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第一章 『白い息』

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第一章 「白い息」

 
 虐殺から三年後。
 向かいの機関車が噴き出す煙がモクモクと灰色の空に向かって消えて、そのお返しに小さな白い点々とした雪が雑踏がひしめくプラットホームに降り注いでいた。
 まだ大きい黒い毛皮帽である「ウシャンカ」をかぶりながら大きなコートに身を包み、白い息を包むような厚い手袋に十四の少女――アネ=ソッカネン二等兵は覆われた掌に吹きかけた。
 出発までまだ時間はある。アネはまるでこれから中学校に入学するような心情で、自分を異郷の地まで連れて行ってくれるであろう機関車を待った。
 アネが軍隊に現地召集として引っ張り出されたときにはダイマン事変は半ば佳境に突入しており北中支軍はダイマンの喉元近くまで進撃していた。
 身を針で突かれるような寒さを感じ、いずれ現れるだろう機関車を目視しようとアネの瞳は線路の彼方を向いた。まだ機関車は来ないらしい。アネはそっと舌打ちをし、まわりを見回す。
 駅は出征する兵士とそれを見送る家族とでごった返しており、あちこちから「万歳、万歳」という酔っ払い特有のダミ声が響いていた。アネはそれらに流すような眼差しを向け、小さな声で誰にも聞かれぬように呟いた。

 うるさい――。

 アネの家族は一人も来ていない。父は先の内戦で戦死し、母は妹を養うことで精一杯だった。家を出ていくとき、母に向かってアネは「頼むから来ないで」と突け放すように云い捨てた。

 ほんとうは来てほしかったのに――、馬鹿みたい――。

 すると甲高い汽笛の音が遠くの方から聞こえてきた。とうとう機関車が来たのだ。そんなとき、ふとプラットホームに目線を移したときに目に入ってきたのが金髪の女性と自分とさほど歳の変わらない少年が抱き締めあっている光景だった。
 少年の着ている服が自分と同じ軍隊のものであることから彼も少年であることが容易に予想ができた。女性は少年より年上のような印象を受けた。母親にしては少し若すぎるようにも見えなくもない。
 女性は少年から離れ、目を瞑り少年の小さな掌を握りしめた。そして何やらせわしなく唇が動く。それに合わせて少年も目を閉じ、同じように唇を動かし始める。
 それが終わったかと思うと女性は少年の額に口づけをし、十字架のネックレスを少年の首にかけてやる。そこで初めて女性が聖書に書かれたことを云っていたことがアネには判った。
 少年は瞳に涙を浮かべ女性に抱きつき、唇を重ねる。アネにはどうしても二人が家族のようには見えなかった。
 間もなく白い布のような煙を帯びた機関車がアネたちの待つプラットホームへ滑り込んできた。アネは機関車に乗り込むと同時に、何か大きなものの中に入っていくような厳かな気持ちになりながらその小さな足を車両のなかへ伸ばしていった。
 ダイマン陸軍第97軍団前線司令部

 ――私は地獄から還ってきた。
 否、今も地獄にいる――。

「マリー准尉、参りました」
 マリーは『参謀室』と書かれた部屋の扉をゆっくり叩き、静かな口調で云う。すると奥から低い男の声が返ってきた。
「おう、入れ」
その声とともにマリーは「はっ」という短い返事をしてドアノブを回し中へ入った。中に入るとすぐにきらびやかな勲章をジャラジャラつけた参謀が黒い軍服を着て、葉巻を口に咥えて立っていた。
 机の上には本国の一流の職人が手掛けたガラクタが雑多に置かれておりとてもマリーには軍人の机には見えなかった。
 参謀は無精ヒゲを生やした口をニッと微笑ませてマリーを見る。その表情にマリーは激しい嫌悪感を覚えた。やがて将校は口を開く。
「君の昇進が決まったよ」
「そうでありますか」
 マリーは特に嬉しげな様子もなく答えた。
「これで君は晴れて少尉になったわけだ。おめでとう」
「はっ。参謀殿の大隊本部への上告まことに感謝いたします」
「ん?」
 参謀は怪訝な顔をしながらマリーに近づいた。
「どうかしたのかね。昇進が嬉しくないのか?」
「いえ、別になにも……」
「しかし…」
 参謀はマリーの体を舐めるように見て、合点がいったように掌に拳をポンと叩いた。
「勲章が、この勲章が気にいらないのか?」
「何を急におっしゃるんです?」
「だってそうじゃないか。私の軍服にはホレ、こんなにたくさんあるのに。君の方は何だ。一っ欠片もないじゃないか」
 参謀は乱暴に胸倉を掴んで先の舐めるような目線を胸の辺りに落とす。マリーのふくよかなそれを見据えるその眼差しは男そのものであり、欲望の炎がたぎっているのが見て取れた。 
「離してください。憲兵を呼びます」
 マリーが冷ややかな声を上げると参謀はまたニィっと微笑み、手を離して机の方へ戻ってゆく。マリーは少し乱れた軍服を直して参謀の後をついて行く。
 参謀は机によっこらせとすわり、少し出鼻をくじかれたような声で云った。
「〈ソルーネ・ライン〉を知っているかね?」
 ソルーネ・ライン。それは我がダイマン国防軍が総力を結集して作り上げた十二キロにわたる塹壕線である。ソルーネとは、北方戦線における最後の砦として本陣地創設に多大なる貢献を果たしたソルーネ・ヴィリバルド第2総軍元帥の名から取ったものである。
「は、知っております。現在、北中支の勢力が我が陸軍の補給路を分断するために密かに狙っているものであります」
「そうだ。だからソルーネ・ラインが取られれば我がダイマンは北中支に敗北したも同然。北方戦線はたちまち総崩れとなる」
「判っております」
 マリーの軍帽を握りしめる手に力がぐっと入る。何を云おうとしているのか、嫌でも判ったからだ。
「君をそこへ転属させる」
「は?」
「見給え」
 参謀は机を飛び越え、目の雨の巨大な地図に手を置く。
「ソルーネ・ラインの五百キロ前方にある、エファナティカ・ラインというものがある。ここがつい三日ほど前に敵に突破された。エファナティカ・ライン、我々はEラインと呼んでいるが、このEラインが突破されたとなると、敵は間違いなくソルーネ・ラインへ進軍してくる」
「いつごろ?」
「我が諜報員の調査結果によると、見積もって」
 地図から目線をマリーに移し、真剣な表情になって云う。
「あと半年、かな」
「半年でありますか」
「まぁ、あくまで出来立てホヤホヤの赤子のような組織の諜報員たちだからな。信用はできんが、まぁ、こんなもんだろうな」
 参謀が短くなった葉巻を指先で持ち、ガラスの灰皿にねじ込んだ。
「つまり私はその死地へ行けばいいのですね?」
「え?」
 参謀は長い葉巻に火を点けようとマッチを擦するとマリーの表情を驚いたように見つめた。
「命乞いしないのかい?」
 不満げな表情の参謀にマリーは微笑で答える。
「いえ…どうせ命を片っぽ戦場に置いてきた身です。今さら内地に戻って女の子らしく振る舞える自信もありませんし、それに……」
 口を閉じた後、さきほどの微笑を殺し、無表情に戻す。
「それに?」
「命乞いをしたところで、あなたの玩具にされるだけなんて嫌なので」
 マリーは軍帽をかぶり、敬礼をして立ち去ろうとするのを参謀は慌てて止めた。
「待ちたまえっ」
「はっ?」
 マリーは振り返り様に参謀を見つめる。参謀は机の中からマップケースを出し、机にポンと置いた。
「この中に地図と、作戦概要をしたためた書類が入っている。0800時、そうだな、今から三十分後に同戦線への転属部隊とともにジープに乗れ。場所なら書いてある」
「は、了解しました。危うく何も判らずに飛び出すところでした」
 マリーは決して微笑むこともなく回れ右をして机まで戻り、マップケースを肩から下げた。
「いや、私もな、下衆なことを考えてしまった。許してくれ、戦争なんだ」
「そうですね、では」
 マリーはさきほどのような無表情で敬礼をし、踵を返して部屋を出ていった。
「あぁ、もったいない。あれほどの体を持ってして……」
 参謀は既に火の消えたマッチを灰皿に棄て、また新しいマッチを擦った。
「まぁ、いくらでも代えはいるからな」
 にやけるように微笑み、葉巻にじっくりとマッチの火を近づける。煙草とは違った葉巻独特の香りが辺りに広がると同時に先端が赤く染まる。深く息を吸い込み、参謀が美味そうに息を吐くとモクモクと煙が現れたかと思うと天井へプカプカと消えていった。
3, 2

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