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第四十二話 一難去って

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「よっ、お疲れ!」
 外に出ると、まず一番に片手を挙げて由音が出迎えた。その頬には自らの傷から飛び散ったと思しき返り血が付着し、着ている服も破け固まった血がこびりついていた。傷は一つ残らず治っているが、その様子から相当な激戦だったのが見受けられる。
 四門との戦闘中、外でも何か戦いが起きていたのは知っていた。人外の気配が二つと、人の器にして人外の力を宿す由音の邪気。それから、
「……」
 戦闘に関わっていた四つの気配の最後の一つの正体が、俺を無言で見据えていた。夏場でも関係なしとばかりにきっちり襟元までダークスーツを着こなした陽向日昏だ。由音と違い外見に傷は見られない。精々がスーツに僅かな埃と煤のようなものが付いていた程度か。
「何が来た?」
「牛と馬!」
 ひとまず日昏は無視して俺が由音に訊ねると、端的にそれだけを返してきた。普通ならわけのわからない発言でしかないが、俺達にとってはこれで充分伝わる。
 |牛頭《ごず》と|馬頭《めず》、大鬼・酒呑童子に付き従う配下の鬼だ。
「…酒呑の野郎は来なかったのか」
 現れたのが鬼であれば確実に狙いは俺のはずだが、親玉であるヤツが出て来ないのは少しばかり意外だった。あの大鬼の性格からして、『鬼殺し』の始末を部下に任せるようなことはしないと思っていたが…。
「あー、それなんだけどさあ」
「大鬼より、お前へと言伝を頼まれた」
 言い淀む由音に代わって日昏がそう答えた。
「言伝?」
「おう!」
 どういうことなのか、俺は二人(主に由音)から四門と交戦している間に起きたことに関して詳しく話を聞くことにした。



      -----
「チィ、ああクソッ面倒臭ぇな!」
「ああ、珍しく意見が合うな、馬頭よ」
 小さな倉庫を一つ吹き飛ばして、牛と馬の人外が後退しながら悪態を吐く。
 破壊された倉庫の瓦礫を踏み越えて二人の人間が姿を現す。一人は瀕死だった。
 無傷の方の人間、陽向日昏が瀕死の東雲由音に苦笑混じりの顔を向ける。
「無事か?東雲の」
「んなわけねーだろ!見ろこれ、手足バッキバキだぞゴフォッ!!あー内臓も死んでるァー!」
 盛大に吐血しながら手足が片方ずつおかしな方向へ向いて、あまつさえ骨が肉を突き破ってすらいる状態で由音は元気一杯に叫ぶ。とても人間とは思えない有様だった。
「ゾンビかよアイツ…」
「流石に、ここまでくると不気味を通り越して恐怖すら覚えるな…。よもや鬼がゾンビに怯える日が来ようとは…」
 牛頭馬頭が共にドン引きしている間にも、由音は“再生”を用いて致命傷から微細な擦過傷まで隅から隅までを全治させていく。
「おぉっしゃあ治ったぁああ!!オラァ来いよ鬼共!金棒なんて捨ててかかってこい!」
「人間の分際で…ッ!」
「……はあ。待て、馬頭」
 露骨な挑発に真っ先に反応を示した馬頭に、溜息と共に片手を出して機先を制した牛頭が前に出る。
「これ以上無益な争いは面倒だ、本当に面倒だ。話を聞け悪霊憑き。我らは今夜戦う為に『鬼殺し』を探して来たわけではない」
 戦闘の意思を放棄したことを示す為か、自らの獲物である刺叉を地面に突き立てて両手を上げた牛頭に、由音と日昏も同様に動きを止めた。
「……だってよ!?」
「ああ、聞くだけ聞こうか」
 互いに同意し、一定の距離を保ったまま牛頭が声を張り用件を伝える。
「我らが鬼の首領、|酒呑《しゅてん》|童子《どうじ》様から『鬼殺し』へ言伝だ!一言一句余さず伝えるからよく聞け、そして伝えろ!」
 息を吸い、一際大きな声で牛面の人外の口から言葉が放たれる。
「『テメェとの再戦は必ず執り行う。近々こっちから会いに行ってやっから逃げんじゃねェぞ!もしこのオレから逃げようモンなら、その日の内にこの街を潰す!!』」
 ビリビリと空気を震わせるその声音は、本当にあの大鬼がこの場にいるかのような威圧感を二人にもたらした。あるいはそれは、鬼の持つ神通力から成る声帯模写だったのかもしれないが。
「…とのことだ。|努《ゆめ》、その言葉を軽んじないことだな人間」
 こほんと咳払いしてから普段の声色に戻った牛頭が、刺叉を地面から引き抜いて数歩下がる。そのまま背中を向け掛けたところへ由音が呼び止めた。
「待てよ!その大鬼は何してんだ!?お前らパシって自分はゆったりしてるってのか!」
 刺叉を背中に背負い直した牛頭が神妙な顔を作って振り返る。
「…頭目は、今療養中だ」
「ほう。守羽も中々やるな、大鬼を相手に不完全な状態ながらも一矢報いたと見える」
 少しだけ楽しそうに呟いた日昏へ、今度は不愉快げな馬頭が言い返す。
「勘違いすんじゃねえや人間。確かに『鬼殺し』は頭領に一太刀入れたが、ありゃ頭領が万全の状態じゃなかったからだ。だから今、頭領は酒を飲んで力を取り戻してんだ」
「………酒飲むと本気になんのか!?なにそれ酔拳?」
 何故かワクワクした表情で乗り出した由音に、隣の日昏が丁寧に説明してやる。
「酒呑童子はな、その名の通りの酒好きで有名だ。だがそれだけじゃない。酒呑童子は酒を取り入れ続けることでその力を維持し、逆に酒を断つことは弱体化のみならず生命の存続すら危うくさせる生命線なんだ。奴等人外における本能が、酒呑童子の場合は酒を喰らうことになる」
「そういうこった。前回は頭領も酒を持ってきてなかった。『鬼殺し』とはいえたかが人間、数日酒を飲まなかった程度で負けはしねえ、ってな」
「舐めプして負けてんのか!ざまあねえな!!」
「邪魔が入っただけで負けたわけじゃねえだろうがクソが!勝手に勝敗決めつけてんじゃねえ殺すぞ悪霊憑きの人間がァ!!」
 子供のような言い争いを始めた両名を、それぞれもう一方が諌め落ち着ける。
「ともかく、そういうことだ」
「了解した、守羽にはしかと伝えておこう」
 互いに牛頭と由音を羽交い絞めにしながら頷き合う。牛頭は馬頭を押さえ付けながら引き摺るようにしてその場から立ち去っていった。



      -----
「近々会いに行くから、ねえ…」
 深い溜息を吐いて、俺はその言伝を受け取る。
「別に逃げる気はねえが、わざわざ釘を刺す為だけに牛頭馬頭使って伝言持ってきたわけか」
 ヤツから見て、俺はそこまでチキンだと思われていたのか。まあ間違っちゃいないけど。
 さらに、次ヤツと対峙する時は大鬼本来の全力を目の当たりにすることになる。酒断ちを行っていた酒呑童子の力は本来の半分か、それ以下と見ていいだろう。
 前回ボロ雑巾の如く叩きのめされた記憶がまだ真新しい故に、あれ以上のパワーを振るわれることを考えるだけで身震いしてしまう。
 だから、出来ればあの時に仕留めておきたかった。今更ながらに自分の力不足と自身の存在への頑固さに辟易と後悔が押し寄せる。
「…大鬼、前と同じと思わない方が賢明だぞ。守羽」
「わかってるっつの。…俺だって前と同じじゃねえさ」
 日昏には強気にそう返したものの、やはり不安は拭えない。
 日本史上最大最強と謳われるかの大鬼に、妖精と退魔の混血はどこまで通用する?
 八方手を尽くして、命を削って、出せる札は全て切って。
 それでも、勝てる見込みは限りなく薄い。
 だが逃げるわけにはいかない。
 神門守羽として、あるいはかつて同様に大鬼を下した『鬼殺し』として。
 この勝負、退くこともなければ負けることも許されない。
 四門は倒した余韻に浸る間も無く、俺は次に立ち向かわなければならない宿敵を想起して、静かに唾を飲み込んだ。

「四門操謳は…殺さなかったのだな」
「ああ。加減したつもりはなかったが、しぶとく生きてた。余裕があるなら介抱くらいしてやれ」
「そうしよう。…守羽よ」
「なんだ」
「お前は、それを選んだのだな?」
「……ただ仕留めそこなっただけだ。勝手に深く勘繰るんじゃねえよ」

 今回は単純に俺と四門との闘いに余計な介入をさせない為に姿を現した日昏との別れ際、短くそれだけの会話を交わして日昏はいつ崩壊するかも知れぬ大破した倉庫の中へと迷いなく入っていった。
 ヤツともいずれは決着をつけねばならないとは思うが、流石に今日このまま連戦する気にはならなかった。日昏自身、今日は四門の戦闘を優先して自分の目的は脇に置いていたような様子だった。たぶんだが、ヤツもまだ父さんを狙う機会ではないと判断している。
 それに、俺が目下最大限に気を払わなければならないのは退魔師ではない。
「はあ。四門を倒したと思えば、立て続けに今度は大鬼と来た」
 大鬼からの言伝を額面通りに受け取るならば、酒呑の野郎は近い内に俺へ接触してくるはずだ。また前のように、いきなり殴り込んでくるというのなら俺もどこに身を置くのか考えなければならないだろう。まさか家に直接乗り込んで来たりはしないと思うが…うん、思いたい。
「一難去ってまた一難、ってか」
「ぶっちゃけありえない?」
「まったくだ」
 例の如くで血塗れズタボロの衣服を纏う由音と軽口を叩き合いながら帰る。俺も似たような有様なので人に見つからないようになるべく早めに家まで帰り着きたいところだ。
「大鬼かあ……ほんとに化物だったなアイツ。勝てっか?」
「勝つんだよ。負けってのは、そのまま死ぬってことだ。俺は死にたくない」
 無論、引き分けも無い。完膚なきまでの完勝など不可能だ、あるとすれば死の淵を綱渡りするかのようなギリギリの辛勝がやっとってところか。
「守羽はかなり強くなってるよな、オレも負けてらんねえぜ!あの鬼が来る前にもっと“|憑依《ひょうい》”を使いこなせるようにならねえと!」
「……ああ」
 そして当然とばかりに次の戦いに意気込む由音に曖昧な返事をして、俺は密かに考える。
 あの大鬼・酒呑童子はかつて自らを束縛し首を刎ねられるきっかけになった法力と同じくらい、嘘や小細工といったものを嫌う傾向がある。
 そんな酒呑がわざわざ部下を使って伝えに来た内容が、『自らが直々に赴くまで待っていろ』というもの。奇襲や不意打ちには頼らないという意思表明だとしてもあまりにも遠回しだ。
 まだ予想でしかないが、おそらくあの大鬼の狙いは…。
(…ま、それはそれで好都合か)
 ともかく、俺が逃げる素振りさえ見せなきゃ大鬼は暴れ回って街を壊滅させることもなく一直線に俺へ向かって来るはずだ。近々、というのが一体いつのことなのかは不明だが、それまではこちらからアクションは起こしようがない。待つのみだ。



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「また父さんいねぇんかいっ!」
 由音と別れ自宅に帰り、ようやく溜まり溜まった疑問を全て父親に叩きつけてやれると思ったら、そこには母さんしかいなかった。
「うん、昔の顔なじみと会って来るって言って出て行っちゃったよ」
 居間で湯呑みに満たされたお茶を飲んでいた母さんの言葉に思わず頭を抱える。あ、あのクソ親父……!
「タイミングを考えろよタイミングを…っ」
 どうせ俺が今夜何してたのかも大体知ってるくせに、何故家で俺の帰りを待っていてくれないのか。
「守羽…傷、見せて?」
 俺の全身をざっと眺めて、母さんが手招きする。今更誤魔化すこともないと思ったので、そのまま素直に母さんの隣へ座る。
「ん…じっとしててね」
 雪のように白い両手が俺の胸に当てられると、そこから淡い光が発生し全身を包み込む。
 妖精種固有の技能、他者の傷を癒す治癒の光だ。それによって四門から受けた怪我がたちまち治っていく。
 体を覆う淡い光をぼんやりと見て、それからふと目線を落として小柄な母さんを見下ろす。
 真白の肌、色素の薄い髪、琥珀色の瞳、そして歳に見合わない外見。およそ日本人、いや人間離れしたその容姿。
「妖精……か」
 思わず口から漏れた呟きに、母さんがぴくりと反応を示す。
 母さんはここ最近元気が無い。それは俺が人外や特異家系の人間と関わりを持つようになってからだ。
 きっと俺が自らの出生について知っていくことを恐れているのだろう、となんとなく予想を立ててみる。確証は無い。無いが、これまで一度としてそのことに触れることも触れさせようとすることもなかったことから察するに、今の状況が両親にとって望んでいた結果ではないことは分かる。
 あるいはそれは、『人間』としてこれまで生きたがっていた俺の心情を汲んだ上での気遣いだったのかもしれない。
 そんな俺の考えを読んだかのように、母さんは顔を上げずに小さく口を開く。
「ねえ、守羽。もう知っていることだろうから、言うけど。わたしは…人間じゃないんだ」
「うん」
「妖精でね。昔は妖精の世界を統べる女王としての素質があるって言われて候補に挙げられていたりもしたんだ」
「うん」
「だから、あの……ごめん、ね」
「……」
 母さんの表情は見えなかったが、その肩は震えていた。怪我は完治したのに、未だ胸に当てられたままの両手が俺のシャツを軽く掴む。
「守羽に、人の世界で生きづらくしちゃったのは、わたしのせいなんだ。わたしが人間じゃなかったから、その性質は受け継がれた。君には、それで辛い思いや大変な目に遭わせてきちゃったよね。ごめんなさい…わたしが」
「ッ…母さんは悪くない、何も!!」
 胸に当てられた両手を取って、強く握る。
「なんも悪くねえんだよ!確かに俺は普通の人間じゃないことで色々悩んだりしたこともあったけど、だからって母さんの子供だったことを後悔したことなんざ一度だって無いっ!無いったらないんだよ!!」
 妖精であり、退魔師であるこの身が原因で招き寄せた厄介事だってあった。それで戦って傷ついてきたこともあった。自分の中に流れる性質に思い悩み塞ぎ込んだ時期もあった。
 だけど、父さんや母さんのことを恨んだりしたことだけは無いと断言できる。
 そもそも、俺が自分に流れる人外の性質に関して思い悩むようになった発端は…、
「…俺はさ、ずっと前に凄い強力な人外を倒したことがあるんだ。アイツのやったことがどうしても許せなくて、だから俺は…たぶん、その時に俺は人外が嫌いになったんだと思う」
 それは、かつて俺が『鬼殺し』なんていう嫌な二つ名で人外情勢に知れ渡ることとなった切っ掛けでもある、大鬼討伐の事件。その時に、あの大鬼はやってはいけないことをした。静音さんを傷つけ、この街を滅ぼし掛けた。
「その人外を倒してからしばらくの間、たくさんの人外に狙われ続けてきた。悪意の塊が押し寄せてきた、剥き出しの敵意をぶつけられてきた。あの時から、決定的に俺は人外が嫌いになったんだと思う」
 鬼を倒した実績のある人間を喰らわんと、各地から無数に人喰いの人外が俺を狙ってやって来た。
 その襲撃の日々は、人ならざる者が、人に害成す怨敵しかいないのだという認識を俺の中で確立させるには充分すぎるほどの悪意の総量だった。
「でも最近は、色々な人外を知ることが出来た。そのおかげで俺は人外が人にとって完全な悪でしかないってわけでもないんだって理解できたんだ。俺も、自分の中の人外と向き合って拒んでいた理解を深められた」
 今の俺は、人外の部分も含めてかなり完全な『神門守羽』に近付いてきている。拒んだ力と知識の全てを取り戻しつつある。
 早口に捲し立てるような俺の言葉を受けて少し驚いたような表情で顔を上げた母さんの、潤んだ瞳を真っ向から受け止める。
「だから大丈夫、俺はもう自分のことでうだうだ悩むのはやめにしたんだ。ここからは全てを終わらせるためにだけ動く。母さんは何も思い悩むことなんてない。すぐに全部片付けて、また三人で暮らせるようにするから」
 絡まった幾本もの糸を解きほぐすように、少しずつでも。
「俺は父さんも母さんも信じてる。だから母さんも俺を信じて。二人から受け継いだ力で、必ず終わらせてみせるから」
「……うん」
 しばし口を半開きにしたまま何を言ったものかと思案していた母さんだったが、最後には一つ頷いてくれた。
「わかったよ。わたしも、できるだけ支えるから。だから…がんばろうね」
 母親が妖精だろうが、父親が退魔師だろうが、その子供が半人半妖の半端者だろうが。
 そんなもんは関係ない、取るに足らない些末な問題だ。
 人でも人外でも、どうでもいい。俺達三人は家族だ。これまで仲良く楽しくやってきた、これから先だってそうならなけりゃ嘘だ。
 いや、そうしていく為にも、俺は今を全力で頑張る。
「そういえばさ、母さん」
 ちょっとだけ元気を取り戻したように見える母さんに安堵すると共に、ちょうどいいから本人から直接聞いてみたかったことを訊ねてみることにする。
「レイスとかいう妖精は、父さんが母さんのことを強引に妖精の世界から拉致してきたみたいなこと言ってたけど、実際のところはどうなんだ?」
 本当は、訊くまでもなくそんなわけはないことだと分かっている。だけど、これは決めつけじゃなくて当人らの口からしっかり聞かなければならないことだと思ったから。
「うん、もちろん違うよ」
 母さんは俺の期待を裏切ることなく、幸せそうな笑顔で朗らかに笑った。
「わたしが自分の意思で妖精界を出ることを望んで、父さんは―――|旭《あきら》さんは、そんなわたしを連れ出してくれた白馬の王子様だったんだ♪」
125, 124

  

 街中にある、古ぼけた八階建てマンションの、その五階にある一室。中は雑多で散らかっており、フローリングの床には積み上げられた漫画本やゲーム機などが散乱していた。
 そんな居間に一歩足を踏み入れた客人が一人。
「やあやあ、こんばんわ」
 軽い空気で神門|旭《あきら》がにこやかな微笑みを部屋の者達へ振り撒く。
「遅いっすわ旦那ー」
 まず一番に声を返したのは、散らかった物を両脇にどけてうつ伏せに寝そべっていた、焼け焦げて煤けたような赤茶色の髪を持つ浅黒い肌の青年。
「……」
 その青年の背中に立ってバランスを保ちながら腰の辺りで足踏みを繰り返している幼い少女が次いで顔を向ける。無言の中にも、客人を歓迎する雰囲気を放っていたのを付き合いの長い旭は察していた。
「ああ、アル。悪いね。|白埜《しらの》もこんばんわ。…何してるの?」
「腰が重たいからハクちゃんに踏んでもらってマッサージ代わりですって。オッサン臭いからやめてほしいわねぇ」
 うつ伏せになって腰を踏まれる度にあーだのうーだのと唸っているアルに代わって、壁際に座って背中をべったりとつけた女性が答える。鬱陶しそうに自らの長髪をポニーテールに束ねているが、女性のあまりにも長すぎる髪はそれでも束ね切れず蛇のようにうねりながら壁から床へその赤毛を投げ出している。
「お、|音々《ねね》。久しぶりだね」
「えぇ、ボス。お久しぶり。…ちょっと老けたかしらね?」
 前髪を鳥類の爪を模した髪留めで左右に分けている音々が、赤毛の前髪の合間から覗く半眼で懐かしの対面に片手をひらりと振る。
 旭は苦笑しながら、
「まあ、人間なら平均的にこれくらいは老化もするさ。君達と違って人間の寿命は八十そこらで上限を迎えるから仕方ない」
「ふぅーん、それ以外に心労とかもありそうだけどねぇ」
「うぉあ~白埜、そこだそこ。そこ強めに頼まあよ」
「……ここ?」
「いいよーそこだァー!」
 軽い体重で一生懸命にアルの腰を踏む白埜の、白銀の髪がゆっくりと揺れるのを音々は恍惚とした表情で眺めている。
「ああ、いいわねぇ…。ハクちゃん可愛い、世界一可愛い。うちの子になってくれないかしら」
 僅かに息を荒げながら白埜への凝視を続ける音々に、アルがうつ伏せのままカッと目を見開いて叫ぶ。
「バーッカ!白埜はうちの子ですーテメエなんぞには髪の毛一本たりとも渡せませーん!」
「はい言質取った!極東の国家権力に捕獲されろ有害ロリコン悪魔!さっすが『反転』済みなだけはあるわねキモさも跳ね上がってるわよ変態!」
「アァ!?斬り刻まれてえのか魔獣風情がよお!!こちとら魔獣特効の武装だってきっちりストックしてあんだからな覚悟しとけ!」
「ちょっとうるさいぞお前さんら…お隣さんから苦情来るからやめてくれ」
 アルと音々の不毛な言い争いに、台所から出て来た男が呆れた表情で二人を諌める。
 こちらは抹茶のような深緑色をした髪をスポーツ刈りにした青年で、歳の頃はアル・音々と同じ程度に見える。ただオッサン臭い挙動や言動を繰り返し行っているアルと比べると、その青年の方が若干若々しく映った。
 彼もこの場におけるかつて手を組み合って妖精界に喧嘩を吹っ掛けた同盟メンバーの一人、自らをレンと名乗る青年だった。
「旦那さん、いらっしゃい。すんません、汚いですけどどっか場所探して座ってください。…おらアル、お前さんそこ寝そべってると邪魔。白埜も、もういいよお疲れさま」
「……ん」
 腰を踏み踏みしていた白埜が頷いてアルの背中から降り、腰を拳で叩きながらアルもゆっくりと起き上がる。
 アルが起きたおかげで発生したスペースに、この部屋の同居人であるレンは両手に抱えていたものを次々置いて行く。
「旦那さんは…日本酒でいいんでしたっけ?」
「あ、うん」
「おうレン、俺も日本酒だ!」
「知ってるっつの」
 床に所狭しと酒の瓶やらカップやらグラスやらが並べられ、その隙間にツマミとなる食料が置かれていく。
「音々は?」
「なんでも。あーでも、出来れば洋酒かしらね」
「おっけ、ここ酒の種類だけは大体揃ってるから。はい白埜、牛乳な」
「……ありがと、レン」
 昔から酒好きだったアルとレンが共同で使っているこのマンション部屋には、常時酒が貯蔵されている。当然ながら酒のツマミも冷蔵庫の大半を占めているほどに押し込まれていた。
「ほれ旦那、まあ一献」
「おっと、こりゃどうも」
 酒器を渡され酌をされ、次にアルの器にも透明な液体を注いでやる。同じようにレンと音々も互いに洋酒を注ぎ合っていた。一人、酒を飲めない白埜だけが牛乳で満たされたコップを両手で持って羨ましそうにその様子を見ている。
「んじゃ、全員揃っちゃいませんがとりあえず同盟メンバー再会の音頭を旦那、頼んまあ」
 振られ、旭がこほんと咳払いをして酒器を掲げる。
「ええ、それでは……かつて妖精界への侵攻の為に力を合わせた我ら『|突貫《とっかん》同盟』の久方ぶりの招集ということで、僭越ながらわたくし神門旭が」
「「「かんぱーいっ!!」」」
「まだ終わってないんだけど!?」
 旭の長ったらしい口上を待ちきれなかったアル・レン・音々の三人が勝手に杯をこつんとぶつけて酒を煽った。
「んぐっ―――ぷはぁ。いやーなんかマジで久しぶりだなこの感じ」
「そうねぇ。昔は散々やってたことだけど」
「起きるとそこら中ゲロまみれになってるから毎回外で飲んでたっけか」
「僕音頭とる必要なかったじゃないか…」
「……アキラ、どんまい」
 思い思いのペースで飲み進める面々だが、今夜は深酒するつもりはない。そもそも飲み明かす為に集まったわけでもないのだから。
「それで、今ここにいないメンバーは…|楓迦《ふうか》か。誰か探しに行ってるのかい?」
 欠員の少女について旭が触れると、アルが酒器を置いてツマミを頬張りながら、
「楓迦なら『|韋駄天《いだてん》』の野郎に探させてる。数日中には見つけて連れて来ると思いますぜ」
「そうか…じゃあ、今いる面子で始めようか」
 納得して、旭は本題を切り出す。
「君達に集まってもらったのは他でもない、ちょっと妖精関連でゴタゴタが起きそうだからだよ」
「妖精界側が動き出したのかしら?」
「いや、レイスんとこの組織が何か動き始めてるだけだ。ケット・シーの猫娘もいたぞ」
「シェリアちゃんも!?会いたいわねっ!」
「うっせ変態」
「黙りなさいロリコン」
「だから喧嘩すんなってのに」
「……アル、ネネ。めっ」
「「はい」」
「話し進めてもいいかい?」
 すぐに脱線させてしまうアルと音々を白埜が牛乳をちびちびと飲みながら黙らせて、レンが旭に先を促す。
「今すぐに事を起こすってわけじゃないとは思うけど、何せ彼らは|大罪人《ぼく》の始末と元女王筆頭候補奪還という大義名分を掲げてやって来る。いくら温和な妖精種といえども実力行使で挑んでくることは想像に難くない」
「だーからあんときレイスぶった斬っておきゃよかったんですよ。そしたら連中の戦力一つマイナスだった」
「いやだからね、そんな短絡的な考えじゃ駄目なんだよアル」
 冷静に指摘した旭に、空になった酒器に酒を注ぎ足しながらアルが不敵に笑む。
「どうせ敵対するなら皆殺しでしょう?俺に任せてくださいよ、こと戦闘においては『突貫同盟』の中じゃ俺が一番槍で仕留め槍だ。しかも敵は妖精種、元妖精の俺なら簡単に|殺《や》れるかと」
「とても元妖精の発言とは思えないほど物騒ねぇ」
「そりゃ、今はもう|魔性種《あくま》だからな」
 くっと酒を喉に流し込んで息を吐くと、旭は少し考えるように目を閉じる。
「…現状の敵が、妖精だけじゃないのが問題なんだよ。妖精関連の問題は遅かれ早かれ起こることだとは思っていたけど、まさかこれだけ同時に他の問題まで発生するとは思ってなかった」
 目を開いて、持ち上げた右手の指を一つずつ折り曲げていく。
「四門、陽向、妖精、この三勢力が同時に動き始めたのが不味い。一つずつであれば僕一人で対処しようと考えていたのだけど、これだけ厄介なのが同時となると手が足りない」
「旦那さんは、どう手を打ちたいとお考えなんですか?」
 半分ほど洋酒の入ったグラスを揺らしながら問うレンの言葉に、旭も軽く頷いて、
「うん、…陽向は僕が殺さないといけない。向こうもそのつもりだろうしね。同じく四門もだ」
「手が足りないとか言っときながら二つも掛け持ちかよ旦那。今のアンタで勝てんですかい?」
「勝つよ、これは僕の因縁だからね。いい加減子供にばかり押し付けてられない」
 一瞬だけ鋭くなった両眼の奥に、全盛期とも呼べる昔の面影を見たアルはそれ以上何か言うことはせず、ただ無言で酒を飲み込んだ。
「……じゃ、シラノたちは、ようせい?」
 アルの隣で話を聞いていた白埜がコップを両手で持ったままぽつりと言い放つ。
「そうなる、かな。無理して倒そうと考えなくてもいい、牽制して押さえてくれればその間に僕も僕で事を終わらせてくるから」
「……ん、りょかい」
 こくんと頷いた白埜の白銀に煌めく髪の毛をアルが多少乱暴に撫でる。
「お前は戦わなくていいよ、白埜。俺達だけでも充分だ」
 戦う力を持たない者が一人として存在しないこの場で、それでもアルは我が子のように想いを寄せる白埜へと屈託のない笑みを向けて内心を汲む。
 そもそもこの少女は『反転』により好戦的となったアルと違い争い事を好む性分ではない。白埜の人外としての真名からしても、それは明らかなことだ。
「……うん」
 牛乳を飲み干したコップを床に置き、胡坐をかいて座っているアルの太腿にコロンと頭を乗せた白埜もまた、アルの言葉に対し滅多に見せない微笑みを浮かべた。
「チッ」
「オイそこ、舌打ちすんない」
 怨嗟を込めたドス黒い視線を送る音々に、膝枕で横になった白埜の髪を手で梳きながらアルがジト目を返す。
「それじゃあ、そういう方向で頼めるかな?」
 大体の方針が固まったのを確かめるように、旭は部屋の仲間達に視線を配る。
 誰一人、異存は無かった。旭が両手を打ち鳴らす。
「よし、ならこれでお願いするよ。すまないね、僕に力を貸してくれ」
「ええ、承知したわ。貴方への恩、ここで少しでも返済しておきましょう」
「……しょうち」
「旦那さんの頼みなら、別に断る理由もないよ。…白埜が無事な限りはね、なあアル」
「おう」
 最優先順位を常に白埜へ置いているレンとアルも、その無事が保障されている限りは同盟の長への協力は惜しまない。そういう内容で彼らは手を組んでいたのだから。
 酒瓶を一つ空にして、最後の一口を一気に喉へ流し込んでからアルは確認を取るように、
「…旦那は家の因縁、白埜はお留守番、音々とレンとで妖精共の牽制、だな」
「うん。…え?」
「待て待て、お前さんは?」
「アンタまさかサボるつもりじゃないでしょうね」
「……アル?」
 しれっと自分の名前だけ外していたアルに全員の視線が集まると、アルは酒器をことりと置いてから腕を組む。
「牽制だけならお前らだけでいいだろ。俺一つ思い出したんですがよ、旦那。アンタんとこのガキに、面白いのが行ってるじゃねえですかい」
 その両目を爛々と輝かせて、煤けた赤茶髪に褐色肌の悪魔は実に愉しそうに口の端を吊り上げて|哂《わら》う。
「鬼、それも史上最強の大鬼。大酒喰らいの酒呑童子だ。こんな機会は滅多に来ない。上等な日本酒の一つでも持って茶化しに行くのも愉しそうじゃあねえですかい、なあ旦那ァ?」
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ソルト 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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