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第三十六話 悪霊憑きの意地

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「オイ、|闘《や》る前に一つ答えろ!」
 ズズ…と両眼に昏い色を乗せながら、由音が叫ぶ。対する陽向日昏はわざとらしく首を振るって見せて、
「そんな言い方で、俺が正直に答えてあげると思うか?」
「……一つ答えて頂いてもよろしいでしょうか!?」
「よろしい」
 敬語で誠意を示した由音が即座に質問をぶつける。
「お前はシモンと同じで守羽の敵なんだよな!?」
「厳密には違う」
「違うのか!?」
 踏み込み掛けた一歩を踏み外してがくんと蹴躓く。
「じゃあなんなんだよお前!守羽の敵じゃねえなら別に闘う意味ねーよ!」
「君は神門守羽の為に戦っているのか」
「おう!」
「そうか…」
 火の点いていない煙草を咥えたまま、日昏はしばし黙考に耽る。由音はそれをどうしたもんかと距離を取りながら様子見する。
「俺としては神門守羽に敵対する気がないが、おそらく向こうはそうもいかないだろうな」
「そうなのか?」
「ああ。俺の第一目標は神門旭だが、父親が狙われているとなればやはり子も黙ってはいないだろう。向こうは俺を敵視するはずだ」
「お前は守羽の敵じゃねえけど、守羽にとっては敵ってことか?」
「そうなる」
「ふーん。じゃあ…」
 曖昧な解答に曖昧な頷きで返して、
「やっぱお前敵だわ」
 一瞬で日昏の眼前まで迫った由音が迷いなくその拳を振るう。
「迷いなく本気の一撃か。悪くはないが少し短絡過ぎないか」
 パァンッ、と受け止めた日昏の掌の内で衝撃が拡散する。
「守羽にとってお前が敵なら、もうそれでいいんだよ。テメエはオレの敵だ」
「そういう思考は嫌いではないぞ。早死にする切り込み隊長の典型だが」
 押し付ける拳と受け止めた掌が互いに押し合いを続ける中、日昏は由音の昏い瞳を見据えながら言う。
「お前は俺に質問し、俺は律儀に答えた。ならばお前も俺の質問に一つ答える義務があるとは思わないか?」
「っ、確かに!」
 拳を引いて、由音は素早く後方へと下がる。
「答えてやるから早く言えよ!」
「では手早く。お前が神門守羽に味方するのは、その力がある故か?」
「はあ?」
「その概念種の力があるからこそ、お前は神門守羽の力となろうと考える。違うか?」
 由音は首を捻る。相手の言っていることの意味がいまいち理解できない。
「お前はその“憑依”という強大な力を使えるからこそ、命を張って神門守羽の為に戦える。力があるから尽くすのだろう?」
「…そりゃ、何も無かったらあいつの力になれねえからな!」
「わかった。ならやはり俺の領分だな」
 ようやくここで、日昏は構えらしきものを取った。それを見て、由音もまた中腰で突っ込めるように両足に力を込める。
「お前の中の魔、俺が滅する。“憑依”を失くして解放されたお前は神門に尽くす意味を失う。命は大事にしろ少年」
「オレはいっつもガンガンいこうぜなんだよ!」



「…はあ」
 食事を終え、母さんが食器を洗いに台所に立っている間、話の続きをしようとした時に父さんが溜息と共にあらぬ方向へ顔を向けた。
 まるで、遠方で何か面倒事を捉えたかのように。
「どうかした?父さん」
「いや、あとで話すよ。うん…きちんと順序立てて進めようと思ってたけど、ちょっと難しくなってきたね。まったく行動を起こすのはいいが空気は読んでほしいものだよ」
 この場にいない誰かへ向けたであろう言葉は、俺にとってはなんのことだかわからなかった。
「仕方ない。先に君自身のことを話しておこう。君と、君自身が創り上げた『僕』のこと」
「やっぱり、それも知ってたんだ」
「もちろん。最初に君の『僕』と会ったのは、おそらく僕だからね」
 俺が否定し続けてきた、俺の人間ではない部分。その人格。それは、
「あれは、妖精である俺か」
「そうなるね。人間種と妖精種のハーフである君は、器用にも人間である人格と妖精である人格をきっちり分割して管理することに成功していた。力の割り振りも、大半を『僕』に預けていたようだし。普段の君が持っていたのは“倍加”の異能だけだったからね。それすらも人間としての耐久力で限界が来るようにしてあった」
 そこで一度区切って、父さんは俺の身体をまじまじと眺めた。それから一人で勝手に納得したように頷く。
「思い込みで強引に力を押さえ込んでいるよね、守羽は」
「…思い込み?」
「自分がただの人間でしかないと思い込むことで、“倍加”の限界を人間の耐久値まで無理矢理に引き下げている。…守羽はこんな話を知ってるかい?」
 父さんは立てた一本指で、逆の腕の表面にトンと触れる。
「人はね、目隠しをされた状態で暗示のような言葉や行動を受けるだけで、本当はされてもいないことをされた気になってしまうらしいよ」
 その話は、どこかで聞いたことがある。目隠しをした人間の腕に、熱したアイロンを当てるぞと宣言するやつだ。本当は熱していないどころかアイロンですらないのに、その直後に押し当てられた物を勝手に熱したアイロンだと脳が誤認識してしまう。そしてありもしない痛みや熱を感じたその人間の皮膚は、本当にアイロンを押し当てたような火傷をしていた、という話。
 確かプラシーボ効果だとかその一種だとか。
「あとはなんだっけ、手首を切ったフリをして水が滴る音を聞かせ続けたら本当に失血死と同じ死に方をしただとか?あとはー…想像妊娠とかもこの手のものと同じだね。思い込みが肉体に変化をもたらすんだ」
「…俺も、思い込みを自分に掛けてるって?」
「そう。君は退魔の家系と妖精の血を引いている、その身体は普通の人間じゃ遠く及ばないほどに強靭だ。でも君はそれを認めたがらないが故に、自ら『普通の人間』と思い込むことで本当にその身を『普通の人間』レベルまで弱体化させている」
 だから“倍加”も、普段では五十倍までしか使えなくなっている…か。
 だがそう言われれば、確かに記憶の中にどうにか残っている『僕』がメインの戦闘では、あいつは“倍加”を百倍にも二百倍にも高めていた。あれは俺が自分に掛けていた思い込みの枷が外れた状態だったってことか。
「…でも、それも時間の問題だね。もう対話は済んだんでしょ?君はもうじきに本来の君の力を取り戻すはずだ」
「……」
 『いきなり全部とは言わねえ、少しずつ返していく。だからいい加減お前も自分と向き合え』
 あいつはそう言っていた。確かに、俺が全てを知ろうと決意を固めた時から、少しずつ身体に活力のようなものが湧いて来るのを自覚している。
(そうか。わかっちゃいたけど、俺は)
 俺は、人間じゃない。俺は…。
「守羽」
 いつの間にか俯いていた顔を上げると、いつも通りに薄い微笑みを浮かべた父さんが俺を見ていた。
「誰に何を言われたのか知らないけど、別に守羽が純粋な人間だろうとそうでなかろうと、君の友達や僕達はこれまでと何も変わらず神門守羽を見るよ。だからそんな気にしなさんな」 
「父さん…」
 気配を感じて背後を振り返ると、そこには食器を洗い終えた母さんが立っていた。何かを言うことはなかったが、それでも父さんと同じようにふわりと微笑んで俺を真っ直ぐ見てくれていた。
 それで、少し安心した。
 俺は神門守羽であって、それでいい。それだけでいい。
 見るべき本質は、人間か人外かなんて、そんなことじゃない。
「さて、君も自身のことについてはいくらか踏ん切りがついたね。とりあえずキリがいいところまで話したから言うけど、今君の友達が陽向日昏と交戦しているようだよ」
「…………はあっ!?」
 突然の報告に、思わず声を荒げてしまう。
「退魔師が相手だと、あの性質は分が悪いかもね。悪魔祓いや除霊関連は陽向の得手とするところでもある」
「なんで早く言わないんだよっ!」
 勢いよく立ち上がり父さんに背を向けて玄関へ向かおうとする俺へ、父さんが呑気に声を掛ける。
「先にこっちの話を済ませておかないと、君はまた『人間』として戦いに赴くと思ったから」
「ッ…」
「君は友達の為に行くんだね?それはいい、友情はとても素晴らしいことだ。そうして、次はどうする?また同じことが繰り返されるよ?」
「わかってる」
「本当に?」
 背中を向けたまま、俺は歯噛みする。
 受け身、後手、振り回され、繰り返す。
 静音さんを巻き込み、由音を巻き込み。
「君は、これから先どうする。どうしたい。せめて、そこだけはっきりさせて行った方がいい。目的、目標、それが君には足りない。だから延々とゴールの見えない道を走り続ける羽目になる」
「…俺は」
 実のところ、それはもう決めていた。
 いい加減、俺もうだうだ悩んだり考えたりするのはやめにする。
 振り返り、父さんの視線をしっかり受け止めて。
 俺は前に進む決意を口にする。
「…か、あぁ…!」
「……」
 道路の真ん中で、由音の掠れた声が弱々しく漏れる。
 首を掴まれ持ち上げられた由音は、既に呼吸すらままならない。それを、火の点いていない煙草を咥えて陽向日昏がじっと見つめる。
 交戦を開始して五分。由音は自分の身に起きた異変に困惑しながら酸素を求めて必死に喉を掴む日昏の手を引き剥がそうともがいていた。
(力が…悪霊の力が思い通りに引き出せねえ…!)
 最初の内はいつも通りに使えていた“憑依”の力が、燃やすものを失った炎のように徐々にその機能を低下させていった。やがて由音の身体能力は並の男子高校生そのものまで落ちてしまった。
「…我ら古くから伝わる退魔師はな」
 片手で掴み上げられた由音がじたばたと両手足を動かすのを無視して、日昏は語る。
「魔を滅す際に周囲の人間へ被害を及ぼさない為に特殊な結界の術を編み出した。それは無関係な人々を近づけさせないものだ。おかしいとは思わないか?いくらなんでも、人がここまで通り掛からないのは」
「てめ…なんか、したな…!」
「そうだ。いわゆる人払いの結界というものでな、一時的に囲った範囲から人々の興味を逸らすといった効力を持つ。|隠形術《おんぎょうじゅつ》を基盤に構成された陣だが…陽向家はさらにこれをアレンジして改良した」
 意識を自らの深奥へ向け、そこに座する悪霊へ強引に手を伸ばす。引き千切ってでも、ヤツから力を掻っ攫ってやろうと足掻く。
 だが、そこへ届く前に何かの力が阻害する。
「『陽向』の力を浸透させた人払いの結界は、その内側にある魔の力を減衰させる。君は自身に取り憑いた悪霊の力を蛇口を捻って水を出すような感覚で引き出せるようだが、であればその蛇口を初めから固く固く閉めてやればいい」
 丁寧に説明してやりながら、日昏はもう片方の手を由音の胸へと当てる。
「少しおとなしくしているといい。ただの『陽向』では匙を投げるような状態だが、俺は陰の力も取り入れているのでな。故に俺は『日』にして『昏』なのだから」
 言って、由音の胸に当てた手の五指に力を込める。
「…ッ!?」
 その時、由音の身体は胸に当てられた日昏の掌から木の根のようなものが入り込んでくるような不快感を覚えた。直後、
 唐突に襲い来る、全身を貫くような衝撃と激痛。
「ァっアあぁぁあああああああアァぁああああああああああああああああ!!!」
 体中のありとあらゆる部位を、日昏の掌から潜り込んできた根のようなものが縦横無尽に駆け回り神経を蹂躙していく。
 何かを探すように、何かを探るように。その根は最終的にある一点に辿り着く。
 人間の生ける根源。生命の中心点。
 心臓へ。
 メキャッ、と。錯覚であるのは分かり切っているというのに、由音は根のようなものに自分の心臓が絡め締め付けられていくのを認識してしまう。
「かっは!ああァぁ!!がぁ!ぐぎぁぁァぁアアああああああああああああッッ!!」
「…っ、やはり、ここか…!」
 何かを確信したのか、日昏はそのまま根を心臓へ集中させる。
 ガクガクと、由音の全身が激痛に痙攣する。何度も失いそうになる意識をどうにか“再生”で繋ぎ止めても、この異能は痛みを軽減してくれることはない。
「心臓…ひいては魂魄そのものに癒着、いや既に融合の領域まで及んでいる。引き剥がせば少年が死ぬか…ここまでの状態でよく生き延びてこれたものだ、よほど強力な異能でなれけばとっくに寿命を喰い尽くされているだろうに」
「ッ…!…ッッ、…ーーーッ!!」
 日昏が何かを呟いている間も、激痛に苛まされている由音の意識は確実に薄らいでいく。
 その中で、由音は遠のいていく残り僅かな思考力を全て日昏の言葉に費やしていた。

 『君が神門守羽に味方するのは、その力がある故か?』

 自分は、“憑依”が無ければ、“再生”が無ければ、守羽の力になろうとは思わなかった?

 『その概念種の力があるからこそ、君は神門守羽の力になろうと考える。違うか?』

 確かに、この力は強大だ。使い方を誤ればとてつもない規模で被害を撒き散らす。逆にきちんと制御さえ出来れば、これはあの大恩ある少年の重宝する力になれることは間違いない。
(…これがあるから、オレは守羽の為に闘えた?)

 『君はその“憑依”という強大な力を使えるからこそ、命を張って神門守羽の為に戦える。力があるから尽くすのだろう?』

 力が無かったら。
(オレは何も出来ない…?)
 強大な力を使え、いかなる大怪我でも瞬時に治せる異能を所有しているからこそ、なんの恐れも無く人外などという化物連中と相対することが出来た。
 それが無ければ、ただの人間だったら。
 東雲由音はただ人ならざるモノに怯え、彼の背中に隠れ、彼が全てを終えてくれるまで物陰に隠れ目を耳を塞ぎうずくまるだけ。
 ただそれだけしか出来ない。

「…………………、ハッ」

 脳までドリルで穴を開けたような激痛が響く状況で、薄く瞼を開けた由音は息を吐き出すようにして笑みを作る。
 意識が急速に浮上していく。
「…?」
 作業に意識を割いていた日昏は、由音の首を締める手と胸に当てた手。その両方が由音の震える両手でそれぞれ握られていることに疑問を抱いた。
 おそらく今現在の東雲由音は痛みで思考することすら放棄しているはずだが。
「……ざっけんじゃ、ねえっつの…」
 その考えは、由音のそんな一声で掻き消えた。
「馬鹿か、んなわけねえ。オレは……何も無くたって」
 神門守羽に尽くすのに、この力は必要だ。これが無くては彼に助力することはおろか、足を引っ張ることにすらなりかねない。
 だが、たとえこの力が無くとも。
「オレが、あいつの為に動く…理由を、…力があるとか無いとかで、決めるわけがねえんだ…」
 無知で無力なただの一般人でも、無謀で無茶なただの男子高校生でも。
 どんな状況でも、どんな状態でも。

「どんな、時だって。どんな時だって!オレはあいつの力になる!力が無くとも力になる!いつだってオレはあいつの味方だ!!」

 東雲由音は絶対に揺るがない。力を失おうが何をしようが、彼が彼たる不動の理由を揺るがすことは何人にも出来はしない。
 そもそもこの巡り合わせは、彼らが異能を持っていたが故に起きた出会いだ。その前提を踏まえた上で、こんな話は意味を成さない。
 それでも、もし。今後本当に由音が“再生”を手放し“憑依”を失うことになったとしても。
 やはり彼の行動は何も変わらない。
 首を締められても尚それだけの大声量を絞り出した由音を、日昏は細めた両眼で鋭く見据える。
「…その若さで、その覚悟の強さ。見事だ。君は、きっと俺達からすれば神門旭の次に厄介な相手になるだろう。だからこそ」
 ギシリと由音の首を掴む手により一層の力を入れる。
「だからこそこの場で無力化する。すまんな少年、始めは君を悪霊から救うつもりで行ったが、ここから先は目的が変わる。君を厄介な敵にしない為に、ここでこの力は完全に削ぎ落とす」
「やれるもんなら、やってみやがれ……!!」
 由音も精一杯の強がりを見せて、再び自らの深奥へ意識を注ぐ。
 陽向日昏のおかげで、少しだけわかったことがある。
 蛇口と水の関係。
 意識したことはなかったが、なるほど考えてみればその例えはとてもよく合っている。自分は悪霊の“憑依”を、“再生”によって形作った蛇口で出力していたのだ。
 そうすることで悪霊の浸食をある程度は“再生”で食い止め、うまいこと肉体に“憑依”の力を定着させて自我を保つことが出来た。
 で、あれば。
「っ…!」
 目を見開き、意識を集中させる。
 陽向日昏が展開したと思しき『結界』とやらのせいで、由音が無意識に行っていた蛇口の調整は完全に阻害された。もはや日昏の言っていたように蛇口は固く閉められ、結界内においてこちらの加減で開けることは叶わない。
 なら、この蛇口にはもう用は無い。
 ゴバッ!!
「!?」
 由音の心臓から魂魄へ何かの細工を施そうとしていた日昏は、由音の全身から突如として溢れ出した汚泥のようにドス黒い邪気を見て驚愕と共に両手を離し距離を取る。
 水を出す方法に蛇口を使う。では蛇口を閉じられたのならどうするか。方法はいくつかあるのだろう。
 だが由音が選んだのは、とてもシンプルで、とても大胆で、とてもリスクの高い方法。
 蛇口そのものを破壊してしまえばいい。
 壊れた蛇口から、大量の水は止まることなく噴き上がる。
「馬鹿な…!やめろ!人として生きられなくなるぞ!」
 全身を黒く染め上げ、それでも邪気は噴き上がり巨大な漆黒のオーラと化す。
 遥か遠くに聞こえる日昏の声に、もはや視認も不可能なほどの漆黒の奥底から返事が来る。
「オ゛レ、が……何年、コのくソ悪霊とやッてきたト、思ってヤガるンだ…!こンなモン、どうッテこと、ネェんだよ………!!」
 産まれる前から取り憑かれ、苦痛と苦悩の中でそれでも生きて来た。他の者はこんな自分を悪霊憑きと呼び、気味悪がりあるいは憐れむ。
 だが、侮蔑も憐憫も必要ない。彼が欲しかったのはそんなものじゃない。
 彼が欲しかったのは。

 『すげえな、ずっと抑え込んできたのか。すげえよお前。…うん、安心しろ。俺はさ、お前の味方だからな。どんな時だって、必要なら俺がお前の力になるから』

「へっ……」
 かつて恩人が言ってくれた言葉。今でも自分の中で生きる糧として一言一句余さず心に刻み込んである。
 それを思い出し、今の状況も忘れて由音は小さく微笑んだ。
(見せてやるよ、だから見ててくれ。悪霊憑きにだって、これまで生きて来た意地があるんだってことを、この何も知らない馬鹿退魔師に教えてやっからさぁ!!)
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 ゾゾゾゾゾゾゾゾ!!!
 大量の羽虫の群れが蠢くような不気味で不快な異音が轟き、漆黒の邪気が由音を中心に吹き荒れる。
(…ッ、悪霊の浸食のみを“再生”で打ち消して残りの能力は全て肉体に収める!!出来るはずだ!“憑依”と“再生”の出力はほぼ同格!全部をフルで出し切れば……ッ!)
 これまではしてこなかった。
 “憑依”を全開まで引き上げれば、かつてのように悪霊に乗っ取られ異形の怪物と化す。
 “再生”を全開まで引き上げれは、かつてのように異能が暴走し気味の悪い肉塊と化す。
 ただ、両方を限界まで使ったことはない。今現在、東雲由音の中で『蛇口』を破壊したことによって“憑依”は自動的に噴出し限界突破の勢いで力が溢れている。
 これを、全力の“再生”でもって押さえ付ける。
 昔のトラウマが強く残っている為にこれまでやったことはなかった。だが、幼少の頃より二つの異質な力に振り回されて来た由音には、これが実現不可能な夢物語ではないことを確信していた。
 必ず出来る。
 全身を悪寒が走り抜ける。手足の末端まで感覚が無くなり、まるで自分の身体が人形に成り代わってしまったかのような恐怖が湧き上がる。
 その身体を、今度は“再生”が包み込む。噴き上がる邪気を留め、東雲由音という器の中に押し込め封をする。体内で暴れ回る悪霊の全開を異能は心身共にあらゆる面でカバーし、その中から濾すように概念種の力を取り出して行き渡らせる。
(ーーー!)
 人を、外れる感覚。
 理解する。
 今この瞬間、由音は確かに人間という枠から一歩、外へ出た。
「ァぁあああああ!!」
 野獣のように荒々しい声を上げて、邪気を纏う由音は前へ出る。
 初速からして弾丸を超える速度を叩き出して、漆黒のオーラを従えた由音の右ストレートが日昏の眉間を打ち貫いた。
 右拳を振り抜き、吹き飛んだ日昏を追ってさらに左腕を振り被る。
 小さな工場らしき建物の壁面に衝突する日昏へ、同時に左の一撃を叩き込む。壁を粉砕し、日昏の体がくの字に折れて工場内へ飛び込む。
「がぁぁ!」
 逃がすものかと、さらに由音は身を覆う邪気をロケット噴射のように後方へ噴き上げて一気に加速する。
 一瞬で追い付いた由音が半回転振り回した右の脚撃を日昏の真上から振り落とす。
「…ふ」
 くの字に折れたまま由音の攻撃を受けるがままになるしかなかったはずの日昏が、口元を少し開いて笑みの形を作った。
 ギギャリ!!と無理矢理地面に押し当てた両足からおかしな音が鳴り、強引に速度を殺した日昏が由音の脚撃を頭上に掲げた両手で防ぐ。工場の固い地面に亀裂が走り、地盤そのものが数メートル沈む。
「…!」
 今の自分の攻撃を防がれるとは思っていなかった由音が、足を振り落としたままの状態で息を呑む。
「ふふ。…懐かしいな。『陽向』として一番、忙しかった頃を思い出す。…あるいは」
 額から流れる血が顎先から滴り落ちる日昏の表情は、なんとも言えない顔だった。懐かしみ、それを楽しむような、自嘲するような、そんな表情。
 日昏は黒色に染まる人外化した悪霊憑きを一瞥して、再びふっと笑う。
「旭と殺し合った。あの時とも似ているな」
 呟いて、頭上の両手を一気に持ち上げる。
「…チッ!」
 弾かれた片足と共に体が浮く。そこを狙い澄ましてお返しとばかりに地面を踏み砕いた強烈な蹴り上げを由音の腹へ叩き込む。
 一秒の間を置いて、由音の体が真上へ吹き飛ぶ。天井に組まれていた鉄骨をいくつも折り曲げへし折り、何本かを地上へ落としながら由音自身も一緒に落下する。
「ぐ…はっ、はぁ。ぜぃ、はっあァぁアああ!!」
 猫のように両手足を使って着地し、荒い息もそのままに叫ぶ。
 衝突の勢いで全身は傷つき流血が目立つ。
 傷が治っていなかった。
(“再生”を全部使って浸食を抑え込んでっから…体の傷を治す余力がねぇ!)
 普段であれば“憑依”による肉体及び精神への浸食を“再生”を拮抗させることで抑制し、さらにその余力をもって戦闘時における肉体へのダメージを治していた。だが、今はその両方を限界ギリギリまで酷使しているせいで体の怪我に“再生”を回すだけの余裕が無くなっている。
 それに加え、この状態。
(ぶっつけ本番でこんなこと、するもんじゃねえなっ。長くは、もたねえ)
 全面的に過負荷を掛け続けるこの状態は、常に全力疾走しているのと同じようなものだ。長時間の発動はどう考えても不可能。
 わかってはいたが、その前に消耗し過ぎたせいか思っていた以上に限界が近い。
 悪霊に付け込まれる前に、出力を落として安定させていく。
 身に纏っていた黒色の邪気は内側に吸い込まれるように収束していき、染まっていた由音自身も本来の人間としての性質を取り戻す。
 同時に肉体の修復も再開された。
「…興味深いものを見せてくれたが、ここが限界のようだな」
 額と口の端から流れる血を拭い、口から自分の血で赤く染まった煙草を引き抜き新しい煙草を咥える。相変わらず火は点けずに。
「く、っそ…」
 無理な戦い方をしたせいか、傷は治っても体が言うことを聞かない。それでも立ち上がろうと躍起になる由音へ、日昏が歩み寄る。
「……」
 その歩みは、数歩で止まった。
 日昏は静かに溜息を吐く。
「予想外に時間を使ってしまったのが、最大の反省点だな。こうなる前に片を付けたかった」
 自嘲気味に、日昏は由音以外の誰かへ向けて言う。
「ああ。俺もここを見つけるまでに時間を食ったのを反省しないといけない。面倒な結界なんぞ張りやがって」
 壊れた工場の入り口に立っていた彼も、日昏の真似をするように深々と溜息を吐きながらそう答えた。
「それで、用件は友人の助太刀か?神門守羽」
 名を呼ばれても動揺することなく、守羽は相手が|件《くだん》の陽向日昏という人物だと認識した上で頷く。
「もちろん。それと、お前を入れた全部に言いたいことがあってな」
 これまでは受け身だった。これまでは後手だった。
 これは逃げ続けてきたツケだ。それを認めて、そうして守羽は決心する。
「逃げるのはもうやめだ。棄てようと思ってた力と知識も取り戻す。その上で俺の問題を全て片付ける。退魔師、お前もその一つだ」
 俺自身が引き起こしたこと、俺の出生にまつわること、俺という性質が寄せ付けてしまうもの。
 これまで好き勝手を許してきた全部を全部、この手で終わらせる。
「これ以上お前らに暴れられるわけにはいかねえ。現状維持で保てない平穏なら、自力で守っていくだけだ」
 目的を得て、目標が見えた。
 そうすると、僅かに心に余裕が出来たような気がしてくる。活路を見出した、というわけではないけど、それでも。
「おとなしく帰ってくれるわけじゃないんだろ?俺も友達がボコられてただで帰すつもりもないしな」
 少しだけすっきりした頭で、俺は退魔師の男と対峙する。
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