唐突だが、僕こと田所進は淫魔である。
淫魔と言えば、西洋で言うところのサキュバス・インキュバスが有名だろう。夜中に年頃の男子のもとへ現れ、持ち前の美貌と妖絶な肢体でもって男を誘惑し、肉体関係に持ち込む。のんきな男は棚から牡丹餅的に、突然に現れた美女の体を堪能するものの、淫魔の目的は人間の精気……生命エネルギーを吸収することだ。まんまとハニートラップにかかった男は、いきり立った精を美女に注ぎ込もうと思ったのもつかの間、比喩でなく体の髄まで生命エネルギーを吸い取られてしまう。翌朝、いつになっても男が顔を出さないことを心配した家族が様子を見に行くと、ミイラのように干からびた男がベッドの上に横たわっていたというのが定番のオチだ。
自分がそんな性欲悪魔の類になったのは中学も卒業を控えたころだ。念願だった地元の進学校に合格し、意気揚々と好きだった女の子に告白をしたところ、ばっさりとフラれてしまった。理由は彼氏がいるから。その直後、拒否されてもなお食い下がる諦めの悪い僕に彼女がこともなげに言ったセリフが今でも耳に残っている。
「ゴメン、今日これから彼氏と卒業記念ディズニーだから」
するとタイミングを計ったように、校舎の影から当の彼氏がひょっこりと姿を出した。どうも僕の告白も何もすべて聞かれていたらしく、良い人らしい彼氏は申し訳なさそうに会釈をした。彼女はその姿を見るや否や、すぐさま彼氏のもとに駆け寄ると、まるで少女漫画の一ページのように二人は熱いキスを交わした。中学三年生当時、覚えたてのオナニーに全エネルギーを費やしていた僕にとっては、目の前で繰り広げられたある種大人の情事はあまりに衝撃的過ぎた。
しかも、これは後から聞いた話だが、その直後夜行バスでディズニーランドへ向かった二人はさらに現地で一泊し、翌日再度夜行バスで帰宅したのだと言う。つまり、卒業記念のお泊りデートであったということで、それはつまり親公認でのセックスデートだったということ。その事実を、彼女の友達の友達から聞いた僕としては目が回る思いだった。その後一週間にわたって泣き喚き苦しんだ僕は、結果として頭に小さい十円ハゲを患うほどのストレスを食らったのだ。
もう恋なんてするものか、と思った中三最後の夜だった。
その夜、明日から四月になるというのに、仙台郊外では雪がしんしんと降り、外回り営業から直接帰宅した父はスーツの裾をびしょびしょにして母の機嫌を損ねていた。
「これは積もるかもな。ちくしょう、スタッドレスから履き替えたばかりなのに」
仕事上、山・海沿いの僻地に足を運ぶこともある父にとっては、面倒な事態だった。しかし、その日は金曜、翌日翌々日の週末を経て入学式を迎える僕は、まあ二日もすればとけるだろうと考えていた。
僕は自室の窓を開けて、八階建てアパート最上階から、雪の積もる春の町を見下ろした。道をゆく車は思った以上に少ない。これでは、一晩明けた程度ではまだ雪が残っているだろう。雪が降るのはすっかりご無沙汰だったから、除雪車が来るのは期待できない。
うんざりした僕は、まあ明日も新種のオナニーに情熱を注げばいいかとひとりごちて布団に入った。いたずらに外気に触れたために手足はひんやりと冷たく、僕は縮こまるように掛布団の中で丸まった。加えて、冷気のせいか変に脳が覚醒して、寝ようとしても寝付けない。既に床に就いてから二時間が経過していた。
もちろん、僕も百二十分という時間をただやみくもに費やしていたわけではない。最初の十分で寝付けないことに気付いた僕はすぐに頭を切り替え、週末に研究する新種のオナニーに向けてアイデアを考えていた。アイデアだけとはいえ、オナニーについて考えていくうちに悶々としてくる。しかし同時に、寒さで凍え縮まった僕の体は性欲の処理よりも体温を一定に保つことに集中しているらしく、結果としてオナニーについて考えながらも頭だけは冷静であるという奇妙な状態が小一時間続いた。
そうして二時間が経過した頃、僕はとうとう異変に気付いた。
体が動かないのだ。と言うのは表現がおかしいかもしれない。詳細に言えば、体を動かそうとすると、動かそうとした部分が何かぴくぴくと痙攣する。恐らく無理に動かそうとすれば動くものの、そうはしなかった。怖かったのだ。馬鹿げていると思うかもしれないが、うずくまる僕の背中から誰かが覗いているような気がして、僕は恐怖で身動きできなかったのだ。いわゆる金縛りだ。
変に勇敢だった僕は、幽霊を信じるほど純情な中学生ではなかったが、ひょっとして何か心霊めいた事態が起こった時に対処できないのは癪だった。例えこれから幽霊に取り殺されるとしても、せめて一矢報いる程度のことはしたいのだ。
僕は手の届く範囲、体の動かせる範囲で何か武器が無いか、周囲をまさぐった。とはいえ、コの字になってベッドで横になっている僕の手に取れるものなんて無いに等しい。せめて机に手が届けば、三角定規やコンパス等武器になりそうなものがあるものの、そこまで動く勇気はなかった。
そうだ、と僕は考えを百八十度変えた。
幽霊に反撃するのではなく、お前のことなんて最初から眼中にないよ、と馬鹿にしてやれば。そんな真剣になっちゃって、恥ずかしいと茶化してやれば。必死になってとり殺そうとしてくる幽霊に対して、コメディのノリで対応して撃退する、アメリカ映画から得た発想だった。
そうと決まれば、と僕はすぐさまイチモツを握りしめ、必死に竿を上下にしごき始めた。つまるところ、僕は今オナニーをしているんだから、幽霊なんて眼中にないよ理論だった。まさか幽霊も、自慰にふけっている男子中学生を呪い殺そうなんて思うまい。今までにそんなホラー映画は見たことがない。
しかし、僕が必至に自家発電にいそしむそばで、背後からの視線・気配はますます強くなる一方だった。まるで、時間をかけてそろそろと僕の方へ近づいて来ているような、そんな感覚だ。僕は背筋が凍る思いと同時に、自分の知識からは未だかつて存在しえない新種の幽霊に襲われかけている気がして、自然と朱印をする右手に力がこもった。
かくなるうえは……。
いよいよ射精するというところで、僕は勇気を振り絞って立ち上がり、そのまま背後に向けて文字通り精一杯の抵抗をした。イチモツが右手の中でビクビクと波打つ。僕は恐怖から目を閉じていたものの、超異常な現状に興奮したのか、それともフった直後に旅行に行った彼女に対し寝とられ属性に似た性的刺激を覚えたのか定かではないが、相当な量の精液が排出されたことは明らかだった。
「うわあ」
正面から確かに声が聞こえた。恐怖にうめくような、女性の声だ。
僕は恐る恐る、固く閉じた目を開いていった。反対に、寒さもあいまって今まで固く立ち上がっていた僕の愚息はみるみる小さくなっていく。その過程で尿道に触ってしまった僕は、せっかく気を付けていたのに手を汚してしまって嫌だなと一瞬思った。
そうして僕は暗がりに立ちすくむ幽霊をついに視認した。
それどころか、僕はあっと声さえあげた。
目の前に現れたのは幽霊であるようで、予想とは遥に異なるものだった。
それは明らかに女性だったものの、人間とは少し差異があった。まず彼女の額には小さな角が生えていて、とがった耳を持ち、体は赤に近い褐色、衣装はらむちゃんよりもさらに露出度が高く、尾てい骨のあたりからは黒くしっぽが生えていた。その肉体は豊満で、胸も尻もたわわに実っているものの、しっかりとくびれも持ち合わせた、極上のボディだ。さらにその顔は、挑発的かつ妖絶な瞳と、肉厚な唇、すっと通った鼻筋と、道ですれ違えば誰もが振り返る美人だった。
さすがの美人もいきなり自分目がけて射精されたためにあっけにとられた様子で、しばらく呆然としていたものの、ふと我に返ったようにわらわらと震えだし、手でその肢体を隠しながら涙を溜めた目でキッと僕を睨んだ。
全身を自分の精子にまみれた美女に睨まれながら、僕は右手の中で愚息が再度膨張を始めるのを感じていた。