カーテンの隙間から差し込む朝の光で僕は目を覚ました。意識を半分くらい夢の世界に残したまま、ぼんやりと天井を眺める。
どこか心地よさを感じる気怠さが全身を包み込んでいる。ベッドから起き上がるだけの気力が湧いてこない。
……このまま、もうちょっとだけ横になっていよう。
そうして目を閉じ、次に目を開けた時にはもう正午を過ぎていた。
できることならもっと眠っていたかったのだが、もう体の方の疲れはとれてしまったらしく、うまく眠れそうになかった。仕方がなく僕はベッドから這い出した。
階段を降りリビングに着くのと同時に、僕は強い空腹を感じた。
そういえば昨日の夜は何を食べたっけ? 頭をめぐらせるが、一向に思い出すことができない。きっと、たいしたものではなかったのだろう。
冷蔵庫を開けるが、中に食材はほとんど何も入っていなかった。今度は恐る恐る炊飯器を覗く。中にちゃんと白米があって僕はほっとした。ご飯だけは忘れずに炊いていたようだ。
ご飯をよそい、ふりかけをかけて食べる。もそもそと咀嚼をしながら、ここ最近ずっとこんな食事ばかりだな、と僕は軽く自分に呆れた。
僕以外の家族がいなくなってから、だいたい二ヶ月くらいが経過した。
すでに季節は春になり、外を吹く風は暖かいものにかわってきている。わざわざ見に行ってはいないが、外ではもう桜が咲いている頃だ。あるいは、もう散ってしまったか。
学校の授業は終わり、今は春休みに入っている。
春休みに入ってから、何度か勇次郎から遊びの誘いがあったのだが、なんとなく行く気になれず、全部断っていた。
そして勇次郎の誘いを断っていながらも、かといって特に何かやることがあるわけでもなかった。テレビゲームをしたり、マンガを読んだり、あるいは真面目に勉強したり。やろうと思えばいろいろなことができるのだが、今の僕にはそのどれもが全然魅力的に思えなかった。何をすることもなく、ただぼんやりと時間を過ごす。そんな日々が春休みに入ってからずっと続いていた。
家族がいなくなってから、どこか長い夢を見ているような、そんな気分が続いている。ちゃんと地面に立つことができず、ふわふわと浮いているような、そんな感覚がある。そしてこの感覚は、なんとなくこれからも一生続くものなのではないかと、僕は漠然と思っている。
春休みも終わりが近づいてきたある日。昼食を済ませたら少し眠くなり、一眠りしようとベッドに横になったところでちょうどインターホンが鳴った。
この家に住むのが僕だけになってから、ここを訪れる人はほとんどいなくなった。僕の後見人になってくれた叔父が、時々僕を心配して様子を見に来てくれることがあるが、来客といえばそれくらいだ。
誰だろう。
僕が階段を降りて玄関に向かい、扉を開けると、そこに立っていたのは僕の良く知る人間だった。
「よう」
勇次郎である。
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
「え? ああ、うん」
普通に頷けばいいものを、少し戸惑ってしまったのは、ただ単に人と話すのがすごく久しぶりだったからだ。
「ああ、元気そうならなによりだ」
「うん。もしかして心配してた?」
「だってお前、俺が電話してもまったく出ないんだもん。そりゃ心配くらいするさ」
「え? 電話?」
まったく記憶にない。
「最後に携帯電話に触れたのはいつだ?」
「え? えーっと……」
「もうずいぶん前から、放ったらかしだろ」
「……言われてみれば」
どこに置いてあるのかすらよく思い出せないくらいなのだから、当然、携帯の充電などとっくに切れているだろう。着信があったことさえ知らないのも道理だ。
「心配かけさせてごめん。――よかったら上がっていってよ」
「おう」
彼が靴を脱ぐ時に、僕はその手にコンビニの袋がぶら下がっていることに気づいた。よく見えないが、おそらく中にはペットボトルのジュースとスナック菓子が入っているのだろう。
二人でリビングへと向かう。僕がキッチンから適当なグラスを二つ用意する間に、彼はテレビゲームの本体を引っ張り出し、テレビに接続し始める。僕が勇次郎の持ってきたジュースを両方のグラスに注ぎ終わる頃には、もうゲームをプレイする準備は整っていた。
去年の夏休みは、その大部分をこうして勇次郎とゲームをすることで過ごしていた。我ながら味気ない休日の過ごし方だと思わなくもないのだが、やっている時はこれがすごく楽しいのだ。それに時々、二人の間に由紀が混ざって三人で遊ぶなんてこともあり、妙に白熱した対戦をすることになったりもした。
「さて、やるか」
そうして二人で対戦を始めたのだが、ものの十分程で僕は嫌になってしまった。
彼はすごく根が真面目で、やると決めたことは徹底的にやる人間だ。彼は小学校低学年頃からずっと剣道を続けており、もしかしたらそれがこの"堅さ"の原因なのではないかと思ったりもする。
とにかくそんな堅物とも言えるこの男は、その性質をテレビゲームでまで発揮してしまうのだ。
彼が初めて僕の家に来た頃には僕が圧勝していたこのゲームも、おそらくはその真面目さのせいで、今では彼の方が強くなってしまっている。さらに悪いことに、僕は最近寝てばっかりで、こういう勝負に必要な反射神経だとか判断力だとかが著しく低下していた。……つまり、何回やっても彼に勝つどころか、まったく歯が立たないまま終わってしまうのだ。
さらに、圧倒的な勝負になってしまっていても彼は決して手を抜いたりはしない。どこまでも堅い男なのである。
僕はコントローラーを投げ出した。
「――おい、どうしたよ」
「ちょっと疲れた……」
「これからが面白くなるとこじゃないか」
「そりゃお前はそうだろうけど……」
僕はジュースの入ったグラスに口をつけた。勇次郎はしぶしぶといった様子でゲームの電源を落とし、片づけを始める。
「――しかしお前、ここ、埃がすごいぞ。ちゃんと掃除してるのか?」
「んー?」
気だるく返事をしながら彼の方を見ると、確かにそこには埃が積もっていた。ふと僕が部屋の隅を見回すと、あちこちにそういった塵が溜まっていることに気がつく。
「確かに、最近はほとんど掃除なんてしてないけど」
「それはまずいぞ。場合によっては病気になる」
「大げさだな」
「大げさじゃねえよ。……しかしお前、これからもずっと一人でこの家で暮らすのか?」
僕がちゃんと生活できているのかが気がかりらしく、不安そうに彼は言った。
「俺も詳しいわけじゃないが、お前みたいな場合、普通はどこかの親戚の家に引き取られたりするんじゃないのか?」
そういえば、そのあたりの事情について勇次郎にはまだ何も説明していなかったっけ。
「後見人ならいるよ。僕の叔父さんだ」
「……それなのにここで一人暮らし?」
「うん。……ああいや、違うんだ。別に叔父さんが親切にしてくれないとか、そういうわけじゃない。むしろすごく世話になってるよ。僕が一人暮らしをしているのは、僕のただの我儘なんだ」
「我儘?」
「……その、うまく言うことができないんだけど……僕はこの家を離れるのが、少し、嫌なんだ」
一緒に暮らすとなれば、僕はこの家を出て叔父さんの家に行かなければならない。叔父には妻も子供もいるのだ。まさかこっちに住んで下さいとは言えないだろう。
「そっか。やっぱり、色々と思い入れとかあるもんな……」
「……うん」
僕はとりあえずそう頷いたが、実際のところ"思い入れ"というのとは少し違うような気がしていた。多分そんないいものではない。どちらかと言えば、僕がこの家に縛られているという表現のほうが正しいように思う。
恐らく、僕は今あまりよくない精神状態にあるのだろう。一日のほとんどの時間を寝て過ごし、起きている時でさえもどこか夢を見ているような感覚がある。……家族を失ったことによる精神的ダメージは、きっと、僕が自覚しているよりもずっと深刻なのだろう。
そんな僕がかろうじてこうして生活できているのは、この家に住んでいるからではないかと僕は思う。
もしこの家を離れるなんてことになったら、ギリギリのところでなんとか保っていたものが、一気に崩れてしまうような気がするのだ。
「――よし、じゃあ俺はもう帰るわ」
彼は立ち上がった。
「じゃあな。……ちゃんと掃除はしておくんだぞ」
彼はそう言い残し、一人で帰っていった。
何をすることもなく過ごす日々。時が経つのは早いもので、気がつけばもう春休み最後の日になっていた。
今までと同じように一日の半分以上をベッドの上で過ごした。そして夕方になると、僕は服を着替えて外に出ることにした。夕食のためにコンビニで弁当でも買ってこようと思ったからである。
太陽はもうほとんど沈んでおり、空の色は青から深い藍へと変わりつつある。春になったとはいえこの時間の風は冷たく、まだどこかに冬の気配が残っていた。僕は両手を上着のポケットに入れたまま歩いて行く。
僕の家から近くのコンビニまで向かう途中には電車の踏切がある。ちょうど僕がやって来たのを見計らったかのようなタイミングで、その踏切は音を鳴らしながら遮断機を降ろした。僕は立ち止まる。
電車が近づいてくる音が聞こえる。
まわりを見るが、僕以外に人は見当たらない。
ふと唐突に、足場が無くなったような浮遊感を感じた。意識がぼやけ、思考がふわふわとどこかへと飛んで行く。
何もかもが遠くなる。
自分でもよく分からないうちに、僕の足は勝手に前へと進み出していた。
向かう先は、遮断機の降りている踏切。
音から推測するに、電車はもうかなり近くまで来ている。
しかし足は止まらない。勝手に動き出した僕の足の目的はもう一目瞭然だった。そのまま電車の前に飛び出し、轢かれようとしているのだ。
このままだとまずい――そう思いながらも、奥の奥では、まあいいか、と思っている自分がいる。
一人であの家で暮らしている現状に、僕は絶望しているのだろうか? それとも、死んでしまえば彼らにまた会うことができるというような、そんな夢見がちな事でも考えているのだろうか?
分からないまま、僕の足は遮断機を越えようとしていた。
――が、その直前、僕は誰かに首の後ろを捕まれ、力任せに引っ張られた。
それはすごく強い力だった。僕はその力による急激な重心の移動に対応することができず、後ろにばたりと倒れることになった。そして尻もちをついた僕の目の前を、電車が決してスピードを落とすこと無く通り過ぎて行く。
僕はたった今、そこに飛び出そうとしていたのだ。飛び散る自分の肉片を想像すると、瞬時に頭の奥が冷えていった。先ほどまであった浮遊感はあっという間に無くなっていく。
そうしてただ呆然と電車を眺めていると、唐突に誰かに胸ぐらを掴まれた。
「馬鹿!! 何をしようとしてたの!!」
なんて強い力なんだろうと思っていたら、聞こえてきたのが女の子の声で僕は少し驚いた。
その髪の長い女の子は、言葉を失った僕にすごい剣幕で怒鳴ってくる。
「線路に飛び出して、それでいったいどうなるっていうの!? ただ死ぬだけじゃない!! あなたはそんなふざけたことをしようとしていたのよ!!」
どうやら彼女が僕の命を助けた人で間違いないようだった。僕は助けてくれた彼女に礼を言いたいと思うのだが、なかなかそのタイミングが掴めない。彼女はすごい剣幕のまま僕がしようとした行為の愚かさについて説明している。口をはさむ隙が見つからない。
それにしても、見ず知らずの人間にここまで怒ることができるということは、この名前も知らない彼女はすごく性格の良い子なのだろう。
それによく見ると、なんだかすごく綺麗だ。その長い髪はさらさらしていて艶もあるし、顔の形もすごく整っている。
僕は彼女に命の大切さについて説教されていながら、その姿に見惚れてしまっていた。
朝。僕は久しぶりに目覚まし時計の音によって目を覚ました。朦朧とする意識の中、自分がどうして目覚ましをセットしていたのかについてなんとか思い出そうとする。が、その答えにたどり着く前に、僕は再び目を閉じてしまっていた。
しかしそれからすぐにインターホンが鳴った。
なんだか今日はすごく眠い。面倒だからこのまま居留守をしてしまおう。――そう思ってより深くベッドの中に潜り込んでみるも、インターホンは何度も押される。
十回目くらいで僕は諦め、嫌々ながらベッドから這い出した。そして玄関に向かい、扉を開く。
「おはよう」
まず耳に入るのは朝の挨拶。
「……おはよう」
かすれる声で挨拶を返してから、ようやく僕はそこに誰がいるのかを確認した。
「起きるの少し遅いね。ちょっと急がないと遅刻しちゃう」
そこには見知らぬ女の子がいた。
……いや、見知らぬというのは少し不正確だ。実際には、昨日の夕方、踏切で僕を助けてくれた、あの綺麗な女の子がいたのだ。
彼女はあの後、命の大切さについての説教を僕にしてから、その場で別れた。僕はてっきりもう会うことは無いだろうと思っていたのだが、どうやら違ったみたいだ。……言われてみれば、彼女の話の後半には「明日」だとか「朝」だとか「家に行く」だとかいう言葉が入っていたような気がする。僕は彼女の話をほとんど聞き流してしまっていたのだが、今となってはそれが悔やまれる。ちゃんと聞いていれば、どうして彼女が今ここに来たのかも分かっていただろうに。
「だけど、この辺りは昔とはずいぶん変わったよね。小学生の頃、みんなの遊び場になっていたあのおっきな駐車場とか、今じゃ飲食店になってるし」
「駐車場?」
「え? 覚えてないの? 小さいころよく一緒に遊んだじゃない」
「……?」
どうやら僕と彼女は、小さい頃に面識があったらしい。昨日の踏切の出来事が初対面だということではないのか。
しかしまったく思い出せない。この女の子は誰だ? 向こうがこっちを知っているというのに、こっちがまったく知らないというのはひどく居心地が悪い。
「――って、そんなことは良いから早く支度して。時間が無いって言ってるじゃないの」
彼女は時計を見て少し慌てながらそう言った。
その段階になって僕はようやく、今日これから高校の始業式があるということを思い出した。そしてそれと同時に、彼女が見慣れた制服を着ているということに気がつく。それは白崎高校の制服であり、僕の通っている高校のものだった。
僕はとりあえず彼女のその言葉に従った。
顔を洗って歯を磨き、寝ぐせを簡単に整えてから制服に袖を通す。そうした準備の途中、ふと彼女が言っていた駐車場のことを思い出した。
かなり曖昧な記憶だが、そういえば確かに、僕が小さかった頃子供たちのたまり場になっていた駐車場があった。暇になると僕は決まってその駐車場に向かった。この付近に公園と呼べるものはなく、その駐車場がその代わりになっていたのだろう。
しかし、公園に向かう途中、誰かの手を引っぱっていたような気がするのだが、あれはだれだったのだろう。
「あ、準備出来た?」
「うん」
「じゃあ行こうか」
彼女は颯爽と前を歩いて行く。僕は玄関の鍵をしっかり確認してからその後に続いた。
が、彼女の進む方向を見て僕は驚いた。
僕はてっきり、彼女はこれから白崎高校に向かうのだと思っていた。しかし実際には、彼女はその正反対の方向へと歩き出している。
「え?」
「ん? どうしたの?」
「僕ら、これから学校に向かうんじゃないの?」
「あれ? 言ってなかったっけ? 朝ご飯を用意してもらってるって」
「?」
よく分からない。というより会話が繋がっていないような気がする。
朝ご飯? 朝ご飯がどうしたの?
何も理解することができないまま、僕はとりあえず彼女の後についていく。もともと僕はその場の雰囲気に流されやすい性格で、この時の僕も完全に彼女のペースに乗ってしまっていた。
そうして僕の家から歩くこと一分程。とある民家の前で彼女は立ち止まった。その表札には「佐々木」という名前が書かれている。
ここが彼女の目的地だったようだ。……それにしても、ずいぶんと僕の家から近い。というより、角を一個曲がっただけだ。一体ここに何があるというのだろう?
彼女はそのまま玄関から中に入って行く。少し迷った後、僕もそれに続いた。
彼女にならって靴を脱ぎ、恐る恐る廊下を進んでいく。
到着したのはリビングだ。中央に大きなテーブルがあり、席が三つある。そしてそれぞれの席の前には朝食が用意されていた。焼き魚に味噌汁といった、一般的な日本の朝食である。
「あら正人くん、ずいぶんと久しぶりね」
キッチンから一人の女性が出てきて、僕にそう言った。その年齢から考えると、どうやらこの女の子の母親のようだ。
そしてその女性もまた僕のことを知っていた。
「ほら席について食べましょう。遠慮しなくてもいいから」
「正人、早く座りなよ」
二人に言われるままに僕は一番手前の席に座る。
「それじゃあいただきます」
「いただきます」
「…………いただきます」
二人に合わせて僕も食事を始める。
……いくらなんでも流されすぎだと自分でも思う。が、他にどうすればいい? まったく現状を理解してはいないが、自分のために作ってくれた料理を、食べないわけにはいかないだろう。
女子高生の彼女とその母親は、軽く談笑しながら食事を進めていく。合間合間に声をかけられるのだが、僕はそれに適当な返事をすることしかできなかった。
その会話の中で気づいたのだが、どうやら彼女の名前は「透」というらしい。
女の子らしくない名前……だが、どこかそれがしっくりきているのはなぜだろう?
佐々木透、という名前にどこか聞き覚えがあるのだ。まったくはっきりしないが、記憶の奥の方で何かが反応しているような気がする。どこか懐かしい響きがある。
なんとかその記憶を引っ張りだすことはできないかと奮闘しているうちに、朝食は全て平らげてしまっていた。
「それじゃあお母さん、行ってくるね」
「はい行ってらっしゃい。――正人くんも、いってらっしゃい」
「行ってきます……」
彼女の母に見送られて、僕と透は外に出た。
透……。
もうちょっとでその記憶を引き出すことができそうなのだが、まだ少しどこかに引っかかってしまっている。すぐそこまで来ているのに。
「正人とこうやって歩くのって、すごく久しぶりだよね。何年ぶりだろう……。六年か、七年か……」
六年か七年?
となると、僕と彼女が知り合いだったのは小学校の低学年くらいの頃か?
「あ」
「え……? 何?」
「思い出した。ようやく思い出した!」
小学校低学年。駐車場。そして歩いて一分の位置にあるその家。ようやくそれらが一つの記憶に結びついた。
「そうか! 透か! 佐々木透か! あの時の透だったんだな!」
僕と彼女が初めて出会ったのは、恐らく幼稚園に入るよりも前のことだ。すぐ近所に住む僕らは、同い年ということもあり、物心つくころにはもう一緒に遊んでいたような気がする。その手を引っぱってあちこちを走り回っていた記憶が確かに残っている。それらはかけがえのない少年時代の思い出だ。
どうしてすぐに思い出すことができなかったのか!
「思い出したぞ! 最初は誰だか分からなかったけど、今なら分かる。君は僕の幼馴染の佐々木透だ!」
胸の奥からなんとも言えない暖かさが湧いてくる。こんな気持ちになるのは久しぶりだ。
「…………」
感動する僕の側で、透はなんとも言えない顔をして、
「……………………今更?」
そうぽつりと呟いた。
佐々木透は今から七年ほど前にこの町から出て行った。父親の転勤に従って、家族揃って引っ越すことになったのだ。
その頃の僕は当然、彼女がこの町からいなくなると聞いて悲しい気持ちになった。それは彼女も同じだったようで、別れの日、すごい勢いで泣いていたのを憶えている。
この町を離れた彼女は、それから七年を向こうで過ごし、つい先日こっちに戻って来たということらしい。そして僕と同じ白崎高校に転校してくるということになったのだ。
転校生である透と僕は、新学期の始まりと同時に同じクラスになった。
転校生と言えば、教室の前に一人立って自己紹介をするというイメージがある。しかし今日はちょうどクラスが一新されたということもあり、そういう特別扱いをされるということはなかった。彼女は確かに転校生なのだが、今日の時点でそのことを知っている人はほとんどいないはずだ。
新しいクラスで簡単なホームルームをした後、始業式のために揃って体育館へと向かう。そこで先生の退屈な話を聞き、再び教室に戻って短いホームルームをし、それから僕らは解放された。
久々に学校に来たということもあり、たったこれだけのことでどっと疲れてしまっている。
そもそも僕は人が大勢いる空間にいるだけで疲れてしまう人間だ。そして、休みの間はこの時間までぐっすり眠っていたというのもある。
今日はもうさっさと帰って休みたい。しかし時刻はもう正午を過ぎている。帰る前に、学食ででも食事をしておくべきだろう。
「おい正人」
「ん?」
名前を呼ばれて振り返ると、そこには楠勇次郎の姿があった。
「そうか、お前七組だったのか。どこにいるのか分からなくて随分探したぜ」
「勇次郎はどこのクラス?」
「俺は八組だ」
「え? すぐ隣じゃないの」
「お前がどこにいるかさっぱり分からなかったから、一組から順番に見て回ってたんだよ。……それがこんな近くにいるなんて。それによく考えたら、俺もお前も理系選択じゃねえか」
「はぁ、順番に回るとか、大変だな……」
「まあそんなことはいいや。それよりお前、昼食はどうする? 一緒に学食に行かないか?」
「行くよ。僕もちょうどそうしようと思ってたんだ」
と、彼と一緒に教室を出ようとしたところで、僕は大事なことを思い出した。
佐々木透のことだ。
七年ぶりに再開した幼馴染。昨日は踏切で命を救われ、今日は朝から一緒に登校してきた綺麗な女の子。そんな彼女と僕は同じクラスになったのだ。このまま無視するような形で友人と一緒に食事に行ってしまうのはマズイのではないだろうか。
僕はとりあえず透の姿を探そうと教室をぐるっと見渡した。するとちょうど彼女もこちらを見ていたらしく、視線がピタリとあった。透は少し気恥ずかしそうな顔をしてから、席を立ってこちらに向かって歩いてきた。
「正人、これからどうするの?」
「ああ、僕はこれからこいつと食事に行こうと思ってるんだけど……」
少しだけ迷ってから、
「透も一緒に行く?」
そう尋ねると、彼女の方はためらうことなく頷いた。
友達の友達というような人と話をするのは、大抵の場合かなりやりにくい。ましてやこの二人はまったくの初対面。完全に沈黙しきった、重々しい食事になるのではないかという心配も少しはあった。
が、実際のところそれは完全な杞憂だった。
思い返して見れば透はかなり真面目な子供だった。それに、自分の考えを決して曲げないという頑固さを発揮するようなこともあった。僕と透はいつも一緒に遊んでいたが、やることなすこといい加減な僕とは、よく喧嘩をしていたような記憶がある。
そういった性格が、二人共そっくりだったのだ。
僕の予想を裏切り、二人はすぐに打ち解けた。むしろ二人が交わした言葉の数は、僕とのそれよりもずっと多かっただろう。三人で食事をしていたが、実際に仲良く話しているのはその二人で、僕はほとんど相槌をうつだけだった。
食事を終えると、勇次郎は剣道部の活動があるからといってさっさと去って行った。
去り際に彼は、
「お前、良い幼馴染がいるんだな。羨ましいぞ」
と言った。
そして、学食の片隅のそのテーブルには、僕と透の二人が残された。先ほどまでは混雑していたこの食堂も、そのほとんどが部活に行くか帰宅するかでいなくなっている。
さて僕ももう帰ろうかな、と思ったところに、
「そういえば、部活についてちょっと聞きたいんだけど……」
「ん?」
「私、前の高校では天文部に入ってたんだけど、ここにもあるかな? 正人は分かる?」
「……いや、どうだろう。僕は分からないな」
僕はどこの部活にも所属していない。当然、そういう事情に詳しいはずもない。
「そっか……」
「それにしても、天文部か……」
「え?」
「そういえば昔、透と一緒に星を見ていた記憶があるようなないような……」
僕がそう言うと、彼女は軽く驚き、
「何言ってるの。あの頃、星が大好きだったのは正人のほうじゃない」
「……そうだったっけ?」
「そうだよ! お父さんに買ってもらった星座の本をすごく大事にしてたよ。でも、夜に外に出るのは親に禁止されていて、だから正人はこっそり抜け出して」
「うーん……?」
うまく思い出せない。
「だから私もこっそり抜け出して、正人と一緒に外に出たりしてたのよ。……いっつも私はお母さんにバレて、何度も怒られたわ」
そんなことがあったのか?
夜に家を抜け出して星を見に行くだなんて、今の僕からは想像もできないくらいアクティブな少年だ。
「――だけど、天文部か。……あるか分からないけど、とりあえず探してみようか」
「探す?」
「この高校には文化系の部室が集まっている部室棟があるんだ。もし天文部があるとしたら、そこを探せばすぐに見つかると思う」
そういうわけで、僕と透は学食を出て部室棟へと向かうことになった。
始業式のこの日からもう活動を始めている部活も多いらしく、あちこちから人の声が聞こえてくる。
新しく一年生が入ってきたこの時期、確かもうすぐ、新入生に対する部活動の紹介が体育館で行われるはずだ。その時に各部活にそれぞれアピールタイムが与えられるのだが、今は皆その準備をしているのだろう。
「じゃあ一階の端から順番に見ていこう」
扉にあるプレートを確認しながら僕と透は歩いて行く。
やがて一階にある部屋を全て見終わったが、それでも目当てとする天文部を見つけることはできなかった。今度は階段を上がり、二階を探すことにする。
しかし二階にも見つからず、さらに上へ。
この部室棟は三階建てのため、ここで見つからなかったらそれで終わりだ。きっとそうなったら透はがっかりするんだろうなあと思いながら歩いていると、
「あ、あった」
あっさりと天文部と書かれたプレートのある部屋を発見した。
「ホントだ! よかったぁ」
彼女は喜びながら軽く戸をノックした。しかし中から声は聞こえない。どうやら今は誰もいないようだ。
「とりあえず、部屋の中だけでも見て行きたいな」
そしてその引き戸を開ける。
「え?」
「うわ……」
その部室は沢山のもので散らかっていた。
部屋の中央には長机があり、隅にはホワイトボードがある。探せば、星座盤や望遠鏡といった、天文部らしい物もある。……しかしそれ以上に関係の無い物が多すぎた。
ビデオカメラやそのフィルム、パソコンか何かの部品に、壊れているギター。郷土史の本もあれば、ビーカーやフラスコといった実験器具まである。
その部屋はまるでただの物置だった。
「これは……」
彼女は何かを言おうとするが、それより早く僕らの後ろで引き戸が開いた。入ってきたのは黒縁の眼鏡をかけた一人の男子生徒だ。
「ちょっとそこをどいてくれ。その荷物を取りたいんだ」
僕と透は彼の言う通りに体の位置をずらす。
「あの」
透が彼に声をかけた。
「ん? 何?」
「えっと、あなたは、天文部の人ですか?」
「え? そんなわけないよ。僕は映研だ。ほら、これを取りに来たんだ」
彼はビデオカメラを僕らに見せた。
「えっと、じゃあどうして、映研の人が天文部の部室に荷物を置いてるんですか?」
透がそう尋ねると、
「ああ、もしかして二人は、天文部に入部したくてここに来たのか?」
「はい」
僕は違うのだが、とりあえず頷いておく。
「じゃあ二人共残念だったな。もう天文部は廃部になってるんだ」
「え?」
「二年くらい前に、部員が足りなくて部活は無くなった。ほら、この高校は部員が四人いないと部活として認められないから」
ああ、そういうことか。
それでこの部屋は、他の部活の物置みたいな形で扱われるようになったのか。
「……そうですか」
「そうなんだよ。残念だったね。――あ、そうだ。天文部が駄目なら映研に入るのはどうだ? こっちも部員の数がちょっと厳しくて。新入部員なら歓迎するよ」
「いや、それはちょっと」
「そうか。まあいいんだ。じゃあ僕はこれで」
「……はい。教えてくれてありがとうございます」
そして彼は部屋を出て行った。
ようやく天文部の部室を見つけたと思ったら、もう潰れてしまっていたのか……。
「なんというか、残念だな。もう二年も前に無くなってただなんて」
がっかりしているんだろうなと思って僕はそう言ったのだが、ふと見た彼女の表情は、僕が予想していたものと少し違った。
なんというか、どちらかというと明るい顔をしていたのである。
「別に、残念ではないわ」
「え? でも」
「廃部になっていたのなら、また一から部活を作ればいいのよ」
「……」
なんとも前向きな意見だった。
彼女は顔を上げて僕の目を覗きこむ。僕はその視線に少しだけ後ろに引いてしまう。
「ねえ、確か正人は、どこの部活にも所属していないのよね?」
「まあ、そうだけど……」
――彼女が天文部に入る、その手伝いをするのは別に構わない。だけど、
「じゃあ、私と一緒に天文部を作ってくれない?」
僕自身がそういったことをするのは嫌だった。
ためらうことなく首を振る。
「どうして? どこにも入ってないのならいいじゃない」
「どうしても。僕はそういうことをやりたくないんだ」
「何で? 部活動が嫌いなの? でも、星は好きだったよね」
「昔のことはもう覚えてないよ」
「でも」
「何を言っても同じだよ。僕は部活には入りたくない」
言ってしまってから、随分と冷たい言い方だなと思った。だけど仕方がない。こうやってはっきり自分の意志を示しておかないと、流されやすい僕はすぐに彼女のペースに乗せられてしまう。
「でも正人は――――」
それから帰宅するまで、彼女は色々な方法で僕を説得しようとしていた。
部活を作るには部員が四人いる。透はどうしても僕にそのうちの一人になって欲しいようだった。
だけど僕の答えは家に着くまで変わらなかった。
帰宅をすると、僕はそのまま自室のベッドに向かった。
全身に疲労が溜まっている。たった一日、しかも授業らしい授業はなかったと言うのに。
横になるとすぐに眠気が襲ってきた。朦朧とする頭で、先ほどまで透が言っていたことを考えた。
……透が天文部を作りたいというのなら、その応援くらいはしよう。だけど駄目だ。僕はそれに巻き込まれたくない。
何か明確な理由があるというわけではない。彼女の誘いを断った理由は、身も蓋もなく言ってしまえば、ただそれが面倒臭そうだったからだ。
最近の僕はすごく疲れやすい。常に頭のどこかがぼーっとしていて、思考の四分の一くらいは眠っているような状態にある。だからできるだけ僕はもう、これ以上疲れることをしたくないのだ。
今の自分は、こうしてゆっくり休むべきなのだと僕は思う。そういう時期なのだ、今は。
だから色々と元通りになってきたら、そうやって部活動をするのも悪くはない。きっとそれは楽しいだろう。
――ただそもそも、元通りになることがあるのかどうか、僕には分からないのだが。
そのまま眠り、目を覚ますと時計の針はもう六時を過ぎていた。ふらふらとした足取りでリビングに向かう。
とりあえず電気とテレビを点けてソファに腰を下ろす。ソファは柔らかく、そのままどこまでも沈み込んでいってしまいそうだ。三時間くらいは眠ったはずなのに、溜まっていた疲労はほとんど取れていないような気がする。
そしてそのまま動く気にもなれず、気づけば一時間が経過して七時になっていた。
……そろそろ、夕食を摂らないと。
準備をしようとなんとか立ち上がったところで、インターホンの音が鳴った。
最近はよく人が来るなと思いながら玄関に向かう。そして扉を開けてみれば、そこには佐々木透の姿があった。
「迎えに来たよ」
「……迎えに来た?」
意味が分からない。
「だって、待っててもまったく来ないんだもん。そりゃこっちから行くしかないじゃないの」
「待ってたって?」
「だから、夕食」
……そういえば。
そういえば、朝食を佐々木家でごちそうになった時、透の母は何か言っていたような気がする。良かったら夕食も食べに来なさい、遠慮はいらないわ、一人暮らしは大変でしょう? ……というようなことを。
佐々木透というのが誰なのかについてずっと考えていた僕は、その言葉のほとんどを聞き逃してしまっていたわけなのだが。
「じゃあ行きましょう」
「待ってよ」
「え?」
「流石に夕食までごちそうになるのは……」
「遠慮はいらないってお母さんも言ってたじゃないの」
「それはそうだけど……」
「いいからほら。どうせ放っておいたらろくな物を食べないんでしょうに」
僕の家の冷蔵庫はもう空っぽだ。相変わらずのふりかけご飯か、コンビニ弁当かのどちらかにするつもりだったため、彼女に対して反論はできない。
「高校生が一人暮らしをしてるんだもの。うちのお母さんも心配してるんだよ。だから行こう」
結局そのまま彼女についていくことになった。
三人で囲む食卓で、透の母はこれからの食事について提案をした。
「どうせだから、これからも毎食ここで食べるというのはどう?」
僕はさすがに反対した。が、透とその母の二人がかりで説得された僕は、最終的に承諾する形になってしまった。
かなり頑張って反抗したのだが、「一人暮らしになってから毎日どんなものを食べてきたの?」などと聞かれたら、もうどうやっても無駄だった。自分の食生活がどんどん狂っていっているということは、前々から自覚していたことだ。そして実際のところ、食事を作ってくれるのはすごくありがたい。
食費については何も気にしなくていいと透の母は言ったが、それについて僕は絶対に納得するわけにはいかなかった。最終的に、僕が毎月一定額を支払うという形になった。その金額はあまりにも少なく、とてもではないがこれでは足りないだろうと僕は言ったのだが、それ以上受け取ることはできないと透の母は強く主張した。
僕の食事について心配する二人は、すごく優しかった。
なんとなく――本当になんとなく、彼女たちと家族になることができたら良いだろうな、なんてことを頭の片隅で思った。
三人での食事の後、僕は自宅のリビングのソファでテレビを眺めながらうつらうつらとしていた。
そうして気づけば九時を越え、そろそろ歯を磨いて就寝しようかと思ったところで、本日何度目かのインターホンが鳴った。
朝のそれは透だった。そして夕方も透。
玄関に行って扉を開けてみれば、今回もやはり彼女だった。
「ちょっと出かけるわよ」
彼女は笑顔でそう言い、僕に丸い何かを放った。受け取って確認すると、それは黒いヘルメットだった。
ぽかんとする僕の前で彼女は自分のヘルメットを装着し、バイクに跨った。……バイク?
「……透ってバイクに乗れたんだ」
「去年の夏休みに免許をとったの」
だけどこのバイク、彼女のような女子高生が乗るには少しゴツくないか? バイクに関する知識はからっきしなのだが、なんというかこれは、かなりスピードが出そうに見える。
「ほら、早く乗って」
彼女は当たり前のように自分の後ろをぽんぽんと叩く。僕は訳がわからないまま彼女に従った。
「じゃあ、しっかり掴まっててよ」
どこに? と僕が問いかけるより早く、そのバイクは動き出した。とっさに透の胴にしがみつく。
あ、柔らかい。それになんかいい匂いがする。――などと甘酸っぱい青春のような気分を味わえたのは最初だけだった。すぐに、それどころではなくなった。
速かった。
とにかく、洒落にならないくらい速かった。
このバイクがどこを走っているのかは、数十秒程で分からなくなった。あまりの速度に、僕は無意識のうちに目を堅く閉じてしまっていたのだ。
そして僕が意識できるのは風の音だけになった。透の運転はあまりにも激しく、それ以外の感覚をうまく適応させることができない。
――小さい頃の彼女は、引っ込み思案で、ちょっとしたことでオドオドしていたような記憶がある。
一体何が彼女を変えたのか。どうしてこんな運転をするようになってしまったのか。彼女のこの運転は、そこいらの暴走族のそれを遥かに超えている。
生と死の間を走るバイクに、僕は乗っている。
人は死の危機に瀕すると、感覚が飛躍し、世界がスローになって見えると言う。それはつまり、体感時間を思い切り引き伸ばされているということだ。
バイクが僕の家を出発してここに到着するまでにかかった時間は十五分程度。それにもかかわらず何時間もバイクに乗っていたような気がするのは、そういう理由があるのかもしれない。
「し、ししし、し」
「? どうしたの?」
「ししし死ぬよ、これは……」
思い切り叫んだつもりだったのだが、実際のその声はあまりにも弱々しかった。
「死ぬよ……こんな運転をしてたら、透はいつか絶対交通事故で死んでしまう……」
本当は思い切り怒鳴って説教をしてやりたかった。それこそ透が踏切で僕に怒ったみたいに。だけど全身が震えていて、うまく力を込めることができない。
「大丈夫よ大丈夫。これでもちゃんと考えてるから。安全よ」
「……」
もはや返す言葉は無かった。それに声も出なかった。
「そんなことより、上を見てよ」
上?
乗り物酔いを強烈にしたような不快感があったが、僕はそれを我慢して彼女の言葉に従った。
空を見上げる。
そこには満天の星空が広がっていた。キラキラと輝き、光り、全てを埋め尽くす。久しく見たことのない、もはや記憶の中にしか存在していなかった光景がそこにはあった。
「すごいでしょ?」
僕は返事をすることができない。
「ここは町を外れたところにある小さな丘よ。町中で空を見上げても、町の光が星の邪魔をしてしまう。だけど、ここならその影響も小さいわ」
吹き付ける風は強く冷たい。
僕が小さいころ、確かに星を見ることに夢中になっていた時期があった。だけどほとんど記憶にないということは、僕の中でそのブームはすぐに終わってしまったということだ。
星を見るというのは、そんなに面白いことではない。
だってそうだろう? 星なんていうのはほんの小さなただの光でしかない。ともすれば見失ってしまいそうなくらい、地味なものだ。そんなものに興味を惹かれ、毎晩のように空を見上げるような人は、全体から見ればやっぱり少数派なのだ。
だけど、かつて僕はその星空に心惹かれていたことがあった。
そしてその時に抱いていた感情は、僕の胸の奥に、決して消えること無く眠っていた。それは今、再び表に出てこようとしている。
家族が死んでからずっと、僕の心の中は空っぽだった。
だから僕は嬉しかったのだ。
こうして星空を見上げることで、僕は感動することができる、ということが。
それから僕と透は、丘の上の草むらに二人揃って横になった。
目の前には溢れんばかりの、だけど一つ一つはとても小さな、いくつもの光があった。
一つ一つの小さな光は、まるで波のように響きあい、重なりあい、そしてこの圧倒的な美しさを作り上げている。なんとなく、オーケストラの演奏を聞くのと同じようなものだと僕は思った。
「ねえ」
透の小さな声が聞こえた。
「何?」
「星座、少しは覚えてる?」
「……春の大三角くらいなら」
「じゃあその星の名前は?」
「えっと……スピカと、デネボラと……あとは…………」
「アークトゥルス」
「そう、それだ」
「他に何か、覚えてるのは無いの?」
透のその言葉に、なんとか頭の中を探ってみるが、ほとんど何も思い出すことはできなかった。
そしてどれだけの時間が経ったのだろうか、彼女はぽつりと、
「ねえ、ちょっとは気が変わった?」
「……え? 気が変わったって?」
「だから、部活のことよ」
「部活?」
「天文部」
「……」
彼女が何のことを言っているのかに気づくまでに随分と時間がかかった。星空を見ていると、頭の中にあるごちゃごちゃした物はすぐにどこかに行ってしまう。ある種の瞑想をしているような状態になってしまうのだ。
「天文部、少しは入部してくれる気になった?」
「……入部するも何も、まだ部活になってないじゃないか」
「私と正人がいれば、残りは二人。頑張って捕まえたら、それでもう部活になるわ。――どう?」
彼女のその誘いに僕は、
「いいよ」
昼の時とは違い、あっさりとそう返していた。
「え?」
「いいよ。僕もやろう」
「え? ほんとに? 良いの? 昼はあんなに嫌がってたのに」
「気が変わったんだ」
僕自身、自分の中にあった拒否感が綺麗さっぱりなくなっていることに驚いていた。疲れることはやりたくない、という昼までの考えがいつのまにか、疲れるかもしれないけどやろう、というものに変わっていたのだ。
星空を見ている間に、自分の中にあった面倒なものが色々と消えてしまった。……きっとそれは、僕にとって喜ばしいことなのだろうと思う。
「そうなの? やった!」
僕はただ空を見上げながら、透のはしゃぐ声を聞いていた。