「これほどの屈辱は未だかつて味わったことが無いわ」僕の渡したティッシュで体をぬぐいながら、女性は憎々しげに言った。「あたしの長い淫魔人生の中でもね」
彼女の怒りが収まるのを待って、僕は淫魔とは何か尋ねてみた。
淫魔とは、どうやら悪魔に仕える下級妖魔らしい。彼女によると、深夜、人々が寝静まったところでひょっこりと寝室に現れては男を誘惑し、性交渉を通じて人体から生命エネルギーをまんまと頂戴するのだそうだ。若い僧侶等のもとを訪れることで知られ、海外のみならず日本でも目撃例があるという。
「でも、それってつまりあなたは僕を殺すつもりだったんですよね」
僕は憤慨した勢いに任せて少し強い口調で問い詰めた。顔射ならぬ全身ぶっかけを成し遂げた達成感と征服感から、男性として気が大きくなっていたということもあるかもしれない。
「そうよ」
淫魔はあっさり認めた。
「じゃあこれから再度僕を殺そうと……」
「いや、それはもう諦めるわ。これだけ出したら、今日はもう起たないでしょう?大人しく退散するわ。まったく、見ず知らずの他人に向けて精子を浴びせるだなんて。そんな若さでよっぽどの変態ね、あなた」
淫魔は呆れたような様子で、ゴミ箱に積み上げられたティッシュの山に目をやった。僕と僕の愚息はぎくり、としてたちまちに委縮した。エネルギーにあふれる僕の若い肉体は間髪入れずに二発目の準備をしていたが、今夜は大人しくしていた方が身のためのようだ。
「い、淫魔に説教される筋合いはないんですけど。しかも性的志向についてなんて」
「ふん、まあそれもそうね。ごめんなさい」
淫魔は投げやりに言った。まるで、用の済んだ人間の相手などしたところで仕方ないという風だった。お客が帰った後に個室で待機しているソープ嬢はこういう感じなのかな、と子供心に想像したのを覚えている。
とはいえ、早く帰って欲しいと考えているのはこの場合僕のほうだった。物の本によると、男性の八割はセックス後、彼女にはすぐに帰宅願いたいと考えているというアンケート結果を見たことがある。この場合は、命さえ取られるかもしれなかった僕だから、帰って欲しい気持ちもさらに多くて然るべきだった。
帰るなら早く帰ってくれよ、と言おうとしたところで、しかし、淫魔は何かを思いついたような顔をした。不敵な、何か良くないことを考えているという顔だった。僕は思わず、それまでの強気オーラを若干引っ込めて後ずさりした。
「ねえねえ、良いこと考えたんだけど、あんた、あたしの代わりに淫魔の仕事してみない?」
あまりに唐突で、かつ驚くべき提案だった。
淫魔の話はこうだ。
まず、淫魔の持つ能力の一部を僕、田所進に貸し与える。その能力でもって、僕が人間たちから生命エネルギーを集める役を担う。そして肝心の、悪魔へのエネルギーの橋渡し役を淫魔が担うというものだ。
「言うなら、あなたが孫請け会社として現場で多くの人間からエネルギーを搾取する。そうして得たエネルギーを元請け会社のあたしから受注元である悪魔ベルゼブブ様に献上する」
「それって、まるっきりブラック企業のやりかたなんじゃ」僕は思わず口をはさんだ。「というか、そのやり方だと明らかにあなたの仕事を僕に押し付けた状態ですよね。僕に得が無いじゃないですか」
「でも、好きなだけセックスできるよ」
淫魔はこともなげに言った。
そしてそれは、それだけで絶大な利益を進にもたらすものだ。
セックスが出来る。小学校も中盤に性教育が始まってから、今まで数年間思い描いてきたセックスへの憧れを、今こそ現実にすることが出来る。僕をフった彼女とその恋人が、ディズニーランドの公式ホテルで夜通し行った秘め事を、子供には関係ないと思っていた遠い大人のナイトライフを、僕も、しかも好きなだけ出来るというのだ。
断る道理を、中三の僕は持ち合わせて等いなかった。
しばらくの沈黙の後、僕は伏せていた顔を上げて淫魔の顔を見つめた。言葉こそ出さなかったものの、それは肯定以外の何物でもなかった。
「じゃあ、決まりね。今後ともよろしく」
「……よろしくお願いします」
僕が答え終えるが早いが、淫魔はずいと距離を詰めると、何を断るでもなく僕の唇を奪った。髪をかきあげる様に軽く、自然な動作だった。ちなみに僕のファーストキスだった。
その直後、頭と腰に鋭い痛みを感じて僕は思わずうめいた。たいして淫魔は面白そうに、痛みに思わず屈みこんだ僕を上から覗くようにして言った。
「今のは悪魔契約の儀式よ。これであなたは下級淫魔。鏡を見てみなさい」
言われて、僕は恐る恐る鏡を見た。一見すると特に変わったところはない。しかし、淫魔に促されて頭を触ると、ちょうど十円ハゲの部分が鋭く隆起している。
「悪魔の角よ。あたしのと一緒」
「……ちょっと、これだと河童みたいでかっこ悪いですね」
僕は黒々とした髪の毛の隙間からひょっこりと顔を出した、タケノコのような角をなでながら言った。頭皮の下ではどうやら骨がまるきり同じ形に成形されているらしく、どうやら再度発毛することは金輪際なさそうだ。僕はこの若さで一生モノのハゲを負ってしまったことでかなり絶望した。
「文句言うんじゃないの。それから尻尾もついているはずよ。見てみなさい」
淫魔は面倒くさそうに言った。こんなことになるなら先に言えよ、と心の中で毒づきながら、僕はズボンのゴムを後ろに引っ張って確認した。しかし、目の前にいる淫魔が持っているような、ドラキー調の尻尾は見つからなかった。
それを淫魔に伝えると「ええ、そんなことないはずなんだけど」と言うが早いが、淫魔は自分の手を僕のパンツに突っ込んで、僕の尻をなでまわし始めた。突然のことに僕は動揺して、心臓が高鳴るのを感じた。一度は元気を失っていたイチモツも、水を与えられたミミズのように息を吹き返した。淫魔は僕の尻を、僕を抱きしめるようにして正面からまさぐっていたから、僕たちの体はほとんど密着していた。そして、淫魔は僕よりも十センチほど身長が高い。だから、僕のイチモツは、パジャマ越しに彼女の艶やかな太ももの上に乗っかるような状態だった。
「ああ、これは皮膚の下でねじれちゃってるんだわ。大丈夫、そのうち生えてくるわよ。ほら、陰毛もブラジリアンワックスとかで脱毛してからしばらくすると、新しく生えてくる毛が埋没しちゃうことがあるでしょ、あれよ」
「僕、そんなことしたことないです」
淫魔は、僕の尻の少し上あたりに新たに出来たらしい、瘤のようなものをつまみながら言った。こちらは、どうやら今のところ表には現れていないらしいので、少なくとも銭湯に行けなくて悩むようなことはなさそうだった。
「あの、そう言えば」とりあえず角と尻尾についての確認を終えたところで、僕はおずおずと尋ねた。「僕から淫魔さんへのエネルギーの受け渡しは、どうしたらいいんですか」
「何言ってるの。セックスに決まってるじゃない」
さも自明であるかのように、淫魔は答えた。
僕はどくん、と僕の愚息が脈打つのを感じた。僕は改めて、彼女の肢体を上から下へと舐めるように見た。僕のベッドに腰掛けて、足を組んだ淫魔。その衣装は、ビキニ仕様のさらしと腰巻とでも言うべきだろうか。しかしまじまじと見つめると、相当に際どい恰好だった。胸部は隠す気もなく下乳をのぞかせているし、腰巻に至っては、足を組んでいる状態ではあってもなくても同じであるとさえ言える。当然、下着を履いている様子はない。
僕のケダモノのような視線はすぐに淫魔に感づかれ、淫魔は再びその顔に、何か悪いことを企んでいるような顔を浮かべた。しかし、僕は決してその顔が嫌いではなかった。企みがあると知りながらも、思わず騙されたくなるような妖艶な笑みだった。
「あらあら、あなた。あれだけ出しっていうのに、もうそんな大きくしちゃって。やっぱり若いと元気ね。どうするつもりなの、これ」
淫魔はすっと手を伸ばして、パジャマの上から形を確かめるように、僕のイチモツをなでまわした。初めて自分以外の手に触れられて、僕は思わず逃げるように腰を引いた。しかし、すかさず淫魔は僕の陰嚢をつかむと、自分の元へとずいと引き寄せた。
「教えることもあるし、せっかくだからエネルギー交換のレクチャーしちゃおうか」
淫魔は僕の耳元で囁いた。首筋から体全体にぞわぞわと広がる快感に悶えながら、これが悪魔に誘惑されるということなんだなと僕は納得した。精神力の弱い僕では、とてもあらがうことなど出来そうになかった。
「あの……」
僕の耳に舌をからめ始めた淫魔に、最後の理性でもって僕は呟いた。
「僕、初めてなんですけど」
「だったら、いっぱい教えてあげないとね」
僕は淫魔のなすがまま、崩れるようにベッドへと倒れこんだ。
ちらりと視界に入った時計は、四月一日、深夜二時を指していた。
高校生になったんだ、と僕は何となく思った。
悪魔に魂を売った、高校一年の春だった。