「ごめんなさい」
校舎裏でその短くて残酷な言葉を聞いたのは何度目のことになるのか。
桜はすでに青々とした葉を生やし、空にゆらゆらと泳いでいた鯉のぼりたちが倉庫にしまわれたころ、俺は十七度目の誕生日を迎えた。
「私、好きな人がいるから」
また同じ決まり文句。それが真実かどうかなんてのはどうでもいい。フラれたということが俺にとって大きな問題であり、背けようのないつらい現実だ。
あぁ、こんなことになるなら彼女を好きになるんじゃなかった。
「ホントにごめんね、塚田くん」
彼女の柔らかそうな唇。
制服を着ていても主張してくる胸。
踏まれたことのない雪のように綺麗な肌。
耳にかかった髪をかき上げたとき見える、舐めたくなるようなうなじ。
これらを全部めちゃくちゃに出来る男がいると思うと、登下校中に渡る陸橋から飛び降りたい衝動に駆られる。
「じゃあまた明日ね。バイバイ」
そう言って俺の立つ方とは反対へ走っていく彼女の背に向け、力なく手を振る自分の姿はおそろしく滑稽だと思う。
なびいたスカートからちらりと覗く、細くはないがかと言ってふとましくもない太ももに触れたいと何度思ったか。触れたいというより揉みしだきたいというのが正解か。男である以上女子生徒にそう言った劣情を抱いてしまうのはごく当然なことだ。
自慢にもならないが、俺は生まれてこのかた彼女が出来たことはないし、キスもしたことないし、当然性行為もしたことがない。もっと言えば家族以外の異性と手をつないだこともない。
少子高齢化社会と呼ばれる現在、どこ調べだったかは忘れたが二十代の童貞率が高いらしい。なら十代で童貞なんか普通なんじゃないかと言われるかもしれないがそれはそれ。
青春は今しかないのだ。高校生活は普通に過ごしていれば三年間で終わってしまう。そう、あっという間に青春は終わるんだ。現に俺の残りの高校生活は二年もない。正直焦っている部分はある、というか余裕はまったくない。
罰ゲームですら告白されたこともない。
冗談でも好意を伝えられたことはない。
容姿を褒めてくれるのは老人ホームで暮らしているばあちゃんだけ。
とどめに世話焼きの幼馴染は何故か男だ。
真面目で眼鏡をかけたクラス委員長も。
茶髪でカバンにジャラジャラとキーホルダーを付けているギャルも。
陸上部で風を切って走るあの子もどの子も、みんな彼氏を作って、いい雰囲気の流れでセックスするんだろう。
彼氏彼女の関係になっている以上そうなるのはごく自然な流れだと思うし悪いことじゃない。
ただ単純に羨ましいだけ。
妬ましいだけ。
くたばれリア充。
爆ぜろ恋人たちよ。
彼女が欲しい。ただ誰でもいいっていうわけじゃない。欲を言えば無駄にある。自分含め男子高校生という生き物はとてつもなく欲深くて愚かだ。
「帰るか……」
一人ポツンと残った校舎裏でやることなど何もない。フラれた記念だ。帰りにコンビニへ寄って何か適当に買おう。
ふと空を見上げるとうっとおしいほどの青に一筋の飛行機雲。そして太い木の枝に腰掛ける人。
ん?
目をこすって、もう一度同じところを見てもやはり人が、女子生徒が木に登って俺と同じように空を見ていた。足を宙にぶらぶらとさせ随分リラックスしているように見えるのは気のせいじゃない。何でそんなところにいるのか。いや、まずどうやってそこに登ったのか。
「あのー、なんでそんなところにいるんですか?」
意を決して声をかけると木の上の彼女はこちらを見てにっこりと笑った。
「こんにちは。今日は実に過ごしやすい天気ね」
あまりにも能天気なその発言に空いた口が塞がらない、とまではいかないにしても面食らうには十分だった。
「もしかしてだけど、さっきの見た?」
「さっきのって何を指してるのかわからないけど、塚田クンがフラれたところならしっかり見たかな」
「それだよ! なんで名前……」
「ごめんね、塚田クンって言って逃げてたじゃん」
そういえばそうだった。いや、それはどうでもいいんだよ。
「それより、あんたなんでそんなところにいるんだよ」
「あんたじゃなくて、私には内宮歩(うちみやあゆむ)っていうちゃんとした名前があるんですけどぉ」
めんどくさい。会ってまだ時間も経ってない人にこう言うのはなんだけど、なんてめんどくさい女なんだ。顔をそらして聞こえないように小さく舌打ちをする。
「あ、今すげえめんどくさい女だって思ったでしょ」
「思ってない」
「顔に書いてあるよ。油性マジックで」
どこから取り出したのか、極太マッキーを手に持ってくるくると指先で器用に回した。本当になんなんだこの女は。
「脚立が下に倒れちゃってさ」
彼女の指す方を見てみると、長い脚立が植木にめり込んで隠れていた。かけろと言うことか。
めんどくさいので放っておくという選択肢もあるのだが、ここは校舎裏にて滅多に人は通らない。なので俺がやることは一つしかない。
「ほら」
「降りるから支えててね。あと目つむっててね」
「はいはい」
倒れていた脚立を起こしてバランスを整えると、彼女の言う通り目を閉じる。
アルミの軋む音。一段一段確実に降りているんだろう。音の間隔はかなりゆっくりだ。
「離れてもいいか」
「もうちょっと。あ、やっぱり離れて」
正直目を開けたい欲がやばい。もしかするともしかして、そこには見たこともない、ヴァルハラのような光景が眼前に広がっている可能性があるんだから。
しかし、俺は愚かな男子高校生である以上に約束を守る男である。
ひょっこり顔を出した俺の内に住む悪魔を右ストレート一発でノックダウンさせ、そのまま三歩後退。そして半周回転。
アニメであるようなラッキースケベでも起きない限り、俺は女子高生のパンツを拝むことが出来ないといった状況を作り上げた。
「はーい、ありがと。もういいよ」
眼球が引っ込むんじゃないか、というくらい強く閉じた瞼を勢いよく開くと、壁を見ている予定の視界には内宮がマッキーのキャップを取って、ペン先を少しでも動いたら当たる距離まで近づけさせていた。
「あぶねぇ!」
思わず後退りすると、彼女は悪びれる様子もなくケラケラと笑った。
「普通にやってたら当たんないよ。大袈裟だなぁ、塚田クンは」
「普通は油性マジックを人に向けないだろ!」
「そう? 私は普通にするけどなぁ」
「自分がやってるからって他人がやってると決めつけんなよ」
「まぁ、いいじゃない。つかなかったんだしさ」
迷惑極まりない。ワガママ過ぎるだろう、この女。
「ワガママなのは女の特権だよ。それを許容できる男がデキる男ってもんじゃない?」
理解出来ない。ヤるために我慢しろってか? 一理あるが、そんなのただのヤリチンじゃねぇかよ。
「恋愛の先は結局ヤるかヤらないか、でしょ」
「何も言ってねぇだろ」
「だから、顔に書いてるんだって」
俺はそんなに顔に出やすいのか? ポーカーフェイスというわけじゃないが、ババ抜きでカードが良ければ余裕であがれる自身はある。
「表情に出るとかじゃなくて。さっきから言ってるけど、言葉通り顔に書いてるんだってば」
あぁ、わかった。こいつ不思議ちゃんだな。そこに脚立があっても普通の人間なら登るという選択肢は取らない。バカと煙は高いところが好き、と言うが、彼女は前者に当てはまるんだろう。
「結構失礼だねー。ま、信じれないよねぇ。別に信じてもらえなくてもいいんだけどさ」
しかし、あまり気には留めていなかったけど、目の前にいる電波女はなかなか可愛かった。
ショートボブ、というんだろうか。流行りのパッツンではなく、前髪は三分の二ほど左に流されておでこが見えている。それがなんとも言えない大人びた雰囲気があっていい。少し茶色がかって見えるのは染めているんだろうか。
病的な感じは見受けられないが、触れるとひんやりとしそうだという感想を持つくらい肌は白い。
パッチリとした右目の下には泣きぼくろがあってセクシー。
人によってはあざとく映るだろうが、唇の形がとても綺麗で口角がきゅっと上がっている。まさに自然なアヒル口。
目をひくほど主張感があるわけではないけど、パッと見のバストサイズは十分だと思えるし、スカートの下から伸びる足は程よい肉感があって、ベリーナイスだ。ちょうどいい、この一言に尽きる。
あぁ、ちくしょう。初めて見た俺がそう思うんだから、他の男が黙っているはずもない。どうせ彼女も彼氏持ちに決まってる。羨ましいことこの上ない。処女でもないんだろう。畜生。爆ぜろ。
大きなため息が自然と出て、視線が地面に落ちる。ダメダメだ。ネガティブなイメージしか湧かない。
それもそうだ。俺、今さっきフラれたんだから。
「ま、まー元気だしなって。ほら、チュッパチャプス。食べる? プリン味だよ?」
マッキーの次はチュッパチャプスを出してくるとか、マジシャンか、こいつは。
「いや、いいよ」
そう言って顔を上げると、そこにはチュッパチャプスを持った右手を震わせながら、林檎のように顔を真っ赤にした内宮の姿があった。
「ほ、ほら、遠慮しないでさぁ。プリン味、お、おいしいよ? 私が一番好きなフレバーなんだぁ」
声が上ずって、なんだか知らないが動揺している風に見える。
「お、俺は何も言ってないぞ。体調が悪いなら保健室行くか? 多分先生はまだいるはずだし」
「うぅ……バカ! アンポンタン! ムッツリ!」
今までの余裕は一体どこに行ったのか、チュッパチャプスを俺の胸に投げつけると、告白して玉砕したクラスメイトと同じ方向に向かって走って行った。
残された俺とチュッパチャプスは、状況も整理出来ないまま、ただそこに立ち尽くすしかなかった。
そういえば、やたらとチュッパチャプス食べてる女の子がいたな、昔。遊んだ記憶もあるけど、親の転勤か何かで引っ越していって、それ以降はわからない。その子には申し訳ないけど、名前も覚えていない。俺は過去にとらわれない男だから。
放置されたチュッパチャプスはそのあと美味しくいただきました。