【泡沫の話二】
―泡沫の話ニ―
改めて君と会話が出来た時、君はなんて言うだろう。
罵倒だろうか。
同情だろうか。
絶望だろうか。
でも、きっと君は喜ぶことは無いし、僕の宿願が叶った時、君は本当の意味でこの世から消え去ることも分かっている。
許してもらおうとは思わない。
これは僕の決めたことであって、君には全く関係が無いことだから。
――とぷん。
水の跳ねる音がして、僕はポケットに手を突っ込んだままゆっくりと振り返る。
誰もいない。少なくとも、この通りに人間は僕だけだ。
夜も随分と更けて、この雪浪通りはとうとう静寂によって満たされた。少し目を凝らすと、雪浪高校へと続く道に等間隔に置かれた街灯が見える。二つ目がどうも切れかけているようで、消えたり発光したりを繰り返している。
シャッターの閉じた店の並んだ通りを僕は一人で歩いて行く。傍の車道をヘッドライトとテールライトが過ぎ去っていく。時々止まって訝しげにこちらを見てくる者もいたが、彼らは首を傾げた後、再びエンジンを吹かすとあっという間に行ってしまった。
――とぷん。
また、水の跳ねる音がした。僕は再び振り返り、それから周囲を見回して、小さく溜息をついてからしゃがみ込み、地面に掌を乗せる。煉瓦で編み込まれた路上は、とても堅い。
けれど『彼女』にとってそんなもの、無いに等しい。
「おいで」
その言葉に呼応するように、堅い地面が波打ち、丸い波紋が広がっていく。何時見ても、この光景には思わず見惚れてしまう。
するり、と地面から一本の腕が現れる。波紋の中心で陶器みたいに真っ白い手は差し出された僕の手を握る。
僕は込められた力を合図に、その手を思い切り引っ張り上げる。
飛沫が上がり、水滴が顔を濡らす。
陶器みたいに白く細い手の持ち主は、濡れた身体のまま僕の胸に飛び込むと、くすり、と僕を見て笑うとウェーブがかった髪を掻きあげた。
「やあ」
僕の言葉に、目の前の『彼女』は首を傾げて微笑む。
濡れた顔を手で拭うと、握っていた手を離して両手を僕の首に回し、目を細めると、そっと僕にキスをする。
あくまでソフトな、けれど長い口付けを受けながら、僕は胸の奥が酷く空っぽになっていくのを感じた。幸福を根本から吸い取られていくような、そんな寂莫とした感覚が身体中をぐるりと巡っていく。
端から見れば、きっとこれはとても美しい光景なのかもしれない。陰り無く出た月と、濃紺に染められた夜空がまるで水底から見ているみたいに揺れていて、周囲に必要以上の灯りも無い。人だって僕以外居ない。邪魔する音も無い。
もしこれがどこかの舞台上であれば、僕と『彼女』の口付けを見て観客は見惚れたかもしれない。
それくらいによく出来過ぎたシチュエーションだった。
されるがまま口付けを受け続けていると、やがて『彼女』は満足したのか僕から顔を離し、それから若干紅潮した頬を見せて微笑んでみせた。空っぽの笑みを。
「素敵な月が出ているわ」
『彼女』は言った。そうだね、と僕が言うと、『彼女』はとても嬉しそうに誰もいない通りを跳ねまわる。ダンスでもしているみたいに、華麗に、軽やかに。
とん、と彼女が爪先を地面に付ける度に波紋が生まれる。幾つもの波紋を生み出しながら踊り続ける『彼女』に見惚れながら、同時にこれが幻想でしか無いという事実に押しつぶされそうになる。
そう、これは僕が生み出した『モノ』でしかない。
人形であって、人ではない。だから僕の理想通りの仕草をするし、理想通りの想いを抱いてくれる。
不意に、『彼女』が踊るのをやめた。
暫く商店街の奥のほうをじっと見つめて、それから僕の方をじっと見つめると、酷く悲しげな笑みを浮かべる。
「じゃあね」
僕がそう告げると、『彼女』は小さく頷いて、それから僕の下にやってくるともう一度だけキスをした。刹那的な感触が口許に残る。
それから『彼女』は僕を抱きしめると、耳元でそっと一言囁いて、とぷんと小さな飛沫と共に“水の中”に消えていってしまった。
周囲に広がっていた波紋はもう消えていた。
少しだけ名残惜しい気分になりながら、僕はコートのポケットに手を突っ込むと、最後に『彼女』が見ていた先に視線を巡らせる。
向こうからやってきた来訪者に向けて、僕はそっと微笑む。
「やあ朱色、また会ったね」
つり目が印象的な少女、咲村朱色は、とても思いつめた顔をして僕をじっと見つめていた。
「――まず、とても残念な事を君に伝えなくてはいけない」
何かあったという事は、顔を見て理解できた。そしてこの出会いを奇跡であり希望と思っていることも。
だからまずその勘違いを正す必要があった。
「僕は君のヒーローにはなれない」
その言葉に、咲村朱色は眉を顰める。
朱色ってやっぱりとてもいい名前だなと思いながら、僕は構わず話を続ける。
「何かあった事は、君の表情を見て理解できた。でも僕には僕の望みがあって、そのために出来る限り失敗の可能性を排除したい」
「……つまり、目立つ行動をして表舞台には出たくないってこと?」
理解が早くてとても助かる。
「前回君を助けることが出来たのは、全くの偶然だ」
「ねむりひめ、でしたよね。詳しく教えて貰えませんか」
覗きこむように僕を見ながら彼女は言う。
さて、どこまで教えていいものだろうか。
「そうだな、ねむりひめは人の記憶を喰う存在だ。そして、それらの記憶を自らのものとして知識をつけていく。ただ、その特性もまた彼らにとってはおまけみたいなものだけどね」
「おまけ?」
「言ったろう、ねむりひめは悲劇を好物としていると」
「悲劇」朱色は繰り返す。
「そう、悲劇。全てはそれを味わうついでに過ぎない」
「……趣味が悪いですね」
彼女の顔に嫌悪の色が浮かぶ。つり目の彼女は少し眉を顰めるだけで随分と不機嫌そうに見える。僕は彼女の顔を見ながら、少し羨ましくなった。僕の顔はいつだってへらへらとしているように見えるらしいから、すぐに人を怒らせてしまう。むしろ彼女のように少し相手を威圧する位のほうが良い。
「そんな奴等が協力しあったらと思うと、怖いです」
「ああ、それは無いから安心して欲しい」
僕がそう言うと、彼女は首を傾げた。確かに似たような事を考えたことがある。何故これほど性能が良くて、湖底に潜り寄生を続けるだけなのだろうかと。
「共食いさ」
「共食い?」
僕は頷く。
「喰われた人間の記憶はねむりひめの中に蓄積されているから、より多くを喰ったねむりひめは、周囲から見れば魅力的な記憶の缶詰みたいなものだ。そんな都合のいい缶詰があったら食べたいと思ってしまう」
「同胞とか、そういった意識は無いんですか?」
「さあ、僕は人間だからね。ただもし統制の効く存在であったら、今頃人間は家畜と同義になっていたかもしれない。だから僕らにとってみれば、幸運だったのかもしれないね」
「まるでお伽話だわ」
「そうだね、けど残念ながら現実だよ」
朱色は下唇を噛むと目を逸らした。これが普通の反応だ。そんな摩訶不思議な異形をすぐに呑み込もうと思う奴はそういない。ごく少数の気が狂ってる奴等か、魅入られ寄生された側の人間くらいだ。
「君は今も美味しそうに見えている」
目を逸らしたままの朱色にそう告げると、彼女は目をキッと細めて僕のことを睨んだ。研いだナイフみたいに鋭くて、それでいて惹かれる目だ。
「君がその匂いを身に着けている限り奴等はやってくる。手遅れになる前に早くどうにかするべきだ」
黙ったまま立ち尽くす朱色に背を向けて僕は歩き出す。
きっと彼女は食べられてしまうだろうな。そう思うと残念だった。折角いい名前と良い目をしてるのに。
二度目の再会は恐らく意図的なものだった。ねむりひめについて知りたがった事もあるし、きっと彼女は何があっても首を突っ込むつもりでいる。
「どうしても、諦めきれません」
背後から声がした。力強い声だった。でも多分僕に言ったのでは無い。恐らくは自分に言い聞かせる為の言葉だ。
力もなければ解決法も知らない。そんな無力な少女が何をしようと言うのだろうか。
僕はちらりと後ろを見た。朱色はもう居なかった。あるのは静寂と、月の光と、遠くに見える街灯の人工的な光だけ。
咲村朱色。
覚えやすくて、不思議な名前で僕は好きだ。
――どうか、そう簡単に食べられてしまわないように。
小さな声で僕はそっと呟いた。