3.
歌わせてください――彰人にそう言ったあの日から、咲子は時間さえあれば『赤ずきんの幕間劇』を聴くようにしていた。というのも『赤ずきんの幕間劇』は投稿者が無償で動画を配布していたので、携帯電話へ取り込む方法を彰人に教えてもらったのだ。勤務時間中はもちろん無理だったが、通勤中は立ち止まりさえすればずっと見続けていた。
他にも、歌唱力を上げる方法を検索していた。腹式呼吸、発声練習、基礎体力向上など多くのページが表示されたものの、これまで興味がなかったことなので目が滑ってしまい少しも頭に入らなかった。
彰人と約束をした収録の日まで二週間しかない。技術や知識は一朝一夕で身につくものではないことを咲子もわかっていたので、付け焼刃になるぐらいならと歌唱力の向上を諦めて自分にできることを考えた結果、世界観の構築を思いついた。
『赤ずきんの幕間劇』はストーリー性の高い、まるで小説のような歌詞である。咲子はまず歌詞が載っているページを検索し、それをメモ帳にコピーして印刷した。A4用紙に横書きにプリントされた歌詞はまるで詩のようで、紙媒体で文章を読むことに慣れている咲子は小説を読むように目で追うことができた。
伴奏が流れていないので自分の好きな速度で歌詞を追い、飛び込むようにその世界観の中に深く潜る。次第に想像力が膨れ、物語が動き始めた。咲子は就寝前の日課として毎日歌詞を読むようになり、睡眠時間は減ってしまったが少しも苦ではなかった。
咲子は自覚していなかったが、歌に取り組む生活は充実していた。初めての一人暮らしや社会人生活に神経を擦り減らし、絶えず緊張している日々を送っていたが、他に意識を向ける先ができたことで適度に力が抜けるようになった。
「うん、いいと思う。特にこのロジックはよく考えられているね」
その証拠に咲子は近ごろ仕事が楽しくなってきていた。あいかわらず彰人とのマンツーマンは続いていたが、最近では彰人が口を出す機会も減り、咲子が独力で研修に取り組んでいた。
研修は後半に差しかかり、咲子を除く新入社員たちは作成したプログラムのテストを行なっていた。咲子の進捗遅れは解消されておらず、今日ようやくプログラミングを終えたところだった。
「ほ、本当ですか!」
仕事では初めて彰人から褒めてもらえた。嬉しさよりもまず驚きが先行し、咲子は目を丸くした。
「うんうん、あれだけプログラミングが苦手だったのに、ちゃんとできている。理解して作っているというのが感じられるよ」
「ありがとうございます。良かった……ようやく、テストに入れます……」
「そうだね。ここからは早いと思うよ」
「ですが、まだ遅れていますし……少しでも追いつけたらいいんですが……」
「んー、なら、いいことを教えよう……実は、他の人はほとんど進んでいない。稲枝さんは皆に追いついたんだ」
「えっ、嘘っ」
「静かに……」
思わず声を張ってしまう咲子に、彰人は人差し指を自分の口元に当てた。
「本当だよ。マンツーマンとはなっているけど他の子の進捗も確認しているんだ、暇だからね。僕の知る限りでは、一番進んでいる子との差は半日ぐらいかな」
「じゃあ、テストがすごく難しいんでしょうか……?」
「最初は手間取ると思うけど、慣れたら機械的にできるようになる。皆が遅れている原因はプログラミングにあるんだ」
「プログラミング、ですか?」
「そう。プログラミングは少しでも齧っていれば案外すぐできるものなんだ。でもそれは学生の課題までの話で、企業の業務となるとそうはいかない。これは研修だけど内容は業務レベルだ、しっかり考えてプログラミングをしないと簡単にバグが発生する」
「どうしよう、私のプログラムにもあるかもしれない……」
「そうかもね」
あっさりと肯定する彰人を咲子はじろりと睨む。あれから何度かネット電話でボーカルシンセサイザーの曲の感想を言い合って親交を深めつつあったものの、彰人からしばしば飛び出すデリカシーのない言葉がいちいち癪に触った。
「ああ、違う違う。誤解されたら困るけど、バグというのは意図せず出てしまうものなんだよ。むしろテストで見つかって良かった、と思うべきだ」
「なら、また遅れるかもしれないんですね……」
「そこが少し違うかな。よほどレアケースじゃない限りは簡単に発見できるんだ。ただ、その原因を探すのが難しい」
「たしかに、期待している動きをしなかったらバグ、それはわかりますが……原因を探すのが難しい、というのは?」
「どれだけプログラムを理解しているか、かな。僕が見ている限り、稲枝さんはプログラムを理解しながら作っている。他の人は手癖、感覚、あるいは実績のない経験、先入観で作っている。ここが大きな差だよ。稲枝さんなら、きっとバグが出てもすぐに解決できるんじゃないかな?」
そう言われても咲子は困ってしまう。彰人の期待は嬉しかったが、勝手にハードルを上げられても飛べる自信なんてない。彰人には根拠があるかもしれないが、それを自覚できない限りはプレッシャーにしかなりえないのだ。
そんな咲子の様子を察し、彰人はメモ帳代わりに使っていた付箋を胸ポケットから取り出し、一枚剥がして咲子のデスクに貼りつけて数行、短い文章を書いた。
咲子はその内容に見覚えがあった。
「……テストの確認事項ですか?」
「そう、さっき印刷して渡したよね? でも僕がここに書いたのは、それとは違うことを書いている。想定される動きは、Aというデータが入ればBに、Cというデータが入ればDになる。でも僕が書いたように、Aというデータが入ったときDという結果になった場合、それはなぜか?」
「なぜって、データ投入後、プログラム開始直後の条件分岐に問題があるとしか考えられません」
「ほら、すぐに原因がわかったじゃないか」
「そりゃあ、これぐらいなら誰だって」
「これぐらいって言うけど、最初はできなかったはずだよ」
咲子は何も言い返せない。たしかに入社したばかりの、彰人からマンツーマンの指導を受ける前ならわからなかったことだ。
「でも、それは河瀬さんの指導が良かっただけでは……」
「どれだけ優秀な指導者も、教わる気のない生徒に知識を与えることはできない。稲枝さんにやる気があった、その結果だよ」
「あ、ありがとうございます……!」
「まあでも、僕の指導も良かった、というのもあるだろうね」
真顔でそんなことを言う彰人に、苦笑いを向けるしかできない咲子。わずか一ヶ月にも満たない付き合いではあったが、咲子は皆が敬遠する彰人のことは嫌いではなかった。デスクの上の美少女フィギュアは擁護できなかったが、仕事は真面目で優秀、趣味の作曲を真剣に取り組む姿には尊敬さえしていた。
「そろそろ定時だね、片付け始めたほうがいいんじゃない?」
「はい、今日はこの辺にしておきます」
パソコンの電源を落とし、帰宅の準備を始める咲子に彰人は周囲の目を盗んで囁いた。
「今夜、ネット電話かけるから。明日のことについて、ね」
今日はあの日から二週間後の金曜日、つまり明日が約束していた収録の日だ。職場には二人の関係を知る者はいなかったし、わざわざ知らせるつもりもない。不用意に目立たないよう勤務時間中は私語を慎んでいた二人だったが、彰人がそれを破ったのは初めてのことだった。
「勤務時間中は仕事に集中しなくちゃいけませんよ?」
「それは前に僕が言ったことか……言うようになったね。で、大丈夫?」
「はい、ログインしておきます」
いよいよ明日、歌うことになる。この二週間で歌詞の暗記や世界観の構築に不安はなくなったが、ちゃんと声は出るのか、しっかり歌えるかが心配だった。
そして何より、咲子は明日着る服をまだ決めていない。そのことに最も頭を悩ませていた。
その次の日、咲子は最寄りの駅から数駅隣りの、新幹線の駅も併設している近隣では最も大きな駅にいた。世間は休日ということもあり、歩くことさえ困難なほどに人で混雑している。咲子は人の波に流されながらも、待ち合わせ場所に指定されていた大きな時計台の下に到着した。
人波に揉まれ、乱れてしまった服や髪を整えて時計台にもたれかかった。
(少しぐらい、おめかししたほうが良かったかな……?)
手鏡で前髪を確認しながら、咲子は朝から悩んでいた。結局、服装は普段から職場で着ているものに落ち着いた。髪型もメイクもまったく同じで、違うところはリクルートバッグではなく花模様のトートバッグを持っている、ということだけ。多少華やかには見えるものの、おめかしをしているとは言い難い。
時刻は十二時五十七分、待ち合わせ時間の三分前だ。咲子は腕時計と人混みを交互に見るように、せわしなく顔を動かしていた。
(もしかして、場所を間違えた……?)
時計台がここにしかないことは事前に調べていた。それにネット電話では念押しで時計台の正面、側面、後ろ側のどこで待てばいいのか確認したくらいだったが、それでも咲子は不安でしかたがなかった。
(うぅ、早く来てよぅ……)
ネット電話や動画投稿サイトのユーザー名は知っているものの、携帯電話の電話番号やメールアドレスはいまだに交換していないので彰人を信じて待ち続けるしかなかった。
ついに待ち合わせ時刻の一時になった。咲子は背中にどっと嫌な汗が吹き出したのがわかった。きょろきょろと周囲を確認するが、彰人の姿はどこにも見当たらない。
そんな咲子の後ろ、死角からこっそりと近づく男がいた。
「稲枝さん、お待たせ」
「うわっ」
突然のことに声を上げて驚く咲子。慌てて振り返り聞き慣れた声――彰人を見つけた。彰人は普段スーツに合わせている白いシャツに履き古されたジーンズという、学生のような格好をしていたが、カジュアルな革靴を履いていたのでいつもよりも若い、まるで新入社員のように見えた。そして手には家電量販店の大きな紙袋が下げられている。
ところどころ寝癖が立っている髪を見て、今日という日を少しも意識されていないことに咲子は脱力してしまい、同時に服装で悩んでいた自分が滑稽に思えた。
「おつ、お疲れさまです……」
「お疲れさん。勤務時間外、しかも休みの日なんだからタメ口でいいよ。年齢だってそこまで変わらないし」
「ダメです、うっかり仕事中に出るかもしれませんので……」
「僕は別にそれでもいいけど、他の人の目が痛いよね……さて、ここで話をするのもなんだし、行こうか」
「は、はい!」
歩き出した彰人を追う咲子。向かう先は知らない、待ち合わせ場所しか聞いていなかったため、もしはぐれてしまったら一大事だ。
(いい加減、連絡先を知っておいたほうがいい気がするけど……うーん)
仕事の関係を除けば、作曲する側と歌う側、それだけでしかない。その関係の間に電話やメールで伝え合うようなことがあるとは思えない。そもそも同じ職場なので、注意さえすれば口頭で連絡を取り合うことができる。もちろんネット電話でも可能だ。
抵抗があるわけではないが、わざわざ知る必要性が低い。それが理由でいつまで経っても連絡先を交換することができなかった。
「あの、ところで今日はどこに行くんですか?」
「ん? カラオケだけど?」
「それは知っています。カラオケならどこにでもあると思うんですが、わざわざここまで出てきたのはどうしてですか?」
「理由はいろいろあるけど、まず絶対条件として『赤ずきんの幕間劇』が配信されている機種があること、これを押さえなければならない」
「機種、ですか?」
「曲を流す機械のことだよ。機種によっては曲が入っていたり、入ってなかったりするんだ」
カラオケの経験が少ない咲子も、それはなんとなくは知っていた。その昔、カラオケに行ったとき曲数が少ないと怒っていた友人のことを思い出した。
「それは重要ですね……伴奏もなしに歌うなんて不可能です」
「で、次に、録音することを許可してくれる店舗。これはしらみ潰しに連絡をして見つけることができた」
「許可がいるんですか?」
「配線を変える必要があるんだ。事前に確認しておかないと、万が一のことがあったときに困るからね」
「配線……?」
「ああ、これだよ」
彰人は手に持っていた紙袋を咲子の目線まで上げて言った。
「気にはなっていましたが、それは何ですか?」
「マイクとレコーダーだよ。前の休みに買ったんだ」
「そうですか、マイクとレコーダー……」
レコーダーとは、歌声を録音する機械のことだろうと想像できた。しかしマイクと聞くと、それはたった一つのものしか思いつかない。
「マイクって……買ったんですか……?」
「そりゃそうさ。マイマイクを持っている人なんて、そうはいないだろう?」
彰人は紙袋から長方体の箱を取り出すと、それは紛れもなくマイクだった。それを見た咲子は引いてしまった。彰人は作曲に並々ならぬ意欲があるのかもしれないが、咲子は彰人ほど意欲が高いわけではない。彰人に誘われ、気に入った曲があり、彰人には言えない思惑があって、だから歌ってみようぐらいの気持ちだったので、わざわざマイクを購入する彰人が信じられなかった。
「そうだ、今日これ持って帰りなよ」
「う、受け取れません! そんな高そうなもの……」
「いや、そこまで高くないよ。ポイント交換で買えるぐらいのものだし。それに僕が持っていても使う機会ないしさ」
「ですが……」
「もし今回歌ってみて、それで楽しかったら貰ってほしい。今日以外でも歌って、録音してくれたらいいと思う。楽しんでもらえたら僕も嬉しいし」
咲子は「考えておきます」と言葉を濁し、保留することにした。その後二人の間に会話がなくなり居心地の悪い空気が流れかけたが、まもなく有名なカラオケチェーン店に到着した。
休日ということもあり、店内は人が溢れて順番待ちができていた。まずは並ぶのか、それとも座って順番を待つのか、咲子はそれすらわからないが彰人はさっさとカウンターに向かい、店員に一言二言話して空のグラスを二つ、両手に持って戻ってきた。
「このフロアの隅っこの、039号室だよ。これはフリードリンクのグラスね」
「あの、順番は……」
「予約しておいたんだ。休みの日は混むからね」
烏龍茶を注ぐ彰人を見て、部屋に向かう前にドリンクを入れるものなんだと咲子は学習し、受け取ったグラスにオレンジジュースを注いだ。そして先ほどと同じように彰人の背中を追い、五人も入ればいっぱいになってしまうほどの039号室に入った。
「……あれ? 臭くない」
嫌煙家とまではいかないが、咲子はわずかに残った煙草の臭い、煙が気になってしまうのだ。過去の経験から、カラオケの部屋は煙草の臭いがこびりついているという印象が強かったが、この部屋は違った。
「めずらしいだろ? 予約するときに禁煙ルームがあることを知って、せっかくだからここにしたんだ」
「ありがとうございます、実は私、煙草が苦手で……」
「それなら良かった、気を利かせた甲斐があったよ。じゃあちょっと、ここから出てもらっていいかな?」
彰人はそう言って紙袋から先ほどのマイクとレコーダーに加え、布手袋、小型のハンディクリーナーを取り出した。
「え? 何ですか、これ」
「さっきの受付のところで待っていればいいよ。今から配線を変えて、マイクとレコーダーを繋げる。ネットで調べたところ、機種の裏側にプラグを差し込む必要があるから、埃が舞うかもしれない」
「少しぐらい大丈夫です、お手伝いします」
「だめだ、やるからにはベストを尽くさなければならない。配線を変えて、掃除が終わったら呼ぶから待っていてほしい」
「……はい」
オレンジジュースを持って受付に戻り、空いていたソファーに座って一口飲むと甘ったるい味が乾いた喉を潤した。
咲子は少し不満だった。彰人は休日でも仕事中でも変わりがない、否定する余地がないほど合理的に動き、結果をより良くするためにとことん突き詰める。まるで仕事の延長のようで気が滅入りそうだ。先ほどのマイクや部屋のことといい、事あるごとに気を利かせてくれる彰人には感謝していたが、せっかくの共同作業なのだからできることは手伝いたかった。
ただ待つだけというのは苦痛で、特に周囲に人が大勢いる中に自分だけが一人きりというのはなおさらだ。トートバッグから携帯電話を取り出し、イヤホンを繋いで耳にはめてもう何十回と聴いた『赤ずきんの幕間劇』を再生した。
目を閉じれば映像が浮かぶ。そこに自分が描いた世界観を重ねると、全くイメージが異なって見えてくる。大丈夫、大丈夫、やれるだけのことはやった、咲子はそう自分に言い聞かせる。
「稲枝さん、お待たせ」
三回目の再生中に彰人が迎えに来た。
「……けっこう時間かかったみたいですね」
「配線自体はすぐに終わったんだけど、掃除に手がかかってね」
咲子は一人にされたことを根に持っていたようで、皮肉を言うつもりはなかったがつい嫌味ったらしく言ってしまった。けれど白いシャツがところどころ黒く汚れ、埃にまみれた彰人の姿を見て抱いていた苛立ちがたちまち萎れていった。
「あの、どうしたんですか、すごく汚れちゃってますよ……?」
「思っていたよりも埃だらけでさ、この通りだよ」
「……もう、せめて払ってくださいよ」
咲子は埃を指で摘まんで剥がし、シャツをぱんぱんと叩いた。横断歩道で倒れた彰人を助けたときもこうして汚れを払っていた。なんだか頼りない年上の人だと、咲子は良い意味で呆れた。
「ありがとう、また手間をかけさせたね」
「本当ですよ、自分のことは自分でしてください」
「はい……」
ほんの少しやり返せて上機嫌な咲子が軽い足取りで部屋に戻ると、テーブルの上には先ほど見せられたマイクとテレビのリモコンのようなレコーダーが置かれていて、その両方からケーブルがカラオケ機種に伸びていた。
「ほら、これが稲枝さんのマイクだ」
彰人からマイクを手渡され、受け取る。咲子はしげしげとそれを眺めるが、入社式のときに使ったマイクとの違いがわからない。
「どれぐらい良いものかは知らない、ネットでおすすめされているものを買っただけだから。で、こっちがレコーダー。使い方は説明書を読んだらわかるよ。記憶容量はかなり大きいから使い切ることはないと思うけど、空き容量には気をつけて」
咲子は説明書を見て、案外簡単に使えそうで安心した。ひとまずは録音と再生、そしてデータ消去の方法を確認していると彰人は手荷物を持った。
「準備はできたし、僕はここまでだ」
「ここまで?」
「あとは稲枝さんの気が済むまで歌って、録音すればいいよ。音割れの心配もあるから再生して確認するように。ちなみにフリータイムだから時間はたっぷりある、途中で休憩を入れたらいいよ」
「あの、河瀬さんはその間、どうしているんですか?」
「受付のところでゲームでもしているよ、邪魔になるからね。それとも、ここに残って聴いてほしいの?」
咲子は首を激しく横に振った。一人でも歌えるかどうか不安なのに、人前でなんて歌えるわけがない。咲子のリアクションが予想通りだったのか、彰人は軽く笑った。
「それじゃ、健闘を祈るよ」
彰人は出て行った。一人残された咲子は、ひとまずマイクのスイッチを入れた。
「あー、あー」
部屋に響く自分の声。やはり入社式のときに使ったマイクとの違いがわからない。
何度か声を出して、次はテーブルの上にあるカラオケのリモコンを手に持った。紐で繋がっているペンで画面に触れるとメニューが表示され、その中の『曲名で検索』を押そうとしたが、気になったことがあったので『ジャンル』を押した。すると『メドレー』、『デュエット』、『映像コンテンツ』などジャンル別に分けられたタッチパネルの中にそれは並んでいた。
(すごい、本当にあった……!)
咲子が驚いたのは『ボーカルシンセサイザー』というタッチパネル。動画を見るようになってボーカルシンセサイザーに興味が湧き、ネットで検索しているとカラオケでは一つのジャンルになっていることを知った。そのときは半信半疑であったが、この通り事実だった。
『ボーカルシンセサイザー』を選択し、曲数を確認すると二千曲を超えていた。五十音順に並んでいるリストは知らない曲ばかりだったが、聴いたことのある曲もちらほらと入っていた。
(わ、あの曲がある! あれも、これも……すごい! こんな曲まで入ってる!)
普段はネット上で聴いている曲がカラオケに配信されていることに感動し、咲子は画面をペンで連打した。
(……でも、河瀬さんの曲はないみたい)
作曲者のリストで『シ』行を調べたがショウジンの名前はなかった。残念ではあったが今日の目的はそれではない。曲名のリストで『赤ずきんの幕間劇』を選び、カラオケ機種に送信すると有名アーティストのライブ映像が流れていた画面は暗転し、画面にタイトルが表示されて聴き慣れた前奏が始まった。
マイクをぎゅっと握り、大きく深呼吸をした。レコーダーの録音ボタンは押していない。まずは一度、練習で歌うつもりだった。
前奏の終わりが近づく。口元にマイクを寄せ、始まる瞬間を待つ。出だしのタイミングも完璧に頭の中に入っている。緊張はしているが、まだ平常な範囲だ。
いよいよだ。心の中でカウントダウンが始まっていた。
3、2、1――
「……あ」
始まった。けれど、咲子の口は開かなかった。曲を聴いているときは鼻歌、気分が乗り始めたら小声で、もちろん最初から最後まで歌えていた。それなのに今、声が出ない。咲子は曲を停止させ、もう一度選んだが結果は同じだった。ボーカルのいない曲はただ騒がしく、部屋の中に響いた。
頭の中ではちゃんと歌えている。伴奏に合わせて歌詞がするすると思い出せる、動画だって目に浮かぶぐらいだ。この日のために世界観を完成させた、あとは表現するだけなのにそれができない。
咲子は原因がわかっていた。マイクをテーブルに置き、荷物を手に持たず部屋から飛び出した。そしてカラオケの受付に向かい、ソファーに座って携帯ゲーム機で遊ぶ彰人の前で止まった。
「河瀬さん……」
「ああごめん、音ゲーやっててさ、ノーミスでいいところだからちょっと待ってもらってもいい? これまで十時間ぐらい粘って、ようやくチャンスが巡ってきたよ!」
と言う彰人だが、ちらりと見た咲子の表情はよほど思いつめたものだったのだろう。ゲームを中断し、自分が座る隣をぽんぽんと叩くと咲子は静かにそこへ座った。
「機材のトラブルでもあった?」
「いえ、違うんです……その……」
「ゆっくりでいいから言ってごらん」
「……怖いんです」
「怖い?」
咲子は黙ったまま、こくりと頷いた。
「何度も聴いて、曲のイメージや世界観はしっかりと思い描くことはできています。昨日まではちゃんと歌えていました。ですが、いざ本番になって……それを表現できる自信がないんです。私、この曲が好きなんです、私なんかが歌っていいんでしょうか……他の人みたいに歌えるんでしょうか……?」
今までは本を読むことで世界観を構築するだけ、それは自分だけが楽しむことができれば良かった。だが今回は歌うことで世界観を表現し、聴き手に伝えなければならない。咲子は歌うことに不慣れすぎた。もし表現できないとわかっていれば他の曲に選び直すという選択もあった。いざ歌う瞬間になって、不安と自信のなさが息を吹き返したのだ。
「なるほど……本当にあの曲が好きなんだね」
彰人は携帯ゲーム機を置き、じっと咲子のことを見つめた。
「稲枝さんは自分の世界観をちゃんと持っている。怖いと思うのは生半可な気持ちじゃないから、好きで好きでたまらないからだ。でも、自分なんかが歌うなんて申し訳ない、なんて卑下しているのなら、逆に訊きたい。稲枝さんは、この曲を歌いたい? 歌いたくない?」
「私は……」
「できる、できないじゃない。したいか、したくないか、だ」
「私は……歌いたい。歌いたいです」
小さな声だったが強い意志が込められていた。知らないうちに握り締めていた両手がじんじんと痺れていることに、咲子は気づいた。
彰人はそんな咲子の様子に、安心したように口元を緩めていた。
「なら、歌えばいいと思う。たしかに歌の技術や知識がないから表現できるかどうかの保証はない。だったら、ベタな言葉だけどできる限りのベストを尽くすしかない、何度も歌って納得するまでね。それに録音したデータをどうしようと、稲枝さんの自由だよ」
「……残さなくてもいい、ということですか?」
「そりゃあそうさ。僕がお願いしている立場なんだ、稲枝さんの意思が第一優先さ。収録が来週に伸びたって、断られたって……僕はそれに従う」
「そんな、私は……」
「でも、これだけは覚えておいてほしい。稲枝さんはボーカルシンセサイザーでも他の人でもない、真似なんてしたらだめだ。僕は稲枝さんが歌う『赤ずきんの幕間劇』が聴きたい」
(私の……歌を……)
咲子はボーカルシンセサイザーや他の人のように歌うべきだと思っていた。しかし彰人の言葉が咲子を救った。歌えなくても構わない、自分が思うままに歌えばいい、そして自分の歌を聴きたいと言ってくれる人がいる、必要とされている。
「私、戻ります。待っていてください」
咲子に迷いはなかった。歌を、歌う。今やるべきことは、その一つだけだった。
「うん、がんばって」
部屋に戻る咲子の後ろ姿を見送って彰人はゲームを再開したが、完全に集中力が切れていたのであっけなくミスをしてしまい、がっくりと肩を落としてゲームをリセットした。けれどその表情に悔しさはなく、どこか満足しているようだった。
部屋に戻った咲子はリモコンを手にして『赤ずきんの幕間劇』を選んだ。そしてレコーダーの録音ボタンを押し、今度はソファーに座らず立ったまま前奏を待った。よほど肩に力が入っていたのだろう、両肩がひどい肩こりのようにじんじんと痛かった。
前奏が始まると同時に目を閉じ、築き上げた世界観を巡らせた。誘われたオオカミに誘った赤ずきん。毎日一人で帰っていたオオカミは何を思い、赤ずきんは何を思ってオオカミに声をかけたのか。そして、オオカミは赤ずきんと再び手を繋ぐことができるのか。
咲子の結論としては、オオカミが赤ずきんに誘われることは二度とない。これは以前彰人と話していたときと変わらない。しかし咲子は、そこから別のことを考えた。
どうすればオオカミを孤独から救うことができるのか。一つの手段としては、赤ずきんがまたオオカミを誘えばいい。これは考え得る限り最高のハッピーエンドかもしれなかったが、どうしてもそれを想像することができなかった。
だから咲子は『オオカミにとって赤ずきんとの出来事は最高の思い出で、それをいつまでも抱き続ける』という結末を考えた。
一度誰かの温もりを知ったオオカミは、より寂しい気持ちを味わうことになるだろう。赤ずきんにとってはたった一晩のお遊びでも、オオカミには一生の思い出になるかもしれない。そんなオオカミにこれから先、赤ずきんに誘われる可能性が皆無、というのは胸が裂けそうなほどに苦しかった。これ以上の孤独を感じないようにするために、赤ずきんとの思い出を強烈に、そして暖かい記憶としてオオカミに残す――咲子はそんなイメージを歌に乗せようとしていた。
ハッピーエンドとはとても言えない。それは自分でもわかっていた。きっと人によっては嫌悪感を示すだろう。けれどこれが咲子の世界観だった。
前奏はまもなく終わる、気づけばマイクが口元にあった。
カウントダウンが始まらない。けれど、自然に口が開いた。
――曲が始まった。
(あっ……)
咲子は声を出すことができた。意識をしていないのに口が勝手に動き、思う通りに歌うことができている。
歌詞が、伴奏が、声が、世界観が、そして自分がすべて繋がった。
(……もう大丈夫)
咲子が目を覚ましたとき、時刻はすでに十三時を過ぎていた。寝ぼけた目を擦り、ベッドの中でぐいっと伸びをすると手と脚にだるさを感じ、喉は風邪のときのようにいがいがとして痛い。よほど疲労が溜まっていたのか、ぐっすり眠ったはずなのに全身が気だるかった。
咲子は前日のカラオケを思い出した。休憩を挟みながらフリータイムを使い切るまで歌ったが、結局最初に録音した歌が最も良い出来だった。実際に自分の声を聞いてみると印象がまったく違い恥ずかしくてたまらなかったが、雑音や音割れもなく録音ができていたことを確認できた。
カラオケを出るとすでに日が暮れていた。夕食ぐらい一緒に、なんて思った咲子に対して彰人は「すぐに編集して完成させたい」と言って駅で解散となってしまった。考えてもみれば、歌ってほしいと頼み込んだ相手の歌声のデータがあり、あとは編集するだけで完成するのだ。彰人が気持ちを抑えられないのも無理はないのだが、咲子は腑に落ちなかった。
顔を洗って服を着替えた。手と脚の痛さは長時間立ったままマイクを持っていたことによる筋肉痛、喉は酷使しすぎて痛めてしまったのだろう。少しでも潤うようガラガラとうがいをして、今日はなるべく外出は控えることを決めた。
お湯を沸かしている間にノートパソコンの電源をつけ、ネット電話のアプリケーションを起動させた。曲の編集がどれほど時間を要するのかはわからないが、彰人なら徹夜で終わらせかねない。もし完成させたとしたら、必ず連絡をくれるはずだ。
カリカリに焼いたベーコンとしっかり火を通した目玉焼き、いつもより濃い目のコーヒーを遅い朝食にして、引越しの片付けを始めることにした。毎日こつこつと片付けていたので残すはダンボール一箱、しかも中身は半分だけだ。今日中に終わらせられる目処が立っているので咲子は気合いを入れた。
ダンボールから取り出したものをロフトベッドの棚やクローゼットに入れ、不要と感じたものは捨てる。特にこちらですでに購入してしまったものは、潔くすべて捨てるようにした。
ダンボールの底が見え、長かった片付けもいよいよ終わろうとしていたが、咲子の意識はノートパソコン、ネット電話に向いていた。編集の状況がわかったところで何かできるわけでもないが気になってしまう。けれどこちらから連絡を取ろうとすると邪魔をしかねないので彰人の連絡を待つしかない。なんだか相手を信じて待っているばかりだ――と、咲子は苦笑いを浮かべてしまう。
「おわったー……」
空が夕日でオレンジ色になり始めていたころ、、最後のダンボールが空になった。達成感よりも疲労を感じながら、カッターナイフで切り裂きテープでぐるぐるに巻いた。
朝食のときに余ったコーヒーを温め直し、お茶請けのクッキーを持ってノートパソコンの前に座った。会社からのメールを確認したあとは動画投稿サイトだ、手当たり次第再生して映像やコメントを見るだけでも楽しいのだが、やはりボーカルシンセサイザーの動画を見ることが多かった。
(うーん……)
最近は彰人が作った動画を新しいものから順番に再生していた。やはり、初めて聴いた曲のように早口言葉のような曲が多い。他の動画でも早い曲は聴いていたので耳が慣れて聴き取れるようにはなっていたが、どうしても良さがわからない。
それは早い曲の良さがわからない、という意味ではなく、彰人が作る曲の良さがわからなかった。初めて見たときはボーカルシンセサイザーへの理解がなかったということもあったが、今は違う。ボーカルシンセサイザーの曲を聴き始めて日は浅いが、『赤ずきんの幕間劇』の他に好きな曲も増え、理解しつつある。それなのに、彰人の曲は咲子の心を揺さぶらなかった。
彰人の曲の完成度は高い。伴奏もさることながら、ボーカルシンセサイザーの微調整(専門用語で言うところの調教)もすばらしく、まるで人が歌っているように聴こえる。どの曲にもテーマ性は感じられ、おおよそ非の打ち所がない。それなのに動画投稿サイトでの知名度、再生回数は今ひとつで、もっと評価されてもいいぐらいだと感じていた。
(……そういうことか)
多くのボーカルシンセサイザーの動画を見て、彰人の動画についたコメントを読み、咲子は心が揺さぶられない理由と彰人の動画の再生回数が今ひとつ伸びない理由に気がついた。それは実に単純なことで、彰人がどうしてこのことに気づかないのか不思議なぐらいだった。
(もしかして、知らないフリをしているのかな……?)
だとしたら黙って見過ごすわけにはいかないが、あいにく推測の域を出ていない。確信に至る理由が必要だった。
クッキーを頬張りながら考えていると、ネット電話の着信音、彰人から通話が入った。慌ててヘッドセットを取りつけ、口の中のクッキーをコーヒーで流しこんで通話ボタンを押した。
「はい、お疲れさまです!」
『ああ、お疲れだよ……』
「大丈夫ですか……?」
彰人の声は張りがなく、マンションの隣の道路を走る車の音で掻き消えてしまいそうなほど小さかった。初めて聞く彰人の弱った声に、咲子は心配でたまらなくなった。
『どうにか無事だよ。仮眠はしたんだけど……さすがに徹夜はきつかった。動画じゃなくて一枚絵、歌詞を合わせるだけだから、まだマシだったよ……』
「えっと、それってつまり……!」
『ああ、できた。曲、できたよ』
その声は弱々しくも、達成感と充実感に満ちていた。一方、咲子は夢を見ているような気分だった。自分が歌った曲が動画になることに、どこか半信半疑だったのだ。
「ど、どうでしたか……?」
『良かった。すごく良かったよ。僕の目……違う、耳だな。僕の耳に狂いはなかった。仮眠前の子守唄にしたぐらいだよ』
「うう、恥ずかしい……」
『それにしても驚いたよ。正直、歌のほうはほとんど期待していなかったんだ。でもリズムや音程がバッチリじゃないか、もしかして音楽経験あるの?』
「今まで言う機会がなかったので言ってなかったのですが、子供のころにピアノを習っていたことがありまして……本当に、ちょっとだけですが……」
『そりゃあ上手なわけだ。ああそうだ、データ送るから見る?』
「いえ、結構です!」
カラオケでは確認のために聴いていたが、顔から火が出るほど恥ずかしかった。彰人が完成させたのだから、きっと良い出来なのだろう。なので確認するまでもないと咲子は即答で断った。
『そっか、残念。で、これどうする?』
「え?」
質問の意図がわからず、咲子は思わず聞き返した。
「どうって……何がですか?」
『いや、投稿のことなんだけどね。僕としては投稿したいと思うんだけど、稲枝さんがどう思っているのかなって。抵抗があるならこのまま僕だけが保有して、投稿しないと誓おう。最初から僕の自己満足に付き合わせたようなものだからね』
彰人の目的は『咲子に歌を歌ってもらう』ことであり『動画の投稿』ではない。つまり彰人の目的としては達成(自分が作った曲ではないが)していると言える。動画の投稿という次のステップは、咲子に委ねられることになった。
咲子は部屋の隅、先ほどまでダンボールがあったところに置かれている紙袋――マイクとレコーダーをちらりと見た。結局貰ってしまったので、後ろめたさもあるから彰人の意向に沿わすようにしたいが、抵抗がないと言えば嘘だ。声とはいえ、個人と特定できる可能性のある要素をネット上に公開するのだ、不安が尽きない。
しかし咲子には、無視できない欲求が湧き上がっていた。
「河瀬さん、ぜひ公開してください」
『いいの?』
「他の人に、みんなに聴いてほしいなって……変ですか?」
それは多くの人に自分の歌を聴いてほしいという願望。それがネット上に公開することへの不安を上回っていた。
『いや変じゃない、それは正常なことさ。わかった、今から投稿する。稲枝さんの投稿用のアカウントを作るから……ユーザー名はそれでいいかな?』
「Saki、ですか? 私もこれにしているんですが、大丈夫ですか?」
『わかりやすくていいんじゃないかな、重複しても問題ないし。よし、登録終わり』
「え、早くないですか?」
『実は登録の直前まで進めていたんだ。投稿してもいいって言われたらすぐできるようにね』
「なんて用意周到な……ところで、知っている人にバレませんよね……?」
『バレないバレない。職場の連中どころか、君の友達が見たってわからないよ』
「そうですか? ならいいのですが……」
『投稿できたらもう一度仮眠するよ。何かあれば連絡してくれたらいいよ』
彰人は通話を切った。咲子は新着動画一覧のページを表示させて、穴が開くように見ながらカチ、カチ、カチ、カチと何度もクリックし続けた。まもなく自分の声が入った動画がネット上に公開されるのだ、居ても立ってもいられなかった。
「……」
カチカチカチカチ。なかなか投稿されない。すぐに、とは聞いたが、もしかしたらアップロードには時間がかかるのかもしれない。咲子はぬるくなってしまったコーヒーを飲み干し、おかわりのためにキッチンに戻った。一杯分のお湯しか作っていなかったため、また沸かすところからだ。そのついでにクッキーも減っていたので新しい皿に補充した。
コーヒーを入れ、クッキーを齧りながら戻って更新ボタンを押した瞬間、新着動画一覧に目が釘づけになった。
【Saki】赤ずきんの幕間劇【歌わせていただきました】
十分も前に投稿されていた。口元からぽろりと落としてしまったクッキーを皿の上に戻し、クリックした。動画説明欄には当たり障りのない曲の感想と、元の動画へのリンクが書かれている。肝心の再生回数は、二回。五分で一回という計算になる。コメントは一つもついていない。
いざ投稿されたら気が緩んでしまい、お腹が鳴った。少し早い時間ではあったが夕食を作ることにした。食材に余裕がなかったので冷凍していたベーコンと半端に余った野菜を炒め、半分だけ残っていたお揚げで味噌汁を作り、そして昨日の冷や飯をレンジで温めた。もう一品、サラダがほしいところではあったが、これ以上野菜を使うと後に響く恐れがあったのでぐっと我慢する。
完成した夕食をテーブルに置いたときには、投稿から一時間近く経っていた。更新ボタンを押すと再生回数は六回、やはりコメントはない。彰人の一万回という数字を見ているだけにもう少し再生回数が伸びているかと期待していたが、あっけなく裏切られたことにため息をついた。
知名度は当然ない、歌だって平凡かそれ以下なのだろう。これでは再生されるはずもない。いい加減拘束されていては家事がままならないので、咲子は電源を切らずにノートパソコンの画面を折りたたみ、見えないようにした。
夕食を食べ終わり、食器を片づけてシャワーを浴びた。動画のことを忘れようといつもよりも念入りに身体を洗うと長めの入浴になってしまい、少しのぼせてしまった。冷やしたお茶を身体に流し込んで、ロフトベッドに上がって横になる。そのままごろごろとしたり、携帯電話を触ったり、眠気が訪れるまで待ち続けた。
ところが、いつまで経っても眠くならなかった。もちろんこれは動画のせいだ。気にしない、無視しようとしても無理なことだった。時計を見るたび、投稿からどれだけ経っているのか、どれだけの再生回数が期待できるのか、頭の片隅で考えてしまっている。
しかし、寝るとしてもノートパソコンの電源が点きっぱなしだ。電源を切ろう、ならそのついでに、最後に再生回数を確認しておこう――と、咲子は自分に言い訳をする。かれこれ投稿から数時間、順当に伸びれば二桁は再生されているはずだ。咲子は先ほどのような落胆を少しでも軽減しようと、低い目標を描いてから更新ボタンを押した。
カチリ
「嘘……」
咲子は言葉を失い、目を疑った。
再生回数が三桁を超えている。
「なに、なにこれ!」
咲子は音量を下げ、自分の声が聞こえない状態で再生した。すると彰人が言っていたように一枚絵で、黒い背景にオオカミと赤ずきんのシルエットが白抜きになっていて、その両者の間に筆記体の英字で『Saki』と赤い文字で書かれている。そして同じように歌詞が赤文字で下に表示され、曲の進行と共に変わっていった。
コメントの多くは咲子の歌唱力の絶賛と期待の新人への応援で、少数ではあったがオオカミの境遇に対する内容が書かれていた。思い出だけで満足するオオカミに称賛、非難は入り乱れていたが、咲子にとってそれこそが狙いだった。
(わかってもらえた、私の世界観が届いている……!)
思わず叫んでしまいそうなほど咲子は嬉しかった。動画を巻き戻し、何度もコメントを読み返した。称賛のコメントも嬉しかったが、読んでいて楽しかったのは非難のコメントだった。非難されるということは自分の世界観とは違ったということで、その相手がどんな世界観を持っているのか、それはとても興味深いことだった。
それでも、再生回数には疑問を感じていた。更新ボタンを押すと再生回数はさらに増え続けていて、まるでカウンターが壊れたような上がり方だ。
嫌な予感がした。何らかのネット上のトラブルに巻き込まれたのかもしれない。咲子は震える手で彰人にネット電話をかけると、呼び出し後すぐに彰人が通話に応じた。
『もしもーし。もう動画見た?』
「見ました! 何ですか、これ、これ……!」
『投稿して、しばらくしてからボーカルシンセサイザーの曲を歌う人たちが集まる掲示板に書き込みをしたんだ、自己紹介と動画のアドレスをね。探すのに時間がかかったから、最初のほうは伸びが悪いね』
「そうだったんですか……なら、これだけの再生回数も不思議じゃないですね……」
『ん、勘違いしてもらったら困るよ』
彰人は低い声で刺すように言った。
『たしかに僕は掲示板に書き込んだ。悪く言えば宣伝だね。でも、ただ宣伝しただけではここまで伸びない。僕が言っていること、わかるかい? 稲枝さんの歌が、世界観が、みんなに認められているんだよ。再生回数は当然見ているよね? コメントは読んだ? あれがすべてだよ』
「そんな、こんなの……」
咲子はある感情が生まれていることに気づいたが、それを無視して『恐怖』で蓋をしようとした。
「すみません、これ、消して、消してください!」
『おいおい、どうして? 今消したら大ひんしゅくだ。さっきからいろいろ調べているけど、僕が書き込んだ掲示板から動画を見たユーザーが他の掲示板、あるいはSNSを通じてこれを拡散しているようだ。もっともっと再生されるよ』
「怖いです、どうして、こんな……」
『怖い? 本当に?』
今度の彰人の声は、この状況を楽しんでいるような声だった。
『もう気づいているんじゃないの? 公開してくださいと言ったのは、自分の歌を聴いてほしいと思ったからだ。そして今、稲枝さんは予想以上に多くの人たちに聴いてもらっている。すごく嬉しいはずだ。漫画でも、小説でも、音楽でも、表現したものを知ってもらいたい、評価されたい、これは当然の欲求だ。恥ずかしいことじゃない、落ち着いて自分の感情を理解するんだ。今、どんな気分?』
(あっ……)
彰人が言ったことのすべてが正しかった。再生回数とコメントの内容を見るたび、自分が、自分の歌が、世界観やイメージが大勢のユーザーに知ってもらえた。そのことは咲子の身体を熱くし、高揚させた。
『恐怖』で蓋をしていた感情――『快感』が勢い良く噴き出して、咲子を包み込んだ。
「すごく、すごく気持ちいいです。これが表現する、ということ……こんな世界があったなんて……」
『その快感、癖になるだろう? まだまだこんなもんじゃない、もっともっと伸びる。今夜だけで四桁に届くんじゃないか? はは、楽しくなってきたよ』
彰人の声はすでに咲子の耳に入っておらず、咲子はカチ、カチと更新ボタンを押し続けた。動画に集中するあまり次の日が仕事ということ、就寝時間をとっくに超えていることを忘れていた。