか、それとも僕にかける言葉を考えているのか。
 僕はどうすることもできず、ただうつむいた。
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