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4.

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 咲子は頭を抱えていた。それはものの例えではなく、テーブルに肘をついてそんなポーズをしていた。そして目の前の、真っ白なノートの一ページ目を睨みつけながら、時おり苦しげに低いうなり声を漏らしている。
 かれこれ一時間、咲子はこの格好のまま動いていない。悩みすぎて疲れ切った思考はとっくに停止していたのだが、やめ時さえ判断できないまま今に至っている。
(あー、無理だー……)
 理性的な判断というよりは、体力あるいは精神力の限界が訪れたことで音を上げた。顔から手を離して天井を仰ぎ、一息つこうとしたもののコーヒーは冷めてしまって飲めたものじゃない。お茶請けのクッキーは買い置きを切らしてしまい、ネット回線はプロパイダーの障害でまったく繋がらない。
(あーあ、だめだめダーメ。ぜんぜんダメだ)
 咲子はゆっくりと背中から倒れ、冷たいフローリングを服越しに感じた。今日こそは書き出せる気がしていたのに、この体たらく。自分の不甲斐なさに腹を立てたこともあったが、今はそんな体力や気力も残っていない。
「河瀬さん、やっぱり難しいですよ……」
 心の中でつぶやいたはずの愚痴が無意識に口から漏れていたが、これは今に始まったことではない、最近はこうして独り言をつぶやくことが多く、そのあとは必ず恥ずかしくなってしまう。
(難しいよぉ……もう……)
 心の中で言い直し、咲子は目を閉じてほんの少しだけ眠気に身体を預けて、あの日彰人に言われたことを思い出していた。

★ ☆ ★ ☆

『作詞、してみない?』
 すでに時刻は夜中の三時。眠気の限界を超えて朦朧としていた咲子の意識は、彰人のその言葉で平常な状態に引き戻された。
「さく、作詞? ……歌詞を考える、あの作詞?」
『そうそう、その作詞』
「私が? ど、どうして……!」
『そんなに驚かなくても』
 とんでもない発言をした彰人はひとまず無視し、咲子は更新ボタンを押した。咲子が歌った『赤ずきんの幕間劇』はすでに四桁に到達していた。最初の勢いこそ落ち着いたものの、再生回数とコメントはまだ安定して伸びている。
『順番に説明していくと、まず今後のことだけど、この一回で辞めるなんてことはないだろう? せっかく鮮烈なデビューを飾ったんだ、ここからじゃないか。それに、もっと歌いたい、もっと多くの人に聴いてほしいと望んでいるはずだ』
「そんなこと、ありませんよ……」
『いいや違うな。明日は仕事、こんな時間なのにまだ起きて再生回数を気にしている。本当に興味がないのなら、もうとっくに寝ているはずだ』
「それは……」
『僕も同じだよ、投稿した夜はずっとパソコンに張りついて確認しているなぁ』
 否定したものの、彰人が言ったことは図星だった。鼓動はまだ早かったし、気分も高揚している。どれだけの人たちに聴いてもらえるのか気になり、寝ている時間さえもったいないと咲子は思っていた。今だって彰人とやり取りをしている間に二回も更新ボタンを押していて、累計すると凄まじい回数をクリックしていることになる。
『まあ何にせよ、僕としても稲枝さんには自由に活動してほしいと思う。渡したマイクとレコーダーで録音したら、投稿は僕がするよ』
「え、本当ですか?」
『もちろん編集もね』
「でも配線が……」
『機種ごとに配線の方法を説明したマニュアルを送るよ。それでもわからなかったら、またいっしょに行こう』
「本当ですか! ありがとうございます!」
 咲子の気持ちなんて彰人はすでに察している。このやりとりで、咲子の歌への積極性が高いことが確認できた。
『今回、稲枝さんの歌を聴いて改めて思ったよ。やっぱり僕の曲を歌ってほしい』
「えっと、ちょっと照れますね……それで、作詞の話に繋がるんですか?」
『そうそう。前にも言ったとおり、新曲を作ろうと思う。まずはボーカルシンセサイザーに歌わせてからだから、当分あとになるけど……ただ、僕は作詞が苦手なんだ。言葉選びが下手だから伝わりにくい歌詞になってしまう。それに時間がすごくかかる、良いことなしだ』
「それで私が、ですか?」
『読書が好きなんだろう? 今までに短編小説とか書いたことあるんじゃないの? その延長で書けたりしないかな?』
「小説とか、書いたことありません」
『でも詩は書いたことあるでしょ? 夜中の妙なテンションで一気に書いて、次の日の朝に読み返して顔を真っ赤にしたこと、あるでしょ?』
「……否定はしません」
『同じ感じじゃないのかなぁ』
「うーん……」
『まあ冗談みたいに言っているけど、本当に作詞をしてほしいと思う。せっかく歌うんだったら自分の考えた歌詞とかいいと思わない? 歌に加えて、歌詞でも自分を表現できるんだよ?』
 彰人の提案はとても魅力的であった。自分で作詞をするということは世界観を構築する手間が省ける、それ以上に、彰人が言うように自分が書いた歌詞、描いた物語を歌に乗せて表現できるのだ。そうしてできた曲を歌い、今回のように絶賛されたとしたら――と考えると、咲子はごくりと喉を鳴らしてしまう。どれだけの高揚感を得るのか想像できなかったし、何より歌うことから抜け出せなくなる気がした。
「そ、そうですね、少し考えてみましょうか……ですが、期待しないでくださいね? 作詞なんて初めてですし、最悪、不採用でも構いませんので」
『それはこちらも同じことだよ。僕が作った曲を却下するのも、稲枝さんの自由だ』
「うーん、それはさすがにないと思いますが……そう言えば、作詞か作曲、どっちを先にするものなんですか?」
『一般的には作曲が先らしいけど、正解はないみたいだよ。僕は作詞をしてから作曲もしたこともあるし、心配しないでいいよ』
「わかりました……やってみます」
 漠然とした不安が込み上げていた。声を褒められたようなアドバンテージもない、今回は正真正銘ゼロからのスタートだ。
『よし、なら一旦はゴールデンウィークの最終日を締め切りとしよう。もちろんできていなくてもいい、メリハリをつけるための一応の締め切りだ』
「わかりました。うう、できるでしょうか……」
 不安を紛らわすため、消音した状態で動画を再生してコメントを読むことにした。画面を埋め尽くすように流れるコメントをできる限り読もうと、目を細めて、時には再生を止めて凝視する。
 そこには、どうしても気になることがあった。
「うーん、河瀬さん」
『ん? なに?』
「私の声のこと、特に触れられていませんね……」
 彰人が「惚れた」とまで言った咲子の声は視聴者には無反応だった。むしろ『個性を感じない声』というコメントがついているぐらいだ。
『おかしいなぁ……僕だけなのかな』
「やっぱり、そういうフェチですか……」
『フェチって言うな、フェチって。そんなことより、もう寝たほうがいいんじゃない?』
「そうですね……て、明日は月曜日じゃないですか! もうこんな時間……! 起きられるかなー……」
『遅刻はどうすることもできないけど、仕事中に居眠りしていたら起こしてあげるよ。もちろんそのあとは小言を言うけどね』
 彰人の小言はマンツーマンのときに何度も聞いている。嫌らしい口調と皮肉な内容、けれど的確すぎて言い返すことができない、そんな小言。咲子はぜったいに居眠りするまいと決意して通話を切り、携帯電話のアラームの音量を最大に設定し、ロフトベットを駆け上がった。

★ ☆ ★ ☆

「んっ……」
 咲子は背中から伝わる痛みで目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしく、視界に入る照明に目をこらしながら時計を確認すると日付はとっくに変わっていた。
 数日前の、動画が投稿された日のことを夢で見ていたようだ。それは夢とは思えないほど鮮明で、つい先ほどの出来事のように感じていたが今日はすでに木曜日、もう三日も経っていた。
(うわ、早く寝ないと……またあくびが出ちゃう……いたっ)
 上半身を起こそうとしたとき、腹部に走った痛みに咲子は顔を歪ませた。苦悶の表情のまま鈍い動きで立ち上がり、まるでネジが切れかけた人形のように小刻みに震えながらロフトベッドを上がった。
(うぅ、ちょっと張り切り過ぎなのかなぁ……)
 きりきりと痛むお腹を両手で擦りながら、咲子はここ数日の行動を思い返した。
 咲子を苦しめる痛みは、作詞をすることになった次の日の夜、つまり月曜日の夜から歌唱力向上のため本格的に取りかかった腹筋による筋肉痛だった。手軽にでき、かつ費用のかからない方法を調べたとき、腹筋や背筋に効果があることを知った咲子はすぐにそれらを採用した。
 これまで運動らしい運動を何一つしたことがなかった咲子は、一日の目安の半分にも満たない回数で限界を迎え、しかも日常生活に支障が出てしまうほどの筋肉痛になってしまう。それでもまだ三日目ではあったが、毎日続けている咲子には並々ならぬ意欲が感じられた。
 他にも基礎体力の向上としてジョギング。肺活量を上げる方法を調べた結果、ジョギングが一番簡単だった。けれど出社する前、あるいは帰宅後にジョギングをするほどのモチベーションがない咲子は、ひとまず休日のみという目標を掲げた。
 そして知識のない咲子でも知っていた、腹式呼吸。喉を使わず、お腹から声を出すように意識し、鼻から息を吸い、口から吐き出す。疲れず、どこでもできて、しかも無料という夢のようなトレーニングではあったが、今ひとつ効果が見えないところが難点だった。そもそも自分のやり方が正しいかどうかも疑わしい、なんて思っているぐらいだ。
(痛いけど……でも、がんばらなくちゃ)
 筋肉痛という形で効果が見える腹筋と背筋が今のところ最も有力な歌唱力向上の方法だった。疲労や筋肉痛はつらかったが、それが歌唱力向上に結びついていると考えるようにして充実感を得ていた。
 これまで仕事を最優先していた生活が、少しずつ歌を中心にした生活になりつつあることに咲子はまだ気づいていない。

「ふぁ……」
 咲子は今日何度目かのあくびをした。口を抑えた手で目をごしごしと擦り、ちらり、ちらりと横目で周囲を確認し、誰にも見られていないことに安堵した。
 月曜日からテストを始めて四日目の木曜日。彰人が言っていた通り、慣れてしまえば思考が止まっていてもテストはできたので、それが余計に眠気を加速させた。彰人はというと、すでに咲子とのマンツーマンを解いて新入社員全員の指導をしていた。今は咲子の隣にいることはほとんどなく、テストや発生したバグの修正で手が止まっている新入社員を個別で教えている。
 テストを行うようになり、咲子は特に問題なく作業を進めていた。その途中でいくつかバグが発生したものの、すぐに原因を突き止めて修正することができた。
(きっとバグが出てもすぐに解決できる……河瀬さんの言う通りだ)
 どうやら自分が思っている以上に理解しているらしい。テストの消化も良い、もう一番遅れているなんてことはないはずだ。これまで危機感を持ちながら作業をしていた咲子に初めて余裕ができ、同時に慢心が生まれた。少しペースを落としても良いだろう、もっと遅れている人が他にいるのだからと悪魔の囁きが咲子を誘惑し、キーボードを叩く手を少し緩めて意識を別のこと――作詞に向けた。
 咲子は『赤ずきんの幕間劇』のような、ストーリー性の高い歌詞を書きたかった。となると主軸となるテーマ、あるいは構成が必要だと感じていた。
(コメディのような歌詞を作詞できる自信はない。悲しい歌は……歌いたくない、かも。うーん、どうしよう……)
 ボーカルシンセサイザーの曲はジャンルも様々だ。それを聴いた人が笑ったり、感動したり、悲痛な展開に涙したり、時には考えさせたり、とにかく幅広い。咲子は多くの動画を見て、そのレベルの高さを実感していた。『赤ずきんの幕間劇』なら、悪役であるオオカミを主役にして、赤ずきんとは結ばれないセンチメンタルな物語にまとめられている。赤ずきんとオオカミの性格にも意外性があり、改めて咲子は『赤ずきんの幕間劇』が好きになった。
(私も童話をモチーフに考えてみようかな……あーでも、影響受けたのが見え見えだしなぁ……)
 作詞したものを見せたとき、意味ありげな笑みをニヤリと浮かべる彰人の姿が容易に想像できた。
 カタカタとキーボードを叩きながら、あれこれと考える。消去法で絞っていくうちに咲子の頭の中にある一つのテーマが残り、気づけば手が止まっていた。
(……ラブソングにしたい)
 思い返せば恋愛物、特にボーイミーツガールな内容の小説を読むことが多い。それは憧れではあったが、咲子自身、恋愛経験がないというわけではない。恋人はこれまで一人もいなかったが、学生のころはずっと共学に通っていたし、異性と話したこともちゃんとある。胸に秘めたままではあったが、初恋だって経験はしている。ただ、人見知りの性格が災いして同年代の女性と比べると経験はずっと少ない。
 一度考え出せばどんどんと記憶がよみがえる。大学生のころ、講義でたびたび席が近くなる男性がいて、何度か会話をしたことがあった。ある日、その男性に昼食を誘われた。そのときの少し照れた様子の男性の姿を咲子は今でも覚えている。けれど驚きのあまり断ってしまい、以降は交流がなくなってしまった。他にも同じゼミの同期生に突然告白され、その場で断って気まずくなってしまったこともあった。
 今になって思うと、昼食を誘った相手はこちらに好意を寄せていたのかもしれない。たとえそうでなくても、何らかの感情があったはずだ。ゼミの同期生は罰ゲームだったのかもしれない。でなければ、まったく接触のない相手から告白なんてされるはずがない、と思いつつも、今さらながら淡い期待を抱いている自分がいた。
(あ、これはいいかもしれない)
 もしあのとき昼食のお誘いを受けていたら、もしあのとき告白を承諾していたらと想像が膨らむ。もっと前後のストーリーを考えれば歌詞になるかもしれない。ようやく光明が差したことで仕事中にもかかわらず意欲が上がってしまい、思い出した実体験を書き留めるためにテストの確認事項が書かれた紙の余白にペン先を当てる。
「稲枝さん」
 びくり。咲子の身体が大きく上下に揺れた。いつの間にか彰人がすぐ隣にいて、一言で現実に引き戻された。
「は、はい!」
「手が止まっているようだけど、困ってる?」
「いえ大丈夫です、順調に消化しています!」
「そう。なら、別にいいけど」
 慌てている様子を悟られないよう、平静を取り繕おうとする咲子。そんな咲子を見向きもせず、彰人はフロアの時計を見ていた。
「ところで稲枝さんはお弁当? それとも外食?」
「お昼ですか? いつもお弁当作っています」
「ふぅん。今日は昼休み、何時に入る予定?」
「特に決めていませんが……普段は十四時ぐらいです。どうしてですか?」
 次に言った彰人の言葉は、咲子を心から驚かせた。
「今日、いっしょにお昼食べない?」
 同時に閃いた。
 ――作詞に使えるかもしれない。
 過去の経験ではなく、現在進行形で異性との関わりがあることを忘れていた。これを使わない手はない。
「はい、ぜひ!」
 すでに気分は昼休みなのか、咲子は見るからに浮かれていた。そんな咲子を彰人はこっそりとため息をつき、鋭い目つきで見つめていた。

 咲子が勤める会社の最上階はフロア一つを使い切る社員食堂になっている。値段は良心的、メニューも豊富ではあったが席のキャパシティーが社員全体に対して少なく、ちょうどお昼時となると混雑のピークを迎えて座る場所を見つけることすら困難だった。加えて持参したお弁当やコンビニで買った菓子パンを食べる者も利用するのでますます人が多くなってしまう。
 けれど営業時間を外すと途端に人が減り、仮眠する者もいるぐらいだ。なので、静かにお弁当を食べたいと思っている咲子は営業時間外の十四時以降を昼休みにしていた。
「河瀬さんは、お昼はいつもどうしているんですか?」
「外に行ったり、コンビニで買ったり、まあ適当かな」
 長方形のテーブルの席に座り、咲子はお弁当を広げる。今日の彰人はコンビニの日のようで、サンドウィッチと缶コーヒーをレジ袋から取り出した。
(どうして今日に限って、こんなお弁当を作ったんだろう……)
 日持ちする煮物を作り置きしておかずにすることが多い咲子だが、この日は特に煮物だらけだったので全体的に色合いが悪い。せめてプチトマトやブロッコリーがあれば多少はバランスが保てたものの、人に見せるためにお弁当を作っているわけではないし、一ヶ月続けた一人暮らしの自炊は手を抜くことを覚えていた。
「最近、どう?」
 味の染みた里芋を頬張りながら落ち込む咲子に、彰人は声をかけた。心なしか、いつもよりトーンが低い。
「……どう、と言いますと?」
「作詞のことだよ」
「あー……あんまり進んでないです」
 咲子は手を止めて答えた。後ろめたい気持ちからか、彰人を直視することができなかった。
「まずテーマが決まりませんね……ストーリー性の高い歌詞、まるで短編小説のようなものにしたいのですが、なかなかどうにも……」
「僕もそういうこと多いよ、一度悩むとしばらく止まっちゃうよね。稲枝さんの場合はそれこそ短編小説を書くようなものだから、未経験ならなおさら大変だろうね」
「うう、やっぱりそうでしたか……河瀬さんは、どんなときにインスピレーションが湧きますか?」
「それは曲を作ろうと思ったきっかけとか、そういうことを訊いてる?」
「はい、そうです。このままじゃ前にも後ろにも動くことができなくて……」
「そうだなぁ……僕は、他の人の動画を見ているときかな」
 この彰人の返事に、咲子は胸のざわつきを感じた。それは彰人の曲が心を揺さぶらないこと、完成度のわりに再生回数が伸び悩んでいることに対する推測が確信に近づいたからだ。
「動画ですか? どの辺りで湧くんですか?」
「この歌詞はいいなぁ、とか、この曲調はいいなぁ、とかだね。意欲が刺激されて、手と頭が動くようになる」
「そうですか……」
「稲枝さんは、本を読んでみたらいいんじゃないかな」
「本、ですか?」
「読書が趣味なんだよね? あれこれ悩むよりも、新しい本を買うとか、昔読んだ本を読み返してそこからヒントを得る、というのはどうかな?」
「うーん……影響を受けちゃいそうなので、それはやめておきます」
 その推測が間違っていてほしい、咲子はそう思っていた。けれど彰人の返事は推測を確信に変えるには十分すぎた。
 咲子はじっと黙って考えた。この確信を言うかどうかだ。彰人のことを考えると言うべきではあるが、そのときお互いの関係はどうなってしまうのか。またそれとは別に、自分の思惑も打ち明けなければならないのかもしれない。息苦しくなってしまうような不安が咲子にのしかかった。
「あ、そうだ。私、最近筋トレを始めたんです」
 少なくともこの場で言う必要はないことだ。黙り込んで疑問に思われることを恐れ、咲子は話題を変えることにした。
「筋トレ?」
「腹筋と背筋を鍛えることが歌唱力向上に繋がるそうです。今度の休みはジョギングもする予定です」
「それはすごいなぁ」
「私、今までまったく運動とかしたことなくって、まだ目安の半分ぐらいしかできないんです。今は筋肉痛で座るのもつらいですが、少しずつ鍛えていくつもりです」
「ふぅん、そうなんだ」
「それと腹式呼吸ですね。発声が良くなるとネットに書いていましたので、意識せずにできるようになりたいです」
「そうだね」
「あと、ようやく動画にコメントをしてみたんです。あれ楽しいですね、自分が書いたコメントが流れるのって見ていて楽しいですね。マイリストの意味もわかりました、つまりお気に入り登録のことなんですね」
「そうだよ」
「……私の話、興味ないですか?」
 彰人の態度が妙にそっけない。咲子なりに彰人が関心のありそうな話題を振っているのだが、こんな反応では咲子も気分を悪くしてしまう。
彰人は何も答えずサンドウィッチを食べ終わり、仕事中の目つきで咲子を見つめた。その視線に咲子は嫌な予感がした。彰人のこの雰囲気は、小言が始まる前兆だったからだ。
「稲枝さん、最近寝るのが遅いんじゃない?」
「え……?」
「どうなの?」
「は、はい……ちょっと遅いです」
「だろうね、あくびが多いよ。他の社員はまだ気づいていないようだけど。それに出社も遅くなったね。今までは十五分前には来ていたのに、ギリギリじゃないか」
「そう、ですね……」
「あと、悩んで手が止まることは減ったけど、別のことを考えて止まっていることが多い気がする。一般的に言うと、集中できていない」
「え、あ……はい」
「体調が優れないと思考が鈍ってくるからね。あるいはその逆、頭が疲れていると体調も崩しやすい。テストは順調だし、内容を理解できていて申し分ない。でもそこで油断してはいけない。研修は実務の一環と思って取り組みなさい」
「はい……」
「仕事の失敗は仕事で取り戻せるけど、勤務態度はまず改めないといけない。だから気をつけて。見られていないようで、案外見られているものだから」
 彰人が矢継ぎ早に言った言葉が咲子にグサグサと突き刺さった。たしかに最近の生活リズムは乱れていたし、仕事もあまり集中できていない。そこは咲子も自覚していたことなので反省するしかないが、そもそもの発端は作詞が原因なので少なからずあなたにも原因はある――なんて、八つ当たりのようなことを考えたが、それが間違いということぐらい咲子もわかっていた。
「すみません、気をつけます……」
「どうしても眠いなら、昼休みに寝たらいいと思うよ。この時間なら人も少ないしね。僕もたまにしているよ」
「あ、そうなんですか。ちょっと意外です」
「僕だって夜更かししたら眠いよ。社会人になった年数とか経験とか関係ない、眠いときは眠い、なら休み時間に寝るという選択は間違っていないよ」
「はい、すみません……すみません」
 咲子は落ち込んでしまい、お弁当を食べる手を止めた。当然ながら作詞、ラブソングのことなんて考えられるはずもなかった。

 咲子は彰人から注意されたその日から生活を改めた。一番の問題が睡眠不足ということはわかっていたので、まず就寝時間を元に戻した。それにより動画投稿サイトを見る時間は減ってしまったが、仕事に集中できるようになった。筋トレは無理をしない程度に留めて翌日への負担を減らすようにした。勤務時間中は仕事に集中し、通勤中や昼休みに作詞のことを考える。そんな当たり前のことができていなかった、そのことが咲子には大きなショックで、同時にそのことを厳しくも早い段階で教えてくれた彰人には感謝した。
 咲子は五月に入ってすぐ、ゴールデンウィーク前にテストを終わらせた。彰人によるテスト結果の検証が行われ、そして了承を得て研修は完了した。この時点で研修を終わらせているのは咲子と他に一人だけで、他の新入社員はテストによるバグの発覚、プログラムの修正を何度も繰り返し、まだ半分も進んでいなかった。
 咲子の出来の悪さを知っている他の新入社員は咲子の成長に驚いていたが、同時に快く思わない者も少なからずいた。先輩社員――彰人によるマンツーマンがあればそれぐらいできるだろうと、咲子に聞こえるように囁かれさえした。
『んー、それはあるかもね』
 陰口を聞いたその日の夜、彰人にネット電話で相談していた。
「やっぱりそう思いますか……?」
『だって、現にマンツーマンがなかったら稲枝さん、あの研修を終わらせることはできなかったと思うよ?』
「……はい、その通りです」
『でも前にも言ったけど、今は理解することが大事なんだ。終わらせることが目的じゃない、早さを競う必要なんてない。単なる僻みを言われているだけ、と思って無視したらいいよ』
「そうは言いますけど……同じ新入社員ですし、これから先、やりづらくなるとか嫌じゃないですか……」
『たしかになぁ……うん、僕もちょっと考えてみるよ』
「すみません……」
『どうせ仕事をするんだ、快適な環境でしたいからね』
「……河瀬さんって、どうしてそこまで一生懸命できるんですか?」
『楽しいからさ。何事にも一生懸命というのは、なかなか良いものだよ』
 彰人がどんな行動を起こすのか、咲子にはわからない。けれど咲子はそれだけ彰人のことを信頼していた。
 社会人になって初めてのゴールデンウィーク、咲子は実家で過ごすことにした。二ヶ月ぶりに会った両親や友人と遊びに出かけたりして多忙な時間を送ったが、頭の中はずっと作詞のことを考えていた。
 そうしてゴールデンウィーク最終日。つまり一応の期日が訪れた。結局、咲子は作詞を完成させることはできなかったが、ノートの数ページに繋がりのない歌詞を箇条書きにしていた。思いついたものから書き出し、そこから繋げる、あるいは連想して作詞ができればと期待していたが、なかなかうまくはいかなかった。
(何もできていないよりはマシだよね……)
 咲子がネット電話にログインすると、すぐに彰人から通話が入った。
「お疲れさまです、もしかして待っていましたか……?」
『待つというか、休み中はずっと引きこもっていたよ。ところで五月病は大丈夫?』
「騒がれているほどではありませんね。いつもの日曜日特有の憂鬱さはありますけど」
『それなら良かった。この時期、元気をなくす人が多いからね』
 彰人の声を聞くのもひさしぶりだった。つい嬉しくなってしまい、咲子はゴールデンウィーク中の出来事を話した。彰人からすれば用件とは違うのだが、楽しそうに相槌を打って咲子の話を聞いた。
「作詞ですが、まだできていません……いくつか書き起こしているんですが、完成にはまだ遠いです」
 一通り話し終えると話題は自然と作詞のことになり、咲子は彰人に謝った。
『謝ることはないよ、書けているだけすごいじゃないか。それ読んでみてよ』 
「い、嫌ですよ!」
『じゃあ、文字でもいいから読ませてよ』
「それも嫌です!」
『わからないなぁ。最終的には歌うことになるし、僕が編集することになるのに……』
「違うんです、気分的に!」
 それは調理中の料理を相手に差し出すようなもの――と例えてみたが、彰人の理解を得られることはなかった。彰人が言うことはもっともなのだが、咲子の中で折り合いがついておらず、どうしても恥ずかしさが拭えなかった。
『僕はこんなところかな』
 ネット電話を介して、彰人から圧縮ファイルが送られてきた。それをクリックすると四つの音声ファイルが現れた。
「え、こんなに……!」
『ストックとして譜面に残しているのが結構あって、そこから使えそうなものを選んだのがその四つ。最初の触りしかできていないけどね』
「それ、なんだかずるいです……」
『これでも年単位で作曲をやっているからね。もし気に入ったのがあったら、それに合わせて作詞をするというのもいいね』
「……そうですね、じゃあ聴いてみます。少しだけ通話を切りますね」
 咲子は音声ファイルをクリックした。その胸中は彰人が自分のために作曲してくれたものを聴くことができる、という期待と、確信している彰人の問題を再度認識させられてしまうのでは、という不安が半々だった。
 順番にクリックをしていく。どの曲も一分未満、最初のフレーズのみで最後はフェードアウトで終わっているが、それだけで曲全体の雰囲気が伝わり、どれも曲調が異なっているので好みや作詞の内容で選べるようになっていた。
 だが、不安は的中してしまった。やはり確信は間違っておらず、咲子は穏やかにはいられなかった。もう黙っているわけにはいかない、言うしかない。それは悲しみではなく、どちらかと言えば怒りに近い感情だった。
「……もしもし」
『はいはい、もしもし』
 通話をすると彰人はすぐに応答した。咲子は目を閉じ、一呼吸した。まだ気持ちが揺れている、しかし一応の覚悟は決まった。
「曲、聴きました」
『どうだった?』
「全部だめです」
 この咲子の言葉は予想外だったのだろう、彰人からは何も返事がなかった。
「大変言い難いのですが、今のままでは河瀬さんの曲は歌いたくありません」
 咲子は彰人の返事を待たず、結論を言った。けれどまだ終わらない、言いたいことはこれではないからだ。
「河瀬さんは、自分の動画についているコメントを読んだこと、ありますか?」
『……そりゃあ、あるよ。嬉しいし、それに参考になるからね』
「本当ですか?」
『……どういう意味?』
「特定のコメント……称賛のコメントしか見ず、他の、特に非難や指摘のコメントは非表示にしているんじゃないですか?」
『それは……』
 彰人は口ごもった。四月からの付き合いの中で初めて見る様子だったが、意外でもなんでもなかった。咲子は自分が彰人にとって都合の悪いことを言っているということがわかっていたからだ。
「河瀬さんの曲を聴いて、他の人の曲を聴いて……そうしているうちに、あることに気づきました。この時点ではつまらない推測です。ですが少し前、インスピレーションが湧くときのことを訊きましたよね? そのときに確信しました」
『何が言いたい?』
「そしてさっきのファイル。もう間違えようがありません」
『だから、いったい何なんだよ』
「河瀬さんの曲、他の人と同じなんです。いえ、同じと言ったら他の人に失礼ですね、あなたの曲は劣化コピーです」
 咲子は顔中に汗をかいていることに気づいた。じっとりした嫌な汗だ。それもそのはずである、言うか言うまいか悩みに悩んだことを言ったのだから。
『同じなわけ、ないだろう。稲枝さんが、そう思っているだけじゃないのか?』
「やっぱりコメントを見ていないんですね。言われているんですよ、多くの人に」
彰人の声が震えていて、その怒りがネット電話越しでも伝わってくるようだ。咲子は恐怖のあまり通話を切りたかった。それにこれ以上続けてしまうと関係が破綻してしまうかもしれない。この瞬間こそは作曲者と作詞者だが、明日になれば同じ職場の先輩と後輩という関係だ、仕事にだって影響が出かねない。
 けれど咲子が本当に言いたいことはここから、まだ終わるわけにはいかない。
「最近の曲はずっとそうですね。ですが、新しいものから古いものを順番に聴きました。そうしたら初めての……デビュー作と二作目は、再生回数こそ少ないですが、すごく独特で、個性的でした。これらが、河瀬さんが本当に作りたい曲じゃないんですか?」
『あのころはダメだ、コードすら知らなかったんだ、不協和音だらけじゃないか。すべてが我流でめちゃくちゃにやっていたんだ、良いわけがない』
「そうですね。コメントでもけっこう厳しいこと言われていますね。でも、私はそのころの曲、好きですよ。あれが本当に作りたいものじゃないんですか?」
『あんなの、ダメだ。ダメなんだ!』
「どうしてですか? 河瀬さん、自信のなかった私に言ってくれましたよね? 私はボーカルシンセサイザーでも他の人でもない、真似はしなくてもいい、私が歌う『赤ずきんの幕間劇』が聴きたいって。それは私も同じです、私は、河瀬さんの曲を聴きたい、歌いたいんです」
 咲子は言いたかったことをすべて言った。少し後悔はしていた。けれど概ね、重荷が取り除かれたような気持ちだった。
『君に』
どれぐらい待ったことだろう。実際はそれほど経っていなかったのだが、咲子にはとても長く感じられた。
『君に、何がわかるんだ』
 彰人の返事は、咲子が予想していた中で最も望んでいないものだった。緊張のあまり咲子は吐き気と目眩を催していたが、逃げてはいけないと気持ちを奮い立たせた。それは彰人の作曲を矯正させたいというわけではなく、次の瞬間に関係が終わるとしても後悔しない、未練を残さないために最後まで立ち向かうためだった。
『他の曲と被っているからって、だから何だって言うんだ。再生回数を見ろよ、どれだけ見てもらっていると思うんだ?』
「たしかに再生回数は大事だと思います。それがなければ、どれだけの人に見られているかわかりませんからね。でも、再生回数のためだけに動画を作るのは間違っています。そりゃあ、たくさんの人に見てもらいたいとは思いますが……二の次じゃないですか、そんなの。自分が作りたいものを作って投稿する。それではダメなんですか?」
『違う、そうじゃないんだ……君はわかっていない。初めての動画であれだけ再生されたんだ、僕の気持ちをわかるはずがない』
「……それを言われたら何も返せませんが、感じたことは言えますし、私の気持ちは変わりません。今のままなら河瀬さんがどんな曲を作ったとしても、私は、すべて、却下します」
『なんだよそれ……』
「ぜったい、歌いません」
 咲子は感極まってしまい、声が震えて目元に涙が溜まっていた。彰人もこのときばかりは冷静ではなく、普段なら気づけるはずの咲子の様子を見落としていた。
『稲枝さんは歌うだけじゃないか』
 だから、彰人は言ってはいけないことを咲子に言ってしまった。
「……どういう意味ですか?」
『そのままの意味だ。カラオケに配信されている曲なら、どれでも歌える。そんな楽なことはないよな』
「そんなこと、思っていたんですか」
 彰人の一言は、彰人が思っている以上に咲子を傷つけていた。彰人が感情的になっていることには気づいていたが、それを差し引いても悲しすぎた。咲子がかろうじて保っていた理性は、ぼきりと音を立てて折れてしまった。
「そうですね、私はただ歌うだけです、それしかできません。作曲もできません、作詞だって、できません。録音だって、投稿、だって……河瀬さん、それが苦痛、だったんですか?」
 洪水のように溢れる感情は整理が追いつかず、ぽろぽろと口から勝手に言葉がこぼれていく。彰人が何かを言っているようだったが、咲子の耳には入らなかった。
「私、嬉しかったなぁ……声が好きって、言ってもらえて……すごく良かったって、言ってもらえて……でも、無理ですね、もう……今まで、ありがとう、ございました」
 涙が堪え切れない。不鮮明な視界で画面が見えず、咲子は何度もクリックをして通話を切った。そしてノートパソコンの電源も落とさずロフトベッドに上がり、声を噛み殺すように泣いた。
11, 10

  


 携帯電話に登録していたアラームが鳴り、咲子は目を覚ました。どうやら泣き疲れていつの間にか眠っていたようだ。開いたまぶたがすぐに閉じてしまうほど、睡眠が足りていなかった。
 ロフトベッドから下り、点きっぱなしのノートパソコンを覗いた。あれから何度か彰人から通話がありチャットにも文章が残っていたが、咲子はそれを見ることもなく電源を落とした。洗面台で鏡を見ると目は充血してひどく腫れていた。いくら顔を洗ってもすっきりせず、シャワーを浴びても効果はなかった。
 ジャムを塗ったパンと、昨日の夜に作っていたコーヒーを温めて朝食にした。睡眠不足なのか、頭が回らず身体がとても重い。朝食を食べ終わるころには普段ならすでに外へ出ている時間になっていた。
 始業時間から逆算すると、遅刻するか、ぎりぎり間に合うか、難しい時間だった。けれど咲子は慌てた様子もなく職場に電話をかけた。
「おはようございます、稲枝です……申し訳ございません、本日体調が優れないので、休ませていただきます……はい、はい……失礼します」
 電話を終え、咲子は重いため息を吐いた。仮病を使ってしまった。学生のころでもそんなことはしたことがない。『お大事に』という言葉がひどく胸に突き刺さった。ゴールデンウィーク明けに体調不良だなんて、まるで五月病を患い嘘をついているようだ。信じてもらえたのか、それとも疑われているのか、どちらにしても憂鬱だったが彰人に合わせる顔がない。これが正しい選択だと自分に言い聞かせることにした。
 九時、始業の時間を示すころには咲子は時間を持て余していた。咲子の住まいにはテレビがなく、動画投稿サイトを見る気分にもなれない。日曜日のうちに家事は一通り終わらせてしまったので手持ち無沙汰だった。すっかり目は覚めていたが、もう一度ベッドに潜ることにした。皆が働いている時間にこうしてベッドの中にいることに、咲子は罪悪感で胸がいっぱいだった。
「……ん、んんっ」
 いつの間にか眠っていたようで正午になっていた。咲子は今日のお弁当にするつもりだった具材を皿に盛りつけ、ご飯は茶碗にいれて昼食とした。
もそもそと食べながら、咲子はふと思った。
(カラオケ、行こうかな)
 休日こそ混んでいたけれど平日なら空いているだろう。しかし外でばったりと同じ会社の人間に遭遇するかもしれないので、いつもの服装とは少しイメージを変え、クローゼットの奥から冬用のニット帽を引っ張り出して目深にかぶった。初めてのズル休みにしては手際が良いことに、咲子は自分のことながらに呆れて苦笑いを浮かべた。
 出かける直前にマイクとレコーダーに目が止まった。機種ごとの配線の方法はすでに彰人から教えてもらっていたが、とてもそんな気分にはなれず置いて行くことにした。
 恐る恐る外に出て、なるべく人通りの少ない道を使って駅に向かう。駅のホームや電車に乗る瞬間さえも周囲を警戒し、ずっと俯いてやり過ごした。目的の駅に到着して降りてしまえば多少は気が楽だったが、咲子の心が休まる瞬間はなかった。
カラオケまでの道は覚えていたため、迷うことなく行くことができた。平日のカラオケは空いていて、順番待ちもない。受付で会員証を作り、簡単にシステムの説明を受けたのちにドリンクバーで烏龍茶を注いで部屋に向かった。
 その部屋は、前に使っていた客の煙草の臭いが残っていた。
(うぅ、やだな……)
 ソファーに座り、リモコンで曲を選ぶ。世界観の構築まではできていないが、歌いたい曲が多くあった。
(投稿するわけじゃないから、気楽に歌ってみよう)
 そうして咲子は何曲が選び、歌った。やはりストーリー性が高い歌詞の曲が多く、烏龍茶で喉を潤し、休憩を挟みながらカラオケを満喫する。仮病で休んでしまったことへの罪悪感はもうなかった。
 けれど、咲子の気持ちは満たされない。もちろん歌うことは楽しめていたが、決定的にある要素が足りていない。
(自分で歌って……それだけ。この歌は、誰にも届かない……)
 誰かがいるわけでもなく、録音をしているわけでもない。今自分が歌っている歌を聴く者はどこにもいない。他の人に聴かれるという快感を一度でも味わった咲子には、自分で歌って自己満足ということができなかった。
 咲子は途中で演奏を止め、帰り支度を始めた。フリータイムはまだ三時間以上も残っていたが、もう歌う気分にはなれなかった。
(やっぱり、休まなかったら良かった……)
 帰宅するころ、咲子は罪悪感で押し潰されそうだった。こんなことなら無理をしてでも行ったほうが良かったかもしれない、とさえ思った。
 ノートパソコンをつけ、最近の習慣でネット電話を起動させた。すぐに閉じようかと考えたが、まだ勤務時間中なので彰人に見つかる心配はない――と思っていた咲子は目を疑った。
 彰人がログインをしている。しかも通話が入ってきた。
(え、え……?)
 出ていいものかどうか。一瞬悩んだが、ここで無視するのは不自然すぎるし、問題を先延ばしにしているだけだ。目を閉じ、一呼吸置いてから、通話に出た。
「……もしもし」
『もしもし。今日休んだそうだね』
「河瀬さんこそ、どうして……」
『今日出社したら、いきなり夜勤に出ろって言われてね。一度帰って、自宅待機しているんだ』
「私は、その……仮病、でした」
『ごめん、僕も嘘。仮病使って休んだ』
 恐る恐る告白したのに対して、悪びれもなく言い返した彰人がおかしくて、思わず咲子は笑ってしまった。彰人も咲子につられ、声を出して笑った。
『僕は滅多に休まないから大丈夫だろうけど、稲枝さんは確実に五月病患者だと思われているよ?』
「ああー、やっぱりそうですかー……」
『と、脅してみたけど、うちの職場はいちいち疑うような人はいないよ』
 二人は抱いていたわだかまりが晴れていくことを感じていた。感情を剥き出し、本音をぶつけ、傷つき、落ち込んだ。それが今、こうして笑い合っている。もう気を病む必要はなく、あとは誠意を持って謝るだけだった。
「……私、本当に傷ついたんですからね」
『うん、ごめん。感情的になり過ぎていた。録音も投稿も、苦痛と感じたことなんて一度もないよ。そこは誤解しないでほしい』
「いえ、私も売り言葉に買い言葉でした……ごめんなさい、私も言い過ぎました。でも、昨日言ったことはすべて本音です。そこは取り消しませんからね」
『うん、稲枝さんの言う通りだよ。僕はずっと、誰かの曲のオマージュ……いや、盗作をしていたようなもんだ』
 彰人はぽつりぽつりと話し始めた。
『初めて作った動画、あれを作っていたとき、本当に楽しかった。ああもちろん今も楽しいけど……なんというかな、本当に好きなものを作った、という意味で』
「わかります、それが伝わってきます」
『でもそのころは音楽の知識なんてほとんどなくて、自分の好きな音の組み合わせしか考えてなかった。だから、ひどいものだったよ』
「そうでしたね。再生回数もすごく少なかったです」
 その曲はお世辞にも完成度が高いとは言い難かった。ただデタラメに音が鳴っているようにも聞こえ、コメントも思わず非表示にしてしまうような内容ばかりだった。
『二曲目もそうだった。そのときのことはよく覚えている。ちゃんと音楽のことを勉強して、ボーカルシンセサイザーの使い方もしっかり調べた。でも、だめだった。再生回数も伸びない、つけられるコメントは非難ばかり。そのとき、心が折れてしまったんだ。一生懸命作った曲があんな扱いを受けて、すごくショックだった。まあ、甘えなんだろうけどさ……』
「言わないでください、そんなこと……」
『そして三曲目のとき、魔が差した。有名な曲、人気な曲に似たものを作れば認められるかもしれない、と』
「再生回数が増え始めたのは、そのころですね」
『この一曲だけ、と思ったんだ。良くも悪くも注目を浴びることはできた、これなら作りたいものを作っても見てもらえるはず……けど、一度覚えた快感から逃げることができなかった。そして、今に至るというわけさ。もちろん知っていたよ、コメントでずっとパクリだの盗作だのと言われていることは。でもずっと無視していた、僕は間違っていないと思い込むようにしていた』
 何も知らない者が彰人の行動を見た場合、きっと良い印象は受けないだろう。だが咲子も自分の身に置き換えて考えた。もし次に歌った曲がマイナーな曲で再生回数が少なかったとしたら、その次はメジャーな曲を歌うに決まっている。咲子も聴いてもらうことへの快感を知っているから、彰人の気持ちは理解できた。
 咲子は何もわかっていなかった。あのときは彰人を否定していたが、今日のカラオケですら満足できなかった。結局、同じ立場なら同様のことをしていたのだ。
『だから昨日、僕は自分自身が許せなかった。自分でも気づいていたことを、見ないふりをしていたことを、稲枝さんに指摘されて。だから八つ当たりだったんだよ……ごめん、いくら謝っても足りないぐらいだ』
「そんなことありません。私も、きっと同じです。考えが足りませんでした。それに、私は……河瀬さんに言わないといけないことがあります」
 相手がすべてを話したのに、自分だけが黙っているのは不公平だ。咲子はずっと黙っていた思惑のことをすべて話すことにした。
「私、引っ込み思案で、人とコミュニケーションを取るのがあまり上手じゃなくって、自分に自信が持てなくって……そんな自分を変えたい、そう思っていたんです。でも、ずっと変えることができませんでした」
『……そんなとき、僕に出会った、と?』
「声を好きだと言われて、困りもしましたが、すごく嬉しかったです。同時に、チャンスだと思いました。この性格を変えることができるかもしれない、そう思いました」
『なら、別に僕じゃなくても良かったし、僕の曲である必要もなかったってことか』
「……はい、そうです」
 言おうとしたことが言われてしまった。咲子は震える手を握り締めて、ネット電話の向こうにいる彰人へちゃんと届くように答えた。
『しかも僕なら、曲の編集やサイトへの投稿もして、しかも自分で書いた歌詞を曲にすると言っている。利点はそこか』
「……否定はできません。でも今は違います、私は歌いたいです、河瀬さんの曲を、河瀬さんが作りたいと思って作った曲を、歌いたいんです! これで変わることができなくっても、何も後悔はありません!」
『まあまあ、落ち着いて』
 つい熱が入り、興奮してしまった。彰人の静かな声に、咲子は体温が急激に下がったように感じられた。
『僕が思うに……どこに問題があるの?』
「……え?」
『別に大したことじゃないよ』
「ど、どうしてです?」
 咲子にとってそれは一大決心の末の告白だった。打算的な自分に自己嫌悪を感じていたし、彰人からも幻滅されると思っていた。それなのに、彰人は何も気にしていない様子だった。
『利害の一致だよ。僕は稲枝さんの声を求め、稲枝さんは編集から投稿までの作業をお願いする。どちらが欠けても完成はしない、良い関係じゃないか』
「あは、あはは……そうですかぁ……」
『まあでも、それを聞いたからには黙っていられないな』
「え……?」
 彰人がそれだけで終わるはずがない。これが小言が始まる前兆だということを咲子はすぐにわかった。
『コミュニケーション能力なんて、意識の持ち方一つだよ。僕だって元々は人見知りもするし、人と話すのも苦痛だったよ』
「え、そんなの嘘です!」
『本当だよ、会社の先輩に聞けばわかる。最初の半年間、今よりずっと愛想の悪い僕を知らない人はいないよ。でも仕事に不都合が出てきたから、僕は少しずつ意識をしてコミュニケーションを取るようにした。だから今では普通に話せるようになったんだ』
「河瀬さんは、もともとコミュニケーションができる人なんですよ……」
『弱音は禁止。できるよ、稲枝さんなら。まずは一ヶ月、がんばってみよう』
「自信ないです……」
『わかった、なら明日一日、意識してみよう。別にできなくてもいい、変わりたいと思うだけでいい。まだまだ遅くない、今日決心できて良かった、明日にならなくて良かったと思うんだ。僕も、もう他の人の曲に依存するのをやめる、いっしょにがんばろう』
 いっしょに、と言われても、咲子からすれば勝手な提案である。そう簡単に変われるはずがない。けれど、彰人ができると言うのならできるのだろう、咲子は彰人を信じた。それに二人なら心強い。根拠はなかったが、今度こそ変われるような気がした。
「わかりました、私もがんばります。自分を変えていくことと、作詞を……もちろん仕事も。河瀬さんにはこれからも助けてもらうことが多々あると思いますが、よろしくお願いします」
『こちらこそ、よろしく』
 まずは明日、テストで困っている同期に声をかけてみよう。きっと怪訝な顔をされるだろう、自分も挙動不審になってしまうかもしれない。けれど、それでもいい。少しずつでも変わろうとすればいい。
 今までは変われなかった。でも明日からは変われるかもしれない。咲子はそんな期待で胸がいっぱいだった。

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