第二十四話 悩める者らが過ごす休日(前編)
「……」
「……」
初夏からジリジリと強さを増してきた陽光を一身に受けて、二人の少年が睨み合う。
互いに間合いを計り、意識の隙を突こうとする。
「「…ッ」」
やがて、一人の少年が走り出した。
その常人ならざる速度で迫る相手を前に、もう一人の少年も動じることなく迎撃の構えを取る。
まずは十五倍。
そう念じて跳び出した少年は右の正拳を突き出す。
右拳は手刀によってあっさりと弾かれ、さらにお返しとばかりに硬く握られた拳が振るわれる。
二十倍。
念じ、顔面へ狙いを定められたパンチを避ける。
徐々に引き上げ、二十五倍。
跳び上がり、相手の頭上から上下逆さまになった体勢から蹴りを放つ。
片手で受け止めた相手は、少年の足首を掴み軽々と放り投げる。
落下防止のフェンスに叩きつけられた少年はそのまま軋んだフェンスの反動ごと蹴って跳び、低姿勢から相手の真横へ滑り込む。
三十、三十五倍。
肋骨ごと粉砕するつもりで唸る豪腕を突き入れる。
ゴシャァッ!!と音を立てて相手の脇腹が陥没する。
目論み通り、骨を砕き内臓まで衝撃が伝わった感覚。
倒した、とは思わない。
現に、口の端から血を垂らす相手は余裕の笑みすら湛えている。
同時に、相手の両眼が何か昏い色に満たされていくのを確認する。
深度上昇による浸食の変化。
咄嗟に引き上げた四十倍で、かろうじて脚撃の直撃は免れる。が、掠っただけでも少年の身は錐揉みしながら吹き飛んだ。
これ以上の引き上げは不味い。そう思いつつも、少年は能力をさらに展開する。
四十二…四十四、四十六…倍。
既に力が安定したらしい相手の両眼にも、昏い色は消えていた。
今度は互いが同時に跳び出した。
「…駄目だな。全然、駄目だ」
ぶん殴られた頬をさすりながら、俺は呟く。
「そっか?結構よかったと思うけどな!」
フェンスに寄り掛かって吐血の跡を拭う同級生、東雲由音が制服の胸元を開けて風を送りながら俺の呟きに答える。
俺はそれに首を振りながら、
「いいわけあるか。お前、さっきので大体何割だ?」
「え?うーん……」
顎に手をやって少し考える素振りを見せた由音が、ぱっと顔を上げて、
「三割だな!」
快活に答えたその言葉に、俺は軽く項垂れた。
今日という日は土曜、そして場所は我らが通う学校の屋上。
休日なのになんで学校にいるのかといえば、ここが最適だったからだ。
何が最適かっていうと、
「俺が“倍加”で四十倍も出してるってのに、お前の“憑依”三割程度にも及ばないってんじゃやっぱり駄目だろ。話にならねえ」
由音の力は定期的に調整しないと安定に欠けるものだ。故に、俺はこうして週に一回くらいは由音と組手を行っている。
さらに、今回は由音にもそれなりにやる気を出してやってもらった。その結果がこれだ。
「つってもな、オレだって“憑依”は自由に使えるわけじゃねえんだぞ?“再生”とうまいことバランスを保てないとすぐ暴れんだからよ!」
そう。由音の力は俺のそれを遥かに凌駕する代物だが、使用にはそれなりのリスクも伴う。だから由音は滅多に本気を出さない。いや、出せない。
いつもであれば由音の調整に俺が付き合う形で組手を行うのだが、今回に限ってはそれが逆転している。
俺の力がどの程度通じるのか、それを知る意味でも由音はいい相手だと言える。どれだけ致命的な一撃が入ってもまず死ぬことはないんだからな。
そして、やってみて改めてわかったことがある。
「…それにしたって、駄目だ。俺は弱すぎる」
俺の“倍加”はそこそこの人外を相手にしても闘える能力だと自負していた。これまでだってこの力一つでどうにかしてこれたんだから、それは自惚れではないと信じたい。
だが、所詮は『そこそこ』だ。それ以上の相手には手も足も出ない。
あの四門とかいう女や、口裂け女のように圧倒的な力を持っている相手には、勝てない。
「…ふう。暑いし、帰るか。由音、お前はどうだ。まだ調整は必要か?」
「いや!もう大丈夫だ、サンキュー守羽!」
「そうか。じゃ、行こうぜ」
背を向けて屋上の階段へ足を向けながらも、どうにかしないといけないな、と切実に思う。
できれば漫画やアニメに出て来る主人公のように、劇的なパワーアップを。
そうでなければ、怒りで金髪になるような覚醒を。
穏やかな心は持ってるから出来そうな気はするんだけどなあ……。
「…うーん」
頭をがりがりと掻きながら遠ざかる友人の背中を歩いて追いながら、由音は守羽に聞こえないほどの小さな声で、
「本気になりゃ、オレより強いのはお前の方なのになあ…。使わねえのかな、あの火とか水とか出すヘンテコな力は…?」
心底不思議そうに呟いた。
「……」
初夏からジリジリと強さを増してきた陽光を一身に受けて、二人の少年が睨み合う。
互いに間合いを計り、意識の隙を突こうとする。
「「…ッ」」
やがて、一人の少年が走り出した。
その常人ならざる速度で迫る相手を前に、もう一人の少年も動じることなく迎撃の構えを取る。
まずは十五倍。
そう念じて跳び出した少年は右の正拳を突き出す。
右拳は手刀によってあっさりと弾かれ、さらにお返しとばかりに硬く握られた拳が振るわれる。
二十倍。
念じ、顔面へ狙いを定められたパンチを避ける。
徐々に引き上げ、二十五倍。
跳び上がり、相手の頭上から上下逆さまになった体勢から蹴りを放つ。
片手で受け止めた相手は、少年の足首を掴み軽々と放り投げる。
落下防止のフェンスに叩きつけられた少年はそのまま軋んだフェンスの反動ごと蹴って跳び、低姿勢から相手の真横へ滑り込む。
三十、三十五倍。
肋骨ごと粉砕するつもりで唸る豪腕を突き入れる。
ゴシャァッ!!と音を立てて相手の脇腹が陥没する。
目論み通り、骨を砕き内臓まで衝撃が伝わった感覚。
倒した、とは思わない。
現に、口の端から血を垂らす相手は余裕の笑みすら湛えている。
同時に、相手の両眼が何か昏い色に満たされていくのを確認する。
深度上昇による浸食の変化。
咄嗟に引き上げた四十倍で、かろうじて脚撃の直撃は免れる。が、掠っただけでも少年の身は錐揉みしながら吹き飛んだ。
これ以上の引き上げは不味い。そう思いつつも、少年は能力をさらに展開する。
四十二…四十四、四十六…倍。
既に力が安定したらしい相手の両眼にも、昏い色は消えていた。
今度は互いが同時に跳び出した。
「…駄目だな。全然、駄目だ」
ぶん殴られた頬をさすりながら、俺は呟く。
「そっか?結構よかったと思うけどな!」
フェンスに寄り掛かって吐血の跡を拭う同級生、東雲由音が制服の胸元を開けて風を送りながら俺の呟きに答える。
俺はそれに首を振りながら、
「いいわけあるか。お前、さっきので大体何割だ?」
「え?うーん……」
顎に手をやって少し考える素振りを見せた由音が、ぱっと顔を上げて、
「三割だな!」
快活に答えたその言葉に、俺は軽く項垂れた。
今日という日は土曜、そして場所は我らが通う学校の屋上。
休日なのになんで学校にいるのかといえば、ここが最適だったからだ。
何が最適かっていうと、
「俺が“倍加”で四十倍も出してるってのに、お前の“憑依”三割程度にも及ばないってんじゃやっぱり駄目だろ。話にならねえ」
由音の力は定期的に調整しないと安定に欠けるものだ。故に、俺はこうして週に一回くらいは由音と組手を行っている。
さらに、今回は由音にもそれなりにやる気を出してやってもらった。その結果がこれだ。
「つってもな、オレだって“憑依”は自由に使えるわけじゃねえんだぞ?“再生”とうまいことバランスを保てないとすぐ暴れんだからよ!」
そう。由音の力は俺のそれを遥かに凌駕する代物だが、使用にはそれなりのリスクも伴う。だから由音は滅多に本気を出さない。いや、出せない。
いつもであれば由音の調整に俺が付き合う形で組手を行うのだが、今回に限ってはそれが逆転している。
俺の力がどの程度通じるのか、それを知る意味でも由音はいい相手だと言える。どれだけ致命的な一撃が入ってもまず死ぬことはないんだからな。
そして、やってみて改めてわかったことがある。
「…それにしたって、駄目だ。俺は弱すぎる」
俺の“倍加”はそこそこの人外を相手にしても闘える能力だと自負していた。これまでだってこの力一つでどうにかしてこれたんだから、それは自惚れではないと信じたい。
だが、所詮は『そこそこ』だ。それ以上の相手には手も足も出ない。
あの四門とかいう女や、口裂け女のように圧倒的な力を持っている相手には、勝てない。
「…ふう。暑いし、帰るか。由音、お前はどうだ。まだ調整は必要か?」
「いや!もう大丈夫だ、サンキュー守羽!」
「そうか。じゃ、行こうぜ」
背を向けて屋上の階段へ足を向けながらも、どうにかしないといけないな、と切実に思う。
できれば漫画やアニメに出て来る主人公のように、劇的なパワーアップを。
そうでなければ、怒りで金髪になるような覚醒を。
穏やかな心は持ってるから出来そうな気はするんだけどなあ……。
「…うーん」
頭をがりがりと掻きながら遠ざかる友人の背中を歩いて追いながら、由音は守羽に聞こえないほどの小さな声で、
「本気になりゃ、オレより強いのはお前の方なのになあ…。使わねえのかな、あの火とか水とか出すヘンテコな力は…?」
心底不思議そうに呟いた。
守羽と由音が屋上で組手を行っていた頃、久遠静音は廃ビル群の立ち入り禁止区域に足を踏み入れていた。
この場所で数々の激闘があったことは静音もよく知っている。つい最近では都市伝説『口裂け女』との戦闘でも使われていた。
街からはほどよく離れ、黄と黒のテープを張られただけのこの場は人外騒ぎに片を付けるには絶好のポイントなのだと守羽も言っていた。
その闘いの爪痕なのか、あれだけ乱立していた廃ビルの内いくつかが記憶にあった位置から消えている。正確には根本まで崩壊して原型を失くしていた。
その残骸を見て、静音は自分の知らぬところで命懸けの戦闘を続けてきた守羽のことを想う。
ゆっくりとヒビ割れて荒地となった地面を歩いて、廃ビルの残骸に触れる。
瞬間、静音を覆う影が出現した。
「……」
見上げれば、さっきまでは何もなかったその場所に、大きなビルが建ち空と太陽を隠していた。
ただし、窓は割れ壁は剥がれ、ボロボロの廃れたビルではあったが。
“復元”の能力。
久遠静音の記憶と認識を元に、物体を元の状態に戻す力。
このビルが廃れるより前の状態を知らない静音にとって、これ以前の状態にビルを戻すことはできない。
逆に言えば、どれだけ破壊されたとしてもこの状態までなら戻せる。
どれだけの重傷でも、どれだけの欠損でも、どれだけの大怪我でも。
静音が万全の守羽を知っていれば、絶対に戻せる。
だがそれだけだ。
守羽のように肉体を強化して戦うことも、由音のように悪霊の力を用いて戦うこともできはしない。
背中に庇われることはあっても、背中を預けられる役にはなれない。
無力な足手纏い。
一番傍にいたいのに、傍にいることが重荷になってしまう。
カナは言っていた。守羽が命の危機に瀕する時、『あの状態』になる為の|引き金《トリガー》になるのは自分の存在だと。
(…それでは駄目だ)
引き金になるだけでは駄目だ。結局、撃ち出されるのは守羽自身。それでは何も変わらない。
守羽は前回の四門襲撃から、『次』が来るのを身構えている。自分も、それまでに何かできることを探さなければならないだろう。
ひとまず、静音は自分の記憶にある限りの倒壊したらしきビルを全て“復元”させた。さすがに短期間でいくつものビルが倒壊していたら不審に思う者も現れるかもしれないという懸念のもとだったが、そうしている間だけでも少し意識を目の前の問題から逸らせたことが大きかったかもしれない。
逸らせたついでに、静音はポケットの中にある二枚の紙切れに指先で触れる。
どういうことだか、静音はこの紙切れを友人から貰った。
発端は金曜日、つまり昨日だ。
授業の合間の休み時間に、静音はその友人とこんな会話をした。
『…………』
『あら、物憂げな表情しちゃって。どしたの静音』
『…|千香《ちか》。私、そんな顔してた?』
『うん。やめなさいよ、そんな儚げな顔するの。また望んでもいないのに男が寄ってくるわよ?』
『気を付けるよ』
『あんたはあの後輩君以外の男になんて眼中にないんでしょ、そういうのはその子に見せなさいよ。きっとほっとかないから』
『………うん。…そうだね』
『…なんかあったの?』
『ううん、何も』
『嘘つき。…まったくもう。はい、これ』
『?』
『よくわかんないけど、これあげるから仲良くしなさいよ。後輩君と』
ほんとはあんたと一緒に行こうと思ってたんだけどね、と言って半ば押し付けるようにして友人がくれた、映画の前売り券だった。
千香という女友達は大の映画好きで、仲の良い静音は時折こうして誘われることがあった。
自分はそんなに気遣われるほど酷い顔をしていたのだろうかと友人に対して申し訳なく思うと共に、せっかく貰ったこの券を使わずに終わらせるわけにもいかないと考えていた。
彼女の気遣いを無碍にはできない。
気分は暗澹たるものだったが、チャンスはチャンス。そうでなくとも休日に彼と一緒にいられる理由ができたと思えばいくらか気持ちもこの夏空のように晴れてきた。
問題は、守羽の側に予定があるかどうかだ。
映画の上映は明日、日曜日。
学生であれば誰かしらと遊ぶ予定があってもおかしくはない。特に四門との一件以来、由音とは仲良さそうにしているところをよく見る。
断られてもおかしくはない。
そう思うと不安が膨れ上がっていくが、誘う前から弱気になっていても意味がない。
勇気を出して、メールではなく電話で勝負を掛ける。
最後の廃ビルを“復元”し終わったその場所で、静音は携帯電話を耳に当て彼が出るのを待つ。
すぐに出てくれた。
『はいもしもしっ、どうしました?』
少し慌てた様子で、口に何か入っているかのようなくぐもった調子で守羽は電話に出た。
もしかして食事中だっただろうか。腕時計に目をやれば、もう時刻は昼になる頃。その可能性は大きい。
悪いことをしたかも。
出だしから申し訳なさを抱えたまま、それでも静音は件の用件を伝える。
「うん、あのね。明日って時間、あるかな?」
『明日ですか?…はい!全然大丈夫ですよ』
電話の向こうで「うぉいっ!?」と戸惑う声が遠くから聞こえた。どこか店で食事しているらしい。
『何かありましたか?あ、買い物とかですか?荷物持ちでもなんでもしますよ!』
「ううん。友達から映画の前売り券を二枚貰ったから、一緒にどうかなって」
『映画ですか、わかりました。それじゃ、明日…えっと待ち合わせ場所とかはー』
それから二人で手早く待ち合わせ場所と集合時刻を決め、電話を切った。
「…………ふうー」
大きく息を吐き、緊張から握り込んでいた拳を開く。じっとりと汗が滲んでいた。
不安一杯だったわりには、とんとん拍子に事が進んで決まってしまった。これが取り越し苦労というものか。
何はともあれ誘えてよかった。
今度は安心と共に期待が膨らみ、途端に明日が楽しみになる。
彼女にしては非常に珍しく、スキップのようにステップを踏みながら静音は廃ビル群からその場をあとにした。
この場所で数々の激闘があったことは静音もよく知っている。つい最近では都市伝説『口裂け女』との戦闘でも使われていた。
街からはほどよく離れ、黄と黒のテープを張られただけのこの場は人外騒ぎに片を付けるには絶好のポイントなのだと守羽も言っていた。
その闘いの爪痕なのか、あれだけ乱立していた廃ビルの内いくつかが記憶にあった位置から消えている。正確には根本まで崩壊して原型を失くしていた。
その残骸を見て、静音は自分の知らぬところで命懸けの戦闘を続けてきた守羽のことを想う。
ゆっくりとヒビ割れて荒地となった地面を歩いて、廃ビルの残骸に触れる。
瞬間、静音を覆う影が出現した。
「……」
見上げれば、さっきまでは何もなかったその場所に、大きなビルが建ち空と太陽を隠していた。
ただし、窓は割れ壁は剥がれ、ボロボロの廃れたビルではあったが。
“復元”の能力。
久遠静音の記憶と認識を元に、物体を元の状態に戻す力。
このビルが廃れるより前の状態を知らない静音にとって、これ以前の状態にビルを戻すことはできない。
逆に言えば、どれだけ破壊されたとしてもこの状態までなら戻せる。
どれだけの重傷でも、どれだけの欠損でも、どれだけの大怪我でも。
静音が万全の守羽を知っていれば、絶対に戻せる。
だがそれだけだ。
守羽のように肉体を強化して戦うことも、由音のように悪霊の力を用いて戦うこともできはしない。
背中に庇われることはあっても、背中を預けられる役にはなれない。
無力な足手纏い。
一番傍にいたいのに、傍にいることが重荷になってしまう。
カナは言っていた。守羽が命の危機に瀕する時、『あの状態』になる為の|引き金《トリガー》になるのは自分の存在だと。
(…それでは駄目だ)
引き金になるだけでは駄目だ。結局、撃ち出されるのは守羽自身。それでは何も変わらない。
守羽は前回の四門襲撃から、『次』が来るのを身構えている。自分も、それまでに何かできることを探さなければならないだろう。
ひとまず、静音は自分の記憶にある限りの倒壊したらしきビルを全て“復元”させた。さすがに短期間でいくつものビルが倒壊していたら不審に思う者も現れるかもしれないという懸念のもとだったが、そうしている間だけでも少し意識を目の前の問題から逸らせたことが大きかったかもしれない。
逸らせたついでに、静音はポケットの中にある二枚の紙切れに指先で触れる。
どういうことだか、静音はこの紙切れを友人から貰った。
発端は金曜日、つまり昨日だ。
授業の合間の休み時間に、静音はその友人とこんな会話をした。
『…………』
『あら、物憂げな表情しちゃって。どしたの静音』
『…|千香《ちか》。私、そんな顔してた?』
『うん。やめなさいよ、そんな儚げな顔するの。また望んでもいないのに男が寄ってくるわよ?』
『気を付けるよ』
『あんたはあの後輩君以外の男になんて眼中にないんでしょ、そういうのはその子に見せなさいよ。きっとほっとかないから』
『………うん。…そうだね』
『…なんかあったの?』
『ううん、何も』
『嘘つき。…まったくもう。はい、これ』
『?』
『よくわかんないけど、これあげるから仲良くしなさいよ。後輩君と』
ほんとはあんたと一緒に行こうと思ってたんだけどね、と言って半ば押し付けるようにして友人がくれた、映画の前売り券だった。
千香という女友達は大の映画好きで、仲の良い静音は時折こうして誘われることがあった。
自分はそんなに気遣われるほど酷い顔をしていたのだろうかと友人に対して申し訳なく思うと共に、せっかく貰ったこの券を使わずに終わらせるわけにもいかないと考えていた。
彼女の気遣いを無碍にはできない。
気分は暗澹たるものだったが、チャンスはチャンス。そうでなくとも休日に彼と一緒にいられる理由ができたと思えばいくらか気持ちもこの夏空のように晴れてきた。
問題は、守羽の側に予定があるかどうかだ。
映画の上映は明日、日曜日。
学生であれば誰かしらと遊ぶ予定があってもおかしくはない。特に四門との一件以来、由音とは仲良さそうにしているところをよく見る。
断られてもおかしくはない。
そう思うと不安が膨れ上がっていくが、誘う前から弱気になっていても意味がない。
勇気を出して、メールではなく電話で勝負を掛ける。
最後の廃ビルを“復元”し終わったその場所で、静音は携帯電話を耳に当て彼が出るのを待つ。
すぐに出てくれた。
『はいもしもしっ、どうしました?』
少し慌てた様子で、口に何か入っているかのようなくぐもった調子で守羽は電話に出た。
もしかして食事中だっただろうか。腕時計に目をやれば、もう時刻は昼になる頃。その可能性は大きい。
悪いことをしたかも。
出だしから申し訳なさを抱えたまま、それでも静音は件の用件を伝える。
「うん、あのね。明日って時間、あるかな?」
『明日ですか?…はい!全然大丈夫ですよ』
電話の向こうで「うぉいっ!?」と戸惑う声が遠くから聞こえた。どこか店で食事しているらしい。
『何かありましたか?あ、買い物とかですか?荷物持ちでもなんでもしますよ!』
「ううん。友達から映画の前売り券を二枚貰ったから、一緒にどうかなって」
『映画ですか、わかりました。それじゃ、明日…えっと待ち合わせ場所とかはー』
それから二人で手早く待ち合わせ場所と集合時刻を決め、電話を切った。
「…………ふうー」
大きく息を吐き、緊張から握り込んでいた拳を開く。じっとりと汗が滲んでいた。
不安一杯だったわりには、とんとん拍子に事が進んで決まってしまった。これが取り越し苦労というものか。
何はともあれ誘えてよかった。
今度は安心と共に期待が膨らみ、途端に明日が楽しみになる。
彼女にしては非常に珍しく、スキップのようにステップを踏みながら静音は廃ビル群からその場をあとにした。
「というわけだ由音、悪いな」
「どういうわけだっ!?」
携帯電話をしまい、俺は注文したラーメンに再び手を付ける。
「静音さんからのお誘いでな、お前との先約を反故にしてでも優先すべきことだろ?」
明日は由音と美味い店を探して街中を散策するという予定があったが、静音さんからのお誘いとあらば俺にとっての最優先事項はこっちだ。
「おいおい、オレとのデートそっちのけでセンパイの方になびくのかよ裏切り者!!」
「色々と人聞きが悪いからやめろ」
男同士でデートとか寒気がする。せめて遊びに行くとか言え。
「埋め合わせはまた次の機会にするさ、勘弁な」
割り箸を持ったまま両手をパンッと合わせて謝る。
しかしこの言い方もまるで彼女のご機嫌をとる彼氏みたいな図で嫌だな…彼女いたことないけど。
「ま、センパイじゃ仕方ねえな!勘弁してやるよ!」
「…意外にあっさりしてんな」
てっきりもっとうるさく食い下がるかと思っていたのに。
熱々のラーメンを冷ますこともなくずるずると食べる由音が、高速で咀嚼して飲み込んでから、
「お前がセンパイ至上主義なのは知ってるしな!オレだって守羽と静音さんとの仲を邪魔する気はねえよ!」
「……」
こいつは時々こうなる。
いつもは喧しいくらいにあれやろうここ行こうと誘ってくるくせに、俺の予定や優先順位に食い込もうとはしてこない。おかしなところで尊重してくるおかしなやつだ。
あっけらかんとした調子で由音はまたラーメンをすする。俺は少し猫舌だからそうやって熱い内にどんどん食べられるのは少しばかり羨ましい。
「がははは!!いいねいいねえ、青春してるねえこの坊主は!」
汗だくで麺を茹でているここの店長らしきおっちゃんがカウンター越しに大笑いしている。俺達の話を聞いてたのか。由音の声もでかいからな。
ここは以前静音さんも含めた三人で来たこともある、細い路地をいくつか曲がった先にある隠れ家的な雰囲気のあるラーメン屋だ。あれから俺もここの空気と味が気に入ってよく来るようになった。
「坊主じゃないですよ店長」
「おうそうだったな!とにかく女はちゃんと手を引いて先導してやれよ!それが男の見せ所ってヤツよ!わかったかシュウ坊!?」
正直その年中無休で熱い情熱と精神を持った元テニスプレイヤーみたいな呼ばれ方は好きじゃないんだが、坊主坊主と毎回言われるよりはマシかと思いそれを受け入れている。
店長の人柄自体は好きだからな。俺もそのくらいフレンドリーな人間になりたい。
とりあえず曖昧に頷いておくと、満足したのか店長の標的は由音に向いた。
「おうユイ坊!お前はなんか浮いた話の一つねえのか、あ!?」
「ないっすね!つーかおっちゃん、その呼び方はなんか赤い配管工のヒゲ野郎に一番最初に踏まれる敵キャラみたいだからやめて!!」
由音も呼ばれ方には思うところがあるらしい。確かに母音が同じだから発音上ク○ボーっぽく聞こえる。
「とりあえず、そういうわけだからよ」
由音と少し遅れて食べ終わった俺がラーメンの椀を置いて立ち上がる。
「了解!楽しんでこいよ!」
勢いよく立ち上がった由音が、親指を立てた右手を突き出してくる。適当に片手で返してお勘定をしようと店長を振り返る。
「…」
店長も汗だくなまま豪快な笑顔で由音と同じポーズを取ってぐっと片手を突き出していた。仲良いねあんたら。
「あとさー守羽」
店を出て大通りへ向かう道すがら、由音が呆けた面で空を見上げながら言う。
「お前、別にそんな強くなくてもいいんじゃねえの?」
「は?」
突然の発言内容に俺は首を傾げる。
何を言ってんだこいつは。
「強くなりたがってる理由は大体わかってっけどさ、別にお前一人が特別強くなくたって問題ねえだろってこと!」
「…ああ」
そういう話かと、俺は一人で納得する。
午前の組み手の時の俺の様子から、由音はそう言っているのだろう。
世の中で生きていくのに、そういった類の力は基本的に必要無い。
だが俺達には絶対的に必要だ。俺達の周囲には世の中で表沙汰にならない現象や存在がひしめいているから。だから、強いに越したことはないのだ。
弱いと、肝心な時に何も出来ない。
「守りたいもんとか、倒したいやつとか。そういうのがいたら一人じゃなくて周りを頼ればいいだろ?オレとかよ!」
俺の胸中の思いを読み取ったかのようにそう続けた由音に、俺は半笑いで肩を竦める。
「俺の個人的な問題で、助けてくださーいって言えばどんな無茶振りでも協力してくれるってのか?」
「おうよ!!」
「なんでだよ…」
思わず呆れ返る。お人好しにも程があるし、自分のことを軽んじ過ぎてる。
ここでの俺が言う個人的な問題ってのは、大体命が掛かってる。下手を打てば死ぬことだってある話だ。
いくら死にづらいこいつでも、そういうのには巻き込みたくない。まあ、約束の件もあるから黙ってるわけにもいかなくなってるんだが…。
「いのちはだいじに、な」
「オレはいつでも『ガンガンいこうぜ』だからな!」
「ザオラルのある世界じゃねえんだから、少しは考えろってことだ」
この話はこれ以上続けるべきではない。そう思い適当に茶化して会話を終了させる。
わかってはいたが、駄目だった。
神門守羽は基本的に親しい人間以外は遠ざける傾向がある。本人にその自覚があるかどうかは不明だが、『人外騒ぎに巻き込みたくない』という思いがそうさせているのは間違いない。現に学校でも同級生らとは距離を置いているし、近づこうとする分だけ遠ざかろうとする。
そうして、ある一定の距離まで踏み込んだ者に対しては、『守らなければならない』という一種の強迫観念のようなものに突き動かされるようになる。
故に、守羽は強さを求める。
それはわかっていた。止めようとは思わない。
ただ、守羽の『強さ』の足しになれればとは思っている。
だからこそ今その話を出したのだが、結果はこれだ。
守羽は自分以外の『強さ』に頼るのを過度なまでに遠慮する。
プライドとかではない。これも巻き込みたくないという思いからくるものだ。
ならば力になりたい者はどう動くべきか。
(仕方ねえなあ)
やや前方を歩く守羽を横目で見据えながら、由音は軽く溜息をつく。
言うべきかどうか迷ったが、言わないべきだな。
そう決める。
(悪いけど勝手に片付けちまうぜ、守羽)
こちらを窺っている人ならざる者の視線。
“憑依”を少しだけ発揮させて展開した五感が掴んだ、人外の気配。
わざわざ守羽に言う必要は無い。どうせ言ったら自分を遠ざけて一人でどうにかしようとするだろう。今の時点ではまだわからないが、自分か守羽かのどちらかであれば、用件があるのはきっと守羽の方だろう。
おそらく守羽もその考えに行き着く。だからこそ由音を巻き込まないようにする。
由音はそれが気に食わない。
だから由音は独自に動く。
守羽の手を煩わせるまでもない。
恩人の背中を守るくらい、口に出さずとも勝手にやっていいだろうと自身に言い聞かせながら。
「どういうわけだっ!?」
携帯電話をしまい、俺は注文したラーメンに再び手を付ける。
「静音さんからのお誘いでな、お前との先約を反故にしてでも優先すべきことだろ?」
明日は由音と美味い店を探して街中を散策するという予定があったが、静音さんからのお誘いとあらば俺にとっての最優先事項はこっちだ。
「おいおい、オレとのデートそっちのけでセンパイの方になびくのかよ裏切り者!!」
「色々と人聞きが悪いからやめろ」
男同士でデートとか寒気がする。せめて遊びに行くとか言え。
「埋め合わせはまた次の機会にするさ、勘弁な」
割り箸を持ったまま両手をパンッと合わせて謝る。
しかしこの言い方もまるで彼女のご機嫌をとる彼氏みたいな図で嫌だな…彼女いたことないけど。
「ま、センパイじゃ仕方ねえな!勘弁してやるよ!」
「…意外にあっさりしてんな」
てっきりもっとうるさく食い下がるかと思っていたのに。
熱々のラーメンを冷ますこともなくずるずると食べる由音が、高速で咀嚼して飲み込んでから、
「お前がセンパイ至上主義なのは知ってるしな!オレだって守羽と静音さんとの仲を邪魔する気はねえよ!」
「……」
こいつは時々こうなる。
いつもは喧しいくらいにあれやろうここ行こうと誘ってくるくせに、俺の予定や優先順位に食い込もうとはしてこない。おかしなところで尊重してくるおかしなやつだ。
あっけらかんとした調子で由音はまたラーメンをすする。俺は少し猫舌だからそうやって熱い内にどんどん食べられるのは少しばかり羨ましい。
「がははは!!いいねいいねえ、青春してるねえこの坊主は!」
汗だくで麺を茹でているここの店長らしきおっちゃんがカウンター越しに大笑いしている。俺達の話を聞いてたのか。由音の声もでかいからな。
ここは以前静音さんも含めた三人で来たこともある、細い路地をいくつか曲がった先にある隠れ家的な雰囲気のあるラーメン屋だ。あれから俺もここの空気と味が気に入ってよく来るようになった。
「坊主じゃないですよ店長」
「おうそうだったな!とにかく女はちゃんと手を引いて先導してやれよ!それが男の見せ所ってヤツよ!わかったかシュウ坊!?」
正直その年中無休で熱い情熱と精神を持った元テニスプレイヤーみたいな呼ばれ方は好きじゃないんだが、坊主坊主と毎回言われるよりはマシかと思いそれを受け入れている。
店長の人柄自体は好きだからな。俺もそのくらいフレンドリーな人間になりたい。
とりあえず曖昧に頷いておくと、満足したのか店長の標的は由音に向いた。
「おうユイ坊!お前はなんか浮いた話の一つねえのか、あ!?」
「ないっすね!つーかおっちゃん、その呼び方はなんか赤い配管工のヒゲ野郎に一番最初に踏まれる敵キャラみたいだからやめて!!」
由音も呼ばれ方には思うところがあるらしい。確かに母音が同じだから発音上ク○ボーっぽく聞こえる。
「とりあえず、そういうわけだからよ」
由音と少し遅れて食べ終わった俺がラーメンの椀を置いて立ち上がる。
「了解!楽しんでこいよ!」
勢いよく立ち上がった由音が、親指を立てた右手を突き出してくる。適当に片手で返してお勘定をしようと店長を振り返る。
「…」
店長も汗だくなまま豪快な笑顔で由音と同じポーズを取ってぐっと片手を突き出していた。仲良いねあんたら。
「あとさー守羽」
店を出て大通りへ向かう道すがら、由音が呆けた面で空を見上げながら言う。
「お前、別にそんな強くなくてもいいんじゃねえの?」
「は?」
突然の発言内容に俺は首を傾げる。
何を言ってんだこいつは。
「強くなりたがってる理由は大体わかってっけどさ、別にお前一人が特別強くなくたって問題ねえだろってこと!」
「…ああ」
そういう話かと、俺は一人で納得する。
午前の組み手の時の俺の様子から、由音はそう言っているのだろう。
世の中で生きていくのに、そういった類の力は基本的に必要無い。
だが俺達には絶対的に必要だ。俺達の周囲には世の中で表沙汰にならない現象や存在がひしめいているから。だから、強いに越したことはないのだ。
弱いと、肝心な時に何も出来ない。
「守りたいもんとか、倒したいやつとか。そういうのがいたら一人じゃなくて周りを頼ればいいだろ?オレとかよ!」
俺の胸中の思いを読み取ったかのようにそう続けた由音に、俺は半笑いで肩を竦める。
「俺の個人的な問題で、助けてくださーいって言えばどんな無茶振りでも協力してくれるってのか?」
「おうよ!!」
「なんでだよ…」
思わず呆れ返る。お人好しにも程があるし、自分のことを軽んじ過ぎてる。
ここでの俺が言う個人的な問題ってのは、大体命が掛かってる。下手を打てば死ぬことだってある話だ。
いくら死にづらいこいつでも、そういうのには巻き込みたくない。まあ、約束の件もあるから黙ってるわけにもいかなくなってるんだが…。
「いのちはだいじに、な」
「オレはいつでも『ガンガンいこうぜ』だからな!」
「ザオラルのある世界じゃねえんだから、少しは考えろってことだ」
この話はこれ以上続けるべきではない。そう思い適当に茶化して会話を終了させる。
わかってはいたが、駄目だった。
神門守羽は基本的に親しい人間以外は遠ざける傾向がある。本人にその自覚があるかどうかは不明だが、『人外騒ぎに巻き込みたくない』という思いがそうさせているのは間違いない。現に学校でも同級生らとは距離を置いているし、近づこうとする分だけ遠ざかろうとする。
そうして、ある一定の距離まで踏み込んだ者に対しては、『守らなければならない』という一種の強迫観念のようなものに突き動かされるようになる。
故に、守羽は強さを求める。
それはわかっていた。止めようとは思わない。
ただ、守羽の『強さ』の足しになれればとは思っている。
だからこそ今その話を出したのだが、結果はこれだ。
守羽は自分以外の『強さ』に頼るのを過度なまでに遠慮する。
プライドとかではない。これも巻き込みたくないという思いからくるものだ。
ならば力になりたい者はどう動くべきか。
(仕方ねえなあ)
やや前方を歩く守羽を横目で見据えながら、由音は軽く溜息をつく。
言うべきかどうか迷ったが、言わないべきだな。
そう決める。
(悪いけど勝手に片付けちまうぜ、守羽)
こちらを窺っている人ならざる者の視線。
“憑依”を少しだけ発揮させて展開した五感が掴んだ、人外の気配。
わざわざ守羽に言う必要は無い。どうせ言ったら自分を遠ざけて一人でどうにかしようとするだろう。今の時点ではまだわからないが、自分か守羽かのどちらかであれば、用件があるのはきっと守羽の方だろう。
おそらく守羽もその考えに行き着く。だからこそ由音を巻き込まないようにする。
由音はそれが気に食わない。
だから由音は独自に動く。
守羽の手を煩わせるまでもない。
恩人の背中を守るくらい、口に出さずとも勝手にやっていいだろうと自身に言い聞かせながら。